林 克己(はやし かつみ、1913年3月30日 - 没年不詳… 林 克己(はやし かつみ、1913年3月30日 - 没年不詳)は、日本の翻訳家、医学博士。東京生まれ。東北大学医学部卒。小児科医のかたわら英米のSF、ミステリ、ファンタジーの翻訳を行った。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
山形 敞一(やまがた しょういち、1913年2月27日 - … 山形 敞一(やまがた しょういち、1913年2月27日 - 1998年9月14日)は、日本の内科医。専門は、消化器病学(特に膵臓疾患)。東北大学名誉教授。1986年勲二等瑞宝章受章。 宮城県石巻市生まれ。石巻中学校(旧制)、第二高等学校(旧制)、東北帝国大学医学部卒業。1936年、内科学第三講座(教授山川章太郎、助教授黒川利雄)に入局。1957年に黒川利雄の後任として東北大学医学部第三内科講座教授、尚仁会第二代会長に就任。 宮城県対がん協会会長、日本癌治療学会総会会長、日本内科学会総会会頭、日本医史学会会長などを歴任。日本対がん協会賞、石巻市民功労賞などを受賞。アララギ派歌人としても著名で、多くの歌集があるほか、医学史特に仙台藩の医学史を研究した。
菅波 茂(すがなみ しげる、1913年〈大正2年〉2月25日… 菅波 茂(すがなみ しげる、1913年〈大正2年〉2月25日 - 1982年〈昭和57年〉12月23日)は、日本の政治家、医師。自由民主党衆議院議員。 福島県いわき市生まれ。磐城中学校(現・福島県立磐城高等学校)、昭和医学専門学校(現・昭和大学医学部)を卒業後、千葉医科大学第二内科研究室を経て、四倉町にて家業の病院を継ぐ。 1963年(昭和38年)、福島県議会議員に石城郡から自民党公認で立候補して初当選を果たした。1967年(昭和42年)1月8日に県議を辞職した。同月、第31回衆議院議員総選挙で旧福島3区から自民党公認で立候補し初当選(当選同期に塩川正十郎・加藤六月・河野洋平・中尾栄一・藤波孝生・武藤嘉文・坂本三十次・塩谷一夫・水野清など)。
加藤 正明(かとう まさあき、1913年1月1日 - 200… 加藤 正明(かとう まさあき、1913年1月1日 - 2003年3月11日)は、日本の医学者・精神科医。 東京出身。東京医学専門学校(現東京医科大学)卒。国立国府台病院医長、国立精神衛生研究所部長、1974年東京医科大学教授、1977年国立精神衛生研究所長。のち富士心身リハビリテーション研究所理事長。専門は薬物乱用やアルコール関連障害、自殺などの社会精神医学的研究。1956年の『異性ノイローゼ』はベストセラーになった。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
陣内 傳之助(じんない でんのすけ、 1912年11月8日 … 陣内 傳之助(じんない でんのすけ、 1912年11月8日 - 1987年8月30日)は、日本の外科医。大阪大学医学部名誉教授、近畿大学医学部名誉教授、近畿大学医学部附属病院初代院長。
島崎 敏樹(しまざき としき、1912年11月8日 - 19… 島崎 敏樹(しまざき としき、1912年11月8日 - 1975年3月17日)は、日本の医学者、精神科医。専門は精神病理学。東京医科歯科大学名誉教授。医学博士。 東京医科歯科大学医学部精神医学教室初代教授となり、日本における精神病理学の礎を築いた。西丸四方、村上仁らと共に、日本の精神病理学第一世代を代表する人物である。 村上仁、西丸四方らと共に、日本の精神病理学第一世代を代表する人物である。精神医学の基礎領域である精神病理学を広く精神科臨床に根付かせるなど、日本の精神医学の発展に大きく貢献した。島崎は人間を「個々の症状の寄せ木細工としてでなく、人格の深みから孤立化していく人間像としてとらえなおそう」とする学風で知られており、主論文『精神分裂病における人格の自律性の意識の障碍』は日本における精神病理学の嚆矢となった。
安藤 正一(あんどう しょういち、1912年8月20日 - … 安藤 正一(あんどう しょういち、1912年8月20日 - 1995年3月22日 )は日本の歯科医師、歯学者。 東京出身。1930年、旧制日本大学中学校(現・日本大学第一高等学校)卒業、1934年日本大学専門部歯科卒業。1964年、日本大学歯学部歯科放射線学講座第3代教授。1973年から1977年まで日本大学歯学部付属歯科病院長。 日本歯科放射線学会会長、総務理事、日本歯科医学会副会長などを歴任した。 1995年3月22日、心筋梗塞のため死去。
馬場 金太郎(ばば きんたろう、1912年〈明治45年〉6月… 馬場 金太郎(ばば きんたろう、1912年〈明治45年〉6月28日 - 1993年〈平成5年〉1月6日)は、日本の医学博士、昆虫学者。新潟県で黒川病院、村上精神病院を設立し医療に貢献、また昆虫の研究に多大な業績を残した。 1912年(明治45年)、千葉県安房郡富浦町(現南房総市)に生まれる。旧姓は酒井。小学生の頃に、医院をひらいていた馬場家の養子として、新潟県北蒲原郡黒川村に移る。1930年(昭和5年)に新発田中学を卒業、1935年(昭和10年)に新潟高等学校を卒業する。1939年(昭和14年)に新潟医科大学を卒業後、同大学の解剖学教室の助手に任ぜられるが、10月に召集を受ける。軍医として中国に駐在していたが1946年(昭和21年)6月に復員し、1947年(昭和22年)5月に『南支広東「デルタ」に於ける「アノフェレス」蚊の「マラリア」流行病学的研究』で医学博士の学位を取得する。
池松 武之亮(いけまつ たけのすけ、1912年〈明治45年〉… 池松 武之亮(いけまつ たけのすけ、1912年〈明治45年〉4月20日 - 1990年〈平成2年〉5月23日)は、日本の医師。 いびき研究における世界的先駆者。 熊本県津奈木村(現・津奈木町)生まれ。父親が病院を開業した大分県竹田市荻町で育つ。大邱医学専門学校(現・慶北大学校医科大学)および千葉医科大学(現・千葉大学医学部)を卒業し、東京逓信病院および野田病院に勤務した。 1942年(昭和17年)に千葉県野田市にて池松耳鼻咽喉科を開業。いびきが原因で一夜にして離婚を言い渡された女性の治療をきっかけにいびきの研究をはじめ、39年間で8,000例以上のいびき手術を行った。1982年(昭和62年)にパリで開催された「第1回世界いびき学会」で名誉会長に就任した。
岡田 博(おかだ ひろし、1912年(明治45年)3月21日… 岡田 博(おかだ ひろし、1912年(明治45年)3月21日 - 2001年(平成13年)9月29日)は、日本の医師。医学博士。名古屋大学医学部名誉教授、愛知医科大学学長を務め、公衆衛生・予防医学発展に寄与した。京都府出身。 1912年(明治45年)3月21日、岡田吉相(おかだよしすけ)の長男として誕生した。父吉相は滋賀県野洲郡守山村吉身(現守山市)で生まれ、後に京都市東山区東山松原にて医院を開業した。祖父は滋賀県議会議長・衆議院議員を務めた岡田逸治郎。博は父と共によく守山を訪れ、博の息女一人は守山で誕生した。 1933年(昭和8年)入学者80名中席次13番の成績で名古屋医科大学(現名古屋大学医学部)に入り、1937年(昭和12年)3月席次5番で卒業した。
重松 九州男(しげまつ くすお、1912年3月10日 - 没… 重松 九州男(しげまつ くすお、1912年3月10日 - 没年不明)は、日本の歯科医師、政治運動家・『日本世直し党』党首。 かつて党本部所在地として届け出ていた神奈川県大和市の住所には歯科医院が存在している。
原田 東岷(はらだ とうみん、1912年2月14日 - 19… 原田 東岷(はらだ とうみん、1912年2月14日 - 1999年6月25日)は、日本の外科医、平和運動家。広島県広島市出身。広島市名誉市民。 旧制・広島県立広島第一中学校、旧制・広島高等学校を経て、東京慈恵会医科大学を卒業。第二次世界大戦中、軍医として中国大陸を転戦する。1946年(昭和21年)に広島へ戻り、原子爆弾投下直後の同市で爆心地にバラックの外科病院を作り、治療を開始する。被爆によるケロイド治療や原爆医療法の制定で中心的な役割を担うなど被爆者医療に尽力した。外科医としての活動の傍ら、平和運動に参加。1955年(昭和30年)体にケロイドの残る「原爆乙女」に付き添う形で訪米。渡米治療に道を開くとともに、原爆の惨禍を世界に伝えた。
大津 晴弘(おおつ はるひろ、1912年1月3日 - 199… 大津 晴弘(おおつ はるひろ、1912年1月3日 - 1999年3月2日)は、日本の歯科医師、歯学博士(東京歯科大学)である。歯内療法の研究に熱心に取り組み、晩年に独自に発明したオピアン キャリア法は死腔のない根管充填を可能にした画期的な術式で、その後の日本における歯内療法の礎石を築いたことでよく知られている。 宮崎県出身、幼少時代を東京で過ごし東京歯科医学専門学校卒業後中国に渡る。終戦後日本に戻り築地に診療所を開設。趣味は歯医者と言われるほど歯学の研究と治療に没頭した人生だった。良い意味で純粋、悪く言えば世間知らずの内弁慶で、50代くらいまでは、厳格で怖い人であった(三男、隆弘談)。患者さんには「治療代を請求しない先生」(私の街の歯医者さん1999年5月号追悼記事引用)として慕われていた。
君 健男(きみ たけお、1911年〈明治44年〉12月22日… 君 健男(きみ たけお、1911年〈明治44年〉12月22日 - 1989年〈平成元年〉4月20日)は日本の医師、官僚、政治家。参議院議員(1期)、新潟県知事(公選第9・10・11・12代)。医学博士。 1911年(明治44年)12月22日、君修一郎の長男として新潟市に出生。新潟県立新潟中学校を経て官立新潟高等学校を卒業。1936年(昭和11年)3月、官立新潟医科大学(現・新潟大学医学部)を卒業。同年11月、応召。 1940年(昭和15年)、栃尾町の栃尾郷立診療所組合(現・新潟県厚生農業協同組合連合会栃尾郷病院)内科部長に就任。東京の日本光学病院内科主任を経て、再度応召。 1947年(昭和22年)、新潟県庁に入庁し、1949年(昭和24年)に新潟県予防課長、1955年(昭和30年)に新潟県公衆衛生課長、1958年(昭和33年)に新潟県衛生部長を経て、1962年(昭和37年)に新潟県総務部長となる。
天満 和人(てんまん かずと、1911年〈明治44年〉11月… 天満 和人(てんまん かずと、1911年〈明治44年〉11月3日 - 没年不明)は、日本の実業家、医師。産婦人科、天満医院長。米子ゴルフ倶楽部社長。 鳥取県米子市出身。山内定次郎の二男。9歳の頃に天満徳次郎の養嗣子となる。米子中学校(現・米子東高校)在学中に養父が亡くなり、養母により育成される。 松山高等学校理科乙類を卒業。1937年、大阪帝国大学を卒業。大阪帝国大学講師として8年間在職し、1943年に徳島医学専門学校教授、産婦人科を担当し、医育の傍ら教育に専念する。 1945年に大戦に応召、軍医少尉に任官、鳥取陸軍病院に勤務する。その間養母の死、徳島大空襲羅災等重なる災厄のため帰郷する。1946年に現地において産婦人科医院を開業する。
大山 信郎(おおやま のぶろう、1911年11月1日 - 2… 大山 信郎(おおやま のぶろう、1911年11月1日 - 2009年2月13日)は、日本の医学者、医学博士。東京教育大学学長を務めた。 愛知県出身。1937年に東京帝国大学医学部医学科を卒業。 東京帝国大学副手、山梨県立医学専門学校眼科部長、国立盲教育学校教授などを経て、1951年に東京教育大学教授に就任し、1974年3月から1978年3月までに学長を務めた。1972年4月に教育学部長を経て、1978年3月には名誉教授に就任。 1983年4月に勲二等瑞宝章を受章。 2009年11月26日に死去。97歳没。
日野原 重明(ひのはら しげあき、1911年〈明治44年〉1… 日野原 重明(ひのはら しげあき、1911年〈明治44年〉10月4日 - 2017年〈平成29年〉7月18日)は、日本の医師、医学者。位階は従三位。学位は医学博士(京都帝国大学)。聖路加国際病院名誉院長、上智大学日本グリーフケア研究所名誉所長、公益財団法人笹川記念保健協力財団名誉会長。 京都帝国大学医学部副手、大日本帝国海軍軍医少尉などを経て、聖路加看護大学学長、聖路加国際病院院長、国際基督教大学教授、一般財団法人聖路加国際メディカルセンター理事長、一般財団法人ライフ・プランニング・センター理事長、公益財団法人聖ルカ・ライフサイエンス研究所理事長、英知大学客員教授などを歴任した。 京都帝国大学医学部第三内科副手、大日本帝国海軍軍医少尉等を経て、聖路加看護大学学長、聖路加国際病院院長、国際基督教大学教授、自治医科大学客員教授、ハーバード大学客員教授、国際内科学会会長、一般財団法人聖路加国際メディカルセンター理事長等を歴任した。
山田 憲吾(やまだ けんご、1911年(明治44年)9月1日… 山田 憲吾(やまだ けんご、1911年(明治44年)9月1日 - 1990年(平成2年)1月19日)は、日本の医学者、整形外科医。新潟県北蒲原郡中条町(現胎内市)出身。京都帝国大学医学部医学科卒業。徳島大学名誉教授。勲二等瑞宝章受章。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
賀川 滋子(かがわ しげこ、1911年〈明治44年〉5月28… 賀川 滋子(かがわ しげこ、1911年〈明治44年〉5月28日 - )は、日本の産婦人科医、内科医、スーパーセンテナリアン。奈良県大和郡山市在住の長寿の女性。 江戸時代から続く医者の家の生まれ。93歳で死去した産婦人科医の叔父は80歳を過ぎても診察を行っていた。 郡山高等女子学校(現・奈良県立郡山高校)卒業を経て、1934年(昭和9年)3月 、大阪女子高等医学専門学校(現:関西医科大学)卒業。1934年(昭和9年)4月からは大阪市立南市民病院(現:大阪公立大学医学部附属病院)産婦人科で勤務、1936年(昭和11年)4月からは同病院内科で勤務した。1937年(昭和12年)7月に開業を果たした。 太平洋戦争中は大阪市内の病院にも勤務し、86歳まで現役の医師として勤めた。
松永 藤雄(まつなが ふじお、1911年〈明治44年〉5月1… 松永 藤雄(まつなが ふじお、1911年〈明治44年〉5月12日 - 1997年〈平成9年〉10月11日)は、日本の内科医。専門は、消化器病学(特に、大腸疾患)。弘前大学名誉教授。勲二等瑞宝章、従三位。医学博士。 群馬県利根郡沼田町(現・沼田市)上久屋町に生まれる。旧制沼田中学校(現・群馬県立沼田高等学校)、第二高等学校を経て東北帝国大学医学部卒業。1936年、同医学部内科教室(教授山川章太郎、助教授黒川利雄)に入局。 1942年医学博士。1948年、弘前医科大学教授(1952年、弘前大学に改称)。1959年から1963年まで同大学附属病院長。1972年から1975年まで同大学医学部長。1975年、同大学退官後、都立駒込病院院長に就任、1984年より同病院名誉院長。
間中 喜雄(まなか よしお、1911年4月11日 - 198… 間中 喜雄(まなか よしお、1911年4月11日 - 1989年11月20日)は、日本の外科医、鍼灸師、医学博士。 神奈川県足柄下郡小田原町(現小田原市)出身。 1935年に京都帝国大学医学部を卒業し、同大学病院で外科を習得後、父の開業した間中外科医院を継ぐ。第二次世界大戦に医師として従軍、1946年に復員すると間中外科医院を医療法人温和会間中病院に改組した。 西洋医学の医師でありながら、東洋医学、特に鍼灸医学の普及発展に貢献し1950年には日本東洋医学会の設立に参加した。1957年に京都大学医学部で医学博士号を取得、小田原医師会会長に就任。その後、中国やアメリカ、フランスなどで講演活動を行う。
福島 玄一(ふくしま げんいち、1911年4月6日 - 19… 福島 玄一(ふくしま げんいち、1911年4月6日 - 1994年)は、宮城県出身の歯科医師、サッカー選手、サッカー審判員。 東京府立第五中学校(現:東京都立小石川中等教育学校)でサッカーを始め、日本歯科医学専門学校(現:日本歯科大学)でもサッカー部に入部。1933年に大学を卒業し以降も第一生命保険などでプレーした。 1936年の全日本蹴球選手権大會(第16回天皇杯全日本サッカー選手権大会)で線審を務め以降、日本サッカー協会の審判員として活動を続けた。1958年からは国際審判員としてAFCユース選手権や1964年の東京オリンピックで主審を務めた。1969年には国際Aマッチ10試合以上の条件をクリアし、国際サッカー連盟(FIFA)から日本人初の審判特別功労賞(FIFA Referees’Special Award)を受賞した。
加藤 艮六(かとう こんろく、1911年(明治44年)2月2… 加藤 艮六(かとう こんろく、1911年(明治44年)2月21日 - 2002年(平成14年)5月8日)は、日本の医師。伊勢市長(3期)。 大分県出身。1934年(昭和9年)日本医科大学卒。京都大学耳鼻咽喉科教室を経て、日本赤十字社三重支部山田病院に勤務し、同病院副院長兼耳鼻咽喉科長などを務める。1972年(昭和47年)5月、伊勢市長選挙に当選、老人医療費無料化を実現させた。市政では医療、福祉面での政策に力を入れ、市内の小中学校の鉄筋化、清掃工場の建設、スポーツ施設の整備などあらゆる政策を遂行した。さらにモットーである「市民のための市政」を推進し、産業、教育、福祉の充実に力点を置いた。1984年(昭和59年)5月に市長を退任。
野村 良樹(のむら よしき、1911年 - 1946年)は、… 野村 良樹(のむら よしき、1911年 - 1946年)は、日本の医学者、精神科医。旧制京都一中、旧制三高、京都帝国大学医学部卒業。 ウジェーヌ・ミンコフスキー『精神分裂病』(村上仁共訳) 弘文堂書房、1946年 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
花岡 堅而(はなおか けんじ、1910年11月12日 - 1… 花岡 堅而(はなおか けんじ、1910年11月12日 - 1997年4月22日)は、日本の医師。日本医師会会長、長野大学理事長、長野五輪招致委員会の自然保護専門委員長などを務めた。 長野県南安曇郡穂高町(現・安曇野市)生まれ。旧制松本中学校(現・長野県松本深志高等学校)、旧制松本高等学校理科甲類を経て、1936年に新潟医科大学(現・新潟大学医学部)を卒業し、同大学の生化学教室や産婦人科教室で勤務した。1941年、岡谷市立岡谷病院の産婦人科医長に就任し、1943年から軍医として中国北部で従軍。終戦後の1946年に復員して新潟大学の産婦人科教室に戻り、翌1947年に岡谷病院の産婦人科医長に復職している。
喜多野 徳俊(きたの のりたか、1910年〈明治43年〉11… 喜多野 徳俊(きたの のりたか、1910年〈明治43年〉11月12日 - 2005年〈平成17年〉7月30日)は、昭和〜平成期に活躍した医師、郷土史家。奈良地方の郷土史を記録する多くの著作や中世地誌の現代語訳を残した。京都府京都市出身。 1910年(明治43年)11月12日、父・竹澤徳蔵、母うめの五男、竹澤徳俊として生まれる。 1935年(昭和10年)、名古屋医科大学を外科学専攻にて卒業し、同年名古屋大学医学部助手としての勤務を始める。同年末、奈良市中筋町で病院を経営する喜多野義夫との養子縁組およびその長女、文子との縁談が持ち込まれる。医学者としての研究継続を望んでいた徳俊は逡巡したが、学位論文完成までは研究を続けること、その後は奈良で喜多野病院を継ぐが、家業の耳鼻咽喉科だけでなく、徳俊の専門であった外科の診療も行うことなどを条件に、縁談は進められることとなった。
羽生田 進(はにゅうだ/はにうだ すすむ、1910年〈明治4… 羽生田 進(はにゅうだ/はにうだ すすむ、1910年〈明治43年〉10月19日 - 1999年〈平成11年〉7月27日)は日本の政治家(衆議院議員、科学技術庁政務次官)、眼科医(医学博士、羽生田眼科医院院長、群馬県医師会名誉会長、日本眼科医会会長)。勲二等瑞宝章、藍綬褒章受章。陸軍軍医少尉。元参議院議員・羽生田俊の父。 羽生田家の先祖は長野県上高井郡豊丘村(現・須坂市大字豊丘)の旧家で、祖父・仁作が分家して群馬県勢多郡富士見村箕輪(現・前橋市富士見町赤城山)で牧場を経営した。進の父・俊次は長野県北安曇郡美麻村(現・大町市)の農家・田中常太郎・みす夫婦の次男として生まれ、医術開業試験に合格して眼科医となった。
中山 恒明(なかやま こうめい、1910年9月25日 - 2… 中山 恒明(なかやま こうめい、1910年9月25日 - 2005年6月20日)は、日本の外科医、外科医学者。 山梨県白州町に医師中村進の長男として生まれる。東京出身。旧制新潟高等学校卒。1934年、千葉医科大学卒。瀬尾貞信の元で学ぶ。1936年、同助手。1938年、医学博士。1947年、千葉医科大学教授、のち組織改編により千葉大学医学部教授。1964年、国際外科学会の「世紀の外科医賞」を受賞。1965年、東京女子医科大学客員教授。同大に消化器病センターを設立。同年中山癌研究所を創設。1966年ベルツ賞1等賞を受賞。日本消化器外科学会会長、国際外科学会会長。1991年、がん医学の中山恒明賞を創設。
近藤 宏二(こんどう こうじ 1910年〈明治43年〉9月9… 近藤 宏二(こんどう こうじ 1910年〈明治43年〉9月9日 - 1990年〈平成2年〉3月19日)は、日本の医師。群馬県吾妻郡原町(吾妻町を経て現・東吾妻町)出身。 群馬県立高崎中学校に入学後、東京府立第四中学校に転入し4年修了。第一高等学校を経て、1936年に東京帝国大学医学部を卒業。1937年内務省衛生局に入り、1938年厚生省(現・厚生労働省)が設立されると技官として結核予防施策に取り組んだ。戦後母子衛生課長を務め、その後退官。 1947年に東京大学より医学博士の学位を取得。学位論文の題は「本邦における潜在結核死亡推計に関する統計的研究」。 1952年よりNHKのラジオドクター・テレビドクターを務め、「皆さんの健康」「療養の時間」を担当する。
津川 武一(つがわ たけいち、1910年8月2日 - 198… 津川 武一(つがわ たけいち、1910年8月2日 - 1988年9月4日)は、日本の政治家、精神科医、作家である。 青森県南津軽郡五郷村(現青森市浪岡地区)に生まれ、小作人の子どもとして育つ。学業成績が優秀であったため、小学校の教師のすすめで弘前中学校に進学し、その後旧制弘前高等学校に進む。弘前高時代は、石上玄一郎と交友をもつ。なお、太宰治とも同時期に弘前高に在学していたが、そのころは交流はなかったという。なお、津川、石上、太宰は、いずれも旧制中学四修で高校入学組の秀才だった。ただし、太宰は高等小学校1年就学後に中学入学のため津川と石上よりは一歳上だった。 1930年、東京帝国大学医学部に進学。
若月 俊一(わかつき としかず、1910年6月26日 - 2… 若月 俊一(わかつき としかず、1910年6月26日 - 2006年8月22日)は、長野県佐久市にある佐久総合病院を育て、農村医療を確立した医師(外科医)。
大橋 和孝(おおはし かずたか、1910年(明治43年)6月… 大橋 和孝(おおはし かずたか、1910年(明治43年)6月4日 - 1986年(昭和61年)7月7日)は、昭和期の医師、政治家。参議院議員、京都大橋総合病院長、医学博士。 愛知県名古屋市で生まれる。1937年(昭和12年)京都府立医科大学を卒業した。同大副手、同助手を務め、その後に開業した。 京都府保険医協会理事、京都府医師会理事、同皮フ科医会理事、同結核医会理事、同労災医会理事、同公益法人医療機関協会理事、京都市会議員などを務めた。 1964年(昭和39年)6月、京都教育大学附属桃山小学校などに書架らを寄付により1966年(昭和41年)10月19日紺綬褒章受章。 1965年(昭和40年)7月の第7回参議院議員通常選挙に京都府地方区から日本社会党公認で立候補して当選し、1971年(昭和46年)6月の第9回通常選挙でも再選され、参議院議員を連続2期務めた。
石川 七郎(いしかわ しちろう、1910年4月20日 - 1… 石川 七郎(いしかわ しちろう、1910年4月20日 - 1986年6月27日)は外科医、慶應義塾大学教授。 京都府京都市中京区出身。1936年(昭和11年)慶應義塾大学医学部卒。慶應義塾大学医学部教授を経て国立がんセンター病院長、総長を務める。胸部外科の権威として知られ、慶應義塾大学病院、国立がんセンター病院で辣腕を振るう。墓所は多磨霊園。 孫は元NHKアナウンサーの石川光太郎。 専門は呼吸循環器外科であり、数々の肺癌摘出手術を行うも、本人はヘビースモーカーであった。親分肌の豪快な人物として知られ多くの部下に慕われた。軍医として戦陣医療に携わった経験もある。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
上田 英雄(うえだ ひでお、1910年3月12日 - 199… 上田 英雄(うえだ ひでお、1910年3月12日 - 1993年10月19日)は、日本の内科医、医学博士、東京大学病院長。5代目横綱審議委員会委員長。 1910年東京市浅草区に生まれる。旧制第一高等学校を経て、1934年東京帝国大学医学部卒。1950年東京慈恵医大教授。1958年東京大学教授。1967年同大学病院長。1970年東京女子医大教授。1972年から1984年まで中央鉄道病院院長を務めた。ほかに日本心臓財団名誉会長なども歴任した。1964年ベルツ賞佳作賞受賞。 また、横綱双葉山の主治医でもあり、それが縁で1966年に横綱審議委員となり、1990年から1993年まで委員長を務めた。1993年5月に体調不良を理由に同委員長辞任を申し出て、受理され、10月19日に腎不全のため死去した。
高津 忠夫(たかつ ただお、1910年〈明治43年〉3月3日… 高津 忠夫(たかつ ただお、1910年〈明治43年〉3月3日 - 1974年〈昭和49年〉12月6日)は、日本の医師、小児科学者。東京大学名誉教授。栄典は正五位・勲二等旭日重光章。学位は医学博士(東京大学・1939年)。 広島県生まれ。1933年〈昭和8年〉東京帝国大学医学部卒、同年、同大学小児科教室副手、1939年医学博士取得。1944年山梨県立医学専門学校教授、1947年山梨県立病院小児科部長、1949年松本医科大学講師、同年、信州大学教授。 1954年東京大学医学部教授、1961年日本小児科学会理事長(併任)、1966年東京大学医学部保健学科母子保健学初代主任教授(現東京大学大学院医学系研究科国際保健学専攻国際生物医科学講座発達医科学)、1970年東京大学定年退官、東京大学名誉教授。
西丸 四方(にしまる しほう、1910年2月13日 - 20… 西丸 四方(にしまる しほう、1910年2月13日 - 2002年2月14日)は、日本の医学者、精神科医。信州大学名誉教授、愛知医科大学名誉教授。専門は精神病理学。医学博士(東京帝国大学)。 村上仁、島崎敏樹らとともに、日本の精神病理学第一世代を代表する人物である。精神医学の基礎領域である精神病理学を広く精神科臨床に根付かせるなど、日本の精神医学の発展に大きく貢献した。また、老荘思想を心理療法に応用するなどのユニークな試みでも知られる。草間彌生を見いだし、その後の良き理解者として終生交流があった。 島崎藤村の姪である西丸いさの長男。父方の曾祖父は西丸帯刀(旧姓:野口)。西丸帯刀の伯父「野口北川」の長男の孫が野口雨情。
村上 仁(むらかみ まさし、1910年1月26日 - 200… 村上 仁(むらかみ まさし、1910年1月26日 - 2000年11月1日)は、日本の医学者・精神科医。専門は精神病理学。京都大学名誉教授。元名古屋市立大学医学部教授、元兵庫医科大学医学部教授。学位は、医学博士。 西丸四方、島崎敏樹らと共に、日本の精神病理学第一世代を代表する人物である。精神医学の基礎領域である精神病理学を広く精神科臨床に根付かせるなど、日本の精神医学の発展に大きく貢献した。1964年には日本精神病理・精神療法学会を創設し、後に京都学派と呼ばれる多くの精神医学者を輩出した。フランス留学時にはジャネの心理学体系を学び、ウジェーヌ・ミンコフスキー、ルートヴィヒ・ビンスワンガー、メダルト・ボスなどの人間学的理解に加えて、ジークムント・フロイトの精神力動的視点から患者の精神構造の理解を試みた。
麻生 徹男(あそう てつお、1910年(明治43年)1月7日… 麻生 徹男(あそう てつお、1910年(明治43年)1月7日 - 1989年(平成元年)7月11日)は、昭和期の医師、医学博士。大日本帝国陸軍軍医として日中戦争、太平洋戦争に従軍した。 福岡県で産婦人科医・麻生貞の長男として生まれる。福岡中学校(現福岡県立福岡高等学校)、福岡高等学校を経て、1935年(昭和10年)3月、九州帝国大学医学部卒業。産婦人科を専攻。同年4月、医籍登録を行い同大医学部副手となる。 1937年(昭和12年)11月応召。大日本帝国陸軍衛生部見習士官として14号兵站病院に勤務。中国の上海や南京を転勤。1939年(昭和14年)、報告書「花柳病ノ積極的予防法」を作成。この報告書は、戦後、慰安婦問題に関して千田夏光らの著作で度々引用されることになる(後述)。
笠松 章(かさまつ あきら、1910年 - 1987年7月1… 笠松 章(かさまつ あきら、1910年 - 1987年7月19日)は、日本の精神科医。東京大学名誉教授。 和歌山県生まれ。海南中学校卒、第三高等学校卒、1936年東京帝国大学医学部卒、1952年「N2ガス吸入による意識喪失の研究」で医学博士。1956年東京大学医学部助教授、同附属病院精神神経科科長、教授。1971年定年退官、名誉教授、国立精神衛生研究所長、財団法人神経研究所長。
黒羽根 忠雄(くろばね ただお、1909年〈明治42年〉10… 黒羽根 忠雄(くろばね ただお、1909年〈明治42年〉10月5日 - 1996年〈平成8年〉6月17日)は、日本の医学者、内科医。医学博士(東京慈恵会医科大学)。元・黒羽根内科医院院長。山形県鶴岡市出身。 貧しい人からは診療料金を取らない事で知られ、通称は「赤ひげ先生」であった。 東京医学専門学校(現・東京医科大学)を卒業後、東京慈恵会医科大学で大脳生理や条件反射学総説大脳感応現象の研究をした。
小田切 信男(おだぎり のぶお、1909年9月29日‐198… 小田切 信男(おだぎり のぶお、1909年9月29日‐1982年6月13日)は、キリスト教徒の医師で、信徒伝道者、信徒神学者、聖書研究者。 北海道釧路生まれ。1927年北海道帝国大学医学部入学。同年に洗礼を受け両親が所属していた札幌独立キリスト教会の会員として奉仕活動を始め、札幌市東端のスラムで伝道及び無料診療を行なう(召集を受ける1937年までの10年間)。 1934年北海道帝国大学医学部卒業、附属医院第二内科に入局し結核の研究に従事。太平洋戦争開始の1941年札幌市で医院を開業するも召集と解除の繰り返しの中で終戦を迎え、本格的な開業医としての生活は戦後になる。 1945年終戦により札幌独立キリスト教会の再建に努め礼拝の証詞を担当するなど信徒伝道者としての働きを本格化させる。
巴 一作(ともえ いっさく、1909年〈明治42年〉8月15… 巴 一作(ともえ いっさく、1909年〈明治42年〉8月15日 - 2020年〈令和2年〉4月14日)は、日本の医師、長寿の男性。渡邉智哲が2020年2月23日に死去して以来、男性長寿日本一となっていた。 愛知県岡崎市に生まれる。1939年、名古屋医科大学から医学博士を授与。1953年現在市立岡崎病院副院長であった。その後1968年、第4代市立岡崎病院長に就任。1979年9月に退職、のち名誉院長となっている。 岡崎市の老人ホームで生活し、車が好きで99歳の時まで運転していた。日ごろは車椅子で移動し、施設職員や入所者らとの会話を楽しみ、新聞を読んだりテレビを見たりして過ごしていた。 2020年2月23日、渡邉智哲が死去したことにより国内男性最高齢となったことが、厚生労働省により発表された。
赤沢 弘毅(あかざわ ひろたけ、明治42年〈1909年〉7月… 赤沢 弘毅(あかざわ ひろたけ、明治42年〈1909年〉7月17日 - 没年不詳)は、日本の医師、医学博士。赤沢医院院長。鳥取県医師会(昭和24年 - 昭和51年、理事・監事・代議員・議長等を歴任)。西部医師会顧問(副会長・会長を歴任)。米子ガス取締役。協同建設監査役。 兄は元自治大臣の赤沢正道。長女は鳥取大学名誉教授・宮川征男の妻。 鳥取県米子市西倉吉町出身。父・康平は、徳島県出身の土木建築業。 昭和10年(1935年)東北帝国大学医学部卒業。同年東北帝国大学附属病院第二内科勤務。 昭和16年(1941年)応召、第六三兵站病院勤務。 昭和21年(1946年)比島より帰還、赤沢医院を開業。 昭和51年(1976年)米子看護高等専修学校校長に就任。
亀谷 了(かめがい さとる、1909年7月12日- 2002… 亀谷 了(かめがい さとる、1909年7月12日- 2002年7月24日)は、日本の生物学者、医師。医学博士(長崎医科大学・論文博士・1940年)。寄生虫学の世界的権威として知られた。岐阜県出身。紫綬褒章・勲三等瑞宝章受章。 山口高等学校を経て長崎医科大学を卒業。1939年、満鉄入社。1940年、医学博士(長崎医科大学)の学位を取得。「生体内の銅について特に其系統発生学的、個体発生学的並性別的差異 」。1943年、満州国立厚生研究所留学。1945年、奉天衛生試験所勤務。1947年に帰国、日本生物科学研究所入所。1948年、目黒に内科小児科診療所を開設。1953年、私財を投じて寄生虫専門の研究機関「目黒寄生虫館」を設立した。
赤木 五郎(あかぎ ごろう、1909年〈明治42年〉 7月7… 赤木 五郎(あかぎ ごろう、1909年〈明治42年〉 7月7日 - 1999年〈平成11年〉8月11日)は、医学博士、眼科医師であり、教育者でもある。戦後、広島県立医科大学(現・広島大学医学部)の眼科の初代教授を務めた後、岡山大学第5代学長、川崎医科大学初代学長、岡山県立短期大学(現・岡山県立大学)学長を勤めた。位階は正四位。岡山県高梁市出身。 1927年(昭和2年)旧制高梁中学校(現・岡山県立高梁高校)卒業、1931年第六高等学校卒業を経て、岡山医科大学に入学、1935年(昭和10年)に岡山医科大学卒業した。卒業後嘱託として同大眼科教室副手として勤務する。1938年(昭和13年)青森県立病院眼科部長として赴任。
伊藤 宝城(いとう ほうじょう、本名:伊藤 博、1909年6… 伊藤 宝城(いとう ほうじょう、本名:伊藤 博、1909年6月28日 - 1961年12月27日)は、日本の医師、詩人、版画家、彫刻家。 俳号は鉄庵。別名:ジョージ・ウーラン。戦後日本の抽象彫刻の先駆者の一人である。 弟に洋画家の伊藤彰、染色家の吉田たすくがいる。 1909年、鳥取県倉吉市広瀬町で病院を開業している伊藤琢郎・久代の子として八人兄弟の長男として大連で生まれる。1921年3月、明倫小学校卒業。1927年3月、県立倉吉中学校 (現在の鳥取県立倉吉東高等学校)卒業。1936年3月、私立岩手医学専門学校 (現・岩手医科大学)を卒業。同年4月、京都府立医科大学付属病院外科教室に入る。1940年2月に京都府立医大を退職し、中津川町立中津川病院(現・総合病院中津川市民病院)外科主任となる。
大石 武一(おおいし ぶいち、1909年6月19日 - 20… 大石 武一(おおいし ぶいち、1909年6月19日 - 2003年10月19日)は、日本の医師、政治家。位階は正三位。医学博士。 衆議院議員(10期)、参議院議員(1期)。環境庁長官(第2代)、農林大臣(第47代)。 仙台市元常磐町1番地(現在の仙台市民会館付近)に 、後に衆議院議員を務めた大石倫治の長男として生まれた。宮城県男子師範附属小学校から、宮城県立仙台第二中学校(現在の宮城県仙台第二高等学校)、旧制第二高等学校理科乙類に進学し、中学校ではテニス、高等学校では野球に熱中した。高校時代には結核性の肋膜炎に罹患して留年、翌年には腹膜炎を患った。1935年(昭和10年)に東北帝国大学医学部を卒業、1940年(昭和15年)に同大学大学院医学博士課程を修了した。
米沢 英雄(よねざわ ひでお、1909年〈明治42年〉5月3… 米沢 英雄(よねざわ ひでお、1909年〈明治42年〉5月31日 - 1991年〈平成3年〉3月3日)は、日本の医師、浄土真宗の伝道者。 福井県福井市生まれ。旧制第四高等学校文科を経て、日本医科大学を卒業。医学博士。開業医のかたわら、親鸞聖人の教えに深く帰依し、多数の著作、全国各地での法話・講演などで、多くの念仏者を生み出した。著述、講演による伝道者・実践者としての功績で1989年<平成元年>第23回仏教伝道文化賞を受賞。
坂口 敏之(さかぐち としゆき、1909年3月29日 - 1… 坂口 敏之(さかぐち としゆき、1909年3月29日 - 1999年)は、日本の医師、軍医。 熊本県玉名郡梅林村(現・玉名市)に生まれる。熊本県立玉名中学校(現・熊本県立玉名高等学校・附属中学校、1927年卒業)を経て、熊本医科大学を卒業した。 1937年7月には上海に派遣され患者輸送部隊の医師として、負傷した兵士を野戦病院から後方へ送る仕事に従事した。太平洋戦争開戦後は軍医として徴兵され、マレー作戦に従軍し、1942年秋まで占領地を移った。 戦後は福岡県大牟田市の三井三池鉱業所病院に勤め、定年退職後に開業医となった。1952年に熊本大学より医学博士号を取得している。1975年には『肥後の子供歳時記』を刊行した。
梶谷 鐶(かじたに たまき、1909年2月16日 - 199… 梶谷 鐶(かじたに たまき、1909年2月16日 - 1991年2月19日)は、日本の外科医。消化器外科の権威として知られた。岡山県出身。 1909年、岡山県総社市生まれ。岡山市にある第六高等学校を卒業、1932年、東京帝国大学医学部を卒業、塩田広重教授の第二外科に入局。1939年に癌研究会康楽病院(戦後、付属病院に改称)外科に異動。当時の外科部長の久留勝医師(のちに金沢大教授、大阪大学教授、国立がんセンター病院長)の指導を受け、2年後に久留のあとをついで、外科部長に昇格。胃がんを中心に乳がん、大腸がん手術に取り組んだ。1949年に日本で初めて膵頭十二指腸切除を行い、成功させた。また1965年には、門脈合併切除を伴う肝葉切除術を世界で初めて成功させた。