阿修羅・原(あしゅら・はら、本名:原 進 / はら すすむ、… 阿修羅・原(あしゅら・はら、本名:原 進 / はら すすむ、1947年1月8日 - 2015年4月28日)は、日本のプロレスラー。長崎県北高来郡森山町(現・諫早市)出身。ラグビーの日本代表を経てプロレスに転向し、国際プロレスや全日本プロレスで活躍していた。 中学時代は柔道、諫早農業高校では当初は相撲に打ち込んでいたが、高校2年にラグビーに転向。この時からラグビー選手として頭角を現した。高校卒業後に上京し東洋大学を経て、拠点を東京から一旦大阪に移して1969年に近畿日本鉄道(近鉄)に入社。近鉄では入社数年後に駅係員として勤務していた実績がある。また、入社と同時に近鉄ラグビー部に所属した。 近鉄時代の1970年に日本代表に選出され、同年3月22日の秩父宮ラグビー場におけるブリティッシュ・コロンビア州代表戦でNO8として初キャップを獲得した。
米村 天心(よねむら てんしん、1946年12月16日 - … 米村 天心(よねむら てんしん、1946年12月16日 - 2016年6月20日)は、秋田県鹿角郡花輪町(現在の鹿角市)出身の高島部屋所属の元大相撲力士、元プロレスラー。大相撲時代の四股名は高昇 紀彰(たかのぼり としあき)で最高位は幕下75枚目。本名、米村勉(よねむら つとむ)。 高島部屋に入門して米村の四股名で1962年9月場所初土俵、その後四股名を鹿角山(かづのやま)、高昇(たかのぼり)と改め幕下まで昇進したが、伸び悩み1969年1月場所限りで廃業となった。 大相撲廃業後は、金子武雄が経営するボディビル・ジムでトレーナーをしていたが1972年に金子の勧めで国際プロレスに入団。国際プロレス崩壊後は、マイティ井上とともに全日本プロレスに移籍した。
栗栖 正伸(くりす まさのぶ、1946年11月15日 - )… 栗栖 正伸(くりす まさのぶ、1946年11月15日 - )は、日本の元プロレスラー。鹿児島県肝属郡出身。身長175cm、体重100kg。 高校時代から柔道を始め、国士舘大学時代はボディビルも行い、卒業後、まず単身でアメリカに渡り、ロサンゼルスを中心にレスラー修行を積む。現地で渡米中のアントニオ猪木と出会い1972年4月に新日本プロレスに入門。1972年9月26日のリトル浜田(後のグラン浜田)戦でデビューするが、約7年に渡り前座クラスのレスラーとして長い下積み期間を過ごす。ドン荒川の後にアントニオ猪木の付き人をしていたのもこの時期である。1976年に行われた「アントニオ猪木vsモハメッド・アリ」の当日に猪木の車の運転手を務めたのも栗栖である。
百田 義浩(ももた よしひろ、1946年3月15日 - 20… 百田 義浩(ももた よしひろ、1946年3月15日 - 2000年11月22日)は、日本のリングアナウンサー・プロレスラー。 全日本プロ・レスリング取締役、プロレスリング・ノア取締役を歴任した。 日本のプロレス界の礎を作った力道山の長男であり、百田光雄の実兄。娘はプロレスリング・ノアで広報兼通訳をしている。甥の百田力もプロレスラーである。 慶應義塾高等学校を経て、慶應義塾大学法学部卒業。大学生時代に力道山が刺殺され、父の遺志を継ぎ、力道山が運営し藤猛を擁していた「リキ・ボクシングジム」のオーナーとなる。 1972年にジャイアント馬場が設立した全日本プロレスに取締役として参画し、リングアナウンサーとしても活動した。
ドン荒川(ドンあらかわ、1946年3月6日 - 2017年1… ドン荒川(ドンあらかわ、1946年3月6日 - 2017年11月5日 )は、日本のプロレスラー。本名:荒川 真(あらかわ まこと)。鹿児島県出水市出身。 学生時代は柔道を志しており、出水学園出水中央高等学校卒業後に上京する。当時レスリングの大会に出場していた頃、その試合中にドロップキックを放ち反則負けを取られる珍事を起こした。当時、試合の対戦相手は後に国会議員として活躍する松浪健四郎であった。 1972年7月、26歳で新日本プロレスへ入門し、2ヶ月後の9月19日にリトル浜田(グラン浜田)戦でデビューした。また栗栖正伸とは同じ鹿児島県の出身で、デビューした年月も72年9月という同時期でもあり、体格・試合運びも似ているライバル同士だった。
寺西 勇(てらにし いさむ、1946年1月30日 - )は、… 寺西 勇(てらにし いさむ、1946年1月30日 - )は、富山県射水郡(現:射水市)出身で立浪部屋所属の元大相撲力士、元プロレスラー。本名:寺西 等(てらにし ひとし)。大相撲時代の四股名は寺西(てらにし)、最高位は三段目1枚目。 大相撲の立浪部屋に入門し、1963年5月場所に本名の寺西の四股名で初土俵を踏んだ。しかし伸び悩んでしまい、入門3年後の1966年5月場所をもって廃業した。大相撲廃業後は、1966年に同門の永源遙とともに豊登道春率いる東京プロレスに入ってプロレスラーに転向。同年10月21日、団体旗揚げ戦においてデビュー(相手は竹下民夫)。東京プロレス崩壊後はラッシャー木村らと共に国際プロレスに移籍する。
大位山 勝蔵(おおいやま かつぞう、1945年3月5日 - … 大位山 勝蔵(おおいやま かつぞう、1945年3月5日 - )は、兵庫県宍粟郡山崎町(現在の宍粟市)出身(本籍地は、同県姫路市)で三保ヶ関部屋に所属した元大相撲力士、国際プロレス所属の元プロレスラー。 本名は松本 勝三(まつもと かつぞう)。力士時代の四股名は三保ノ松および大位山、プロレス時代のリングネームは大位山 勝三。相撲時代の得意手は、右四つ、寄り、押し。最高位は東前頭12枚目(1968年11月場所)。 地元・山崎町の中学校を卒業後、三保ヶ関親方(元大関・増位山)の関係者の紹介で三保ヶ関部屋に入門し、1960年5月場所で初土俵を踏んだ。当初の四股名は、部屋の名と本名の松本に因んだ「三保ノ松」。
大磯 武(おおいそ たけし、1944年4月8日 - )は、富… 大磯 武(おおいそ たけし、1944年4月8日 - )は、富山県新湊市(現在の射水市)出身で立浪部屋所属の元大相撲力士、東京プロレス、国際プロレス所属の元プロレスラー。本名は、摺崎武二(するさき たけじ)。大相撲時代の四股名は大磯浪(おおいそなみ)、最高位は三段目14枚目。プロレスラー時代は身長181cm、体重117kg。 大相撲の立浪部屋に入門し、1963年7月場所に本名の摺崎の四股名で初土俵を踏んだ。1965年3月場所に四股名を大磯浪に改名したが伸び悩み、1966年5月場所をもって三段目で廃業した。大相撲廃業後は1966年に東京プロレス設立に伴い、プロレスラーに転向。入門同期には寺西勇・大剛鉄之助・柴田勝久・永源遙らがいた。
柴田 勝久(しばた かつひさ、1943年12月4日 - 20… 柴田 勝久(しばた かつひさ、1943年12月4日 - 2010年1月16日)は、日本の元大相撲力士、元プロレスラー、レフェリー。三重県桑名市出身。 大鳴戸部屋(師匠は二瀬山)に入門して、柴田の四股名で1960年7月場所に16歳で初土俵を踏む。鉄扇(てっせん)と改名して1961年5月場所には序ノ口優勝、1963年9月場所には三段目優勝を果たした。この間、大鳴戸部屋と朝日山部屋の合併に伴い新・朝日山部屋所属となり、四股名も三重ノ山と改名した。しかし1966年9月場所限りで廃業、最高位は幕下35枚目。 プロレスへ転向、1966年に東京プロレスに入団して同年10月12日プロレスデビューした。1967年2月の東京プロレス崩壊後は、アントニオ猪木らとともに日本プロレスに移籍。
マサ斎藤(マサさいとう / Masa Saito、本名:斎藤… マサ斎藤(マサさいとう / Masa Saito、本名:斎藤 昌典 / さいとう まさのり、1942年8月7日 - 2018年7月14日)は、日本のプロレスラー。東京都中野区出身。 日本プロレスや東京プロレスを経て、フリーランサーとなって新日本プロレスを主戦場に活躍。アメリカにおいても、NWA、AWA、WWFなど各団体で実績を残している。第一線を退いてからは新日本プロレスのブッカーおよびコメンテーターとして活動した。信条は「Go for broke」(当たって砕けろ)。 明治大学在学中の1964年、レスリング全日本選手権にて、97kg超級フリースタイル・グレコローマンの両部門で優勝(グレコローマン部門決勝の相手はのちのサンダー杉山こと杉山恒治。
肥後 宗典(ひご むねのり、1942年4月30日 - 200… 肥後 宗典(ひご むねのり、1942年4月30日 - 2002年7月23日[要出典])は日本のプロレスラー。本名及び旧リングネームは本郷篤(ほんごう あつし)。 1969年2月、鎮西高等学校から国際プロレスへ入団。 同年4月27日、佐野東八を相手にデビュー(デビュー戦は6月16日の大剛鉄之助戦とする説もある)。国際時代は同郷のグレート草津の付き人も務めた。 1972年、全日本プロレスの旗揚げシリーズに参戦したのをきっかけに、ジャイアント馬場に請われる形で全日本へ移籍。この時、リングネームも本名由来のものから肥後宗典へと改名している。 1974年、オーストラリアへ3ヶ月間遠征。 帰国後は主に前座戦線で活躍したが、1980年4月、自らが起こした婦女暴行事件の影響で引退。
グレート小鹿(グレート こじか、本名:小鹿 信也(こしか し… グレート小鹿(グレート こじか、本名:小鹿 信也(こしか しんや)、1942年4月28日 - )は、日本のプロレスラー。北海道函館市出身。大日本プロレス会長。生年は1940年ともされる。長らく本名の姓の読みは「こじか」とされてきたが、75歳の誕生日を迎えた2017年4月28日、後楽園ホールでの自身の試合後に自身の姓の読みが「こしか」であることを公表した。また、この日に限って「グレート小鹿(こしか)」として試合を行っている。新潟プロレススーパーバイザー(元顧問)。 幼少期に父が失明し、小学3年から行商をしながら家計を助けた。中学卒業後、北海道湧別町の缶詰工場に就職。17歳のとき、一旗揚げたいという思いだけを持って東京を目指すべく、まずは遠軽駅から函館駅を目指した。
坂口 征二(さかぐち せいじ、1942年2月17日 - )は… 坂口 征二(さかぐち せいじ、1942年2月17日 - )は、昭和期に活躍した日本のプロレスラー、柔道家、実業家。福岡県久留米市出身。世界の荒鷲と呼ばれた。長男は格闘家・元プロレスラーの坂口征夫、次男は俳優の坂口憲二。 受験に失敗し、一年高校浪人して久留米市立南筑高校に入学。1960年、柔道三段を取得。高校卒業後、明治大学に進学。柔道部で神永昭夫の指導を受ける。1963年10月、バーデン=バーデンでのIOC総会で柔道の1968年メキシコシティーオリンピックからの除外が決定。国際柔道連盟(IJF)はIOCに再考を促す。坂口はその長身を生かし、1964年東京オリンピック前には「仮想ヘーシンク」として、神永の稽古相手を務めた。
北沢 幹之(きたざわ もとゆき、1942年2月15日 -)は… 北沢 幹之(きたざわ もとゆき、1942年2月15日 -)は、日本の元男性プロレスラー、レフェリー。血液型A型。大分県東国東郡安岐町(現国東市)出身。現役時代は高崎山 猿吉(たかさきやま さるきち、後述)、魁 勝司(かい しょうじ)、新海 弘勝(しんかい ひろかつ)といった複数のリングネームに改名し活動した。 1961年10月に日本プロレスに入門。1962年1月21日、台東区体育館において、林幸一を対戦相手としてデビュー戦を行う。 北沢が大分県出身であったため、豊登から「高崎山猿吉」(後に高崎山三吉)というリングネームをつけられたこともある。1966年にその豊登とアントニオ猪木が旗揚げした東京プロレスに参加、後に猪木と共に日本プロレスに復帰する。
グレート草津(グレートくさつ / Great Kusatsu… グレート草津(グレートくさつ / Great Kusatsu、1942年2月13日 - 2008年6月21日)は、日本のプロレスラー、ラグビー選手。本名:草津 正武(くさつ まさたけ)。 熊本工業高校、八幡製鐵所でラグビー選手として活躍。ポジションはロック(LO)。社会人時代のサイズが189cm、93kgという当時の日本ラグビーでは規格外の体格と100m走が11秒2というWTB並のスピードを武器にFWの中心選手となり日本代表にも選出された。八幡製鐵に入社した経緯は、熊本工高の担当教諭から「お前が入社しなければ来年以降、八幡はうちの生徒を採ってくれなくなる」と諭されたことに起因するものであり、自身は大学でラグビーがしたかったと述懐している。
大熊 元司(おおくま もとし、本名同じ、1941年12月18… 大熊 元司(おおくま もとし、本名同じ、1941年12月18日 - 1992年12月27日)は、日本のプロレスラーおよび大相撲力士。埼玉県草加市出身。 大相撲時代は崎錦(さきにしき)の四股名で伊勢ヶ濱部屋に所属、最高位は幕下93枚目。プロレス転向後は中堅のラフファイターとして活躍した。愛称は「クマさん」。 中学校卒業後に大相撲の伊勢ヶ濱部屋へ入門し、1957年5月場所に大熊の四股名で初土俵を踏んだ。1958年11月場所から四股名を崎錦と改名したが伸び悩んでしまい、1962年5月場所をもって廃業した。大相撲を廃業して間もない同年5月に日本プロレスへ入門し、1ヶ月後の6月5日に名古屋市金山体育館大会で北沢幹之を相手にデビューを果たす。
山本 小鉄(やまもと こてつ、1941年10月30日 - 2… 山本 小鉄(やまもと こてつ、1941年10月30日 - 2010年8月28日)は、日本のプロレスラー。本名は山本 勝(やまもと まさる)。リングネームは豊登の命名。神奈川県横浜市南区出身。新日本プロレス所属。タレントとしても活動しており、芸能事務所はインターテイク所属であった。 現役引退後はワールドプロレスリング解説者・マッチメイカー・レフェリーとして活躍していた。 横浜市立横浜商業高等学校卒業後、東海金属工業に勤務しながらYMCAでボディビルに打ち込み、1963年に日本プロレスに入門。同年12月15日に力道山が亡くなったことから、力道山の最後の弟子となった。同年7月19日に北沢幹之戦でデビューした。
ラッシャー木村(ラッシャーきむら / Rusher Kimu… ラッシャー木村(ラッシャーきむら / Rusher Kimura、1941年6月30日 - 2010年5月24日)は、日本のプロレスラー、大相撲力士。本名:木村 政雄(きむら まさお)。北海道中川郡中川町出身。 後期のエースを務めた国際プロレスでは金網デスマッチの鬼の異名を持つブルファイターとして活躍し、新日本プロレス参戦時は国際軍団の総帥としてアントニオ猪木と抗争を繰り広げ、全日本プロレスおよびプロレスリング・ノア在籍時はユーモアあふれるマイク・パフォーマンスで親しまれた。 多くのプロレス団体を渡り歩いたことでも知られる。 2003年よりプロレスリング・ノア終身名誉選手会長。 佐久中学校を経て北海道天塩高等学校に進学、ポール牧と同級生であった。
ストロング小林(ストロングこばやし / Strong Kob… ストロング小林(ストロングこばやし / Strong Kobayashi、1940年12月25日 - 2021年12月31日)は、日本のプロレスラー、タレント。本名および旧リングネームは小林 省三(こばやし しょうぞう)。 現役選手時代はパワーファイターとして活躍し、1970年代前半の国際プロレスではエースを務め、新日本プロレス移籍後もメインイベンターの一角を担った。アメリカのマット界においても、AWAやWWWF(現:WWE)などのメジャーテリトリーにおいて実績を残している。 セミリタイア後は俳優・タレントに転身。1982年の映画『伊賀忍法帖』出演をきっかけに、ストロング金剛(ストロングこんごう)の芸名で活動。
サンダー杉山(サンダーすぎやま / Thunder Sugi… サンダー杉山(サンダーすぎやま / Thunder Sugiyama、本名:杉山 恒治 / すぎやま つねはる、1940年7月23日 - 2002年11月22日)は、日本のプロレスラー、アマチュアレスリング選手。 新潟県糸魚川市出身。明治大学農学部農業経済学科卒業。第2代IWA世界ヘビー級王者、第3代第7代IWA世界タッグ王者。レスリングで1964年東京オリンピックに出場後、プロレスラーに転向。現役引退後はタレント活動の他、実業家としても成功した。一般社団法人映像コンテンツ権利処理機構では、連絡先を求めている。 東海高校から同志社大学に入学して柔道部に所属していたが、1年の終わりに部を辞めている。
マシオ駒(マシオこま、1940年5月18日 - 1976年3… マシオ駒(マシオこま、1940年5月18日 - 1976年3月10日)は、日本の元プロレスラー。本名は駒 秀雄(こま ひでお)。東京都世田谷区出身。
佐藤 多美治(さとう たみじ、1939年12月14日 - )… 佐藤 多美治(さとう たみじ、1939年12月14日 - )は、レスラー。ローマオリンピック4位入賞。北海道留萌支庁増毛郡増毛町育ち。 北海道増毛高等学校-中央大学高校大学とも全国優勝を経験、増毛高-中大のラインは松江喜久弥の時代から始まり、中大黄金時代の屋台骨となった。 中央大学3年の時にローマオリンピックでフェザー級4位入賞、増毛高校の全国制覇メンバー2人が入賞する大活躍だった。
松岡 巌鉄(まつおか がんてつ、1938年11月25日 - … 松岡 巌鉄(まつおか がんてつ、1938年11月25日 - )は、岡山県和気郡香登町(現・備前市)出身で間垣部屋所属の元大相撲力士、元プロレスラー。大相撲時代の四股名は正剛山(せいござん)で、最高位は幕下33枚目。本名は、松岡 政雄(まつおか まさお)。 1958年、間垣部屋に入門して松岡山の四股名で1958年7月場所で初土俵、同年11月場所には四股名を正剛山と改め序二段優勝、1960年11月場所には三段目優勝して幕下昇進を果すが、1962年1月場所限りで廃業。 1962年、日本プロレスに入門し、大相撲時代の四股名である正剛山をリングネームとしてデビュー、後に松岡巌鉄に改名。 1968年1月18日には、国際プロレスのブッカーとして大木金太郎の引き抜きを画策したグレート東郷を、ユセフ・トルコとともに襲撃して負傷させた 。
佐倉 輝美(さくら てるみ、1938年2月5日 - 2022… 佐倉 輝美(さくら てるみ、1938年2月5日 - 2022年1月11日)は、女子プロレスラー。本名は佐倉輝子。日本女子プロレス、国際プロレス女子部に所属した日本の女子プロレス創世期の選手として知られる。東京都足立区竹ノ塚出身。 学生時代は短距離を得意にし、運動神経は水泳以外は抜群だった。中学時代に柔道を経験したのち、親が新聞で目にしたプロレスラー募集広告をきっかけに東洋興業によって旗揚げされた東洋女子プロレス(媒体によっては東京女子プロレスとも表記)でデビュー。1954年に入門したが正確なデビュー日は不明。小畑千代や妹の小畑紀代よりは入門及びデビューは遅い。柔道と異なり体が大きな相手でも蹴りや小技で相手を倒せ、投げられてもうまく着地すれば次の行動や丸め込みにつなぐことがプロレスの魅力だったという。
マティ鈴木(マティすずき、1938年1月25日 - )は、日… マティ鈴木(マティすずき、1938年1月25日 - )は、日本の元プロレスラー。実業家。本名:鈴木 勝義(すずき かつとし)。 現在はペンドルトン・ウーレン・ミルズ社極東販売部門ディレクター。 1938年1月25日生まれ。日本プロレス時代のプロフィールでは1939年生とされていた。神奈川県の出身で東京都世田谷区育ち。日本体育大学荏原高等学校出身で、家業の都合で入学が二年ほど遅れた。高校時代は野球部で捕手を務めていた。高校の1年先輩で野球部のエースだったのがヒロ・マツダ(小島泰弘)であった。 高校時代から東京都中央区日本橋浜町にあった力道山道場でボディビルをやった後、日本プロレスに入門。1959年5月1日、ミツ・ヒライ(平井光明)戦(後楽園ジム)でデビュー。
ジャイアント馬場(ジャイアントばば、1938年〈昭和13年〉… ジャイアント馬場(ジャイアントばば、1938年〈昭和13年〉1月23日 - 1999年〈平成11年〉1月31日)は、日本のプロレスラー、タレント、元プロ野球選手。本名および旧リングネーム・プロ野球選手時代の登録名は馬場正平()。 日本のプロレス界の史上最大の長身と巨体を持ち、力道山・アントニオ猪木と並んで日本のプロレスそのものを代表する存在である。コマーシャルやテレビ番組などでも人気を博した。現役時代は、当時の世界最高峰の王座であるNWA世界ヘビー級王座に3度就いた。全日本プロ・レスリング代表取締役社長・会長、NWA第一副会長を歴任した。三条市名誉市民。 リングネームは、初渡米武者修行中の1961年、ニューヨークのプロモーターであったビンス・マクマホン・シニアがババ・ザ・ジャイアント(Baba the Giant)と命名したことに由来する。
ヒロ・マツダ(Hiro Matsuda、1937年7月22日… ヒロ・マツダ(Hiro Matsuda、1937年7月22日 - 1999年11月27日)は、日本のプロレスラー。本名:小島 泰弘(こじま やすひろ)。神奈川県横浜市鶴見区出身。 日本プロレスを経てフリーランサーとなり、アメリカ合衆国で大きな成功を収めた日本人レスラーの一人である。正統派レスリングのスタイルを押し通し、主にベビーフェイスのポジションで活躍、アメリカにおける「日本人レスラー=ヒール」というイメージを塗り替えた人物とされる。ブッカーやトレーナーとしても活動し、ハルク・ホーガンをはじめ数々のトップレスラーを指導した。 荏原高等学校野球部でエースとして活躍し、卒業後の1957年に日本プロレスに入団するが、1960年に退団。
小畑 千代(おばた ちよ、1936年3月5日 - )は、女… 小畑 千代(おばた ちよ、1936年3月5日 - )は、女子プロレスラー。本名は小沢千代子(おざわ ちよこ)、千代子の命名者は長兄である小沢喜三(おざわ よしみつ)、小畑千代のリング名は東京女子プロレス社長による。日本女子プロレス・国際プロレス女子部のエースとして活躍した。東京都台東区出身。 1955年1月、フランス座で知られた東洋興業によって旗揚げされた東洋女子プロレス(媒体によっては東京女子プロレスとも表記)でデビュー。妹である小畑紀代(本名:小沢清子)も同団体のレスラーだった。当時の小畑のことを稲垣正浩は「女子プロレス草分けの花形ヒロイン」「戦後の日本社会に(稚児のお遊びと思われていた)女子プロレスを認知させた人物」と記述している。
浅井 正(あさい ただし、1935年11月28日 -1990… 浅井 正(あさい ただし、1935年11月28日 -1990年1月6日)は、レスラー。1956年メルボルンオリンピック4位入賞。北海道留萌支庁増毛郡増毛町生まれ。 北海道増毛高等学校-中央大学-北日本砂鉄鉱業 高校と大学を通じて、金メダリストの池田三男と同期、プロ野球国鉄スワローズに進んだ桂本和夫は1期上、増毛高-中大のラインは松江喜久弥の時代から始まり、中大黄金時代の屋台骨となった。 中央大学3年の時にメルボルンオリンピックでフライ級4位入賞、増毛高校の全国制覇メンバー3人が入賞する大活躍だった。中大卒業後の1960年ローマオリンピックでもレスリング王国増毛高校勢は3人が出場し、4期下の佐藤多美治とともに4位入賞した。
北村光治(きたむら みつはる、1934年10月2日 - 20… 北村光治(きたむら みつはる、1934年10月2日 - 2006年)は、レスラー。ローマオリンピックライト級グレコローマン5位入賞。北海道留萌支庁増毛郡増毛町生まれ。
猪狩 定子(いがり さだこ、1932年 - )は、日本の女性… 猪狩 定子(いがり さだこ、1932年 - )は、日本の女性プロレスラー、コメディアンで、日本初の女性プロレスラーとされる人物。 長兄はパン猪狩(ボードビリアン)、五男の兄はショパン猪狩(後に東京コミックショウ)で、戦後彼らとレスリングショーを行い、その時代のリング名はリリー猪狩。レスラー当時の体格は身長155センチメートル、体重55キログラム。 東京目黒生まれ。実家は宮大工。男ばかり8人兄弟の最後に、長女として生まれた。父親は戦時下で仕事がなくなり、兄の何人かは終戦後すぐ稼ぐために芸能活動を始めていた。後に定子もこうしたエンターテインメントの方面に加わるのは、こうした事情による。 子どものころから体格が良く、また通っていた学校では女の子らしくしないとダメと言われても、家では男の中で育った環境下であり、相撲や柔道、ボクシングなどに励む兄らに囲まれてたくましく育てられたといい、近所の同級生らと喧嘩になっても負けたことがないという。
嘉地 久晴(かじ ひさはる、1931年5月5日 - 没年不明… 嘉地 久晴(かじ ひさはる、1931年5月5日 - 没年不明 )は、島根県邇摩郡(現在の大田市)出身で中村部屋(のちに二所ノ関部屋)所属の元大相撲力士、日本の元プロレスラー。大相撲時代の四股名は天山 久晴(てんざん ひさはる)で、本名は嘉地 久治(かじ ひさはる)。最高位は西十両5枚目。身長183cm、体重107kg。得意技は右四つ、寄り。 空手、柔道などの経験を経て、山口利夫の全日本プロレス協会に入門、パワーファイターで人気があったと言われる。全日本プロレス協会を脱退後は、中村部屋(師匠は元前頭1・楯甲)の元幕下・甲潟にスカウトされたのを機に角界入り。大相撲からプロレスへの転向は多いが、その逆という非常に珍しいパターンとなった。
ジョー樋口(ジョーひぐち、1929年1月18日 - 2010… ジョー樋口(ジョーひぐち、1929年1月18日 - 2010年11月8日)は、日本の元プロレスラー、元レフェリー。 本名は樋口 寛治(ひぐち かんじ)。愛称は「ジョー」。 神奈川県横浜市出身。法政大学卒業。俳優の樋口隆則は息子。 日本プロレスと全日本プロレスでレフェリー、外国人係を務めた後、プロレスリング・ノア監査役、GHCタイトル管理委員長を歴任した。 実家は本牧の洋食材の問屋で、幼少時からコーヒーを嗜み、ジャズを愛好する少年だった。周囲の環境から、英語や洋食の調理もお手のものであった。また柔道の道に進み、二段まで昇段。終戦後は進駐軍に柔道を教えていた(この時期に英語をマスターしたとの記述もある)。
速浪 武夫(はやなみ たけお、1928年10月9日 -没年不… 速浪 武夫(はやなみ たけお、1928年10月9日 -没年不明 )は、宮城県本吉郡(現:気仙沼市)出身で伊勢ヶ濱部屋所属の元大相撲力士、国際プロレス団、アジアプロレス所属の元プロレスラー。本名は佐山 武雄(さやま たけお)。大相撲時代の四股名は速浪 武夫(はやなみ たけお)。最高位は西十両14枚目。身長175cm、体重82kg。プロレスラー時代は身長177cm、体重93kg。得意技は右四つ、下手投げ。 勤労奉仕先の工場で横綱・照國に素質を見出されて伊勢ヶ濱部屋に入門し、1944年11月場所に本名の速浪の四股名で初土俵を踏んだ。終戦直後に一旦は廃業して連合軍の関連業務に就いたが、十分に飯が食えない状況になったので、詫びを入れて復帰した。
吉村 道明(よしむら みちあき、1926年〈大正15年〉9月… 吉村 道明(よしむら みちあき、1926年〈大正15年〉9月19日 - 2003年〈平成15年〉2月15日)は、日本のプロレスラー。火の玉小僧と呼ばれた。 現役引退後は、近畿大学相撲部顧問として後進の指導にあたった。岐阜県岐阜市出身。 14歳で大日本帝国海軍の志願兵となり、海軍通信学校普通科練習生を36番の成績で卒業し、太平洋戦争に出征。シンガポール駐留中に海軍相撲で活躍し、海軍通信学校高等科練習生として5番の成績で卒業。終戦後は機雷除去の仕事を一年間務めた後、トヨタ自動車に勤務。1949年にトヨタ自動車を退社して近畿大学へ入学し、相撲部に入部。学生横綱(1949年、史上2人目となる大学1年で優勝)、国民体育大会個人優勝など輝かしい実績を残す。
阿部 脩(あべ おさむ、1925年〈大正14年〉5月6日 -… 阿部 脩(あべ おさむ、1925年〈大正14年〉5月6日 - 没年不明)は、日本のプロレスラー、レフェリー、俳優、大相撲力士。 北海道旭川市出身。角界入りし、高砂部屋から大成山(おおなりやま)の四股名で1941年1月場所初土俵。1946年11月場所を最後に廃業。プロレスに転身して力道山率いる日本プロレスの初期メンバーとしてキャリアをスタートさせる。身長175cm、体重103kgという当時としては恵まれた体格を活かし、パワー溢れるレスラーとして活躍。その後、東京プロレスを経て国際プロレスへ移籍した。 プロレスラー引退後は国際プロレスのレフェリーに転向する。髭を蓄えており、ホイッスルを吹く独特で特徴のあるスタイルから「髭のレフェリー」「髭の阿部」の愛称で親しまれた。
藤田山 忠義(ふじたやま ただよし、1924年2月11日 -… 藤田山 忠義(ふじたやま ただよし、1924年2月11日 - 1969年5月9日)は、福岡県田川郡(現在の田川市)出身で高砂部屋(入門時は片男波部屋)に所属した元大相撲力士、日本プロレス所属のプロレスラー。大相撲時代は1950年前後に活躍し、最高位は西前頭12枚目(1950年1月場所)。大相撲時代の体格は身長167cm、体重113kg。得意手は押し。本名は藤田 忠義(ふじた ただよし)。 元幕内・開月の片男波部屋に入門、1939年(昭和14年)1月場所に本名の藤田の四股名で初土俵を踏んだ。順調に出世して、1944年(昭和19年)5月場所で新十両へ昇進を果たした。入門以来1945年6月場所までは連続して勝ち越しを収めていた。
東富士 欽壹(あずまふじ きんいち、1921年10月28日 … 東富士 欽壹(あずまふじ きんいち、1921年10月28日 - 1973年7月31日)は、東京市下谷区(現・東京都台東区)出身で高砂部屋(入門時は富士ヶ根部屋)に所属した大相撲力士・第40代横綱・元プロレスラー・実業家。本名は井上 謹一(いのうえ きんいち)。 子供時代から巨躯・怪力で、大人に交じって家業の鉄工所を手伝っていたことから“下谷に怪童あり”と評判になる。その評判を聞きつけた富士ヶ根が勧誘して入門させ、1936年1月場所に初土俵を踏む。しかし、緊張から鍛え上げられた力を発揮できずに前相撲を通過して番付に載るまで2年を要したが、幕下時代から双葉山定次に目をかけられ、「キン坊、来い」と呼ばれては猛稽古で鍛えられた。
小島 貞二(こじま ていじ、1919年3月21日 - 200… 小島 貞二(こじま ていじ、1919年3月21日 - 2003年6月24日)は、日本の著作家、相撲・プロレス・演芸評論家にしてそれらの歴史研究者、作詞家。 相撲関係の雑誌などでは大須 猛三(おおす もうさん)のペンネームを使っていたことがある。 愛知県豊橋市出身。旧制豊橋中学校(現:愛知県立時習館高等学校)を卒業後、漫画家を志して上京し、川原久仁於に師事して絵を描いていたが、身長182cmの体格を見込まれて大相撲の出羽海部屋に入門することになり、1938年5月場所に本名で初土俵を踏む。双葉山の70連勝を阻止した平幕時代の安芸ノ海の付け人を経験し、その70連勝阻止の瞬間を裏方からの目線で見た著作がある(別冊1億人の昭和史 昭和大相撲史)。
木村 政彦(きむら まさひこ、1917年〈大正6年〉9月10… 木村 政彦(きむら まさひこ、1917年〈大正6年〉9月10日 - 1993年〈平成5年〉4月18日)は、日本の柔道家・プロレスラー。段位は講道館柔道七段。鬼の木村の異名を持つ。 全日本選手権13年連続保持、天覧試合優勝も含め、15年間不敗のまま引退。「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と讃えられ、後々にも史上最強の柔道家と称されることが多い。身長170 cm、体重85 kgと小兵ながら、トレーニングにより鍛え抜かれた強靭な肉体、爆発的な瞬発力、得意技である切れ味鋭い大外刈りのスピードとパワー、高専柔道で身につけた寝技技術、またこれらを支える一日10時間を越える練習量と柔道に命を賭す強靭な精神力を武器に15年間不敗を成し遂げた。
清美川 梅之(きよみがわ うめゆき、1917年1月5日 - … 清美川 梅之(きよみがわ うめゆき、1917年1月5日 - 1980年10月13日)は、秋田県平鹿郡十文字町(現在の横手市)出身で伊勢ヶ濱部屋所属の元大相撲力士、旧全日本プロレス所属の元プロレスラー。大相撲時代は、身長182cm、体重94kg。得意手は、左四つ、上手投げ、外掛け。最高位は、東前頭筆頭。 本名:佐藤 梅之助(さとう うめのすけ)。大相撲廃業後に入婿の形で結婚し、大橋 梅之助(おおはし うめのすけ)が本名となったが後に離婚、佐藤姓に戻している。 同郷の幡瀬川を頼って伊勢ヶ濱部屋に入門し、1934年1月場所で初土俵を踏む。当初の四股名は薩摩川。早くから有望視されるとともに順調に出世し、四股名を清美川と改名。
マティ・マツダ (Matty Matsuda、1887年 -… マティ・マツダ (Matty Matsuda、1887年 - 1929年10月15日) は、アメリカ合衆国で活躍した、20世紀初頭の著名な日本人プロレスラー、柔道家で本名は松田萬治郎(まつだ まんじろう、松田万次郎の表記もみられる)。 日本人プロレスラー初の世界王者になった人物。スポーツ記者から、熟練したレスラーであり紳士と評され、アメリカ合衆国での故郷となるテキサスエルパソの人々からは故郷からやってきた英雄として迎えられ、そして非常にクリーンで上品、そして賢いレスラーという印象だったという。現役時代の身長は170センチメートル、体重は85キログラム。得意技はフライング・メア(アームスピン投げ)。
伊藤 徳五郎(いとう とくごろう、1878年(明治11年)-… 伊藤 徳五郎(いとう とくごろう、1878年(明治11年)- 1939年(昭和14年)1月22日)は、日本人の柔道家・プロレスラーである。「キューバの四天王」の一人。 ウェッブサイト "Cageside Seats" でジョン・S・ナッシュは、キューバの四天王はブラジルにおける「MMAの父」であった、との考えを述べている。 秋田県の南外(後の大仙市南外)坊田で、代々肝煎や村役人を務めてきた造り酒屋の地主・伊藤多吉の長男として生まれた。 坊田小学校を卒業し、秋田尋常中学校に進学するが同校のストライキの影響で退学し、東京の錦城中学校へと転学して卒業した。その後早稲田大学へ入学して本格的に柔道を始めるが、大学と柔道の両立に苦しみ中央大学、明治大学と転学して1902年(明治35年)に中退した。
バニー及川(バニーおいかわ、10月21日 - )は、日本の女… バニー及川(バニーおいかわ、10月21日 - )は、日本の女子プロレスラー及びプロレスのレフェリー。埼玉県和光市出身。
神姫楽 ミサ(かぐら ミサ、9月24日 - )は、日本の女子… 神姫楽 ミサ(かぐら ミサ、9月24日 - )は、日本の女子プロレスラー。 小さい頃にプロレス会場でアジャコングと握手した事でプロレスを見るようになる。 その後は芸能事務所に所属し、「カタモミ女子」加入するなどアイドル、撮影会モデルとして活動。当時の所属事務所はウィンドー。アイドル時代、中野たむとはカタモミ女子で同僚であった。性格は明るく努力型である。 TAKAみちのくが開催したグッズのオークションがきっかけで、練習に参加するようになる(練習生M)。しかし練習での技術面が追いつかず、TAKAが下した決断はレスラーではなく「リングアナウンサー」であった。2020年6月の配信マッチでリングアナウンサーとしてデビュー。
齋藤 彰俊(さいとう あきとし、8月8日 - )は、日本の元… 齋藤 彰俊(さいとう あきとし、8月8日 - )は、日本の元男性プロレスラー。宮城県仙台市出身。最終所属プロレスリング・ノア。血液型B型。 水泳(平泳ぎ)が得意でジュニアオリンピック優勝(学童新記録)、仙台市立五橋中学校生時代に全国大会で2位の実績を残し、中京高校進学。松永光弘は同級生であった。この頃には極真会館で空手の鍛錬も積んでいた。中京大学進学後も水泳を続け、インターハイ、インカレ、国体、日本選手権で優勝し、ユニバーシアード、パンパシフィックの日本代表、オリンピックの強化選手にもなった。当時から長州力のファンで、パワーホールで選手入場したこともあったという。ソウルオリンピックの代表選考会は5着となり五輪出場を果たせず競泳を引退し、名古屋市のスポーツ関連団体に就職した。
赤城 はるな(あかぎ はるな、8月2日 - )は、日本の女子… 赤城 はるな(あかぎ はるな、8月2日 - )は、日本の女子元プロレスラー。群馬県伊香保町(現・渋川市)出身。身長150cm、体重52kg、血液型B型。
天満 のどか(てんま のどか、6月7日 - )は、日本の元プ… 天満 のどか(てんま のどか、6月7日 - )は、日本の元プロレスラー。現役時代は東京女子プロレスに所属していた。岡山県津山市出身。実妹はプロレスラーの愛野ユキ。
松本 都(まつもと みやこ、4月11日 - )は、日本の女優… 松本 都(まつもと みやこ、4月11日 - )は、日本の女優、グラビアアイドル、プロレスラー、アイドル。東京都出身。 ポニーキャニオンよりメジャーデビュー。リーダーとなり、CDリリース、テレビやフェス出演、ライブ活動、ライブハウスやでの試合などをプロレスと並行して精力的に行う(2016年活動終了)。 猫舌SHOWROOM 吉田豪「豪の部屋」
志真うた(しまうた、3月11日 - )は、日本のお笑い芸人(… 志真うた(しまうた、3月11日 - )は、日本のお笑い芸人(ピン芸人)、プロレスラー。歴史×温泉ナビゲーター。 富山県黒部市出身。ワタナベエンターテインメントに所属後、現在はフリー。デビュー後しばらくはシマウタ♪名義で活動し、のちに現在の芸名に変更。 近畿大学在学中、大学の講師だった神澤和夫主宰による『神澤和夫創作舞踏研究所』にてコンテンポラリーダンスを学ぶ。大学卒業後、近畿地方にて広告代理店の企画営業職に就き、数々の賞を受賞。その後SOHOでWEBディレクター・クリエイター、近畿地方の異業種勉強会・交流会『プライム関西』スタッフとしても活動。 就職後は芸事から離れていたが、藤山直美のような喜劇役者を志し退職。