安田 義達(やすだ よしたつ、1898年(明治31年)3月1… 安田 義達(やすだ よしたつ、1898年(明治31年)3月1日 - 1943年(昭和18年)1月2日)は、日本の海軍軍人。大田実と共に海軍を代表する陸戦の権威として知られた人物で、太平洋戦争において戦死後2階級特別進級した海軍中将である。 広島県府中市出身、広島高等師範附属中学を経て1918年(大正7年)海軍兵学校第46期を卒業。席次は124名中66番。同期生の山本親雄は安田の人柄を「剛毅闊達、稚気愛すべき好漢」としている。 砲術学校高等科学生を修了し、「比叡」・「陸奥」の各分隊長を歴任。次いで砲術学校専攻科学生となり、陸軍歩兵学校に派遣された。砲術学校専攻科学生は数年に一人という存在で、この課程を経た陸戦専門家は1942年(昭和17年)で7名のみである。
今井 武夫(いまい たけお、1898年〈明治31年〉2月23… 今井 武夫(いまい たけお、1898年〈明治31年〉2月23日 - 1982年〈昭和57年〉6月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は少将。 長野県上水内郡朝陽村(現長野市)の自作農今井熊太郎の六子のうち末子・四男として生まれた。1915年(大正4年)、(旧制)長野中学校を卒業(15回生)。六年制になったばかりの尋常小学校初の卒業生で、早生まれのため、高等小学校卒業生の多かった長野中学卒業生の中で今井は2番目に若かった。1918年(大正7年)、陸軍士官学校(30期、兵科は歩兵)を、1928年(昭和3年)、陸軍大学校(40期)をそれぞれ卒業。 陸大卒業以降、フィリピンに出征した約1年間を除き、日中戦争期間中、和平工作に従事した。
柳澤 蔵之助(やなぎさわ くらのすけ、1898年(明治31年… 柳澤 蔵之助(やなぎさわ くらのすけ、1898年(明治31年)2月20日 - 1944年(昭和19年)3月31日)は、日本の海軍軍人。海兵46期、海大29期(首席)。最終階級は海軍少将。長野県佐久市出身。 旧制長野県野沢中学校より、海軍兵学校および陸軍士官学校(第30期)を受験し、双方に合格している。海軍兵学校第46期入校。入校時成績順位は131名中第6位、卒業時成績順位は124名中第16位。 柳澤は、海軍通信学校高等科課程を修了しているが、当時の日本海軍で通信関係に進むものに、成績優秀かつ健康に恵まれた者は比較的少なく、このことが海軍の情報軽視の背景の一つであったとされる。柳澤は首席で卒業している。
藤田 雄蔵(ふじた ゆうぞう、1898年(明治31年)2月1… 藤田 雄蔵(ふじた ゆうぞう、1898年(明治31年)2月19日 - 1939年(昭和14年)2月1日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中佐。1938年の飛行によって、距離と1万キロ速度において、当時の世界新記録を達成した。 本籍青森県。日本郵船社員・藤田未類二の長男として横浜で生まれる。横浜一中卒を経て、1921年(大正10年)7月、陸軍士官学校(33期)を卒業。同年10月、砲兵少尉に任官し野戦重砲兵第2連隊付となる。 1924年(大正13年)10月、砲兵中尉に昇進。1925年(大正14年)5月、兵科を航空兵科に転じ航空兵中尉に任官し所沢陸軍飛行学校付となる。1926年(大正15年)1月、第21期操縦学生となり操縦訓練を受ける。
戸波 宗道(となみ むねみち、1898年(明治31年)2月1… 戸波 宗道(となみ むねみち、1898年(明治31年)2月17日 - 1961年(昭和36年)8月14日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 福岡県出身。福岡県立中学修猷館を経て、1920年(大正9年)5月、陸軍士官学校第32期卒業。その後、東京帝国大学造兵学科を卒業する。 1941年(昭和16年)3月、陸軍大佐に進級と同時に陸軍航空技術研究所哈爾濱支所員を発令される。1944年(昭和19年)5月、南方軍航空技術部員を経て、同年7月より第3陸軍技術研究所員を兼ねた。その後、1945年(昭和20年)6月10日、陸軍少将に進んだ。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。
坂間 訓一(さかま くんいち、1898年(明治31年)2月1… 坂間 訓一(さかま くんいち、1898年(明治31年)2月11日 - 1984年(昭和59年)2月7日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 神奈川県出身。農業・坂間重次郎の長男として生まれる。厚木中学校(現神奈川県立厚木高等学校)卒業を経て、1919年(大正8年)5月、陸軍士官学校(31期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し近衛歩兵第3連隊付となる。1920年(大正9年)から1923年(大正12年)までシベリアに派遣された(ロシア語研究)。1928年(昭和3年)12月、陸軍大学校(40期)を卒業した。 1929年(昭和4年)12月、参謀本部付勤務(ロシア班)となり、1930年(昭和5年)12月、ポグラニチナヤ特務機関長に転じた。
中川 州男(なかがわ くにお、1898年(明治31年)1月2… 中川 州男(なかがわ くにお、1898年(明治31年)1月23日 - 1944年(昭和19年)11月24日)は、日本の陸軍軍人。陸士30期。最終階級は陸軍中将。 太平洋戦争(大東亜戦争)のペリリューの戦いにおいて、歩兵第2連隊長としてペリリュー島守備隊(約1万2千名)を指揮し、同島を長くても3日で攻略できると楽観していたアメリカ海兵隊(約4万9千名)を相手に71日間に渡って組織的戦闘を続け、自軍の玉砕と引き換えにアメリカ海兵隊に多大な損害を与えたことで知られる。 熊本県出身。小学校校長・中川文次郎の三男として生まれる。玉名中学校を経て(同期生に広瀬藤蔵・海軍少将(海機27期・海大)、由布喜久雄・海軍法務少将(東大卒)、中川千代吉・陸軍大佐(陸士30期)、松島悌二・海軍大佐(海機27期・海大)が居る。
福島 久作(ふくしま きゅうさく、1898年1月11日 - … 福島 久作(ふくしま きゅうさく、1898年1月11日 - 1990年11月13日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 1898年 1月11日 埼玉県深谷市血洗島 出生 1920年 5月26日 陸軍士官学校32期 卒業 1929年11月29日 陸軍大学校41期 卒業 1940年 3月 9日 第8師団参謀長 1941年 3月 1日 歩兵第4連隊長 陸軍大佐 1942年 4月 1日 西部軍高級参謀 1945年 1月29日 第16方面軍 兼 西部軍参謀副長 1945年 3月 1日 陸軍少将 大東亜戦争で西部軍高級参謀から第16方面軍兼西部軍参謀副長(第2総軍)に転じ、本土決戦に備えていた。
宇都宮 直賢(うつのみや なおかた、1898年(明治31年)… 宇都宮 直賢(うつのみや なおかた、1898年(明治31年)1月9日 - 1997年(平成9年)6月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 本籍鹿児島県。東京府で鉄道省技師・宇都宮新の二男として生まれる。加治木中学校(現鹿児島県立加治木高等学校)を経て、1920年(大正9年)5月、陸軍士官学校(32期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し近衛歩兵第4連隊付となる。1925年(大正14年)4月から1926年(大正15年)3月まで東京外国語学校英語科で委託学生として学んだ。 1930年(昭和5年)11月、陸軍大学校(42期)を卒業した。 1930年12月、近衛歩兵第4連隊中隊長に就任。1931年(昭和6年)9月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員(米班)、参謀本部付(支那研究員、上海・香港駐在)、参謀本部付(上海武官補佐官)、陸軍省兵務局付(防諜班長)を務め、1938年(昭和13年)3月、歩兵中佐に昇進。
貝塚 武男(かいづか たけお、明治31年(1898年)1月3… 貝塚 武男(かいづか たけお、明治31年(1898年)1月3日 - 昭和19年(1944年)10月25日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。海軍兵学校46期生。
秋丸 次朗(あきまる じろう、1898年 - 1992年)は… 秋丸 次朗(あきまる じろう、1898年 - 1992年)は、日本の陸軍軍人(主計)、政治家。軍人としての最終階級は陸軍主計大佐。太平洋戦争開戦前の1940年(昭和15年)に陸軍省内に設置された「秋丸機関」(正式名称:陸軍省戦争経済研究班)の班長を務め、日本とアメリカをはじめとする主要国の経済力を比較分析したことで知られる。 宮崎県飯野村(現・えびの市)出身。 陸軍経理学校を首席で卒業後、東京帝国大学経済学部に派遣され経済学を学んだ。満州国では関東軍参謀部付として経済建設に携わり、満洲産業開発五カ年計画などに参画した。 1939年(昭和14年)9月、ノモンハン事件や第二次世界大戦勃発を受けて帰国。
楊 建平(よう けんぺい、1898年 - 1949年)は、中… 楊 建平(よう けんぺい、1898年 - 1949年)は、中国の政治家、官僚、外交官、軍人、実業家、教育者。広東省中央銀行副総裁、上海商務局長、潮山税関監督署長、第11軍後方部大佐局長、国民革命軍少将、復旦大学教授、政法大学教授、農民工民主党創設者の一人。 1898年、広東省大埔県百侯鎮侯南村に旧名、楊金坤として生まれる。広東高等師範学校を経て、1925年、立教大学文学部を卒業(大学令による第1回卒業生)。 同年、中国に帰国後、復旦大学、光華大學(中国語版)、滬江大学(中国語版)、政法大学で講師、教授を歴任。 その後、上海商務局長となり、1928年、第11軍司令官陳銘樞中佐の秘書、第11軍後方部大佐局長を務める。
久米 精一(くめ せいいち、1897年(明治30年)12月1… 久米 精一(くめ せいいち、1897年(明治30年)12月18日 - 1949年(昭和24年)11月16日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 香川県出身。丸亀中学校(現香川県立丸亀高等学校)を経て、1919年(大正8年)5月、陸軍士官学校(31期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し山砲兵第11連隊付となる。1931年(昭和6年)11月、陸軍大学校(43期)を卒業し山砲兵第11連隊中隊長となる。 陸軍省軍務局付勤務、軍務局課員(防備課)、陸軍省兵務局課員、航空兵団参謀を務め、1938年(昭和13年)3月、兵科を航空兵に転科し航空兵中佐となる。1939年(昭和14年)9月、第3飛行集団参謀に発令され日中戦争に出征。
真田 穣一郎(さなだ じょういちろう、1897年(明治30年… 真田 穣一郎(さなだ じょういちろう、1897年(明治30年)11月21日 - 1957年(昭和32年)8月3日)は、日本の陸軍軍人。 第2総軍参謀副長・陸軍省軍務局長・参謀本部第一部長を歴任し、階級は陸軍少将功四級に至る。 屯田兵、沼貝町長真田嘉七の長男として生まれ、北海道庁立札幌第一中学校(後の北海道札幌南高等学校)・仙台陸軍地方幼年学校・陸軍中央幼年学校を経て1919年(大正8年)5月陸軍士官学校(31期)を卒業。 同年12月、陸軍歩兵少尉に任官され、歩兵第9連隊附を命ぜられる。 1922年(大正11年)12月中尉に進級し、1924年(大正13年)12月26日陸軍大学校(39期)に入校。1927年(昭和2年)12月6日卒業する。
加世田 哲彦(かせだ てつひこ、1897年〈明治30年〉11… 加世田 哲彦(かせだ てつひこ、1897年〈明治30年〉11月11日 - 1971年〈昭和46年〉7月25日)は、日本の海軍軍人。成績優秀な将校であったが、神政龍神会の結成にかかわり、不敬罪に問われ失官となる。最終階級は海軍中佐。 鹿児島県出身。鹿児島二中より海軍兵学校47期に首席入校。在学中も学術優等章を2度授与され、次席及び恩賜で卒業した。同期生に光延東洋、横山一郎、城英一郎などがいる。 1920年(大正9年)、少尉任官。尉官時代は霞ヶ浦海軍航空隊附としてセンピル教育団に関わり、第一遣外艦隊参謀、練習艦隊副官、戦艦「長門」分隊長、財部彪副官などを歴任。1930年(昭和5年)12月1日、海軍少佐へ進級し海軍大学校甲種30期へ進む。
川嶋 虎之輔(かわしま とらのすけ、1897年(明治30年)… 川嶋 虎之輔(かわしま とらのすけ、1897年(明治30年)11月1日 - 1984年(昭和59年)7月2日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍少将。八千代市議会議長。川島と表記される場合がある。 和歌山県出身。陸軍主計大尉・川嶋守太郎の息子として生まれる。水戸中学校(現在の茨城県立水戸第一高等学校)、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1919年(大正8年)5月、陸軍士官学校(31期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し重砲兵第3連隊付となる。1922年(大正11年)12月、砲兵中尉に昇進。1925年(大正14年)12月、兵科を航空兵に転科し航空兵中尉に任官し下志津陸軍飛行学校教官に就任。
中野 操(なかの みさお、1897年10月30日 - 198… 中野 操(なかの みさお、1897年10月30日 - 1986年3月21日)は、日本の医師、医史学者、陸軍軍医。 京都府出身、京都府立医専卒。 1938年杏林温古会を設立、大阪赤十字病院に勤務後、周防町、阿倍野晴明通で開業した。戦後に大阪で開業した。 『増補医事年表』を編纂し、機関誌『医譚』を発行するなど、大阪の医学史研究につとめた。 中野は、1552年(天文21年)の『黄素妙論』や室町時代に遡る医学書、日本最古のオランダ文法書で蘭方医新宮涼庭(1787年 - 1854年)が写した1733年の『セウユリルスフラーカコンスト』、江戸時代大阪の医事年表など、日本医史学の比類ない歴史資料を蔵書しており、これらは2012年に13,461点が一括で大阪市の指定有形文化財となった。
森本 軍蔵(軍藏、もりもと ぐんぞう、1897年(明治30年… 森本 軍蔵(軍藏、もりもと ぐんぞう、1897年(明治30年)10月17日 - 1979年(昭和54年)5月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 熊本県出身。森本徳次郎の長男として生まれる。熊本中学校(現熊本県立熊本高等学校)卒業を経て、1918年(大正7年)5月、陸軍士官学校(30期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第71連隊付となる。1919年(大正8年)8月から1920年(大正9年)5月までシベリア出兵に出征した。1922年(大正11年)3月、歩兵中尉に昇進。1926年(大正15年)12月、陸軍大学校(38期)を卒業し飛行第7連隊付となる。 1926年12月、兵科を航空兵に転科し航空兵中尉に任官。
岩畔 豪雄(いわくろ ひでお、1897年10月10日 - 1… 岩畔 豪雄(いわくろ ひでお、1897年10月10日 - 1970年11月22日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 陸軍中野学校(設立時の名称は防諜研究所)の設立他、多くの諜報機関の設立に関わり、「謀略の岩畔」の異名をとった。また日米開戦回避に奔走した他、戦中はインド国民軍(INA)及び自由インド仮政府の樹立に中心的に関わった。戦後は京都産業大学設立者として理事を務めた。 広島県安芸郡倉橋島(現・呉市)出身。倉橋島は海軍兵学校があった江田島の隣の島である。島育ちながら「なんとはなしに船に乗ることはあまり好きではない」という理由で、陸軍を志願し、広島中学校(現広島県立国泰寺高校)から名古屋陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校本科を経て、1918年(大正7年)5月、陸軍士官学校(30期)を卒業。
光延 東洋(みつのぶ とうよう、1897年(明治30年)10… 光延 東洋(みつのぶ とうよう、1897年(明治30年)10月9日 - 1944年(昭和19年)6月9日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 岡山県高梁市出身。大阪府立北野中学校より海軍兵学校第47期に進み首席で卒業した。しかし海軍大学校甲種課程には進まず、ヨーロッパへの出張と駐在を繰返し、井上成美らにその常識的思考を高く評価されていた。 イタリアでバドリオ政権が連合国に降伏した際、スイスに業務連絡の為に移動。フィレンツェ北方のアッペンニーノ山脈を通行中にマンリーコ・ドゥッチェスキ(イタリア語版)率いるパルチザンの襲撃に遭い、同乗していた山仲伝吾海軍中佐は重傷だったが、光延は射殺され戦死扱となる。
田村 久三(たむら きゅうぞう、1897年10月1日 - 1… 田村 久三(たむら きゅうぞう、1897年10月1日 - 1972年3月23日)は、日本の海軍軍人、海上保安官、警備官。機雷専門。最終階級は海軍大佐、警備監(後の海将)。 栃木県出身。田村徳吉の三男として生まれる。(旧制)栃木県立栃木中学校卒業を経て、1918年に海軍兵学校(46期)を卒業。海軍大佐として終戦を迎える。戦後は、第二復員省、海上保安庁と警備隊(海上自衛隊の前身)で掃海作業の責任者として活動した。 日本海軍は、田村久三元海軍大佐を最高指導者として機雷関係のスタッフを揃え、米海軍司令部との折衝を続けながら、占領軍指揮による掃海作業の準備へ入った。まず掃海艇の整備を行うと共に、当時解散しつつあった海軍軍人の中から人員の補充確保に努め、全国各地に所在する掃海関係船艇合計360隻、人員約1,900名をもって新たに掃海部隊を編成し、1945年(昭和20年)9月から10月にかけて占領政策のために一時中断されていた掃海作業を再開。
新庄 健吉(しんじょう けんきち、明治30年(1897年)9… 新庄 健吉(しんじょう けんきち、明治30年(1897年)9月30日 - 昭和16年(1941年)12月5日)は、大日本帝国陸軍(以下陸軍という)の軍人。階級は陸軍主計大佐。陸軍経理学校教官・支那派遣軍経理部員・企画院調査官等を歴任。情報将校としてアメリカ合衆国の国力を詳細に調査し、戦争の見通しについて報告書を作るなど情報分析能力が注目された。 1897年(明治30年)9月30日に農家を営む新庄竹蔵の三男として生まれ、京都府立第三中学校(現:京都府立福知山高等学校)を経て1915年(大正4年)12月、主計候補生となる。1916年(大正5年)9月、陸軍経理学校に入校し、1918年(大正7年)5月、主計候補生第12期として卒業する。
那須 義雄(なす よしお、1897年(明治30年)9月26日… 那須 義雄(なす よしお、1897年(明治30年)9月26日 - 1993年(平成5年)11月14日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 熊本県出身。陸軍中佐・那須仙太郎の長男として生まれる。名古屋明倫中学校(現愛知県立明和高等学校)、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1918年(大正7年)5月、陸軍士官学校(30期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第33連隊付となる。1928年(昭和3年)12月、陸軍大学校(40期)を卒業し歩兵第33連隊中隊長に就任。 1930年(昭和5年)8月、陸軍戸山学校教官に就任。1931年(昭和6年)3月、陸軍省軍務局課員(兵務課)となり、1933年(昭和8年)8月、歩兵少佐に進級。
小野寺 信(おのでら まこと、1897年〈明治30年〉9月1… 小野寺 信(おのでら まこと、1897年〈明治30年〉9月19日 - 1987年〈昭和62年〉8月17日)は、日本の陸軍軍人、翻訳家。最終階級は陸軍少将。第二次大戦末期に、在スウェーデン日本大使館の駐在武官として、ヤルタ会談での密約(ドイツ降伏から約3ヶ月後にソ連が日ソ中立条約を破棄して、対日参戦するとの最高機密情報)を早い時期に密かに入手して日本に打電・通報したことや、その後、スウェーデン王室の仲介による連合国との和平工作を行ったことで知られる。 1897年、岩手県胆沢郡前沢町(現在の奥州市)において町役場助役・小野寺熊彦の長男として生まれる。12歳の時に熊彦が病死し、本家筋の農家・小野寺三治の養子となる。
有賀 幸作(ありが こうさく、1897年(明治30年)8月2… 有賀 幸作(ありが こうさく、1897年(明治30年)8月21日 - 1945年(昭和20年)4月7日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。戦艦大和最後の艦長として有名である。長野県南信地方に多い姓である有賀は、「ありが」ではなく「あるが」と読む例が多いが、当人は相手が聞き返すことを嫌い、ありがの読み方で通した。軍帽裏のネーム刺繍もアリガとしていた。 長野県上伊那郡朝日村(現辰野町)に金物商・村長、有賀作太郎の長男(惣領)として生まれた。父の作太郎は旅順攻囲戦に参加して二〇三高地戦で殊勲をあげ、功六級金鵄勲章と多額の年金を授かるにいたった勇士だったが、息子の軍人志願には反対した。有賀は活発な少年として育ち、長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)を卒業。
川添 修平(かわぞえ しゅうへい、1897年(明治30年)8… 川添 修平(かわぞえ しゅうへい、1897年(明治30年)8月2日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の朝鮮総督府官僚、台湾総督府官僚、陸軍司政官。嘉義市尹、基隆市尹。 宮崎県南那珂郡吾田村に生まれる。1917年(大正6年)宮崎県立宮崎中学校、1921年(大正10年)旧制第五高等学校を経て、1924年(大正13年)東京帝国大学法学部法律学科英法を卒業し、朝鮮総督府に奉職。翌年の1925年(大正14年)11月、一時退官し、東京日日新聞に入社。 同月、高等試験行政科に合格し、1929年(昭和4年)3月、台湾総督府に出仕。財務局税務課勤務、同年12月に警部を経て、1930年(昭和5年)1月に地方理事官に進み、澎湖庁庶務課長、同年12月に台南市助役、1931年(昭和6年)5月に台南州新営郡守、1932年(昭和7年)4月に台北市助役を経て、1933年(昭和8年)10月、嘉義市尹に就任した。
斎藤 正久(さいとう まさひさ、1897年7月20日 - 1… 斎藤 正久(さいとう まさひさ、1897年7月20日 - 1996年6月5日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。 宮城県大崎市出身。商業・斎藤庄吉の息子として生まれる。旧制古川中学校(現:宮城県古川高等学校)を経て、1919年(大正8年)10月、海軍兵学校(47期)卒業。1920年(大正9年)8月、海軍少尉任官。1923年(大正12年)11月、第8期航空術学生卒。 1925年(大正14年)12月、海軍大尉に昇進し空母「鳳翔」乗組となる。この補職は、当時特別に技量優秀でなければ難しいとされた空母への着艦が努力次第で可能であることを証明するためであり、相婿である、山本五十六の推薦であった。斎藤は同時に推薦された三和義勇とともに任務を成功させた。
桜井 徳太郎(さくらい とくたろう、1897年6月21日 -… 桜井 徳太郎(さくらい とくたろう、1897年6月21日 - 1980年12月28日)は、日本の陸軍軍人、僧侶。最終階級は陸軍少将。法名、全覚。
中川 留雄(なかがわ とめお、1897年(明治30年)6月7… 中川 留雄(なかがわ とめお、1897年(明治30年)6月7日 - 1956年(昭和31年)12月19日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。旧姓は松永。 1897年(明治30年)に広島県で生まれた。陸軍士官学校第31期、陸軍大学校第39期、東京帝国大学政治学科卒業。1938年(昭和13年)7月に陸軍省人事局補任課高級課員に就任し、1939年(昭和14年)8月1日に陸軍歩兵大佐進級と同時に教育総監部庶務課長に着任し、12月1日には参謀本部庶務課長に転じた。1940年(昭和15年)5月に広島陸軍幼年学校長に就任し、1941年(昭和16年)4月に企画院調査官、1942年(昭和17年)1月に陸軍予科士官学校幹事を歴任した。
徳川 宗敬(とくがわ むねよし、旧字体:德川 宗敬、1897… 徳川 宗敬(とくがわ むねよし、旧字体:德川 宗敬、1897年(明治30年)5月31日 - 1989年(平成元年)5月1日)は、日本の林学者、陸軍軍人、政治家、教育者、神職。階級は陸軍少尉。位階は従三位。勲等は勲一等。爵位は伯爵。最終学歴は東京帝国大学農学部林学科卒業。学位は農学博士(東京帝国大学)。
由布 喜久雄(ゆふ きくお、1897年〈明治30年〉5月29… 由布 喜久雄(ゆふ きくお、1897年〈明治30年〉5月29日 - 1973年〈昭和48年〉2月6日)は、大日本帝国海軍軍人。最終階級は海軍法務少将。海軍省廃止時の海軍省法務局長。旧姓、岡村。 熊本県立玉名中学校(現・熊本県立玉名高等学校・附属中学校)、旧制第五高等学校、東京帝国大学法学部を卒業し、1922年に海軍法務官に任官する。海軍兵学校教官、海軍省法務局局員、東京高等軍法会議法務官、海軍司法事務官、大本営報道部附、海軍大学校教官などを歴任した。 1943年に連合艦隊法務長に就任した。1945年に海軍法務少将に昇進した。戦後は海軍省(のち、改組により第二復員省)法務局長となる。 第二復員省退官後は公職追放を経て、郷里である福岡県柳川市で弁護士業を営んだ。
川上 清志(かわかみ きよし、1897年(明治30年)4月2… 川上 清志(かわかみ きよし、1897年(明治30年)4月21日 - 1944年(昭和19年)12月8日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 鹿児島県日置郡田布施村(金峰町を経て現南さつま市)で生まれた。川辺中学校(現鹿児島県立川辺高等学校)、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1918年(大正7年)7月、陸軍士官学校(30期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第44連隊付となる。1928年(昭和3年)12月、陸軍大学校(40期)を優等で卒業した。 1929年(昭和4年)12月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員(作戦班)、ドイツ駐在、ルーマニア駐在、歩兵第23連隊大隊長、参謀本部員(戦史課)などを務め、1937年(昭和12年)8月、兵科を航空兵に転科し航空兵中佐に進んだ。
岡田 酉次(おかだ いつじ / ゆうじ、1897年(明治30… 岡田 酉次(おかだ いつじ / ゆうじ、1897年(明治30年)4月19日 - 1994年(平成6年)7月4日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍主計少将。 三重県出身。岡田靖の息子として生まれる。富田中学校(現三重県立四日市高等学校)を経て、1919年(大正8年)5月、陸軍経理学校(13期)を卒業。同年12月、三等主計に任官し歩兵第38連隊付となる。1921年(大正10年)8月、宇品陸軍糧秣支廠員に就任し、1922年(大正11年)12月、二等主計に昇進。1923年(大正12年)8月、陸軍糧秣本廠員に就任。1928年(昭和3年)6月から1930年(昭和5年)5月まで、経理学校で第2期甲種学生として学んだ。
能登 久(のと ひさし、1897年(明治30年)4月5日 -… 能登 久(のと ひさし、1897年(明治30年)4月5日 - 1980年(昭和55年)11月29日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 富山県出身。1920年(大正9年)5月、陸軍士官学校第32期卒業。陸軍砲工学校第29期を優等で卒業。東京帝国大学物理学科卒業。 北支那方面軍気象部長、陸軍技術本部附を経て、1941年(昭和16年)3月、陸軍大佐に進み、同年6月、陸軍技術本部課長となる。翌年の1942年(昭和17年)10月に第7陸軍技術研究所員に転じ、1945年(昭和20年)6月、陸軍少将に進んだ。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。
小畑 信良(おばた のぶよし、1897年(明治30年)3月2… 小畑 信良(おばた のぶよし、1897年(明治30年)3月29日 - 1976年(昭和51年)5月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。兄に小畑英良。 大阪府出身。地主・小畑万治郞の七男として生まれる。茨木中学校卒。日本軍において、輜重兵科として陸軍大学校に入校し卒業した数少ない将校であった。 太平洋戦争開戦前の1941年(昭和16年)2月初め以来、参謀本部第1部内で小畑を長とする研究班が設置され、秘密裏に南方占領地行政に関する研究を行う。 1943年(昭和18年)3月には第15軍参謀長に着任。第15軍司令部で後のインパール作戦が起案された際、小畑はアラカン山系のジャングルを越える作戦実施は不可能と判断して作戦に反対した。
横井 俊之(よこい としゆき、1897年3月11日 - 19… 横井 俊之(よこい としゆき、1897年3月11日 - 1969年12月23日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。
平井 昌平(1897年〈明治30年〉2月16日 - 1957… 平井 昌平(1897年〈明治30年〉2月16日 - 1957年〈昭和29年〉4月3日)は、日本の海軍軍人。海軍兵学校46期生。最終階級は海軍少将。終戦時は呉海軍工廠総務部長。 1897年(明治30年)2月16日に山梨県北都留郡広里村(現:大月市大月町)で、父・保太郎、母・いちの四男として生まれる。 真木尋常小学校、広里高等小学校を卒業後、長兄の薦めもあり、東京に出ていた別の兄を頼って麻布中学へ進学する。麻布中学卒業後は、海軍兵学校へ進学し、1918年(大正7年)に46期生として卒業する。 1927年(昭和2年)には井上良馨元帥の副官となる。 1934年(昭和9年)には少佐に昇進しており、軍の特命を受けてアメリカ合衆国へ実情偵察を目的として出張する。
松本 健一(まつもと けんいち、1897年(明治30年)2月… 松本 健一(まつもと けんいち、1897年(明治30年)2月15日 - 1957年(昭和32年)1月8日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍主計少将。功四級。 1897年(明治30年)に長崎県で生まれた。陸軍経理学校第12期主計候補生として1918年(大正7年)5月20日に卒業した。1934年(昭和9年)4月から1936年(昭和12年)3月まで東京帝国大学経済学部で陸軍派遣員外学生として聴講し、大学院にも進んだ。1939年(昭和14年)8月に北支那方面軍参謀部附となり日中戦争に出動した。1940年(昭和15年)8月1日に陸軍主計大佐進級と同時に関東軍司令部附となった。1941年(昭和16年)11月に陸軍経理学校附となり、1943年(昭和18年)2月に大阪陸軍糧秣支廠長に就任した。
有末 次(ありすえ やどる、1897年(明治30年)2月7日… 有末 次(ありすえ やどる、1897年(明治30年)2月7日 - 1943年(昭和18年)8月28日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 北海道出身。有末孫太郎(村長・京極農場支配人・屯田工兵大尉)の息子として生まれる。上川中学を経て、陸軍士官学校(31期)、陸軍大学校(41期)を卒業。 参謀本部作戦班長・教育課長などを経て、1940年に関東軍作戦課長となり、ノモンハン事件後の関東軍の建て直しに当たった。日米開戦には反対の立場をとり、1941年、大本営陸軍参謀部第20班長として戦争回避を唱えたが阻止できなかった。 太平洋戦争開戦後は第17軍高級参謀などを経て、1942年、第8方面軍作戦課長としてラバウルに赴任し、翌1943年には陸軍少将・同方面軍参謀副長となり今村均大将を補佐する。
鈴木 敬司(すずき けいじ、1897年〈明治30年〉2月6日… 鈴木 敬司(すずき けいじ、1897年〈明治30年〉2月6日 - 1967年〈昭和42年〉9月20日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。1941年から1942年にかけて存在したビルマ(現在のミャンマー)の独立運動の支援を任務とする日本軍の特務機関「南機関」の機関長。この経歴から「日本版アラビアのロレンス」と称される。 静岡県出身。鈴木房蔵の長男として生まれる。浜松中学校(現在の静岡県立浜松北高等学校)を経て、1918年(大正7年)5月、陸軍士官学校(30期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し近衛歩兵第4連隊付となる。1929年(昭和4年)11月、陸軍大学校(41期)を卒業し、翌月、近衛歩兵第4連隊中隊長に就任。
若松 有次郎(わかまつ ゆうじろう、1897年(明治30年)… 若松 有次郎(わかまつ ゆうじろう、1897年(明治30年)2月1日 - 1977年(昭和52年)3月23日)は、日本の陸軍軍人、獣医師。最終階級は陸軍獣医少将。旧姓・池田。 香川県出身。農業・池田仲三郎の息子として生まれ、官吏・若松八郎の養子となる。慶應義塾普通部、第七高等学校造士館を経て、1922年(大正11年)4月、東京帝国大学農学部獣医学科を卒業。同年7月、二等獣医に任官し騎兵第13連隊付となる。1924年(大正13年)11月、サガレン州派遣軍軍政部付となり、電信第1連隊付を経て、1926年(大正15年)3月、一等獣医に昇進し騎兵第12連隊付となる。 1928年(昭和3年)4月、東京大学伝染病研究所員に就任し、陸軍士官学校付兼馬術教官、ドイツ駐在、陸軍獣医学校防疫学教官を務め、1934年(昭和9年)8月、三等獣医正に進級した。
加藤 榮吉(かとう えいきち、1897年(明治30年)1月1… 加藤 榮吉(かとう えいきち、1897年(明治30年)1月10日- 1946年(昭和21年)8月1日)は、大日本帝国海軍の軍人。海軍兵学校46期で、最終階級は大佐。ブーゲンビル島の戦いで島の北部を固守した。住民殺害を命じた戦争犯罪の有罪判決を受け、死刑となった。 1897年(明治30年)に会津若松市に住む商人の家に5男として生まれる。尋常小学校3年生の時に、仙台市で私塾の育英塾を開いていた15歳年上の次兄の加藤利吉の下へ、母と三兄の利喜松とともに移り住む。その後、利吉の養子として育てられ、立町尋常高等小学校2年から東北学院普通科(後の東北学院中学部)3年に編入し、卒業。 1915年(大正6年)9月に海軍兵学校へ入り、46期で卒業。
高嶋 辰彦(たかしま たつひこ、1897年(明治30年)1月… 高嶋 辰彦(たかしま たつひこ、1897年(明治30年)1月10日 - 1978年(昭和53年)9月24日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。旧姓・多賀谷。高島と表記される場合がある。 福井県出身。港湾業・多賀谷儀三郎の四男として生まれ、陸軍中佐・高嶋嘉蔵の養子となる。四日市中学校(現三重県立四日市高等学校)、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1918年(大正7年)5月、陸軍士官学校(30期)を首席で卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第38連隊付となる。1925年(大正14年)11月、陸軍大学校(37期)を首席で卒業した。 1926年(大正15年)12月、陸軍省軍務局付勤務となり、軍務局課員(軍事課)を経て、1929年(昭和4年)1月からドイツ駐在として、ベルリン大学、キール大学で学んだ。
岡村 徳長(おかむら とくなが、1897年1月10日 - 1… 岡村 徳長(おかむら とくなが、1897年1月10日 - 1972年7月19日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中佐。戦後は日本共産党員として活動した。弟は名戦闘機搭乗員で鹿屋基地司令・岡村基春大佐(海軍兵学校50期)。末妹の清子は艦爆の神様江草隆繁大佐の妻。 1897年(明治30年)に高知県安芸郡井ノ口村(現在の安芸市井ノ口)で生まれる。海軍兵学校45期。岡村は天衣無縫の好漢でその奇行で海軍内でも有名だった。航空機開発に情熱を燃やし大西瀧治郎中将に心酔していた。 横須賀航空隊教官時代、計器飛行の実験中に、主翼が海に接触し危うく一命を落としかけた。1928年(昭和3年)2月29日、悪天候の中、搭乗していた一三式艦上攻撃機が佐賀県鹿島付近に墜落・炎上し、岡村は顔に大火傷を負った。
渡辺 三郎(わたなべ さぶろう、1897年(明治30年)1月… 渡辺 三郎(わたなべ さぶろう、1897年(明治30年)1月6日 - 1969年(昭和44年)1月1日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。旧姓・末国。 広島県出身。教員・末国又一の三男として生まれ、渡辺金作の養子となる。山口中学校(現山口県立山口高等学校)を経て、1918年(大正7年)5月、陸軍士官学校(30期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第70連隊付となる。1926年(大正15年)12月、陸軍大学校(38期)を卒業した。 1927年(昭和2年)8月、歩兵第76連隊中隊長に就任し、参謀本部付勤務、参謀本部員、イギリス駐在、歩兵第41連隊大隊長、陸軍運輸部員、陸大教官などを経て、1939年(昭和14年)8月、歩兵大佐に昇進。
場生松 長夫(ばしょうまつ たけお、1897年1月6日 - … 場生松 長夫(ばしょうまつ たけお、1897年1月6日 - 1948年12月15日)は、日本陸軍軍医(耳鼻咽喉科)。白子陸軍病院(現埼玉病院)、南方第5陸軍病院編成当初の病院長。終戦時は軍医大佐、第16軍軍医部長。妻は仙波太郎四女文子。 佐賀県出身。1918年10月12日~1922年3月22日、東京帝国大学医学部 陸軍衛生部依託学生。1922年6月30日、歩兵第71連隊付。1922年8月1日~1923年2月15日、陸軍軍医学校 乙種士官学生。1925年4月1日~1927年4月1日、免本職、東京帝国大学大学院 陸軍衛生部士官学生。1927年4月1日、歩兵第3連隊付。1928年8月10日、陸軍軍医学校教官。
正木 博(まさき ひろし、1897年(明治30年)1月4日 … 正木 博(まさき ひろし、1897年(明治30年)1月4日 - 1973年(昭和48年)4月29日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。旧姓・上野。 福岡県出身。熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1918年(大正7年)5月、陸軍士官学校(30期)を卒業。同年12月、騎兵少尉に任官し騎兵第19連隊付となる。1922年(大正11年)3月、陸軍砲工学校高等科を卒業。帝国大学理工学部陸軍派遣学生として京都帝国大学工学部電気工学科に入学し、1925年(大正14年)3月に卒業した。 1925年5月、兵科を航空兵科に転科し航空兵中尉に任官。同年9月、陸軍航空技術研究所付となり、陸軍航空本部員を務め、1927年(昭和2年)3月、航空兵大尉に昇進。
山家 亨(やまが とおる、1897年(明治30年)- 195… 山家 亨(やまが とおる、1897年(明治30年)- 1950年(昭和25年)1月)は、日本陸軍の軍人、大佐。宣撫工作「山家機関」の責任者。中国名、王嘉亨(ワンチアホン)。川島芳子の初恋の相手としても知られる。 1897年(明治30年)、静岡市生まれ。1916年、静岡県立静岡中学校卒業、静岡中学時代は野球部(現在の静岡高校野球部)に所属した。1921年(大正10年)、陸軍士官学校(33期)卒業後、陸軍士官学校の委託生として東京外国語学校に入学、中国語、蒙古語、ロシア語を学んだ。松本第五十連隊機関銃隊付少尉(一説に中尉)のころ、満蒙ロビーの川島浪速への接近がきっかけで川島芳子と知り合って恋仲となり、中国語の手ほどきを受けた。
清水 清(しみず きよし、明治30年(1897年)- 昭和7… 清水 清(しみず きよし、明治30年(1897年)- 昭和7年(1932年)1月27日)は、日本の陸軍軍人。満州事変のハルビン占領前に陸軍砲兵大尉で戦死、特進して少佐。 山口県長府町大字門峠の出身。1921年(大正10年)7月27日、陸軍士官学校33期卒業。1931年8月、砲兵大尉となる。 小倉野戦重砲兵隊所属であった1932年1月27日、ハルビン飛行場を偵察中、搭乗した八八式偵察機570号が反吉林軍からの対空砲火により被弾し、ハルビン郊外に不時着した。操縦士の福井中尉が陸軍特務機関に報告と来援を請いに向かった間、反吉林軍騎兵に包囲され、射殺された。
山口 槌夫(やまぐち つちお、1896年12月15日 - 1… 山口 槌夫(やまぐち つちお、1896年12月15日 - 1978年9月22日)は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。陸士卒(30期)、陸大卒(39期)。