真鍋 信喜(まなべ のぶき(「のぶよし」との記載もあり)、1… 真鍋 信喜(まなべ のぶき(「のぶよし」との記載もあり)、1907年11月3日 - 没年不詳)は、日本のジャーナリスト、新聞編集者。 真鍋盛太郎の二男として福岡市に生まれる。1925年福岡県立中学修猷館を経て、1937年3月九州帝国大学法文学部を卒業(法学士)。 卒業後、満洲国通信社に入社。戦後、1948年信濃毎日新聞に論説委員として入社し、1956年編集副主幹を経て、1962年取締役に選任され、1970年論説主幹に就任する。1976年退社。 その後、長野県教育委員長などを務めた。
川本 信正(かわもと のぶまさ、1907年9月22日 - 1… 川本 信正(かわもと のぶまさ、1907年9月22日 - 1996年6月17日)は、日本のスポーツジャーナリスト、新聞記者、スポーツ評論家。オリンピックを初めて「五輪」と表記したことで知られる。
瀬長 亀次郎(せなが かめじろう、1907年(明治40年)6… 瀬長 亀次郎(せなが かめじろう、1907年(明治40年)6月10日 - 2001年(平成13年)10月5日)は、日本の政治家、ジャーナリスト。 1946年 - 1949年、米軍機関紙「うるま新報」(後の琉球新報)社長を務めた。復帰前に、那覇市長(1期)、立法院議員(3期)、沖縄人民党委員長、国政参加選挙で衆議院議員1期。本土復帰後、衆議院議員としては人民党で1期、日本共産党として連続5期。1973年以降共産党幹部会副委員長をつとめた。 太平洋戦争後のアメリカ合衆国による沖縄統治(施政権下)において、沖縄人民党を組織し、米国による統治に対する抵抗運動を行った。返還前の沖縄において立法院議員や那覇市長を歴任、国政参加選挙において衆議院議員に当選した。
圓城寺 次郎(えんじょうじ じろう、1907年(明治40年)… 圓城寺 次郎(えんじょうじ じろう、1907年(明治40年)4月3日 - 1994年(平成6年)3月14日)は日本のジャーナリスト、実業家。日本経済新聞社社長。 千葉県印旛郡公津村下方(現:成田市下方)の農家の次男として生まれる。農家とは言っても圓城寺家は成田の近郷にその名を知られた旧家だった。旧制成田中学(現:成田高等学校)四年の時、虫垂炎を患い、更に心臓も病むようになる。健康状態が思わしくない状態が続き、圓城寺本人は東京の大学へ進むつもりでいたが、千葉医専(現:千葉大学医学部)で診察を受けると「こんな体で東京に行くなんて死に行くようなもんだ」と医者におどかされてしまう。このため、いったん進学をあきらて、自宅で無為徒食の生活を三年続けた。
西島 芳二(にしじま よしじ、1907年3月22日 - 19… 西島 芳二(にしじま よしじ、1907年3月22日 - 1987年10月12日)は、日本のジャーナリスト。兵庫県出身。1931年東京帝国大学卒、東京朝日新聞社に入社。調査部長、論説委員などをへて64年論説主幹。のち神奈川新聞社副社長、論説委員長。
山崎 功(やまざき いさお、1907年2月25日 - 198… 山崎 功(やまざき いさお、1907年2月25日 - 1983年6月3日)は、日本のジャーナリスト、イタリア研究者、翻訳家。 石川県金沢市生まれ。1927年東京外国語学校イタリア語科卒後、読売新聞社に入る。ローマ特派員、1942年ローマ大学政治学部卒。欧米部次長、論説委員。
陸奥 イアン 陽之助(むつ イアン ようのすけ、1907年(… 陸奥 イアン 陽之助(むつ イアン ようのすけ、1907年(明治40年)1月14日 - 2002年(平成14年)10月30日)は、日本のジャーナリスト、映画監督・プロデューサー、実業家、華族(伯爵)。インタナシヨナル映画社の創業者。身長180cm。 勲功華族の陸奥家に生まれる。父は陸奥宗光の長男で2代伯爵の陸奥廣吉。母はイギリス出身のイソ(ガートルード・エセル・パッシングハム)。日本名の陽之助は祖父・宗光の通称でもあった。廣吉が外交官としてロンドンに赴任していた時のアパートで午後11時20分に誕生した。誕生の際には2人の医者ブラントとアディルセンが付き添った。3歳の時に初来日する。家のあった鎌倉の小学校や学習院初等科への入学を考えたが「アイノコ」といじめられていたため断念、家庭教師に学んだ。
藤原 恵(ふじわら さとし、1907年(明治40年)1月10… 藤原 恵(ふじわら さとし、1907年(明治40年)1月10日 - 1990年(平成2年)3月16日)は、朝日新聞記者、関西学院大学社会学部教授などを務めた、日本のジャーナリスト、新聞学研究者。 愛媛県新居郡氷見町(後の西条市)に生まれる。1924年に愛媛県立西条中学校を卒業して、4年生の専門学校であった関西学院文学部社会学科に進み、1928年に卒業した。在学中は、河上丈太郎に師事した。 同年、大阪時事新報社に入り、1931年に大阪朝日新聞社へ転じた。1944年に出版局編集部次長兼『週刊朝日』副編集長となり、その後は在阪の出版局、整理部関係の役職を歴任して1962年に定年退職し、客員となった。この間、1945年には、収集していた新聞関係文献資料を大阪朝日新聞社に寄贈し、その目録が『藤原恵文庫目録』として出版された。
池宮城 秀意(いけみやぐしく(いけみやぐすく) しゅうい、1… 池宮城 秀意(いけみやぐしく(いけみやぐすく) しゅうい、1907年1月7日-1989年5月24日)は、日本のジャーナリスト、元琉球新報社社長。
人見 絹枝(ひとみ きぬえ、1907年〈明治40年〉1月1日… 人見 絹枝(ひとみ きぬえ、1907年〈明治40年〉1月1日 - 1931年〈昭和6年〉8月2日)は、日本の陸上競技選手、ジャーナリスト。日本人女性初のオリンピックメダリスト。100m、200m、走幅跳の元世界記録保持者。(100m、200mについては非公認)岡山県御津郡福浜村(現:岡山市南区)出身。 1907年(明治40年)1月1日、岡山県御津郡福浜村福成(現・岡山市南区福成)で人見猪作および岸江の次女として誕生した。人見家はイネとイグサを栽培する裕福な自作農家で、父・母・祖母・姉と人見絹枝の5人家族であった。幼少期は魚とりや鬼ごっこをして遊び、友人は女の子よりも男の子の方が多かった。 1913年(大正2年)4月、福浜村立福浜尋常高等小学校尋常科(現・岡山市立福浜小学校)に入学。
金 銕洙(キム・チョルス、朝鮮語: 김철수、1906年12月… 金 銕洙(キム・チョルス、朝鮮語: 김철수、1906年12月2日 - 1973年7月3日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国のジャーナリスト、実業家、政治家。制憲国会議員。 忠清南道扶余郡出身。京城徽文高等普通学校中退。東京正則英語学校、早稲田大学専門部政経科卒。ジャーナリストとして中国の華中地域で歴遊した後、京城評論社社長、忠南興業株式会社専務取締役を経て、朝鮮建国準備委員会扶余郡副委員長、大韓独立促成国民会扶余郡支部副委員長を歴任した。 1973年7月3日、ソウル市城北区の自宅で死去。享年67。
星野 力(ほしの つとむ、1906年12月2日 - 1994… 星野 力(ほしの つとむ、1906年12月2日 - 1994年3月11日)は日本のジャーナリスト、政治家。元日本共産党参議院議員(1期)。同党中央委員会委員などを歴任。
岸 松雄(きし まつお、1906年9月18日 - 1985年… 岸 松雄(きし まつお、1906年9月18日 - 1985年8月17日)は、日本の映画評論家、ジャーナリスト、脚本家、映画監督である。本名は阿字 周一郎(あじ しゅういちろう)、別名は和田山 滋(わだやま しげる)。映画作家・山中貞雄を発見した批評家として知られる。 1906年(明治39年)9月18日、東京府東京市日本橋区(現在の東京都中央区日本橋)の商家に「阿字周一郎」として生まれる。 慶應義塾大学に入学、同学在籍中の1925年(大正14年)ころには『キネマ旬報』、『映画往来』、『映画評論』、『映画時代』、『蒲田』(松竹蒲田撮影所の雑誌)等の雑誌の執筆者となる。やがて同学を卒業する。1927年(昭和2年)から1931年(昭和6年)までの時期、社会主義的言説に耽溺する。
竹節 作太(たけふし さくた、1906年4月17日 - 19… 竹節 作太(たけふし さくた、1906年4月17日 - 1988年8月12日)は、長野県下高井郡平穏村(現・山ノ内町)出身のジャーナリスト、クロスカントリースキー選手、登山家。 旧制飯山中学校を経て、1929年早稲田大学商学部卒。全日本スキー選手権大会クロスカントリースキーのリレーでは早大チームのメンバーとして1925年の第3回大会、翌年の第4回大会と連覇を果たした。日本初参加となった1928年サンモリッツオリンピックでは、クロスカントリースキー個人18kmで30位、個人耐久(50km)で26位だった。研究熱心な竹節は同大会で欧米の選手が用いていた距離スキー専用のワックスや、ヒッコリー材のスキーを大会後いち早く導入するなど、日本のスキー技術の向上につとめた。
前田 義徳(まえだ よしのり、1906年(明治39年)1月3… 前田 義徳(まえだ よしのり、1906年(明治39年)1月31日 - 1983年(昭和58年)12月17日)は、日本の放送経営者、ジャーナリスト。 第10代NHK会長。ワンマン会長として組織の拡大充実に努め、『NHK中興の祖』と仰がれた。 北海道旭川市出身。庁立旭川中学校を経て東京外語学校(現東京外国語大学)イタリア語科卒業後、ヨーロッパに留学、ローマ大学法科に学ぶ。 1936年朝日新聞ローマ支局に現地入社、記者としてイタリアのエチオピア侵入(第二次エチオピア戦争)などをスクープ。1947年大阪本社外報部長を最後に退社。 出版社経営を経て1950年、NHKに解説委員として入局。その後報道局長・編成局長・専務理事・副会長などを経て1964年、阿部眞之助会長が在職中に死去した事に伴い会長就任、1973年まで務めた。
唐島 基智三(からしま きちぞう、1906年1月1日 - 1… 唐島 基智三(からしま きちぞう、1906年1月1日 - 1976年7月30日)は、政治評論家、ジャーナリスト。 広島県竹原市(当時は竹原町)出身で三男として生まれる。旧制忠海中学校(現在の広島県立忠海高等学校)、第六高等学校、東京帝国大学法学部政治学科を卒業した(1928年)。 東京帝国大学卒業後、国民新聞社に入社した。編集局長などを経て、1940年に退社した。1943年、東京新聞社(現在の中日新聞東京本社)に移り理事、論説委員長を務めた。 一時占領軍の公職追放令で一線を退いたが1950年の解除後、同社に復帰した。復社後は東京新聞の1面コラムに筆名・武原敏として「筆洗」を長きにわたり書き続けた。
金 汶枰(キム・ムンピョン、朝鮮語: 김문평、1906年 -… 金 汶枰(キム・ムンピョン、朝鮮語: 김문평、1906年 - 1987年1月27日)は、日本統治時代の朝鮮の銀行家、ジャーナリスト、大韓民国の政治家。第2代麗川郡郡守、制憲韓国国会議員。 本貫は霊光金氏(朝鮮語版)、初代大法院長の金炳魯は岳父、政治家の金鍾仁は妻の甥、元憲法裁判所長の尹永哲(朝鮮語版)と政治家の李宅敦は妻の姪の夫である。 全羅南道麗水出身。1932年に早稲田大学政治学部政治経済科卒。卒業後は海東銀行に就職し、1938年1月までは海東銀行本町支店次席支配人を務め、同年の漢城銀行による買収後は漢城銀行本町支店支配人代理となり、その後は東亜日報麗水支局長を務めた。 光復直後は朝鮮建国準備委員会麗水支部文化部長を務め、1945年9月には韓国民主党麗水郡党、11月には韓国民主党全羅南道党の結成に参加した。
村山 有(むらやま たもつ、1905年12月24日 - 19… 村山 有(むらやま たもつ、1905年12月24日 - 1968年12月31日)は、アメリカ合衆国シアトル生まれの日本のジャーナリスト。早稲田大学講師。ソルトレイク市名誉市民。ボーイスカウト日本連盟理事・相談役。
相島 敏夫(あいじま としお、1905年9月14日 - 19… 相島 敏夫(あいじま としお、1905年9月14日 - 1973年2月17日)は、科学ジャーナリスト、科学解説者。 東京都出身。1931年、東京帝国大学工学部冶金学科卒業。同年、朝日新聞社に入社し、1943年に日本出版会に転出するまで学芸部記者を務めた。 日本出版会雑誌第一課長、日本出版協会雑誌課長、事務局次長などを経て、1949年に法政大学出版局長。 のち、科学評論家・解説者としてラジオ・テレビなどで活躍。1966年、科学技術庁長官賞受賞。1968年、NHK放送文化賞を受賞。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
山本 光春(やまもと みつはる、1905年(明治38年)4月… 山本 光春(やまもと みつはる、1905年(明治38年)4月26日 - 1988年(昭和63年)2月24日)は日本の実業家、ジャーナリスト。毎日新聞社社長を務めた。岡山県岡山市出身。 竹槍事件では整理部副部長。新名丈夫の記事に「勝利か滅亡か 戦局はここまで来た」「竹槍では間に合わぬ 飛行機だ、海洋航空機だ」と見出しをつける。処分こそされなかったが、軍部の反発を招いたとして丸坊主になった。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
黒田 秀俊(くろだ ひでとし、1905年4月15日-1989… 黒田 秀俊(くろだ ひでとし、1905年4月15日-1989年6月14日)は、日本のジャーナリスト、社会運動家。 静岡県下田市出身。明治大学政治経済学科中退、明治大学新聞高等研究科修了。 1938年中央公論社入社、42年南方派遣、のち「中央公論」編集長となり、44年横浜事件及び改造社、中央公論社解散に遭遇。 戦後は原水協事務局長、基地問題文化人懇談会事務局長、日本平和委員会常任理事などを務め、晩年は東京都中野区の教育委員準公選運動などに関わった。
松田 ふみ子(まつだ ふみこ、1905年3月19日 - 没年… 松田 ふみ子(まつだ ふみこ、1905年3月19日 - 没年不明)は、日本の女性ジャーナリスト。奈良県出身。梅花女子専門学校(梅花女子大学の前身)から、九州帝国大学文学部に進み、1930年に卒業。1937年、中央公論社に入社し、『婦人公論』の編集を担当。1944年、毎日新聞社に移り、『サンデー毎日』の記者として活躍。1961年、退社。1966年 - 1975年、労働省婦人少年局審議会委員。1980年 - 1993年、エリザベス・サンダースホーム理事長。
藤田 貞次 (ふじた ていじ、1905年2月17日 – 19… 藤田 貞次 (ふじた ていじ、1905年2月17日 – 1976年11月8日)は、日本のジャーナリスト。 東京書籍取締役、東京教育研究所理事。 明治38年(1905年)福井県遠敷郡雲浜村(現・小浜市)西山手で出生。小浜市立雲浜小学校、旧制小浜中学校、第四高等学校文科を経て、京都大学文学部哲学科、同大学院卒業。 昭和7年 – 朝日新聞社(大阪)入社、学芸部員、昭和22年から23年3月まで図書編集部次長。 昭和24年 – 東京書籍株式会社取締役、編集部長。 昭和28年 – 東京教育研究所理事、専務理事。昭和39年12月 – 東京書籍株式会社退任。
島田 巽(しまだ たつみ、1905年1月25日 - 1994… 島田 巽(しまだ たつみ、1905年1月25日 - 1994年3月8日)は、日本のジャーナリスト。朝日新聞論説副主幹、ジャパン・クオータリー誌編集委員会委員。1965年から1976年まで人事官を務めた。 東京出身。1927年、慶應義塾大学政治学科を卒業。卒業後は朝日新聞社に就職し、東京本社欧米部長、論説副主幹などを歴任後、1965年3月2日から1976年4月1日まで、3期12年にわたり人事官を務めた。1975年、勲一等瑞宝章を受章。 1994年3月8日、膵臓癌により死去。89歳。
金 英基(キム・ヨンギ、朝鮮語: 김영기、1905年1月8日… 金 英基(キム・ヨンギ、朝鮮語: 김영기、1905年1月8日 - 1989年5月1日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国のジャーナリスト、実業家、政治家。制憲韓国国会議員。本貫は慶州金氏。 京畿道安城郡出身。中東中学校卒、日本大学専門部法科卒または中退。朝鮮日報記者・取締役、新幹会会員、株式会社三益社支配人を経て、解放後は安城郡小作委員会委員、好城産業株式会社専務、朝鮮農工株式会社取締役、安城産業株式会社専務取締役、大韓逓信事業協会理事、平沢税務署所属調査委員、韓国独立党安城郡委員長・中央党執行委員、大韓独立促成国民会安城支部委員長、大韓労総安城支部顧問、大韓農民総同盟安城支部顧問・副委員長、国会懲戒委員会委員長・懲戒資格委員会委員長・財政経済委員会常任委員、京畿道知事、大韓海運公社監事、忠北旅客株式会社社長、制憲同志会総務幹事・副会長を務めた。
田中 香苗(たなか かなえ、1904年(明治37年)10月1… 田中 香苗(たなか かなえ、1904年(明治37年)10月15日 - 1985年(昭和60年)10月13日)は、日本のジャーナリスト、実業家。毎日新聞社社長、日本国際連合協会理事長。東亜国内航空会長。 香川県大川郡白鳥町(現・東かがわ市)生まれ。 東亜同文書院卒業後、大阪毎日新聞社に入社。満洲事変や西安事件報道などを手掛け、戦中は東亜部長を務め、敗戦後は海外特派員の引揚げ業務を担当した。その後、ラジオ東京(現・TBSラジオ)など放送事業畑で活躍し、同郷の政治家平井太郎が民間放送を設立する際、協力し、1953年(昭和28年)にラジオ四国(現・西日本放送)が開局している。 西部本社代表を経て、1956年(昭和31年)に取締役に選任され、代表取締役・編集主幹、代表取締役会長・主筆を経て、1974年11月から76年2月までに社長を務めた。
高橋 勝之(たかはし かつゆき、1904年8月15日 - 1… 高橋 勝之(たかはし かつゆき、1904年8月15日 - 1986年6月8日)は、日本のジャーナリスト、翻訳家。 高知市出身。1927年早稲田大学第二高等学院ロシア文科卒。筆名・里見三吉。日本共産党、新日本文学会に属し、マルクス主義について執筆・翻訳を行った。
今村 武雄(いまむら たけお、1904年8月2日 - 199… 今村 武雄(いまむら たけお、1904年8月2日 - 1993年8月6日)は、日本のジャーナリスト、経済学者。 東京生まれ。1929年慶應義塾大学経済学部卒。報知新聞社に入り、日本経済新聞で論説委員、東京商工会議所理事、慶大新聞研究所教授、1970年定年、奥州大学教授、富士大学教授。女子学院理事長。
塩田 賀四郎(しおた がしろう、1904年〈明治37年〉6月… 塩田 賀四郎(しおた がしろう、1904年〈明治37年〉6月31日 - 1989年〈平成元年〉9月7日)は、昭和期の実業家、ジャーナリスト、政治家。衆議院議員。 兵庫県出身。1923年(大正12年)大阪府立市岡中学校(現大阪府立市岡高等学校)を卒業。早稲田大学法律科で学んだ。 津自動車学院校長、同校主、交通日日新聞記者、三共製作所取締役、生球精工代表取締役、政治新聞社取締役社長、大東建設社長、サン通信社長などを務めた。 日本自由党の創立委員となり同党幹事に就任し、1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙で兵庫県第1区に日本自由党公認で出馬して落選。1947年(昭和22年)4月の第23回総選挙で兵庫県第2区に出馬して落選。
中山善三郎(なかやま ぜんざぶろう、1904年(明治37年)… 中山善三郎(なかやま ぜんざぶろう、1904年(明治37年)6月21日 - 1974年(昭和49年)1月13日)は、日本のジャーナリスト、劇作家。劇作家としての筆名は塩谷国四郎。 1904年(明治37年)秋田市本町(現在の秋田市大町)に生まれる。日本大学卒。 1927年(昭和2年)、毎日新聞社入社。日米開戦前後には、海軍徴用報道班員として鹿屋海軍航空隊に随行し、戦況などを日本に伝えた。この折の体験を基に実録「真珠湾奇襲」「不沈戦艦北へ」を執筆している(いずれも『大東亜戦史 1 太平洋編』所収)。戦後、西部本社社会部長兼地方部長、横浜支局長、東京本社連絡部長、東京本社社会部長、サンデー毎日編集長を歴任した。
宮崎 世龍(みやざき せいりゅう、1904年〈明治37年〉5… 宮崎 世龍(みやざき せいりゅう、1904年〈明治37年〉5月23日 - 1995年)は、日本のジャーナリスト。朝日新聞記者を務めた。 宮崎民蔵の子で、宮崎世民の実弟、宮崎滔天の甥に当たる。 熊本県立玉名中学校(現・熊本県立玉名高等学校・附属中学校)を経て(1922年卒業)、東亜同文書院大学(当時は旧制専門学校の扱い)を卒業した。 朝日新聞社に入社し、上海通信局員として第一次上海事変を取材した。1935年には、日本人記者として初めて蔣介石と単独会見をおこなう。1943年に朝日新聞社南京支局長兼上海総局次長、1945年に上海総局長となった。 戦後は朝日新聞東京本社東亜部長、編集局次長、朝日新聞社社友などを歴任した。
洪 吉善(ホン・ギルソン、朝鮮語: 홍길선、1904年5月1… 洪 吉善(ホン・ギルソン、朝鮮語: 홍길선、1904年5月10日または7月1日 - 1980年8月8日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の実業家、政治家、ジャーナリスト。制憲・第2・4・5代韓国国会議員。本貫は南陽洪氏。 京畿道水原郡(現・水原市)出身。水原三一学校、培材中学校を経て、武蔵野音楽学校(現・武蔵野音楽大学)卒。1929年より水原醸造株式会社社長、水原新豊公立国民学校・水原梅香女子中学校・水原公立女子中学校後援会長、水原金融組合長、水原酒造組合理事長、マンジョンウォン専務理事、東亜日報社水原支局長、水原商工株式会社専務理事、朝鮮少年団水原郡連合会委員長、水原消防署長、水原商工会議所副会頭を歴任し、1939年に水原邑会議員に当選した。
小田 栄(小田 榮、おだ さかえ、1904年〈明治37年〉3… 小田 栄(小田 榮、おだ さかえ、1904年〈明治37年〉3月24日 - 1994年〈平成6年〉7月11日)は、日本の社会主義者、政治家、ジャーナリスト。衆議院議員。別名・天界。 広島県賀茂郡川尻村(川尻町を経て現呉市)で菓子製造業の家に生まれる。父の事業が失敗し、叔父からの勧めで1912年に一家で沖縄に移住。一家で飴屋を始め、小田も行商を行う。1918年、沖縄県立第一中学校に入学。4年次の学芸会で社会批判の演説を行い放校となった。 沖縄出身の先輩、アナキストで労働運動社にいた泉正重を頼り上京。同志と雑誌創刊を計画するも当局に検挙された。1922年、中浜哲、古田大次郎らのギロチン社に加わったが、1923年の関東大震災により沖縄に戻った。
大竹 平八郎(おおたけ へいはちろう、1904年〈明治37年… 大竹 平八郎(おおたけ へいはちろう、1904年〈明治37年〉2月8日 - 1985年〈昭和60年〉5月17日) は、大正から昭和期のジャーナリスト、政治家。参議院議員。 群馬県群馬郡渋川町(北群馬郡渋川町を経て現渋川市下之町)で、呉服商・大竹直四郎(なおしろう)、タミ夫妻の四男として生まれた。1918年(大正7年)渋川尋常高等小学校高等科(8年制)を卒業し、上京して 独学。 1926年(大正15年)帝国通信社に入社し無産政党、労働問題の担当記者となる。その後、同社政治部長、大阪帝国通信社東京支社長などを歴任。1934年(昭和9年)文部省嘱託に転じた。長江産業貿易開発協会(のち日華経済協会)を成立し常任理事に就任し、1945年(昭和20年)理事長となる。
聴濤 克巳(きくなみ かつみ、1904年(明治37年)1月1… 聴濤 克巳(きくなみ かつみ、1904年(明治37年)1月11日 - 1965年(昭和40年)8月30日)は日本のジャーナリスト、労働運動家。息子は元参議院議員の聴濤弘。 香川県生まれ。関西学院大学卒業後、朝日新聞社に入社。朝日新聞記者として論説委員などを歴任。戦後の1945年に日本共産党入党。朝日新聞労働組合委員長(初代)にも就任した。1946年には全日本新聞通信労働組合委員長(初代)と全日本産業別労働組合会議(産別会議)議長(初代)に就任した。 二・一ゼネストでは伊井弥四郎とともに最高責任者の1人になったが、1947年1月20日に右翼団体・新鋭大衆党による襲撃を受け全治1ヶ月の重傷を負った。
長島 又男(ながしま またお、1904年1月 - 没年不明)… 長島 又男(ながしま またお、1904年1月 - 没年不明)は、日本のジャーナリスト。機関紙連合通信社設立者、日本機関紙通信社元理事長 埼玉県北足立郡小谷村(現・鴻巣市)に生まれる。旧制埼玉県立熊谷中学校を経て、早稲田大学政治経済学部に進学した。しかし、大山郁夫に絡んで、在学中の1927年に大学を中退する。 1929年、新聞連合に加入する。1936年、同盟通信社に入社し、南方部長を務める。 1945年の日本の敗戦後、同盟通信社はGHQの指令により解散となる。長島は、解体に伴って設立された共同通信社に移り、解説委員長となる。同年、民報社を設立して取締役となり、東京都で第二次世界大戦後最初に創刊された夕刊紙である『民報』を創刊して主筆を務めた。
金 正実(キム・ジョンシル、朝鮮語: 김정실/金正實、190… 金 正実(キム・ジョンシル、朝鮮語: 김정실/金正實、1904年 - 1969年10月27日または11月26日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国のジャーナリスト、放送関係者、法学者、教授、政治家。第2代檀国大学(現・檀国大学校)学長、第2代韓国国会議員。 慶南固城郡固城邑生まれ、ソウル出身。普成専門学校(現・高麗大学校)、中央大学法学部卒。東亜日報記者、中央放送局職員として長年勤務した後、解放後に大韓民国臨時政府傘下政治工作隊総務、金九が設立した建国実践員養成所の講師、木材会社重役、金剛山工芸会社専務、朝鮮政治学館(現・建国大学校)教授・教務局長・教務主任、放送協会会員、世宗大学教授、檀国大学副学長・第2代学長、建国大学校畜産大学学長・憲法学教授、高等考試委員、国会法制司法委員長、自由党議員代表幹事、刑事訴訟法草案公聴会委員長を務めた。
皆藤 幸蔵(かいとう こうぞう、1904年 - 1983年2… 皆藤 幸蔵(かいとう こうぞう、1904年 - 1983年2月5日)は、日本の翻訳家、国際ジャーナリスト。東京外国語学校英語科卒業。 茨城県出身。同盟通信ロンドン特派員、時事通信外信部長、リーダーズ・ダイジェスト編集総務などを歴任。戦後は『アンネの日記』の翻訳のほか、国際問題、推理小説などを翻訳した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
高野 信(たかの まこと、1903年(明治36年)12月17… 高野 信(たかの まこと、1903年(明治36年)12月17日 - 1982年(昭和57年)1月9日)は、日本のジャーナリスト、実業家。九州朝日放送(KBC)、日本教育テレビ(NET、現:テレビ朝日)社長を務めた。 福島県いわき市出身。1929年(昭和4年)東京帝国大学を卒業後、朝日新聞社に入社する。 東京本社編集局長、西部本社代表、国策パルプ代表などを歴任し、1967年1月から1973年5月までに九州朝日放送社長を務め、1973年5月から1974年11月までに同社会長を務めた。 1974年(昭和49年)11月、NET社長に転じ、同じ朝日出身の副社長、中川英造と相談し三浦甲子二を編成、制作担当役員に抜擢した。
正木 千冬(まさき ちふゆ、1903年(明治36年)12月1… 正木 千冬(まさき ちふゆ、1903年(明治36年)12月10日 - 1982年(昭和57年)4月6日)は、日本の経済学者、官僚、ジャーナリスト、政治家(鎌倉市長)。
北村 兼子(きたむら かねこ、1903年〈明治36年〉11月… 北村 兼子(きたむら かねこ、1903年〈明治36年〉11月26日 - 1931年〈昭和6年〉7月26日 )は、大阪生まれのジャーナリスト。女性の権利運動に関心を寄せて執筆をする。日本飛行学校に入学、パイロット資格を取りヨーロッパ訪問飛行を志すが病いで果たせなかった。 漢学者北村佳逸と勝野の長女として生まれる。梅田高等女学校(現大阪府立大手前高等学校)を終えて大阪外国語学校(現大阪大学外国語学部)を卒業後、1923(大正12)年10月より関西大学法学部法学科にて聴講生としてドイツ法学を学ぶ。同校初の女子学生である。大学在学中に22歳で大阪朝日新聞記者として勤め始める。昭和初期、正岡容とレコードを吹き込むなどし、三上於菟吉との艶聞も流れた。
石村 英雄(いしむら ひでお、1903年(明治36年)9月1… 石村 英雄(いしむら ひでお、1903年(明治36年)9月16日 - 1963年(昭和38年)4月24日)は、昭和期のジャーナリスト、労働運動家、実業家、政治家。衆議院議員(4期)。 山口県吉敷郡大歳村出身。1926年(大正15年)東京帝国大学経済学部経済学科を卒業した。 中外商業新報社に入社し記者として勤務。経済部に所属して、国内外の経済や財政金融の調査研究を行った。記者と並行して労働運動に身を投じ、日本俸給生活者組合評議会執行委員として会社員の生活向上に尽力した。1928年(昭和3年)中外商業新報社を退職、その後もときには触法行為となりながらも労働運動を続けた。山口に帰郷、山口県燃料配給統制組合理事長、山一燃料取締役社長、山口県地方労働委員会委員、中日文化研究所理事などを務めた。
田井 真孫(たい しんそん、1903年8月12日 - 197… 田井 真孫(たい しんそん、1903年8月12日 - 1973年2月19日)は、日本のジャーナリスト、コラムニスト。 東京生まれ。法政大学経済学部卒。報知新聞などの記者を七年務める。1941年法政大学教授になるが、大日本言論報国会などで活動し、戦後公職追放となる。野村胡堂に師事し捕物作家クラブ幹事長を7年、「日本教育新聞」編集局長を一年務めた。「日本海事新聞」にコラム「うきぶくろ」を連載。大衆文学研究会会員。劇作家、脚本家の田井洋子は妹。時代考証家の田井友季子は妻。
入江 啓四郎(いりえ けいしろう、1903年4月20日 - … 入江 啓四郎(いりえ けいしろう、1903年4月20日 - 1978年8月13日)は、日本の国際法学者・ジャーナリスト。 鳥取県西伯郡春日村(現・米子市)生まれ、上海で育つ。1919年豊浦中学校中退。1921年日本中学校卒業。1923年第一早稲田高等学院卒業。1927年3月、早稲田大学法学部卒業。1927年4月、ジャパンタイムズに記者として入社。その後、日本新聞連合社記者を経て、1936年1月、同盟通信社に勤務、1937年に同社パリ支局長。1939年に同社ジュネーヴ支局長。『ヴェルサイユ体制の崩壊』全3巻を上梓する。1945年同社編集局外信部長。1945年、時事通信社編集局外信部長。1946年、同社時事研究所長。
砂間 一良(すなま いちろう、1903年2月8日 - 199… 砂間 一良(すなま いちろう、1903年2月8日 - 1992年12月12日)は、日本のジャーナリスト、政治家。元日本共産党衆議院議員。民医連運動発祥の地とされる、大崎無産者診療所で看護師を務めていた、社会運動家の秋子は配偶者。 静岡県田方郡土肥村(土肥町を経て現在は伊豆市)出身。錦城中学校、第一高等学校を経て、1928年東京帝国大学経済学部を卒業。一高在学中の1923年9月1日に発生した関東大震災では、新人会のメンバーと「一高震災防護団」を立ち上げ、被災者救援活動を行った。また、帝大入学後は新人会へ加入、1927年には無産者新聞へ無給社員として入る。翌年の三・一五事件以後責任者に就くと共に、日本共産党へ入党する。
斎藤 忠(さいとう ちゅう、1902年(明治35年)12月2… 斎藤 忠(さいとう ちゅう、1902年(明治35年)12月29日 - 1994年(平成6年)1月12日)は日本の国際政治評論家、軍事評論家、ジャーナリスト。大日本言論報国会常務理事、『ジャパンタイムズ』論説主幹等を歴任した。尾浜惣一の筆名で翻訳も行っている。 考古学者の斎藤忠(さいとう ただし)は同姓同名の別人である。 1902年(明治35年)12月29日、新潟県に生まれる。本籍地は東京市麹町区富士見町二丁目(現在の千代田区九段南)。 1928年(昭和3年)、東京帝国大学文学部英文科を卒業、大学院に進学し1930年(昭和5年)4月に2年の課程を修了、1933年(昭和8年)4月まで在籍。大学院での研究題目は「文芸復興期以後ノ欧羅巴ニ於ケル浪漫精神ノ研究」。
城戸 又一(きど またいち、1902年10月3日 - 199… 城戸 又一(きど またいち、1902年10月3日 - 1997年8月22日)は、日本のジャーナリスト、評論家。東京大学名誉教授・創価大学名誉教授。 福岡県福岡市博多出身。1927年東京帝国大学文学部フランス文学科卒業、大阪毎日新聞社入社。1933年パリ特派員となり、ヒトラー出現からミュンヘン会談に至るヨーロッパ政局を報道する。帰国後、学芸部長、論説委員、論説副委員長を歴任。1951年単独講和に反対して毎日新聞を辞職。その後東京大学新聞研究所教授、1959年同所長。同志社大学教授、創価大学教授、放送批評懇談会会長、日本新聞学会会長を歴任。 編著に「講座現代ジャーナリズム」がある。1998年城戸又一賞が創設される。
原 奎一郎(はら けいいちろう、1902年〈明治35年〉7月… 原 奎一郎(はら けいいちろう、1902年〈明治35年〉7月20日 - 1983年〈昭和58年〉7月24日)は、日本のジャーナリスト、著作家。本名は貢(みつぎ)。原敬の養嗣子。娘はスタイリストの原由美子。 大阪府出身。首相の原敬の姪の子で、幼児期に養嗣子となる。1915年(大正4年)東京府立一中入学。同期に小林秀雄、迫水久常、千頭暎臣、石丸重治(半途退学)、西竹一(半途退学)らがいる。以降、慶應義塾大学予科在学中に英国留学のため1921年(大正10年)中退。 1940年(昭和15年)、同盟通信記者。1946年(昭和21年)に退社して、ファッション評論なども手掛けた。1950年(昭和25年)に「原敬日記」を乾元社で公刊(原敬の遺言で、公開は没後30年程度を経てからと定めていた)。
阿子島 俊治(あこしま しゅんじ、1902年〈明治35年〉6… 阿子島 俊治(あこしま しゅんじ、1902年〈明治35年〉6月29日 - 1954年〈昭和29年〉4月30日)は、日本のジャーナリスト、政治家。 宮城県刈田郡白石町(現・白石市)生まれ。1927年早稲田大学政治経済学部政治学科を卒業し、国民新聞社に入社。政治部記者、政治部次長、論説委員を歴任した。 政治ジャーナリストとして活動する一方早くから政界入りを志し、1936年に立憲民政党公認で第19回衆議院議員総選挙に立候補したが落選。その後1942年に行われた翼賛選挙で翼賛政治体制協議会の推薦候補として立候補し初当選、翼賛政治会・大日本政治会に所属した。 阿子島が総選挙に初当選したのは翼賛選挙だったが、落選したとはいえ政党解消前に民政党公認で総選挙に立候補したことがあったことや、ジャーナリスト時代に衆議院議長を務めたこともある民政党の大物政治家・藤沢幾之輔の伝記を上梓したこともあったため、阿子島は翼賛議会においては戦前の民政党の系譜を受け継ぐ政治家とみなされた。
野澤 隆一(のざわ りゅういち、1902年〈明治35年〉5月… 野澤 隆一(のざわ りゅういち、1902年〈明治35年〉5月28日 - 1991年〈平成3年〉3月31日)は、日本のジャーナリスト、実業家。信越放送代表取締役社長、共同テレビジョンニュース社(現・共同テレビジョン)代表取締役社長を務めた。 長野県上伊那郡伊那富村(現・辰野町)出身。長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)、第二高等学校を経て、1927年東京帝国大学経済学部卒業。 毎日新聞社入社。東京大学総長小野塚喜平次に懇望され東京大学学生課に勤務し東京大学新聞社を創設、主幹を務めた。小平権一のもとで大政翼賛会企画部長を務め、日本出版会理事、日本印刷工業会専務理事を経て、1951年信越放送の設立に参画し東京支社長、1955年同社代表取締役社長。