廣瀬 貞雄(ひろせ さだお、1918年(大正7年) - 20… 廣瀬 貞雄(ひろせ さだお、1918年(大正7年) - 2007年(平成19年)6月9日)は、日本の精神科医、ロボトミスト、日本医科大学教授。同大名誉教授にも。 1918年大阪生まれ。 産婦人科医の養子になる。中学時代から歌舞伎を愛し、演劇論をやるために美学者を志したが、父の反対で断念。 1938年東京帝大医学部に入学。 その後も歌舞伎を愛好し続け、16代目市村羽左衛門宅を訪ねたりしていた。 1946年に派遣された松沢病院では、市村から教わった「切られ与三郎」の所作を披露したことから、「与三さん」との異名をとった。 1951年に学会に発表され、1971年に石川清に告発された、いわゆる「臺実験」で実際に執刀したのは、臺弘ではなく、廣瀬であった。
福島 茂夫(ふくしま しげお、1917年11月28日 - 2… 福島 茂夫(ふくしま しげお、1917年11月28日 - 2012年7月15日)は、日本の医師、医学博士、政治家。位階は正五位。 参議院議員(1期、自由民主党)。 埼玉県出身。1942年日本大学専門部医学科(現医学部)卒。1944年、埼玉県児玉郡本庄町(現・本庄市)に福島病院(現・本庄福島病院)を開設し院長となる。埼玉県議会議員(自由民主党)を2期務めた後、1977年の第11回参議院議員通常選挙に日本医師会の政治連盟である日本医師連盟の支援を受け、全国区から自民党公認で立候補、127万を超える票を得て3位当選(自民党候補の中ではトップ)。1980年7月から1981年11月まで鈴木内閣において環境政務次官を務めた。
織田 五二七(おだ いふな、1917年5月27日 - 200… 織田 五二七(おだ いふな、1917年5月27日 - 2009年5月5日)は、日本の医師・作家。 佐賀県生まれ。織田長益の三男・織田俊長の子孫で、鍋島家鹿島藩藩医織田家の13代目。1935年に上京、日本大学医学部卒、1942年海軍軍医中尉に任官、軍艦「常磐」軍医長。のち大尉。1960年医学博士。佐賀県鹿島市に織田病院を設立し、院長、特定医療法人祐愛会織田病院理事長。そのかたわら、評論・小説などを書いた。 2009年5月5日、胆嚢癌のため死去。91歳没。
石黒 進之助(いしぐろ しんのすけ、1917年(大正6年)5… 石黒 進之助(いしぐろ しんのすけ、1917年(大正6年)5月2日 - 1992年(平成4年)3月29日)は、日本の歯科医師、歯学士、開業歯科医、(社)鶴岡地区歯科医師会理事、山形県歯科医師政治連盟理事。
河邨 文一郎(かわむら ぶんいちろう、1917年〈大正6年〉… 河邨 文一郎(かわむら ぶんいちろう、1917年〈大正6年〉4月15日 - 2004年〈平成16年〉3月30日)は、日本の整形外科医、詩人。元札幌医科大学教授。 北海道小樽市出身。小樽中学、北海道帝国大学医学部を卒業。その後、東京帝国大学医学部を経て、札幌医科大学整形外科教授となる。医師から作家に転向した渡辺淳一は、教え子のひとりである。 1950年12月、東北大学より「項中隔石灰症の研究」で医学博士を取得した。 1952年には北海道整肢学院(現北海道立子ども総合医療・療育センター)の初代院長となり、北海道の「肢体不自由児の父」と呼ばれる。北海道内でのポリオ流行後、同疾患による下肢短縮に対する河邨式脚延長術式を開発した。
中川 晶輝(なかがわ あきてる、1917年2月25日 - )… 中川 晶輝(なかがわ あきてる、1917年2月25日 - )は、日本の眼科医・キリスト教活動家。 愛媛県松山市生まれ。1942年9月東京慈恵会医科大学卒業。12月北京同仁医院(眼科)勤務。45年8月北京仁民医院(眼科)に留用。同時に日本人戦犯拘置所に一日おきに往診。1947年11月帰国。1948年3月衣笠病院眼科勤務。1953年2月白十字会村山療養園(現∶東京白十字病院・結核科)勤務。1972年7月特別養護老人ホーム白十字ホーム園長就任。89年3月園長退任。引き続き専任医師として勤務。93年7月白十字ホーム退職。キリスト者平和の会委員、安保反対キリスト者平和会議事務局長、日本友和会理事長及び理事、白十字会理事、アルヴィン学院理事、友愛の灯協会会長、全国老人福祉問題研究会会長などを歴任。
肥田 舜太郎(ひだ しゅんたろう、1917年1月1日 - 2… 肥田 舜太郎(ひだ しゅんたろう、1917年1月1日 - 2017年3月20日)は、日本の医師。広島市への原子爆弾投下により自身が被爆しつつ、直後から被爆者救援・治療にあたった。以来被爆者の診察を続け、被爆の実相を語りつつ核兵器廃絶を訴え続けた。 銀行員の家の長男として広島市で生まれた。中津川肥田氏の肥田帯刀17代目にあたる。早稲田第一高等学院建築科に入学、登山と音楽に夢中であった。あるとき友人から誘われて東京下町の工場街にある託児所を見学、不衛生と貧困のもとにおかれた児童の実情を初めて知り度肝をぬかれたことがきっかけで、医師を志すようになり、日本大学専門部医学科に入学。「小児衛生研究会」を立ち上げ、託児所の健康管理の手伝いを始めたが、2年次のとき文部大臣荒木貞夫から「自由主義的傾向あり」と解散を命じられ、以来軍人嫌いが確固としたものになった。
横内 寿八郎(よこうち じゅはちろう、1917年 - 200… 横内 寿八郎(よこうち じゅはちろう、1917年 - 2002年8月1日)は、日本の医師。国立病院機構東名古屋病院元院長。長野県生まれ。 1933年(昭和8年)旧制松本第二中学(現長野県松本県ヶ丘高等学校)卒業。旧制松本高等学校理科を経て、1941年(昭和16年)九州帝国大学医学部を卒業。1971年(昭和46年)、国立療養所中部病院を経て、国立病院機構東名古屋病院院長を務めた。 1986年、勲二等瑞宝章を受章。2002年8月1日、多臓器不全のため死去。 当時、寿八郎のもとで医師を務めた加古健は、名古屋大学第二外科同門会誌「素友」に起稿した「横内寿八郎先生を偲んで」の中で寿八郎の人柄を偲んでいる。
見川 鯛山(みかわ たいざん、1916年11月22日 - 2… 見川 鯛山(みかわ たいざん、1916年11月22日 - 2005年8月5日)は、日本の医師、作家。本名は見川 泰山。栃木県安蘇郡植野村(現・佐野市)出身。 昭和医学専門学校卒業後、栃木県那須郡那須村(現・那須町)に見川医院を開設、60年以上にわたって地域医療に従事する傍ら、那須の風土に根ざした短編小説や随筆を14冊執筆した。製薬会社のPR誌に連載した作品などをまとめた「山医者シリーズ」が有名。獅子文六に師事した。 2男2女の4人の子供がおり、長男は見川医院の院長を引き継いでいる。次女はイラストレーターの米倉万美で、2004年7月に地元佐野市のギャラリー酒蔵楽で「見川鯛山&米倉万美父娘展」を開催した。
湯浅 謙(ゆあさ けん、1916年10月23日 - 2010… 湯浅 謙(ゆあさ けん、1916年10月23日 - 2010年11月2日)は、元日本陸軍軍医、医師、中国帰還者連絡会の会員。埼玉県出身。 第二次世界大戦中、日本陸軍の軍医として中国で勤務、軍務として生体解剖を行う。 戦後、戦犯容疑者として中国の戦犯管理所へ移送されるが、中国の人道的な対応に接し、自身の罪を強く認識し深く反省する。起訴免除の判決を受けた後、日本へ帰国する。 帰国後、中帰連の会員として、反戦平和、日中友好運動に参加する。自身の戦争体験、特に生体解剖を証言し、戦争の愚かしさを伝える。 1942年3月中旬。目的は、第36師団の野戦部隊の軍医教育のための演習として行われた。第36師団より11-12名の軍医、潞安陸軍病院より新任軍医5名、その他2-30名が参加した。
中原 呉郎(なかはら ごろう、1916年〈大正5年〉7月31… 中原 呉郎(なかはら ごろう、1916年〈大正5年〉7月31日 - 1975年〈昭和50年〉6月12日)は、日本の医師。詩人の中原中也は兄で、弟に伊藤拾郎がいる。山口県吉敷郡(現:山口市)出身。 中原謙助、フクの六人兄弟の五男として生まれる。 1924年頃、弟の拾郎にハーモニカを教える。 1938年3月に山口高等学校を卒業して、4月に長崎医科大学に入学した。 1942年1月13日、医師免許証を取得し、同月20日に短期現役軍医として入隊する。 1946年、中原医院の事務員となる。 1955年には国立療養所多磨全生園厚生技官となる。 1959年に整形外科医長に就任した。はにかに屋で大酒飲みだったが、深酒した翌日も絶対に休診することはなかったとされる。
佐々木 正五(ささき しょうご、1916年6月18日 - 2… 佐々木 正五(ささき しょうご、1916年6月18日 - 2014年11月20日)は、日本の海軍軍医(軍医大尉)、微生物学者、医学博士。慶應義塾大学名誉教授、東海大学名誉教授。東海大学医療技術短期大学学長。正七位(1945年)、勲二等瑞宝章(1994年)。 樺太の機関車を扱う商家に生まれた。1925年、慶應義塾幼稚舎入学。慶應義塾普通部卒業後、慶應義塾大学医学部予科修了、慶應義塾大学医学部本科卒業。1941年4月、慶應義塾大学医学部細菌学教室助手、5月に海軍二年現役軍医科士官となる。伊号第四潜水艦軍医長として真珠湾攻撃に参加し、詳細な日記を残した。1944年より陸上勤務。1945年に復員、慶應義塾大学医学部細菌学教室に戻り、小林六造に師事。
丸茂 重貞(まるも しげさだ、1916年〈大正5年〉5月29… 丸茂 重貞(まるも しげさだ、1916年〈大正5年〉5月29日 - 1982年〈昭和57年〉7月23日)は、日本の医師、政治家。位階は従三位、勲等は勲一等。参議院議員(4期)。環境庁長官(第7代)を歴任した。所属派閥は福田派。青嵐会の結成にも参加した。陸軍軍医大尉。 1916年(大正5年)、群馬県吾妻郡坂上村(現・東吾妻町)の出身。出生地は坂上村とも長野県とも。高崎市に移り住み、1934年(昭和9年)旧制高崎中学校(現・群馬県立高崎高等学校)を卒業、1940年(昭和15年)東京医学専門学校卒業。医師免許取得後日本鋼管病院に勤務するが、同年10月軍医として応召。最終階級は陸軍軍医大尉。 1946年(昭和21年)7月に復員、群馬県群馬郡滝川村で内科医として開業。
安部 英(あべ たけし、1916年5月15日 - 2005年… 安部 英(あべ たけし、1916年5月15日 - 2005年4月25日)は、日本の医師。医学博士。元帝京大学副学長。 山口県長門市の網元の家に生まれる。旧制大津中学校、旧制山口高等学校を首席卒業、1941年東京帝国大学医学部医学科卒。1951年医学博士(東京大学)。論文の題は「プロトロンビンに関する研究」。 海軍軍医大尉として従軍し、その後1946年東京大学医学部第一内科助手、コーネル大学留学等を経て、1964年東京大学医学部第一内科講師。1971年に帝京大学に招聘され医学部教授に就任、1980年から1987年まで帝京大学医学部長、のち帝京大学名誉教授。1987年から1996年まで帝京大学副学長。
森村 茂樹(もりむら しげき、1916年〈大正5年〉3月21… 森村 茂樹(もりむら しげき、1916年〈大正5年〉3月21日 - 1979年〈昭和54年〉11月24日)は精神科医、地域医療と社会福祉を推進した教育者。兵庫県西宮市に兵庫医科大学を創設、理事長、学長、病院長を歴任した。 精神科医森村真澄・豊の一人っ子として兵庫県川辺郡尼崎町(現在の尼崎市)で生まれる。尼崎市第三尋常小学校から兵庫県立第一神戸中学校(現神戸高校)を経て第三高等学校(現京都大学)に進んだ。卒業した1936年(昭和11年)は京都帝国大学文学部哲学科に合格したが方向転換、翌年、東京帝国大学医学部に入学、1941年(昭和16年)卒業、精神病学教室主任教授で東京都立松沢病院長を兼務する内村祐之の指導を受け、東大病院精神病学講座の副手嘱託となる。
秋月 辰一郎(あきづき たついちろう、1916年(大正5年)… 秋月 辰一郎(あきづき たついちろう、1916年(大正5年)1月3日 - 2005年(平成17年)10月20日)は、日本の医師で、元長崎聖フランシスコ病院院長。長崎へ原爆が投下された当時、自らも被爆しながら、医師として負傷した被爆者の治療にあたった。また、医師のかたわら、原爆の証言の収集を長年に渡って行った。 秋月平和賞は、生前の秋月辰一郎の平和貢献活動をたたえて長崎市の市民団体が2008年(平成20年)に創設した賞である。秋月平和賞は核兵器廃絶に貢献する活動をしている個人や団体に贈られ、2024年には15回目となった。 この項目は、医療関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:医学と医療、PJ:医学、PJ:歯学)。
山本 高治郎(やまもと たかじろう、1916年 - )は、日… 山本 高治郎(やまもと たかじろう、1916年 - )は、日本の小児科医、聖路加国際病院名誉医長。 滋賀県生まれ。1941年東京帝国大学医学部卒。1953年東京大学医学博士。論文の題は「穀粉栄養障碍に於けるビタミンA欠乏症状発現に関する実驗的研究」。 聖路加国際病院小児科医長、のち名誉医長。北里大学客員教授。1983年『母乳』で毎日出版文化賞受賞。
萩野 昇(はぎの のぼる、1915年11月20日 - 199… 萩野 昇(はぎの のぼる、1915年11月20日 - 1990年6月26日)は、 日本の医師。イタイイタイ病の命名者。医師で詩人の萩野卓司は弟。 長崎県に、医師・萩野茂次郎の長男として生まれる。1940年に旧制金沢医科大学(現・金沢大学医学部)を卒業し、同病理学教室の研究生となる。同年10月に応召入隊。1946年中国より復員し、富山県婦中町(現・富山市)の実家の「萩野病院」を継ぐ。 萩野を待ち受けていたのは、苦痛のあまり「痛い!痛い!」と叫ぶ、原因不明の奇病に苦しむ多くの女性患者たちであった。足は何箇所も折れ曲がり、満足に歩くことができない。診断しようと腕を取っただけで骨折してしまう。「風土病」「業病」と恐れられ、やがて家族からも遠ざけられながら、脳は冒されないため意識だけは明瞭なままで、激痛に悶えながら衰弱死に至る。
立津 政順(たてつ せいじゅん、1915年(大正4年)10月… 立津 政順(たてつ せいじゅん、1915年(大正4年)10月18日 - 1999年(平成11年)1月28日)は、日本の精神科医。沖縄県出身。統合失調症、一酸化炭素中毒、水俣病などを研究。松沢病院時代は終戦時の精神病療養所の死亡率を発表した。位階は正四位。 小学校時代は沖縄県今帰仁小学校に通学し、優等生であった。1936年旧制水戸高等学校を卒業、1940年3月東京大学医学部卒業。精神科入局(内村祐之教授)東京大学助手を経て1942年12月19日、東京都立松沢病院に勤務。1946年12月東京大学医学博士。論文の題は「本邦人の精神疾患負荷に関する研究」1954年3月医長に昇任。1961年4月1日、第4代熊本大学精神科教授。
山川 邦夫(やまかわ くにお、1915年10月4日 - 19… 山川 邦夫(やまかわ くにお、1915年10月4日 - 1966年10月24日)は、日本の内科学者、医学博士。専門は循環器病学。東京都生まれ。父は内科学者の山川章太郎。弟は生化学者で東京大学名誉教授の山川民夫。姪は科学ジャーナリストの大熊由紀子。義従弟(母の妹の長女の夫)は佐々学。
秋山 太一郎(あきやま たいちろう、1915年〈大正4年〉8… 秋山 太一郎(あきやま たいちろう、1915年〈大正4年〉8月16日 - 2006年〈平成18年〉1月5日)は、日本の医学者、医学博士(東京大学)、実業家。補綴材(エピテーゼ、プロテーゼ)の研究者。株式会社高研の創業者。株式会社荘内日報社元社長・元会長。鶴岡市行政顧問。勲四等瑞宝章。山形県鶴岡市出身。「世界にさきがけ、独創に生きる」を座右の銘とした。 医療用高分子の研究の分野で活躍し、血液樹脂、合成高分子、医用シリコーン、医療用の生体モデルなどを開発し、医療技術の向上に貢献した。略歴は以下のとおり。
浅田 晃彦(あさだ てるひこ、1915年〈大正4年〉8月11… 浅田 晃彦(あさだ てるひこ、1915年〈大正4年〉8月11日 - 1996年〈平成8年〉7月31日)は、日本の小説家、医師。 群馬県勢多郡富士見村(現・前橋市)出身。 祖父・浅田長太郎は平藩の足軽の家の出で勢多郡新里村山上の浅田民次郎の養子となり、後に初代新里村長となった。 晃彦は勢多郡富士見村に生まれ、利根郡片品村で幼少期を過ごした。1934年(昭和9年)に旧制前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)を卒業し、1941年(昭和16年)に慶應義塾大学医学部を卒業。翌1942年(昭和17年)陸軍軍医として入隊、ラバウルで勤務し1946年(昭和21年)に復員した。 戦後は前橋で内科小児科を開業し、のちに日本郵船の船医となる。
羽田 春兔(はねだ はると、1915年5月12日 - 199… 羽田 春兔(はねだ はると、1915年5月12日 - 1995年7月1日)は、昭和時代から平成時代の医師。医学博士(北海道大学、1948年)。13代日本医師会会長。 1915年(大正4年)、長崎県に生まれる。1939年、北海道帝国大学医学部卒業。1948年(昭和23年)、東京都大田区に内科医院を開業。1983年(昭和58年)、東京都医師会会長。1984年(昭和59年)、第12代日本医師会会長花岡堅而の再選を阻んで、第13代日本医師会会長に就任。 初代 北里柴三郎1916-1931 / 2代 北島多一1931-1943 / 3代 稲田龍吉1943-1946 / 4代 中山寿彦1946-1948 / 5代 高橋明1948-1950 / 6代 田宮猛雄1950 / 7代 谷口弥三郎1950-1952 / 8代 田宮猛雄1952-1954 / 9代 黒澤潤三1954-1955 / 10代 小畑惟清1955-1957 / 11代 武見太郎1957-1982 / 12代 花岡堅而1982-1984 / 13代 羽田春兔1984-1992 / 14代 村瀬敏郎1992-1996 / 15代 坪井栄孝1996-2004 / 16代 植松治雄2004-2006 / 17代 唐澤祥人2006-2010 / 18代 原中勝征2010-2012 / 19代 横倉義武2012-2020 / 20代 中川俊男2020-2022 / 21代 松本吉郎2022- この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
山田 尚達(やまだ なおみち、1915年(大正4年)5月8日… 山田 尚達(やまだ なおみち、1915年(大正4年)5月8日 - 2014年(平成26年)1月21日)は日本の小児科学者、北海道大学名誉教授、北星学園大学文学部教授、北海道公安委員会委員長、医学博士。 東京都出身。趣味は陸上競技・音楽・登山。 1939年(昭和14年)東京大学医学科卒業。1954年(昭和29年)信州大学教授、1959年(昭和34年)北海道大学教授、1979年(昭和54年)同大学名誉教授、同年、北星学園大学教授。 2014年1月21日、急性心不全のため札幌市の病院で死去、98歳。 交詢社 第69版 『日本紳士録』 1986年 この項目は、医学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:医学/Portal:医学と医療)。
吉沢 國雄(よしざわ くにお、1915年5月4日 - 200… 吉沢 國雄(よしざわ くにお、1915年5月4日 - 2008年11月9日)は、埼玉県出身の医師。佐久市立国保浅間総合病院名誉院長 浅間総合病院初代院長であり、糖尿病インスリンの自己注射の実現をはじめ、住民と一体となった集団健診や栄養改善、ひと部屋暖房運動など生活様式の改善活動に取組み、脳卒中死亡率の低下をはじめ、長寿のまちの基礎を築いた。 昭和34 年4 月浅間病院の初代院長として佐久の地に赴任した。当時は、地域住民の健康管理状況は必ずしも良好でなく、脳卒中の死亡率は日本でも最高位であった。このような環境の中で診療と保健予防活動という二本の柱を、地域に密着して住民と共に実践するために、広く地域住民の健康を守る医療、地域医療の推進を提唱し、佐久市立国保浅間病院を中心にその実践活動をした。
宮崎 淳臣(みやざき きよおみ、1915年(大正4年)4月2… 宮崎 淳臣(みやざき きよおみ、1915年(大正4年)4月27日 - 没年不明)は、日本の陸軍軍人(軍医将校)、医師。最終階級は陸軍軍医少佐。かつて731部隊に所属していた。宮崎神経科嵯峨病院創立者。子に豊田潤多郎、孫に豊田剛一郎。紺綬褒章受章者。 兵庫県出身。宮崎伝治の長男として生まれる。旧制姫路高等学校理科乙類を経て、1939年(昭和14年)に京都帝国大学医学部を卒業後、近衛歩兵第1連隊付軍医中尉に任官。1943年(昭和18年)軍医少佐に累進後、陸軍軍医学校教官兼陸軍軍医学校中山出張所長を務める。1946年(昭和21年)千葉県血清製造初代所長となり、1948年(昭和23年)公職追放され医院を開業。
黒丸 正四郎(くろまる しょうしろう、1915年4月6日 -… 黒丸 正四郎(くろまる しょうしろう、1915年4月6日 - 2003年11月6日)は、日本の医学者、精神科医。神戸大学名誉教授。 鹿児島県出身。鹿児島県立第一鹿児島中学校 (旧制)を経て、1935年第七高等学校造士館 (旧制)卒業。京都帝国大学医学部卒。1948年医学博士。大阪市立大学医学部助教授、神戸医科大学助教授、1959年同教授、1966年神戸大学教授、1980年定年退官、名誉教授、甲南女子大学教授、1986年退任。精神神経科学。 1988年、勲三等旭日中綬章を受章。2003年11月6日、肺炎のため死去。
丸山 豊(まるやま ゆたか、1915年3月30日 - 198… 丸山 豊(まるやま ゆたか、1915年3月30日 - 1989年8月8日)は、日本の医師、詩人。現代日本における代表的な詩人の一人。 福岡県八女郡広川町出身。福岡県中学明善校在学中より野田宇太郎らと同人誌「日時計」を発行。1932年第一早稲田高等学院に進学するも中退し、父と同じく医学を志して、1937年九州医学専門学校卒業。 1941年以降、軍医として中国、フィリピン、ビルマを転戦した。復員後の1946年、久留米市にて豊泉会丸山病院を開業。医師として働く傍ら詩作を行う。1947年、安西均、野田宇太郎らと詩誌「母音」を創刊。谷川雁、川崎洋、有田忠郎ら九州の詩人たちが参加した。1966年、福岡県詩人会を設立して代表幹事に就く。
緑川洋一(みどりかわ よういち、1915年(大正4年)3月4… 緑川洋一(みどりかわ よういち、1915年(大正4年)3月4日 - 2001年(平成13年)11月14日)は、写真家、歯科医師。生来の名は横山知(さとし)。二科会写真部会員。 岡山県邑久郡裳掛村虫明(現・瀬戸内市邑久町虫明)の呉服商の長男として生まれる。1932年(昭和7年)に上京し、日本大学専門部歯科に入学。1934年(昭和9年)、模型飛行機店の店主と合作でコンテストに応募したボート用スチームエンジンを、海軍省が50円で買い取る。これを元手にドイツ製カメラ・ペルケオを購入し写真撮影を始める。1936年(昭和11年)、日大専門部歯科を卒業。歯科医師国家試験に合格し、東京市蒲田区(現・大田区蒲田)の総合病院に勤務する。
滝井 義高(たきい よしたか、1915年(大正4年)2月25… 滝井 義高(たきい よしたか、1915年(大正4年)2月25日 - 2005年(平成17年)12月19日)は、日本の政治家、医師。日本社会党衆議院議員、福岡県田川市長を歴任した。 福岡県出身。旧制明治中学校を経て、東京慈恵会医科大学を卒業し、病院を開業する。 1947年(昭和22年)田川市議会議員選挙に立候補し当選する。1951年(昭和26年)福岡県議会議員選挙に立候補し当選する。日本社会党発足に参加するとともに、地元の筑豊炭田などの炭鉱労組の社会労働問題に精通する。 1953年(昭和28年)第26回衆議院議員総選挙に社会党から立候補し当選する。当選回数5回。社会党では、国会対策副委員長、選挙対策委員長などを務め、社会政策、労働政策の論客として活躍した。
宮村 定男(みやむら さだお、1915年〈大正4年〉2月19… 宮村 定男(みやむら さだお、1915年〈大正4年〉2月19日 - 2011年〈平成23年〉11月25日)は、日本の細菌学者、医師。医学博士。新潟大学名誉教授。趣味はバイオリンと水泳。 新潟県北蒲原郡川東村大字下羽津(現 新発田市下羽津)出身。1931年(昭和6年)3月に新潟中学校を4年で修了(四修)、1934年(昭和9年)3月に新潟高等学校を卒業、1938年(昭和13年)3月に新潟医科大学を卒業。 1938年(昭和13年)3月に新潟医科大学細菌学教室(担任:宮路重嗣教授)副手に就任、12月に助手に就任、1943年(昭和18年)1月に医学博士の学位を取得、10月に新潟医科大学細菌学教室(担任:伊藤泰一教授)講師に就任。
小坂 淳夫(こさか きよお、1915年 - 2005年)は、… 小坂 淳夫(こさか きよお、1915年 - 2005年)は、日本の内科医。岡山大学学長や、岡山県立大学学長、大学入試センター所長を務めた。従三位勲二等旭日重光章。 岡山県赤磐郡鳥取上村(現赤磐市)山口生まれ。1940年岡山医科大学(現岡山大学)卒業。1949年医学博士。1957年岡山大学医学部教授(内科学)。1965年岡山県医師会理事。1973年医学部長。同年岡山県三木記念賞受賞。74年日本糖尿病学会中国・四国支部長。75年岡山大学学長。82年大学入試センター所長。83年山陽新聞社賞受賞。87年勲二等旭日重光章受章。88年岡山県文化賞受賞。同年赤坂町名誉町民。93年初代岡山県立大学学長。05年従三位。
長濱 善夫(ながはま よしお、1915年(大正4年) - 1… 長濱 善夫(ながはま よしお、1915年(大正4年) - 1961年(昭和36年)6月)は日本の医学者、眼科医。医学博士。千葉医科大学(千葉大学)卒業。千葉大学医学部講師、国立横浜療養所内科医長を歴任した。日本東洋医学会の創設にも携わる。 1915年、神奈川県生まれ。1940年千葉医科大学卒業後、同大の眼科教室に所属し、伊藤弥恵治の薫陶を受け、主として東洋医学研究室において研究に従事する。 1947年(昭和22年)藤平健らとともに千葉医科大学の公認課外講座として「東洋医学自由講座」を設置、1950年(昭和25年)日本東洋医学会の創設にあたっては学会準備委員会委員として尽力した。 1949年春に、千葉医科大学で視神経萎縮という悪性の眼病を患った鍼響に敏感な患者と遭遇したことがきっかけで鍼響の研究を行うようになった。
若松 栄一(わかまつ えいいち、1914年〈大正3年〉11月… 若松 栄一(わかまつ えいいち、1914年〈大正3年〉11月22日 - 1987年〈昭和62年〉9月13日)は、日本の厚生技官、医師。医学博士。元厚生省医務局長、国立身体障害者リハビリテーションセンター初代総長。日本公衆衛生学会名誉会員。 新潟県新潟市東堀通13番町(現 新潟市中央区東堀通13番町)の新潟県農工銀行職員・若松重太郎の次男として出生。 1931年(昭和6年)3月に新潟中学校を4年で修了(四修)、1934年(昭和9年)3月に新潟高等学校を卒業、1938年(昭和13年)3月に新潟医科大学を卒業。 1938年(昭和13年)4月に新潟医科大学病理学教室(教授:赤崎兼義)副手に就任、1940年(昭和15年)7月に助手に就任。
丸木 清美(まるき せいみ、1914年(大正3年)11月12… 丸木 清美(まるき せいみ、1914年(大正3年)11月12日 - 1994年(平成6年)8月27日)は、日本の医師、精神科医、政治家、教育者。 埼玉医科大学創立者。日本医科大学卒業、医学博士(東京大学)。 埼玉県入間郡毛呂村(現毛呂山町)生まれ。旧制埼玉県立川越中学校から、1939年(昭和14年)3月に日本医科大学を卒業後、東京帝国大学(現東京大学)精神科教室に入局。教授は内村祐之。医学博士(東京大学)、同年10月海軍軍医(中尉)。1944年(昭和19年)少佐。1947年(昭和22年)に祖父の丸木清太郎が創設した毛呂病院の院長となった。1949年(昭和24年)精神薄弱児施設(現障害児入所施設)育心寮を、1950年(昭和25年)救護施設育心寮を開設。
三好 和夫(みよし かずお、1914年10月25日 - 20… 三好 和夫(みよし かずお、1914年10月25日 - 2004年11月9日)は、医学者、医師。専門は神経筋疾患学・血液学。 1914年、東京生まれ。東京大学医学部で血液学を研究した。 1954年3月、第五福竜丸操業中に被爆(ビキニ事件)した乗組員の診察と治療にあたった。その後、東大付属病院(現:東京大学医学部附属病院)と米軍医団共同の原子爆弾影響合同調査団に参加。1955年4月1日、京都市で開かれた第14回日本医学会総会において、熊取敏之(国立東京第一病院)とともに「ビキニ放射能の臨床的、血液学的観察」と題して発表した。「久保山愛吉さんの死因は単なる肝臓障害ではなく、死の灰によって致死量以上の放射線を受けたため」と、アメリカ合衆国側の見解に反論した。
木下 康民(きのした やすたみ、1914年〈大正3年〉8月2… 木下 康民(きのした やすたみ、1914年〈大正3年〉8月24日 - 1982年〈昭和57年〉)は、日本の医学博士、新潟大学名誉教授。 鳥取県鳥取市西町の鳥取士族で、衆議院議員(鳥取市選出)、鳥取市会議長、鳥取県会議員などをつとめた木下義之の五男。 東北大学医学部卒業。1945年に台北帝大助手。1949年に新潟医大講師、1950年に助教授。1952年に新潟大医学部助教授を経て1960年に教授。1973年に腎研究施設長。 住所は新潟市浜浦町。 木下家は鳥取藩主の御殿医をつとめた。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
林 富士馬(はやし ふじま、1914年7月15日 - 200… 林 富士馬(はやし ふじま、1914年7月15日 - 2001年9月4日)は、東京府出身の詩人、文芸評論家、医師。俳号は空花。 東京府大曲に生まれ、父母の郷里である長崎県に育つ。長崎では芥川龍之介の門人だった渡辺庫輔と交友。慶應義塾大学文学部在学中に佐藤春夫の門人となり、1935年夏頃、佐藤邸にて太宰治と知り合う。1939年、佐藤春夫の序文を得て、第一詩集『誕生日』(私家版)を刊行(林修平名義)。しかし、薬物中毒や自殺未遂を繰り返す太宰の激しい生き方を見て一度は文学を断念した。 慶應義塾大学を中退して日本医科大学を卒業し、医師となる。1943年、文学青年時代の三島由紀夫と知り、当時まだ無名だった三島の才能を高く評価。
渡辺 俊男(わたなべ としお、1914年〈大正3年〉7月10… 渡辺 俊男(わたなべ としお、1914年〈大正3年〉7月10日 - 2007年〈平成19年〉8月18日)は、日本の運動生理学者、脳生理学者、医師。医学博士。お茶の水女子大学教授、横浜国立大学教授、日本大学教授。日本体力医学会名誉会員。 新潟県岩船郡関谷村下関(現 関川村下関)で渡辺医院(内科・外科)を開業する医師・渡辺彊(つとむ)の長男として出生。 関尋常高等小学校を経て、1932年(昭和7年)3月に新潟中学校を卒業、1934年(昭和9年)4月に東京慈恵会医科大学予科に入学、1937年(昭和12年)3月に予科を修了、1941年(昭和16年)3月に東京慈恵会医科大学医学部を卒業。 軍医として仙台の日本陸軍第2師団に入隊、会津若松陸軍病院に勤務、1943年(昭和18年)に応召、中国北部の日本陸軍第59師団に入隊、野戦病院(第3311部隊)に勤務、1945年(昭和20年)8月15日に朝鮮北東部の興南で終戦、ソビエト連邦によってシベリアに抑留され、1947年(昭和22年)12月に舞鶴港に帰還、最終階級は陸軍軍医少佐(ポツダム少佐)。
荒谷 真平(あらや しんぺい、1914年6月8日 - 199… 荒谷 真平(あらや しんぺい、1914年6月8日 - 1999年1月5日)は日本の医師、生化学者、歯学者。元東北大学歯学部長、歯学部教授、東京医科歯科大学歯学部生化学講座初代主任教授、国立予防衛生研究所歯科衛生部部長。 1938年、日本大学医学部卒業。卒業後、同大学生化学教授の志賀直の元で研究に従事、志賀の台北帝国大学赴任に同行。 戦後、東京医学歯学専門学校(東京医科歯科大学)にて研究、1952年東京医科歯科大学歯学部生化学講座開設に伴い教授に就任。山本肇、佐伯政友らと東北大学歯学部創設のため1966年に東北大学へ赴任、1967年同歯学部長。 1971年兼任で国立予防衛生研究所歯科衛生部部長、1977年に専従、1980年退任。
新福 尚武(しんふく なおたけ、1914年3月2日 - 20… 新福 尚武(しんふく なおたけ、1914年3月2日 - 2012年3月12日)は、日本の医学者・精神科医。東京慈恵会医科大学名誉教授。長男は医学者で神戸大学名誉教授の新福尚隆。 鹿児島県鹿児島市生まれ。旧制鹿児島県立第一鹿児島中学校、旧制第七高等学校造士館を経て、1937年九州帝国大学医学部卒業、下田光造に師事。1947年「ショック療法の精神病理学的研究」で九州帝国大学より医学博士の学位を取得。 台北帝国大学医学部精神科助手、陸軍軍医(高雄)、鳥取大学医学部助教授などを経て、1952年同教授。1966年東京慈恵会医科大学教授、1979年定年退職、名誉教授。アルコール医学会長、交通科学会長、心身医学会長、国際老年精神医学会名誉会長など。
神谷 美恵子(かみや みえこ、1914年(大正3年)1月12… 神谷 美恵子(かみや みえこ、1914年(大正3年)1月12日 - 1979年(昭和54年)10月22日)は、日本の精神科医。哲学書・文学書の翻訳やエッセイの著者としても知られる。 「戦時中の東大病院精神科を支えた3人の医師の内の一人」、「戦後にGHQと文部省の折衝を一手に引き受けていた」、「美智子皇后の相談役」などの逸話でも知られる。 神谷美恵子(結婚前は前田美恵子)は1914年(大正3年)1月12日に内務省職員である父前田多門とその妻房子の長女として岡山市に生まれた。兄弟には兄の陽一の他、後に一男二女が生まれている。父の多門はその年の4月に長崎県の理事官へと転任し、一家は長崎へと転居、翌年には内務省本省勤務となり東京へ転居している。
鴫谷 亮一(しぎや りょういち、1914年 - 1989年6… 鴫谷 亮一(しぎや りょういち、1914年 - 1989年6月21日)は、日本の医学者、医師。専門は循環器内科。 旧制静岡県立静岡中学校、旧制静岡高等学校理科乙類、東京帝国大学医学部卒業。1974年まで群馬大学医学部第二内科(循環器内科)教授。東海大学医学部教授、国立横浜病院院長を歴任。 新谷家は戦国期に今川氏勢力下の駿河国に来住、5代目述賢の頃に新谷を鴫谷姓に改め郷士となり、医術を甲斐国の徳本に学び、代々業とした。江戸幕末期の鴫谷一元(14代)は、兵太夫新田(現藤枝市内)の村松良元に医科修業、田中藩の御典医でもあったと伝えられる。この一元は1876年(明治9年)に隠居別家し、自らは代々定住の子持坂村(現藤枝市内)から近隣の横内村へ転居、医業を継続した。
澤野 十蔵(さわの じゅうぞう、1913年〈大正2年〉11月… 澤野 十蔵(さわの じゅうぞう、1913年〈大正2年〉11月28日 - 2007年〈平成19年〉7月20日)は、日本の解剖学者、医師、トンボ研究家。医学博士。広島大学名誉教授、日本解剖学会名誉会員、日本蜻蛉学会名誉会員、広島虫の会名誉会長。 新潟県新潟市関屋松波町(現 新潟市中央区関屋松波町)出身。1931年(昭和6年)3月に新潟中学校を卒業、1938年(昭和13年)3月に新潟高等学校を卒業、1941年(昭和16年)12月に新潟医科大学を卒業。 1941年(昭和16年)12月に新潟医科大学副手に就任、1942年(昭和17年)に新潟医科大学助手に就任、1944年(昭和19年)に新潟医科大学臨時附属医学専門部助教授に就任、新潟医科大学講師を兼任。
臺 弘(うてな ひろし、1913年11月28日 - 2014… 臺 弘(うてな ひろし、1913年11月28日 - 2014年4月16日)は、日本の医学者・精神科医。東京大学医学部教授、群馬大学医学部教授を歴任。医学博士(東京大学・1952年)。栃木県足尾町生まれ。『台弘』と表記されることもある。 1913年栃木県足尾町生まれ。1937年東京帝国大学医学部医学科卒業。1952年、論文「精神分裂病者腦組織の含水炭素代謝について」で東京大学より医学博士の学位を取得。東京大学病院精神科、松沢病院医員、群馬大学医学部教授、1966年東京大学医学部精神医学教室教授、1974年3月東大を定年退官。山田病院(東京都調布市)を経て坂本病院(埼玉県新座市)勤務。
島村 喜久治(しまむら きくじ、1913年8月11日 - 1… 島村 喜久治(しまむら きくじ、1913年8月11日 - 1997年11月28日)は、日本の医師。結核対策に尽くした。 岡山県出身。旧制岡山第一中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)、旧制第六高等学校を経て、東京大学医学部卒業。39歳で東京の国立療養所清瀬病院の院長に就任、1953年『院長日記』で日本エッセイストクラブ賞受賞。清瀬病院が統合された国立療養所東京病院院長を務め、のち名誉院長。長男は地震学者・武蔵野学院大学特任教授の島村英紀。ピアニストの妻千枝子の叔母(母の妹)が吉行あぐり。
坂本 昭(さかもと あきら、1913年《大正2年》7月24日… 坂本 昭(さかもと あきら、1913年《大正2年》7月24日 - 1978年《昭和53年》12月2日)は、日本の医師、政治家。旧姓・傍士 高知県選挙区選出の参議院議員で、1956年(昭和31年)から1962年(昭和37年)まで務めた。第24・25・26代高知市長も務め、在任期間は1967年(昭和42年)から1978年(昭和53年)10月まで。 三重県宇治山田市曽根町(現伊勢市)で、中学校英語教師・傍士龍治、茂登恵の長男として生まれた。母方の姓を継ぎ坂本に改姓。
水谷 豊(みずたに ゆたか、1913年(大正2年)6月8日 … 水谷 豊(みずたに ゆたか、1913年(大正2年)6月8日 - 1991年(平成3年)11月25日)は、日本の眼科医。日本で初めてコンタクトレンズを作り、臨床応用を実施。後にコンタクトレンズメーカー「日本コンタクトレンズ(ニチコン)」を創業。コンタクトレンズの発展に貢献し、「日本のコンタクトレンズの父」と呼ばれる。1975年日本医師会最高優功賞受賞、1987年勲五等双光旭日章受章。日本コンタクトレンズ学会名誉会員(1986年~1991年)。愛知県名古屋市出身。孫は水谷 武史(みずたに たけし)で、名古屋市天白区で「みずたに眼科」を開業中。 水谷は、1913年名古屋市熱田区で眼科医院を営む加藤家に生まれたが、三男の末っ子で、後に水谷家の養子となり、水谷姓となった。
石黒 慶之助(いしぐろ けいのすけ、1913年(大正2年)6… 石黒 慶之助(いしぐろ けいのすけ、1913年(大正2年)6月1日 - 1998年(平成10年)1月19日)は、日本の歯科医師、海軍軍人、歯科医大尉、歯学士、医学博士、開業歯科医、(社)鶴岡地区歯科医師会会長、(社)山形県歯科医師会理事、山形県歯科医師政治連盟顧問、栄典は正五位・勲五等・双光旭日章。
高木 圭二郎(たかぎ けいじろう、1913年4月28日 - … 高木 圭二郎(たかぎ けいじろう、1913年4月28日 - 1987年8月26日)は日本の歯科医師、歯学者。元東京歯科大学学長(1983年 - 1986年)。 1935年、東京歯科医学専門学校を卒業後、同大学口腔外科学教室、厚生省、ハルピン医科大学、厚生省勤務を経て東京歯科大学教授、同大学社会歯科学初代主任教授、副学長、学長職務代行を経て1983年から1986年まで同大学学長を務める。