大野 雄治(おおの ゆうじ、1969年5月15日 - )は、… 大野 雄治(おおの ゆうじ、1969年5月15日 - )は、日本のテニス選手。 神奈川県川崎市出身。清風高等学校卒。1994年全日本ローンシングルス準優勝、1995年全日本ローンシングルス準優勝。全日本選手権8位。2000年テレビ東京 のバラエティー番組ASAYANの世界標準企画に出演していた、中村藍子(世界女子テニス連盟最高順位47位)の中学・高校時(1997年~2002年)のプライベートコーチでもあり、番組にもコーチとして出演。
辻野 隆三(つじの りゅうそう、1969年2月24日 - )… 辻野 隆三(つじの りゅうそう、1969年2月24日 - )は、日本の実業家、テニス指導者、解説者、元プロテニス選手。妻は歌手の荻野目洋子。 東京都小平市出身。堀越高等学校卒業。小学校3年までは野球に熱中する少年であったが、テニスを始めたのは1977年ウィンブルドン選手権男子シングルス決勝(ビョルン・ボルグ VS ジミー・コナーズ戦)で、ボルグが勝って優勝した試合をたまたまテレビで見て「これだ!」と閃き、すぐにテニススクールの門を叩いたことによるもの。高校時代は桜田倶楽部所属。全日本ジュニア選手権(U-18カテゴリー)では1985年から3年連続優勝。最初の優勝では決勝戦で1学年上だった松岡修造(柳川高等学校)に勝利している。
雉子牟田 明子(きじむた あきこ、現姓:中島、1968年5月… 雉子牟田 明子(きじむた あきこ、現姓:中島、1968年5月1日 - )は、神奈川県海老名市出身の元女子プロテニス選手。桜美林大学卒業。妹の雉子牟田直子も元プロテニス選手である。シングルス自己最高ランキングは49位。旭硝子に所属した。 日本では比較的珍しい早熟選手で、中学3年生(15歳)だった1983年に全日本テニス選手権の女子シングルスで「15歳4か月」の史上最年少優勝記録を樹立した。翌1984年にプロ入りし、当時の日本女子テニスの先駆者であった井上悦子の後を追いながら世界挑戦を始めた。1984年のロサンゼルス五輪の「公開競技」にも16歳で出場した。これはテニスがオリンピック種目として正式に復活する前、「21歳以下」の選手を対象に行われた試合だったが、この時の女子シングルス優勝者は当時15歳のシュテフィ・グラフ(旧西ドイツ)であった。
杉澤 修一(すぎさわ しゅういち、1967年11月19日 -… 杉澤 修一(すぎさわ しゅういち、1967年11月19日 - )は、日本のテニス選手、実業家。東京都出身。
北本 英幸(きたもと ひでゆき、1967年8月5日 - )は… 北本 英幸(きたもと ひでゆき、1967年8月5日 - )は、石川県出身のソフトテニス選手。 石川県出身。石川県立小松高校 - 明治大学 - 石川県教員。 小松高校二年生時に無名ながら地元石川インターハイでベスト8を記録(優勝した高野・川西に敗れる)し、一躍注目をあつめる。明治大学三年時に学生タイトル4冠(関東学生、インカレ、関東学生インドア、全日本学生インドア)に東京インドアも優勝し、連続5冠獲得で、全日本トップクラスに躍り出る。1990年アジア競技大会日本代表予選で優勝し国際大会初代表。以後9年連続10回代表に選出される。選手引退後は代表監督を務め、2006アジア競技大会(ドーハ)において日本男子を団体初優勝に導く。
斉藤 広宣(さいとう ひろのぶ、1967年 - )は、日本の… 斉藤 広宣(さいとう ひろのぶ、1967年 - )は、日本のソフトテニス選手。千葉県出身。 匝瑳高校3年時、石川インターハイで準優勝。 明治大学3年時から北本とペアを組み学生タイトル4冠(関東学生、インカレ、関東学生インドア、全日本学生インドア)に東京インドアも優勝し、連続5冠獲得で、全日本トップクラスに躍り出る。 1990年アジア競技大会日本代表予選で優勝し国際大会初代表。以後11年連続11回代表に選出される。選手引退後は男女の代表監督を歴任。 ポジションは前衛。天才的なタッチの良さを生かした華麗なプレーが身上。
土橋 登志久(つちはし としひさ、1966年10月18日 -… 土橋 登志久(つちはし としひさ、1966年10月18日 - )は、元男子テニス選手。早稲田大学教育学部卒。現在は早稲田大学庭球部総監督。自己最高世界ランキングはシングルス359位(1988年5月)。 鹿児島県鹿児島市出身。 柳川高校では2年でインターハイシングルス優勝。早稲田大学進学後、史上初となるインカレシングルス4連覇の偉業を成し遂げ、国内ランキングで自身最高の2位、ATPランキング359位に着けた。ソウルオリンピックやデビスカップの代表にも選ばれる。 卒業後も1991年全日本室内選手権シングルス準優勝など活躍。 現役引退後は早稲田大学の監督に就任するとともに、WOWOWのテニス解説も務める。
溝口 美貴(みぞくち みき、1965年5月13日 - )は、… 溝口 美貴(みぞくち みき、1965年5月13日 - )は、日本のテニス選手。 東京都大田区出身、後に神奈川県相模原市に転居。玉川学園高等部1年(1981年)・3年(1983年)インターハイ女子シングルス部門にて優勝。 玉川大学に進み、1984年全日本選手権に準優勝し、1985年8月ユニバーシアード(神戸大会)に日本代表として出場後、9月にプロに転向。 4大大会には1988年に初出場。1991年全豪オープンダブルス(1回戦)出場。1993年全日本選手権混合ダブルス優勝を最後に引退。 引退後は1997年~2001年ワールドユースカップ(現ジュニアフェドカップ)日本代表女子監督。2002年ワールドジュニア日本代表女子監督。
村上 武資(むらかみ たけし、1965年2月23日 - )は… 村上 武資(むらかみ たけし、1965年2月23日 - )は、日本の元プロテニス選手、テニス指導者。 神奈川県相模原市出身。小学校6年(12歳)のときにテニスを本格的に始める。中学校時代、1978年度及び1979年度の全日本ジュニアテニス選手権U-14部門男子ダブルスでは丸山薫とのペアで2年連続優勝している。また1980年度の全日本ジュニアテニス選手権U-16部門男子シングルスで優勝、男子ダブルスでは丸山とのペアで実質ジュニア3連覇を果たした。 玉川学園高等部に入学後、全国高等学校総合体育大会では1982年度大会(鹿児島県)の男子シングルスで準優勝、全日本ジュニア選抜室内テニス選手権U-18部門男子シングルスで優勝している。
神崎 公宏(かんざき きみひろ、1965年 - )は、三重県… 神崎 公宏(かんざき きみひろ、1965年 - )は、三重県出身のソフトテニス選手。 三重県出身。九鬼中学ー三重高校ー早稲田大学ー三重高校教員 三重高三年時にインターハイで個人団体二冠。早稲田大学時代に2年、4年でインカレ個人優勝、3年時アジア学生個人優勝。天皇杯全日本ソフトテニス選手権大会では1989、1992年と2度優勝、3度の準優勝。
岡川 恵美子(おかがわ えみこ, 1964年12月26日 -… 岡川 恵美子(おかがわ えみこ, 1964年12月26日 - )は、東京都杉並区出身の女子プロテニス選手。神奈川県立市ヶ尾高等学校卒業。1980年代の日本女子テニス界をリードした選手の1人で、同学年の井上悦子、岡本久美子とともに“3人娘”と呼ばれた。「リキ丸」というニックネームは、強力なフォアハンド・ストロークと丸型の体型からつけられたものである。1993年に結婚して「坂口恵美子」という名前になった。
井上 悦子(いのうえ えつこ、現在は 兼城 悦子 かねしろ … 井上 悦子(いのうえ えつこ、現在は 兼城 悦子 かねしろ えつこ、1964年10月18日 - )は、東京都中野区出身の元女子プロテニス選手。現役時代はヨネックス所属。 1980年代の日本女子テニス界をリードした選手で、日本人の女子テニス選手が世界ツアーに挑戦する道を開いた。シングルス自己最高ランキングは26位(1988年3月14日付)で、当時の日本女子テニス選手としては画期的なポジションにつけた。 東京都中野区に生まれ、後に神奈川県横浜市へ転居する。横浜市の港南台高等学校に在学中、1980年にインターハイのシングルスで優勝。1981年に高校を2年で中退し、プロテニス選手に転向する。当時の日本女子テニス界で、井上はジュニア選手のホープとして岡川恵美子、岡本久美子とともに“3人娘”と呼ばれたが(この3人は同学年であった)、その中で井上は果敢な「世界挑戦」を前面に掲げ、世界女子テニスツアーを単身で回り始めた。
武鑓 正芳(たけやり まさよし、1963年7月30日 - )… 武鑓 正芳(たけやり まさよし、1963年7月30日 - )は、岡山県岡山市出身の元プロテニス選手。自己最高ランクは国内ランキング7位。岡山大学教育学部附属中学を卒業し、柳川高等学校に進学。その後は東海大学教養学部へと入学し、東海大学大学院体育学部進学と同時にプロテニスプレーヤーとなった。1987年にはデビスカップ日本代表になり、香港戦と中国戦にダブルスで出場した。 世界ランクでは、上位に行けなかったが、1992年より2年間、澤松奈生子選手のツアーコーチを務め、ランキング維持をサポート。 以後、業界を離れ、1998年より業界に復帰。神奈川県厚木市・大和市の営業所を主にレッスン事業を展開するが、2019年、諸般の事情により整理。
柳 昌子(やなぎ まさこ、1959年11月11日 - )は、… 柳 昌子(やなぎ まさこ、1959年11月11日 - )は、大阪府大阪市出身の元女子プロテニス選手。ランキング自己最高位はシングルス89位、ダブルス85位。夙川学院高等学校、武庫川女子大学文学部卒。現役時代はプリンスホテル所属。 テニスブームをきっかけに、12歳からテニスを始める。1975年に夙川学院高等学校へ入学し、1977年8月の第67回全国高校選手権では女子団体優勝を果たした。1978年に武庫川女子大学へ入学。1979年7月の全日本学生庭球選手権女子ダブルスで優勝を飾ると、10月の第1回ボーデン・クラシックで初めてWTAツアーレベルの大会本戦に出場し、福岡加余子と組んだダブルスではベスト4に進出した。
古橋 富美子(ふるはし ふみこ、1959年4月22日 - )… 古橋 富美子(ふるはし ふみこ、1959年4月22日 - )は、愛知県名古屋市出身の元女子プロテニス選手。市邨学園高等学校、園田学園女子大学卒。ランキング自己最高位はシングルス460位、ダブルス276位。1980年に全日本女子シングルス四冠を達成したことで知られる。 市邨学園中学在学中に入部した硬式テニス部でテニスを始める。高校時代には全国高校庭球選手権の女子シングルスとダブルスで優勝し、1976年の18歳以下全日本女子ランキングで2位を記録した。翌1977年5月には第14回原田杯全国選抜ジュニア選手権のシングルスで優勝し、同年末にアメリカ・マイアミで開催のオレンジボウル(英語版)に派遣されて女子ダブルスベスト8に進出した。
福井 烈(ふくい つよし、1957年6月22日 - )は、福… 福井 烈(ふくい つよし、1957年6月22日 - )は、福岡県門司市(現北九州市門司区)出身の男子プロテニス選手。ヨネックスアドバイザリースタッフ。日本テニス協会常務理事。日本オリンピック委員会専務理事。柳川商業高等学校卒業。中央大学法学部中退。 小学校5年生の時に、兄の影響でテニスを始める。高校は強豪の柳川商業高校(現・柳川高校)に進学した。高校ではインターハイ3連覇を含む「169連勝」という記録を達成した。 アメリカにテニス留学をした後、中央大学に進学し、学生タイトルを総なめにした後、1977年に当時史上最年少の20歳で全日本テニス選手権を制覇した。その後1979年まで全日本3連覇を達成し、同年プロデビューした。
佐藤 直子(さとう なおこ、1955年1月2日 - )は、東… 佐藤 直子(さとう なおこ、1955年1月2日 - )は、東京都千代田区出身の元女子プロテニス選手。元日本プロテニス協会理事長。東京国際大学特命教授・硬式テニス部監督。BS朝日放送番組審議会委員、日本スポーツ協会監事、日本スポーツ仲裁機構理事、公益財団法人日本テニス助成財団理事長。 2011年3月に早稲田大学大学院スポーツ科学研究科修士課程修了。平田竹男教授のもとでトップスポーツビジネスを研究する。 主に1970年代後半から1980年代にかけて活躍した。主に全豪オープンで好成績を出し、1977年1月開催の大会でシングルスベスト8、1978年大会で女子ダブルス準優勝の記録を残した。 夫は、外交官の塩口哲朗。
野村 貴洋子(のむら きよこ、1954年11月17日 - 2… 野村 貴洋子(のむら きよこ、1954年11月17日 - 2016年2月17日)は、大阪府大阪市出身の元女子プロテニス選手。園田学園高等学校卒、園田学園女子大学文学部中退。1980年前後の日本女子を代表する選手の一人であり、全日本テニス選手権のシングルスを2回制している。 小学校時代はソフトボールに打ち込み、その活躍から「女長嶋」などと呼ばれていたが、進学した中学校にソフトボール部がなかったためテニス部に入部して競技生活をスタートさせた。中学時代に関西ジュニア選手権で優勝し頭角を現すと、1970年にはテニスの強豪校である福岡県の柳川商業高等学校に入学して夏の全国大会に出場した。しかし2学期からは地元大阪に近い園田学園高等学校へと転校している。
西尾 茂之(にしお しげゆき、1954年5月23日 - )は… 西尾 茂之(にしお しげゆき、1954年5月23日 - )は、日本の元男子プロテニス選手。兵庫県西宮市出身。甲南高校、早稲田大学教育学部卒。ランキング自己最高位はシングルス263位、ダブルス307位。長男の西尾隆信もプロテニス選手である。 テニス愛好家であった父に連れられて幼稚園の頃から甲子園テニスクラブへ通い始める。小学生になると自らもラケットを握り、同クラブで大人に混じって試合経験を積んだ。1967年に中高一貫の六甲中学へ入学して一時テニスから離れるものの、中学2年の終わり頃から再び熱中して市や県の大会で優勝するなど実績をあげると、母の反対を押し切ってテニスの強豪校である甲南高校に転校・進学した。
坂本 真一(さかもと しんいち、1954年4月16日 - )… 坂本 真一(さかもと しんいち、1954年4月16日 - )は、日本の元男子プロテニス選手。神奈川県横須賀市出身。柳川商業高等学校卒、日本大学中退。ランキング自己最高位はシングルス274位、ダブルス307位。 神奈川県横須賀市にて、弟の坂本京一と共に双子として生まれる。幼少期に広島県呉市へ転居し、軟式テニスを好んでいた父親の影響で兄弟揃って小学生からテニスを始めた。中学校時代は県内外で「強い双子がいる」と知られる存在であった。中学3年次の秋に福岡県の柳城中学校へ転校し、これを機に硬式テニスへ転向。その後テニスの名門である柳川商業高等学校へ進学し、同校テニス部監督・古賀通生の指導を受けた。 高校2年次の1971年、第61回全国高校庭球選手権ダブルス・第36回全日本ジュニア選手権ダブルス・第26回国民体育大会の3大会を制覇して「無敵の双子ダブルス」と称された。
沢松 和子(さわまつ かずこ、1951年1月5日 - )は、… 沢松 和子(さわまつ かずこ、1951年1月5日 - )は、兵庫県西宮市出身の元女子テニス選手。現・日本テニス協会副会長。神戸松蔭女子学院大学卒業。身長174cm、体重61kg、右利き。日本人初のプロテニス選手。 1975年のウィンブルドン女子ダブルス部門で、日系人選手のアン清村とペアを組んで優勝し、日本人女子テニス選手として史上初の4大大会タイトルを獲得した名選手である。シングルスでは日本人女子初のグランドスラムベスト4進出を果たした。 姉の沢松順子もテニス選手で、沢松奈生子は姪(順子の娘)にあたる。 2022年文化功労者。 沢松家は、和子から見れば祖父の時代からのテニス名門一家だった。西宮市にあるテニスコートつきの家で、和子と順子の2人姉妹は自然にテニスに親しんでいった。
木口 利充(きぐち としみつ、1950年 - )は、静岡県清… 木口 利充(きぐち としみつ、1950年 - )は、静岡県清水市出身のソフトテニス選手。1981年第四回世界ソフトテニス選手権ダブルス優勝。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、スポーツ関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:スポーツ/PJ:スポーツ人物伝)。
横江 忠志(よこえ ただし、1950年 - )は、高知県出身… 横江 忠志(よこえ ただし、1950年 - )は、高知県出身のソフトテニス選手。1981年第四回世界ソフトテニス選手権ダブルス優勝。高知県ソフトテニス連盟会長。四国学生ソフトテニス連盟会長。高知工科大学ソフトテニス部監督。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、スポーツ関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:スポーツ/PJ:スポーツ人物伝)。
米沢 そのえ(よねざわ そのえ、 1949年8月29日 - … 米沢 そのえ(よねざわ そのえ、 1949年8月29日 - )は、日本の元テニス・ソフトテニス選手。 広島県出身。東京女子体育大学1・2年時に軟式テニス(ソフトテニス)の全日本ソフトテニス選手権大会(皇后杯)を2連覇しチャンピオンになった(米沢・中田)。1975年に26歳で硬式テニスに転向し、ここでも日本一を達成した(1978年に単複2冠)。硬軟で全日本を制覇した。軟式時代にはアジア選手権日本代表に選出された。硬式時代にはフェドカップ代表にも選出された。1984年に現役引退し、後進の指導にあたる。
福岡 加余子(ふくおか かよこ、1949年8月1日 - )は… 福岡 加余子(ふくおか かよこ、1949年8月1日 - )は、愛知県瀬戸市出身の元女子プロテニス選手。金城学院高等学校、武庫川女子大学卒。1970年代の日本女子を代表する選手の一人であり、沢松和子の姉・沢松順子の結婚引退後に和子とダブルスペアを組んで活躍したことで知られる。特に全仏オープンでは女子ダブルスのベスト8に2度進出した。 金城学院在学中の1965年にテニスを始める。1967年8月には早くも全国高校庭球選手権および全日本ジュニア選手権のダブルスで優勝して頭角を現し、同年の18歳以下女子全日本ランキングで4位に付けた。さらに武庫川女子大学へ進学後、1970年と1971年の全日本学生庭球選手権でもダブルスを2連覇した。
沢松 順子(さわまつ じゅんこ、1948年4月10日 - )… 沢松 順子(さわまつ じゅんこ、1948年4月10日 - )は、兵庫県西宮市出身の元女子テニス選手。 1975年のウィンブルドン女子ダブルス部門で優勝した沢松和子の姉で、沢松奈生子の母親である。神戸松蔭女子学院大学卒業。妹の和子とペアを組み、1970年のウィンブルドン女子ダブルスでベスト8に入った。身長164cm、体重62kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。 沢松家は、順子から見れば祖父の時代からのテニス名門一家だった。西宮市にあるテニスコートつきの家で、順子と和子の2人姉妹は自然にテニスに親しんでいった。順子は1965年(昭和40年)に「全日本ランキング」の女子シングルスで7位に入り、1967年と1969年には3位にランクされたが、テニス成績では妹の和子に抜かれてゆく。
西田 豊明(にしだ とよあき、1948年2月6日 - )は、… 西田 豊明(にしだ とよあき、1948年2月6日 - )は、静岡県下田市出身のソフトテニス選手。1975年第一回世界ソフトテニス選手権ダブルス優勝。日本体育大学名誉教授。 下田北高等学校時代にインターハイ個人優勝。日本体育大学卒業後に時安繁とペアを組み、アジア選手権〜世界選手権に三大会連続個人優勝、天皇杯全日本選手権に4年連続で決勝進出など『西田・時安時代』を築く。
坂井 利郎(さかい としろう、1947年11月23日 - )… 坂井 利郎(さかい としろう、1947年11月23日 - )は、日本の元男子テニス選手。 東京都世田谷区生まれ。成城学園中学校高等学校、早稲田大学教育学部教育学科体育学専修卒業。1970年代前半に日本のテニス界をリードした選手で、第2次世界大戦後の日本人男子テニス選手として、世界的にも顕著な活躍をした名選手であった。男子プロテニス協会によるシングルス自己最高ランキングは75位。テニスコーチやテレビ解説者としての業績も多い。 坂井は1967年に「全日本テニスランキング」で9位に入り、1976年までトップ10位以内を維持した。1968年に「全日本室内テニス選手権」で初優勝を果たし、この大会では1970年、1972年-1977年(大会6連覇)にも優勝して、通算「8勝」を挙げた。
神和住 純(かみわずみ じゅん, 1947年10月1日 - … 神和住 純(かみわずみ じゅん, 1947年10月1日 - )は、日本のプロテニス選手・指導者である。法政大学スポーツ健康科学部教授。 日本人戦後初のトーナメントプロ選手。1980年から国内7年連続賞金王。1997年から2004年までデビスカップ代表監督。1973年全米オープンで3回戦に進出。これは錦織圭が2008年に進出するまで日本人男子最後の全米3回戦進出であった。 石川県鹿島郡中能登町(旧鹿島町)出身、東京育ち。全日本チャンピオンであった母と二位であった父の影響から、中学1年でソフトテニス(軟式庭球)を始める。法政大学第二高校進学後硬式に転向し、1965年全国高等学校総合体育大会テニス競技大会完全優勝と全日本ジュニアテニス選手権単複優勝を飾る。
田上 高(たのうえ たかし、1947年4月30日 - 200… 田上 高(たのうえ たかし、1947年4月30日 - 2009年2月19日)は、日本のレスリング選手、テニス選手。熊本県八代市出身、八代高校卒業。 レスリングを始めたのは日本体育大学進学後ながら、1969年から全日本レスリング選手権大会で4連覇を達成、同時期に開催されているレスリング世界選手権では1970年のカナダのエドモントン大会、1971年のブルガリアのソフィア大会のグレコローマンの68kg級において2大会連続の銅メダルを獲得した。大学卒業後は高校教諭となり、鹿児島県立甲南高等学校教諭時には1972年のミュンヘンオリンピックに出場が決まった。1回戦でモロッコのモハメド・マラモー、2回戦でスイスのハインツ・リンに勝利したものの3回戦でハンガリーのアンタル・ステアに敗れた。
大野 正己(おおの まさみ、1946年(昭和21年)1月2日… 大野 正己(おおの まさみ、1946年(昭和21年)1月2日 - 2013年(平成25年)7月24日)は、ソフトテニス選手。 岐阜県大垣市出身。岐阜県立大垣商業高等学校、愛知学院大学卒業。大鹿印刷所。ポジションは後衛。 1969年、1971年の亜細亜軟式庭球選手権大会男子団体金メダル。1981年の全日本社会人選手権成年個人で優勝した。
九鬼 潤(くき じゅん、1945年12月28日 - )は、日… 九鬼 潤(くき じゅん、1945年12月28日 - )は、日本の元男子プロテニス選手。三重県四日市市出身。法政大学第二高等学校、法政大学卒。ランキング自己最高位はシングルス74位、ダブルス114位。シングルス74位は1989年に松岡修造に抜かれるまで日本男子選手の最高順位だった。長女の九鬼まどかもプロテニス選手である。 三重県四日市市に4人兄弟の末っ子として生まれ、テニスの強豪校だった法政大学第二高等学校に入学して松本武雄の指導を受ける。高校3年時の1963年にジュニア日本代表としてカナダ遠征に派遣され、オタワで開催されたカナダジュニア選手権でベスト8に進出した。同年の全日本ランキング18歳以下で4位を記録。
畠中 君代(はたなか きみよ、 1944年4月16日 - )… 畠中 君代(はたなか きみよ、 1944年4月16日 - )は、日本の元テニス選手。現在、明治大学評議員。旧姓・谷川原。 引退後、ビッグKテニススクール創設。 主要な育成選手に望月寛子、宮内美澄、窪田二葉、小畑沙織、 占部奈美、栗岡聡子、青山香織、高瀬礼美、瀬間友里加、瀬間詠里花、井上万里、飯島久美子、手塚玲美、江口実沙、伊藤夕季、謝淑薇など。
内山 勝(うちやま まさる、1944年(昭和19年) - )… 内山 勝(うちやま まさる、1944年(昭和19年) - )は、日本のテニス選手、指導者、解説者。日本テニス協会ジュニア代表監督、フェドカップなどで監督を務め、テレビでも試合解説を担当した、硬式テニス関連の著書やビデオも出版(#著作節参照)。日本テニス協会理事、荏原湘南スポーツセンター代表取締役などを歴任。2017年秋、旭日双光章を受勲。 内山は1944年、神奈川県に生まれ、中央大学を卒業。選手として全日本学生テニス選手権大会、全日本選手権に出場。 その後、内山はコーチとしてハリー・ホップマンのキャンプに参加。 などを務め、主な指導選手に らがいる。テレビ番組の解説でも活躍した。 荏原湘南スポーツセンターでは代表取締役を務め、日本テニス協会では理事待遇、常務理事、総務財務本部長、トーナメント本部長、ジャパンオープン委員長、専務理事などを歴任した。
石黒 修(いしぐろ おさむ、1936年8月12日 - 201… 石黒 修(いしぐろ おさむ、1936年8月12日 - 2016年11月9日)は、日本の男子プロテニス選手。日本プロテニス界のパイオニアとして活躍した名選手である。次男は俳優の石黒賢。父はタービン設計者の石黒九一、祖父は土木技術者の石黒五十二、曽祖父は加賀藩の国学者の石黒千尋。 長崎県長崎市出身。8歳の時に長崎市で原子爆弾に被爆。午前11時2分には民家に入っていたためかろうじて助かった。戦後は父・九一の仕事の都合で神戸市で育つ。 中学1年生の時にテニスを始める。甲南中学校・高等学校(2年先輩に松岡功)、慶應義塾大学法学部政治学科、三菱電機へ進み、全日本ジュニア、インターハイ、インカレを制する。 1961年にはデビスカップの代表に選ばれ、東洋ゾーン準決勝で奇跡の逆転勝利を演出した。
加茂 公成(かも こうせい、1932年5月10日 - 201… 加茂 公成(かも こうせい、1932年5月10日 - 2017年1月6日)は、東京都目黒区出身の男子テニス選手。1955年の全米選手権男子ダブルスで宮城淳とペアを組んで優勝し、日本人のテニス選手として唯一の4大大会男子ダブルス優勝者になった名選手である。父・国夫の指導で自宅コートで育った加茂4姉弟の末っ子。早稲田大学卒業。三井物産勤務を経て,テニスコンサルタント会社を経営。身長171cm、体重70kg。 加茂家は有名なテニス一家であり、姉の加茂幸子と兄の加茂礼仁(れいじん)も第2次世界大戦終戦直後の日本を代表する名選手であった。「公成」という名前は、フランスの往年の名選手アンリ・コシェにちなんで命名されたものである。
宮城 淳(みやぎ あつし、1931年10月19日 - 202… 宮城 淳(みやぎ あつし、1931年10月19日 - 2021年2月24日)は、東京都大田区出身の男子テニス選手。早稲田大学卒業。身長172cm、体重61kg。早大卒業後はゼネラル物産に勤務。 1955年の全米選手権男子ダブルスで加茂公成とペアを組んで優勝し、日本人のテニス選手として唯一の4大大会男子ダブルス優勝者になった名選手である。 姉の宮城黎子もテニス選手。 芝浦製作所(のち東京芝浦電機)の技術者・宮城喜三郎の長男として大田区田園調布に生まれる。先祖に梅素亭玄魚がいる。父親がテニスを趣味とし、宮城家は有名なテニス一家であったが、淳がテニスを始めたのは早稲田大学入学後であった。早大のテニス部で福田雅之助に師事した宮城は、1952年から男子テニス国別対抗戦・デビスカップの日本代表選手に選ばれた。
加茂 幸子(かも さちこ、1926年2月11日 - 2003… 加茂 幸子(かも さちこ、1926年2月11日 - 2003年10月28日)は、東京都目黒区出身の女子テニス選手。青山学院高等女学部卒業。第2次世界大戦終戦直後の時代に、日本の女子テニス選手の草分けとして活躍した。全日本テニス選手権の女子シングルスに6連覇を含む「8勝」を挙げ、日本人女性として初めて4大大会の女子シングルスに出場した名選手である。 加茂家は名門の「テニス一家」として有名で、4人兄弟全員が日本を代表するテニス選手となった。長女・純子(1923年 - 2003年)/次女・幸子/長男・礼仁(れいじん)/次男・公成 の家族構成で、幸子は2番目の子供であった。9歳の時から、姉の純子と一緒に父親の手ほどきでテニスを始める。
宮城 黎子(みやぎ れいこ、1922年5月27日 - 200… 宮城 黎子(みやぎ れいこ、1922年5月27日 - 2008年6月1日)は、東京都大田区田園調布出身の女子テニス選手。東京府立第三高等女学校卒。 1950年代から60年代にかけて一世を風靡し、全日本選手権では1952年にシングルス初優勝。男女通じ最多となるシングルス10回(8連覇を含む)、ダブルス11回、混合ダブルス11回優勝。史上最多となる合計32個のタイトルを獲得している。 1964年、第2回フェデレーションカップ(現・フェドカップ)の日本代表選手に選ばれた。この年に全豪選手権と全米選手権にも出場し、42歳にして4大大会に挑戦した。全豪選手権は初戦敗退に終わったが、全米選手権では1回戦を突破し、2回戦でビリー・ジーン・モフィット(アメリカ、当時21歳)に挑戦したことがある。
隈丸 次郎(くままる じろう、1921年9月26日 - 20… 隈丸 次郎(くままる じろう、1921年9月26日 - 2007年6月8日)は、福岡県久留米市出身の男子テニス選手。慶應義塾大学経済学部卒業。第二次世界大戦終戦直後の時代に、日本男子テニス界をリードした名選手のひとりである。彼は1949年から1952年まで全日本テニス選手権男子シングルス4連覇を達成し、1951年と1952年に男子テニス国別対抗戦・デビスカップの日本代表選手を務めた。現役選手時代の体格は、身長174cm・体重57kgほどであった。 隈丸がテニスを始めたきっかけは、佐藤次郎が1934年4月5日にマラッカ海峡で投身自殺した新聞記事の号外だったという。しかし、彼の近くには専門のテニスコーチがいなかったため、技術解説専門書の日本語訳を読みながら独学でテニスを勉強した。
中野 文照(なかの ふみてる、1915年1月13日 - 19… 中野 文照(なかの ふみてる、1915年1月13日 - 1989年12月30日)は、岐阜県瑞浪市出身の男子テニス選手。法政大学卒業。1930年代後半から1950年代初頭にかけて、日本男子テニス界を代表する選手として活動した。時代的には、1934年に投身自殺した佐藤次郎のすぐ後に位置している。彼と同年代のライバル選手には、慶應義塾大学の山岸二郎や同じ法政大学の松本武雄などがいた。 1937年全米選手権、1938年全仏選手権で4回戦に進出。この結果は錦織圭が並ぶまで日本人男子シングルス最後の各大会4回戦以上進出記録だった(全米は71年ぶり、全仏は75年ぶりに進出)。 中野は1935年の全日本学生テニス選手権(通称インカレ)で初めてベスト4に入り、この年から「全日本テニスランキング」のトップ10位以内に入った。
松本 武雄(まつもと たけお、1914年 - 1976年11… 松本 武雄(まつもと たけお、1914年 - 1976年11月6日)は、日本の男子テニス選手・指導者。石川県鳳至郡(現鳳珠郡)出身。法政大学卒業。 松本は法政大学のテニス部で、中野文照と同期のライバルだった選手である。1937年、関東本学生テニストーナメントで男子シングルス準優勝。同年の全日本学生庭球選手権(現在の通称・インカレ)で男子シングルスのベスト4に進出する。1938年度の成績は、関東本学生テニストーナメントは2年連続準優勝であったが、全日本学生庭球選手権で初優勝を果たした。この年は「フィリピン選手権」の男子シングルスも制した。当時の全日本学生選手権では、同じ法政大学の松本と中野が優勝争いをすることが多かった。
井上 早苗(いのうえ さなえ、1913年(大正2年)5月31… 井上 早苗(いのうえ さなえ、1913年(大正2年)5月31日 - 2011年(平成23年)7月1日)は、日本の女子テニス選手。日本女子テニス連盟名誉会員。結婚前の岡田 早苗としても活躍した選手である。 東京府東京市牛込区(現在の東京都新宿区)出身。東京府立第二高女(現竹早高校)卒業。日本における「女子テニス」の草分けとして、1930年代から1950年代まで長く活動した。佐藤次郎の婚約者として知られるも、婚約中に佐藤を投身自殺によって失う。しかしその後ショックから立ち直り、1936年の「日米国際庭球戦」参加や全日本テニス選手権女子ダブルス6勝などの戦績を残した。 岡田は両親がテニス愛好家だったことから、幼年時代からテニスに親しんだ。
山岸 二郎(やまぎし じろう, 1912年〈明治45年〉5月… 山岸 二郎(やまぎし じろう, 1912年〈明治45年〉5月23日 - 1997年〈平成9年〉1月30日)は、福岡県門司市(現在の北九州市門司区)出身の男子テニス選手。慶應義塾大学卒業。主に1930年代後半に活躍し、全日本テニス選手権でシングルス4勝、ダブルス5勝を挙げた。世界的な評価も高く、1938年に世界ランキング8位になった。 1937年全米選手権で4回戦に進出。これは71年後に錦織圭が進出するまで最後の日本人男子全米4回戦以上進出記録だった。 キリンビールの重役などを務めた山岸慶之助の次男として生まれる。兄の成一も三菱商事のテニス選手。慶應大学政治科卒業後、旭硝子勤務。妻の辰子(日比谷平左衛門孫)はスカル選手。
布井 良助(ぬのい りょうすけ, 1909年(明治42年)1… 布井 良助(ぬのい りょうすけ, 1909年(明治42年)1月18日 - 1945年(昭和20年)7月21日)は、兵庫県神戸市出身の男子テニス選手。神戸高等商業学校(現神戸大学)卒業。1933年(昭和8年)のウィンブルドン選手権男子ダブルス部門で佐藤次郎とペアを組んで準優勝し、日本人のテニス選手として初めて4大大会決勝に挑戦した選手である。 大阪、西道頓堀の米穀商で資産家の長男として生まれる。布井は1932年(昭和7年)の全日本テニス選手権男子シングルス決勝で佐藤次郎を 5-7, 6-2, 2-6, 6-4, 6-1 で破って優勝したことがあり、早くから佐藤にとって最大の親友であった。布井は同年の全豪選手権から1933年(昭和8年)の全米選手権まで、4大大会に1度ずつ出場した。
佐藤 次郎(さとう じろう, 1908年(明治41年)1月5… 佐藤 次郎(さとう じろう, 1908年(明治41年)1月5日 - 1934年(昭和9年)4月5日)は、日本の男子テニス選手。1930年代前半にグランドスラムシングルスベスト4、ウィンブルドン選手権ダブルス準優勝、全豪オープン混合ダブルス準優勝など国際的に活躍し、1933年に世界ランキング3位となった。グランドスラムシングルス ベスト4進出5回は現在も日本人歴代最多記録。現在日本人男子シングルス最後の全豪・全仏・全英ベスト4進出者である。現役中に26歳で自殺した。 1908年1月5日、群馬県北群馬郡長尾村(現渋川市)の豪農に生まれる。旧制渋川中学校入学後、1926年4月、早稲田大学予科に進学。早稲田大学在学中に日本ランキング1位となる。
三木 龍喜(みき たつよし, 1904年2月11日 - 19… 三木 龍喜(みき たつよし, 1904年2月11日 - 1966年1月9日)は、香川県高松市出身の男子テニス選手。大阪高等商業学校(現大阪市立大学)卒業。 1934年のウィンブルドン混合ダブルス部門でドロシー・ラウンド(イギリス)とペアを組んで優勝し、日本人初のグランドスラム優勝者になった選手。また現在でもウィンブルドン男子・ウィンブルドン混合・4大大会男子混合の最後の日本人優勝者である。 英語文献では“Ryuki Miki”(リュウキ・ミキ)という表記で掲載されることも多い。海外の同僚選手たちからは「ミッキー」と呼ばれることも多かった。 通信省官吏・三木喜次郎の子として高松市に生まれる。祖父の三木伊平は最後の讃岐松平藩主松平頼聡に仕えた土族で、三木家は明治維新により武士から官吏に転じた典型的な家系で、家は裕福だった。
青木 岩雄(あおき いわお、1901年9月3日 - 1939… 青木 岩雄(あおき いわお、1901年9月3日 - 1939年5月2日)は、兵庫県神戸市出身の男子テニス選手。慶應義塾大学卒業。1920年代から1930年代前半にかけて、日本男子テニス界を代表した選手の1人であったが、腸閉塞症のため37歳で急死した。主な成績は、1924年の第3回全日本テニス選手権男子ダブルス優勝、1932年のウィンブルドン選手権男子シングルス4回戦進出などがある。彼は三菱銀行(現在の三菱UFJ銀行)に勤務し、1930年7月から1935年3月まで銀行のロンドン支店にいたことから、イギリス開催のテニストーナメント、とりわけウィンブルドン選手権で優れた戦績を出した。青木のテニスは、フォアハンド・ストロークに多少の弱点はあったが、バックハンド・ストローク、ボレー、スマッシュのいずれにもダブルスの分野で力を発揮し、とりわけロビングの技術に優れていた。
福田 雅之助(ふくだ まさのすけ, 1897年5月4日 - … 福田 雅之助(ふくだ まさのすけ, 1897年5月4日 - 1974年12月21日)は、東京府豊多摩郡戸塚村(現在の東京都新宿区西早稲田)出身の男子テニス選手である。全日本テニス選手権の第1回大会男子シングルス優勝者。 早稲田大学では1902年9月に運動場が改築され、その一部が福田家の所有する土地であったことから、雅之助はごく幼い頃から運動場でのスポーツ観戦を楽しんでいた。彼は戸塚睦合小学校(現在の戸塚第一小学校)時代は野球部員であったが、早稲田中学に入学した1910年に13歳でテニスを始めた。福田が16歳の時、1913年(大正2年)に慶應義塾大学庭球部が「硬式テニス(ローンテニス)への転向」を表明したが、早稲田大学庭球部は当初は硬式テニスに乗り気ではなく、三神八四郎(1887年 - 1919年)の説得に応じなかった。
柏尾 誠一郎(かしお せいいちろう、1892年〈明治25年〉… 柏尾 誠一郎(かしお せいいちろう、1892年〈明治25年〉1月2日 - 1962年〈昭和37年〉12月16日)は、大阪府出身の男子テニス選手。1920年のアントワープ五輪において、テニスの男子ダブルスで熊谷一弥とペアを組み、日本人のスポーツ選手として史上初のオリンピック・メダルを獲得した選手として知られている。 1892年、大阪府に生まれる。旧制大阪府立北野中学校(現大阪府立北野高等学校)を経て、1913年に東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。後にテニスの国際舞台でも活躍した清水善造は、柏尾と同じ東京高等商業学校庭球部のライバルであった。 大学卒業後三井物産に入社し、上海、ニューヨーク、リヨンの駐在員として働いたのち、横浜支店生糸部総務掛として勤務。