石山 透(いしやま とおる、1927年〈昭和2年〉5月15日… 石山 透(いしやま とおる、1927年〈昭和2年〉5月15日 - 1985年〈昭和60年〉12月3日)は、日本の脚本家。主に1960年代、70年代にNHKテレビの少年少女ドラマで人気を博した。北海道小樽市出身。本名は笹岡幸司。 9歳で神奈川県に移住。科学を志し、東京高等学校理科に学ぶが断念、卒業後は学友の熊倉一雄らとともに劇団「感覚座」を主宰。このころから脚本・演出も手がける。1950年頃から、ラジオ・テレビを中心に脚本家としての活動を開始。 1952年にNHK札幌放送劇団に入団。同局の専属作家となり、1956年にラジオドラマ『パイロット・ファーム』で文部省芸術祭奨励賞受賞。1959年にNHK東京の専属作家となり、同年の『ピエロが泣いた』でテレビのシナリオ作家としてデビュー。
笠原 和夫(かさはら かずお、1927年5月8日 - 200… 笠原 和夫(かさはら かずお、1927年5月8日 - 2002年12月12日)は、日本の脚本家。東京府日本橋出身。日本大学中退。 裸電球を一つを灯した部屋に壁に作品の時間軸を記した巻物を壁に貼り執筆した。 第二次世界大戦後まもない頃に、大日方傳の経営していたキャバレーで従業員兼用心棒をしていた[要出典]。晩年にも日本の政治などの現状を憂いており、「戦後、暗殺事件がもっとあったなら、今よりは良い社会になっていたかもしれない。」と発言。 生前、自身の脚本について「ストーリーではなく、怒りを売っている。鬱屈したものを叩きつけている」と発言し、「大衆は、作っている人間の情念、怨念、恨みつらみを受け止めている」と語っていた。
矢代 静一(やしろ せいいち、1927年〈昭和2年〉4月10… 矢代 静一(やしろ せいいち、1927年〈昭和2年〉4月10日 - 1998年〈平成10年〉1月11日)は、日本の劇作家、脚本家、演出家。日本文芸家協会、日本演劇協会の各会員。 東京市京橋区尾張町二丁目(現:中央区銀座六丁目)のヨシノヤ靴店(銀座ヨシノヤ)の2階で、父・矢代乙吉、母・園子の長男として誕生。祖父はヨシノヤ靴店の創業者であった。日比谷幼稚園・泰明小学校・東京府立第五中学校から第二早稲田高等学院を経て、1950年に早稲田大学文学部仏文科を卒業。 早稲田高等学院在学中の1944年(昭和19年)に診断書を偽造して大学を休学し、俳優座研究生となる。のち、戦時下の移動劇団に加わる。移動演劇隊の『父帰る』(菊池寛原作)などで主役を張ったが、東野英治郎の薦めで演出部に転向する。
若城 希伊子(わかしろ きいこ、1927年4月4日 - 19… 若城 希伊子(わかしろ きいこ、1927年4月4日 - 1998年12月22日)は、日本の作家、評論家、脚本家、翻訳家。 東京都渋谷区生まれ。日本女子大学卒、慶應義塾大学文学部国文科卒、折口信夫に学んだ。脚本家として活動するほか、映画ノベライズを翻訳。 1971年ラジオドラマ「青磁の色は空の色」で芸術祭優秀賞受賞。以後小説、ノンフィクション、評論などを刊行、最初の単行本『十五歳の絶唱』はロングセラーとなった。1978年『ガラシャにつづく人々』で第79回直木賞候補、1983年『小さな島の明治維新』で第2回新田次郎文学賞受賞。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
土居 通芳(どい みちよし、1926年12月9日 - 197… 土居 通芳(どい みちよし、1926年12月9日 - 1975年3月16日)は、日本の映画監督、脚本家である。脚本執筆時のペンネームは北 一郎(きた いちろう)。シャンソン歌手の石井好子は義姉(土居の兄の妻)。仲間内からはツーホーさんの愛称で親しまれた。 1926年(大正15年)12月9日、東京に生まれる。 1948年(昭和23年)、上智大学経済学部を卒業後、新東宝に入社、助監督となる。おもに阿部豊、渡辺邦男に師事し、1954年(昭和29年)チーフ助監督となるかたわら、脚本も執筆する。 1958年(昭和33年)、監督に昇進、高倉みゆき主演の『不如帰』で映画監督としてデビューする。土居は大蔵貢社長の大のお気に入り監督で、デビュー作でいきなりカラー・シネスコ大作の担当となった。
鈴木 生朗(すずき いくろう、1926年11月25日 - 2… 鈴木 生朗(すずき いくろう、1926年11月25日 - 2014年12月28日)は、日本の脚本家。東京都出身。早稲田大学商学部卒。 大学卒業後、京都に移住し脚本家として活動を開始。主に時代劇を多く手掛けた。映画・テレビドラマのほか、テレビアニメ『佐武と市捕物控』にも参加している。 時代劇以外では、仮面ライダーシリーズも担当。同じく東映制作の『変身忍者 嵐』も含め、吸血怪人が登場する回を執筆することが多かった。第1作『仮面ライダー』では、関西在住であったことから、第71話から第73話の関西ロケ編のシナリオハンティングも行った。
今村 昌平(いまむら しょうへい、1926年〈大正15年〉9… 今村 昌平(いまむら しょうへい、1926年〈大正15年〉9月15日 - 2006年〈平成18年〉5月30日)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサー、日本映画学校(現:日本映画大学)の創設者。同姓同名の別人で映画関係者(小道具関連)がいる。日本映画監督協会会員。 カンヌ国際映画祭で2度の最高賞を受賞した日本を代表する映画監督の一人。松竹、日活を経て、独立プロダクションの株式会社今村プロダクションの代表取締役を務めていた。映画監督の長谷川和彦は正社員として所属した。 性格的には家父長志向が強く、そのことは一面では教育者としての顔も持ち合わせ、長谷川和彦を育て、映画人を育成する横浜映画専門学院を創立、後に日本映画学校となり、日本映画大学の母体となった。
馬場 当(ばば まさる、1926年7月17日 - 2011年… 馬場 当(ばば まさる、1926年7月17日 - 2011年6月29日)は、日本の映画脚本家。井上和男と共に「“松竹ヌーベルバーグ”の先駆け的映画人」と称される。 1926年、東京都に生まれる。 1948年、横浜専門学校(現・神奈川大学)法学科卒業後、後に映画監督への道を歩む井上和男と同期で松竹大船撮影所脚本部に入る。 1957年にはフリーとなった。 映画『復讐するは我にあり』(1979年、松竹)で第3回日本アカデミー賞最優秀脚本賞など各賞を受賞する。 2011年6月29日に悪性リンパ腫のため死去。 この項目は、映画監督に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。
高橋 二三(たかはし にいさん、1926年〈大正15年〉2月… 高橋 二三(たかはし にいさん、1926年〈大正15年〉2月3日 - 2015年〈平成27年〉5月5日)は、日本の脚本家。本名:高橋 幸人(たかはし ゆきと)。群馬県佐波郡玉村町出身。 1960年代の大映や松竹映画で活躍し、84本の映画脚本を手がけた。特に1965年から6年続いた特撮怪獣映画の「ガメラシリーズ」では、科学考証を無視したキャラクタライズしたシナリオで、「怪獣ガメラ」を東宝の「ゴジラ」と双璧をなす人気怪獣へと押し上げた。1970年代に入るとテレビ番組を数多く手がけた。 「ガメラシリーズ」の湯浅憲明監督は、「怪獣の登場する映画で科学考証など意味がないと、高橋さんと打ち合わせて脚本作りを行った。
成島 東一郎(なるしま とういちろう、1925年〈大正14年… 成島 東一郎(なるしま とういちろう、1925年〈大正14年〉11月19日 - 1993年〈平成5年〉10月8日)は、日本の撮影監督、映画監督・脚本家。 東京都出身。東京物理学校卒(現在の東京理科大学)。 1947年松竹大船撮影所撮影部に入社、木下惠介、楠田浩之に師事し、日本初のカラー映画1951年『カルメン故郷に帰る』、1958年「楢山節考(共に監督 木下惠介、撮影 楠田浩之)」に撮影助手として参加。1960年に『ろくでなし』(監督 吉田喜重)で撮影技師として独り立ち、吉田喜重・篠田正浩・大島渚ら"松竹ヌーヴェルヴァーグ派"の監督たちの代表作を多く手掛けた。 代表作は『秋津温泉』(監督:吉田喜重)、『古都』『紀ノ川』(監督:中村登)、『心中天網島』(監督:篠田正浩)、『儀式』『戦場のメリークリスマス』(監督:大島渚)など。
宮川 一郎(みやがわ いちろう、1925年11月18日 - … 宮川 一郎(みやがわ いちろう、1925年11月18日 - 2008年12月12日)は、日本の脚本家。本名は眞木壮介(まき そうすけ)。岐阜県飛騨市古川町出身。 東京大学文学部卒業後、新東宝企画部に入社。助監督、宣伝担当、企画担当を経て、1957年の『鋼鉄の巨人』を皮切りに『隠密将軍と喧嘩大名』や『人形佐七捕物帖 裸姫と謎の熊男』『地獄』(中川信夫監督)などを執筆。1961年の新東宝倒産時に同社を退社し、中川信夫から「この男は使える」と東映に推薦され、東大の先輩・岡田茂プロデューサーにホンを読んでもらったら「お前のシナリオは説教くさい。面白いとこだけつなげろ」と大蔵貢と同じことを言われ娯楽映画の本質を学び、書き直して再提出し1963年に東映と契約した。
瀬川 昌治(せがわ まさはる、1925年10月26日 - 2… 瀬川 昌治(せがわ まさはる、1925年10月26日 - 2016年6月20日)は、日本の映画監督、脚本家、舞台演出家。喜劇映画の名手とされ、1960年代に数多くの喜劇シリーズを監督した。 1925年10月26日、東京市神田区神保町(現在の東京都千代田区神田神保町)の官吏の家に生まれる。学習院初等科、中等科に学び、一学年上の三島由紀夫などと交流する。学習院高等科 (旧制)在学中に陸軍船舶兵として応召。終戦後、東京帝国大学(現・東京大学)文学部英文科に入学するが、在学中は野球部のレギュラー外野手として活躍し、東京六大学野球リーグ戦にも出場した(東京大学野球部出身の映画監督としては、他に井坂聡や秋原正俊らがいる)。
小野田 嘉幹(おのだ よしき、1925年7月12日 - )は… 小野田 嘉幹(おのだ よしき、1925年7月12日 - )は、日本の映画監督、脚本家。弟は平田昭彦、妹は音羽美子。妻は三ツ矢歌子(2004年死別)。 1925年(大正14年)7月12日、東京府東京市(現在の東京都)に「小野田正彦」として生まれる。誕生後に朝鮮(現在の大韓民国)に渡り、2年後の1927年(昭和2年)12月16日には京城府(現在のソウル特別市)で弟の昭彦が生まれている。さらに5年後の1932年(昭和7年)7月6日には妹の和子(のちの音羽美子)が生まれている。 東海科学専門学校(現東海大学)卒業後、1947年(昭和22年)に新東宝助監督部に入社した。本名の「小野田正彦」で、黒澤明、稲垣浩、並木鏡太郎、冬島泰三らの作品で助監督を務め、1958年(昭和33年)、富士映画製作、若山富三郎主演の中篇映画『楠公二代誠忠録』で監督としてデビュー、同年、現在の「小野田嘉幹」に改名し、『人喰海女』を監督した。
長谷川 公之(はせがわ きみゆき、1925年6月25日 - … 長谷川 公之(はせがわ きみゆき、1925年6月25日 - 2003年6月15日)は、日本の脚本家、美術評論家。 東京都生まれ。旧制府立高等学校を経て、千葉医科大学医学部卒業。警視庁刑事部鑑識課法医学室に勤務した経験を活かして、科学捜査と論理的な推理を基本にした東映の『警視庁物語』シリーズ24作品やTBSテレビの『七人の刑事』など数々のテレビドラマの脚本を書いた。映画の原作となる小説や映画のノベライズ作品も書いている。一方、美術評論家としても知られる。 日本シナリオ作家協会、日本推理作家協会、東洋陶磁学会、各会員。 1950年、警視庁に入庁し、刑事部鑑識課法医学室で検死作業に従事する。一方、学生時代の著作が映画化されたことをきっかけに脚本家としての活動を並行し、警視庁総務部広報課をへて、1957年に筆業に専念するため警視庁を退職した。
橋田 壽賀子(はしだ すがこ、1925年〈大正14年〉5月1… 橋田 壽賀子(はしだ すがこ、1925年〈大正14年〉5月10日 - 2021年〈令和3年〉4月4日)は、日本の脚本家、劇作家、タレントである。本名:岩崎 壽賀子(いわさき すがこ)(旧姓:橋田)。位階は従三位。静岡県熱海市名誉市民。 1949年(昭和24年)、松竹に入社し、脚本部に配属される。1964年(昭和39年)『袋を渡せば』でテレビドラマの脚本家デビュー。同年、東芝日曜劇場のために執筆した『愛と死をみつめて』の脚本が話題となって以後、テレビドラマの脚本家として話題作・ヒット作の数々を世に送り出した。 代表作は『おんな太閤記』、『おしん』、『いのち』、『橋田壽賀子ドラマ おんなは一生懸命』、『春日局』、『渡る世間は鬼ばかり』、『橋田壽賀子スペシャル 源氏物語 上の巻・下の巻(光源氏第1部・第2部)』、『おんなは度胸』、『春よ、来い』、『なるようになるさ。
山内 久(やまのうち ひさし、1925年〈大正14年〉4月2… 山内 久(やまのうち ひさし、1925年〈大正14年〉4月29日 - 2015年〈平成27年〉9月29日)は、東京府(現・東京都)出身の脚本家。 父は弁士の山野一郎(本名:山内幸一)、兄は俳優の山内明、弟は作曲家の山内正、妻は脚本家の野田高梧の娘で脚本家の立原りゅうである。作曲家の小杉太一郎は義弟(妹の夫)、エッセイストの山内美郷は姪(兄の子)にあたる。 脚本を担当した「幕末太陽伝」(日活、1957年)の公開時はまだ松竹に在籍していたため、「田中啓一」というペンネームを使用しており、「盗まれた欲情」「果しなき欲望」(共に日活、1958年)の際には「鈴木敏郎」というペンネームを使用している。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
松山 善三(まつやま ぜんぞう、1925年4月3日 - 20… 松山 善三(まつやま ぜんぞう、1925年4月3日 - 2016年8月27日)は、映画監督、脚本家。 神戸に生まれ、横浜で育つ。 1944年、横浜第三中学校(現:神奈川県立横浜緑ケ丘高等学校)卒業。中学校の同期生に佐野浅夫(俳優)がいる。その後、岩手医学専門学校(現・岩手医科大学)薬学部に入学するが、1946年中退。雑誌社でアルバイトをしているときに、斎藤良輔門下の脚本家と知り合い、映画に興味を持つ。 1948年、助監督公募に合格して松竹大船撮影所助監督部に入社する。中村登、吉村公三郎につくかたわら、同期入社の斎藤武市、中平康、鈴木清順らと「赤八会」というグループを作り、同人雑誌にシナリオを発表する。
石川 義寛(いしかわ ぎかん、1925年〈大正14年〉3月2… 石川 義寛(いしかわ ぎかん、1925年〈大正14年〉3月23日 - 2024年〈令和6年〉)は、日本の映画監督、脚本家。 静岡県富士宮市出身。日本大学法文学部政治経済学科卒業後、映画界に入る。1957年『怪談かさねが渕』、1958年『毒婦高橋お伝』、『憲兵と幽霊』、『女吸血鬼』、(『亡霊怪猫屋敷』脚本)、1959年『東海道四谷怪談』助監督を経て1960年『怪猫お玉ヶ池』で監督を務める。 2024年死去、99歳。 『酒をたしなみ糖尿病とも闘う 人生は“心”楽しく』健友館 2001年 ISBN 978-4773705782
成沢 昌茂(なるさわ まさしげ、1925年(大正14年)1月… 成沢 昌茂(なるさわ まさしげ、1925年(大正14年)1月29日 - 2021年(令和3年)2月13日)は、日本の脚本家、映画監督。 長野県上田市原町出身。上田市長をつとめた成沢伍一郎の二男。旧制上田中学(長野県上田高等学校)卒業後、1941年に松竹京都に入社、溝口健二に師事する。1944年、日本大学芸術学部卒業。 学徒出陣し捕虜生活を経て1945年に復員。1946年、松竹を退社。1952年に溝口にならって大映と契約、溝口の『噂の女』『新・平家物語』『赤線地帯』など、次々と巨匠と組んで名脚本を書き続けた。1962年、『裸体』で監督に転身、5作品を残す。1970年以降は映画から離れ、1975年から1977年にかけてNHK連続人形劇『真田十勇士』(柴田錬三郎原作)を担当。
増村 保造(ますむら やすぞう、1924年8月25日 - 1… 増村 保造(ますむら やすぞう、1924年8月25日 - 1986年11月23日)は、日本の映画監督、脚本家である。 山梨県甲府市出身。旧制甲府中学から旧制第一高等学校を経て東京大学法学部を卒業。東大法学部時代の知人に三島由紀夫がいる。 1947年、大映に助監督として入社。東京大学文学部哲学科に再入学。1952年、イタリア留学、イタリア国立映画実験センターでフェデリコ・フェリーニやルキノ・ヴィスコンティらに学ぶ。帰国後、溝口健二や市川崑の助監督として参加。1957年、『くちづけ』で監督デビュー。監督第2作『青空娘』より若尾文子とタッグを組み、『妻は告白する』『清作の妻』『「女の小箱」より 夫が見た』『赤い天使』『卍』『刺青』などの佳作にして重要な作品群を残す。
楠田 芳子(くすだ よしこ、1924年(大正13年)3月12… 楠田 芳子(くすだ よしこ、1924年(大正13年)3月12日 - 2013年(平成25年)12月3日)は、日本の脚本家。 1924年(大正13年)、静岡県浜松市出身。木下恵介(映画監督)と木下忠司(作曲家)は兄。 1942年(昭和17年)、実践女子専門学校家政研究科を卒業。1944年(昭和19年)、楠田浩之(映画カメラマン)と結婚した。楠田泰之(テレビプロデューサー・演出家)は息子である。 1965年から木下恵介プロダクション(ドリマックス・テレビジョンの前身)に参加し、1970年にフリーとなる。1993年(平成5年)には「シナリオ功労賞(第17回)」を受賞した。 2013年12月3日に死去。
石井 輝男(いしい てるお、男性、1924年〈大正13年〉1… 石井 輝男(いしい てるお、男性、1924年〈大正13年〉1月1日 - 2005年〈平成17年〉8月12日)は、日本の映画監督・脚本家である。本名は北川 輝男(きたがわ てるお)。
三田 純市(みた じゅんいち、1923年12月22日 - 1… 三田 純市(みた じゅんいち、1923年12月22日 - 1994年9月1日)は、日本の落語作家・研究者、演芸作家、脚本家、随筆家。 本名は野村全作(旧姓:三田)。俳号は「道頓」。三田純一と名乗っていた時期もある。 大阪府大阪市南区、道頓堀の芝居茶屋「稲照」の長男に生まれる。1946年、慶應義塾大学経済学部卒業。朝日新聞社販売部に勤務、1951年に退社。松竹新喜劇の曾我廼家十吾、2代目渋谷天外に師事し喜劇の台本を手がけるようになる。 1967年から1982年には東京に在住し、1969年には東京やなぎ句会の創設に参加。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
阿部 桂一(あべ けいいち、1923年11月11日 - 19… 阿部 桂一(あべ けいいち、1923年11月11日 - 1991年8月15日)は、日本の脚本家である。 筆名は別に新井 啓(あらい けい)がある。日本シナリオ作家協会会員・功労賞受賞者、日本放送作家協会会員、日本脚本家連盟信託者。フジテレビジョン映画部の五社英雄が手がけたテレビ映画『トップ屋』、『刑事』で頭角を現し『三匹の侍』の成功で知られる。テレビの代表作はほかに『SFドラマ 猿の軍団』、『佐武と市捕物控』等、劇場用映画の代表作には『花と怒濤』等がある。 1923年(大正12年)11月11日、宮城県に生まれる。『放送作家年鑑 1966』の阿部の項には東京府(現在の東京都)に生まれた旨の記述がある。
隆 慶一郎(りゅう けいいちろう、1923年〈大正12年〉9… 隆 慶一郎(りゅう けいいちろう、1923年〈大正12年〉9月30日 - 1989年〈平成元年〉11月4日)は、日本の脚本家、小説家(時代小説作家)。本名は池田 一朗(いけだ いちろう)。本名で脚本、隆慶一郎のペンネームで小説を執筆していた。 東京市赤坂区生まれ。旧制同志社中学、第三高等学校を経て、東京大学文学部仏文科卒。 戦時中は学徒出陣で出征、陸軍士官として中国大陸を転戦した。この時期に陣中に持って行った『葉隠』が、作家として『死ぬことと見つけたり』を書くきっかけとなった。終戦後、復学して1948年 東京大学卒業、大学時代に師事していた小林秀雄が参画していた創元社(のちの東京創元社)に入社する。
野長瀬 三摩地(のながせ さまじ、1923年8月30日 - … 野長瀬 三摩地(のながせ さまじ、1923年8月30日 - 1996年5月23日)は、日本のテレビ監督、脚本家。京都府京都市出身。別名:南川 竜、南川 龍。 父は大正画壇で活躍した野長瀬晩花。伯父はトピー工業創業者の一人である野長瀬忠男。 野長瀬氏の末裔で、本名の三摩地は仏教用語のサマディー(三昧)にちなんで名付けられた。 幼少より父に連れられてよく映画を観に行き、映画制作の道を志す。 1946年に日本大学芸術学部映画学科を卒業し、東宝に入社。渡辺邦男、青柳信雄、本多猪四郎らの助監督を務め、主に杉江敏男監督作品に従事。黒澤明監督の『蜘蛛巣城』『どん底』(1957年)、『隠し砦の三悪人』(1958年)ではチーフ助監督を務めた。
井上 梅次(いのうえ うめつぐ、1923年5月31日 - 2… 井上 梅次(いのうえ うめつぐ、1923年5月31日 - 2010年2月11日)は、日本の映画監督、脚本家、作詞家である。 京都市生まれ。京都市立第一商業学校を卒業後、慶應義塾大学経済学部に入学するも、1943年応召、1945年に復学して1947年に卒業。在学中から出入りしていた新東宝に正式に入社。自作の脚本を盛んに売り込み、1952年、わずか5年で『恋の応援団長』で監督に昇進。雪村いづみの音楽映画などを手掛けた。 1955年、日活に移籍。当時売り出し中の石原裕次郎の映画を担当し、『嵐を呼ぶ男』が大ヒット。裕次郎は大スターとしての地位を確立した。 1960年フリーになり、新東宝、日活以外の邦画四社で活躍。
曲谷 守平(まがたに もりへい、1923年5月23日 - )… 曲谷 守平(まがたに もりへい、1923年5月23日 - )は、日本の映画監督、脚本家である。 1923年(大正12年)5月23日、東京府荏原郡大井町(現在の東京都品川区大井)に生まれる。 慶應義塾大学経済学部卒業。 第二次世界大戦後、東宝争議中の東宝の第三組合(新東宝の前身)でアルバイトしていた関係から、1947年(昭和22年)3月に新東宝映画製作所(のちの新東宝)演出部に入社する。助監督として斎藤寅次郎に師事し、斎藤監督のもと、太泉映画(現在の東映東京撮影所)演出部に出向したこともある。斎藤のほか、阿部豊、中川信夫、並木鏡太郎といったヴェテランたちにも師事し、チーフ助監督に昇進した。 1956年(昭和31年)には、監督に昇進、『美男をめぐる十人の女』で監督としてデビューする。
池宮 彰一郎(いけみや しょういちろう、1923年5月16日… 池宮 彰一郎(いけみや しょういちろう、1923年5月16日 - 2007年5月6日)は、日本の脚本家、小説家。 本名の池上 金男(いけがみ かねお)で脚本家として活動、『十三人の刺客』など数多くの映画・テレビドラマの制作に関わった。1992年に小説『四十七人の刺客』を発表して以降、池宮彰一郎のペンネームを用いて歴史小説を著したが、2002年に司馬遼太郎作品との類似問題により活動をほぼ停止した。作家の池上司は息子。 東京府に生まれる。静岡県沼津市に育ち、静岡県立沼津商業学校(現・静岡県立沼津商業高等学校)を卒業する。 第二次世界大戦中は満州で陸軍に徴兵される。兵舎に放火して南方送りとなり、ペリリュー島逆上陸作戦に参加、3000名いた部隊で生き残ったのは20~30名だったという。
山田 隆之(やまだ たかゆき、1923年5月14日 - 19… 山田 隆之(やまだ たかゆき、1923年5月14日 - 1994年5月16日)は、日本の脚本家。 青森県八戸町出身。八戸中学を卒業後、早稲田大学に進学、在学中の1943年に学徒出陣する。復員後、八戸に戻り、終戦後は地元で劇団を設立し、演出などを担当するかたわら、役者として自ら出演もしていた。 1949年に上京し、ラジオドラマの脚本を書くようになり、その後、テレビ時代への移行とともにテレビドラマ(主に時代劇)の脚本を書くようになる。 1994年5月16日、埼玉県秩父市の自宅で死去。
大西 秀明(おおにし しゅうめい、1923年5月3日 - 没… 大西 秀明(おおにし しゅうめい、1923年5月3日 - 没年不詳)は、日本の映画監督、脚本家、映画製作者である。当初、本名の大西 三郎(おおにし さぶろう)で俳優として活動、戦後、上記の筆名で助監督から監督へ昇進、のちに大西 孝典(おおにし こうてん)、橋本 忠典(はしもと ちゅうてん)とも名乗る。 1923年(大正12年)5月3日、京都府南桑田郡亀岡町(現在の同府亀岡市)に生まれる。 1938年(昭和13年)3月、旧制・亀岡尋常高等小学校(現在の亀岡市立亀岡小学校)を卒業、その3年後の1941年(昭和16年)、京都・太秦の日活京都撮影所(のちの大映京都撮影所)に入社、俳優課に配属される。「持ち前の明るい人柄」を評価され、前年に自らのプロダクションを解散して日活に入社して当時同社の看板スターだった片岡千恵蔵の内弟子になる。
関 喜誉仁(せき きよひと、1923年4月13日 - 没年不… 関 喜誉仁(せき きよひと、1923年4月13日 - 没年不詳)は、日本の映画監督、脚本家である。旧漢字表記関 喜譽仁、別名に沖 全吉(おき ぜんきち)、沖 弘次(おき こうじ)。 allcinema等での読み「せき きよじ」は誤りである。 1923年(大正12年)4月13日、関東州大連市(現在の中華人民共和国遼寧省大連市)に生まれる。 旧制中学校に在学中、校内での月1度の選定上映で映画に夢中になり、東京に出て、日本大学法文学部芸術学科映画専攻(現在の日本大学藝術学部映画学科)に入学する。同学在学中に、マキノ雅弘(当時は正博)に個人的に師事する。関が満18歳であった1941年(昭和16年)12月8日に太平洋戦争が開戦し、やがて戦況は激化、応召して1944年(昭和19年)9月に同学を繰り上げ卒業する。
須藤 出穂(すどう いずほ、1923年(大正12年)3月29… 須藤 出穂(すどう いずほ、1923年(大正12年)3月29日 - 1998年(平成10年)7月10日)は、日本の脚本家。 東京出身。当時、富岡に疎開していた陸軍中野学校に入学し終戦を迎える。東京大学に入学し、1950年文学部国史学科卒業。在学中の1949年にNHK専属ライター室に入り、ラジオドラマを手がける。その後、テレビドラマにも進出。1989年には、準公選制で選ばれ中野区教育委員に就任した。「風の会」会長。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
福田 純(、1923年〈大正12年〉2月17日 - 2000… 福田 純(、1923年〈大正12年〉2月17日 - 2000年〈平成12年〉12月3日)は、日本の映画監督、脚本家。満洲出身。日本大学芸術学部卒業。 1923年、中国吉林省長春県(現・長春市)で生を受ける。父が南満洲鉄道に勤務していたため、幼少期を満洲で過ごす。 1941年(昭和16年)、日本本土へ渡り、松山高等学校へ入学。1943年、日本大学に進学したが、講義にはほとんど出ず、1日の大半を読書と映画鑑賞に費やしていた。在学中、学徒動員に従事。第二次世界大戦中に外地で鑑賞した映画『無法松の一生』に感銘を受け、映画監督を志す。 1946年(昭和21年)、東宝へ入社。助監督募集を聞いて試験に参加し、200人が応募する中で合格であった。
柴田 吉太郎(しばた きちたろう、1922年12月18日 -… 柴田 吉太郎(しばた きちたろう、1922年12月18日 - 2004年8月7日)は、日本の映画監督、脚本家である。 1922年(大正11年)12月18日、北海道に生まれる。 1942年(昭和17年)、早稲田大学専門部を卒業する。1944年(昭和19年)、東宝撮影所(現在の東宝スタジオ)に入社、中川信夫らに師事した。 第二次世界大戦後、1947年(昭和22年)、新東宝の設立に参加、引き続き中川や清水宏らの助監督を務めた。 1961年(昭和36年)、新東宝が倒産する。同社のプロデューサーだった佐川滉が設立した佐川プロダクションが製作し、新東宝の配給部門を分社化して設立された大宝が配給した映画『黒と赤の花びら』で、1962年(昭和37年)、40歳で監督としてデビューした。
小沢 茂弘(おざわ しげひろ、1922年8月29日 - 20… 小沢 茂弘(おざわ しげひろ、1922年8月29日 - 2004年10月12日)は、日本の映画監督、脚本家、占い師、山伏。 戦後、日本映画の最盛期に娯楽性の高い作品を世に数々送り出し、職人監督と評されている。長野県東筑摩郡四賀村出身。 易者・山伏名:小沢 宏瑞(おざわ こうずい)、本名:小沢 茂美(おざわ しげよし)。 少年時代は松本市で上映される無声映画を頻繁に見ていた。1930年に旧制松本中学に入学。日本大学芸術科専門部映画科へ入学し、演劇科には三木のり平、映画科には沼田曜一がいた。在学中の17歳に映画研究会を作り、熊谷久虎・マキノ正博らに講演依頼をしたのが縁で、やがて正博の家に居候をし、薫陶を受ける。
内川 清一郎(うちかわ せいいちろう、1922年7月13日 … 内川 清一郎(うちかわ せいいちろう、1922年7月13日 - 2000年2月22日)は、日本の映画監督、脚本家である。 1922年(大正11年)7月13日、京都府宇治市菟道只川に生まれる。 1947年(昭和22年)に設立された新東宝で助監督を務める。1948年(昭和23年)からは市川崑、清水宏、小津安二郎らのチーフ助監督を務めた。 1950年(昭和25年)公開の『雪夫人絵図』では溝口健二監督のチーフ助監督に就いた。1949年(昭和24年)末にラストシーンを十和田の湖で撮影するという溝口とともにロケハンに出かけたが、既に雪が積もっており、危険だと止められたが溝口が聞き入れなかった。そのため、地元の猟師に案内してもらって雪の中を出掛けたが、積雪で歩行が困難なうえに溝口が谷に落ちるなどして大変な苦労をした。
キノ トール(1922年5月30日〈または5月31日〉 - … キノ トール(1922年5月30日〈または5月31日〉 - 1999年11月29日)は、日本の劇作家、脚本家、演出家。本名は木下 徹(きのした とおる)。東京都出身。テアトル・エコー顧問。妻は、産婦人科医、性医学評論家であるドクトル・チエコ(本名:木下 和子)。 出生時の姓名は松宮 徹。父は東京市世田谷区在住の松宮三郎。のちに木下荘()(満洲パルプ工業常務)の養子となる。俳優の松宮五郎(本名:隆)は、徹の実弟にあたる。 日本大学芸術学部卒業。第二次世界大戦中、予備学生として学徒出陣、海軍航空隊中尉で終戦を迎える。戦後、「独立劇場」設立。「東京青年劇場」を経てテアトル・エコーに入団。脚本家、演出家として劇団活動の基礎を築いた。
川部 修詩(かわべ しゅうじ、1922年4月17日 - 20… 川部 修詩(かわべ しゅうじ、1922年4月17日 - 2006年4月3日)は、日本の俳優、脚本家、映画評論家、雑誌編集者である。旧芸名川部 守一(かわべ しゅいち)。筆名の秋田 謙三(あきた けんぞう)では、テレビ台本の執筆、記録映画の製作を行う。日本映画ペンクラブ会員。麹町区第22代区長の川部爽介は実父である。 1922年(大正11年)4月17日、東京府豊多摩郡渋谷町(現在の東京都渋谷区)に生まれる。父の爽介は旧天童藩士で、川部が満3歳であった1925年(大正14年)8月に東京府東京市麹町区(現在の東京都千代田区)の区長に就任し、川部が満7歳を目前にし尋常小学校就学直前であった1929年(昭和4年)3月まで同職を務めた。
山田 達雄(やまだ たつお、1922年3月5日 - 1980… 山田 達雄(やまだ たつお、1922年3月5日 - 1980年6月6日)は、日本の映画監督、脚本家である。 1922年(大正11年)3月5日、兵庫県神戸市に生まれる。立教大学卒業。 京都の映画界に入り、伊藤大輔監督の門下となり助監督を務める。1947年(昭和22年)、新東宝で助監督となる。1950年(昭和25年)、中川信夫監督の『アマカラ珍騒動』等でチーフ助監督を務めた。 1956年(昭和31年)、監督に昇進し、嵐寛寿郎主演の『剣豪相馬武勇伝 檜山大騒動』で監督としてデビューした。1961年(昭和36年)の同社の倒産までに22本を監督した。1960年12月公開の『東海道非常警戒』について、映画評論家の水野和夫は、「脱出という主題を具体的な速度感で映像化して行くクライマックスのカット・バックは山田達雄監督自身が堕落した現代映画の枠から脱出するかのごとく見事」であり、「日本映画界の底辺にあると思われている人たちが、実は最も力をこめて日本映画の土台をかためていることを再認識して、僕は激しい感動を禁じえなかった。
須崎 勝彌 (すさき かつや、1922年1月1日 - 201… 須崎 勝彌 (すさき かつや、1922年1月1日 - 2015年1月9日)は、日本の脚本家・小説家。日本統治時代の朝鮮京城府生まれ。鹿児島県いちき串木野市串木野地域出身。別名義に須崎 勝弥。 父が三菱鉱業に勤め、京城支社にいる頃に生まれる。市来尋常高等小学校(現いちき串木野市立市来小学校)在学を経て、1939年(昭和14年)旧制京城中学校卒業。1942年(昭和17年)旧制第一高等学校卒業。東北帝国大学法学部在学中の1943年(昭和18年)に学徒出陣となり、1944年(昭和19年)に卒業扱い。学徒出陣では出水海軍航空隊に少尉で任官され、沖縄戦線に出撃するなどをして茨城県百里海軍航空隊で終戦を迎えた。
星川 清司(ほしかわ せいじ、本名:清(きよし)、1921年… 星川 清司(ほしかわ せいじ、本名:清(きよし)、1921年10月27日 - 2008年7月25日)は、日本の脚本家・小説家。
西條 文喜(さいじょう ふみき、1921年10月23日 - … 西條 文喜(さいじょう ふみき、1921年10月23日 - 1988年6月9日)は、日本の映画監督、脚本家、作詞家・詩人である。本名は伊奈 文喜(いな ふみき)、別名は鶴巻 次郎(つるまき じろう)。詩人としては本名を名乗った。 1921年(大正10年)10月23日、東京府東京市本郷区(現在の東京都文京区本郷)に生まれる。伯父に作詞家の西條八十(1892年 – 1970年)、叔父に映画監督の伊奈精一(1898年 – 1962年)がいる。 旧制・駒込中学校(現在の駒込高等学校)に進学、叔父・伊奈精一の影響により幼少より映画に親しみ、1940年(昭和15年)3月、同校を卒業するとともに、叔父の紹介を得て、同年4月、新興キネマに入社する。
赤坂 長義(あかさか ながよし / -ちょうぎ、1921年1… 赤坂 長義(あかさか ながよし / -ちょうぎ、1921年1月3日 - 1994年6月26日)は、日本の脚本家、映画監督、テレビドラマ演出家、著述家、大学教官である。日本映像学会会員。 1921年(大正10年)1月3日、東京府東京市神田区小川町(現在の東京都千代田区神田小川町)に、神保町の東京堂(現在の東京堂書店)支配人の子息として生まれる。 旧制・第一高等学校在学時の1940年(昭和15年)に、橋川文三と同級であり、橋川に保田與重郎の『後鳥羽院』等の著作を勧めている。自らも詩作を行い、『歴程』同人であった。第二次世界大戦中の1942年(昭和17年)、同校を卒業して東京帝国大学(現在の東京大学)文学部に進学した。
松浦 健郎(まつうら たけお/けんろう、1920年9月29日… 松浦 健郎(まつうら たけお/けんろう、1920年9月29日 - 1987年5月7日)は、日本の脚本家、小説家。 埼玉県秩父郡大滝村大血川(現・秩父市)出身。1942年日本大学専門部国文科中退、満州映画協会に入社。1944年東宝に移籍し、黒澤明、山本薩夫らの助監督を務める。1948年脚本家に転向、代表作に「風速40米」(1958年)、「電光石火の男」(1960年)、「青年の椅子」(1962年)など。弟子に雪室俊一、曽田博久がいる。1966年からは小説も書いた。 生涯に映画脚本を約170本、テレビなどの脚本を含めると約340本を手掛けた敏腕だったが、その作業は弟子との共同作業が多く、作成の多くが弟子たちに口述筆記、清書させるものであった。
和田 夏十(わだ なっと、1920年(大正9年)9月13日 … 和田 夏十(わだ なっと、1920年(大正9年)9月13日 - 1983年(昭和58年)2月18日)は、兵庫県姫路市出身の脚本家。映画監督・市川崑の妻。本名は市川 由美子(いちかわ ゆみこ)、旧姓は茂木(もぎ)。
戸部 銀作(とべ ぎんさく、1920年4月25日 - 200… 戸部 銀作(とべ ぎんさく、1920年4月25日 - 2006年1月7日)は、日本の古典演劇評論家、脚本家、演出家である。 東京生まれ。1945年旧制早稲田大学文学部国史学科を卒業後、早稲田大学演劇博物館、国立文化財研究所などを経て、演劇評論家として活躍。1967年国立劇場開場時、演出室長に就任。2003年まで国立劇場参与、日本演劇協会評議員。 1983年紫綬褒章、1991年勲三等瑞宝章、1998年松尾芸能賞受賞。 2006年1月7日、呼吸不全のため東京都千代田区の病院で死去、85歳没。 復活狂言や、上演が途絶えていた場面の上演を積極的に行う。歌舞伎の演出、補綴の第一人者として数多くの作品を手がけ、宙乗りの仕掛け人としても知られる。
川内 康範(かわうち こうはん、1920年〈大正9年〉2月2… 川内 康範(かわうち こうはん、1920年〈大正9年〉2月26日 - 2008年〈平成20年〉4月6日)は、日本の作詞家、脚本家、政治評論家、作家。本名は川内 潔(かわうち きよし)。北海道函館市出身。 1920年(大正9年)、函館市青柳町の日蓮宗住職の家に生まれた。実家は寺を持たず貧しい生活で、大森尋常小学校(現・大森浜小学校)を卒業後、様々な職業を転々とする。大都映画で大道具だった兄を頼って上京、新聞配達をしながら独学で文学修業を重ね日活のビリヤード場に就職、人脈を広げて日活の撮影所に入社する。 1941年(昭和16年)に東宝の演劇部へ入社。やがて撮影所の脚本部へ転属となり、特撮や人形劇映画を担当した。
小野田 勇(おのだ いさむ、1920年1月22日 - 199… 小野田 勇(おのだ いさむ、1920年1月22日 - 1997年7月15日)は、日本の脚本家、劇作家。 東京・四谷出身。中央大学(1941年)卒業。東京放送劇団に在籍していた。俳優としての実績もある。息子の小野田正も脚本家兼演出家であり、孫の小野田光は歌人兼フォトグラファーである。
井手 雅人(いで まさと、1920年1月1日 - 1989年… 井手 雅人(いで まさと、1920年1月1日 - 1989年7月17日)は、日本の脚本家、小説家。 佐賀県佐賀市出身。豊島師範学校本科第一部卒業。戦後に小学校教員を務めたのち、1948年に新東宝に入社。長谷川伸に師事して小説を書き、『地の塩』が1953年の第30回直木賞候補になる。 1954年に新東宝を退社し、フリーの脚本家として活動。脚本家としては、単独執筆の『証人の椅子』『ダイナマイトどんどん』『鬼畜』などがキネマ旬報ベストテンなどで評価されているほか、共同脚本の一員として黒澤明監督作品『赤ひげ』『デルス・ウザーラ』『影武者』『乱』などに関わる。 1985年から1989年まで日本シナリオ作家協会常務理事を務めた。