田 英夫(でん ひでお、1923年(大正12年)6月9日 -… 田 英夫(でん ひでお、1923年(大正12年)6月9日 - 2009年(平成21年)11月13日)は、日本のジャーナリスト、政治家。従三位勲一等。参議院議員を務めた。 貴族院勅選議員や台湾総督を務めた男爵・田健治郎の次男である田誠(鉄道省国際観光局長や華中鉄道副総裁を歴任)の次男として、東京で生まれる。政治家の田艇吉は大伯父、江戸時代の女流歌人・田捨女は先祖にあたる。 旧制学習院高等科を卒業した年1943年(昭和18年)の東京帝国大学入学直後、学徒出陣で海軍に入隊。海軍兵科第4期予備学生を経て、第16震洋特別攻撃隊艇隊長として宮崎県の赤水で訓練を重ねていたが、出撃命令が下る前、海軍中尉で終戦を迎え復員した。
武山 泰雄(たけやま やすお、1923年2月1日 - 200… 武山 泰雄(たけやま やすお、1923年2月1日 - 2005年4月20日)は、日本のジャーナリスト。 東京都生まれ。短期現役海軍主計科士官(11期)を志願し、1944年(昭和19年)2月に海軍主計見習尉官となり海軍経理学校に入校。同年9月に経理学校を卒業し、光海軍工廠に配属され、会計部材料課員として製鋼原料入手を担当。同年12月、海軍主計少尉に任官。1945年(昭和20年)4月、海軍航空本部出仕・海軍艦政本部出仕・広島監督官兼呉運輸部員に転じた。同年8月6日、広島駅で被爆し負傷したが命を取り留め、同年9月に主計中尉に進み、同年11月予備役に編入され解員(復員)した。 1946年(昭和21年)東京商科大学卒。
高田 富佐雄(たかだ ふさお、1923年 - 1991年10… 高田 富佐雄(たかだ ふさお、1923年 - 1991年10月30日)は、日本のジャーナリスト、中国研究家。 佐賀県出身。東亜同文書院大学卒。毎日新聞記者となり、中国に勤務、江頭数馬らと文化大革命に遭遇。1966年ボーン・上田記念国際記者賞を受賞。のち毎日を退社、大森実の「東京オブザーヴァー」に参加。
岡部 冬彦(おかべ ふゆひこ、1922年12月27日 - 2… 岡部 冬彦(おかべ ふゆひこ、1922年12月27日 - 2005年5月16日)は、東京出身の漫画家、科学ジャーナリスト。埼玉県さいたま市に在住していた。 東京生まれ。東京美術学校(現東京芸術大学)卒。卒業後、ライオン歯磨宣伝部を経て、漫画家となった。漫画集団同人。名取洋之助が編集していた『岩波写真文庫』の現場で、三木淳、稲村隆正らともに学ぶ。またスタッフだった女性デザイナーと結婚した。 1956年から13年間『週刊朝日』に『アッちゃん』を連載し、サラリーマン家庭の暮らしぶりを子どもの視点からユーモラスに描いた作風で人気を博す。せりふのない4コマ漫画『ベビーギャング』、外国漫画の影響を受けた『アツカマ氏』『オヤカマ氏』などの作品で人気を博した。
申 相楚(シン・サンチョ、朝鮮語: 신상초、1922年12月… 申 相楚(シン・サンチョ、朝鮮語: 신상초、1922年12月15日 - 1989年2月29日)は、大韓民国のジャーナリスト、教授、政治家、独立運動家。第5・9・10・11代韓国国会議員。本貫は平山申氏、号は月崗(ウォルガン、월강)。 平安北道定州出身。1935年に新義州高等普通学校を卒業。1942年に福岡高等学校の文科を経て、東京帝国大学(現・東京大学)法学部に入学した。1944年に学徒出陣により中国戦線に配置されたが、済南の部隊より八路軍地区に脱走し、同じく徐州の部隊より脱走した厳永植(엄영식)らと朝鮮義勇軍の一員として抗日活動に参加した。解放後の1946年に朝鮮義勇軍東満洲支隊から帰郷したが、北朝鮮共産当局によって逮捕され、17ヶ月間に監獄で過ごした。
大塚 利兵衛(おおつか りへえ、1922年 〈大正11年〉1… 大塚 利兵衛(おおつか りへえ、1922年 〈大正11年〉10月31日 - 2021年〈令和3年〉1月6日)は、日本のアナウンサー、フリージャーナリスト。 静岡県藤枝市出身。中央大学時代、学徒動員のためマレーシアにおり、終戦後は同国の刑務所で捕虜となった。 1947年に復員帰国して中央大学に復学後、「アナウンサー募集」の広告を見つけて応募し、日本放送協会入局を果たす。同時期入局は小川宏、八木治郎、木島則夫、野村泰治らがおり。入局後はアナウンス職に配属されてNHK釧路放送局、NHK札幌放送局に勤務して東京アナウンス室に異動。東京アナウンス室時代は報道番組を専門としてアナウンスを担当。 アナウンサーとして数々の歴史的事件や場面に遭遇したことでも知られ、自ら現場に向かってその一部始終をくまなくリポートしたことでも知られる。
清水 英夫(しみず ひでお、1922年10月21日 - 20… 清水 英夫(しみず ひでお、1922年10月21日 - 2013年6月19日)は、日本の法学者、ジャーナリスト、弁護士。青山学院大学名誉教授。 東京府東京市本郷区出身。1942年9月東京高等学校 (旧制)卒業。1943年12月大日本帝国陸軍に召集。1945年復員。1947年3月東京帝国大学法学部政治学科卒業。 1947年4月中央公論社に入社、1949年10月同社を退社し、日本評論社に入社、その後、同社法学セミナー編集長、同社『法律時報』編集長、同社出版部長を経て、1966年4月青山学院女子短期大学助教授に就任。 1968年4月青山学院女子短期大学教授。1972年4月青山学院大学法学部教授、1983年青山学院大学法学部長。
内田 健三(うちだ けんぞう、1922年7月28日 - 20… 内田 健三(うちだ けんぞう、1922年7月28日 - 2010年7月9日)は、日本の政治評論家・政治ジャーナリスト。元共同通信社政治部長・論説委員長。退職後、法政大学法学部教授。東海大学教授を歴任。専門は、日本政治論、政治過程論。 熊本県八代郡氷川町(旧竜北町)生まれ、祖父内田康哉は外交官、政治家。旧制八代中学(現・熊本県立八代高等学校)、旧制第五高等学校卒業。旧制東京帝国大学在学中に、学徒出陣し、内蒙古・駐蒙軍に従軍。抑留・復員後、新制東京大学法学部に復学し、政治学者・丸山眞男に師事。1953年に東京大学法学部を卒業し、共同通信社に入社。以後岸内閣の安保闘争から小泉内閣まで50年以上にわたり、日本の政治の動向を取材・分析した。
大森 実(おおもり みのる、1922年1月13日 - 201… 大森 実(おおもり みのる、1922年1月13日 - 2010年3月25日〈日本時間3月26日〉)は、日本のジャーナリスト。兵庫県神戸市出身。 作家の柴田錬三郎は従兄弟。
縫田 曄子(ぬいた ようこ、1922年1月1日 - 2024… 縫田 曄子(ぬいた ようこ、1922年1月1日 - 2024年9月9日)は、日本のジャーナリスト。女性初のNHK解説委員、東京都民生局長、国立婦人教育会館初代館長、市川房枝記念会理事長などをつとめた。 1922年(大正11年)1月1日、中国の上海で生まれた。上海は、中国問題専門家のジャーナリストだった父、太田宇之助の赴任先だった。名前の「曄」には「日本と中華の懸け橋になるように」という願いがこめられた。 1939年(昭和14年)、立教高等女学校を卒業し、津田英学塾に入学した。1942年(昭和17年)9月、津田英学塾を繰り上げ卒業した。卒業後、半年ほど国際文化振興会調査部に勤務した。同期に堀田善衛がいた。
韮沢 忠雄(にらさわ ただお、1922年 - 2007年)は… 韮沢 忠雄(にらさわ ただお、1922年 - 2007年)は、日本のジャーナリスト。日本共産党で赤旗編集局長等を歴任し、既存マスコミの報道におけるタブーへの批判などを展開した。 長野県小諸町生まれ。実家は洋服屋。小諸商業学校(現長野県小諸商業高等学校)を経て、旧制東京商科大学(現一橋大学)に進学。大学在学中金沢で陸軍に勤務。高島善哉ゼミ出身。 大学に復学後、共産党シンパの学生らで組織された民主主義科学研究会(民研)に本間要一郎(のちに横浜国立大学名誉教授)、岡稔(のちに一橋大学教授)、佐藤定幸(のちに一橋大学名誉教授)らとともに参加し、主要メンバーとして活動した。民研はのちに、学生自治会委員長となった弓削達(のちに東京大学名誉教授)から批判を受けるなどし解散して社会科学研究会に改組した。
村尾 清一(むらお きよかず、1922年 - )は、日本のジ… 村尾 清一(むらお きよかず、1922年 - )は、日本のジャーナリスト、文筆家。 香川県香川郡直島町生まれ。京都三高から、東京大学法学部政治学科卒業。 二代目・週刊新潮編集長の野平健一は旧三高時代の同級生。仏文学者の河盛好蔵は、京都三高の同じフランス文学のクラスの先輩だった。 終戦3年目の1948年に読売新聞社に入社し、社会部記者となる。 1953年 中東特派員で英国エリザベス女王の戴冠式を取材。1954年3月には第五福竜丸事件のスクープ報道に関わり、放射性降下物について「死の灰」という造語で伝えた。同年1月に、辻本芳雄(社会部次長)のもとで原子物理学に関する解説連載記事「ついに太陽をとらえた」に関わっていたことが早い初動につながったという。
岩田 礼(いわた れい、1921年11月27日 - 2002… 岩田 礼(いわた れい、1921年11月27日 - 2002年)は、日本のジャーナリスト、ノンフィクション作家。 下関市生まれ。本籍・宮崎県。本名・戸島和郎。1943年毎日新聞社西部本社入社。直後に召集を受ける。46年復員し復職。久留米支局長、徳山支局長、学芸課副参事、76年定年退職。毎日文化センターの自分史・文章講座講師。91年第1回北九州市自分史文学大賞受賞。
新庄 哲夫(しんじょう てつお、1921年10月28日 - … 新庄 哲夫(しんじょう てつお、1921年10月28日 - 2006年1月10日)は、日本のアメリカ文学者、ジャーナリスト、編集者、翻訳家。本名は新庄 哲雄(読みは同じ)。 アメリカ合衆国サンフランシスコ生まれ、山口県岩国市が本籍。1943年学徒動員により青山学院英文科を繰り上げ卒業、東京新聞外報部勤務となり、戦時下の外務省、戦後のGHQを担当。1953年にハーマン・ウォークの『ケイン号の反乱』の翻訳を上梓しベストセラーとなる。1957年出版部勤務となり「週刊東京」担当、1960年の同誌廃刊とともに本社編集委員。朝夕刊のコラムを執筆、1968年に退社。 大妻女子大学短期大学部教授に就任後、数多くの英米の小説、ノンフィクションを翻訳。
韓 建洙(ハン・ゴンス、朝鮮語: 한건수/韓建洙、1921年… 韓 建洙(ハン・ゴンス、朝鮮語: 한건수/韓建洙、1921年8月10日 - 1994年8月5日)は、大韓民国のジャーナリスト、政治家、実業家。 第6・8・9・10代韓国国会議員。本貫は清州韓氏、号は鳳巌(ボンアム、봉암/鳳巖)。 元の名前の漢字表記は韓 鍵洙(ハングル表記同じ)であったが、煩雑であったため第2代総選挙の後は金偏のない「韓 建洙」の名前を選挙区民宛のハガキと手紙に使用した。その後は裁判所により改名許可を受けた。 日本統治時代の忠清南道礼山郡に生まれた。礼山農業学校(現在は廃校)を卒業後に渡日し、早稲田大学法学科を卒業した。 世界日報社編集局次長、批判新聞の主筆などを務めた後、1948年より監察委員会(2022年現在は監査院)情報課長、調査課長、1951年より政界公論主筆、1952年より弘益大学校事務処長を務めた。
三雲 四郎(みくも しろう、1921年(大正10年)7月28… 三雲 四郎(みくも しろう、1921年(大正10年)7月28日 - 2007年(平成19年)1月11日)は、日本のジャーナリスト。産業経済新聞社取締役論説委員長。 鹿児島県出身。学徒出陣後に復学し、慶應義塾大学経済学部を卒業。 「自分はペンで生活していきたい」と、1946年産業経済新聞社に入社。本社経済部長や編集局次長、外信記者としてロンドン特派員、パリ支局長、欧州総局長を務めたほか、論説委員長も担った。娘・孝江も小学2年の夏から小学6年までロンドンで過ごしたという。 1971年に東京都公害審査委員会委員に就任し、1983年3月まで務めた。 2007年1月11日午後8時2分、肺炎のため東京都内の病院で死去。
木屋 隆安(きや たかやす、1921年6月1日 - 1992… 木屋 隆安(きや たかやす、1921年6月1日 - 1992年3月11日)は、日本の作家、ジャーナリスト。 東京市芝白金三光町に生まれる。本籍・福岡県。1942年大東文化学院本科卒業、広島文理科大学文学部史学科入学。43年11月学徒動員、福岡歩兵24連隊入隊。45年満洲でソ連に捕えられ抑留、1950年に帰国、時事通信社入社、松山支社、本社政治部、地方部、外信部員、香港特派員、前橋支部長(モスクワ特派員の内示を受けるが入国拒否に遭う)。社会部次長、文化部長、社会部長、72年退社、1973年内外ニュース主筆、78年退社、中外ニュース社取締役主筆・編集主幹、専務。吉川晋に師事して小説も書いた。
堀 古蝶(ほり こちょう、1921年5月23日 - 1997… 堀 古蝶(ほり こちょう、1921年5月23日 - 1997年10月6日)は、ジャーナリスト、俳人。 愛知県名古屋市生まれ。本名・堀健三。名古屋高等商業学校卒、神戸大学卒。1948年中部日本新聞に入社、ニューデリー特派員、モスクワ特派員、論説委員、1972年「東京新聞」の「筆洗」欄を担当。モスクワ滞在の際「フルシチョフ」をもじって古蝶(ふるしてふ)の俳号をつける。東京新聞客員論説委員。1993年『俳人松瀬青々』で俳人協会評論賞受賞。
大石 巌(おおいし いわお、1921年〈大正10年〉2月19… 大石 巌(おおいし いわお、1921年〈大正10年〉2月19日 - 2002年〈平成14年〉3月3日)は、日本の実業家、経営者、ジャーナリスト、証券アナリスト。新日本証券会長。毎日新聞社社友。静岡県出身。 静岡県立静岡中学校から、静岡高等学校 (旧制)に進み、1942年(昭和17年)東京帝国大学法学部卒業。同年、東京日日新聞社入社、経済部記者。日銀記者クラブのキャップなどを務めた。のちに、毎日オリオンズ出向、営業部長。1961年(昭和36年)、毎日新聞を離籍し大商証券に転じ、福岡支店長を経て、1964年(昭和39年)、取締役。1967年(昭和42年)、合併により新日本証券取締役。1975年(昭和50年)、同副社長。
河原 敏明(かわはら としあき、1921年 - )は、日本の… 河原 敏明(かわはら としあき、1921年 - )は、日本の皇室ジャーナリスト。元拓殖大学客員教授。 北海道旭川市生まれ。1935年(昭和10年)、東京府東京市(現在の東京都)に移住。明治大学専門部経営学科と東京教育大学文学部史学聴講課程に学ぶ。『婦人倶楽部』(講談社)増刊のグラフ誌『皇族画報』や『華族画報』に親しんだことが皇室に興味を抱くきっかけとなる。 1955年(昭和30年)、伊馬春部とともに執筆した原案をもとに脚本家の金貝省三がストーリーを執筆、長谷川公之が脚本化した『皇太子の花嫁』を、新東宝が小森白を監督に製作、同年4月5日に公開した。1952年(昭和27年)ごろから皇室ジャーナリストを自称するようになり、「皇室秘話」とされるエピソードの類を数多く発表する。
閔 庚植(ミン・ギョンシク、朝鮮語: 민경식、1920年12… 閔 庚植(ミン・ギョンシク、朝鮮語: 민경식、1920年12月30日 - 2000年12月22日)は、満洲国のジャーナリスト、大韓民国の政治家、実業家。制憲韓国国会議員。 本貫は驪興閔氏。号は三隠(サムン、三隱/삼은)。 日本統治時代の京畿道龍仁郡(現・龍仁市器興区)出身。日本大学芸術科卒。満州日報記者、大韓青年団員を経て、1948年の初代総選挙に大韓独立促成国民会の候補として龍仁選挙区より出馬し、国会議員に当選した。その後は韓国ポプラ社長を務め、1960年代には全国でポプラの植樹運動を推進した。2000年に死去、享年80。
富原 孝(とみはら たかし、1920年7月15日 - 200… 富原 孝(とみはら たかし、1920年7月15日 - 2006年3月8日)は、北海道出身の詩人、ジャーナリスト、国際芸能プロモーター。 若い頃からヴァレリーやリルケに傾倒。金子光晴に師事し、新聞記者のかたわら、河邨文一郎らと同人を結成し、詩を次々に発表。特に、アイヌ・コシャマインの戦いを題材にした長篇叙事詩『クオンタインとシクフ』は傑作とされる。「野性」「至上律」「ポエム」「核」同人。1957年に、「赤い呼び屋」と称された神彰のアート・フレンド・アソシエーション(AFA)に参画。制作部長として、木原啓允、工藤精一郎らとともに神彰を支え、数々の国際プロモーションを行う。 1920年、北海道七飯村(現七飯町)の農家に、父輝美、母志づの長男として生まれる。
今井 金吾(いまい きんご、大正9年(1920年)7月5日 … 今井 金吾(いまい きんご、大正9年(1920年)7月5日 - 平成22年(2010年)5月2日)は、日本のジャーナリスト、文筆家、江戸・街道研究家。日本経済新聞社記者。街道歩きの第一人者[要出典]。『半七捕物帳』の研究でも知られる。 大正9年(1920年)7月5日、東京府東京市神田区に生まれ育つ。後に品川区大井に移る。先祖は群馬県碓氷郡坂本町(現安中市松井田町坂本)という。 戦後間もない昭和21年(1946年)、早稲田大学を卒業して日本経済新聞社に入社、社会部に配属され、帝銀事件・下山事件・三鷹事件等の取材に関わった。警視庁キャップ、婦人家庭部長、大阪本社社会部長、東京本社地方部長、札幌支社長等を歴て、昭和49年(1974年)定年退職した。
北川 晃二(きたがわ こうじ、1920年6月4日 - 199… 北川 晃二(きたがわ こうじ、1920年6月4日 - 1994年2月27日)は、日本の編集者、ジャーナリスト、小説家。フクニチ新聞社社長。 福岡県添田町出身。 1938年福岡県中学修猷館を経て、1943年西南学院高等部英文科を卒業。 北京日本大使館調査課報道班に勤務。応召によって北支派遣軍第63師団から久留米師団に転属、同地で終戦を迎えた。 復員後、福岡市の図書出版惇信堂に入社し、南風書房を設立。1946年6月、真鍋呉夫らと文芸誌「午前」を創刊。創刊号に掲載された小説「逃亡」が火野葦平に賞賛され、第1回九州小説賞を受賞。編集者として檀一雄、三島由紀夫らの寄稿を得るなど手腕を発揮する一方、新鋭作家として注目され東京の文芸誌「群像」などに作品を発表した。
永井 萠二(ながい ほうじ、1920年5月4日 - 1993… 永井 萠二(ながい ほうじ、1920年5月4日 - 1993年9月6日)は、日本のジャーナリスト、児童文学作家。 東京生まれ。父の萬助は新聞記者。早稲田大学文学部社会学科卒業。在学中は早大童話会に所属。 1946年朝日新聞社に入社、戦後は出版局編集委員を務める。児童向けのノンフィクションやルポルタージュを執筆。 1956年『ささぶね船長』でサンケイ児童出版文化賞受賞。のち聖徳学園短期大学教授を務めた。墓所は多磨霊園。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
岸田 純之助(きしだ じゅんのすけ、1920年3月22日 -… 岸田 純之助(きしだ じゅんのすけ、1920年3月22日 - 2012年9月25日)は、日本の科学ジャーナリスト。 鳥取県出身。東京帝国大学第一工学部卒業。大日本帝国海軍で航空機設計に従事。1946年朝日新聞社に入社。『科学朝日』編集部員、論説委員を経て、1977年論説主幹。1985年日本総合研究所 (財団法人) 会長。1994年日本科学技術ジャーナリスト会議会長。日本原子力文化振興財団監事、日本総合研究所名誉会長。 2012年9月25日、肺炎のために死去。92歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
酒井 新二(さかい しんじ、1920年1月4日 - 2016… 酒井 新二(さかい しんじ、1920年1月4日 - 2016年12月18日)は、日本のジャーナリスト。 東京都千代田区神田須田町に自転車屋を営む家の7人兄弟の次男として生まれる。浦和高等学校を経て東京帝国大学法学部政治学科(南原繁研究室所属)を卒業。短期現役海軍主計科士官(9期)を志願し、1942年9月に海軍経理学校に入校。1943年(昭和18年)1月、海軍主計中尉に任官し経理学校を卒業。太平洋戦争に従軍しラバウルをはじめ南方海域を転戦。1944年5月に海軍主計大尉に進む。1945年8月6日の広島原爆を呉にて、9日の長崎原爆を大村にて体験。松山海軍航空隊主計長兼同地軍需部支部員として終戦を迎えた。
崔 成雄(チェ・ソンウン、朝鮮語: 최성웅、1920年 - … 崔 成雄(チェ・ソンウン、朝鮮語: 최성웅、1920年 - 1989年1月27日)は、大韓民国のジャーナリスト、政治家。第2代韓国国会議員。 慶南密陽出身。早稲田大学卒。大東新聞(大同新聞)密陽支局長、大韓青年団(韓国青年団)密陽郡団長、孤児院長を務めた。 国会議員在任中は郷校財産管理法案を提出した。 5・26政治波動の時、憲兵司令官の元容徳将軍の胸ぐらを掴んで「お前国会議員か」と言った。
斎藤吉史(さいとう よしふみ、1919年12月1日 - 19… 斎藤吉史(さいとう よしふみ、1919年12月1日 - 1991年1月12日)は、日本のジャーナリスト、アジア学者。 島根県益田市出身。東京文理科大学卒。1946年朝日新聞社に入り、アジア総局長、外報部長、論説委員をへて、1980年文教大学教授。「朝日新聞」書評委員を務めた。 1991年1月12日、膵臓癌のため死去。
向井 啓雄(むかい ひろお、1919年10月14日 - 19… 向井 啓雄(むかい ひろお、1919年10月14日 - 1983年)は、ジャーナリスト、翻訳家。ロンドン出身。向井忠晴の子。 1942年、慶應義塾大学英文科卒。45-52年、アメリカピッツバーグ大学でジャーナリズムを学ぶ。54-55年、イギリス、アフリカを視察。同盟通信社、共同通信社、進駐軍施設、凸版印刷などに勤務。
伊藤 喜久蔵(いとう きくぞう、1919年7月24日 - 2… 伊藤 喜久蔵(いとう きくぞう、1919年7月24日 - 2008年2月27日)は日本のジャーナリスト、中国研究者、中日新聞東京支社記者・論説委員。旧姓は中山。 京都府生まれ。戦前の上海にあった東亜同文書院大学を卒業。 その後中日新聞社に入社し、中日新聞記者として文化大革命当時の中国に駐在し、中国の内情を報道した。1967年2月、1966年度ボーン国際記者賞(現・ボーン・上田記念国際記者賞)を受賞。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
長谷川 仁(はせがわ じん、1919年(大正8年)4月13日… 長谷川 仁(はせがわ じん、1919年(大正8年)4月13日 - 1994年(平成6年)3月11日)は、昭和期のジャーナリスト、政治家。参議院議員(2期、自由民主党)。 茨城県出身。1938年(昭和13年)上智大学新聞学科卒業。卒業後は同盟通信社記者となり、東亜部南京支局、広東支局で勤務し、陸軍報道班員を務めた。戦後の1946年(昭和21年)に産経新聞社に入る。産経新聞では香港支局長、台湾支局長、東南アジア総局長、北京特派員、東京本社論説委員などを歴任する。 1962年(昭和37年)7月の第6回参議院議員通常選挙で自由民主党公認で全国区から立候補して当選する。1968年(昭和43年)7月の第8回通常選挙(全国区)でも再選され、参議院議員に連続2期在任した。
朴 甲東(パク・カプトン、朝鮮語: 박갑동、1919年3月3… 朴 甲東(パク・カプトン、朝鮮語: 박갑동、1919年3月31日 - 没年不詳)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、朝鮮民主主義人民共和国の官僚、ジャーナリスト、日本の実業家、大韓民国の人権活動家。朝鮮民主統一救国戦線常任議長。 日本統治時代の慶尚南道山清郡出身。16歳の時に渡日し、早稲田大学政治経済学部政治学科卒。1941年に帰国し独立運動に参加した。解放日報政治部記者、労力人民編集部長などを務め、1950年4月に南朝鮮労働党地下総責となるも同年6月に朝鮮戦争に非協力だったという理由で解職された。その後、文化宣伝省(現在は廃止)欧州部長を務めるが、1953年に金日成による粛清に巻き込まれ逮捕・監禁されたが、釈放された。
崔 泰奎(チェ・テギュ、朝鮮語: 최태규、1919年3月30… 崔 泰奎(チェ・テギュ、朝鮮語: 최태규、1919年3月30日または1923年 - 2009年10月16日)は、大韓民国および朝鮮民主主義人民共和国の政治家、ジャーナリスト。制憲韓国国会議員、最高人民会議代議員(代不明)。 崔 泰圭(読み、ハングル表記同じ)という表記も見られる。 日本統治時代の江原道旌善郡出身。軍花洞公立国民学校を卒業後、専修大学法学部3年時に徴兵のため帰国した。戦災同胞援護会消費組合理事、大韓日報政経部、大東新聞の記者などを務めた後、1948年の初代総選挙に旌善郡選挙区より無所属で出馬し当選した。その後、国会フラクション事件に関与したとして投獄中、1950年6月ごろに北朝鮮に拉致された。
寺山 義雄(てらやま よしお、1919年3月28日 - 20… 寺山 義雄(てらやま よしお、1919年3月28日 - 2002年10月26日)は、農政ジャーナリスト。 埼玉県大宮市(現さいたま市)出身。1943年早稲田大学政治経済学部卒、同盟通信社に入社、1945年共同通信社、1962年論説委員。79年退社。農政について多くの記事を書き、取材を行った。 2002年10月26日死去。83歳没。
吉村 克己(よしむら かつみ、1919年(大正8年)3月14… 吉村 克己(よしむら かつみ、1919年(大正8年)3月14日 - 1997年(平成9年)7月2日)は、日本のジャーナリスト、実業家。産業経済新聞社編集局次長を経て、フジテレビジョン専務取締役、サンケイ出版会長等を歴任した。 広島県生まれ。慶應義塾大学経済学部を卒業。軍務の後、1946年に時事新報社へ入社。 1955年に産業経済新聞社に移り、政治部長、編集局次長。1970年にフジテレビへ移籍し、報道局長、取締役報道局長、取締役報道本部長、常務取締役、専務取締役。 1981年にサンケイ出版会長。 1997年7月2日、東京都江戸川区の病院で脳梗塞のため死去。78歳没。 水野成夫時代の産経新聞社は、政治的には池田勇人首相と水野の親密な関係から政権と密着し、他方、池田は新聞社の編集幹部人事などに介入した。
好村 三郎(よしむら さぶろう、1919年 - 2012年)… 好村 三郎(よしむら さぶろう、1919年 - 2012年)は、日本のジャーナリスト、新聞記者、野球選手。朝日新聞社運動部長、東海大学教授。立教大学では野球部の4番・エースとして東京六大学リーグで活躍し、主将と監督も兼ね、立大野球部初の三割打者となった。日本アマ野球規則委員会顧問、日米大学野球組織委員。 1919年(大正8年)、兵庫県芦屋に生まれる。旧制灘中学校に入学し、野球部で右投げ左打ちの投手、主力打者として活躍。 1937年(昭和12年)3月、立教大学に入学。野球部で投手、主力打者としてプレーし、主将、監督も兼ねた。終身打率は3割4厘で、東京六大学野球史上13番目の終身打率三割打者となり、立教大学野球部としても初の三割打者となった。
後藤 基夫(ごとう もとお、1918年10月20日 - 19… 後藤 基夫(ごとう もとお、1918年10月20日 - 1983年4月5日)は日本のジャーナリスト、朝日新聞社常務取締役。 大分県北海部郡佐賀関町生まれ。第三高等学校を経て1941年12月東京帝国大学法学部政治学科卒業、1942年1月朝日新聞社入社、翌2月陸軍東部第62部隊入営。主計少尉として中国湖北省で終戦を迎える(ポツダム宣言受諾後に主計中尉)。1946年2月に朝日新聞社に復職。同年6月東京本社政経部員、1950年1月政治部員、1956年10月アメリカ総局員、1958年2月再び政治部、1960年1月政治部次長、1963年2月ロンドン支局長、1966年6月論説委員、1967年1月論説副主幹、1969年12月東京本社編集局長、1973年9月取締役・大阪本社代表、1974年6月常務取締役、1978年12月総合企画室担当(東京本社)、1981年4月東京本社代表となり、在職中に脳出血のため死去。
山本 進(やまもと すすむ、1918年6月12日 - )は、… 山本 進(やまもと すすむ、1918年6月12日 - )は、日本のジャーナリスト、国際政治学者。 横浜市生まれ。1942年東京帝国大学経済学部卒、毎日新聞社に入り北米、南米特派員をへて経済部副部長を務めた。武蔵大学講師。
大谷 四郎(おおたに しろう、1918年4月23日 - 19… 大谷 四郎(おおたに しろう、1918年4月23日 - 1990年11月9日)は、兵庫県神戸市出身のサッカー選手、サッカー指導者、サッカージャーナリスト。東洋紡元社長の大谷一二は実兄。また、俳優の大谷亮介は長男、高畑裕太は孫である。 1918年4月23日神戸市御影生まれ。内海紡績常務取締役を務めた大谷恭助の四男として生まれる。御影師範学校附属小学校時代からサッカーに親しみ、兵庫県立第一神戸中学校(現:兵庫県立神戸高等学校)でサッカー部に入部。1934年の全国招待大会、1935年の全国中等学校選手権(現・全国高等学校サッカー選手権大会)に優勝し、2年連続全国大会制覇を達成した。第一高等学校(文科乙類)在学時代にも得点力のあるFWとして活躍。
金 周黙(キム・ジュムク、朝鮮語: 김주묵/金周默、1918… 金 周黙(キム・ジュムク、朝鮮語: 김주묵/金周默、1918年1月14日または1920年 - 1988年11月8日)は、大韓民国のジャーナリスト、政治家。第4代韓国国会議員。 本貫は旧安東金氏。号は東石(トンソク、동석)。ジャーナリストの金相範は父、学者で元保健福祉部次官の金学黙は兄、演出家・プログラムディレクターの金在衡と金在衍、実業家の金在徽は甥。 日本統治時代の忠清北道陰城郡出身。京城公立高等普通学校、早稲田大学法学部卒。1958年の第4代総選挙では民主党の候補として陰城郡選挙区から出馬し当選したが、4・19事件の直前に自由党に鞍替えし、5・16事件の後にまた野党側に戻った。他には国務総理秘書官、韓国日報政治部長、朝鮮日報政治部長、民主党中央委員、大韓証券協会常勤副会長などを務めた。
朴 商黙(パク・サンムク、朝鮮語: 박상묵/朴商默、1917… 朴 商黙(パク・サンムク、朝鮮語: 박상묵/朴商默、1917年11月9日 - 1983年7月28日)は、大韓民国のジャーナリスト、政治家。第5代韓国国会議員。 日本統治時代の京畿道華城郡(現・華城市)出身。京城徽文高等普通学校、中央大学法学部卒。京城新聞・国都新聞・自由新聞・大公新聞記者、自由新報編集部次長、商工日報・産業経済新聞編集部長など20年間マスコミ業界で活動したのち政界に進出し、民主党華城郡党委員長、無所属の第5代国会議員、国会国防委員を務めた。 1983年7月28日、ソウル市麻浦区の自宅で肺癌により死去。享年67または68。
柴田 秀利(しばた ひでとし、1917年7月 - 1986年… 柴田 秀利(しばた ひでとし、1917年7月 - 1986年11月)は、日本のジャーナリスト、実業家。日米にまたがる広い人脈を駆使して、日本へのテレビ導入と日本テレビ設立、原子力利用、ゴルフブームに重要な役割を果たした。正力松太郎とも深く関係している。
柴田 敏夫(しばた としお、1917年3月27日 - 198… 柴田 敏夫(しばた としお、1917年3月27日 - 1984年6月29日)は、日本のジャーナリスト、経営者。九州朝日放送社長を務めた。大阪府大阪市出身。 1941年に京都帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に朝日新聞社に入社。1977年6月に九州朝日放送専務に就任し、1981年6月には社長に就任。 1984年6月29日に心不全のために死去。67歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
黄 聖秀(ファン・ソンス、朝鮮語: 황성수/黃聖秀、1917… 黄 聖秀(ファン・ソンス、朝鮮語: 황성수/黃聖秀、1917年2月22日 - 1997年3月4日または3月5日)は、アメリカ合衆国のジャーナリスト、大韓民国の外交官、弁護士、学者、政治家。第3代韓国国会民議院副議長、第2・3・4・5代国会議員(第5代は参議員)、全羅南道知事を歴任した。 本貫は昌原黄氏。父は牧師の黄保翼で、制憲国会議員の黄斗淵は父方の叔父、呉錫柱は母方の叔父である。篤実なキリスト教徒である。 日本統治時代の全羅南道宝城郡宝城邑宝城里出身、本籍は平安北道である。平壌崇実中学校、崇実専門学校、明治学園を経て、1940年、東北帝国大学(現・東北大学)法文学部を卒業。東京帝国大学(現・東京大学)文学部で研究を行った後、渡米しウェストミンスター神学校を卒業した。
朴 永鍾(パク・ヨンジョン、朝鮮語: 박영종、1917年2月… 朴 永鍾(パク・ヨンジョン、朝鮮語: 박영종、1917年2月19日 - 1959年4月28日)は、大韓民国のジャーナリスト、政治家。第3代韓国国会議員。 本貫は咸陽朴氏(朝鮮語版)。キリスト教徒。 日本統治時代の全羅南道光州郡出身。早稲田大学政治学部政治科卒。民族陣営の運動を行った後、光州青年団を組織した。解放後は独立促成中央協議会全南支部組織者、外務部書記官、ソウル新聞記者、湖南新聞編集局長、大韓青年団全羅南道団副団長を歴任した。1954年の第3代総選挙では自由党の候補として潭陽郡選挙区から当選し、国会内務委員・予決委員を務めたが、与党内のよくない所を糾弾したため、自由党から除名され民主党に入党した。
孫 権培(ソン・グォンベ、朝鮮語: 손권배/孫權培、1916… 孫 権培(ソン・グォンベ、朝鮮語: 손권배/孫權培、1916年10月6日 - 1990年2月19日)は、大韓民国のジャーナリスト、実業家、政治家。第3代韓国国会議員。 本貫は密陽孫氏(朝鮮語版)。号は民斉(ミンジェ、朝鮮語: 민제/民齊)。 日本統治時代の全羅北道完州郡出身。久留米の明善中学校卒。1954年の第3代総選挙では自由党の候補として国会議員に当選し、裵恩希の一級参謀を務めたが、裵の失脚後は自由党を離党し民主党に移籍した。他には太白新聞主幹、三南日報社社長、大韓独立促成国民会全羅北道支部宣伝部長、独立闘争委員会全羅北道団団長、大韓青年団全羅北道団団長、国民会全羅北道支部委員長、自由党完州乙区党委員長・全羅北道党副委員長を歴任した。
川田 泰代(かわた やすよ、1916年8月12日 - 200… 川田 泰代(かわた やすよ、1916年8月12日 - 2001年5月5日)は、日本のジャーナリスト、平和運動家。『婦人画報』の編集者、編集長として活動した後、フリーランスの著述業に転じ、アムネスティ・インターナショナルの活動に参画し、もっぱら東アジアの政治犯、いわゆる「良心の囚人」の救援活動に携わった。 大阪府大阪市に生まれる。 1937年に東京女子大学を卒業して『婦人画報』の編集者となるが、1939年に退社して、結婚し、3児の母となる。 戦後、離婚して、1950年に『婦人画報』に復帰し、後に編集長となる。 1960年にはオーストリアで開催された第2回世界ジャーナリスト会議に参加した。またこの前後には、さらに中国、ソビエト連邦、東ドイツ、ハンガリー、チェコスロバキアといった当時の東側諸国から招待を受けて歴訪する。
川越 政則(かわごえ まさのり、1916年2月20日 - 1… 川越 政則(かわごえ まさのり、1916年2月20日 - 1998年9月6日)は、日本のジャーナリスト、新聞経営者、郷土史家。南日本新聞社社長を務めた。 鹿児島県鹿児島市出身。1939年に早稲田大学法学部法律学科を卒業。佐世保海軍経理部調達係での勤務を経て、1943年4月に鹿児島日報社、後の南日本新聞社に入社し、1961年12月に取締役に就任し、1962年12月に常務、1968年3月に鹿児島テレビ放送専務を経て、1972年11月から1981年12月までに南日本新聞社社長を務めた。 1986年4月に勲三等瑞宝章を受章した。 郷土史家、民芸品収集家としても知られ、鹿児島県文化財専門委員等も務めた。著書に『南日本文化史』『南日本風土記』『鹿児島の旅』『鹿児島県史概説』『鹿児島民芸風土記』『鹿児島の美 南日本民芸図説』『焼酎文化図譜』など。
髙田 景次(たかだ けいじ、1916年〈大正5年』1月23日… 髙田 景次(たかだ けいじ、1916年〈大正5年』1月23日 - 2003年〈平成15年〉3月16日)は、日本のジャーナリスト、政治家。秋田魁新報社監査役や秋田市長(第15代)を務めた。秋田県大仙市(旧中仙町豊岡)出身。 豊岡村立豊岡尋常小学校、秋田県立角館中学校、山形高等学校を経て、1940年(昭和15年)東京帝国大学法学部法律学科を卒業。 戦後、1945年(昭和20年)秋田魁新報社に入り、政治経済部長、編集局長を経て、1959年(昭和34年)取締役となり、その後、監査役を務めた。 1973年(昭和48年)2月から1990年(平成2年)4月まで、連続5期秋田市長を務める。歴代市長の中で最長となる17年間の在任中、「公園都市秋田市をつくる条例」「秋田市文化振興条例」などの制定や市民の健康と体力づくり運動、秋田新都市の建設、広面や桜ニュータウンなどの東部、御野場・御所野の南部新拠点開発、仙台市道路愛称名にならった秋田市道路愛称名などの制定、都市景観賞など多方面にわたって功績を残すなど秋田市発展の基礎を築く。