竹内勇太郎(たけうち ゆうたろう、1919年11月10日 -… 竹内勇太郎(たけうち ゆうたろう、1919年11月10日 - 1993年2月14日)は、日本の脚本家、小説家。 山梨県塩山市(現甲州市)出身、1926年七里小学校(現・塩山南小学校)入学、甲府市貢川尋常小学校に転校、山梨師範学校(現・山梨大学)、日本大学卒業。山梨県北都留郡沢松国民学校、中巨摩郡竜王町の村立竜王小学校など県内の学校で教師となる。この頃、児童劇『桂川』の脚本を手がけNHKラジオで放送される。 時事新聞社山梨支社に事業部長兼文化部長として入社。芸術や文化活動の分野を担当する。演劇雑誌テアトロに戯曲を投稿。1955年頃上京し、東芸に所属し本格的に脚本を書きはじめる。 1956年5月28日、山梨県甲府市朝気で開業していた眼科医の雨宮一枝と結婚。
舟橋 和郎(ふなはし かずお、1919年7月2日 - 200… 舟橋 和郎(ふなはし かずお、1919年7月2日 - 2006年1月15日)は、日本の脚本家。兄は小説家の舟橋聖一。 東京府出身。東京帝国大学教授の四男として生まれる。母方の祖父に古河財閥幹部の近藤陸三郎がおり、裕福な家庭で育つ。1939年、東京高等学校在学中、治安維持法違反で検挙される。1943年、明治大学専門部文科(文芸科)を卒業。菊池寛の秘書を経て、1944年、大映企画部に入社、同年応召。翌年復員し、1946年、『彼と彼女は行く』を発表して脚本家に転じ、のちフリーとなる。1950年に映画『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』の脚本でシナリオ賞受賞。その他代表作に『雁の寺』、『兵隊やくざ』シリーズ、『与太郎戦記』シリーズなど。
大宜見 小太郎(おおぎみ こたろう、1919年1月2日 - … 大宜見 小太郎(おおぎみ こたろう、1919年1月2日 - 1994年7月26日)は、沖縄県那覇市出身の俳優、脚本家、演出家、舞踊家。沖縄芝居の大御所として知られ、沖縄俳優協会会長もつとめた。なお、「大宣見小太郎」「大宜味小太郎」等と誤記されることも多い。 生誕時の本名は、當間朝義(幼名太郎)。やがて、沖縄芝居の役者の、大宜見朝良の養子に入り、本名「大宜見朝義」となった。さらに、当時の役者には、「太郎」と名乗る者が多かったことから、「大宜見小太郎」を芸名にした。また、南一郎のペンネームで200本以上の脚本を書いている。 妻は沖縄芝居女優の大宜見静子。 1926年(大正15年)7才の時に、石垣にて「瓦屋節由来記」で初舞台を踏み、その後も子役として活躍する。
丸林 久信(まるばやし ひさのぶ、1917年11月17日 -… 丸林 久信(まるばやし ひさのぶ、1917年11月17日 - 1999年)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサー、演出家、文筆家である。脚本家としての筆名に栄町 はじめ(さかえまち はじめ)がある。日本映画監督協会元会員、日本放送作家協会会員、日本脚本家連盟信託者。専修大学文学部講師、シナリオ・センター講師を歴任した。黒澤明の『生きる』、『生きものの記録』でチーフ助監督を務めたことでも知られる。 1917年(大正6年)11月17日、三重県多気郡下御糸村(現在の同県同郡明和町)に生まれる。のちに三重県立松阪高等学校の教諭を務めた丸林勝人(1921年 - 2010年)は実弟。 1937年(昭和12年)3月、早稲田第二高等学院(現在の早稲田大学高等学院)を卒業、同年4月には旧制早稲田大学文学部国文科(現在の早稲田大学文学部日本語日本文学コース)に進学、当時の恩師に河竹繁俊(1889年 - 1967年)がいた。
山下 与志一(やました よしいち、1916年〈大正5年〉8月… 山下 与志一(やました よしいち、1916年〈大正5年〉8月27日 - 1991年〈平成3年〉12月3日)は、日本の脚本家。本名は山下 義一。 台湾・台中の出身。早稲田大学文学部英文科(昭和15年)卒。文学座演出部員や東宝脚本部員を経て、シナリオライターとなった。日本放送作家組合の幹事も務めた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
福田 晴一(ふくだ せいいち、1916年8月16日 - 19… 福田 晴一(ふくだ せいいち、1916年8月16日 - 1996年5月11日)は、日本の映画監督、脚本家である。別名船橋 一(ふなばし はじめ)。1939年(昭和14年)6月、日活多摩川撮影所(現在の角川大映撮影所)に入社、内田吐夢に師事し、内田とともに興亜映画、松竹京都撮影所と移る。第二次世界大戦に出征した時期を挟んで同撮影所で助監督を務め、1954年(昭和29年)に監督昇進、「伝七捕物帳シリーズ」「二等兵物語シリーズ」のほとんどの作品を手がける。1962年(昭和37年)に退社後は、黎明期の成人映画を量産し、台湾映画・インドネシア映画(英語版)も手がけた。 1916年(大正5年)8月16日、東京府南足立郡千住町本町(現在の東京都足立区千住)に生まれる。
日高 繁明(、1916年(大正5年)7月30日 -没年不明)… 日高 繁明(、1916年(大正5年)7月30日 -没年不明)は日本の映画監督、脚本家。宮崎県出身。通り名は「はんめい」。妻は元東宝専属女優の川合玉江。 主に時代劇やアクション映画などの監督を務めた。 宮崎中学校卒業後、衣笠貞之助に師事。 1936年(昭和11年)、松竹下加茂撮影所に入社。 1941年(昭和16年)、東宝に移籍。 1950年(昭和25年)、『淑女と風船』を中野潔と共同監督。 1954年(昭和29年)、『透明人間』(小田基義監督)以後、映画脚本家としても活躍。 1955年(昭和30年)、『姿なき目撃者』で正式に映画監督デビュー。 1959年(昭和34年)、東宝を退社。 1960年(昭和35年)、第二東映に入社。
南部 泰三(なんぶ たいぞう、1916年4月13日 - 没年… 南部 泰三(なんぶ たいぞう、1916年4月13日 - 没年不詳)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサーである。本名は松角 知己男(まつかど ちきお)。1936年(昭和11年)に大都映画に入社して助監督となり、その後、大毎東日映画部、日本映画社、満洲映画協会を経て、第二次世界大戦後に独立した。1964年(昭和39年)から成人映画を手がけ、黎明期の作家とされる。第八芸術映画プロダクション代表、「亜細亜文化振興会」情報部長を歴任した。 1916年(大正5年)4月13日、長崎県北高来郡湯江村(現在の同県諫早市高来町湯江)に生まれる。叔父に新国劇理事を経て、戦後、東宝取締役、東宝舞台代表取締役社長を歴任した俵藤丈夫(1893年 - 1964年)がいる。
浅野 辰雄(あさの たつお、1916年1月1日 - 2006… 浅野 辰雄(あさの たつお、1916年1月1日 - 2006年9月15日)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサーである。ドキュメンタリー映画『号笛なりやまず』の監督であり、ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督の『アナタハン』ではスタンバーグと脚本を共同執筆したことでも知られる。日本記録映画作家協会委員、「世田谷を記録する会」会長を歴任した。 日本映画データベース等で混同されている大映の製作者・浅野辰雄(1904年 - 没年不詳)は、別人である。 1916年(大正5年)1月1日、栃木県宇都宮市に生まれる。北海道函館市の旧制・北海道庁立函館中学校(現在の北海道函館中部高等学校)を卒業して上京、旧制・東京高等工芸学校(現在の千葉大学工学部)機械科に進学するも、在学中に『文芸街』『ズドン』等の文学運動に関係しており、1936年(昭和11年)7月10日、講座派の一斉検挙であるコム・アカデミー事件に関連し、同誌関係者として浅野次郎、中島正伍らとともに検挙されている。
木俣 堯喬(きまた あきたか、1915年3月26日 - 20… 木俣 堯喬(きまた あきたか、1915年3月26日 - 2004年11月7日)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサー、映画美術家、劇作家、演出家、俳優、彫刻家。本名は木俣 三郎(きまた さぶろう)、舞台俳優・映画美術家としては衣 恭介(ころも きょうすけ)、時代劇俳優としては木南 兵介(きなみ へいすけ)、現代劇俳優として鬼塚 大吉(おにつか だいきち)等、多くの別名をもつ。プロダクション鷹・日東テレビ映画の創業者・元代表取締役、ムービーブラザースの共同代表を歴任した。高見順の短篇小説『大部屋の友』の主人公モデル、あるいは世田谷区・豪徳寺の「無名戦士慰霊記念碑」のレリーフ彫刻を手がけた彫塑作家としても知られる。
木元 健太(きもと けんた、1915年〈大正4年〉1月15日… 木元 健太(きもと けんた、1915年〈大正4年〉1月15日 - 没年不詳)は、日本の映画監督、脚本家である。本名は木元 一郎(きもと いちろう)。館林 一郎(たてばやし いちろう)の名で脚本を提供したことがある。 1915年(大正4年)1月15日、群馬県邑楽郡館林町(現在の同県館林市)に生まれる。 明治大学文芸科に進学し、在学中は映画研究会に所属した。1936年(昭和11年)に明治大学を卒業。1937年(昭和12年)日活多摩川撮影所(のちの大映東京撮影所、現在の角川大映撮影所)助監督部に入社、内田吐夢(1936年 - 1940年在籍)、伊賀山正光(当時は正徳、1934年 - 1942年在籍)、春原政久(1934年 - 1941年在籍)、千葉泰樹(1934年 - 1939年在籍)、富岡捷(1938年 - 1939年在籍)らに師事した。
初代 猿若 清方(しょだい さるわか きよかた、1915年(… 初代 猿若 清方(しょだい さるわか きよかた、1915年(大正4年)- 2003年(平成15年))は、日本舞踊家、振付師、俳優、脚本家。江戸時代以来途絶えていた舞踊である猿若流を復興した。本名、堀越実。 大正4年、東京・亀戸生まれ。新内の太夫だった父の影響で4歳から坂東三寿次に師事し日本舞踊を習う。11歳より初代花柳輔三郎の内弟子となり、花柳輔五郎を名乗った。1941年(昭和16年)に当時の花柳流家元である二代目花柳壽輔の許しを得て花柳流を辞し、猿若舞雀(さるわか ぶじゃく、舞雀は初代傳九郎の俳名)を名乗り、江戸時代以来途絶えていた猿若流を復興させ七世家元となった。1947年(昭和22年)に清方と改名。
滝沢 一(たきざわ おさむ、1914年11月10日 - 19… 滝沢 一(たきざわ おさむ、1914年11月10日 - 1993年7月11日)は、日本の映画評論家、ジャーナリスト、脚本家である。株式会社通信合同社代表。中川信夫との共同のペンネームは猿沢 丈介(さるさわ じょうすけ)。リアルタイムで作品を追い続けた、伊藤大輔、山中貞雄研究の第一人者である。 1914年(大正3年)、大阪市に生まれる。大阪府立市岡中学校(現・大阪府立市岡高等学校)卒業。 1933年(昭和8年)、マキノ・プロダクションの元宣伝部長・都村健らとともに、京都に合同通信社を興す。同社がのちに株式会社通信合同社となる。 1935年(昭和10年)、前年に市川右太衛門プロダクションに入社した、9歳上の友人・中川信夫と共同で脚本を執筆、『恥を知る者』『御用唄鼠小僧』を中川が監督した。
志村 敏夫(しむら としお、1914年10月13日 - 19… 志村 敏夫(しむら としお、1914年10月13日 - 1980年7月7日)は、日本の脚本家、映画監督である。 1914年(大正3年)10月13日、静岡県志太郡島田町(現在の同県島田市)に生まれる。 1936年(昭和11年)、22歳になるころ、高田稔の高田プロダクションと新興キネマが共同製作した牛原虚彦監督の『五々の春』に脚本参加する。1940年(昭和15年)には、東宝映画に所属し、斎藤寅次郎監督作の脚本を書いた。 第二次世界大戦後、1947年(昭和22年)、新東宝設立に参加、萩原遼監督『大江戸の鬼』でチーフ助監督を務める。1948年(昭和23年)、同社と竹井プロダクションの共同製作作品『群狼』で監督としてデビューする。
長谷部 慶治(はせべ けいじ、1914年10月8日 - 没年… 長谷部 慶治(はせべ けいじ、1914年10月8日 - 没年不詳)は、山形県酒田市出身の脚本家、映画監督。 別名義に長谷部慶次がある。ただし、録音技師の「長谷部 慶治」は当記事人物ではない、同姓同名の別人である。 1914年10月8日、山形県酒田市に生まれる。 1945年製作の『娘道成寺』で脚本を担当したが、本作は劇場未公開となった。 次作となった1953年7月28日公開の『明日はどっちだ』では監督を担当し、以後監督と脚本で映画やテレビ作品の多くを手掛けた。 1963年11月16日公開で今村昌平と共同脚本を担当した『にっぽん昆虫記』が1963年度第14回ブルーリボン賞を受賞するなど、受賞歴も数多い。
本木 荘二郎(もとき そうじろう、1914年6月19日 - … 本木 荘二郎(もとき そうじろう、1914年6月19日 - 1977年5月21日)は、日本の映画プロデューサー、映画監督、脚本家である。独立し、映画監督を兼ねるようになってからの筆名に岸本 恵一(きしもと けいいち)、高木 丈夫(たかぎ たけお)、藤本 潤三(ふじもと じゅんぞう)、藤本 潤二 (ふじもと じゅんじ)等がある。
京都 伸夫(きょうと のぶお、1914年3月3日 - 200… 京都 伸夫(きょうと のぶお、1914年3月3日 - 2004年11月28日[要出典])は、日本の脚本家、作家。本名は長篠 義臣。 1914年(大正3年)生まれ。徳島県出身。京都帝国大学文学部社会学科卒業。 高校生の頃「女の書ける小説家になりたい」という悲願を立て、以来結婚するまで、「広く、浅く、多く」を主義に、プレイボーイくずれのような生活を送った。1934年(昭和9年)京都大学に入ってからは、映画女優クローデット・コルベール、ギャビー・モルレー(フランス語版)、アンナベラ、マリー・ベルに夢中になり、とりわけヴィヴィアーヌ・ロマンスとシモーヌ・シモンにのぼせた。日本人で贔屓にしたのは桑野通子と志賀暁子。
菊島 隆三(きくしま りゅうぞう、本名:菊島 隆蔵、1914… 菊島 隆三(きくしま りゅうぞう、本名:菊島 隆蔵、1914年1月28日 - 1989年3月18日)は、日本の脚本家。山梨県甲府市出身。日本ペンクラブ、日本シナリオ作家協会、日本演劇協会、日本文芸家協会所属。 ★印は黒澤明監督作品。
佐藤 一郎(さとう いちろう、1913年12月25日 - 1… 佐藤 一郎(さとう いちろう、1913年12月25日 - 1987年10月1日)は、日本の映画プロデューサー、脚本家である。 第二次世界大戦後の新東宝、東宝、東京映画で活動した。『われ一粒の麦なれど』、「駅前シリーズ」を手がけ、日本映画製作者協会(現在の日本映画テレビプロデューサー協会)の第4代理事長を歴任した。脚本家としてのペンネームは椿 澄夫(つばき すみお)、佐藤 信一郎(-しんいちろう)とも名乗った。 1913年(大正2年)12月25日、東京市(現在の東京都)に生まれる。 早稲田大学を卒業後、東宝の前身の東宝映画に入社、戦後、新東宝の設立に参加した。1949年(昭和24年)、渡辺邦男監督の「渡辺プロダクション」と新東宝との共同製作で、同監督の『異国の丘』を同監督とともにプロデュースし、「製作」として名を連ねる。
棚田 吾郎(たなだ ごろう、1913年10月23日 - 19… 棚田 吾郎(たなだ ごろう、1913年10月23日 - 1989年10月24日)は、日本の脚本家。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
西村 元男(にしむら もとお、1913年7月15日 - 19… 西村 元男(にしむら もとお、1913年7月15日 - 1998年2月7日)は、日本の映画監督、脚本家。主にコメディ映画、ミュージカル映画、ドキュメンタリー映画を監督した。 日本大学芸術学部卒業(6期生)。その後、大映株式会社入社。 終戦後、大映に復帰。助監督から監督となり、1963年の退職まで多数の映画に携わる。 独立して映像編集、制作会社を立ち上げるも、1969年に解散。 1998年、肺ガンにより死去。 死後、2002年、企画した『陽はまた昇る』が西田敏行主演で東映より映画化された。 movie walkerplus 西村 元男 日本映画監督協会会員名鑑 西村元男 文化庁 日本映画情報システム 西村元男 資料データベース|東宝WEB SITE この項目は、映画関係者に関連した書きかけの項目です。
堀江 史朗(ほりえ しろう、1913年6月24日 - 200… 堀江 史朗(ほりえ しろう、1913年6月24日 - 2009年5月14日)は、脚本家、ラジオドラマの製作者、映画プロデューサー。元・博報堂代表取締役副社長。ペンネームは龍野 敏。 兵庫県西宮市生まれ。1934年に大阪商科大学(現、大阪市立大学)を卒業と同時にNHKに入局。1937年よりラジオドラマの放送にたずさわる。戦後のラジオ全盛期には、制作、脚本両面で放送界の中心的役割を果たした。1950年に脚本部長。 東宝撮影所に移籍して文芸部長。1955年に契約者となり、1962年に博報堂に移籍、テレビ・ラジオ局長、1974年に代表取締役副社長となる。のち、シナリオ・センター最高顧問。 2009年5月14日、肺炎のため95歳で死去。
木下 惠介(きのした けいすけ、新字体:恵介、1912年12… 木下 惠介(きのした けいすけ、新字体:恵介、1912年12月5日 - 1998年12月30日)は、日本の映画監督、脚本家。本名は同じ(旧名:正吉)。日本映画の黄金期を築いた一人で、抒情的な作風で知られ、数多くの名作・話題作を生み出した。弟は作曲家の木下忠司、妹は脚本家の楠田芳子。監督としての映画の名前の表記は1960年代には「恵介」が混在している。
佐伯 幸三(さえき こうぞう、1912年(大正元年)12月4… 佐伯 幸三(さえき こうぞう、1912年(大正元年)12月4日 - 1972年(昭和47年)12月27日)は、日本の映画監督、脚本家である。サイレント映画の時代からキャリアを持つ。 1912年(大正元年)12月4日、東京府東京市芝区(現在の東京都港区芝)に生まれる。 旧制・早稲田中学校(現在の早稲田高等学校)を中途退学した後に、内外通信社、博報堂に勤める。 映画界での最初のキャリアは東京・巣鴨に撮影所を持つ大都映画で、1934年(昭和9年)、同社のオーナーの河合徳三郎の原作を脚色し、中島宝三が監督したサイレント映画『名君道中記』で脚本家としてデビューした。1934年(昭和10年)、大都映画に助監督として入社。
阿木 翁助(あぎ おうすけ、1912年7月14日 - 200… 阿木 翁助(あぎ おうすけ、1912年7月14日 - 2002年9月11日)は、日本の劇作家、脚本家。本名:安達鉄翁。息子は東宝プロデューサー。孫は笠井信輔(元フジテレビアナウンサー)。 脚本作品としては、1957年のNHKのラジオドラマ「花くれないに」、1964年のNET系のテレビドラマ「徳川家康」などが知られる。 長野県諏訪郡下諏訪町出身。旧制長野県立諏訪中学(現長野県諏訪清陵高等学校)卒業。1930年、小説家を志し上京。 1932年東京プロレタリア演劇研究所を卒業、築地小劇場演劇研究所の研究生となり、1934年にはムーラン・ルージュ新宿座文芸部、新派文芸部に入って劇作家としての道を歩み始め、「女中あい史」の脚本で名を挙げる。
長瀬 喜伴(ながせ よしとも / きはん、1912年2月18… 長瀬 喜伴(ながせ よしとも / きはん、1912年2月18日 - 1966年6月16日)は、日本の脚本家。 東京府東京市下谷区(現・東京都台東区)生まれ。東京府立第一商業学校を経て横浜専門学校商科を卒業。 1935年に松竹の蒲田脚本研究所に第4期生として入所し、1937年に松竹大船脚本部に入って斎藤良輔のもとで助手を務めた後、1938年に清水宏監督「新家庭暦」で一本立ちの脚本家となる。以後、家庭劇的なドラマの展開を基調とした“大船調”メロドラマに健筆をふるい、娯楽作家として活躍した。 太平洋戦争末期の1944年に近衛連隊に入隊し、1945年に小笠原諸島の父島で終戦を迎えた。 1954年にフリーとなり、東宝、大映、東京映画などで娯楽ものを中心に多数の映画で脚本を担当したほか、親友の新藤兼人が主宰する近代映画協会にも参加し、会計事務を担当するなど、協力者として会の活動を支えた。
笠原 良三(かさはら りょうぞう、1912年1月19日 - … 笠原 良三(かさはら りょうぞう、1912年1月19日 - 2002年6月22日)は、日本の脚本家、小説家。本名:笠原 良三郎。社長シリーズなどの喜劇映画の脚本を多く手がけた。 栃木県足利郡足利町(現:足利市)出身。1932年に日本大学芸術学部を中退し、1936年に日活多摩川撮影所脚本部に入社。1941年に新興シネマ脚本部に転属後、大映東京撮影所脚本部に移籍。1955年に東宝撮影所の契約者となる。弟子に東映ヤクザ映画の隆盛を支えた笠原和夫などがいる。オリジナル作品は自らノベライゼーションを行っている。 2002年6月22日、死去。90歳没。 銀座の若大将 - 日本一の若大将 海の若大将 - エレキの若大将 アルプスの若大将 - 歌う若大将 レッツゴー!若大将 - 南太平洋の若大将 - ゴー!ゴー!若大将 フレッシュマン若大将 - ニュージーランドの若大将 ブラボー!若大将 - 俺の空だぜ!若大将 社長になった若大将(テレビドラマ) 加山雄三 - 大矢茂 - 草刈正雄 田中邦衛 - 高松しげお - 湯原昌幸 星由里子 - 酒井和歌子 - 吉沢京子 - いけだももこ - 坂口良子 有島一郎 - 飯田蝶子 - 中真千子 - 三條美紀 - フランキー堺 - 高橋恵子 藤本真澄 - 神谷一夫 - 大森幹彦 - 安武龍 - 田波靖男 田波靖男 - 笠原良三 杉江敏男 - 福田純 - 古澤憲吾 - 岩内克己 - 小谷承靖
小林 恒夫(こばやし つねお、1911年9月19日 - 19… 小林 恒夫(こばやし つねお、1911年9月19日 - 1991年12月6日)は、日本の映画監督・脚本家。東京都京橋出身。東映で現代劇をメインに撮っていた。 その後、テレビドラマ、PR映画の演出を手がける。テレビ映画では主に東映と古巣の東宝(系列会社宝塚映画も含む)製作作品の演出を多く手がけた。当時東宝の子会社だった円谷プロ作品にも参加する。特に『マイティジャック』でパイロット版を本放送版へ補強する仕事から入り、事実上のメイン監督を務めた。 監督昇進が41歳と遅かったものの、『点と線』における無駄をなるべく排し、テンポの良い時間経過と万人に理解しやすい物語の展開と切り口が持ち味であり、巧みな演出でリアリズム重視の独特の重厚さと緊迫感を与える作風であった。
家城 巳代治(いえき みよじ、1911年9月10日 - 19… 家城 巳代治(いえき みよじ、1911年9月10日 - 1976年2月22日)は、日本の映画監督、脚本家。 東京都出身。東京府立三中、弘前高等学校を経て、東京帝国大学文学部を卒業後、1940年に松竹大船へ入社する。助監督部で渋谷実の下で働く。渋谷により『激流』(1944年)が着手される直前に召集されたため、家城が代打で初監督を務めた。 戦後は、撮影所に設立された労働組合の委員長に就任して経営側と渡り合ったが、1950年、連合国軍最高司令官総司令部指令によるレッドパージの波が映画界にも及ぶと、松竹の追放者第一陣のリストに名を連ね退社を余儀なくされた。 その後独立プロダクションを支え、以降、『雲ながるる果てに』『ともしび』『異母兄弟』などの名作映画を作り上げ、社会派の映画監督として活躍する一方、草創期のテレビドラマで演出家としても活躍した。
田井 洋子(たい ようこ、1911年8月9日 - 2008年… 田井 洋子(たい ようこ、1911年8月9日 - 2008年3月13日)は、昭和・平成期の脚本家。 東京生まれ。兄は田井真孫。本名・丸茂ふぢ子。東京府立第三高等女学校卒。その後薬剤師を目指して薬学専門学校に進学するも、学内が大学への昇格運動 で揺れて休校状態だったため、進路を変更してタイピストになり、10年間官庁に勤務。 1929年、詩人の河井酔茗に入門し師事。しかし田井本人は詩が書けなかったことから、河井に勧められた岡本綺堂に師事して劇作を始め、綺堂主宰の「舞台」などに作品を発表。河井の元にはその後河井が亡くなる1965年まで通い続け、他に額田六福、岡田八千代にも世話になった。 1948年NHK懸賞放送劇に「魚紋」が1位入選。
猪俣 勝人(いのまた かつひと、1911年6月27日 - 1… 猪俣 勝人(いのまた かつひと、1911年6月27日 - 1979年8月7日)は、日本の脚本家・映画監督、映画評論家。東京府出身。 牛込出身。父が検事という厳格な家庭に育つ(のちに初期テレビドラマ『検事』の脚本も手がけている)。父の転任のたびに、長野、東京、千葉、新潟、福岡と転々とする。少年時代から学業を嫌い、文学書に親しみ、中学3年生の時には新聞『万朝報』の長編小説募集に応募、落選するもそれ以降は雑誌にの懸賞小説に毎年応募をし続けたが、当選することは一度もなかった。 日本大学芸術学部卒業後は、福岡で1年半ほど職に就けないでいたが、『九州日報』の短編小説募集で一等に入り、賞金5円を貰い、1934年に松竹蒲田撮影所にシナリオ・ライターの研究生として入社した。
瑞穂 春海(みずほ しゅんかい、1911年3月22日 - 1… 瑞穂 春海(みずほ しゅんかい、1911年3月22日 - 1995年6月19日)は、日本の映画監督、脚本家である。 1911年(明治44年)3月22日、長野県長野市に善光寺塔頭蓮華院の長男として生まれる。 旧制・長野県長野中学校(現在の長野県長野高等学校)、旧制・姫路高等学校(現在の神戸大学)をそれぞれ卒業後、東京帝国大学に入学、同文学部で美術史学を専攻し、同学を1934年(昭和9年)に卒業した。卒業後、同郷の映画監督・池田義信の在籍する松竹キネマの松竹蒲田撮影所に入社した。池田のほか、深田修三、渋谷実に師事した。 1940年(昭和15年)、三浦光子主演の映画『女の気持』で監督に昇進した。第二次世界大戦開戦後の1943年(昭和18年)、河村黎吉・吉川満子主演の『家に三男二女あり』を監督した。
馬淵 薫(、1911年(明治44年)2月4日 - 1987年… 馬淵 薫(、1911年(明治44年)2月4日 - 1987年(昭和62年)5月3日)は日本の脚本家。筆名は木村 武()。脚本は筆名と本名と両方の名義で執筆していた。東京出身。 関西大学を中退し、1930年に日本共産党に入党。その後、約10年間入獄したのち、日本共産党の佐賀県委員長を務める。1950年(昭和25年)に離党し、その後八住利雄に師事し脚本家になる。 1953年(昭和28年)、映画『赤線基地』で脚本家デビュー。東宝特撮路線を支えたプロデューサーの田中友幸や常連出演者の志村喬とは関西大学からの演劇仲間だが、上京しての映画界入り後も関西演劇界とはつながりがあり、演劇青年時代の筒井康隆とも親交があり、香村菊雄に紹介している。
黒崎 秀明(くろさき しゅうめい、1911年 - 1976年… 黒崎 秀明(くろさき しゅうめい、1911年 - 1976年2月24日)は、岡山県岡山市出身の脚本家、郷土史家。 1911年、岡山市蕃山町で生まれる。1927年、岡山第一商業高校(現・岡山東商業高校)卒業後、上京し、独学で劇作を学ぶ。 戦後、NHK岡山放送局専属のシナリオライターとして活躍した。 また、版画が上手く、1967年、『版画 岡山後楽園』を出版した。郷土史研究を行っており、晩年は、岡山県の人物に関する著書を出版した。
高岩 肇(たかいわ はじめ、1910年11月9日 - 200… 高岩 肇(たかいわ はじめ、1910年11月9日 - 2000年1月28日)は、日本の脚本家。 東京生まれ。慶應義塾大学卒。在学中から小説『季節の展望』『素質』『新三田派』を発表した。1939年の映画『若き日の感激』で脚本を担当。以後シナリオ作家として活動し、1951年から東映や大映を中心に映画脚本を執筆した。 2000年1月28日、腎不全のため死去。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
水木 洋子(みずき ようこ、本名:高木富子、1910年(明治… 水木 洋子(みずき ようこ、本名:高木富子、1910年(明治43年)8月25日 - 2003年(平成15年)4月8日)は脚本家。映画監督の谷口千吉は元夫。1913年(大正2年)生まれを自称していた。
中江 良夫(なかえ よしお、1910年5月3日 - 198… 中江 良夫(なかえ よしお、1910年5月3日 - 1986年1月8日)は、日本の劇作家、脚本家である。 1910年(明治43年)5月3日、北海道に中江吉雄として生まれる。弟に喜劇人の佐山俊二がいる。登別市の旧制・尋常小学校を卒業し、札幌郵便局(現在の札幌中央郵便局)に就職したが、その後上京した。 さまざまな職業を経て、1940年(昭和15年)東京・新宿のムーランルージュ新宿座文芸部に入る。おなじころにNHKでラジオドラマを手がけ、中江の『かし家』が1942年(昭和17年)に発行された『放送劇名作選』(日本放送協会編、日本放送出版協会)に収録された。 1945年(昭和20年)の第二次世界大戦後、ムーランルージュで社会風俗劇『生活の河』、『にしん場』などを発表した。
井手 俊郎(いで としろう、1910年4月11日 - 198… 井手 俊郎(いで としろう、1910年4月11日 - 1988年7月3日)は、日本の脚本家。息子はプロ野球・元中日ドラゴンズ選手の井手峻。筆名(併用)=権藤利英、三木克巳。 佐賀県北波多村徳須江出身。祖父・井手豊助は1890年(明治23年)の公選で初代北波多村長となり、父の金次郎は政友会を北波多村に建て村議となった。生家は質店を営み、現存する当時の店舗兼住宅建物は2019年に国の登録有形文化財に登録されている。 旧制佐賀県立唐津中学(現・佐賀県立唐津東中学校・高等学校)を経て、官立東京高等工芸学校(現在の千葉大学工学部意匠科)を卒業する。 商業美術家としてパピリオ化粧品、アサヒビール、婦人画報社などの宣伝部嘱託を務めた。
植草 圭之助(うえくさ けいのすけ、1910年3月5日 - … 植草 圭之助(うえくさ けいのすけ、1910年3月5日 - 1993年12月19日)は、日本の脚本家、小説家。本名は植草銈之助。
藤田 潤一(ふじた じゅんいち、1910年 - 1970年代… 藤田 潤一(ふじた じゅんいち、1910年 - 1970年代)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサー、劇作家、演出家である。本名同じ。牧野省三のマキノ・プロダクションの助監督としてキャリアを始め、牧野の没後、脚本家として河合映画製作社、新興キネマに移籍、1934年(昭和9年)に監督に昇進した。山中貞雄らによる「鳴滝組」にも参加し、片岡千恵蔵プロダクション、日活、東宝映画と転々とした。第二次世界大戦中から戦後にかけて「エノケン一座」の座付作家として活動し、初期のテレビ放送劇の台本も書いた。脚本家としての別名に三田 一(みた はじめ)、1965年(昭和40年)からは黎明期の成人映画を量産、この時代には藤田 潤八(ふじた じゅんぱち)、岡野 進(おかの すすむ)等と名のった。
中川 順夫(なかがわ のりお、1909年9月5日 - 200… 中川 順夫(なかがわ のりお、1909年9月5日 - 2004年)は、日本の映画監督、脚本家である。伊世 亜夫の筆名も持つ。 1909年(明治41年)9月5日、大阪府に生まれる。 1926年(大正15年)、旧制・大阪府立今宮職工学校(現在の大阪府立今宮工科高等学校)を卒業、1930年(昭和5年)、新興キネマ演出部に入社した。1934年(昭和9年)、田坂具隆監督の『月よりの使者』に助監督としてついた後に、脚本部に異動した。1939年(昭和14年)、須山真砂樹監督の『泣き笑ひの天国』で脚本家としてデビューした。 その後、読売新聞社映画部、日本映画社に移籍し、ドキュメンタリー映画の製作に携わる。1940年(昭和15年)、『オモチャの科学』で監督としてデビューした。
児井 英生(こい えいせい、1908年8月21日 - 199… 児井 英生(こい えいせい、1908年8月21日 - 1992年3月10日)は、日本の映画プロデューサー、映画監督、脚本家、作詞家、実業家である。日活の契約プロデューサーだった時代に石原裕次郎を売り出し、小林旭をスターにした人物として知られる。本名は兒井 英男(こい ひでお)、大都映画でのペンネームは高樹 彦九郎(たかぎ ひこくろう)である。児井プロダクション代表。 1908年(明治41年)8月21日、兵庫県神戸市に鉄道院の高級官吏(神戸運輸事務所長)だった児井英松と公卿の娘だった母の長男として出生。姉が2人の末っ子だった。父の転職により、東京の渋谷に移住し、旧制中学校の私立芝中学校を経て、早稲田大学法学部に入学するが、2年次に政経学部に、3年次に文学部に転部し卒業後、衣笠貞之助に誘われ1931年に松竹キネマ京都撮影所監督部に入社した。
高木 俊朗(たかぎ としろう、1908年(明治41年)7月1… 高木 俊朗(たかぎ としろう、1908年(明治41年)7月18日 - 1998年(平成10年)6月25日)は、日本の映画監督、脚本家、ノンフィクション小説家である。 東京生まれ。1933年早稲田大学政治経済学部卒業後、松竹蒲田撮影所に入社し、清水宏に師事した。 その後、富士スタジオ、日本映画社に勤務した。1939年から陸軍映画報道班員として、日中戦争に従軍し、記録映画を製作した。 太平洋戦争中、1942年に陸軍航空本部映画報道班員として、マレーシア、インドネシア、タイ、仏印などに従軍。映画報道班員としての体験をもとに、新聞や放送の発表と現実の戦況の違い、戦場の苛酷なありさまの見聞等々、インパール作戦の悲惨さを明らかにして陸軍指導部の無謀さを告発することを決意した。
マキノ 雅弘(マキノ まさひろ、1908年〈明治41年〉2月… マキノ 雅弘(マキノ まさひろ、1908年〈明治41年〉2月29日 - 1993年〈平成5年〉10月29日)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサー、録音技師、俳優、実業家。本名:牧野 正唯(まきの まさただ)。 「日本映画の父」と呼ばれた牧野省三の息子。父の死後マキノ・プロダクション撮影部長、松竹太秦撮影所長などを歴任、生涯に261本もの劇場映画を監督・製作し、日本映画の黄金時代を築いた。沖縄アクターズスクール開設者のマキノ正幸は実子。 甥の津川雅彦が映画監督を務めた際、マキノ雅彦の名義を用いた。 職業名の変遷は下記の通り。 1908年(明治41年)、牧野正唯は、父・省三が映画製作を始めた年の2月29日に京都府京都市上京区で生まれた。
藤井 滋司(ふじい しげじ、1908年 - 1970年)は、… 藤井 滋司(ふじい しげじ、1908年 - 1970年)は、日本の脚本家。松竹下加茂撮影所の脚本部に所属しながら、トーキー黎明期の京都にかつて存在した会社組織を超えた脚本家集団「鳴滝組」に参加、映画史に名を残す。 1908年(明治42年)に生まれる。1922年(大正11年)、旧制京都市立第一商業学校(現:京都市立西京高等学校・附属中学校)に入学、当時の同級生、のちの映画監督の山中貞雄とは親しく、映画好きの仲間であった。1学年上に当時すでに映画俳優だったのちの映画監督マキノ正博がいた。 1933年(昭和8年)頃、松竹下加茂撮影所脚本部に入社、同年、劇作家木村錦花の歌舞伎台本を木村富士夫と共同で脚色した井上金太郎監督の『弥次喜多』で脚本家としてデビュー、同作は正月映画として同年末12月31日に公開された。
大伴 麟三(おおとも りんぞう、1907年10月20日 - … 大伴 麟三(おおとも りんぞう、1907年10月20日 - 1944年12月9日)は、日本の映画監督、脚本家である。本名小島 武夫(こじま たけお)、大伴 龍三(おおとも りゅうぞう、新漢字表記大伴 竜三)とも名乗った。 1907年(明治40年)10月20日、佐賀県杵島郡(現在の同県武雄市)に生まれる。 旧制・福岡県立中学明善校(現在の福岡県立明善高等学校)卒業後、帝国キネマ演芸に入社、古海卓二に助監督として師事する。 1927年(昭和2年)、20歳にして、奈良の市川右太衛門プロダクションあやめ池撮影所製作の市川右太衛門主演作『笑ふな金平 後篇』で監督としてデビュー、同作は同年9月15日に公開された。
島田 一男(しまだ かずお、1907年5月15日 - 199… 島田 一男(しまだ かずお、1907年5月15日 - 1996年6月16日)は日本の小説家、脚本家。 京都府京都市出身。明治大学中退。1931年に「満洲日報」に入社し新聞記者となり、敗戦までの約15年間をほぼ従軍記者として過ごす。終戦後は同社の社員たちと「大陸情報通信社」を設立、在満邦人の引揚げ運動に尽力する傍ら執筆活動を続けた。 1946年に短編「殺人演出」が雑誌「宝石」の第1回短編懸賞に入選し、翌年掲載される。 デビュー当初は『古墳殺人事件』や『錦絵殺人事件』のような衒学的な本格推理を得意としていたが、1949年からは自身の経験を生かした新聞記者ものの推理小説を書き始め、1951年に短編「社会部記者」(別題「午前零時の出獄」)「遊軍記者」、「新聞記者」、「風船魔」で第4回探偵作家クラブ賞を受賞する。
大谷 俊夫(おおたに としお、1907年 - 没年不詳)は、… 大谷 俊夫(おおたに としお、1907年 - 没年不詳)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサー、元俳優である。当初のキャリアは水谷 登志夫(みずたに としお)名義で、監督、俳優としてスタートした。 1907年(明治40年)、広島県呉市に生まれる。旧制・神戸第二中学校(現・兵庫県立兵庫高等学校)卒。1923年(大正12年)、子爵家の長男、23歳の小笠原明峰が京都に設立した小笠原プロダクションに参加、翌1924年(大正13年)、水谷 登志夫名義で『風船売りの小母さん』(短編)を自らのオリジナル脚本で監督し、デビューしている。同プロダクションでは、同作以降は俳優として、1926年(大正15年)の同社の解散まで4本に出演した。
久保 為義(くぼ ためよし、明治39年(1906年)11月1… 久保 為義(くぼ ためよし、明治39年(1906年)11月15日 - 昭和17年(1942年)2月5日)は、日本の映画監督、脚本家である。宝塚キネマ時代は久保 文憲(くぼ ふみのり)を名乗る。 1906年(明治39年)11月15日、京都市下京区に生まれる。 1925年(大正14年)、旧制・京都市立第一商業学校(現:京都市立西京高等学校・附属中学校)卒業。第一銀行に就職。 1926年(大正15年)、2年後輩の山中貞雄とともに、友人ですでに俳優や助監督をしていた2歳下のマキノ正博のもとを訪ね、正博の父・牧野省三の会社「マキノ・プロダクション」に入社、助監督となった。 この年、現代劇『青い眼の人形』で正博が18歳で監督でデビューするが、このときに正博のオリジナルストーリーをもとに脚本を書いたのが19歳の久保であった。
金田 繁(かねだ しげる、1906年10月20日 - 196… 金田 繁(かねだ しげる、1906年10月20日 - 1966年3月15日)は、日本の映画監督、脚本家。 1906年(明治39年)、京都府京都市下京区に生まれる。妹・みねは、のちに東亜キネマの助監督時代に金田が師事した広瀬五郎の妻となった。 旧制・京都市立第一商業学校(現:京都市立西京高等学校・附属中学校)を卒業し、東亜キネマ等持院撮影所助監督部に入社した。仁科熊彦、広瀬五郎の作品におもに助監督として就いた。同社は1931年(昭和6年)に製作部門が崩壊し、同社が新設した東活映画社に移り、同年12月5日に公開されたサイレント映画『閃影双刃録』で、満25歳で監督に昇進した。同社は翌1932年(昭和7年)10月に解散しており、同社が製作し、金田が大伴麟三と共同で監督したサイレント映画『決戦荒神山』は、同年12月31日、新設の宝塚キネマ興行が配給して公開された。