三好 十郎(みよし じゅうろう、1902年4月23日 - 1… 三好 十郎(みよし じゅうろう、1902年4月23日 - 1958年12月16日)は、昭和初期から終戦後の復興期にかけて活動した劇作家、詩人、小説家。 佐賀県佐賀市八戸町生まれ。戸籍上は父の兄の子で、旧姓は森。孤児として育つ。4歳で三好家の養子になり、12歳で両親と育ててくれた祖母を失う。旧制佐賀中学校(現・佐賀県立佐賀西高等学校)を経て、早稲田大学英文科卒業。早稲田大学在学中の1924年(大正13年)に「早稲田文学」に詩「雨夜三曲」など五篇を発表してデビュー。サンジカリズムからマルクス主義に接近。壺井繁治らと左翼芸術同盟を結成し、ナップの下部組織プロット(日本プロレタリア劇場同盟)に属して、プロレタリア劇の作家として活動。
東野辺 薫(とうのべ かおる、1902年〈明治35年〉3月9… 東野辺 薫(とうのべ かおる、1902年〈明治35年〉3月9日 - 1962年〈昭和37年〉6月25日)は、日本の小説家・劇作家。本名、野辺 慎一。福島県在住者として、初めて芥川賞を受賞した。 福島県二本松出身。旧制安積中学校を経て、1923年早稲田大学高等師範部国漢文科卒業、長野県立大町中学校教諭となる。1925年福島県立安達中学校教諭、1930年、戯曲集『黎明を待つ人々』を自費出版、1940年福島県立会津中学校教諭、1941年、懸賞小説当選作「国土」が『サンデー毎日』に掲載される。1943年福島県立保原中学校教諭。1943年、「和紙」で芥川賞を受賞。 1948年福島県立福島女子高等学校教諭、1949年福島県立福島商業高等学校夜間部教諭を経て、1952年に教員を退職。
本庄 桂輔(ほんじょう けいすけ、1901年5月24日 - … 本庄 桂輔(ほんじょう けいすけ、1901年5月24日 - 1994年8月27日)は、日本の劇作家、演出家、フランス演劇研究者。筆名に高島慶三。 東京麹町生まれ。本名・桂介。1926年立教大学文学部英文科卒。在学中より同人誌に戯曲を発表。岸田国士に認められ、1928年から1931年パリでジョルジュ・ピトエフ(フランス語版)に演劇研究を学ぶ。帰国後は立教大学教授。1944年三菱重工業に入社。1951年より丸善発行の『学鐙(學鐙)』編集長となり、長年務めた。演出、ユーモア小説の執筆なども行った。
村山 知義(むらやま ともよし、1901年(明治34年)1月… 村山 知義(むらやま ともよし、1901年(明治34年)1月18日 - 1977年(昭和52年)3月22日)は、日本の小説家、画家、デザイナー、劇作家、演出家、舞台装置家、ダンサー、建築家。日本演出者協会初代理事長。
弘津 千代(ひろつ ちよ、1901年1月5日 - 1983年… 弘津 千代(ひろつ ちよ、1901年1月5日 - 1983年)は、日本の劇作家、小説家。 山口県熊毛郡伊保庄村(現、山口県柳井市伊保庄)上八(こうじょう)生まれ。広島女学校附属小学校、広島県師範学校附属小学校、広島県立広島高等女学校を経て、日本女子大学校文科国文学科を1922年卒業。在学中より中村吉蔵らに師事。卒業後も東京で劇作に専念した。本名はチヨ。 1921年、日本女子大学校在学中に卒論のかわりに、印度の阿育王の伝説を題材にした戯曲・華子城物語(かしじょう・ものがたり)を、同級生の山原鶴、宮田範と共作、翌1922年6月、新光社より出版される。 代表作は、1925年(大正14年)7月号の「舞台批評」に発表した「天樹院」。
北村 小松(きたむら こまつ、1901年(明治34年)1月4… 北村 小松(きたむら こまつ、1901年(明治34年)1月4日 - 1964年(昭和39年)4月27日)は、日本の劇作家、小説家、脚本家。 青森県三戸郡八戸町(現・八戸市)生まれ。八戸中学校を経て慶應義塾大学英文科卒。在学中から小山内薫に師事して劇作を学び、卒業後に松竹キネマ蒲田研究所に入社。松竹の『マダムと女房』(1931年)など多くの映画シナリオを書く。戦後はユーモア小説作家に転じた。『人物のゐる街の風景』(1926年)が初期代表作で、初期は左翼文学にも手を染めたが、戦時下は戦争協力小説を多く書き、スパイものを編纂した。ほか翻訳がある。終戦後の1948年(昭和23年)に公職追放を受けて活動停止追放処分となる(1950年(昭和25年)に解除)。
久保 栄(くぼ さかえ 1900年(明治33年)12月28日… 久保 栄(くぼ さかえ 1900年(明治33年)12月28日 - 1958年(昭和33年)3月15日)は、日本の劇作家・演出家・小説家・批評家。代表作に『火山灰地』、『のぼり窯』などがある。
池谷 信三郎(いけたに しんざぶろう、1900年10月15日… 池谷 信三郎(いけたに しんざぶろう、1900年10月15日 - 1933年12月21日)は、日本の小説家、劇作家。 東京生まれ。東京帝國大學法学部、ベルリン大学法科中退。 暁星小学校、東京府立第一中学校(現在の東京都立日比谷高等学校)、旧制第一高等学校卒業。一高在学時より校友会雑誌に短歌などを発表し創作活動をはじめる。1922年に東京帝大へ入学するが、その年の終わりには休学してベルリン大学へ行き、先にベルリンへ来ていた一高時代の先輩である村山知義の影響を受けヨーロッパの芸術運動に触れる。最終的に東大は中退した。 1923年9月1日に起きた関東大震災により実家を失い帰国。 1925年、ベルリン滞在の経験を元に執筆した『望郷』が「時事新報」の懸賞小説に当選。
小島 勗(こじま つとむ、1900年(明治33年)6月1日 … 小島 勗(こじま つとむ、1900年(明治33年)6月1日 - 1933年(昭和8年)1月6日)は、日本の小説家、劇作家。 1900年6月1日、宮城県仙台市に生まれる。長野県旧制松本中学(現在の長野県松本深志高等学校)を経て、1924年に早稲田大学文学部哲学科卒業。在学中に横光利一や中山義秀と同人誌『塔』を発行した。卒業後はプロレタリア文学に傾倒し、1925年、『早稲田文学』に「地平に現れるもの」を発表したが発禁処分となる。翌年には『新小説』に「遥かなる眺望」、創作集『ケルンの鐘』などの戯曲を発表して、社会主義とモダニスムを併せ持つ作風で注目を集めた。当初は労農芸術家連盟に所属していたが、その後第二文戦打倒同盟をへて日本プロレタリア作家同盟に参加した。
板垣 守正(いたがき もりまさ、明治33年(1900年)3月… 板垣 守正(いたがき もりまさ、明治33年(1900年)3月15日 - 昭和26年(1951年)7月16日)は、劇作家、士族。伯爵板垣退助の孫、鉾太郎の次男。母は松本丑太郎の長女節子(せつこ)。号は青牛。宗旨は曹洞宗。別名は山内守正。
貴司 山治(きし やまじ、本名:伊藤 好市、明治32年(18… 貴司 山治(きし やまじ、本名:伊藤 好市、明治32年(1899年)12月22日 - 昭和48年(1973年)11月20日)は、日本のプロレタリア文学の小説家、劇作家。 徳島県鳴門市鳴門町高島生まれ。新聞記者などの職業を経て文筆家となる。 昭和2年(1927年)、朝日新聞が阪東妻三郎のために「五千円」(当時)の懸賞をかけ、映画小説を募集。本名伊藤好市名でこれに応募した『霊の審判』が一等入選。朝日新聞紙上で連載される。 昭和3年(1928年)、松竹配給・阪妻プロ製作で新春早々に『霊の審判』映画化が発表され話題となるが、松竹と阪妻の思惑が一致せず、三月封切りの予定が結局製作中止となる。 昭和4年(1929年)日本プロレタリア作家同盟の創立に参加し、プロレタリア文学の大衆化を唱える。
川口 松太郎(かわぐち まつたろう、1899年(明治32年)… 川口 松太郎(かわぐち まつたろう、1899年(明治32年)10月1日 - 1985年(昭和60年)6月9日)は、日本の小説家、劇作家。本名を松田松一とする資料もある。東京市浅草区生まれ。芸道物、明治物、時代物、現代風俗物と広く執筆。巧みな筋立てと独自の話術で庶民情緒を描いた大衆小説で多くの読者を獲得した。また、松田昌一の名で映画・演劇脚本も手がけ、大映専務などを務めた。特に、新生新派の主事として自作小説の脚色や演出を担当、昭和期の新派に欠かせない人気作家となり、作品の多くは新派の代表的演目となった。第1回直木賞受賞者で、映画化され大流行した『愛染かつら』の作者としても知られる。芸術院会員。文化功労者。
北村 喜八(きたむら きはち、1898年11月17日 - 1… 北村 喜八(きたむら きはち、1898年11月17日 - 1960年12月27日)は、日本の演出家、劇作家、翻訳家。 石川県出身。東京帝国大学英文科卒。 1924年(大正13年)、築地小劇場に参加する。1937年(昭和12年)、村瀬と芸術小劇場を結成し主宰する。第二次世界大戦後は新劇で活動。1950年(昭和25年)8月18日、阿部知二とともに第22回国際ペンクラブ大会に戦後始めて代表として出席。1951年(昭和26年)、国際演劇協会日本センター初代理事長となる。 ドイツ・英米演劇を翻訳した。 妻は女優の村瀬幸子。
久板 栄二郎(ひさいた えいじろう、1898年〈明治31年〉… 久板 栄二郎(ひさいた えいじろう、1898年〈明治31年〉7月3日 - 1976年〈昭和51年〉6月9日)は、日本の劇作家、脚本家。久坂 栄二郎と誤記されることも多い。 宮城県名取郡岩沼町(現・岩沼市)生まれ。東京帝国大学国文科卒。在学中からプロレタリア演劇運動に参加し、戯曲を書く。1934年新協劇団創立に参加し、1935年「断層」、1937年「北東の風」「千万人と雖も我行かん」を書く。第二次世界大戦後の1950年、連合国軍最高司令官総司令部指令によるレッドパージにより、映画会社からの追放者リストに名を連ねることとなるが映画のシナリオを書き続けた。戦後の代表作として「巌頭の女」(1952年)がある。
能島 武文(のじま たけふみ、1898年5月15日 - 19… 能島 武文(のじま たけふみ、1898年5月15日 - 1978年3月10日)は、日本の演劇評論家、劇作家、翻訳家。 大阪府大阪市北区出身。早稲田大学英文科卒。 在学中の1922年(大正11年)市村座脚本部に入り、かたわら「劇と評論」を創刊。同年に戯曲「秋の心」「波紋」を発表。のち「演劇新潮」編集同人となり、劇評・劇論を担当。また第一書房の『近代劇全集』の編集にも従事した。他に「東京小景」「詩人の靴」などの作品がある。 戦後は、主に推理小説などの翻訳などをおこなった。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
田島 淳(たじま じゅん、1898年(明治31年)1月19日… 田島 淳(たじま じゅん、1898年(明治31年)1月19日 - 1975年(昭和50年)1月29日)は、日本の劇作家、脚本家。 神奈川県横浜市出身。田島商事社長・田島啓次郎の長男。1922年、早稲田大学英文科を卒業した。早大在学中に執筆した処女作(戯曲)「能祇と泥棒」が1921年旧帝国劇場で上演(十四代守田勘彌、二代 市川猿之助による)されている。また同じく早大在学中に松竹キネマに入社した。のち松竹本社文芸部に入社した。昭和期に入ってから劇作から遠ざかり、演出などをした。1926年、『田島淳戯曲集』を刊行した。1968年に復刊された『劇と評論』では編集長を務めた。宗教は日蓮宗。住所は神奈川県横浜市中区根岸町。
森田 信義(もりた しんぎ、1897年12月6日 - 195… 森田 信義(もりた しんぎ、1897年12月6日 - 1951年7月15日)は、日本の映画プロデューサー、脚本家・劇作家、演出家である。山本 正夫(やまもと まさお)という筆名もある。 1897年(明治30年)12月6日、兵庫県神戸市に生まれる。 非常に裕福な商家の家庭に長男として生まれ、育てられた。父の金蔵の代から、大沢商会の大沢善夫(のちのゼーオー・スタヂオ社主)の祖父とも親交があった。長じて東京に移り、慶應義塾に進学する。1918年(大正7年)ころ岡本綺堂に師事、帝国劇場での上演台本等を書き、同人誌『群像』を主宰する。1920年(大正9年)、当時慶應義塾の学生でのちの映画監督・山本嘉次郎やのちの脚本家・小林正の「白夜会」と協力し、栗原トーマスの講演会等を行う。
金 祐鎮(キム・ウジン、朝鮮語: 김우진/金祐鎭、1897年… 金 祐鎮(キム・ウジン、朝鮮語: 김우진/金祐鎭、1897年9月19日 - 1926年8月4日)は、日本統治時代の朝鮮の詩人、劇作家。本貫は安東金氏。号は焦星(チョソン、초성)、水山(スサン、수산)。 1897年9月19日、李氏朝鮮で全羅南道の長城にて、務安郡の監理であった金星圭(父)と順天朴氏(母)のもと、長男として生まれた。 木浦公立普通学校(現: 木浦北橋初等学校)を卒業後渡日し、日本の熊本農業学校(現: 熊本県立熊本農業高等学校)を経て、1924年に早稲田大学英文科を卒業した。 1920年代には『劇芸術協会』と『同友会巡回演劇団』を主導した。また、西洋の表現主義の文芸理論を翻訳し、紹介した。
近藤 経一(こんどう けいいち、1897年4月12日 - 1… 近藤 経一(こんどう けいいち、1897年4月12日 - 1986年10月18日)は、日本の劇作家・小説家。 東京出身。父は外科医の近藤次繁、弟には裁判官の近藤綸二や東京女子医科大学教授の近藤台五郎がいる。 武者小路実篤の影響を受け、1917年戯曲集『蒔かれたる種』を刊行、1918年小説「第二の誕生」を『白樺』に発表し、以後しばらく小説家、劇作家として活動する。1922年東京帝国大学文学部国文科卒。 自身が製作した「愛の導き」に出演した女優の原光代と1924年に結婚。映画の製作や『キネマ旬報』の創設、文藝春秋の『映画時代』の編集などに携わり、後に文藝春秋専務となった。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
上泉 秀信(かみいずみ ひでのぶ、1897年2月12日 - … 上泉 秀信(かみいずみ ひでのぶ、1897年2月12日 - 1951年5月14日)は、日本の劇作家、新聞記者。 山形県米沢市生まれ。米沢中学(現山形県立米沢興譲館高等学校)時代は浜田廣介や大熊信行と同人誌を発行。 早稲田大学中退。大正初期から短歌、戯曲を発表。都新聞学芸部長として、尾崎士郎の『人生劇場』を連載させた。 1935年発表の「村道」は4幕の舞台として創作座にて上演。1938年発表の「ふるさと紀行」も、翌1939年に4幕の舞台として新築地劇団により築地小劇場で上演された。 戦時中は大政翼賛会文化副部長。 戦後は福島県に疎開。「わが山河「鯉」(1946年)、「節分の客」(1948年)などを執筆。
三島 通陽(みしま みちはる、1897年(明治30年)1月1… 三島 通陽(みしま みちはる、1897年(明治30年)1月1日 - 1965年(昭和40年)4月20日)は、日本の政治家・小説家・劇作家・演劇評論家。位階・勲等・爵位は正三位勲二等子爵。二荒芳徳とともにボーイスカウト運動を日本に広めた人物として知られる。東京府麻布区生まれ、学習院中退。ペンネームに三島 章道(みしま しょうどう)。 祖父は三島通庸。父は第8代日本銀行総裁を務めた三島弥太郎、母は四条隆謌侯爵の三女・加根子。妹・壽子の夫は阪谷希一、妹・梅子の夫は土方与志。妻は松岡均平の長女・純。叔父に三島弥彦がいる。 幼少期から文学に親しむ。一方で、祖母・和歌子から薩摩の郷中の掟を教わる[要出典]。
足立 直郎(あだち なおろう、1896年12月14日 - 1… 足立 直郎(あだち なおろう、1896年12月14日 - 1980年10月10日)は、歌人、劇作家、小説家。千葉県生まれ。本名・直太郎。別号・高梨直郎。早稲田大学文学部国文科卒。橋田東声の『珊瑚礁』に拠って歌人として出発、次第に戯曲、小説に手を染める。聚芳閣の経営者足立家に婿入りする。妻の養兄が足立欽一。
清見 陸郎(きよみ ろくろう、1896年10月11日 - 没… 清見 陸郎(きよみ ろくろう、1896年10月11日 - 没年不明)は、日本の作家、編集者、劇作家。東京市神田区猿楽町生まれ。東京中学校卒、東京美術学校中退、早稲田大学英文科中退。『美術新報』『秀才文壇』の編輯に当たり、根岸興行部脚本部員だったこともある。
番匠谷 英一(ばんしょうや えいいち、1895年8月14日 … 番匠谷 英一(ばんしょうや えいいち、1895年8月14日 - 1966年6月17日)は、日本の劇作家、ドイツ文学者。立教大学名誉教授。 現在の大阪府泉佐野市にて運送業を営み、泉陽銀行取締役を務めた番匠谷平吉の長男として生まれる。旧制岸和田中学校、第三高等学校を経て1920年京都帝国大学独文科卒業。1924年懸賞戯曲『黎明』に当選し、劇作家として活動するかたわらドイツ文学の翻訳を行う。1928年立教大学教授、61年定年となり名誉教授。 シュニッツラーを中心にドイツ文学、またアンデルセンなどを翻訳した。また劇作家として、源氏物語、宇治十帖を扱った戯曲を残した。 立教大学で教鞭を執る傍ら、立教大学劇研究会の会長も務めた。
斎田 喬(さいだ たかし、1895年7月15日 - 1976… 斎田 喬(さいだ たかし、1895年7月15日 - 1976年5月1日)は、日本の児童劇作家・画家。 香川県那珂郡丸亀町(現丸亀市)出身。1916年香川県師範学校卒、京都高等工芸学校卒。1920年小原国芳の招きで成城小学校の教師となり、学校劇運動、自由画教育運動を指導。1933年退職。1934-1947年児童劇団テアトロ・ピッコロで劇作、演出。1948年児童劇作家協会を設立、委員長となる(のち日本児童演劇協会)。1955年「斎田喬児童劇選集」で芸能選奨文部大臣賞受賞。児童文学の挿画も描いた。演劇教育研究所理事長、児童演劇協会名誉会長。
高田 保(たかた たもつ / たかだ たもつ、1895年(明… 高田 保(たかた たもつ / たかだ たもつ、1895年(明治28年)3月28日 - 1952年(昭和27年)2月20日)は、茨城県出身の劇作家、随筆家。俳号は羊軒。母方の従兄に近世文学研究者の山口剛がいる。 1895年、茨城県新治郡土浦町(現在の土浦市)の旧家に生まれる。子供の頃より気遣いが出来てまた話も面白く、同級の者以外とも交流するなど人望が厚かったという。旧制土浦中学校(現在の茨城県立土浦第一高等学校)を経て早稲田大学英文科へと進んだ。大学在学中から新劇運動に参加して宇野浩二を知るようになる。また、在学中に創立者・大隈重信の妻の銅像を建てるかの問題で「銅像事件」と呼ばれる騒動が起きるが、その時代を描いた尾崎士郎の小説『人生劇場・青春編』に、高田をモデルとした「吹岡早雄」という人物が登場している。
堀 正旗(ほり せいき、1895年3月14日 - 1953年… 堀 正旗(ほり せいき、1895年3月14日 - 1953年4月28日)は、宝塚歌劇団創成期の劇作家、演出家。理事。広島県広島市生まれ。 久松一声、坪内士行、岸田辰彌、白井鐵造、小野晴通らと宝塚の基盤を築いた功労者。1928年の外遊後、フランスに学んだ白井のパリ・オペレッタに対して宝塚に左翼的なドイツ演劇を持ち込んだ事で知られる。 父親は医師で野添家の四男として生まれる。名前は日本が日清戦争に勝利した年の生まれで「正義の御旗」という意味で付けられたという。生後すぐに母親が死に、父が再婚したため堀家に養子に出される。広島市の広島済美小学校(広島偕行社付属済美学校)を卒業すると郵政官僚だった長兄に引き取られ愛知県や大阪府などで育つ。
伊藤 松雄(いとう まつお、1895年〈明治28年〉1月13… 伊藤 松雄(いとう まつお、1895年〈明治28年〉1月13日 - 1947年〈昭和22年〉8月5日)は、日本の劇作家、脚本家、演出家である。 1895年(明治28年)1月13日、長野県諏訪郡上諏訪町(現諏訪市)に生まれる。 東京に移り、旧制・早稲田大学を卒業、満18歳になる1913年(大正2年)、有楽座に加わり、劇作者兼演出家となる。新文芸協会、のちに森英次郎、山田隆弥らの舞台協会で新劇を演出した。 1920年(大正9年)、戯曲集『危急』を上梓、翌1921年(大正10年)、ショーレム・アッシュの戯曲『夜』を翻訳して上梓している。 舞台協会に属していた1923年(大正12年)、日活向島撮影所と同協会が提携、3作を製作することとなり、うち『忘れな草』、『三つの魂』にオリジナル脚本を書き下ろし、いずれも田中栄三が監督した。
水木 京太(みずき きょうた、1894年(明治27年)6月1… 水木 京太(みずき きょうた、1894年(明治27年)6月16日 - 1948年(昭和23年)7月1日)は、日本の劇作家、演劇評論家である。水木京太は筆名で、本名は七尾 嘉太郎(ななお かたろう)。声優の草分けである女優の七尾伶子は実娘である。 秋田県平鹿郡横手町(現・横手市)大町中丁の旧家に、町会議員を何度も務めた七尾重兵衛の長男として生まれる。慶応義塾大学に入学後文学を専攻し、在学中に小山内薫に師事した。盲腸による腹膜炎で一年休学。大正8年(1919年)卒業。 資生堂の嘱託となり、大正9年(1920年)から同14年(1925年)まで『三田文学』の編集に携わりつつ、慶応義塾大学講師として劇文学を担当。
金子 洋文(かねこ ようぶん、1894年4月8日 - 198… 金子 洋文(かねこ ようぶん、1894年4月8日 - 1985年3月21日)は、プロレタリア文学の小説家、劇作家、日本社会党参議院議員。 秋田県秋田市土崎港古川町の舟問屋の四男として生まれる。本名・吉太郎。15歳で一旦上京して電気工事の仕事をするが帰郷し、19歳で秋田工業学校機械科を卒業。母校の助手を経て土崎小学校の代用教員を務める。1916年、上京して武者小路実篤の書生となる。 1921年、尋常小学校の同級生だった小牧近江や今野賢三とともに、社会主義思想の文芸雑誌『種蒔く人』を創刊。『解放』に発表した「地獄」が出世作となる。1924年からは『種蒔く人』の後継誌『文藝戦線』を創刊。戯曲、脚本も書いた。
永田 衡吉(ながた こうきち、1893年11月20日 - 1… 永田 衡吉(ながた こうきち、1893年11月20日 - 1990年2月27日)は、日本の劇作家、民俗芸能研究家。 和歌山県新宮出身。1917年早稲田大学英文科卒、東京帝国大学で美学美術史を学ぶ(卒業未確認)。21年から戯曲を発表、27年柳田國男、折口信夫らの民俗芸術の会の結成に参加、28年「信州義民伝」が6代目尾上菊五郎によって上演、「源義朝」が沢田正二郎によって上演される。30年菊五郎の日本俳優学校の設立に参加し講師となる。
鈴木 泉三郎(すずき せんざぶろう、1893年5月10日 -… 鈴木 泉三郎(すずき せんざぶろう、1893年5月10日 - 1924年10月6日)は、日本の劇作家、編集者である。豊島屋主人(としまやしゅじん)、伊豆 巳三郎(いず みさぶろう)などの筆名ももつ。 1893年(明治26年)5月10日、東京市赤坂区の青山地区(現在の東京都港区北青山か南青山)に生まれる。四谷区左門町(現在の新宿区左門町)にあった旧制・四谷第二小学校(現新宿区立四谷第六小学校)を卒業後、四谷銀行に入社、その傍ら、当時、同市同区葵町3丁目(現在の港区虎ノ門2丁目)にあった旧制・大倉商業学校(現在の東京経済大学)夜間部に通い、卒業する。が同市神田区錦町3丁目(現在の千代田区神田錦町)にあった国民英学会に進む。
藤森 成吉(ふじもり せいきち、1892年8月28日 - 1… 藤森 成吉(ふじもり せいきち、1892年8月28日 - 1977年5月26日)は、日本の小説家、劇作家。 長野県諏訪郡上諏訪町(現・諏訪市)生まれ。長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)卒業、第一高等学校卒業、東京帝国大学文科大学独文科卒業。 東京帝大在学中に執筆した『波』で小説家として広く知られるようになった。1926年以降劇作に転向し『何が彼女をさうさせたか』が話題を呼んだ。社会主義への関心も深め、全日本無産者芸術連盟の初代委員長を務めた。このとき、細井和喜蔵の『女工哀史』の出版にも尽力している。1928年の第16回衆議院議員総選挙に、労働農民党公認で長野3区から立候補したが次々点に終わる。
瀬戸 英一(せと えいいち、1892年7月21日 - 193… 瀬戸 英一(せと えいいち、1892年7月21日 - 1934年4月11日)は、日本の劇作家。 大阪市曾根崎新地生まれ。父は文士の瀬戸半眠。英一は大倉商業学校、日本中学高等学部などに学んだが、生来、文学を好み、早くから新聞雑誌記者生活に入り、岡鬼太郎に師事し、閻太郎の筆名で劇評を書いた。 明治45年(1912年)11月、明治座の伊井蓉峰のもとに狂言作者として入り、「経国美談」の脚色を機に、新派劇の作者となり、のち松竹文芸部専属となり新派劇の脚本を数多く創作した。 その中でも「人来鳥」「夜の鳥」「わくら葉」「怪談小車双紙」「花の夜がたり」「二筋道」などが代表作とされる。凋落の新派の人気を一時盛り返させた。
岡 栄一郎(おか えいいちろう、1891年12月2日 - 1… 岡 栄一郎(おか えいいちろう、1891年12月2日 - 1966年12月18日)は、日本の劇作家、評論家。 金沢市上新町に生まれ、15歳のとき、大阪市に移住する。1912年(明治45年)第三高等学校を卒業し、東京帝国大学の英文科に入学する。徳田秋声と遠縁にあたり、栄一郎は上京後、秩声の家の裏の下宿に住んで、徳田家に親しく出入りした。また、大学在学中から夏目漱石の木曜会に参加して漱石に師事し、1915年(大正4年)、漱石が秋声に東京朝日新聞の長編(「奔流」)連載を依頼したときは、栄一郎が両者の間の取次役をつとめた。木曜会を通じて芥川龍之介や久米正雄との交友も始まり、1916年、漱石が死去したときは、芥川らとともに葬儀の受付を担当している 。
久米 正雄(くめ まさお、1891年(明治24年)11月23… 久米 正雄(くめ まさお、1891年(明治24年)11月23日 - 1952年(昭和27年)3月1日)は、日本の小説家、劇作家、俳人。俳号は三汀(さんてい)。“微苦笑”という語の造語者として有名。 芥川龍之介らと第三、四次「新思潮」同人となる。理知的な作風から、のち感傷的作風の通俗小説に転じた。作品に戯曲『牛乳屋の兄弟』(1914年)、小説『受験生の手記』(1918年)、『破船』(1922年)など。 永井龍男は義弟(永井の妻が久米の妻の妹)。 長野県上田市生まれ。父・由太郎は江戸出身で町立上田尋常高等小学校(現在の上田市立清明小学校)の校長として上田に赴任し、正雄が生まれた。父は1898年(明治31年)に小学校で起きた火災によって明治天皇の御真影を焼いてしまった責任を負って割腹自殺した。
竹田 敏彦(たけだ としひこ、1891年〈明治24年〉7月1… 竹田 敏彦(たけだ としひこ、1891年〈明治24年〉7月15日 - 1961年〈昭和36年〉11月15日)は、日本の劇作家、小説家。本名は敏太郎。 1891年(明治24年)7月15日、香川県仲多度郡多度津町本町の資産家に生れる。香川県丸亀尋常中学校に入る頃までは家庭も安定していたが、4年生の頃、父が事業に失敗し、一家は大阪へ移り住む。 敏彦は働いて家計を助けなければならず、石炭人夫、人力車夫、沖仲仕、風呂屋の釜焚きなど、様々な肉体労働に従事した。この頃、重労働のために失明寸前になるという出来事もあった。そんな生活の中で仕事や将来への不安に襲われ、悩みぬいた挙句上京し、早稲田大学に入学。按摩などに従事して苦学した。
高倉 輝(たかくら てる、1891年〈明治24年〉4月14日… 高倉 輝(たかくら てる、1891年〈明治24年〉4月14日 - 1986年〈昭和61年〉4月2日)は、日本の劇作家、小説家、政治家、著述家。 1891年4月14日、高知県高岡郡口神ノ川(戸籍上は幡多郡七郷村浮鞭)生まれ。本名は高倉輝豊、のちに輝と改名した。国語国字改革を推進する立場から「タカクラ・テル」と自称した。入野高等小学校、宇和島中学校(現愛媛県立宇和島東高等学校)、第三高等学校から京都帝国大学英文科に進み、1916年、京都帝国大学を卒業し、新村出教授のもとで1922年まで同大学の嘱託。 ロシア革命の影響を受け、河上肇によってマルクス主義に接近。戯曲や翻訳を手がけ、やがて著述家として独立した。
倉田 百三(くらた ひゃくぞう / ももぞう)、1891年(… 倉田 百三(くらた ひゃくぞう / ももぞう)、1891年(明治24年)2月23日 - 1943年(昭和18年)2月12日)は、日本の劇作家、評論家で大正、昭和初期に活躍した。故郷の広島県庄原市には、倉田百三文学館がある。 広島県比婆郡庄原村107番屋敷(現庄原市本町)出身。
額田 六福(ぬかだ ろっぷく、明治23年(1890年)10月… 額田 六福(ぬかだ ろっぷく、明治23年(1890年)10月2日 - 昭和23年(1948年)12月21日)は、日本の劇作家・大衆小説作家。岡本綺堂の高弟。翻訳家、額田やえ子の父。 岡山県勝南郡勝田村(現在の勝田郡勝央町)に生まれた。本来の名前はむつとみ。5男2女の末子であった。勝間田尋常小学校のとき父を亡くしたが、家は豊かであった。勝南高等小学校を経て、明治37年(1904年)、津山中学へ進んだが、校則に触れ、京都市の立命館中学へ転じた。 明治41年(1908年)17歳のとき、結核性関節炎になり、翌年右腕切断の手術を受けた。脊髄カリエスも病んだ。 明治44年の「演藝画報」誌の懸賞に、勝間田町から『踏絵』を応募して落選したが、その選者岡本綺堂に、入門を願って快諾を得、原稿を送り添削を受け推敲を重ねるという、通信指導を受けた。
郡 虎彦(こおり とらひこ 1890年(明治23年)6月28… 郡 虎彦(こおり とらひこ 1890年(明治23年)6月28日 - 1924年(大正13年)10月6日)は、東京府出身の日本の劇作家。萱野二十一(かやの はたかず)の筆名でも知られる。虎彦はまた、ダンヌンツィオの『秋夕夢』を日本に翻訳紹介し、三島由紀夫に大きな影響を与えた。 東京府東京市京橋区南八丁堀(現在の東京都中央区湊)にて、鈴木耕水(私塾経営者)・錫(すず、旧姓石渡)夫妻の六男として誕生。生後まもなく母方の叔母夫婦の養嗣子となる(ただし入籍は5歳の時)。養父の郡寛四郎は幕末の会津藩家老・萱野長修の三男で日本郵船の最古参の船長。実母と養母が石渡家出身の姉妹で、石渡荘太郎は郡の従弟である。 3歳から養父の勤務地である神戸市に育ち、神戸幼稚園から神戸尋常小学校に進む。
久保田 万太郎(くぼた まんたろう、1889年〈明治22年〉… 久保田 万太郎(くぼた まんたろう、1889年〈明治22年〉11月7日 - 1963年〈昭和38年〉5月6日)は、日本の小説家、劇作家、俳人。俳号はじめ暮雨。のち傘雨。他に筆名千野菊次郎。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。位階・勲等は従三位・勲一等。 浅草生まれ。耽美派(三田派)の新進作家として登場。劇作でも慶大在学中から注目され、築地座を経て文学座創立に参加。新派、新劇、歌舞伎の脚色・演出と多方面に活動を展開。日本演劇協会会長を務め、文壇・劇壇に重きをなした。小説戯曲共に多くは浅草が舞台で、江戸情緒を盛り込んだ情話で長く活躍。文人俳句の代表作家 としても知られ、俳誌「春燈」を創刊・主宰した。
藤澤 清造(ふじさわ せいぞう、1889年〈明治22年〉10… 藤澤 清造(ふじさわ せいぞう、1889年〈明治22年〉10月28日 - 1932年〈昭和7年〉1月29日)は、日本の小説家、劇作家、演劇評論家である。 石川県鹿島郡藤橋村ハ部37番地(現在の七尾市馬出町)に、藤澤庄三郎・古への次男として出生。長姉とよ、兄信治郎、次姉よねにつづく第4子であった。1900年、七尾尋常高等小学校男子尋常科第4学年を卒業。卒業後、七尾町内の活版印刷所に勤め、印刷所が新聞取次を兼業していたことから新聞配達を担当していたが、右足が骨髄炎に罹り手術を受け自宅療養。以降、生涯にわたり骨髄炎の後遺症に苦しめられた。恢復後は、阿良町の足袋屋「大野木屋」、次いで、鋲屋、代書屋に勤めた。
平澤 計七(ひらさわ けいしち、1889年7月14日 - 1… 平澤 計七(ひらさわ けいしち、1889年7月14日 - 1923年9月3日)は、近代日本の劇作家・労働運動家である。日本のプロレタリア演劇の祖にして、生活協同組合及び労働金庫の設立の提言者でもある。関東大震災直後に、亀戸警察署に検束され労働運動家であったために他の活動家とともに虐殺された。妻の松は森竹次郎(森泰吉郎の父である磯次郎の義父)の次女。実子は、平澤綾子がいた。 若い頃、「潮態」あるいは「紫魂」の筆名を用いた。新潟県小千谷町(現・小千谷市)の出身。小学校を卒業すると、日本鉄道株式会社(現・JR東日本)大宮工場に就職した父に連れられて故郷を後にし、同工場付属職工養成所に入った。そこで3年間、近代的鍛冶工としての技術を身につけた。
欧陽 予倩(おうよう よせん、1889年5月12日—1962… 欧陽 予倩(おうよう よせん、1889年5月12日—1962年9月21日)は、中華民国·中華人民共和国の劇作家、俳優。湖南省瀏陽県出身。 1889年5月12日、湖南省瀏陽県に生まれた。東京振武学校·明治大学·早稲田大学卒業。1907年日本滞在中に春柳社に加わる。辛亥革命後帰国し、引き続き春柳社に参加。春柳社解散後は、広東戯劇研究所(広州)、広西芸術館(桂林)などで演劇(話劇)活動を続ける。また京劇俳優としても活躍する。1920年代後半からは映画監督、脚本家としても活動した。 中華人民共和国建国後1950年4月、中央戯劇学院院長(逝去まで)。中国文学芸術界連合会副主席。中国戯劇家協会副主席。中国舞踏家協会主席。
菊池 寛(きくち かん、旧字体: 菊池 寬、1888年〈明治… 菊池 寛(きくち かん、旧字体: 菊池 寬、1888年〈明治21年〉12月26日 - 1948年〈昭和23年〉3月6日)は、日本の小説家、劇作家、ジャーナリスト。本名の読みは「きくち ひろし」。実業家としても文藝春秋社を興し、芥川賞、直木賞、菊池寛賞の創設に携わった。帝国芸術院会員。 生家は高松藩の儒学者の家柄。幼少期より旺盛な読書家であった。京大英文科卒。芥川龍之介などの『新思潮』に参加。 著作に『屋上の狂人』(1916年)、『父帰る』(1917年)などの戯曲のほか、『忠直卿行状記』(1918年)、『藤十郎の恋』(1919年)(のち脚色)などの小説がある。人生観や思想を基盤とした明快な主題を打ち出した、いわゆるテーマ小説が特徴である。
島村 民蔵(しまむら たみぞう、1888年7月22日 - 1… 島村 民蔵(しまむら たみぞう、1888年7月22日 - 1970年11月15日)は、日本の劇作家、演劇研究家。 東京神田生まれ。号を甲鳥、柳水。開成中学校をへて1909年早稲田大学英文科卒。東京帝国大学独文科中退。坪内逍遥、大塚保治に師事。劇作、演劇研究をおこない、早稲田大学、日本大学で教える。戦後は静岡女子短期大学教授。
水上 瀧太郎(みなかみ たきたろう、1887年12月6日 -… 水上 瀧太郎(みなかみ たきたろう、1887年12月6日 - 1940年3月23日)は、日本の小説家、評論家、劇作家、実業家。本名阿部 章蔵。「三田文学」発表の「山の手の子」で出発。明治生命保険会社専務、大阪毎日新聞社取締役で長く実業と文学を両立した。強い道義性と文明批評性に特色がある。第2次「三田文学」復刊後は同誌の精神的主幹と呼ばれた。 東京市麻布区飯倉町三丁目(現・港区麻布台二丁目)に、明治生命の創業者阿部泰蔵の四男として生まれる。 小泉信三の同期生として共に御田小学校を経て慶應義塾普通部に入学。この頃から、泉鏡花の小説や与謝野寛・晶子の短歌に傾倒する。慶應義塾大学部理財科に進むが、文科の永井荷風や小山内薫の講義を熱心に聴く。
山本 有三(やまもと ゆうぞう、1887年〈明治20年〉7月… 山本 有三(やまもと ゆうぞう、1887年〈明治20年〉7月27日 - 1974年〈昭和49年〉1月11日)は、大正から昭和にかけて活躍した日本の小説家、劇作家、政治家。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。名誉三鷹市民。本名は山本 勇造。 人道的な社会劇作家として名を成し、『嬰児殺し』『坂崎出羽守』『同志の人々』などを発表。その後、小説に転じて『波』『女の一生』『真実一路』『路傍の石』などを書き、理想主義の立場から人生の意味を平明な文体で問いかけた作風で広く読まれた。 第二次世界大戦後は貴族院勅選議員。のち参議院議員として新仮名遣い制定など国語国字問題に尽力した。 呉服商の子として栃木県下都賀郡栃木町(現在の栃木市)に生まれる。
灰野 庄平(はいの しょうへい、1887年4月14日 - 1… 灰野 庄平(はいの しょうへい、1887年4月14日 - 1931年4月26日)は、日本の劇作家、演劇研究家。 新潟県刈羽郡中通村生まれ。1908年第二高等学校卒業、1912年東京帝国大学文学部哲学科卒業。在学中から演劇・詩・翻訳を発表。小山内薫の自由劇場に参加、卒業後丸見屋商店に入社、演劇研究を行う。1914年三木露風・増野三良・柳沢健と雑誌『未來』を創刊。1931年、急性肺炎のため死去。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。