平田 内蔵吉(ひらた くらきち、1901年4月26日 - 1… 平田 内蔵吉(ひらた くらきち、1901年4月26日 - 1945年)は、日本の医学者(民間療法家)、詩人。兵庫県赤穂市出身。弟の平田晋策は『新戦艦高千穂』などの作品がある戦争小説家。長男の平田穂生はシナリオライター。孫の平田オリザは劇作家である。 その他、民間療法の他に、坐の哲学と日本精神の真髄を追究したり、吉凶判断も研究したりしていた。平田は、自らが創始した療法体系を「皇方医学」(皇法医学)と名付けた。平田に学んだ奥山龍峰 (初代)が開いた八光流柔術に「皇方医学」(皇法医学)や吉凶判断は受け継がれたが、八光流の皇方医学は、指圧を中心に、整骨法、体操(護身体操、脊椎運動法)などのみで、平田の皇方医学の全てを伝えていない。
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野川隆(のがわ たかし、1901年4月23日 - 1944年… 野川隆(のがわ たかし、1901年4月23日 - 1944年12月23日)は、日本の詩人である。 千葉県千葉市出身、父は東大医学部で森鷗外と同期であった野川二郎である。隆の出生後まもなく、父が岐阜県大垣市で医院を開業したため、大垣市で育つ。大垣中学に学び、卒業後は東洋大学に入学するも中退、横浜税関に勤めながら、詩作をはじめる。この当時は、モダニズム詩人として活躍し、1924年には、北園克衛らとともに詩誌『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』を創刊、ダダイスム的な活動をしている。この雑誌には、稲垣足穂や村山知義も寄稿していた。稲垣は、文学に物理学を持ち込んだ先駆者として、野川のことを回想している。
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遠地 輝武(おんち てるたけ、1901年4月21日 - 19… 遠地 輝武(おんち てるたけ、1901年4月21日 - 1967年6月14日)は、日本の詩人・美術評論家。 本名: 木村 重夫。兵庫県飾磨郡八幡村(現・姫路市)生まれ。日本美術学校卒。1925年に第1詩集「夢と白骨との接吻」を刊行するが発禁となる。1930年プロレタリア詩人会の創設に参加。戦争中は美術活動をし、戦後は1946年に日本共産党に入党し、新日本文学会に参加。本名で美術評論を書いた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
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呉 一島(ご いっとう、オ・イルド、오일도、1901年陰暦2… 呉 一島(ご いっとう、オ・イルド、오일도、1901年陰暦2月24日 - 1946年2月28日)は朝鮮の詩人。本名は呉熙秉(오희병)。号は一島。詩誌『詩苑』の発行に尽力し、朝鮮の詩文学に貢献する。自身も豊かな自然を叙情的に吟じた。 1901年陰暦2月24日、楽安呉氏の集姓村である慶尚北道英陽郡英陽面甘川洞780番地に次男として生まれる。父は楽安呉氏の呉益休、母は義興朴氏。漆原県監呉時俊の10代目の子孫であり、家はたいへん豊かな大地主である。呉は、生まれてすぐ、形式的に祖父の兄弟のところの養子となったが、実際は生家で教育を受ける。14歳まで私塾で漢文を勉強し、1915年に地元の公立普通学校に入学する。
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原田 種夫(はらだ たねお、1901年(明治34年)2月16… 原田 種夫(はらだ たねお、1901年(明治34年)2月16日 - 1989年(平成1年)8月15日)は日本の小説家、詩人。本名は種雄(たねお)。 福岡市博多区中洲(西大橋たもと)に文学碑が建立されている。
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高橋 新吉(たかはし しんきち、1901年〈明治34年〉1月… 高橋 新吉(たかはし しんきち、1901年〈明治34年〉1月28日 - 1987年(昭和62年)6月5日)は、日本のダダイスト詩人。 愛媛県伊方町出身。母親を少年時代に亡くす。八幡浜商業学校(現・愛媛県立八幡浜高等学校)を中退し、以後、放浪がちの生涯を送った。1920年(大正9年)「萬朝報」の懸賞短編小説に『焔をかゝぐ』で入選、小説家としてデビュー。その後詩作に転ずる。1922年12月、「今から俺はダダを全世界に宣伝するのだ」と言ってタクシーの運転手をステッキで殴る事件(発狂事件)を起こして逮捕される。 1923年(大正12年)、詩集「ダダイスト新吉の詩」は「DADAは一切を断言し否定する」で始まり、「皿」は、食堂の皿洗いをしていた時の心境を「皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿/倦怠」と表現した(本来縦書きで、皿が積み重なるさまを示している)。
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佐伯 郁朗(さえき いくろう、1901年1月9日 - 199… 佐伯 郁朗(さえき いくろう、1901年1月9日 - 1992年4月19日)は、日本の内務官僚、詩人。 岩手県江刺郡米里村(現:奥州市江刺米里)出身。本名は慎一。1925年早稲田大学文学部仏文科卒。内務省に入り、情報局文芸課に勤務。児童向け書籍の統制に大きな役割を果たす。第二次世界大戦後は岩手県庁に勤めたのち、1973年盛岡大学短期大学部生活学園短期大学教授。1985年退職。大学在学中から詩作を始め、1931年詩集『北の貌』を刊行。「詩洋」「文学表現」「風」同人。児童文化運動にも関わり、1964年岩手県教育功労者。 1941年(昭和16年)12月23日に児童文化の統制団体として発足した日本少国民文化協会の設立にあたっては、民間側の城戸幡太郎、波多野完治、百田宗治、上村哲弥、藤田圭雄、吉田甲子太郎、滑川道夫、羽仁説子、稲田達雄、武井武雄とともに官側(内務省)の設立準備委員を務めた。
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尾形 亀之助(おがた かめのすけ、1900年〈明治33年〉1… 尾形 亀之助(おがた かめのすけ、1900年〈明治33年〉12月12日 - 1942年〈昭和17年〉12月2日)は、日本の詩人。宮城県柴田郡大河原町出身。東北学院普通部中退。 近代に活躍した詩人で、「歴程」の創刊同人。大河原町の繁昌院に墓がある。 1920年石原純、原阿佐緒らの歌誌「玄土」に参加して短歌を発表。1921年(21歳)に結婚して上京、妻タケの叔父、木下秀一郎 のすすめで未来派美術協会第2回展(上野 青陽楼)に出品、〈競馬〉〈朝の色感〉は『中央美術』の批評に取り上げられる。1922年、会員となり同第三回展「三科インデペンデント展」〈コンダクター〉など7点。 同年、仙台の個展で発表したとされる〈化粧〉が、現存するただ1点。
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石川道雄(いしかわ みちお、1900年10月23日 - 19… 石川道雄(いしかわ みちお、1900年10月23日 - 1959年2月25日)は、日本のドイツ文学者、詩人。 大阪府生まれ。東京帝国大学独文科卒業。山宮允の主宰する文芸誌『鈴蘭』に詩を発表。上京して日夏耿之介に師事し、1924年詩誌『東邦芸術』(のち「奢灞都」)を編集。その他、日夏の個人誌『パンテオン』『游牧記』『半仙戯』『豊葦原』などの雑誌に関わる。1929年東京府立高等学校教授。戦後國學院大學教授、山梨大学教授、1957年北海道大学教授。 ホフマンを研究、翻訳した。中央大学の校歌の作詞も担当した。墓所は多磨霊園。
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岡崎 清一郎(おかざき せいいちろう、1900年9月19日 … 岡崎 清一郎(おかざき せいいちろう、1900年9月19日 - 1986年1月28日)は、日本の詩人。 栃木県足利市出身。佐野中学校を中退後、太平洋画会研究所にて学ぶ。北原白秋の「近代風景」や村野四郎らの「旗魚」に参加、1929年第1詩集『四月遊行』を刊行。のち「歴程」同人。1960年「新世界交響楽」で高村光太郎賞、1971年『岡崎清一郎詩集』で第9回藤村記念歴程賞、1973年『春鶯囀』で第24回読売文学賞受賞。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
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三好 達治(みよし たつじ、1900年(明治33年)8月23… 三好 達治(みよし たつじ、1900年(明治33年)8月23日 - 1964年(昭和39年)4月5日)は、日本の詩人、翻訳家、文芸評論家。室生犀星や萩原朔太郎など先達詩人からの影響を出立点とし、フランス近代詩と東洋の伝統詩の手法をそれぞれに取り入れ、現代詩における叙情性を知的かつ純粋に表現し独自の世界を開いた。大阪府大阪市出身。日本芸術院会員。 大阪市西区で印刷業を営む家に、10人兄弟の長男として生まれた。幼少期より病弱で、読書に没頭。中学時代、句誌「ホトトギス」を愛読し、句作に没頭した。父の意向で陸軍士官学校に進んだが、脱走して放校となった。旧制三高から東大仏文科へ進んだ。三高時代から詩作を始め、梶井基次郎らと知己を得、のちに同人誌「青空」にも参加した。
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上田 敏雄(うえだ としお、1900年7月21日 - 198… 上田 敏雄(うえだ としお、1900年7月21日 - 1982年3月30日)は、日本の詩人、文学者。Toshio Ueda としても作品を発表した。アバンギャルディストとして青年期から晩年期にいたるまでユニークな詩と詩論を展開した。とくに昭和前期の超現実主義運動の輝ける旗手として注目された。日本における最初のシュルレアリスム宣言を発表したことでも知られる。芸術の自律的なメカニズムを認める立場から、カトリシズム・仏教思想等の外部からの概念導入なしに芸術世界の成立はないという立場に変化し、独自のネオ・シュルレアリスム詩観を提唱した。 1900年(明治33年)、山口県吉敷郡大道村(現:山口県防府市大道)にて生まれる。
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北川 冬彦(きたがわ ふゆひこ、1900年〈明治33年〉6月… 北川 冬彦(きたがわ ふゆひこ、1900年〈明治33年〉6月3日 - 1990年〈平成2年〉4月12日)は、日本の詩人、映画評論家。『悪夢』(1947年)などの小説作品もある。本名は田畔 忠彦(たぐろ ただひこ)。 第1詩集『三半規管喪失』(1925年)を自費出版、詩誌「詩と詩論」を創刊し、新散文詩運動を展開した。戦後は新現実主義を提唱し、現代詩の可能性を追究した。作品に詩集『戦争』(1929年)など。 滋賀県大津に生まれながら、父親の仕事関係で満州で育ち、軍国主義の旅順中学で5年間寄宿舎生活を送った。 1919年(大正8年)に第三高等学校(現・京都大学 総合人間学部)文科丙類(フランス語必修)に入学。
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平野 威馬雄(ひらの いまお、1900年(明治33年)5月5… 平野 威馬雄(ひらの いまお、1900年(明治33年)5月5日 - 1986年(昭和61年)11月11日)は、日本の詩人・フランス文学者。同人誌「青宋」主宰。日本詩人クラブ創設会員。 横浜市出身。大杉栄との交流の縁から、平野の父とも個人的に交友関係のあったジャン・アンリ・ファーブル関係の著作の翻訳をいくつか手がけたことでも知られている。松戸 淳(まつど じゅん)という変名で好色文学の翻訳も手がけた。2度の結婚で9人の子を持つ。 東京市赤坂区青山北町(現在の東京都港区北青山)の柳原愛子邸に生まれ、横浜市西区老松町に育つ。父は弁護士事務所勤務から富豪の未亡人の3番目の夫となったことで財を成し、美術好きの日本通としてサンフランシスコ日米協会The Japan Society of San Francisco(The Japan Society of Northern Californiaの前身)の初代会長を務めたヘンリイ・パイク・ブイ(Henry Pike Bowie)で、その妻の死後1893年に来日し日米を行き来していた。
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橋爪 健(はしづめ けん、1900年2月20日 - 1964… 橋爪 健(はしづめ けん、1900年2月20日 - 1964年8月20日)は、日本の詩人・評論家・小説家。 長野県東筑摩郡松本町(現松本市)出身。静岡県旧制沼津中学(静岡県立沼津東高等学校)、第一高等学校を経て、東京帝国大学文科中退。1922年第1詩集「合掌の春」を刊行、ダダイスムの影響を受け1924年『ダムダム』創刊に参加。1927年『文藝公論』を創刊、主宰した。戦後は児童読物などを書いた。兄に橋爪恵、弟に橋爪克巳(1903-83)がいる。
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安積 得也(あずみ とくや、1900年(明治33年)2月17… 安積 得也(あずみ とくや、1900年(明治33年)2月17日 - 1994年(平成6年)7月27日)は、日本の内務官僚、社会評論家、詩人。官選県知事。 東京府(現・東京都)出身。安積得時の二男として生まれる。第一高等学校を卒業。1923年12月、高等試験行政科試験に合格。1924年、東京帝国大学法学部を卒業。内務省に入省し京都府属となる。 以後、社会局事務官、中央大学講師、地方警視、愛知県経済部長などを経て、東京府経済部長となる。 1943年7月、栃木県知事に就任。1944年11月、内閣綜合計画局部長に転じた。東海北陸地方副総監を経て、1945年9月、岡山県知事に就任。戦後初の県予算を編成したが、1946年1月、公職追放となり知事を辞した。
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金 東鳴(キム・ドンミョン、朝鮮語: 김동명、1900年2月… 金 東鳴(キム・ドンミョン、朝鮮語: 김동명、1900年2月4日 - 1968年1月21日)は、朝鮮の詩人、政治評論家、随筆家。 号は超虚(チョホ、초허)。別名は金東嗚(キム・ドンオ、김동오)。教員生活を送りながら民族的悲哀の漂う抒情詩を多く残した。解放後は評論家、政治家としても活動している。 1900年6月4日、江原道溟州郡沙川面蘆洞里に生まれる。父は金済玉、母は申錫愚の一人息子である。幼いころは郷里の書堂に通い、漢文を学んだ。8歳のとき、咸鏡南道の元山に引越し、そこで小学校に入学する。母が苦労して学費を捻出してくれたおかげで、金は1915年に咸鏡南道の永生中学校に進学し、1920年に卒業した。
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多胡 羊歯(たご ようし、1900年1月25日 –1979年… 多胡 羊歯(たご ようし、1900年1月25日 –1979年12月23日)は、日本の詩人。富山県氷見市出身。 八代村胡桃(くるみ)生まれ。本名は義喜(よしひさ)。1919年(大正8年)に富山師範学校卒業。19歳で小学校の教員に就き、1923年11月以来、「赤い鳥」に童謡を投稿、45編の作品を発表。1928年「赤い鳥童謡会」メンバーとなり、1930年「チチノキ」同人。童謡集には白秋が序文を書いた「くらら咲く頃」があり、戦後、児童雑誌「タンタリキ」を主宰。童謡誌「ら・て・れ」にも加わった。1947年氷見市八代小学校校長を務めた後、退職し農業に従事。生涯、氷見を離れることなく、亡くなる。享年79。 代表作「くらら咲くころ」(1925年)は『赤い鳥』推奨作に選ばれ、白秋は「時代の代表作」と高く評価した。
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寺内 寿太郎(てらうち じゅたろう 1900年? - 没年不… 寺内 寿太郎(てらうち じゅたろう 1900年? - 没年不明)は、昭和初期の詩人。川柳にも才能を発揮し、当時流行の探偵小説にも凝ったことがある。慶應義塾大学初の箱根駅伝ランナーでもある。 評論家山岸外史のいとこ。幼時に父を日露戦争で亡くし、親戚の間を転々として育つ。伯父の世話で慶應義塾大学部理財科(現在の経済学部)を卒業して会社勤めをしていたが、不遇を託ち、家出すること数回。伊豆の天城山の奥深く分け入り、自殺を企てたこともあるが、10日間消息を絶った後、親戚に発見されて連れ戻された。なお、慶大時代は競走部(陸上部に相当)に所属し、箱根駅伝にも3回(1920年〈第1回大会でもある。区間4位〔最下位〕〉,1921年〈10区。
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佐藤一英(さとう いちえい、1899年(明治32年)10月1… 佐藤一英(さとう いちえい、1899年(明治32年)10月13日 - 1979年(昭和54年)8月24日)は、日本の詩人。 愛知県中島郡祖父江町に生まれ、萩原町高松(現・一宮市)に育つ。萩原尋常高等小学校卒業。愛知第一師範学校中退、早稲田大学英語科中退。「青騎士」など、いくつかの雑誌を主宰、編集。1931年から1932年に発行した『児童文学』は、宮沢賢治が童話「北守将軍と三人兄弟の医者」「グスコーブドリの伝記」を発表したことで知られる。木曽川高校をはじめ、郷里の小・中学校、高等学校の校歌の作詞も手掛けている。 1939年、『空海頌』で第1回詩人懇話会賞を受賞。1979年、民間人として最初の一宮市政功労者となった。
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蔵原 伸二郎(くらはら しんじろう、1899年〈明治32年〉… 蔵原 伸二郎(くらはら しんじろう、1899年〈明治32年〉9月4日 - 1965年〈昭和40年〉3月16日)は熊本県出身の詩人、作家、評論家。 熊本県阿蘇郡黒川村(現在の阿蘇市)に生まれる。本名は蔵原惟賢(これかた)。父惟暁は神官で阿蘇神社の直系。母いくは医学者北里柴三郎の妹。 7歳で熊本市に移住。旧制九州学院中学校在学中から中国詩に親しむ。19歳で上京し、慶應義塾大学文学部仏文科に学ぶ。同級に青柳瑞穂や石坂洋次郎がいた。1923年、大学在学中に萩原朔太郎『青猫』に触発されて詩を書き始め、『三田文学』『コギト』に作品を発表。のち、東京外国語学校のロシア語科に通っていたことが発覚したため、二重学籍を理由に慶應義塾大学から退学処分を受ける。
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丸山 薫(まるやま かおる、1899年〈明治32年〉6月8日… 丸山 薫(まるやま かおる、1899年〈明治32年〉6月8日 - 1974年〈昭和49年〉10月21日)は、日本の詩人。男性。海軍軍人の松田千秋は義弟(妹こまの夫)にあたる。 官吏をしていた父の任地大分県大分市で生まれる。1歳で長崎市へ移り、以後東京、京城、松江などを転々としたが、父が亡くなったあと、小学6年の秋に母方の祖父を頼って家族4人で愛知県豊橋市に移り住んだ。身内はそこで旅館業をしていたという。豊橋市立八町小学校を卒業し、愛知県立第四中学校(現・愛知県立時習館高等学校)を卒業。海洋への憧れから、周囲の反対を押し切って東京高等商船学校(現・東京海洋大学)を志し、2度目の受験にして合格するが、まもなく脚気のため退学する。
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青柳 瑞穂(あおやぎ みずほ、1899年5月29日 - 19… 青柳 瑞穂(あおやぎ みずほ、1899年5月29日 - 1971年12月15日、男性)は、日本の仏文学者、詩人、美術評論家、翻訳家。骨董品収集・随筆でも著名であった。 山梨県西八代郡高田村印沢(現・市川三郷町)にて、四男五女の末子として生まれる。生家はかつて質屋を営んだことがある富裕な地主の旧家だった。幼い頃から書画骨董の詰まった質倉で遊び、骨董に対する鑑賞眼を培った。 1917年に山梨県立甲府中学校(旧制)を卒業後、詩作やフランス語独習に熱中。永井荷風と堀口大學に憧れ、1919年に慶應義塾大学仏文予科に入学。このとき蔵原伸二郎と知り合い、無二の親友となる。1920年、出席時間不足のために留年し、新入生と奥野信太郎と終生の親交を結ぶ。
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萩原 恭次郎(はぎわら きょうじろう、1899年〈明治32年… 萩原 恭次郎(はぎわら きょうじろう、1899年〈明治32年〉5月23日 - 1938年〈昭和13年〉11月22日)は、大正・昭和時代の詩人。大正末期の芸術革命の先頭に立ち、はじめはダダイストとして活動したが、のちアナキズム運動に傾倒。若くしてこの世を去った。詩集『死刑宣告』、詩篇「もうろくずきん」「亜細亜に巨人あり」などの作品で知られる。本姓は金井(養子になったことによる)。 1899年(明治32年)、群馬県勢多郡南橘村日輪寺(現・前橋市日輪寺町)の農家、萩原森三郎・だいの次男として生まれる。幼少期にナイフが右眼に刺さったことが原因で強度の近視となる。1909年(明治42年)に父の叔母・金井ソウ(元総社村石倉)と養子縁組し、金井恭次郎となる。
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権藤 花代(ごんどう はなよ、1899年(明治32年)4月1… 権藤 花代(ごんどう はなよ、1899年(明治32年)4月13日 - 1961年(昭和36年)11月3日)は、唱歌「たなばたさま」作詞者・童謡詩人。本名は権藤はなよ。結婚前は伊藤はなよの旧姓で作品を発表、結婚後はペンネーム権藤はな子を使っていた。2008年頃までは、「権藤花代」という漢字名が使用されていたが、その後は本名の「権藤はなよ」が一般的になっている。実兄の伊藤生更はアララギ派の歌人であり、短歌結社「美知思波」を創立している。 1899年(明治32年)山梨県北巨摩郡穴山村(現・韮崎市穴山町)に、父・伊藤友重(ともじゅう)、母・やよの次女として生まれる。 1919年(大正8年)山梨県師範学校(現・山梨大学)を卒業。
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一戸 謙三(いちのへ けんぞう、1899年2月10日 - 1… 一戸 謙三(いちのへ けんぞう、1899年2月10日 - 1979年10月1日)は、日本の詩人。 青森県弘前市出身。青森県立弘前中学校(現:青森県立弘前高等学校)卒業。1919年、帰省した際、青森県で初めての詩人団体「パストラル詩社」を結成。福士幸次郎に師事し、一戸玲太郎の筆名で口語自由詩人として活躍した。1920年、経済的事情により慶應義塾大学医学部中退。1936年方言詩集『ねぷた』を刊行。1960年青森文化賞、1962年青森県褒賞を受ける。1979年10月1日、心不全のために死去。 昭和初期にはエスプリ・ヌーボーの影響を蒙り、知的観照性の高い散文詩へと移行したが、やがて方言詩に転身、高木恭造とならんで津軽方言詩人としても活動した。
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蕗谷 虹児(ふきや こうじ、蕗谷 虹兒、1898年〈明治31… 蕗谷 虹児(ふきや こうじ、蕗谷 虹兒、1898年〈明治31年〉12月2日 - 1979年〈昭和54年〉5月6日)は、挿絵画家、詩人、アニメーション監督。 抒情画という言葉の考案者。童謡・抒情歌「花嫁人形」の作詞者。 1898年 (明治31年) 12月2日、新潟県北蒲原郡水原町 (現・阿賀野市) 生まれ。新潟県新発田町 (現・新発田市) 出身。本名は一男といった。 蕗谷の自伝小説「花嫁人形」「乙女妻」によれば、父親・傳松 (でんまつ) は新潟市 (現・新潟市中央区)、新潟島の信濃川河口付近にあった三傳小路に土蔵と屋敷を構えた北前船の廻船問屋「三傳 (さんでん)」当主の次男であったが、当主が廃業し、新発田町にて活版印刷所を開業。
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片山 敏彦(かたやま としひこ、1898年(明治31年)11… 片山 敏彦(かたやま としひこ、1898年(明治31年)11月5日 - 1961年(昭和36年)10月11日)は、日本の詩人、文学研究者、ドイツ文学者、フランス文学者、翻訳家。 ロマン・ロラン、ヘッセ、リルケ、ハイネ、ゲーテらの翻訳も多く、『著作集』全10巻がある。 1898年11月5日、高知県医師会会長・片山徳治の長男として高知市帯屋町に生まれる。母の名は「歌」で、姉・佐栄との4人家族であった。1905年、高知市立第三尋常小学校へ入学、1911年、高知県立第一中学校(現在の追手前高校)に進んだ。多感で、詩に牽かれ、短歌を投稿するなどした。 1916年、岡山市の第六高等学校第3部(医科)に入学し、西欧の哲学、文学を耽読した。
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藤浦 洸(ふじうら こう、1898年9月1日 - 1979年… 藤浦 洸(ふじうら こう、1898年9月1日 - 1979年3月13日)は、昭和時代の作詞家、詩人。長崎県北松浦郡平戸町(現在の平戸市)出身。 長崎県北松浦郡平戸町(現在の平戸市)に生れる。長崎県立中学猶興館(現長崎県立猶興館高等学校)、私立岡山県興譲館中学卒業(現岡山県興譲館高等学校)。同志社大学神学部に入学してほどなく中退、3年の放浪を経て慶應義塾大学文学部に入る。在学中は児童小説を書いたり、尾崎士郎らと共に雑誌「令女界」や「若草」に少女小説、音楽物語などを執筆していた。その他、ピアノ演奏のアルバイトをするなどしていたという。 大学卒業後は、音楽評論家伊庭孝に師事し、浅草オペラの俳優等を経て、1930年から、コロムビアレコード文芸部のエドワードの私設秘書となり、ジャズソングの訳詞などを手掛けていた。
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大鹿 卓(おおしか たく、1898年〈明治31年〉8月25日… 大鹿 卓(おおしか たく、1898年〈明治31年〉8月25日 - 1959年〈昭和34年〉2月1日)は、日本の小説家、詩人。 愛知県海部郡津島町(現:津島市)生まれ。本名は大鹿 秀三(ひでぞう)。金子光晴の実弟である。 東京府立第一中学校を経て、京都帝国大学経済学部中退、秋田鉱山専門学校卒業。化学教師を務めながら詩を書く。1935年「野蛮人」で『中央公論』懸賞小説二席。1937年「探鉱日記」で芥川賞候補。1942年『渡良瀬川』で新潮社文藝賞受賞。
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吉田 一穂(よしだ いっすい、1898年8月15日 - 19… 吉田 一穂(よしだ いっすい、1898年8月15日 - 1973年3月2日)は、大正・昭和期の詩人、評論家、童話作家。本名、由雄。
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清水かつら(しみず かつら、1898年(明治31年)7月1日… 清水かつら(しみず かつら、1898年(明治31年)7月1日 - 1951年(昭和26年)7月4日)は男性詩人。本名は、清水桂。特に童謡詩人として知られる。
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安西 冬衛(あんざい ふゆえ、1898年〈明治31年〉3月9… 安西 冬衛(あんざい ふゆえ、1898年〈明治31年〉3月9日 - 1965年〈昭和40年〉8月24日)は、日本の詩人である。本名は勝(まさる)。奈良県奈良市出身。 大連で北川冬彦らと詩誌「亞」を創刊。その後、「詩と詩論」の創刊に参加、新しい散文詩運動を推進した。詩集に『軍艦茉莉』(1929年)、『亜細亜の鹹湖』(1933年)、『韃靼海峡と蝶』(1947年)などがある。 旧岸和田藩士の子として生まれる。麹町小学校、堺中学校(現・大阪府立三国丘高等学校)卒業。1920年、父の赴任先であり当時日本の租借地であった大連に渡る。翌1921年、関節炎を患い右脚を切断、文学に興味を示し、1924年11月、北川冬彦らと詩誌「亞」を大連で創刊。
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喜志 邦三(きし くにぞう 1898年3月1日 - 1983… 喜志 邦三(きし くにぞう 1898年3月1日 - 1983年5月2日)は日本の詩人、作詞家。 長男は京都大学文学部名誉教授の喜志哲雄。 1898年(明治31年)大阪府堺市に生まれる。1915年(大正4年)大阪府立堺中学校を卒業後、早稲田大学高等予科入学。翌年英文学科第二部に入学。1917年(大正6年)在学中に三木露風が主宰する第三次「未来」「リズム」の同人となる。1919年(大正8年)早稲田大学卒業、同年に大阪時事新報社に入社。1925年(大正14年)大阪時事新報社を退社し、神戸女学院大学部専任講師に就任。以降、中断期間も挟みながら1963年(昭和38年)定年まで教授を務める。1966年(昭和41年)園田学園女子大学文学部教授に就任。
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八木 重吉(やぎ じゅうきち、1898年2月9日 - 192… 八木 重吉(やぎ じゅうきち、1898年2月9日 - 1927年10月26日)は、日本の詩人、英語科教師。戦後にクリスチャン詩人としての評価が高まった。
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笹沢 美明(ささざわ よしあき、1898年〈明治31年〉2月… 笹沢 美明(ささざわ よしあき、1898年〈明治31年〉2月6日 - 1984年〈昭和59年〉3月29日)は、日本の詩人。 横浜市の富裕な商人の家庭に生まれ育つ。東京外国語学校(現東京外国語大学)ドイツ語科を卒業後、1週間で勤めを辞し、遊民となる。ハイネによって詩に目覚め、リルケを始めとするドイツ語圏の詩と詩論を日本に紹介。新即物主義の先駆者。親の遺産を使い果たした後は貧困の中で暮らしていたが、戦後、昭和女子大学教授や工学院大学教授を歴任した。 詩集に『蜜蜂の道』『海市帖』『美しき山賊』『おるがん調』『冬の炎』『仮設のクリスタル』など。 三男は小説家の笹沢左保。自伝小説『詩人の家』に父の姿が描かれている。
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壺井 繁治(つぼい しげじ、1897年〈明治30年〉10月1… 壺井 繁治(つぼい しげじ、1897年〈明治30年〉10月18日 - 1975年〈昭和50年〉9月4日)は、日本の詩人。日本共産党員。 香川県小豆郡苗羽村(現在の小豆島町)出身、早稲田大学に学ぶ。1920年代にはアナキズムの陣営に属し、『赤と黒』などに拠って詩作をはじめた。その後、共産主義に接近、プロレタリア文学の詩の分野で活躍した。1930年代には何度か投獄され、その後は小熊秀雄や村山知義たちと〈サンチョ・クラブ〉を結成し、風刺的な詩を作っていた。 1925年(大正14年)に作家の壺井栄と結婚。 戦後は新日本文学会の創立に参加し、発起人となる。しかし、戦後登場した武井昭夫や吉本隆明たち若手からは、戦時中の行動との差のために批判の対象にされた。
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金 祐鎮(キム・ウジン、朝鮮語: 김우진/金祐鎭、1897年… 金 祐鎮(キム・ウジン、朝鮮語: 김우진/金祐鎭、1897年9月19日 - 1926年8月4日)は、日本統治時代の朝鮮の詩人、劇作家。本貫は安東金氏。号は焦星(チョソン、초성)、水山(スサン、수산)。 1897年9月19日、李氏朝鮮で全羅南道の長城にて、務安郡の監理であった金星圭(父)と順天朴氏(母)のもと、長男として生まれた。 木浦公立普通学校(現: 木浦北橋初等学校)を卒業後渡日し、日本の熊本農業学校(現: 熊本県立熊本農業高等学校)を経て、1924年に早稲田大学英文科を卒業した。 1920年代には『劇芸術協会』と『同友会巡回演劇団』を主導した。また、西洋の表現主義の文芸理論を翻訳し、紹介した。
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井上 康文(いのうえ やすぶみ、1897年6月20日 - 1… 井上 康文(いのうえ やすぶみ、1897年6月20日 - 1973年4月18日)は、日本の詩人、作家、新聞記者。本名・康治。日高駿一の筆名も用いた。 生涯で3回結婚した。最後の妻、井上淑子(きよこ)もまた詩人であった。 神奈川県小田原市出身。東京薬学校(現東京薬科大学)を卒業後、東京市役所の技師や雑誌『新小説』の記者などを務めた。1918年、同郷の福田正夫や白鳥省吾らと共に雑誌『民衆』を創刊して注目を集める。大正デモクラシーの時流の中で、民衆の生活を口語体で平易に表現する「民衆詩派」の一翼を担った。『民衆』は毎回300部程度、17号まで発行された。 さらに井上は詩人団体「詩話会」に入会。詩壇での地位を確立する一方、北原白秋らは「詩ではなく散文的である」として民衆詩派に反発した。
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木々 高太郎(きぎ たかたろう、1897年〈明治30年〉5月… 木々 高太郎(きぎ たかたろう、1897年〈明治30年〉5月6日 - 1969年〈昭和44年〉10月31日)は、日本の大脳生理学者・小説家・詩人。医学博士。本名は林 髞(はやし たかし)。山梨県出身。 1937年、直木賞受賞。主に推理小説・探偵小説で知られたほか、詩歌や評論も手掛けた。イワン・パブロフ門下の生理学者でもあり、母校の慶應義塾大学医学部で教鞭を執った。戦後はアメリカの穀物メジャーの支援を受けて小麦食を推奨し、「頭脳パン」、「米食低脳論」を提唱した。長男は医学博士で精神衛生学者の林峻一郎。 山梨県西山梨郡山城村下鍛冶屋(現・甲府市下鍛冶屋町)に生まれる。生家は医家。甲府市湯田町へ移り、甲府市立湯田尋常小学校へ通う。
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河原 侃二(かわら かんじ、1897年4月16日 - 197… 河原 侃二(かわら かんじ、1897年4月16日 - 1974年1月26日)は、日本の俳優であり、詩人・編集者出身で写真家としても知られる。本名同じ。詩人としての筆名は河原 森月(かわら しんげつ)。萩原朔太郎とともに詩誌『侏儒』を創刊し、新劇俳優としては「築地小劇場」「第二次芸術座」の設立に参加、写真の世界では「ヴェス単の名手」として知られる。 1897年(明治30年)4月16日、兵庫県赤穂郡赤穂町(現在の同県赤穂市)に生まれる、とされている。『群馬県百科事典』(上毛新聞社)には、生年は1899年(明治32年)、生地は群馬県前橋市堀川町(現在の同市表町)である旨が記されている。 生後に東京に移り、東京府荏原郡品川町(現在の東京都品川区)の旧制・公立小学校品川学校(のちの品川区立品川小学校、現在の品川区立品川学園)に入学、同校を卒業して、東京市芝区(現在の東京都港区)の旧制・正則中学校(現在の正則高等学校)に入学する。
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加藤 まさを(かとう まさを、1897年4月8日 - 197… 加藤 まさを(かとう まさを、1897年4月8日 - 1977年11月1日)は、日本の画家、詩人、小説家、イラストレーター。本名は正男。別名、藤枝春彦、蓮芳夫。立教大学在学中の1919年(大正8年)に刊行した『アンデルセン童話』、『花の精』などの絵はがきで一躍有名となり、大正末期から昭和初期にかけて、竹久夢二、高畠華宵、蕗谷虹児らとともに抒情画の全盛時代を築いた。童謡『月の沙漠』の作詞家としても知られる。 1897年(明治30年)4月8日、静岡県志太郡西益津村田中(現・藤枝市大手)に生まれる。幼少期を祖父母と共に藤枝で過ごす。父は浦和中学の教師を務めたが、後に東京の小学校校長を務めた。西益津尋常高等小学校(現在の藤枝市西益津小学校)3学年を終了後、1910年(明治43年)に父母のもとに上京し、早稲田中学校に入学。
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赤松 月船(あかまつ げっせん、1897年3月22日 - 1… 赤松 月船(あかまつ げっせん、1897年3月22日 - 1997年8月5日)は、日本の詩人、曹洞宗僧侶。梅花流詠讃歌で知られる。岡山県浅口郡鴨方村(現・浅口市)出身。旧名は藤井卯七郎。 小学校卒業と同時に井原の善福寺の住職赤松仏海の養子となり、13歳で得度、1914年(大正3年)から新居浜の瑞応寺で修行、1916年から大本山永平寺で修行。1918年(大正7年)、僧籍を離れ上京して生田長江に師事。文学上の友人としては村井武生がいる。佐藤春夫、室生犀星らと知り文学活動を始め、『紀元』『文藝時代』などに参加。 1936年、岡山県に帰り、洞松寺(矢掛町)、善福寺の住職。1950年、曹洞宗特派布教師。1951年、正教師。
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河本 緑石(かわもと ろくせき、本名:河本義行〈かわもと よ… 河本 緑石(かわもと ろくせき、本名:河本義行〈かわもと よしゆき〉、1897年〈明治30年〉3月21日 - 1933年〈昭和8年〉7月18日)は、日本の自由律俳句の俳人・詩人。『層雲』の荻原井泉水に師事した。鳥取県東伯郡社村(現・倉吉市)出身。 鳥取県東伯郡社村(現・倉吉市)に父定吉、母政野の次男として生まれる。長男が夭折したため跡取りとして育てられる。幼少期に従兄・河本謹一郎の感化を受けて俳句を作りはじめる。この頃の句は定型であったといわれているが現存しない。社尋常高等小学校(現・倉吉市立社小学校)卒業後、1911年4月に鳥取県立倉吉中学校(現・鳥取県立倉吉東高等学校)に入学。同校在学中に東郷湖横断競泳の記録を残している。
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北村 初雄(きたむら はつお、 1897年〈明治30年〉2月… 北村 初雄(きたむら はつお、 1897年〈明治30年〉2月13日 - 1922年〈大正11年〉12月2日)は、大正期の日本の詩人。 東京市麹町区飯田町(現・東京都千代田区飯田橋)で、北村七郎の長男として生まれる。 横浜市南太田町(現・南区内)で育ち、1903年に横浜市老松小学校(現・横浜市立本町小学校)に入学した。 1912年に神奈川県立第一横浜中学校(現・神奈川県立希望ケ丘高等学校)に進む。中学校在学中から三木露風に師事した。 1917年に中学校を卒業し、東京高等商業学校(現・一橋大学)予科に入学した。1921年に同校本科を卒業して、三井物産に入社したが、1922年に結核のため鵠沼の旅館東屋に転地療養し、同年死去した。
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中村 雨紅(なかむら うこう、1897年1月7日〈戸籍上は2… 中村 雨紅(なかむら うこう、1897年1月7日〈戸籍上は2月6日〉- 1972年5月8日)は、日本の大正期の詩人・童謡作家である。 本名は、髙井 宮吉(たかい みやきち、出版物など一般的には「高井 宮吉」と表記される)。東京府南多摩郡恩方村(現在の東京都八王子市上恩方町)出身。代表作は、故郷恩方の風景を歌った『夕焼小焼』。1919年に作詞し、1923年に草川信が曲をつけた。 宮尾神社(現在の東京都八王子市上恩方町2089、八王子市「夕やけ小やけふれあいの里」に隣接)の宮司・髙井丹吾(たかい たんご)とその妻・シキの間の三男として生まれる。宮尾神社の社務所で生まれたことから「宮吉」と命名された。
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宮崎 丈二(みやざき じょうじ、1897年1月6日 - 19… 宮崎 丈二(みやざき じょうじ、1897年1月6日 - 1970年3月25日)は、日本の詩人、画家。 千葉県銚子市生まれ。専修大学中退。号・冬花亭。「白樺」の影響を受けて文学に関心を抱く。武者小路実篤の「新しき村」運動に参加する。1920年(大正9年)2月千家元麿、中川一政らと雑誌『詩』を創刊し「冬が来た」「機関車」などを発表。1924年(大正13年)『爽かな空』を刊行。1927年(昭和2年)より雑誌『河』を主宰。他の詩集に『独坐』がある。画家としては1919年(大正8年)草土社展に入選し、同人となる。世俗的名声を求めず、詩壇や画壇にも頓着しなかった。晩年は銚子市清水町で暮らした。
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郁達夫(いく たつふ/いく たっふ/いく たっぷ、拼音:Yù… 郁達夫(いく たつふ/いく たっふ/いく たっぷ、拼音:Yù Dá-fū、1896年12月7日 - 1945年9月17日)は、浙江省富陽県出身の中国の近代の小説家、文章家、詩人。達夫は字で、本名は郁文 (いく ぶん)。 郁達夫は本名を郁文といい、浙江省富陽県満洲街(現在の達夫街)のインテリ一家の三男(郁家19世)として生まれた。(長兄 郁華、次兄 郁浩) 3歳の時に父が亡くなり、家が貧しくなったが7歳の時に塾に入り、9歳の時には賦詩を作るようになった。また、富陽県立高等小学に学び、之江大学予科に進学し、杭府中学に入学した(徐志と同学年である)。1913年長兄の郁華に従って、日本に留学した。ここまでの郁達夫の生活は、自伝「わが夢わが青春」に詳しく描かれている 。
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矢野目 源一(やのめ げんいち、1896年11月30日 - … 矢野目 源一(やのめ げんいち、1896年11月30日 - 1970年10月12日)は、日本の詩人、作家、翻訳家。 陸軍中将矢野目孫一の長男として東京に生まれる。慶應義塾大学仏文科卒。フランソワ・ヴィヨンの詩に現れる娼婦の詩を「玉造小町」になぞらえて「兜屋小町」として訳出し、鈴木信太郎に絶賛された。『詩王』『オルフェオン』などに詩を発表し、1920年詩集『光の処女』を刊行する。1931年創刊の『文藝汎論』のカラーページに、城左門、岩佐東一郎らと執筆する。慶大では奥野信太郎と同期で、戦後は艶笑小噺などを書いたほか、ハウザー式と称する健康法などの講演・執筆活動を行い、奇人とされている。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
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保阪 嘉内(ほさか かない、1896年〈明治29年〉10月1… 保阪 嘉内(ほさか かない、1896年〈明治29年〉10月18日 - 1937年〈昭和12年〉2月8日)は、日本の詩人。宮沢賢治の親友として知られ、賢治の代表作とされる『銀河鉄道の夜』のカムパネルラのモデルとも言われる。 山梨県北巨摩郡駒井村(現:韮崎市)出身。父は郡役所書記であった。韮崎高等小学校から1910年に山梨県立甲府中学校(現:山梨県立甲府第一高等学校)に進む。星の和名に詳しい野尻抱影に英語を教わり、また文芸同人誌に作品を発表していた。中学入学の年にハレー彗星の最接近を観察しスケッチをつけた。 1915年に甲府中学を卒業すると、東北帝国大学札幌農科大学(現:北海道大学)を受験するが不合格となり、翌1916年に盛岡高等農林学校農学科第二部に入学する。
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