安部 立郎(あんべ たつろう、1886年2月6日 - 192… 安部 立郎(あんべ たつろう、1886年2月6日 - 1924年2月29日)は、日本の図書館員、郷土史家。 埼玉県川越市生まれ。1903年埼玉県立川越中学校卒業、1909年早稲田大学政治経済学科卒業。学生時代は外交官志望であった。中学時代から図書館設立に努め、学生団体の学生同志会を創設すると、1906年に川越市内に同志会図書館を設立した。1913年には川越尋常高等小学校の図書館と合併し、私立川越図書館となり、同図書館の理事に就任した。1918年に町立川越図書館となると司書として勤務し、郷土資料の収集に努め、近世の地誌類を翻刻する川越叢書の刊行にあたった。資料の収集は文献のみならず、考古資料の調査研究にもあたり、考古学会や東京人類学会の会員となったほか、1919年には梅原末治の紹介により史学研究会に入会した。
李 仁(イ・イン、朝鮮語: 이인、1886年または1890年… 李 仁(イ・イン、朝鮮語: 이인、1886年または1890年9月20日または1896年10月26日 - 1979年4月5日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の独立運動家、弁護士、検察官、裁判官、政治家。米軍政庁大法院長代理、第4代米軍政庁検事局検事総長、過渡政府大検察庁検察総長、初代法務部長官、制憲・第3・5代韓国国会議員(第5代は参議員)を歴任した。 本貫は慶州李氏、号は愛山。李益斎の子孫で、性理学者の李寛俊は祖父、自彊会と大韓協会の中心人物だった李宗栄は父、独立運動家の李始栄(朝鮮語版)は叔父。元国会議員の李泰九(朝鮮語版)は娘婿。 慶尚道大邱都護府(現・韓国大邱広域市)出身だが、先祖代々は慶州に在住。
岡本 利吉(おかもと りきち、1885年(明治18年)12月… 岡本 利吉(おかもと りきち、1885年(明治18年)12月25日 - 1963年(昭和38年)10月14日)は、日本の社会運動家、思想家でもあり、人工言語ボアーボム(Babm)の発明者としても知られる。思想家としては、岡本普意識(おかもと ふいしき)と名乗っていた。 高知市に生まれる。東京郵便電信学校を卒業したのち、逓信省・三菱倉庫に勤務した。その後、1919年(大正8年)に企業立憲協会を組織した。翌1920年(大正9年)には東京亀戸に消費者組合亀戸協働社を開設、関東消費組合に発展させた。1928年(昭和3年)富士山麓愛鷹山中腹に農村青年共働学校を開設して、開墾や自給自足の農本自治を理念とした、農村中堅青年の育成をめざした。
杉山 元治郎(すぎやま もとじろう、1885年11月18日 … 杉山 元治郎(すぎやま もとじろう、1885年11月18日 - 1964年10月11日)は、大正・昭和期の政治家・農民運動家。牧師。 大阪府泉南郡北中通村(現・泉佐野市)出身。大阪府立天王寺農学校在学中にキリスト教徒となる。卒業後和歌山県庁に入庁し、県農会の書記を務める。また同地の日本基督教会に出入りするようになる。同教会の青年たちが非戦論の演説を行い県会で問題となったあおりを受け、杉山は県庁辞職を余儀なくされ、その後東北学院神学部に入学する。 1909年卒業後、仙台市の東六番丁教会の牧師に招聘される。さらに福島県小高町の小高教会に移り、ここで月給1円50銭で牧師を務める傍ら、種苗・農機具・肥料の取次販売を行ったり、近在の村々を巡回して土壌学や肥料学の出張講義を行ったりしていた。
鈴木 文治(すずき ぶんじ、男性、1885年(明治18年)9… 鈴木 文治(すずき ぶんじ、男性、1885年(明治18年)9月4日 - 1946年(昭和21年)3月12日)は、大正から昭和期の政治家、労働運動家。友愛会創始者。日本の労働運動の草分け的存在といわれる。 宮城県栗原郡金成村(現・栗原市)の旧家鈴木益治の長男として生まれる。10歳の頃に父親とともにキリスト教に入信。宮城県尋常中学校志田郡立分校(現・宮城県古川高等学校)を卒業後、旧制山口高等学校に入学。中学卒業前後に家業が傾き、高校時代苦学するなかで、在野のキリスト教伝道師本間俊平の影響により、社会問題に目覚めていく。東京帝国大学法科大学政治学科に入学後は、同郷の先輩である吉野作造とともに、海老名弾正率いる組合派の本郷教会に所属する。
出光 佐三(いでみつ さぞう、1885年〈明治18年〉8月2… 出光 佐三(いでみつ さぞう、1885年〈明治18年〉8月22日 - 1981年〈昭和56年〉3月7日)は、明治から戦後にかけての日本の実業家・石油エンジニア・海事実業家・慈善家。石油元売会社出光興産の創業者。貴族院多額納税者議員。フランス共和国文化勲章コマンドール受章。 神戸高等商業学校(現・神戸大学)卒業。同校で水島銕也校長に師事し「士魂商才」の理念に感化を受ける。同期に高畑誠一、永井幸太郎、和田恒輔。内池廉吉教授の「商業概論」の講義で受けた「商売は金儲けではない」との教えから、1940年に出光興産創業後、大地域小売業を展開した。 弟(六男)・出光計助は1966年10月から1972年1月まで第2代社長。
塚本 虎二(つかもと とらじ、1885年8月2日 - 197… 塚本 虎二(つかもと とらじ、1885年8月2日 - 1973年9月9日)は、キリスト教無教会主義の伝道者、新約聖書研究家。
許 憲(ホ・ホン、きょ けん、1885年7月22日 – 19… 許 憲(ホ・ホン、きょ けん、1885年7月22日 – 1951年8月16日)は、朝鮮の政治家、弁護士、独立運動家。 朝鮮王朝時代の咸鏡北道明川郡に生まれる。普成専門学校を経て、日本の明治大学法学部を卒業し、1907年には大韓帝国の弁護士試験に合格した。 1919年の三・一独立運動では、抗日派の代表的な弁護士として活躍した。その後は、朝鮮共産党の創党に参加し、コミンテルンの承認を得るために送られた曺奉岩が1928年2月に上海で日本の領事館警察に逮捕された事に伴い、京城地方裁判所において無償で彼の弁護を担当した。光州学生事件後のデモに関与して逮捕され、弁護士資格を剥奪、1943年には禁止されていた海外の短波放送を聴取した廉で逮捕され、1945年8月の解放まで収監された。
坂本 清馬(さかもと せいま、1885年〈明治18年〉7月4… 坂本 清馬(さかもと せいま、1885年〈明治18年〉7月4日 - 1975年〈昭和50年〉1月15日)は、日本の社会運動家、幸徳事件(いわゆる大逆事件)で逮捕され、仮釈放後も無実を訴え続けた。 高知県安芸郡元村(のち同郡室戸町、現・室戸市)出身。高知第二中学校を中退し、中退後は上京し、砲兵工廠に勤務する。「平民新聞」を読み、社会主義に関心を持ち、1907年〈明治40年〉に同郷の幸徳秋水の門を叩き、その書生となる。翌年、熊本に移り、「熊本評論」の記者となる。同年赤旗事件が起こり、上京し、幸徳の元に身を寄せた。しかし、意見の相違により幸徳から離れ、各地を移動する。1910年〈明治43年〉東京に戻り、7月26日に「浮浪罪」で逮捕され、8月9日に天皇爆殺を企てた大逆事件の被告として起訴された。
黒澤 酉蔵(くろさわ とりぞう、1885年(明治18年)3月… 黒澤 酉蔵(くろさわ とりぞう、1885年(明治18年)3月28日 - 1982年(昭和57年)2月6日)は、茨城県出身の実業家、酪農家、政治家、教育者、環境運動家。衆議院議員。北海道製酪販売組合連合会(のちの雪印乳業、現在の雪印メグミルク)創業者、北海道酪農義塾(現在の酪農学園大学)設立者。日本の酪農業の発展と北海道開発に功績を残し、日本酪農の父、北海道開発の父と呼ばれる。 1885年(明治18年)3月28日、茨城県久慈郡世矢村小目(現:常陸太田市小目町)で貧しい農家の四人兄弟の長男として生まれる。父母の家ともかっては相当な資産家であったが、黒澤の代には零落しており、又、父による過度の飲酒がもとで負債をつくり、家計は常に苦しかった。
大杉 栄(おおすぎ さかえ、大杉榮、1885年〈明治18年〉… 大杉 栄(おおすぎ さかえ、大杉榮、1885年〈明治18年〉1月17日 - 1923年〈大正12年〉9月16日)は、日本の無政府主義者、思想家、作家、ジャーナリスト、翻訳家、社会運動家。エスペランティスト、自由恋愛主義者でもあった。 愛媛県那珂郡丸亀(現・香川県丸亀市)で生まれた。父親の大杉東(おおすぎ あずま)は愛知県海東郡越治村(現・愛知県津島市)出身の大日本帝国陸軍近衛師団の前身である常時陸軍の軍人で、代々庄屋の家系で親戚にも軍人が多数いる家庭環境だった。その後、東は東京に移って近衛少尉として勤務し、大隊長の仲介によって母・とよ(豊)と結婚した。栄は次男で、はる、きく、伸、まつゑ、勇、進、あき、あやめの兄弟姉妹がいる大家族だった。
林 きむ子(はやし きむこ、明治17年(1884年)12月1… 林 きむ子(はやし きむこ、明治17年(1884年)12月1日 - 昭和42年(1967年)2月2日)は、舞踏家、作家、社会運動家、実業家。 大正三美人の1人として数えられる場合もある。戸籍名は「きん」。日本女子美術学校(同校は後に公立学校化され現在の東京都立忍岡高等学校)卒業。日本舞踊協会監事。 林きむ子は、1884年12月1日、東京の柳橋に生まれた。父は狂言浄瑠璃の祖といわれる初代豊竹和国太夫、母は女義太夫の初代竹本素行であった。 きむ子は7歳のときに新橋の料亭「浜の家」の女将・内田はな(花)の養女となり、跡を継ぐように望まれる、9歳で藤間流の藤間久満、11歳で正派西川流の初代西川喜洲、西川流9代目西川扇蔵に師事し西川扇紫を名乗り、三味線、踊り、お茶、お花など、ありとあらゆる芸事を身につけたという。
古河 力作(ふるかわ りきさく、1884年6月14日 - 1… 古河 力作(ふるかわ りきさく、1884年6月14日 - 1911年1月24日)は、明治時代の無政府主義者。幸徳事件(大逆事件)で処刑された12名の1人。冤罪として名誉回復の運動がある。
何 盛三(が もりぞう、1884年5月8日 - 1948年1… 何 盛三(が もりぞう、1884年5月8日 - 1948年10月10日)は、日本の中国語学者、アジア主義者、社会活動家、エスペランティスト。 東京大学新聞研究所の所長であった何初彦は長男。 苗字の「何」をもじって、エスペラントで"S-ro Kio"、フランス語で"Monsieur Que"(いずれも英語でいえば"Mr. What"、後者は日本語の「無宿」にも掛けている)と名乗った。 東京府出身。日本の造船学の発展に寄与した海軍軍人の赤松則良の三男として生まれ、後に唐通詞の出身であった何礼之の養孫になっている。1930年には「財政整理ノタメ」何家を離れ、赤松家に復籍した。 学習院中等科・高等科で学ぶ。
高木 逸磨(たかぎ いつま、1884年1月24日 - 196… 高木 逸磨(たかぎ いつま、1884年1月24日 - 1960年12月5日 )は、日本の医師、細菌学者、社会事業家、医学博士。 長崎県大村市で高木武夫の長男として生まれる。東京帝国大学医学部卒業後、母校の伝染病研究所(現・東京大学医科学研究所)研究員、医学部助手、講師、助教授を経て教授に就任。さらに、駒込病院長、滝乃川学園医務室長、同仁会華北防疫所長などを歴任した。1929年には、鼠咬症の研究(共同研究)で学士院賞を受賞した。戦後は、横浜医科大学(現・横浜市立大学医学部)学長、滝乃川学園第5代学園長をつとめた。墓所は多磨霊園(3-1-32) 滝乃川学園の創立者石井亮一の妻で、第2代学園長をつとめた石井筆子の実家渡辺男爵家とは縁戚にあたる。
横川 豊野(よこがわ とよの、1883年〈明治16年〉12月… 横川 豊野(よこがわ とよの、1883年〈明治16年〉12月15日 - 1963年〈昭和38年〉11月5日)は、日本の福祉事業家、社会事業家。高知県の中学生向けの寄宿舎「学生ホーム」設立をはじめとして、福祉事業や社会事業に関する多くの役職を歴任し、教育や福祉の分野で大きな業績を残した。旧姓は、清水。 山形県西田川郡鶴岡町(現在の鶴岡市)で誕生した。実家の商家が破産したために上京し。東京明治女学校を経て津田英学塾(現在の津田塾大学)に進学したが、結核のために1906年(明治39年)に中退した。 高知県佐川の商大生と結婚したが、夫は子供が11歳のときに別の女性と関係を持ち、家を出た。豊野は信仰と子供の養育に生涯を捧げようと思ったものの、その息子が脳卒中で死去した。
衛藤 利夫(えとう としお、1883年11月14日 - 19… 衛藤 利夫(えとう としお、1883年11月14日 - 1953年7月7日)は、日本の満州文化史研究者、図書館員。 熊本県上益城郡飯野村(現益城町)出身。五男は衛藤瀋吉。1908年第五高等学校文科退学、東京帝国大学文学部選科に入る、1912年選科修了(大塚保治に師事)。1915年東京帝大司書。1919年満鉄大連図書館司書、1920年奉天簡易図書館主事。1922年満鉄奉天図書館長、1932年大同学院顧問。1941年奉天図書館長を辞任、日本図書館協会理事。1946年同理事長。
北 一輝(きた いっき、本名:北 輝次郎(きた てるじろう)… 北 一輝(きた いっき、本名:北 輝次郎(きた てるじろう)、1883年(明治16年)4月3日 - 1937年(昭和12年)8月19日)は、戦前の日本の思想家、社会運動家、国家社会主義者。二・二六事件を引き起こした皇道派青年将校の理論的指導者として逮捕され、軍法会議にかけられ、死刑判決を受け刑死した。
小口 みち子(おぐち みちこ、1883年2月8日 - 196… 小口 みち子(おぐち みちこ、1883年2月8日 - 1962年7月27日)は、日本の美容家、婦人運動家、小説家。出生名は寺本みち子(てらもと みちこ)、号は美留藻(みるも)。兵庫県出身。 1883年(明治16年)2月8日、兵庫県加東郡社村(加東市)出身。教育者の寺本武・ぬいの長女。旧姓は寺本。号は美留藻(みるも)。小学校卒業後、独学で教員検定試験に合格し、郷里で2年間、神戸市立神戸小学校で3年間、上京後も2年間、小学校正教員の教職に就いた。 同じ時期、平民社の社会主義婦人講演会に出席し「生まれて初めてわが魂をゆさぶる内容」に感銘し、社会主義そのものよりも女性解放に魅せられて平民社に出入りする。
曺 晩植(チョ・マンシク、そう・ばんしょく、1883年2月1… 曺 晩植(チョ・マンシク、そう・ばんしょく、1883年2月1日 - 1950年10月18日)は、朝鮮の独立運動家、教育者、政治家である。雅号は古堂(コダン、고당)。日本へ留学し明治大学法学部を卒業している。 平安南道江西郡に生まれ、1905年に平壌のミッション系スクールである崇実学校に入学し、在学中にキリスト教に入信した。 1908年に崇実学校を卒業した後は、日本へ留学し、1910年まで正則英語学校において英語を学び、1911年には明治大学法学部へ進学した。その際、インドのマハトマ・ガンディーが主唱した「非暴力・不服従」に関する論文に共感、これが後の独立運動における思想の礎となり、「朝鮮のガンジー」と呼ばれる所以となった。
秋田 雨雀(あきた うじゃく、1883年〈明治16年〉1月3… 秋田 雨雀(あきた うじゃく、1883年〈明治16年〉1月30日 - 1962年〈昭和37年〉5月12日)は、日本の劇作家・詩人・童話作家・小説家・社会運動家である。本名は徳三(とくぞう)。 産科医である父玄庵(全盲であった)と、母まつの長男として青森県南津軽郡黒石町(現黒石市)に生まれる。黒石尋常小学校、青森県立第一尋常中学校(青森県立弘前高等学校の前身)を経て東京専門学校(早稲田大学の前身校)英文科に入学する。在学中の1904年、詩集「黎明」を刊行。 1908年、恩師の島村抱月の推薦により、『早稲田文学』6月号に小説「同性の恋」を発表。小山内薫のイプセン研究会の書記をつとめ、戯曲への関心を深める。
久布白 落実(落實、くぶしろ おちみ、1882年 <明治15… 久布白 落実(落實、くぶしろ おちみ、1882年 <明治15年> 12月16日 - 1972年 <昭和47年> 10月23日)は、日本の女性解放運動家。戦前戦後を通じ、女性参政権運動、廃娼運動に尽力した。婦選獲得同盟の総務理事を務めた。位階は正五位。 1882年、熊本県鹿本郡出身の牧師、大久保真次郎と、徳富蘇峰、徳冨蘆花の妹・音羽の長女として生まれる。真次郎は、1902年に渡米し、ハワイとオークランドに日系移民のための教会の設立した人物。幼いころ洗礼を受ける。 1903年(明治36年)、女子学院高等科卒業後、両親の伝道に同行しアメリカへ赴く。1906年に起きたサンフランシスコ地震で、落実は被災者の支援活動を行った際に、日本から移民した娼婦たちが住む地域に通訳として赴き、日系移民女性の悲惨な生活を目の当たりにする矯風会。
工藤 忠(くどう ちゅう、初名は工藤 鉄三郎(くどう てつさ… 工藤 忠(くどう ちゅう、初名は工藤 鉄三郎(くどう てつさぶろう)、のち満洲国執政溥儀から「忠」名を与えられて、戸籍上も工藤忠に改名。明治15年(1882年)12月10日 - 昭和40年(1965年)12月18日)は、明治、大正、昭和期におけるアジア主義者の大陸活動家及び満州国の政治家。満州国の侍衛長。最終階級は満州国侍衛処長、宮内府顧問官。
逢坂 信忢(おうさか しんご、1882年〈明治15年〉9月9… 逢坂 信忢(おうさか しんご、1882年〈明治15年〉9月9日 - 1981年〈昭和56年〉1月7日)は、日本の牧師、伝道者、宗教哲学者、社会運動家、郷土史家、著述家。 新潟県中蒲原郡女池新田(現 新潟市中央区女池)の、女池新田、神道寺新田、および小張ノ木新田の戸長を務めていた名望家・逢坂清治の次男として出生。 1900年(明治33年)3月に新潟県中学校を卒業、1902年(明治35年)7月に札幌農学校予修科を卒業、1908年(明治41年)12月に東北帝国大学農科大学(旧 札幌農学校)農学科(農政学・農業経済学専攻)を卒業。 1915年(大正4年)9月に救世軍に入隊、1916年(大正5年)6月に救世軍士官学校を卒業、中尉に任官、東京銀座小隊長に就任、1917年(大正6年)4月に大尉に任官、1919年(大正8年)春に救世軍を除隊。
河合 義一(かわい ぎいち、1882年(明治15年)3月11… 河合 義一(かわい ぎいち、1882年(明治15年)3月11日 - 1974年(昭和49年)7月25日)は、日本の農民運動家、政治家。衆議院議員(2期)、参議院議員(1期)。 兵庫県加古郡、のちの高砂町(現高砂市)で、蔵元の家に生まれた。同志社中学校で学び、高砂教会で洗礼を受けた。1904年、東京外国語学校仏語科を卒業し、日本銀行に入行。その後、病気となり治癒したが、1911年、日銀を退職して帰郷した。 1919年、高砂町会議員に就任。賀川豊彦の活動に共鳴し農民組合運動に参加。日本農民組合東播連合会長、同兵庫県連合会長を務め、小作争議指導のため投獄されたこともあった。また、日本労農党などを経て社会大衆党に所属し、1937年4月、第20回衆議院議員総選挙に兵庫県第三区から出馬して初当選した。
小倉 清三郎(おぐら せいざぶろう、1882年2月28日 -… 小倉 清三郎(おぐら せいざぶろう、1882年2月28日 - 1941年1月14日)は、大正時代に活躍した日本の性科学者、社会運動家。性の研究のため「相対会」を設立し、雑誌『相対』を出版した。山本宣治と共に「自慰」という言葉を作り、オナニーの有害説を否定した[要出典]。 1882年、福島県須賀川生まれ。国民英学会で英語を学ぶ。同級生に辻潤がいた。キリスト教に傾倒し、熱心なクリスチャンになったが、肉欲との葛藤に悩み、性の研究を始める。26歳で東京帝国大学文学部哲学科に入学し、イギリスの性科学者ハヴロック・エリスの著作を読み、性科学の研究を本格的に始める。 29歳のとき「相対会」を設立し、1913年,『相対会第一組合小倉清三郎研究報告』を発行。
大庭 政世(おおば まさよ、明治15年2月14日(1882年… 大庭 政世(おおば まさよ、明治15年2月14日(1882年) - 昭和14年5月19日(1939年)は、島根県津和野町出身の農民運動家。 日本初の産業組合病院の設立に尽力した。 明治15年(1882年)、鹿足郡須川村(現・津和野町)の小山家で生まれた。 明治35年(1902年)に京都府立農学校を卒業、明治36年(1903年)、愛知県立農事試験場技師に就任。 明治40年(1907年)、青原村(現・津和野町)の大庭家の養子となる。 明治41年(1908年)、帰郷。青年団運動に身を置き、養鶏、養蚕などの新しい技術を取り入れたことが青年団の人望を集める。 大正7年(1918年)、青年団に押された形で青原村産業組合長に就任。
金 東元(キム・ドンウォン、朝鮮語: 김동원、1882年また… 金 東元(キム・ドンウォン、朝鮮語: 김동원、1882年または1884年2月1日 - 没年不詳)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、教育者、大韓民国の政治家。制憲韓国国会議員、初代国会副議長。本貫は全州金氏。 小説家の金東仁は腹違いの弟。 平安南道の平壌市倉田または大同郡出身。1903年、平壌日語学校卒。私立中学郁文館(現・郁文館中学校・高等学校)卒、明治大学法科中退、法政大学卒業または中退。1910年から平壌崇実学校・大成学校・崇徳学校・崇賢女子学校教師、大成学校校長、崇仁学校・崇義学校・崇実学校・セブランス医学専門学校理事または理事長、木材商、平壌ゴム工場経営者を務めたほか、1911年に寺内正毅暗殺事件(105人事件)により1年半投獄され、1922年に安昌浩の興社団の国内組織である同友倶楽部を組織し、1925年に修養同友会に、1930年に同友会にそれぞれ改編した。
海原 清平(かいはら せいへい、1881年〈明治14年〉12… 海原 清平(かいはら せいへい、1881年〈明治14年〉12月1日 - 1962年〈昭和37年〉7月6日)は、日本の政治家、政治活動家。衆議院議員(2期、政友会→政友本党)。 1881年(明治14年)、兵庫県神戸市に生まれる。和仏法律学校(現法政大学)を卒業し、徳島県庁に入る。その後、神戸新聞の記者を経て、徳島県の属官時代に同県知事であった床次竹二郎の知遇を得ていたことで、床次が鉄道院総裁に就くと、その秘書に抜擢される。 内務大臣秘書官に就任した後、第14回衆議院議員総選挙(1920年(大正9年))、第15回衆議院議員総選挙(1924年(大正13年))に徳島1区から出馬し、当選する。 農商務省山林払い下げにおける詐欺事件で1926年(昭和元年)12月28日、東京控訴院から懲役8月執行猶予1年の有罪判決、1927年(昭和2年)4月19日、大審院で上告棄却され、確定となり議員失職。
米窪 満亮(よねくぼ みつすけ、1881年(明治14年)9月… 米窪 満亮(よねくぼ みつすけ、1881年(明治14年)9月16日 - 1951年(昭和26年)1月16日)は、日本の労働運動家、小説家、政治家。日本海員組合副会長を経て、戦後、日本社会党に所属し、片山内閣の国務大臣、初代労働大臣を歴任した。小説家としての筆名は「米窪太刀雄」がある。
島中 雄三(しまなか ゆうぞう、1881年2月18日 - 1… 島中 雄三(しまなか ゆうぞう、1881年2月18日 - 1940年9月16日)は、日本の社会運動家・文芸評論家・編集者・翻訳家。 奈良県磯城郡三輪町(現桜井市)に生まれる。父雄碩(ゆうせき)、母棹枝(さおえ)の二男。5歳年下の弟に中央公論編集長を経て同社社長になった嶋中雄作(兄との混同を避け島中より嶋中に改姓した)がいる。 奈良県立畝傍中学(現奈良県立畝傍高等学校)卒業後、東京法学院(現中央大学)に学ぶが中退。 福島四郎の「婦女新聞」の記者(編集、校正助手)として働いた時期に、同じ編集部で机を並べた3歳年上の下中弥三郎と知り合い、以後無二の親友となる。下中は後に平凡社を創立、「大人名事典」を発行するが、その中の「島中雄三」の項目は、社長の下中自身が執筆したものだった。
田中 正雄(たなか まさお、1881年(明治14年)2月13… 田中 正雄(たなか まさお、1881年(明治14年)2月13日 - 1969年(昭和44年)3月2日)は、大正時代から昭和時代中期にかけての日本の教育学者・社会事業家である。社会福祉法人「六方学園」の創立者である。 島根県旧邑智郡都賀村大字上野の出身である。島根県師範学校を卒業した。 1910年(明治43年)、島根県邑智郡川本町尋常高等小学校校長に就任した。在職中の1916年(大正3年)[要検証 – ノート]から2年間、毎年1ヶ月の夏休暇を利用して東京の滝乃川学園の創設者石井亮一に弟子入りし「治療教育」等の研修を受けた。 1916年(大正5年)2月29日に校長を辞任し、広島市白島町へ一家で移住した。
森近 運平(もりちか うんぺい、1881年〈明治14年〉1月… 森近 運平(もりちか うんぺい、1881年〈明治14年〉1月20日 - 1911年〈明治44年〉1月24日)は、日本の社会主義活動家。 幸徳事件(大逆事件)で処刑された12名の1人である。 岡山県後月郡高屋村(現:岡山県井原市高屋町)出身で、岡山県立農事講習所を卒業後に岡山県職員に採用される。ある日行われた会議の場で戦時国債の不買を呼びかける演説を行ったとして免官となり、1906年(明治39年)2月に日本社会党の結成に参加する。翌年にはジャーナリストの宮武外骨の支援によって「大阪平民新聞」を創刊して社会主義運動に加わるが、1909年(明治42年)に幸徳秋水ら同志と倫理観で意見が対立し、岡山に帰郷した。
金 始顕(キム・シヒョン、朝鮮語: 김시현/金始顯、1881… 金 始顕(キム・シヒョン、朝鮮語: 김시현/金始顯、1881年または1882年または1883年 - 1966年1月3日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の政治家。大韓民国臨時政府委員、東洋工科大学学長、第2・5代韓国国会議員。 本貫は安東金氏。字は九和(クファ、구화)、号は何求(ハグ、하구)、鶴右(ハグ、학우)。独立運動家の権愛羅(朝鮮語版)は妻。 慶尚道安東大都護府(現・慶尚北道安東市豊山面)出身。明治大学法学部卒。三・一運動に参加後、満州の吉林省に亡命し、義烈団に入団した。1922年、モスクワに開催された極東革命団体代表大会に金奎植・呂運亨らとともに韓国代表として参加した。1923年、義烈団の密命を受けて朝鮮に潜入し、日本の朝鮮統治機関の破壊や大日本帝国の要人の暗殺などを計画したが、京畿道警察部の黄鈺(朝鮮語版)と連携して爆弾を朝鮮に輸入し挙事しようとして逮捕され、懲役10年の刑を言い渡された。
山川 均(やまかわ ひとし、1880年(明治13年)12月2… 山川 均(やまかわ ひとし、1880年(明治13年)12月20日 - 1958年(昭和33年)3月23日)は、日本の社会主義者、社会運動家、思想家、評論家。労農派マルクス主義の指導的理論家であった。山川菊栄は2番目の妻。 岡山県窪屋郡倉敷村字城ノ内に生まれる。小学校時代の友人に大原孫三郎がいた。同志社尋常中学部に学び、柏木義円らから影響を受ける。在学中に教育勅語や教会のキリスト教に対して反感と不信を抱き、同志社教師森田久萬人としばしば論争した。 同志社を中退して上京。1900年(明治33年)、守田有秋らの友人と語らって発行していた雑誌『青年の福音』に掲載した皇太子の結婚事情について書いた論説「人生の大惨劇」が不敬罪に問われ、重禁固刑を受ける。
布施 辰治(ふせ たつじ、1880年(明治13年)11月13… 布施 辰治(ふせ たつじ、1880年(明治13年)11月13日 - 1953年(昭和28年)9月13日)は、宮城県出身の弁護士・社会運動家である。日本人として初めて大韓民国建国勲章を受章した。 宮城県牡鹿郡蛇田村(現在の石巻市の一部)の農家に生まれる。少年時代には墨子の兼愛思想に触れ、長じては正教会の洗礼を受け神田ニコライ堂付属の神学校へ入学するなど、若くから平和主義に親しんだが、神学校自体は3か月で退学し、以降は社会運動への参画においてはキリスト教系のトルストイ運動に共感し生涯これを範とし続けたものの、宗教上の立場は結婚を機に妻の信仰である日蓮正宗に改宗した。 初めは東京専門学校(現在の早稲田大学)に入り、次いで明治法律学校(現在の明治大学)に移って1902年に卒業し、22歳で判事検事登用試験に合格、司法官試補となった。
ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(William Merrel… ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(William Merrell Vories、一柳米来留〈ひとつやなぎ めれる〉、1880年10月28日 - 1964年(昭和39年)5月7日)は、アメリカ合衆国(米国)に生まれ、日本で数多くの西洋建築を手懸けた建築家、キリスト教プロテスタントの信徒伝道者、社会事業家、実業家。 1905年(明治38年)にYMCA派遣の英語教師として来日し、生徒のキリスト教青年会(YMCA)活動を通して滋賀県内の伝道を始め、プロテスタントの伝道団体「近江ミッション」を興した。それを支える資金活動として建築事務所「ヴォーリズ合名会社」を興し、こんにちの近江兄弟社グループを築いた。伝道のほか、自給自足の精神で、病院や学校の開設などの社会事業を行った。
大原 孫三郎(おおはら まごさぶろう、1880年7月28日 … 大原 孫三郎(おおはら まごさぶろう、1880年7月28日 - 1943年1月18日)は、日本の実業家・社会事業家・慈善家。倉敷紡績および倉敷毛織(現・クラボウ)、倉敷絹織(現在のクラレ)、中国合同銀行(中国銀行の前身)、中国水力電気会社(中国電力の前身)の社長を歴任、大原財閥を築く。社会・文化事業にも熱心で、財団法人石井記念愛染園、倉紡中央病院(現・倉敷中央病院)、大原美術館、大原奨農会農業研究所(現・岡山大学資源生物科学研究所)、倉敷労働科学研究所(現・大原記念労働科学研究所)、大原社会問題研究所(現法政大学大原社会問題研究所)、私立倉敷商業補習学校(現岡山県立倉敷商業高等学校)を設立。 早稲田大学推薦校友。
松谷 與二郎(略字表記「松谷与二郎」、まつたに よじろう、1… 松谷 與二郎(略字表記「松谷与二郎」、まつたに よじろう、1880年6月4日 - 1937年3月17日)は、日本の政治家、衆議院議員、弁護士、社会活動家。 石川県金沢市生まれ。1903年、明治法律学校卒業。 1914年に弁護士を開業し、虎の門事件で難波大助の国選弁護人を引き受けるなど、社会運動、小作争議の弁護活動に活躍する。 1926年、日本労農党創立に参加、全国大衆党、全国労農大衆党の顧問を務める。1930年、第17回衆議院議員総選挙において東京6区から日本大衆党の候補として出馬し、衆議院議員に初当選する。その後全国大衆党・全国労農大衆党を経て、1932年には社会大衆党の顧問に就く。しかし満州事変の評価をめぐって社大党と対立して離党し、以後新日本建設同盟・国民同盟・日本国家社会党を経て、1934年に勤労日本党総理となった。
大石 スク(おおいし スク、1880年〈明治13年〉5月2日… 大石 スク(おおいし スク、1880年〈明治13年〉5月2日 - 1925年〈大正14年〉5月12日)は、日本の社会事業家。北海道札幌市で初めての保育所である札幌保育園(2018年〈平成30年〉に認定こども園に移行して「さっぽろこども園」と改称)の設立者。北海道の保育事業のさきがけとされる。 1880年(明治13年)、岩手県八幡村(後の花巻市)に誕生した。北海道岩内へ移転後、岩手県盛岡出身の男性と結婚し、3女1男の子宝に恵まれたが、結婚から10年後の1908年(明治41年)に、夫が35歳の若さで病死した。 スクは4人の子供の教育環境や生活環境を整えるため、1916年(大正5年)、当時繁栄していた土地として、倶知安町へ移転した。
高田 慎吾(たかだ しんご、1880年(明治13年)5月1日… 高田 慎吾(たかだ しんご、1880年(明治13年)5月1日 - 1927年(昭和2年)7月5日)は、日本の社会事業家、児童福祉研究家。 熊本の八代に生まれ、東京帝国大学(現在の東京大学)に入学後キリスト教徒となる。在学中に児童保護を中心に社会問題について専攻、研究した。卒業後に東京養育院(現在の東京都長寿健康医療センター)付巣鴨分院の主任を務め、1912年(明治45年)に社会問題を学ぶために渡米した。 翌年帰国後は内務省に勤務し、1918年(大正7年)に退職するまで国立感化院(現在の国立武蔵野学院)の創設に携わり、東洋大学の教授として日本で初の社会事業講座を開講した。退職後は関東地方のみならず関西地方でも社会事業の養成、研究に携わり、大阪の石井記念愛染園が経営する社会事業の研究を行った。
小泉 秀吉(こいずみ ひできち、1879年(明治12年)9月… 小泉 秀吉(こいずみ ひできち、1879年(明治12年)9月21日 - 1959年(昭和34年)2月11日)は、日本の船員、労働運動家、政治家。参議院議員(1期)。 茨城県久慈郡馬場村(後の誉田村大字馬場、現在の常陸太田市馬場町)で、鋳物業・小泉長介、とみ夫妻の六男として生まれた。太田尋常小学校、太田町立太田高等小学校を経て、1893年4月、茨城県尋常中学校に入学。1896年3月、中学第3学年を修了後退学し、同年7月、官立商船学校(現在の東京海洋大学海洋工学部)航海科に入学。1902年1月、同校を卒業した。 大阪商船の貸費生であったので、卒業後直ちに同社に入社し監督課技士となる。1903年夏過ぎ、大阪商船を退職し、同年9月、三井物産船舶部に入社して阿蘇山丸に二等運転士として配属された。
中平 常太郎(なかひら つねたろう、1879年(明治12年)… 中平 常太郎(なかひら つねたろう、1879年(明治12年)3月20日 ‐ 1964年(昭和39年)7月19日) は、明治末から昭和期の醸造家、社会事業家、政治家。参議院議員(1期)、愛媛県宇和島市長。 愛媛県西宇和郡伊方浦(伊方村を経て現伊方町)で生まれた。 1911年(明治44年)9月、北宇和郡会議員に就任。1914年(大正3年)宇和島で醤油醸造業を営む。1915年(大正4年)宇和島町会議員に選出され、1925年(大正14年)12月から1934年(昭和9年)まで宇和島市会議員に在任し、副議長も務めた。また愛媛県方面委員として社会事業に取り組み、1927年(昭和2年)10月、宇和島市民共済会を設立して救貧事業などを進め、授産場での団扇製造販売を手掛けるなどの活動で注目された。
矢吹 慶輝(やぶき けいき、1879年〈明治12年〉2月13… 矢吹 慶輝(やぶき けいき、1879年〈明治12年〉2月13日 - 1939年〈昭和14年〉6月10日)は、日本の宗教学者・社会事業家。旧姓は佐藤。号は隈渓。 1879年、福島県生まれ。東京帝国大学を卒業。卒業後は宗教大学(現大正大学)教授となり、欧米に留学。敦煌出土の仏典を研究し、1925年「三階教之研究」で学士院恩賜賞受賞。勤労児童のための三輪学院を創設、東京市社会局長。1939年、狭心症のため死去。 長男は弁護士の矢吹輝夫(1926-2006)。
鄭 鉞(てい えつ、チェン ユエ、1878年12月24日 -… 鄭 鉞(てい えつ、チェン ユエ、1878年12月24日 - 1943年4月8日)は中華民国の司法官、政治活動家。江蘇高等法院第二分院首席検察官、鄭蘋如の父。鄭英伯、鄭越原とも言う。 1878年、浙江省蘭渓県に生まれる。1906年に日本に留学し、岩倉鉄道学校に入学する。同時期に政治結社の中国同盟会に入会する。岩倉鉄道学校を中退し、法政大学法政速成科に入学し、法政速成科を卒業後、専門部法律科に進学し、1912年に卒業する。留学中に、木村はな(鄭華君)と出会い、結婚する。 1916年に上海に帰国し、律師(弁護士)資格を取得する。1919年、陝西靖国軍に参加し、一等秘書に任命される。陝西靖国軍解散後は、上海に戻り、律師をしながら、復旦大学で法学を教える。
若林 快三(わかばやし かいぞう、明治11年(1878)1月… 若林 快三(わかばやし かいぞう、明治11年(1878)1月24日 ~ 大正10年(1921)7月6日)は、満蒙独立運動に関わった活動家である。 明治29年(1896)9月22日に原田村(現・島根県隠岐郡 隠岐の島町 原田)の秋庭源太の養嗣子となるが、明治30年(1897)5月24日離縁、父親・彰信の戸籍に戻る。 明治31年(1898)1月31日に彰信の戸籍より分家届出。 明治34年(1901)1月に設立された黒龍会(国家主義団体)に所属。第一次満蒙独立運動(大正元年・1912年)、第二次満蒙独立運動(大正5年・1916年)に関り、殉難した。 現在のモンゴル国にはいった最初の島根県人とされている。
小池 九一(こいけ きゅういち、明治11年(1878年1月2… 小池 九一(こいけ きゅういち、明治11年(1878年1月24日) - 昭和30年(1955年)12月5日)は、明治から昭和時代の社会事業家。大正7年(1918年11月30日)私立感化教育機関札幌報恩学園創立。少年教護と障害児救済につくした。 長野県筑摩郡松本(現松本市)の商家の長男として生まれる。小学に入学後すぐに、父が米相場に手を出し家が破産。その後間もなく母と父も亡くなり10歳の時より紙問屋に年期丁稚奉公に入る。この時より慈善貯金を始め公共慈善の為に70回以上も支出した。23歳の時13年奉公した奉公先を辞め、1900年(明治33年)に小池家再興のため新天地、北海道函館区の地を踏む。同年空知支庁長・山田有斌が身元引受人となり空知支庁に採用される。
南 梅吉(みなみ うめきち、1877年(明治10年)5月10… 南 梅吉(みなみ うめきち、1877年(明治10年)5月10日 - 1947年(昭和22年)10月24日)は、日本の社会運動家、部落解放運動家、水平運動家。全国水平社初代委員長、日本水平社初代会長。 滋賀県蒲生郡桐原村(現近江八幡市)の農家に生まれた。孤児となり親族に保育される。小学校卒業後、京都に出て徒弟奉公ののち竹皮草履の仲介業をはじめる。 1894年(明治27年)、京都市上京区鷹野北町に移り化粧品製造に従事。1902年(明治35年)から部落改善運動(融和運動)に携わり、青年団を結成。青年団長や村議会議員を務めた。 1922年(大正11年)、全国水平社(全水)の初代委員長となり、京都の自宅に総本部が置かれた。
廖 仲愷(りょう ちゅうがい、1877年4月23日 - 19… 廖 仲愷(りょう ちゅうがい、1877年4月23日 - 1925年8月20日)は、清末民初の革命家・政治家。中国同盟会以来の革命派人士で、中国国民党では容共左派の指導者として知られる。仲愷は字で、名は恩煦。別名に夷白。筆名に屠富、淵実。祖貫は広東省恵州府帰善県。兄は廖鳳書。妻は何香凝。子は廖夢醒、廖承志。 アメリカ合衆国サンフランシスコで、客家の銀行員の家庭に生まれる。1893年(光緒19年)に母を伴って帰国し、1896年(光緒23年)には香港に赴いて英語を習得した。翌1897年(光緒24年)10月に何香凝と結婚している。1902年(光緒28年)に日本へ留学し、早稲田大学経済予科を経て中央大学政治経済科に入学した。
青木 まつ(あおき まつ、1877年〈明治10年〉1月10日… 青木 まつ(あおき まつ、1877年〈明治10年〉1月10日 - 1959年〈昭和34年〉1月23日)は、日本の社会事業家。兵庫県姫路出身。旧姓は吉川。バプテスト派の婦人宣教師タムソン夫人の片腕として、日本初の福祉的幼稚園である善隣幼稚園で、恵まれない子供たちの保育に尽力した。 1877年に兵庫県姫路で誕生、横浜の捜真女学校(現・捜真女学校中学部・高等学部)を卒業した。 1895年(明治28年)にタムソン夫人が神戸の葺合地区に、神戸の恵まれない子供たちのために、善隣幼稚園を設立した後、同幼稚園に勤めて、タムソンの片腕となり、その後の約40年間にわたって、保母として仕事を助けた。「善隣」名は「善い隣人として地域社会の改善を図る」との意味で、まつが発案した名前である。