登張 竹風(とばり ちくふう、1873年(明治6年)10月2… 登張 竹風(とばり ちくふう、1873年(明治6年)10月2日 - 1955年(昭和30年)1月6日)は、日本のドイツ文学者、評論家。本名、信一郎(しんいちろう)。 広島県佐伯郡津久茂村(現・江田島市江田島町津久茂)生まれ。広島中学(現広島国泰寺高校)、山口高等中学校を経て東京帝国大学卒業(1897年)。母校旧制山口高校教授として赴任、当時の同僚に西田幾多郎、教え子にやがて法科に転じた河上肇やドイツ文学者として知られた片山孤村がいる。1901年、高山樗牛が「美的生活論」を発表すると、「美的生活論とニイチエ」を発表して樗牛に賛同し「美的生活論争」を惹き起こした。1902年『ニイチェと二詩人』『気焔録』でニーチェ主義を標榜する。
吉丸 一昌(よしまる かずまさ、1873年(明治6年)9月1… 吉丸 一昌(よしまる かずまさ、1873年(明治6年)9月15日 - 1916年(大正5年)3月7日)は、日本の作詞家、文学者、教育者。代表作は「早春賦」など。東京府立第三中学校教諭、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)教授。大分県北海部郡海添村(現・臼杵市海添)出身。 日本基督教団の牧師で讃美歌第二編の委員長の藤田昌直の実父。 大分県の旧臼杵藩下級武士・吉丸角内の長男として生まれる。小学校尋常科から小学校高等科卒業までの成績は非常に優秀で、県から度々表彰を受けるほどだった。1889年、大分県立大分中学校(のち大分県立大分上野丘高等学校)を経て1894年、熊本市の第五高等学校(熊本大学の前身)に進学する。
新城 新蔵(しんじょう しんぞう、1873年(明治6年)8月… 新城 新蔵(しんじょう しんぞう、1873年(明治6年)8月20日 - 1938年(昭和13年)8月1日)は、日本の天文学者・中国学者、理学博士、京都帝国大学第8代総長・名誉教授。専門は宇宙物理学および中国古代暦術。戦前の中国天文学研究の権威であった。 福島県会津若松の造り酒屋に六男として生まれる。若松中学校(現福島県立安積高等学校)、第二高等中学校を経て帝国大学理科大学物理学科を1895年に卒業。大学院に進学し、1897年陸軍砲工学校教授に就任。 1900年京都帝国大学理工科助教授となる。その後ドイツのゲッティンゲン大学に留学し天文学を学び、帰国後に教授となる。留学中の1906年(明治39年)9月、万国測地学協会総会中央局から案内を受け、ハンガリー国ブダペストにて開催された第15回万国測地学協会総会に陪席。
戸沢 正保(とざわ まさやす、1873年(明治6年)6月9日… 戸沢 正保(とざわ まさやす、1873年(明治6年)6月9日 - 1955年(昭和30年)3月12日)は、イギリス文学者。東京外国語学校校長。姑射の号でウィリアム・シェイクスピア作品の翻訳を行った。 茨城県に元水戸藩士・菊池庸の二男として生まれ、戸沢正之の養子となった。1899年(明治32年)に東京帝国大学文科大学英文科を卒業し、大学院に進学した。1902年(明治35年)に山口高等学校教授となり、1907年(明治40年)からは第五高等学校教授を務めた。イギリス留学を経て、再び山口高等学校教授となり、1929年(昭和4年)に弘前高等学校校長に就任した。1932年(昭和7年)、東京外国語学校校長に転じ、1938年(昭和13年)に退官した。
根岸 由太郎(ねぎし よしたろう、1873年2月10日 - … 根岸 由太郎(ねぎし よしたろう、1873年2月10日 - 1960年3月2日)は、日本の英文学者、教育者、翻訳家。立教大学文学部英文学科元教授、一般教養部元教授。 群馬県出身で、赤城山下の片田舎で育つ。 1883年から1990年頃に、憧れの地であった東京に出て、学ぶ場所を探す。当時、金持ちの友人は慶應義塾へ行き、タイトルを欲する者は東京大学に趣き、いわゆる書生たちは神田の私立学校や下宿にごろつき歩く世の中であった。由太郎は、英語が達者になりたいという一念で築地居留地をぶらついて、見つけたのが立教大学だった。 地元の群馬で、英語の素養として、辛うじてウィリアム・スウィントンの『万国史』の訳読が出来る程度であり、これまで外国人を見たことがなく、ましてや会話をする機会など全くなかったが、この頃、森有礼の方針で英語の研究が大いに高まった時代であった。
武島 羽衣(たけしま はごろも、明治5年11月3日(1872… 武島 羽衣(たけしま はごろも、明治5年11月3日(1872年12月3日) - 昭和42年(1967年)2月3日)は日本の詩人、国文学者、作詞家。宮内省御歌所寄人。本名・武島 又次郎。
櫻井 鴎村(さくらい おうそん、1872年7月31日(明治5… 櫻井 鴎村(さくらい おうそん、1872年7月31日(明治5年6月26日) - 1929年(昭和4年)2月27日)は、日本の翻訳家、児童文学者、教育者、実業家である。本名は彦一郎(ひこいちろう)。日本で新渡戸稲造の『武士道』を出版したことで知られる。津田梅子とともに女子英学塾(今の津田塾大学)を設立して幹事となる。北樺太石油(英: Northern Karafuto Oil Consession)の取締役を務める。日本陸軍軍人の櫻井忠温は弟である。
佐佐木 信綱(ささき のぶつな、1872年7月8日(明治5年… 佐佐木 信綱(ささき のぶつな、1872年7月8日(明治5年6月3日) - 1963年(昭和38年)12月2日)は、日本の歌人・国文学者。正三位。勲六等。文学博士。日本学士院会員。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 一時は桂園派に連なる歌を詠んだが、和歌改良の風潮に接して革新の気風を抱き、1897年(明治30年)頃から独自の歌境をうち立て、有望な新星として注目された。「ひろく、ふかく、おのがじし」をモットーとし[要出典]、新詩社系、根岸短歌系双方との交流を深めた。 国文学者としての実績も豊富で、特に『万葉集』の研究で有名。 三重県鈴鹿郡石薬師村(現在の鈴鹿市石薬師町)で、国学者で歌人の佐々木弘綱の長男として生まれる。
佐々 醒雪(さっさ せいせつ、明治5年5月6日(1872年6… 佐々 醒雪(さっさ せいせつ、明治5年5月6日(1872年6月11日) - 大正6年(1917年)11月25日)は、日本国文学者・俳人である。本名は佐々政一(さっさ まさかず/せいいち)。 京都に生まれ、明治29年(1896年)東京帝国大学文科大学卒。在学中の明治27年(1894年)に俳句結社・筑波会を結成し、雑誌『帝国文学』に『連俳小史』を連載した。旧制第二高等学校や旧制山口高等学校で国文学を教えた。また、明治大学でも教鞭を執った。 明治34年(1901年)12月に山口高校を依頼退官した後、書店・金港堂に入社し、雑誌『文芸界』を編集した。明治39年(1906年)に東京高等師範学校教授に就任した。
岡井 慎吾(旧字体:岡井愼吾)(おかい しんご、1872年〈… 岡井 慎吾(旧字体:岡井愼吾)(おかい しんご、1872年〈明治5年〉5月29日- 1945年〈昭和20年〉2月13日)は、日本の教育者、漢文学者。柿堂と号した。研究論文の『玉篇の研究』で知られている。 1872年に福井県丹生郡立待村(現・鯖江市)の地主の家に生まれる。 父親を早くに亡くしたため母親の元に育ち、福井師範学校を卒業後、福井中学校で教員心得となる。 1898年(明治31年)、教員検定試験で国語、漢文に合格し愛媛県西条中学校(現・愛媛県立西条高等学校)に転任。 旧制石川県第二中学校(現・石川県立金沢錦丘中学校・高等学校)教諭、石川県師範学校訓導を歴任、広島高等師範学校附属中学校(現・広島大学附属中学校・高等学校)に招聘されたのち、1915年(大正4年)に朝鮮平壌中学に赴任した。
内海 弘蔵(うつみ こうぞう、明治5年3月24日(1872年… 内海 弘蔵(うつみ こうぞう、明治5年3月24日(1872年5月1日) - 昭和10年(1935年)12月7日)は、神奈川県出身の国文学者、歌人。号は月杖(げつじょう)。 神奈川県生まれ。獨逸学協会学校、第一高等中学を経て、1898年(明治31年)に東京帝国大学国文科を卒業。早稲田大学等の講師を経て1904年、明治大学講師に就任、後に教授。また、落合直文の短歌結社「浅香社」に参加し、歌人としても活動した。 『平家物語』や『方丈記』などの注釈書を著しており、特に『徒然草』を兼好の「一大趣味論」とした『徒然草評釈』で知られる。 1910年に明治大学硬式野球部が創設されると同時に部長を務めることになった。
奈倉 次郎(なぐら じろう、1872年5月〈明治5年4月〉-… 奈倉 次郎(なぐら じろう、1872年5月〈明治5年4月〉- 1947年11月20日)は、日本の英文学者、英語教育者、翻訳家。山口高等商業学校(現・山口大学)教授、立教学校(現・立教大学)英語教授。多くの編著があり、英語教科書や青年英文学叢書など広く読まれた。 1872年5月(明治5年4月)、静岡県伊豆生まれ。兄は静岡県人・奈倉新一郎。 伊豆学校で学んだ後、東京へ出て、東京英語専修学校(立教大学の前身校の一つ)で修学する。英国人アーサー・ロイド(立教学院総理)、米国人ジエーキンボル両氏に就いて英語及び英文学を修める。 1890年(明治23年)、郷里に戻って伊豆学校の英語教師となる。その後、再び東京へ出て、1891年(明治24年)、私立錦城学校英語専攻科を卒業。
浦口 文治(うらぐち ぶんじ、1872年3月21日(明治5年… 浦口 文治(うらぐち ぶんじ、1872年3月21日(明治5年2月13日) - 1944年(昭和19年)3月8日)は、日本の英米文学者、教育者。同志社大学英文科教授、東京商科大学(現・一橋大学)教授、立教大学教授。 摂津三田藩(兵庫県三田市)出身。三田藩士の浦口長弘と千代の子として生まれる。12歳の時に神戸の川本恂蔵の家に寄宿し、キリスト教に感化を受けると、1884年(明治17年)に神戸教会において原田助(同志社第7代目社長)より受洗。 同志社普通学校に入学し、1890年(明治23年)に同志社を卒業。その後、英文学を志し神戸、東京、仙台、函館を転々とする生活を送る。 1894年(明治27年)夏に神戸にいた際には、ウォルター・ウェストンの日本アルプス登山に、H.J.ハミルトン(日本聖公会中部教区初代主教)とともに通訳として同行し、日本アルプス連山の初登頂に成功する。
三矢 重松(みつや しげまつ、明治4年11月29日(1872… 三矢 重松(みつや しげまつ、明治4年11月29日(1872年1月9日) - 大正12年(1923年)7月18日)は、日本の国語学者・国文学者。学位は文学博士。國學院大學教授。 折口信夫の師。弟に三矢宮松がいる。いわゆる「三矢文法」を築き、「最後の国学者」と呼ばれる壮烈な学風で知られる。 1872年(明治4年)1月9日、酒田県田川郡鶴岡大字二百人町(現・山形県鶴岡市)で生まれた。父・三矢維顕、母・町子の二男。実家は代々庄内藩に使えた士族の家で、祖父の静は藩校の典学を勤めた人物であった。1877年(明治10年)、鶴岡朝暘学校に入学。朝暘学校卒業後、西田川郡中学校を経て山形県尋常中学校に転入。在学中、中台直矢、角田俊次について漢学を学び、庄内英学会に加わって英語を身につけた。
村上 春太郎(むらかみ はるたろう、明治5年(1872年)1… 村上 春太郎(むらかみ はるたろう、明治5年(1872年)1月2日 - 昭和22年(1947年)6月10日)は、日本の天文学者、物理学者。 愛媛県越智郡東伯方村大字有津の庄屋、村上重吉の長男として生まれる。独学で数学、物理学、化学の高等教員資格検定を合格、教授免状を取得する。 同志社理科学校で教え、明治36年(1903年)9月に第七高等学校造士館に赴任し、物理学教授として教鞭を振るう傍ら、赤道儀を設置した望遠鏡を備えた天文台を建設。啓蒙書「天文学一夕話(島津源蔵、明治35年)」、「天文と地象(恒星社厚生閣、1944、1949)」および旧制高校の教科書「物理学原論」を著した。
土井 晩翠(どい ばんすい、1871年12月5日〈明治4年1… 土井 晩翠(どい ばんすい、1871年12月5日〈明治4年10月23日〉 - 1952年〈昭和27年〉10月19日)は、日本の詩人、英文学者。本名、土井 林吉(つちい りんきち)。 詩風は男性的な漢詩調で、女性的な詩風だった島崎藤村(『若菜集』など)と並んで「藤晩時代」と称された。また、瀧廉太郎の作曲で知られる『荒城の月』の作詞者としても知られ、校歌・寮歌なども多く作詞した。戦陣訓の文校正でも知られる。英文学者として、ホメーロス、カーライル、バイロンなどを翻訳している。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 1871年(明治4年)、仙台県仙台の北鍛治町(現在の宮城県仙台市青葉区木町通2丁目)に、富裕な質屋の土井林七、あいの長男として生まれた。
南日 恒太郎(なんにち つねたろう、明治4年9月30日(18… 南日 恒太郎(なんにち つねたろう、明治4年9月30日(1871年11月12日) - 昭和3年(1928年)7月20日)は、明治から大正にかけての教育者・英文学者。旧制富山高等学校初代校長。 富山県富山市長江生まれ。実弟には田部隆次(英文学者)、田部重治(英文学者・登山家)がおり、英文学の南日三兄弟と呼ばれた。 恒太郎は努力家で学業が優秀だった。富山県尋常中学校(現富山県立富山高等学校)在学中の明治23年10月、文部大臣森有礼が来校し、突然英語で質問した際にも明快に答えたという。 1885年(明治18年)9月富山県尋常中学校に入学し、同期の南弘(官僚・富山県初の大臣)や蟹江義丸(哲学者)らと学び、旧制第四高等学校(現金沢大学)進学を目指したが、南弘と共に県に建白書を出してストライキに加担したこと、重い眼病になったことなどから中退し、5年で退学。
三輪 源造(みわ げんぞう、1871年9月18日(明治4年8… 三輪 源造(みわ げんぞう、1871年9月18日(明治4年8月4日) - 1946年(昭和21年)11月5日)は日本の教育者、国文学者である。
戸川 秋骨 (とがわ しゅうこつ、1871年2月7日(明治3… 戸川 秋骨 (とがわ しゅうこつ、1871年2月7日(明治3年12月18日) - 1939年(昭和14年)7月9日)は、日本の評論家、英文学者、教育者、翻訳家、随筆家。別号は秋骨のほか、棲月・早川鴎村、早川漁郎・蒼梧桐・長帆・かげろふなど。 明治3年、等照とジュンの長男として、肥後国玉名郡岩崎村(現:熊本県玉名市)に生まれた。生まれ年から、明三と名付けられた。等照は熊本藩の支藩高瀬藩の藩士で、家老の原家から養子入りしていた。1877年、一族と上京し、東京師範学校附属小学校(現:筑波大学附属小学校)に入り、巴町の鞆絵小学校(現:港区立御成門小学校)に転じた。 世を捨てた父よりは、その実弟に躾けられ、1883年(12歳)、大阪へ伴われて大阪中学校(旧制三高の前身)に学ぶかたわら、漢訳の聖書や英語を習った。
武笠 三(むかさ さん、1871年 - 1929年)は、日本… 武笠 三(むかさ さん、1871年 - 1929年)は、日本の国文学者。族籍は埼玉県士族。孫に北海道大学名誉教授の武笠 幸一がいる。 現在の埼玉県さいたま市緑区出身。氷川女体神社の旧神主家・武笠家に生まれる。埼玉県士族・武笠幸息の長男。 東京帝国大学を卒業後、第四高等学校 (旧制)、埼玉県第一中学(現:埼玉県立浦和高等学校)、第七高等学校造士館 (旧制)で教鞭をとった。 1908年、文部省からの要請を受け、その後17年間にわたり国定教科書の編纂および尋常小学唱歌の作詞に取り組んだ。武笠三の作詞と言われているものには「案山子」「雪」「池の鯉」「日の丸の旗」などがあるが、編纂官だったために名を伏せ、作詞作曲不詳とされているものもある[要出典]。
小柳 司気太(おやなぎ しげた、1870年12月24日(明治… 小柳 司気太(おやなぎ しげた、1870年12月24日(明治3年11月3日)- 1940年(昭和15年)7月18日)は、日本の中国文学者、道教の研究者。新潟県出身[信頼性要検証]。東京帝国大学選科修了。旧姓は熊倉[信頼性要検証]。 越後国中蒲原郡小吉村(現・新潟県新潟市西蒲区)で、熊倉玄周の子として生まれる。父の死後、母方の叔父・小柳卯三郎の養子となる。1885年、粟生津村の私塾長善館に入門。1888年に上京。東京英語学校に入学するが、病気により一時退学、帰郷。1894年、東京帝国大学漢学科選科修了。藤田精一らと東亜学院を設立し、月刊誌『東亜説林』を刊行する。その後、広島尋常中学校教諭、真言京都中学校教諭を務める。
木村 栄(きむら ひさし、旧字体:榮、1870年10月4日〈… 木村 栄(きむら ひさし、旧字体:榮、1870年10月4日〈明治3年9月10日〉- 1943年〈昭和18年〉9月26日)は、日本の天文学者、理学博士。Z項(木村項)の発見者。恩賜賞 (日本学士院)、英国王立天文学会ゴールドメダル受賞者。 石川県石川郡野村字泉野(現・石川県金沢市泉野町)出身。幼い頃に漢学塾を経営する親戚の木村民衛の養子となり、上山小三郎から数学を学ぶ。この時の学友に西田幾多郎がいる。 幼少期より優秀であった木村は、1880年(明治13年)に県立の石川県専門学校に一番で入学し(但し同校開校は1881年)、1885年に赴任した北条時敬に学んで数学に目覚め、1887年に同校が官立の第四高等中学校に転換すると飛び級で同校本科第二部(理科・工科)に進み、今川覚神より天文学を学んで、1889年に首席で卒業した。
藤岡 作太郎(ふじおか さくたろう、明治3年7月19日(18… 藤岡 作太郎(ふじおか さくたろう、明治3年7月19日(1870年8月15日) - 明治43年(1910年)2月3日)は、日本の国文学者、文学博士。号は東圃・李花亭・枇杷園。 加賀国金沢早道町(現・石川県金沢市)生まれ。1890年、第四高等中学校を卒業。同窓生に西田幾多郎、鈴木大拙(貞太郎)、山本良吉がおり、西田・鈴木・藤岡は「加賀の三太郎」と称される。 1891年、東京帝国大学文科大学国文科に進学する。同級生に藤井乙男がいた。在学中、『北國新聞』創刊号に「小説管見」を発表。1894年、東京帝国大学を卒業。大阪府第一中学校、京都真宗大谷派第一中学校教員、真宗大谷派大学寮教授、第三高等学校教授を経て、1900年、東京帝国大学助教授となる。
岩佐 琢蔵(いわさ たくぞう、1870年7月25日〈明治3年… 岩佐 琢蔵(いわさ たくぞう、1870年7月25日〈明治3年6月27日〉- 1946年〈昭和21年〉12月17日)は、日本の英文学者、教育者。立教大学元教授、フェリス和英女学校(現・フェリス女学院)副校長・教頭、横浜英語学校校長、立教大学学監、立教女学校(現・立教女学院)教頭。フェリスでは、ミッションスクールでの宗教教育を禁じる文部省訓令第12号に対処するため英語師範科を創設するなど、女学校の存続と発展に長く貢献した。 福井県出身。福井の中学校を出て、上京する。当時、琢蔵が東京の学校として名前を知っていたのは、帝国大学(後の東京帝国大学)と、その予備校である高等中学校、その他には慶応義塾だけであった。
巖谷 小波(いわや さざなみ、1870年7月4日(明治3年6… 巖谷 小波(いわや さざなみ、1870年7月4日(明治3年6月6日) - 1933年(昭和8年)9月5日)は、明治から大正にかけての作家、児童文学者、口演童話家、俳人、ドイツ文学者、ジャーナリスト。本名は季雄(すえお)。別号に漣山人、楽天居、大江小波等がある。 日本初の創作童話『こがね丸』(博文館、1891年)を発表して近代児童文学史を拓いた日本児童文学の先駆者と評される。 明治期に児童文芸作品を表す言葉として「お伽噺」を使用、自ら編集長を務めた「少年世界」「少女世界」「幼年世界」などの雑誌を通して日本中に児童文学を広めた。 個人による日本初児童叢書である『日本昔噺』(24編)、『日本お伽噺』(24編)、『世界お伽噺』(100編)などのシリーズを刊行、日本はもちろん世界中の伝承説話のリテリングを体系的に行った。
巖谷 小波(いわや さざなみ、1870年7月4日(明治3年6… 巖谷 小波(いわや さざなみ、1870年7月4日(明治3年6月6日) - 1933年(昭和8年)9月5日)は、明治から大正にかけての作家、児童文学者、俳人。本名は季雄(すえお)。別号に漣山人(さざなみ さんじん)、楽天居、隔恋坊、大江小波がある。
馬場 孤蝶(ばば こちょう、1869年12月10日(明治2年… 馬場 孤蝶(ばば こちょう、1869年12月10日(明治2年11月8日) - 1940年(昭和15年)6月22日)は、日本の英文学者、評論家、翻訳家、詩人、慶應義塾大学教授。 孤蝶は土佐藩士馬場来八の四男として、土佐国土佐郡(現・高知市)に生まれた。本名は勝弥といい、19歳上の次兄に自由民権運動家の馬場辰猪がいる。病弱で就学せずに、1878年両親と上京し、下谷茅町(現・台東区池之端二丁目)の忍ヶ丘小学校から三菱商業学校に進んで中退し、1884年から、共立学校で英語を学んだ。少年期から寄席に入り浸った。浄瑠璃を語った。弓術・盆栽・将棋・パイプ・俳画・古書漁り・旅行と、趣味が広かった。 1889年(明治22年)(20歳)、明治学院2年に入学し、島崎藤村、戸川秋骨と同級になった。
角田 浩々歌客(かくだ こうこうかきゃく、明治2年9月16日… 角田 浩々歌客(かくだ こうこうかきゃく、明治2年9月16日〈1869年10月20日〉 - 1916年〈大正5年〉3月16日)は、明治時代の詩人、北欧文学者、文芸評論家、新聞記者。本名:角田勤一郎。大阪の論壇・文壇で重きを成して世論形成に大きな力を持ち、東の坪内逍遥と並び称された。 新聞社ごとに号や筆名を使い分け、『國民新聞』では岳麓布衣、『大阪朝日新聞』では不二行者、出門一笑、『大阪毎日新聞』では迂鈍居士、鈍右衛門、『読売新聞』では剣南、伊吹郊人、豹子頭、『東京日日新聞』では浩々而歌閣主、他、剣南道士など。 駿河国富士郡大宮町(現・静岡県富士宮市)生まれで旧静岡藩士の家系。佐野天声の実兄である。
平出 鏗二郎(ひらで こうじろう、明治2年8月21日(186… 平出 鏗二郎(ひらで こうじろう、明治2年8月21日(1869年9月26日) - 明治44年(1911年)12月19日)は、日本の国文学者・歴史家。字あるいは号は鏗痴。明治期における風俗史研究で知られる。 明治2年(1869年)、尾張国名古屋(現・愛知県名古屋市)に生まれる。 明治23年(1890年)、愛知県立医学専門学校を卒業、翌年上京し、東京帝国大学文科大学国文学科に入学。 明治27年(1894年)、同大学を卒業して文部省図書課に勤め、教科書の検定審査を担当する傍ら、文科大学史料編纂所員として江戸時代国学者の伝記史料を蒐集した。 明治33年(1900年)、史料編纂員を経て文部省を退官。のち小学校修身教科書起草および教科書検定嘱託に就任。
塩井 雨江(しおい うこう、1869年2月13日(明治2年1… 塩井 雨江(しおい うこう、1869年2月13日(明治2年1月3日) - 1913年(大正2年)2月1日)は、日本の詩人、国文学者、翻訳家。本名・正男。 兵庫県豊岡市出身。豊岡藩士の子。1886年(明治19年)7月、第一高等中学校に入学。1892年(明治25年)7月、第一高等中学校文科を卒業。同月、東京帝国大学に入学。 1895年(明治28年)7月、東京帝国大学文科大学国文科卒。落合直文に師事。同年『帝国文学』の創刊とともに編集委員となり、擬古文で名を知られた。詩人として新体詩の普及に貢献する一方で、国文学者としても活躍。 1895年(明治28年)9月、立教学校(現・立教大学)の教授に就任し、国文国語を講じた。
桂 湖村(かつら こそん、1868年11月29日(明治元年1… 桂 湖村(かつら こそん、1868年11月29日(明治元年10月16日) - 1938年4月3日)は、日本の中国文学者。現在の新潟県新潟市新津の出身。湖村は故郷近くの福島潟に由来する号で、本名は五十郎。雷庵など、他の号も使用した。 生家は国学や漢学を修めた学者の家系で、自身も幼少から漢籍等に触れて育った。東京専門学校専修英語科(現・早稲田大学)に進学し、1892年に卒業。日本新聞に客員社友として属したのち、中国に渡航して陶芸や書画について学ぶ。帰国後は東洋大学・國學院大學で教壇に立ち、その後母校の早稲田大学教授に就任した。 1905年(明治38年)、『漢籍解題』を明治書院から刊行した。近年刊は『湖村詩存』(村山吉廣編、明徳出版社、2017年)がある。
永井 一孝(ながい ひでのり、1868年9月23日(慶応4年… 永井 一孝(ながい ひでのり、1868年9月23日(慶応4年8月8日) - 1958年(昭和33年)12月16日)は、日本の国文学者。旧姓は池谷。号は空外。 信濃国筑摩郡福島(長野県木曽郡木曽町福島)出身。1893年東京専門学校文学科第1回卒業生。英文学・演劇学をめざすが、坪内逍遥の勧めで訓詁を関根正直に学ぶ。1895年東京専門学校講師、1907年早稲田大学教授、高等師範部、高等予科で国文学を担当。1943年定年退職して名誉教授。門下に山口剛、竹野長次、佐々木八郎らがいる。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
藤代 禎輔(ふじしろ ていすけ、1868年9月10日(慶応4… 藤代 禎輔(ふじしろ ていすけ、1868年9月10日(慶応4年7月24日) - 1927年(昭和2年)4月18日)は、ドイツ文学者、京都帝国大学教授。筆名は「素人」。 1868年、千葉で生まれた。帝国大学文科大学で学び、1891年に卒業。1900年、夏目漱石や芳賀矢一と同じ船に乗船してドイツへ留学。 1907年、京都帝国大学講師に就き、独文学を講じた。のち教授昇格。夏目漱石の友人であり、漱石を京都帝国大学へ招聘しようとしたが断られている。カール・フローレンツとともに『万葉集』のドイツ語訳の仕事を続けたが、未完のまま1927年に死去した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
藤井 乙男(ふじい おとお、慶応4年7月14日〈1868年8… 藤井 乙男(ふじい おとお、慶応4年7月14日〈1868年8月31日〉 - 1945年〈昭和20年〉5月23日)は、日本の国文学者、俳人。号は紫影。 兵庫県津名郡洲本町(淡路島、現洲本市)生まれ。 第三高等学校を経て、1894年に帝国大学文科大学国文学科を卒業。在学中に正岡子規と知り合い、句作を始める。 1894年に福岡県立尋常中学修猷館教諭、1898年に第四高等学校教授、金沢にて北声会を主宰、「北国新聞」の俳壇選者となる。1908年に第八高等学校教授、1909年に京都帝国大学文科講師、1911年教授。1912年に文学博士の学位を受ける。1928年に定年退職、名誉教授となる。1930年に帝国学士院会員。
堀 維孝(ほり いこう、慶応4年2月(1868年2月8日) … 堀 維孝(ほり いこう、慶応4年2月(1868年2月8日) - 昭和29年(1954年)10月31日)は、日本の教育学者、教育者、国文学者。鶴岡鷹匠町(現・鶴岡市)出身。萩邨と号する。国語漢文教育の権威として知られる。 慶応4年(1868年)、庄内藩士堀平太夫重道の長子として鶴岡鷹匠町に生れた。父は戊辰戦争に出陣して羽後羽根川で戦死したため、母の手ひとつで育てられた。明治18年(1885年)、西田川郡中学校(現・山形県立鶴岡南高等学校)を卒業。山形中学校(現・山形県立山形東高等学校)に進み、1886年に卒業した。 同1886年、朝暘学校の授業生(代用教員)を命じられた。また、荘内英学会で子弟の教育に当たった。
福井 久蔵(ふくい きゅうぞう、1867年12月13日(慶応… 福井 久蔵(ふくい きゅうぞう、1867年12月13日(慶応3年11月18日) - 1951年(昭和26年)10月23日)は、日本の国語学者・国文学者。号は白陽子、楽山、小松園など。 但馬国二方郡熊谷村(後に兵庫県温泉村、現在の新温泉町熊谷)に生まれる。1890年、兵庫尋常師範学校を卒業し、神戸小学校教諭となる。1893年、上京して上田萬年の指導を受ける。1895年、中等学校国語科教員検定試験に合格し、山口中学校教諭となる。1898年、東京府立第一中学校教諭へ転任。1905年、学習院教授。1912年12月18日、勲六等瑞宝章。1925年、駒澤大学教授。1936年「連歌の史的研究」で京都帝国大学より文学博士号を授与される。
平山 信(ひらやま しん、1867年10月6日(慶応3年9月… 平山 信(ひらやま しん、1867年10月6日(慶応3年9月9日) - 1945年(昭和20年)6月2日)は、日本の天文学者。名前の「信」は「まこと」と読まれることもある。同姓の天文学者・平山清次(天体力学、古暦の研究及び小惑星の族の発見で有名)とともに、月の裏側にあるクレーター「ヒラヤマ」の名前の由来となっている。 幕臣平山詮の子として江戸(現・東京都)に生まれた。兄に海軍教授・海軍大学校教官の平山順。寺尾寿に師事した。1888年7月に東京帝国大学理科大学星学科(現・東京大学理学部天文学科)を卒業、蘆野敬三郎と共に同学科の第1回卒業生となった。1890年、グリニッジへ留学、その数か月後にはポツダムへと移り、ヘルマン・カール・フォーゲルの下で当時勃興しつつあった天体物理学を学んだ。
芳賀 矢一(はが やいち、慶応3年5月14日〈1867年6月… 芳賀 矢一(はが やいち、慶応3年5月14日〈1867年6月16日〉 - 昭和2年〈1927年〉2月6日)は、日本の国文学者。東京帝国大学名誉教授、東宮職御用掛、國學院大學学長、帝国学士院会員を歴任した。 1867年、福井県足羽郡生まれ。父は国学者の芳賀真咲。1889年7月第一高等中学校を卒業。1892年、帝国大学文科大学(のちの東京帝国大学文学部)卒業。在学中は小中村清矩に学ぶ。 1895年、第一高等学校教授兼高等師範学校教授。1899年、東京帝国大学助教授。1900年、夏目漱石、藤代禎輔とともに文部省外国留学生としてドイツに留学し、文献学を学ぶ。1902年に帰国し、東京帝国大学教授となる。1903年、文学博士の学位を取得。
大倉 本澄(おおくら もとずみ、もとすみ、1867年3月29… 大倉 本澄(おおくら もとずみ、もとすみ、1867年3月29日〈慶応3年2月24日〉 - 1940年〈昭和15年〉6月19日)は、日本の英米文学者、英語教育者、翻訳家、聖職者。教育者として東京英語専修学校(立教大学の前身校の一つ)を創設したほか、旧制第六高等学校(現・岡山大学)教授や旧制甲南高等学校(現・甲南大学及び甲南中学校・高等学校)教授を歴任。英文学者や翻訳家としてシェイクスピア劇の講義に加え、イギリス公使の翻訳官を務めた。また、ハーバード大学で外国人初の舎監となり、日本聖公会の聖職者としても伝道に従事した。号は折鵬、竹隠。 1867年3月29日〈慶應3年2月24日〉、備前国岡山に生まれる。
夏目 漱石(なつめ そうせき、1867年2月9日(慶応3年1… 夏目 漱石(なつめ そうせき、1867年2月9日(慶応3年1月5日) - 1916年(大正5年)12月9日)は、日本の小説家、評論家、英文学者。本名、夏目 金之助(なつめ きんのすけ)。江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)出身。俳号は愚陀仏。
井上 通泰(いのうえ みちやす、1867年1月26日(慶応2… 井上 通泰(いのうえ みちやす、1867年1月26日(慶応2年旧暦12月21日) - 1941年(昭和16年)8月15日)は、主に明治時代に活躍した桂園派の歌人・国文学者、また眼科を専門とする医師でもあった。名は音読みで「つうたい」ともいう。幼名は松岡泰蔵。雅号に南天荘。 実弟の一人に民俗学を大成した柳田國男がいる。 1866年(慶応2年)、儒者(医者)松岡操の三男として、姫路元塩町に生れる。松岡家は播磨国の神東郡田原村辻川(現在の兵庫県神崎郡福崎町辻川)の旧家で、父・操は姫路藩の儒者・角田心蔵の女婿・田島某の弟として一時期田島家に籍を入れ、田島賢次の名で私塾の仁寿山黌や好古堂で修学し、のちに医者となった。
土橋 八千太(つちはし やちた、慶応2年10月28日(186… 土橋 八千太(つちはし やちた、慶応2年10月28日(1866年12月4日)- 昭和40年(1965年)3月11日)はカトリック司祭・天文学者・漢学者。上智大学第3代学長。洗礼名はパウロ。弟は日本で初めて電気炉製鋼を実用化した土橋長兵衛である。1964年勲三等瑞宝章受章。 慶応2年、信濃国諏訪郡下桑原村(甲州街道上諏訪宿)生まれ。明治14年(1881年)、前年に長野県上諏訪村小和田(現諏訪市)の小学校を卒業したばかりの八千太は、諏訪を訪れたパリ外国宣教会の宣教師・ジュル・ラングレーの説教に感激し、明治15年(1882年)カトリックの洗礼を受ける。 上京後の明治19年(1886年)に上海に渡って神学校のヨハネ学院で学び、明治21年(1888年)9月7日にイエズス会に入会する。
山内 晋卿(やまのうち しんきょう、旧名: 晋(すすむ)、1… 山内 晋卿(やまのうち しんきょう、旧名: 晋(すすむ)、1866年1月26日(慶応元年12月10日) - 1945年(昭和20年)9月9日)は、仏教学者、漢文学者、中国史学者。石見国(現島根県)生まれ。 浄土真宗本願寺派勧学、旧制第三高等学校(現京都大学)教授。定年後は、旧制福岡県立女子専門学校(現福岡女子大学)専任講師、旧制九州帝国大学専任講師等を歴任。 旧制三高の学校誌である『第三高等学校 神陵史』に名前が挙げられている。九州帝国大学の仏教青年会、浄土真宗本願寺派安居本講でも活躍した。島根県大田市にある浄土真宗本願寺派明恩寺第12世住職。 在日本,也有许多不同的议论。开头,山内晋卿认为是真的,他根据的是明清人的说法;总之,常盘大定认为是假的
本田 増次郎(ほんだ ますじろう、1866年1月15日〈慶応… 本田 増次郎(ほんだ ますじろう、1866年1月15日〈慶応2年11月29日〉 - 1925年〈大正14年〉11月25日)は、明治・大正期の英語教育者、イギリス文学者、ジャーナリスト、民間外交家。柔道3段。 美作国久米北条郡上打穴里村(現・岡山県久米郡美咲町打穴里)にて、農家の本田杢蔵・やゑの3男として生まれる。村の小学校(2006年3月廃校)を卒業後、医学を志し岡山県福渡の医師吉岡寛斎(吉岡弘毅の兄)のもとで2年修業した後、上京。 高木兼寛の紹介で、井上馨外務大臣の主治医などをしていた愛宕下田村町の医師松岡勇記の薬局生となる。高木らが設立した海軍軍医学校への進学を志し、試験に必要な英語を習得するため三田英語学校に通ったが、1883年より柔道を習えば無料で英語を学べることから神田神保町にあった嘉納治五郎の英語学校・弘文館に在籍し、講道館で柔道を学んだ。
蘆野 敬三郎(あしの けいざぶろう、1866年(慶応2年) … 蘆野 敬三郎(あしの けいざぶろう、1866年(慶応2年) - 1941年(昭和16年)2月17日)は、数学天文学者、海軍大学教授、理学士、気象関係従事者。従三位勲二等。 慶應義塾幼稚舎を経て東京帝国大学理学部卒業。学生のとき1887年(明治20年)8月の皆既日食を白河にて、アメリカの天文学者トッド博士の通訳兼協力者として菊池大麓と共に観測に参加。 1900年(明治33年)文部省が行ったローマ字表記調査委員となり、上田萬年、磯田良、大西祝、神田乃武、金子銓太郎、小西信八、藤岡勝二、高楠順次郎、湯川寛吉、渡部董之介の11名で報告。 日本数学物理学会会員。長く海軍大学教授を務め、退官後、理化学研究所の図書の係を務めた。
和田 英松(わだ ひでまつ、慶応元年9月10日(1865年1… 和田 英松(わだ ひでまつ、慶応元年9月10日(1865年10月29日)- 昭和12年(1937年)8月20日)は、日本の歴史学者(日本史学)・国文学者。文学博士。位階勲等は従三位勲二等。 備後国沼隈郡鞆町(現在の広島県福山市)にて和田五平・イトの二男として出生。1872年、母の生家に託せられ、照蓮寺の三宅某について習字読書を始める。1873年、備後国深津郡新涯小学校に通学し、櫛野瀬平に学ぶ。1874年、医師内海卓爾について習字読書を学ぶ。1878年、玉井正幹について漢籍を学ぶ。1880年、福山師範学校を受験、不合格。以来、宗家の家事を手伝いながら会計を掌り、もっぱら史書を読む。1884年、帝国大学文科大学古典講究科入学。
和田 万吉(わだ まんきち、慶応元年8月18日(1865年1… 和田 万吉(わだ まんきち、慶応元年8月18日(1865年10月7日) - 昭和9年(1934年)11月21日)は、明治から昭和にかけての国文学者・図書館学者・書誌学者。今沢慈海と並んで日本に本格的な図書館学を導入した人物として知られている。美濃国大垣出身。 大垣藩士和田為助の子として、大垣城城下町の東長町に生まれる。明治23年(1890年)に東京帝国大学国文科を卒業して東京帝国大学付属図書館大学に奉職する。明治25年(1892年)から4年間は学習院教授を兼ねる。明治29年(1896年)に東京帝国大学助教授兼附属図書館司書官となり、翌明治30年(1897年)に図書館長に昇進、以後27年間にわたって館長を務めた。
簡野 道明(かんの どうめい(みちあき)、慶応元年4月9日〈… 簡野 道明(かんの どうめい(みちあき)、慶応元年4月9日〈1865年5月3日〉 - 昭和13年〈1938年〉2月11日)は日本の漢文学者(漢字学者)・言語学者・教育者である。 江戸八丁堀で伊予国吉田藩藩士の子として生まれる。幼名は米次郎である。 4歳の時伊予国吉田(現在の愛媛県宇和島市吉田町)に戻り、小学校に入ってから漢学・習字に学び、中学を卒業後小学校の教員を経て愛媛県師範学校に入学する。卒業後は南予地区で教鞭を執る。 1892年に上京後苦労の生活の日々を送り、30歳で東京高等師範学校に入学し、卒業後は東京で再び師範学校教師になる。在任中に「漢文読本」「故事成語大辞典」の編集を担当した。 1923年に漢和辞典「字源」を編集し刊行した。
岡田 正之(おかだ まさゆき、1864年10月5日(元治元年… 岡田 正之(おかだ まさゆき、1864年10月5日(元治元年9月5日) - 1927年(昭和2年)7月28日)は、日本の漢文学者、教育者。 1864年、越中国新川郡清水村(現・富山県富山市)にて富山藩士、岡田信之(呉陽)の長男として生まれる。18歳の時に上京し、重野成斎らに学んだ後、帝国大学に入学。 卒業後は陸軍大学校教授、学習院教授、東京帝国大学教授などを勤める。漢文や中国の歴史に通じ、大学で講義をする傍ら多数の書籍の著作、編纂に携わった。1926年には、御講始で漢書の進講も行った。同年学習院名誉教授となった。 主なものに『支那歴史』、『新定十八史略鈔』、『新制漢文讀本』、『越中史料』などがある。
熊田 鉄次郎(旧字体: 熊田 鐵次郎、くまた てつじろう、1… 熊田 鉄次郎(旧字体: 熊田 鐵次郎、くまた てつじろう、1864年〈元治元年〉 - 1907年〈明治40年〉5月28日)は、明治期の漢文学者、国文学者、教育者。立教学校(現・立教大学)教授や大阪陸軍地方幼年学校教授を務めたほか、各地の旧制中学で教えた。字は黒金、号は彬斉(ひんさい)。弟は二松学舎学長を務めた山田準/済斎。 1864年(元治元年)、備中松山藩士で山田方谷門の木村豊(藩校・有終館の会頭)の次男として生まれる。岡山県高梁市甲賀町(のちの柿木町)出身。兄は木村信行/水洞、弟は山田準/済斎(二松学舎専門学校初代校長・学長)。 14歳の時に、家老・熊田恰の一族・熊田矩光(大輔)の養子となる。