佐々木 喜善(ささき きぜん、1886年〈明治19年〉10月… 佐々木 喜善(ささき きぜん、1886年〈明治19年〉10月5日 - 1933年〈昭和8年〉9月29日)は、日本の民俗学者、作家、文学者、文学研究者、民話・伝説・習俗・口承文学の収集家、研究家。一般には学者として扱われるが、佐々木自身は資料収集者であり学者ではないと称している。 オシラサマやザシキワラシなどの研究と、400編以上に上る昔話の収集は、日本の民俗学、口承文学研究の大きな功績で、「日本のグリム」と称される。 岩手県土淵村(現在の岩手県遠野市土淵)の裕福な農家に育つ。母方の祖父である万蔵は近所でも名うての語り部で、喜善はその祖父から様々な民話や妖怪譚を吸収して育つ。その後、祖父の医者になる期待を背負い、明治35年、岩手県医科学校(現在の岩手医科大学)に入学するも、医師としての将来を思い描くことができず、2年後に中退する。
勝田 孝興(かった たかおき、1886年9月30日 - 19… 勝田 孝興(かった たかおき、1886年9月30日 - 1976年5月23日)は、日本のアイルランド文学者・語学者。 島根県松江市出身。1911(明治44)年、東京帝国大学(現在の東京大学)英文科卒。1925年から2年間、文部省から推薦されアイルランド留学。旧制神奈川県立横須賀中学校(現・横須賀高校)、旧制千葉県立佐倉中学校(現・佐倉高校)の各教諭、旧制商船学校、旧制山形高等学校(現・山形大学)の各教授を経て同志社大学教授に転じ、同専門学校英星版部長を兼任。戦後は滋賀大学教授、大阪工業大学教授。専門はアイルランドの文芸復興関連の演劇やアングロ・アイリッシュの発音に関する研究。著書多数。1976年5月23日に脳血栓のため89歳で逝去。
土居 光知(どい こうち、1886年8月29日 - 1979… 土居 光知(どい こうち、1886年8月29日 - 1979年11月26日)は、日本の英文学者、古典学者。 1886年(明治19年)、高知県長岡郡十市村(現・南国市)生まれ。第三高等学校を経て、1910年(明治43年)東京帝国大学英文科卒業。イギリス、フランス、イタリアに留学。 立正大学教員、東京女子大学教授、東京高等師範学校教授を経て、1924年(大正13年)に東北帝国大学教授となった。1948年(昭和23年)、東北大学を退職。その後は津田塾大学教授をつとめた。日本英文学会会長。1949年(昭和24年)に日本学士院会員に選出された。 1962年(昭和37年)1月8日、皇居での講書始の儀で「英国詩人ラーフ・ホジソンの鳥の詩について」の題で進講を行った。
落合 太郎(おちあい たろう、1886年8月13日 - 19… 落合 太郎(おちあい たろう、1886年8月13日 - 1969年9月24日)は、日本のフランス文学者。位階は正三位。奈良女子大学名誉教授。 1886年、東京神田駿河台で生まれた。1892年、泰明小学校に入学。御田小学校では吉井勇と同級であった。1989年、東京府立第一中学校に入学したが、翌年肺炎を患ったことにより退学。また、翌1899年には母も死去。2年間の療養を経て明治学院普通部に入学し、卒業。1903年に第一高等学校予科第一部に入学。1908年に卒業し、東京帝国大学法科大学に入学したが、休学。新渡戸稲造に勧められ、京都帝国大学法科大学に転学した。1912年、赤塚季と結婚、また家督を相続した。
萬造寺 齊(まんぞうじ ひとし、1886年(明治19年)7月… 萬造寺 齊(まんぞうじ ひとし、1886年(明治19年)7月29日 - 1957年(昭和32年)7月9日)は、日本の歌人、小説家、英文学者。鹿児島県生まれ。 鹿児島県日置郡串木野町羽島(現在のいちき串木野市)の裕福な地主の家に生まれる。旧制川内中学から旧制第七高等学校を経て東京帝国大学英文科卒業。東京で与謝野鉄幹に師事し、「明星」、「スバル」に参加、堀口大學から「短編実作者の第一人者」と評された。また石川啄木、高村光太郎、北原白秋、森鷗外らと親交し、東大卒業後は愛媛県西条中学校などで教鞭をとった。 28歳の時、加世田の私有地を売った資金で「我等」を創刊するも下宿の火事により原稿が消失、廃刊。京都に移り住み、「街道」を発行して再起を図るも1944年、戦時統制による紙不足でまたも廃刊、戦後は農地改革により地主としての地位を失い、故郷に戻る願いも叶わず1957年、京都で70年の生涯を終えた。
上代 たの(上代 タノ、じょうだい-、1886年7月3日 -… 上代 たの(上代 タノ、じょうだい-、1886年7月3日 - 1982年4月8日)は、日本の英文学者、平和運動家。第6代日本女子大学長。 島根県大原郡春殖村出身。上代家は庄屋の家系で、父親の上代豊三郎は村長も務めた。大東下分尋常小学校から大東高等小学校へ進み、松江市立高等女学校を卒業後、地元に戻って大東尋常小学校の準訓導になったが、両親の勧めで日本女子大学校に進み、英文科を卒業。東京帝国大学への進学を望んだが女子の入学が認められず、同大教授だった新渡戸稲造に留学希望の手紙を書き、新渡戸の斡旋により1913年から4年間米国ウェルズ・カレッジで学ぶ。帰国した1917年に日本女子大学校教授となり、日本で最初のアメリカ文学とアメリカ史の科目を導入した。
武田 祐吉(たけだ ゆうきち、1886年5月5日 - 195… 武田 祐吉(たけだ ゆうきち、1886年5月5日 - 1958年3月29日)は、大正・昭和期の日本の国文学者(上代文学)。万葉集や古事記の研究で業績がある。元國學院大學教授。日本学士院賞受賞。 1886年(明治19年)、東京市日本橋区(現・東京都中央区)で生まれた。幼少期は大阪で育ち、大阪府第五尋常小学校(現 天王寺中学)に入学。同級生に折口信夫・岩橋小弥太・西田直二郎がいた。1908年(明治41年)國學院大學に入学し、三矢重松に師事した。 1913年(大正2年)に國學院大学を卒業。翌年、小田原中学校教諭となった。1916年(大正5年)に退職し、東京帝国大学において、佐佐木信綱の『校本万葉集』編纂に従事する。
福井 利吉郎(ふくい りきちろう、1886年3月10日 - … 福井 利吉郎(ふくい りきちろう、1886年3月10日 - 1972年12月1日)は、日本の文学者、美術史家。東北大学名誉教授。 大学卒業後、50年以上にわたり文化財の調査、指定、保存に尽力。専門分野は仏教美術、尾形光琳、俵屋宗達、乾山、絵巻物、水墨画と多方面に及んだ。
関口 鯉吉(せきぐち りきち、1886年1月29日 - 19… 関口 鯉吉(せきぐち りきち、1886年1月29日 - 1951年8月10日)は、日本の天文学者、気象学者、東京帝国大学名誉教授。関口隆吉の四男。新村出(言語学者)は実兄。朝永振一郎の義父。 静岡県出身。旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学理科大学星学科卒業。朝鮮総督府観測所、神戸海洋気象台、中央気象台技師などを経て、1936年東京帝大教授兼東京天文台長。1946年定年退官、1949年まで帝国女子理学専門学校(現在の東邦大学)校長。戦前の一時期、文部省専門学務局長として科学行政に携わり、科学研究費の導入に尽力した。
大藪 虎亮(おおやぶ こりょう、1885年12月1日 - 1… 大藪 虎亮(おおやぶ こりょう、1885年12月1日 - 1966年)は、日本の国文学者。号は紫牛。 福岡県出身。1905年福岡県立尋常中学修猷館、1909年第五高等学校英語文科を経て、1912年東京帝国大学文科大学国文学科を卒業。 1920年第四高等学校教授に就任し、国語を講じる。1935年旧制広島高等学校教授に転じて、国語を講じる。
野尻 抱影(のじり ほうえい、本名・正英(まさふさ)、188… 野尻 抱影(のじり ほうえい、本名・正英(まさふさ)、1885年〈明治18年〉11月15日 - 1977年〈昭和52年〉10月30日)は、日本の英文学者・随筆家・天文民俗学者。早稲田大学文学部英文学科卒業。準惑星である冥王星の和訳命名者。 古今東西の星座・星名を調べ上げたことから「和製アレン」とでも言うべき存在でもあった。とくに、星の和名の収集研究で知られる。日本各地の科学館やプラネタリウムで行われる、星座とその伝説の解説には、野尻の著作が引用されることが多い。若くして文学に興味を持ち、小泉八雲に傾倒した。星の和名の収集を始めたのは40歳を過ぎてからであった。 「抱影」という雅号は、早稲田大学文学部在学中、文芸誌「白百合」に作品を掲載するにあたり前田林外が金剛経の一節「夢幻泡影」から考案し、岩野泡鳴、相馬御風と相談して決めたものである。
鈴木 敏也(すずき としや、1885年〈明治18年〉10月1… 鈴木 敏也(すずき としや、1885年〈明治18年〉10月13日 - 1945年〈昭和20年〉12月9日)は、日本の国文学者。広島文理科大学教授。族籍は愛知県士族。号は菫村。 愛知県・鈴木光雄の長男。1914年7月、東京帝国大学文科大学国文学科卒業。1926年、家督を相続する。広島高師教授をへて1929年に広島文理大教授となる。 広島高師教授を兼ねる。1945年8月6日、広島市への原子爆弾投下により被爆。学長事務取扱に任命された。1945年12月9日に死去した。 著作に『近世日本小説史』、『近代国文学素描』などがある。住所は広島市牛田本町。
豊田 実(とよだ みのる、1885年9月16日 - 1972… 豊田 実(とよだ みのる、1885年9月16日 - 1972年11月22日)は、英語学者、英文学者。
小野 政方(おの まさかた、1885年(明治18年)8月3日… 小野 政方(おの まさかた、1885年(明治18年)8月3日 - 1945年(昭和20年)1月19日)は、日本の児童文学者・編集者。 妻は小説家の小野美智子。 山梨県東八代郡境川村(現:山梨県笛吹市)出身。山梨県師範学校を卒業後、八代尋常小学校に訓導として勤務した。その後、上京して巖谷小波に師事し、『少年世界』『少女世界』に童話を発表した。執筆活動初期には、故郷を流れる笛吹川にちなみ「小野小峡」の筆名を名乗った。1912年に山内秋生、竹貫佳水、蘆谷蘆村、大井冷光らと、日本初の児童文学団体である少年文学研究会を設立。1920年には、研究社『小学少女』の編集に当たっている。のちに、小川未明、楠山正雄、鹿島鳴秋、蘆谷蘆村、浜田廣介が創立準備をした童話作家協会に参画。
成瀬 無極(なるせ むきょく、1885年4月26日 - 19… 成瀬 無極(なるせ むきょく、1885年4月26日 - 1958年1月4日)は、日本のドイツ文学者、翻訳家。京都帝国大学名誉教授。本名は清。 東京根岸生まれ。東京帝国大学独文科卒。1908年京都帝国大学講師、1919年助教授、1930年教授、1931年日本ゲーテ協会を創立。1945年4月定年退官、名誉教授。 ドイツ文学の研究、翻訳のほか、劇作、評論、随筆などで活躍した。18世紀後半にドイツで見られた革新的な文学運動「シュトルム・ウント・ドラング」を「疾風怒濤」と訳した人物とも言われる。 息子はドイツ史学者の成瀬治。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
沢村 寅二郎(さわむら とらじろう、1885年3月28日 -… 沢村 寅二郎(さわむら とらじろう、1885年3月28日 - 1945年7月7日)は、英文学者、東京帝国大学助教授。
野辺地 天馬(のべち てんま、本名三右衛門、1885年〈明治… 野辺地 天馬(のべち てんま、本名三右衛門、1885年〈明治18年〉1月17日 - 1965年〈昭和40年〉4月24日)は、岩手県二戸郡福岡町(現二戸市)出身の児童文学者、キリスト教牧師、伝道師である。渡辺善太は義兄である。 1885年(明治18年)1月17日、岩手県二戸郡福岡町(現・二戸市)に生まれ、1890年(明治23年)に郵便局勤務であった父の転勤により盛岡市へ転居。1889年(明治22年)、盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)へ入学した。同級生には石川啄木、伊藤圭一郎(『人間啄木』の著者)らがいた。 幼いころから教会に通い、1899年(明治32年)に洗礼を受けた。その年11月盛岡で行われた中田重治の集会での説教を聞いて献身を決意する。
佐藤 清(さとう きよし、1885年1月11日 - 1960… 佐藤 清(さとう きよし、1885年1月11日 - 1960年8月15日)は、日本の詩人・英文学者。 1885年、宮城県仙台市生まれた。旧姓・岡。東京帝国大学英文科を卒業。関西学院に勤務したのちに英国留学し、1923年より東京女子高等師範学校教授となった。1924年の京城帝国大学創設に伴い、その教授就任に備えるため再び英国留学を命ぜられ、その後赴任した。1945年、定年退官。 戦後、青山学院大学教授として教鞭をとった。墓所は多磨霊園(21-1-23)にある。 キーツ、ワーズワース、シェリーなど英国ロマン派の詩人を研究。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
永田 寛定(ながた ひろさだ、1885年1月1日 - 197… 永田 寛定(ながた ひろさだ、1885年1月1日 - 1973年8月2日)は、日本のスペイン文学者、翻訳家。 東京生まれ。1909年東京外国語学校西斑牙語科卒業、戦後、東京外国語大学教授を務めた。スペイン文学の翻訳、教育に尽くした。 岩波文庫で、セルバンデス『ドン・キホーテ』完訳に挑んだが、徹底的に直す翻訳作業で、行の頭にこの字が来てはいけない、といった直し方を続けたため、続編の翻訳半ばで死去、弟子の高橋正武が継いで、最終巻を刊行した。なお『ドン・キホーテ』は、弟子の会田由が先に完訳した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
楠山 正雄(くすやま まさお、1884年11月4日 - 19… 楠山 正雄(くすやま まさお、1884年11月4日 - 1950年11月26日)は、日本の演劇評論家、編集者、翻訳家、児童文学者。主に大正時代から昭和時代戦後初期にかけて活動した。 東京府京橋区新橋竹川町(現在の銀座)で、小売と卸売を兼業し、印刷業の写真画問屋も営む楠山秀太郎の子として生まれる。祖父で幕臣の楠山孝一郎は、同じく幕臣で編集者の成島柳北の兄にあたる。俳優・森繁久弥とも縁戚にあたる。 しかし3歳になった1886年2月15日、父秀太郎が急死。後に母親が再婚するが、再婚相手の起こした不祥事から会社が倒産して苦しい家計に追われることになり、親戚の家を盥回しにされるなど、多難な少年時代を送る。
中村 星湖(なかむら せいこ、1884年(明治17年)10月… 中村 星湖(なかむら せいこ、1884年(明治17年)10月14日 - 1974年(昭和49年)4月13日)は、日本の文学者。星湖は筆名で、本名は中村 将為(なかむら まさため)。 山梨県南都留郡河口村(後の旧同郡河口湖町、現富士河口湖町)に生まれる。8人兄弟の長男。河口村は河口湖に面し、江戸時代から富士参詣者への宿坊を提供する御師の町で、中村家も御師業を営みつつ農業や養蚕を行っていた。 1890年(明治23年)に村立河口小学校へ入学する。両親の影響で幼少時から文学に親しみ、回覧雑誌などを製作している。1897年(明治30年)中学進学のため一時上京するが、翌年に甲府の山梨県立尋常中学校(現山梨県立甲府第一高等学校)に入学。
島村 盛助(しまむら もりすけ、1884年8月9日 - 19… 島村 盛助(しまむら もりすけ、1884年8月9日 - 1952年4月22日)は、日本の英文学者、翻訳家、小説家、辞書編集者、教育者。号は苳三(とうぞう)。『岩波英和辞典』を刊行した。 1884年(明治17年)、埼玉県南埼玉郡百間中村(現:宮代町字中)村長の島村繁と、越谷の能楽師の家系の出身である津ねの夫妻の長男として生まれる。弟が2人、妹が4人いたという。 生家は江戸時代初期から百問中村の名主を務めた武士の家であった。盛助の曽祖父の貴英は1817年(天保8年)に俳諧結社多少庵の第4代庵主となり(号は鬼吉)、祖父の梅年、父の繁もその庵主を引き継いだ。父の繁は直心影流の免許皆伝を得て剣術道場を開いた剣術家でもあり、1906年(明治36年)には百間村の村長となった。
田部 重治(たなべ じゅうじ、1884年〈明治17年〉8月4… 田部 重治(たなべ じゅうじ、1884年〈明治17年〉8月4日 - 1972年〈昭和47年〉9月22日)は、日本の英文学者・登山家。 富山県富山市長江(旧:富山県上新川郡山室村)生まれ。田部家と養子縁組したが旧姓は南日で、長兄の英語教育者南日恒太郎、次兄の英文学者田部隆次、と共に南日三兄弟と呼ばれる。玄孫に建築家の永山祐子がいる。 1897年富山中学校入学(14回生)、1902年には四高(現金沢大)入学を経て、1905年9月に東京帝国大学英文科入学。在学中に夏目漱石や上田敏らに師事し、中勘助らと級友となります。大学卒業後、海軍経理学校、東洋大学、法政大学などで講義をする。研究対象は19世紀の英文学で、ウォルター・ペイター、ウィリアム・ワーズワースなどを研究した。
次田 潤(つぎた うるう、1884年(明治17年)4月26日… 次田 潤(つぎた うるう、1884年(明治17年)4月26日 - 1966年(昭和41年)4月9日)は、日本文学者。岡山県出身。田村剛の兄。
小宮 豊隆(こみや とよたか、1884年〈明治17年〉3月7… 小宮 豊隆(こみや とよたか、1884年〈明治17年〉3月7日 - 1966年〈昭和41年〉5月3日)は、日本の独文学者・文芸評論家・演劇評論家。東北大学名誉教授。日本学士院会員。 福岡県仲津郡久富村(現・京都郡みやこ町)に生まれる。少年期に父を失うが、祖母と母のもと裕福な家庭で育つ。旧制の福岡県立豊津中学校(現・福岡県立育徳館高等学校)を経て第一高等学校 (旧制)(現・東京大学教養学部)に進む。同期に安倍能成、中勘助、藤村操、尾崎放哉、岩波茂雄がいた。 1905年(明治38年)東京帝国大学文科大学独文科に入学。大学時代に夏目漱石の門下(木曜会)となり、寺田寅彦、森田草平、芥川龍之介、内田百閒、鈴木三重吉、久米正雄、松岡譲、野上豊一郎、津田青楓たちと交際。
山口 剛(やまぐち たけし、1884年(明治17年)3月1日… 山口 剛(やまぐち たけし、1884年(明治17年)3月1日 - 1932年(昭和7年)10月8日)は、日本の国文学者・中国文学者。早稲田大学教授。号は、聾阿弥・聾不言・不言斉主人など。 山口常太郎・なか夫妻の長男として、1885年(明治18年)茨城県新治郡土浦町(現:土浦市)に生まれた。父・常太郎は土浦小学校の校長を務め、退職後は代言人の傍ら俳句・新体詩を指導していた。 剛も土浦中学校(現:茨城県立土浦第一高等学校)から早稲田大学高等師範部卒業(現:早稲田大学教育学部)へと進学し、1912年(大正元年)に早稲田大学講師。更に、早稲田大学高等学院教授(1920年 / 大正9年)・早稲田大学高等師範部・文学部教授(1924年/大正13年)を歴任。
橘 純一(たちばな じゅんいち、1884年(明治17年)2月… 橘 純一(たちばな じゅんいち、1884年(明治17年)2月25日 - 1954年(昭和29年)1月19日)は、国文学者。 東京市京橋区木挽町(現在の東京都中央区銀座)生まれ。児島喜三郎の五男。橘守部直系の家へ養子に入る。第二高等学校、1909年東京帝国大学文学部国文科卒。同助手、13年府立第五中学校教諭、21年『橘守部全集』を編集刊行。25年退職、各学校講師をしながら著述生活。36年国語解釈学会を創立、雑誌『国語解釈』を創刊。41年陸軍士官学校教官、50年跡見学園短期大学教授。没後、二松学舎大学名誉教授の称号を追贈。 1938年、小学校教科書に掲載された『源氏物語』について、不敬の書であるから削除すべしと主張した。
片上 伸(かたがみ のぶる、1884年(明治17年)2月20… 片上 伸(かたがみ のぶる、1884年(明治17年)2月20日 - 1928年(昭和3年)3月5日)は、日本の文芸評論家、ロシア文学者。初期は「天弦」の号で執筆活動をしていたので、片上天絃(片上天弦)の名でも知られる。 1884年、愛媛県今治市波止浜生まれ。一族は裕福な庄屋であり、伸の父・良(つかさ)は月番所詰めの役人であった。幼いころから神童と呼ばれ、新聞・雑誌の投稿欄の懸賞金を学資に当てていたという。旧制愛媛県立松山中学校(現・愛媛県立松山東高等学校)を卒業後、1900年に東京専門学校(現・早稲田大学)予科に入学する。在学中は英文学を学んだが、一方で当時勃興期であった自然主義文学に傾倒。卒業後は『早稲田文学』の記者をとなり、後に早稲田大学の教員となった。
名原 広三郎(なはら ひろさぶろう、1884年 - 1968… 名原 広三郎(なはら ひろさぶろう、1884年 - 1968年)は、日本の英文学者。 島根県生まれ。東京帝国大学英文科卒。法政大学教授を務め、森田草平のもとで岩波文庫『ユリシーズ』の翻訳を行った。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
吹田 順助(すいた じゅんすけ、1883年12月24日 - … 吹田 順助(すいた じゅんすけ、1883年12月24日 - 1963年7月20日)は、ドイツ文学者、随筆家。
山崎 麓(やまざき ふもと、1883年12月17日 - 19… 山崎 麓(やまざき ふもと、1883年12月17日 - 1943年9月11日)は、日本の国文学者。 神奈川県横浜生まれ。本籍・兵庫県出石郡。第四高等学校卒、1909年東京帝国大学文科大学国文科卒。1910年逓信省機関逓信協会主幹嘱託(-1914年)、英字新聞『ジャパンマガジン』編集嘱託(-1918年)、1916-1919年駿台英和女学校教員嘱託、1919年山口高等学校教授、1922年國學院大學教授。1932年同辞職、死去時には日本文学報国会所属。別名・目黒麦男。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
三井 甲之(みつい こうし、1883年〈明治16年〉10月1… 三井 甲之(みつい こうし、1883年〈明治16年〉10月16日 - 1953年〈昭和28年〉4月3日)は、日本の歌人、文学者、右翼思想家。皇道歌人として知られる。原理日本社共同創立者。山梨県中巨摩郡敷島村出身。本名は甲之助。 山梨県中巨摩郡松島村(旧同郡敷島村及び敷島町、現・甲斐市大下条)出身。生家は地主の家庭。甲府中学校(現山梨県立甲府第一高等学校)に入学したが校風になじめず、上京して京華中学校に転入。 1901年(明治34年)、第一高等学校第一部文科入学。文科の同級生に阿部次郎、岩波茂雄など。1902年(明治35年)に死去した正岡子規の短歌革新に共感する。三井の日記や手帳には子規句の書き抜きや、子規の死に際した追悼句が記されている。
野上 豊一郎(のがみ とよいちろう、1883年9月14日 -… 野上 豊一郎(のがみ とよいちろう、1883年9月14日 - 1950年2月23日)は、日本の英文学者、能楽研究者。「臼川」(きゅうせん)と号した。法政大学総長を務め、能研究の発展にも多大な寄与をした。レジョンドヌール・オフィシェ勲章受章者。 1883年、大分県臼杵市生まれ。臼杵中学、第一高等学校を経て1908年に東京帝国大学文科大学英文科を卒業。同級生に安倍能成・藤村操・岩波茂雄がいて、共に夏目漱石に師事した。 東京帝大卒業後、国民新聞社の文芸記者となる。1909年に法政大学講師となり、1920年に同大学教授となる。予科長・学監・理事を歴任し、森田草平・内田百閒・井本健作など漱石門下の文学者を教授陣に招聘するが、1933年に学内紛争(法政騒動)で辞職(1941年復職)。
広瀬 哲士(ひろせ てつし、1883年〈明治16年〉9月9日… 広瀬 哲士(ひろせ てつし、1883年〈明治16年〉9月9日 - 1952年〈昭和27年〉7月26日)は、日本のフランス文学者。慶應義塾大学教授。岡山県津山市出身。 1883年(明治16年)岡山県勝田郡河辺村瓜生原(現:津山市瓜生原)にて出生する。生家は、曽祖父に書家で有名な広瀬台山がいる。地元の旧制岡山県津山尋常中学(現:岡山県立津山高等学校)へ1期生として入学する。1900年(明治33年)に同校を卒業し、その後、東京にある旧制第一高等学校へ進学する。1904年(明治37年)7月に同校を卒業する。 この後、同年、東京帝国大学文科大学へ進学し、東大ではフランス語を専攻、1907年(明治40年)7月に同大学を卒業した。
岩本 素白(いわもと そはく 、1883年8月17日 - 1… 岩本 素白(いわもと そはく 、1883年8月17日 - 1961年10月2日)は、国文学者、随筆家。本名は堅一(けんいち)。東京府麻布に生まれる、父竹次郎は旧丸亀藩士で海軍勤務であった。
小柳 篤二(おやなぎ とくじ、1883年〈明治16年〉8月1… 小柳 篤二(おやなぎ とくじ、1883年〈明治16年〉8月1日 - 1985年〈昭和60年〉12月23日)は、日本のドイツ文学者、ドイツ語学者。元東京高等学校独語主任教授、元早稲田大学教授。日出学園名誉園長。 新潟県新潟区学校町通(現 新潟市中央区学校町通)出身。1903年(明治36年)3月に新潟中学校を卒業、9月に第一高等学校大学予科理科に入学するも、病気で中退。 新潟中学校の5年先輩の櫻井天壇の所によく遊びに行き、ゲーテやシラーの話を聞いたり、ドイツ語の詩を教えられたりしたことがきっかけで、ドイツ語の道に入ろうと思うようになる。 1909年(明治42年)3月に東京外国語学校独語学科を卒業、1912年(明治45年)に東京帝国大学文科大学文学科選科を修了。
相馬 御風(そうま ぎょふう、1883年(明治16年)7月1… 相馬 御風(そうま ぎょふう、1883年(明治16年)7月10日 - 1950年(昭和25年)5月8日)は、明治期から昭和期にかけての日本の文学者、詩人、歌人、評論家。本名は昌治(しょうじ)。新潟県西頸城郡糸魚川町(現糸魚川市)出身。早稲田大学大学部文学科英文学科卒業。詩歌や評論のほか、早稲田大学校歌「都の西北」をはじめとした多くの校歌や、「春よ来い」などの童謡の作詞者としても知られる。 1883年、新潟県西頸城郡糸魚川町大町(現糸魚川市)に生まれる。相馬徳治郎の長男。高田中学(現新潟県立高田高等学校)を経て早稲田大学に進む。中学以来の学友に小川未明がいる。在学中の1903年に岩野泡鳴らと雑誌「白百合」を創刊した。
内藤 濯(ないとう あろう、1883年7月7日 - 1977… 内藤 濯(ないとう あろう、1883年7月7日 - 1977年9月19日)は、フランス文学者、評論家、翻訳家、エッセイスト。
佐々木 邦(ささき くに、1883年(明治16年)5月4日 … 佐々木 邦(ささき くに、1883年(明治16年)5月4日 - 1964年(昭和39年)9月22日) は日本の作家、英文学者。弟・順三は立教大学総長。
茅野 蕭々(ちの しょうしょう、1883年3月18日 - 1… 茅野 蕭々(ちの しょうしょう、1883年3月18日 - 1946年8月29日)は、日本のドイツ文学者、詩人、翻訳家。本名は茅野 儀太郎、号は暮雨。妻は歌人の茅野雅子(旧姓:増田)。 長野県諏訪郡上諏訪村(現諏訪市)出身。諏訪郡立実科中学校、第一高等学校を経て、1908年東京帝国大学独文科卒業。同科の同級生に小宮豊隆、小牧健夫、1年上に成瀬無極、一年下に小野秀雄がいた。第三高等学校教授、慶應義塾大学教授、日本女子大学教授を歴任した。 旧制一高在学中から与謝野鉄幹が主宰する新詩社の『明星』同人として短歌、詩、評論等を寄せ、妻雅子とともに活躍した。「蕭々」は与謝野鉄幹から与えられたペンネームである。
横山 有策(よこやま ゆうさく、1882年(明治15年)12… 横山 有策(よこやま ゆうさく、1882年(明治15年)12月18日 - 1929年(昭和4年)4月2日)は、日本の英文学者。 1882年(明治15年)岡山県川上郡玉川村(現・高梁市)に生まれる。その後、1895年に旧制高梁中学(現・岡山県立高梁高等学校)の一期生として進学した。1900年に同学校を卒業し、早稲田大学高等予科へ進学。1902年9月に早稲田大学へ入学した。1904年9月には、ラフカディオ・ハーン(日本名:小泉八雲)葬儀で早稲田学生総代として弔辞朗読する。1905年に早稲田大学文学部英文科卒業。1907年渡米しハーバード大学に学び、1910年5月に卒業する。 1911年帰国、早稲田中学校の英語教師となる。
小牧 健夫(こまき たけお、1882年11月29日 - 19… 小牧 健夫(こまき たけお、1882年11月29日 - 1960年7月15日)は、日本の独文学者、詩人。別名・小牧暮潮、初号・小牧楚水。
玉井 幸助(たまい こうすけ、1882年10月15日 - 1… 玉井 幸助(たまい こうすけ、1882年10月15日 - 1969年1月11日)は、日本の国文学者。 1905年、新潟師範学校卒、1909年、東京高等師範学校国語漢文科卒。 1950年、「更級日記錯簡考」で東洋大学・文学博士。 1910年、東京高等師範学校助教諭兼訓導、1915年同校教諭、1925年教授。1946年定年退官し、日本女子専門学校教授、1962年昭和女子大学長に就任。 専門は、平安鎌倉女流日記文学。
鈴木 三重吉(すずき みえきち、1882年〈明治15年〉9月… 鈴木 三重吉(すずき みえきち、1882年〈明治15年〉9月29日 - 1936年〈昭和11年〉6月27日)は、広島県広島市出身の小説家、児童文学者。日本の児童文化運動の父とされる。 1882年(明治15年)9月29日、広島県広島市猿楽町(現、中区紙屋町、現在エディオン広島本店 本館がある地)に、父悦二、母ふさの三男として生まれる。 1889年(明治22年)本川小学校に入学。1891年(明治24年)三重吉が9歳の時に、母ふさが亡くなる。1893年(明治26年)11歳の時に、第一高等小学校に入学。1896年(明治29年)広島県広島尋常中学校(現・広島県立広島国泰寺高等学校)に入学。1897年(明治30年)、三重吉が15歳の時に書いた『亡母を慕ふ』が、「少年倶楽部」4月号に、『天長節の記』が「小国民」9年2号(どちらの雑誌も北隆館)に掲載される。
栗原 古城(くりばら こじょう、1882年〈明治15年〉9月… 栗原 古城(くりばら こじょう、1882年〈明治15年〉9月17日 - 1969年〈昭和44年〉6月17日)は、日本の英文学者・評論家・翻訳家。本名は、栗原 元吉(くりばら もときち)。 1882年、埼玉県北足立郡大宮町(のち大宮市)に生まれる。東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)で平田禿木に学び、上田敏とも知遇を得た。第一高等学校在学中の1902年、『明星』12月号にイワン・ツルゲーネフの短編訳「世のをはり」を発表し、以後、同誌に翻訳の発表を続け、当時の日本では知られていなかったオスカー・ワイルドやウィリアム・バトラー・イェイツなどを紹介した。 1903年、東京帝国大学文科大学英文学科に入学し、夏目漱石と上田敏の教えを受ける。
今園 国貞(國貞、いまその / いまぞの くにさだ、1882… 今園 国貞(國貞、いまその / いまぞの くにさだ、1882年(明治15年)7月20日 - 1950年(昭和25年)5月2日)は、日本の国文学者、政治家、華族。貴族院男爵議員。 華族・今園国映の長男として生まれる。父の死去に伴い、1893年(明治26年)5月12日、男爵を襲爵した。 学習院高等科を経て、1912年7月、東京帝国大学文科大学文学科(国文学)を卒業。1928年(昭和3年)歌会始講頌となり、以後、同読士、同奉行、御歌所参候、東京女子大学教授などを務めた。 1918年(大正7年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで4期在任した。
林 久男(はやし ひさお、1882年5月19日 - 1934… 林 久男(はやし ひさお、1882年5月19日 - 1934年12月2日)は、日本のドイツ文学者。 長野県出身。号は鴎南(おうなん)。1908年東京帝国大学文学部独文科卒。第七高等学校造士館 (旧制)、第二高等学校、第三高等学校教授を務める。ゲーテ研究のほか,演劇評論でも知られた。三高では文芸部長を務め、織田作之助,青山光二らの指導にあたった。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
猪熊 信男(いのくま のぶお、1882年5月5日 - 196… 猪熊 信男(いのくま のぶお、1882年5月5日 - 1963年7月3日)は、明治時代から昭和時代にかけて活躍した日本の歴史学者、国文学者。 雅号は恩頼堂学人(おんらいどうがくじん)、電影子(でんえいし)、樟園(しょうえん)。 1882年(明治15年)5月5日、蜂須賀喜心(よしざね、蜂須賀重喜次男・喜翰の末裔)の三男として誕生する。 1895年(明治28年)、13歳で猪熊家の戸主・猪熊全昌の養子となる。旧制高松中学校を卒業する。 1905年(明治38年)、鹿児島県の第七高等学校を卒業し、京都帝国大学工科大学に進学して電気工学を学んだ。 1916年(大正5年)、自身が志した宸筆研究の集大成として『宸筆集』を刊行し、宸筆博士(しんぴつはかせ)の異名を得る。
式場 麻青(しきば ませい、1882年〈明治15年〉3月23… 式場 麻青(しきば ませい、1882年〈明治15年〉3月23日 - 1933年〈昭和8年〉4月1日)は、日本の歌人、書家、国文学者。元大阪府女子師範学校専攻科教授。本名は式場 益平(しきば ますへい)。 新潟県中蒲原郡五泉町大字五泉字指柳(現 五泉市本町)の式場幸八の長男として生まれた。 1897年(明治30年)4月に新潟中学校に入学すると、俳句の会・舟江会に入り、2年先輩の会津八一と知り合った。1901年(明治34年)7月に同級生の青木得三、安倍邦太郎、山崎良平たちと同人雑誌『若菜舟』を発行した。 1902年(明治35年)3月に新潟中学校を卒業すると、上京して二松學舍で三島中洲に漢文学を、落合直文に国文学を学んだ。
吉田 白甲(よしだ はっこう、1881年〈明治14年〉11月… 吉田 白甲(よしだ はっこう、1881年〈明治14年〉11月28日 - 1961年〈昭和36年〉11月3日)は、日本のドイツ文学者。元陸軍大学校勅任教授・教頭。本名は吉田 豊吉(よしだ とよきち)。 新潟県北蒲原郡新発田町(現 新発田市)出身。1899年(明治32年)3月に新潟県尋常中学校を卒業、1902年(明治35年)7月に第一高等学校を卒業、9月に東京帝国大学文科大学独逸文学科に入学。 1903年(明治36年)7月23日の夜に東京音楽学校奏楽堂で日本人が初めて上演した歌劇、グルック作曲のオペラ『オルフォイス』の歌詞の和訳を石倉小三郎、乙骨三郎、近藤逸五郎たちと4人で担当した。 1904年(明治37年)11月に第一高等学校の1年生の時からの友人の小山内薫、川田順、武林無想庵、上村清延、太田善男、高瀬精太たちと7人で同人雑誌『七人』を創刊、夏目漱石に短編小説『琴のそら音』を寄稿してもらった。