三島 佑一(みしま ゆういち、1928年4月11日- 201… 三島 佑一(みしま ゆういち、1928年4月11日- 2016年1月5日)は、日本近代文学研究者・作家。四天王寺大学名誉教授。 大阪船場道修町生まれ。大阪大学付属薬学専門部、京都大学文学部国文科卒。四天王寺国際仏教大学教授をへて、名誉教授。はじめ友川泰彦の筆名を用い、その後も小説を書く一方、堀辰雄、谷崎潤一郎などを論じた。船場大阪を語る会会長。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
梅津 耕作(うめづ こうさく、1928年4月11日 - 19… 梅津 耕作(うめづ こうさく、1928年4月11日 - 1999年4月8日)は、日本の臨床心理学者。東京都生まれ。行動療法の導入者。長男は慶應義塾大学商学部教授の梅津光弘。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
黒沢 吉蔵(くろさわ きちぞう、1928年4月11日 - 2… 黒沢 吉蔵(くろさわ きちぞう、1928年4月11日 - 2009年2月22日)は、日本画家。 1928年に福島県郡山市で生まれる。東京芸術大学の日本画科を卒業し、1955年、1965年、1966年の3回にわたり新制作協会の日本画部新作家賞を受賞している。 2009年2月22日に心筋梗塞のため死去した。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
日野 昭(ひの あきら、1928年4月11日 - 2011年… 日野 昭(ひの あきら、1928年4月11日 - 2011年7月19日)は、日本の日本古代史学者。龍谷大学名誉教授。 岐阜県生まれ。龍谷大学卒、同大学院文学研究科修了、1980年「日本古代氏族伝承の研究」で龍谷大学文学博士。龍谷大学助教授、教授を務めた。1997年定年、名誉教授となる。門下に松倉文比古、水谷千秋がいる。
大沼 淳(おおぬま すなお、1928年〈昭和3年〉4月11日… 大沼 淳(おおぬま すなお、1928年〈昭和3年〉4月11日 - 2020年〈令和2年〉11月21日)は、学校法人文化学園の元理事長。日本私立大学協会会長。海軍兵学校76期修了生、元人事院官僚。 宗徳恵と正恵の着用していた韓服や化粧台・裁縫箱などの愛用品が文化学園服飾博物館に李親王からの寄贈を初代学長が受けて収蔵・展示していたが、2015年6月に日韓の文化的友好協力の増進を希望する大沼により徳恵の韓服のうち7点が長年の親交を持つ韓国人と協力して韓国文化財庁に寄贈された。
田中 誠一(たなか せいいち、1926年(大正15年)4月1… 田中 誠一(たなか せいいち、1926年(大正15年)4月11日 - 2003年(平成15年)4月8日)は、日本の政治家、第25・26代松山市長。 松山市出身。旧制愛媛県立松山商業学校(現 愛媛県立松山商業高等学校)を卒業後、1945年、第11師団(香川県善通寺市)に入隊。 終戦後の1946年、松山市役所職員に採用される。市民課長、企画管理部長を歴任し、助役を3回にわたり(1979年6月25日-1979年7月9日、1983年6月25日-1984年12月25日、1987年6月25日-1989年10月10日)務める。 1991年、5選を狙う当時の現職市長中村時雄に対抗して出馬し初当選。「しあわせひろがるまち松山」をスローガンに、その後2期8年間にわたって松山市長を務めた。
鷲見 康夫(すみ やすお、1925年4月11日 - 2015… 鷲見 康夫(すみ やすお、1925年4月11日 - 2015年10月12日)は、日本の抽象画家。 1925年(大正14年)、大阪府に生まれる。7歳のときに彦根に引っ越す。関西大学専門部経済科(旧制)、および立命館大学専門部経済科(旧制)を卒業後、大阪市立高等学校・中学校で美術と英語、社会科の教師となる。建設省建設大学校(建設美学)、大同工業大学(造形・意匠)、宝塚造形芸術大学、名古屋芸術大学(現代美術)、関西大学(絵画)などでも講師を務めた。1954年(昭和29)、中学の同僚の嶋本昭三の勧めにより第7回芦屋市展に作品を出典する。この時に吉原治良と知り合い、その後吉原に絵画を習うようになる。1955年(昭和30年)に具体美術協会に加入した。
杉山 英男(すぎやま ひでお、1925年(大正14年)4月1… 杉山 英男(すぎやま ひでお、1925年(大正14年)4月11日 - 2005年(平成17年)2月18日)は、日本における木質構造の学問・研究の草分けであり、第一人者。国内外で評価が高い。工学博士、農学博士。東京大学名誉教授。 1925年(大正14年)、静岡県生まれ。静岡県立静岡中学校卒業。第一高等学校、東京大学建築学科、東京大学大学院で学ぶ。1951年(昭和26年)より明治大学工学部、1973年(昭和48年)より東京大学農学部、1986年(昭和61年)より東京理科大学理工学部で教育・研究に当たる。日本建築学会賞、日本農学賞、米国林産学会業績賞などを受賞。正五位。瑞宝中綬章。 木質構造研究会(事務局:東京大学大学院農学生命科学研究科生物材料科学専攻 木質材料学研究室)では、「木材・木質材料・木質構造に関する研究・技術開発の推進に多大な貢献をした個人」を対象に、木質材料・木質構造技術研究基金賞:第一部門(杉山英男賞)を授与している。
三木 のり平(みき のりへい、1924年4月11日 - 19… 三木 のり平(みき のりへい、1924年4月11日 - 1999年1月25日)は、日本の俳優・演出家・コメディアン。日本喜劇人協会第5代会長。本名は田沼 則子()。長男は、コメディアンの小林のり一。 東京市日本橋区浜町(現:東京都中央区日本橋浜町)生まれ。母は待合「芳柳」を営んでいた。 1942年、旧制日本大学第一中学校を卒業。日本大学法文学部芸術学科に入学し、同期生には映画科に小沢茂弘・沼田曜一がいた。大学には当初画家を目指して入学したが、その後舞台美術に興味を持ったことで演劇学科に転籍し、1947年に同学科を卒業。 その後慰問公演の俳優に欠員が出てその穴埋めとして出演を頼まれたのを機に、新劇の世界に入ることになった。
中西 勝(なかにし まさる、1924年4月11日 - 201… 中西 勝(なかにし まさる、1924年4月11日 - 2015年5月22日)は日本の画家。洋画家。 画風は、第二次世界大戦後の人々の暮らしなどを抒情的、詩的に描き出す、時には戦争体験も踏まえたものが中心であったが、1965年(昭和40年)から妻とともに自動車で世界一周をすると人間の逞しさや生命の根源を窺うものへと変化した。 1924年(大正13年)、現在の大阪府大阪市城東区に生まれる。大阪府立四條畷中学校在学時から油絵を描き始め、保田龍門のアトリエなどでデッサンを学ぶ。帝国美術学校西洋画科へ入学するとともに川端画学校へも通った。1944年(昭和19年)学徒動員にて出征。中支那派遣軍の部隊に配属するも、逃走を試みるなど軍人としては問題があった。
角田 光男(かくた みつお、1924年4月11日 - )は、… 角田 光男(かくた みつお、1924年4月11日 - )は、日本の児童文学作家。 新潟県新津市(現:新潟市秋葉区)出身。高等小学校卒。独学で小学校教員となり、1964年上京、文筆生活にはいる。1972年地すべりの町に生きる人々を描いた『よみがえれ大地』(で注目される。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
渡辺 寿男(わたなべ としお、1921年4月11日 - 20… 渡辺 寿男(わたなべ としお、1921年4月11日 - 2008年11月19日)は、日本の経営者。山陽電気鉄道社長、会長を務めた。兵庫県神戸市出身。 1942年に京都帝国大学工学部機械工学科を卒業し、1945年に山陽電気鉄道に入社。1966年11月に取締役に就任し、1973年5月に常務、1977年6月に専務を経て、1981年6月に社長に就任。1986年6月に会長を経て、1991年6月から相談役を務めた。 2008年11月19日に死去。87歳没。
田村 芳朗(たむら よしろう、1921年4月11日 - 19… 田村 芳朗(たむら よしろう、1921年4月11日 - 1989年3月20日)は、日本の仏教学者・法華宗僧侶。東京大学名誉教授。千葉県長生郡長生村の浄教寺住職を務めた。東京大学文学部インド哲学仏教学研究室「日本仏教思想講座」を設けた。 1921年、大阪府大阪市に生まれた。1943年に第三高等学校を卒業し、東京帝国大学文学部梵文学印度哲学科に入学。同年12月に学徒出陣で応召入隊。 1946年に復学。1949年、東京大学文学部印度哲学科を卒業した。同大学大学院(旧制)に進み、1954年に修了。 1956年、東洋大学文学部助教授に就いた。1962年、学位論文『鎌倉新仏教の研究:日蓮思想の周辺』を東洋大学に提出して文学博士号を取得。
岩村 信二(いわむら しんじ、1920年(大正9年)4月11… 岩村 信二(いわむら しんじ、1920年(大正9年)4月11日 - 2014年(平成26年)7月25日)は、日本の牧師。 日本基督教団大森めぐみ教会第2代牧師、日本基督教団教育委員長、世界宣教協力委員長、東京同信会長、NCC家庭生活委員長、アジアキリスト教幼児教育者協議会(創立者)、日本キリスト教教育センター理事長、社会福祉法人牧人会理事(創立に参加)、日本聾話学校理事長、国際宗教教育学会会員、WCC男女協力委員、読売日本テレビ文化センター講師などを務めた。 1920年(大正9年)、東京赤坂霊南坂教会副牧師館にて岩村清四郎・安子の次男として生まれ、祖父小崎弘道牧師(同志社第2代社長)より幼児受洗。
面高 信俊(おもだか のぶとし、1920年4月11日 - 2… 面高 信俊(おもだか のぶとし、1920年4月11日 - 2010年2月13日)は、日本の実業家。王子製紙副社長、王子ティッシュ販売社長、新王子製紙特別顧問などを歴任。 鹿児島県川辺郡加世田村武田(川辺郡加世田町武田、加世田市武田を経て現南さつま市加世田武田)生まれ。鹿児島市へ移り上荒田で育つ。荒田尋常高等小学校(現鹿児島市立荒田小学校)、鹿児島県立第二鹿児島中学校(現鹿児島県立甲南高等学校)、陸軍予科士官学校を経て、1941年に陸軍航空士官学校を卒業し、少尉として陸軍入隊。1942年陸軍航空技術学校へ移り発動機の研究員。1944年陸軍航空士官学校教官。 戦後、1949年に東京工業大学工学部機械工学科を卒業し、日本パルプ工業へ入社。
楢崎 弥之助(ならざき やのすけ、1920年〈大正9年〉4月… 楢崎 弥之助(ならざき やのすけ、1920年〈大正9年〉4月11日 - 2012年〈平成24年〉2月28日)は、日本の政治家。本名は、楢崎 弥之祐(読みは同じ)。衆議院議員(11期)、社会民主連合書記長、同党副代表を歴任した。衆議院議員を務めた楢崎欣弥は長男。
越智 春美(おち はるみ、1920年4月11日 - 2001… 越智 春美(おち はるみ、1920年4月11日 - 2001年5月2日)は、日本の蘚苔類学者。ハリガネゴケ科の分類学的研究を行った。 北海道枝幸郡頓別村(現、浜頓別町)に生まれた。北海道旭川師範学校で学んだ。北海道時代に植物採集を行い、1100枚の標本を作った。1939年に広島高等師範学校に進み、1943年に広島文理科大学(広島大学の前身)生物学科に入学した。卒業研究では、戦時下の研究で、ヌルデに、ヌルデシロアブラムシ(Schlechtendalia chinensis)がに寄生してできる、虫こぶ(虫癭)をタンニンの増産のために増やす研究を行い、この研究でアブラムシの生態とコケの関係からコケの研究に入ることになった。
坂野 惇子(ばんの あつこ、1918年4月11日 - 200… 坂野 惇子(ばんの あつこ、1918年4月11日 - 2005年9月24日)は、日本の実業家。アパレルメーカーファミリア創業者として知られる人物である。 1918年4月11日、兵庫県神戸市出身で、父はレナウン創業者で昭和時代に貴族院議員を務めた佐々木八十八。 1931年に甲南高等女学校に入学、1936年に甲南高等女学校を卒業。東京市へ上京し、東京女学館高等科の聴講生として学んでいる。 1940年、惇子は坂野兼通(山口銀行総理事)の子息、坂野通夫と結婚し、1943年に長女を出産した。その際に外国人専門の乳幼児看護師から外国式の育児法を教示される。 第二次世界大戦の進行と共に夫が大日本帝国海軍の軍属としてインドネシアに赴任。
川合一郎(かわい いちろう、1918年4月11日 - 197… 川合一郎(かわい いちろう、1918年4月11日 - 1979年3月14日)は、日本の経済学者。専門は金融論(信用論)。マルクス経済学に基礎をおきながら、ケインズ経済学(体系)など幅広い視角から高度経済成長期のインフレーション問題などについて実証的・理論的な研究を行った。 1918(大正7)年、福岡県に生まれる。1936(昭和11)年3月、灘中学校卒業。同年4月大阪商科大学 (旧制)(大阪市立大学→現大阪公立大学)高等商業部入学。1939(昭和14)年、病気により同大学を中退。同年9月、大阪商科大学経済学研究所臨時雇い。その後、同所書記、同所研究員を経て、1949(昭和24)年大阪市立大学助教授、1957(昭和32)年同教授。
大嶋 正(おおしま ただし、1918年(大正7年)4月11日… 大嶋 正(おおしま ただし、1918年(大正7年)4月11日 - 1984年(昭和59年)3月3日)は、スペイン文学者、同志社大学商学部教授。専攻はスペイン古典文学。 福井県福井市出身。1940年、東京外国語学校スペイン語部文科を卒業する。日本郵船社員、都新聞記者などを経て、1962年に同志社大学商学部助教授となる。 1966年、給与所得者は過重な税負担を課せられているとして「サラリーマン税金訴訟」を起こした。一、二審で敗れ、1984年3月3日、最高裁上告中にS状結腸癌により死去。享年65歳。 1975年、『魔女セレスティナ』で第12回日本翻訳文化賞を受賞する。
渡辺 直治郎(わたなべ なおじろう、1917年4月11日 -… 渡辺 直治郎(わたなべ なおじろう、1917年4月11日 - 2003年8月9日 )は、日本の経営者。三菱製紙の社長・会長を務めた。 埼玉県出身。1940年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年に三菱銀行に入行した。1968年11月に取締役に就任し、1971年5月に三菱製紙に転じ、常務に就任し、1973年11月に専務、1977年6月に副社長を経て、1978年6月に社長に就任。1985年6月に会長に就任し、1992年6月に取締役相談役を経て、1997年6月に相談役に就任。 1989年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 2003年8月9日、心不全のために死去。86歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
高橋 英辰(たかはし ひでとき、1916年4月11日 - 2… 高橋 英辰(たかはし ひでとき、1916年4月11日 - 2000年2月5日)は、福島県福島市出身のサッカー選手、サッカー指導者。サッカー日本代表監督を務め、2009年に日本サッカー殿堂入りした。 刈谷町立亀城小学校(現・刈谷市立亀城小学校)4年の時にサッカーをはじめ、愛知県刈谷中学校(現:愛知県立刈谷高等学校)から早稲田高等学院を経て、早稲田大学に入学。在学中はア式蹴球部に所属した。 1936年(昭和11年)のベルリンオリンピックの日本代表は、当時日本最強だった早稲田のメンバーを中心に構成されたが、在学中の1940年に開催予定の東京オリンピックは幻となった。大学卒業後の1941年(昭和16年)に日立製作所サッカー部に入り、同年の明治神宮競技大会において実業団の部で準優勝を飾った。
太田 嘉四夫(おおた かしお、1915年4月11日 - 19… 太田 嘉四夫(おおた かしお、1915年4月11日 - 1994年3月16日)は、日本の動物学者・生態学者。 父方の祖父は太田惣五郎で、祖母は太田いと。叔父に医学者・文学者である木下杢太郎(本名太田正雄)と復興局疑獄事件で自殺した鉄道技術者の太田圓三がいる。太田の一族には社会運動や左翼運動に身を投じたものも多く、こうした環境下で少年期から特殊な影響を受けることを懸念した父が仙台の太田正雄(木下杢太郎)東北帝国大学教授にあずけた、という。
増田 盛(ますだ さかり、1913年4月11日 - 1991… 増田 盛(ますだ さかり、1913年4月11日 - 1991年9月23日)は、日本の政治家、参議院議員(3期、自由民主党)、農林官僚。 岩手県胆沢郡前沢町(現奥州市)出身。 岩手県立一関中学校、京都帝国大学法学部卒。大学在学中滝川事件に対する教授らへの対応に抗議し、無期停学処分を受ける。 1937年大学卒業後、農林省に入省。振興局長などを務めて退官。 1963年、岩手県知事選に出馬するも落選。衆議院議員選挙にも落選し、5年間浪人生活を送る。 1968年の第8回参議院議員通常選挙に当選してから、参議院議員を3期、農水・行政管理・北海道開発各政務次官を務めた。1986年の第14回参議院議員通常選挙には無所属で出馬したが落選し、政界から引退。
中村 吉三郎(なかむら きちさぶろう、1913年4月11日 … 中村 吉三郎(なかむら きちさぶろう、1913年4月11日 - 1994年8月3日)は、日本の法学者。専門は、明治法制史・民法。東京都出身。 1933年早稲田高等学院卒。早稲田大学法学部卒。同大学院(旧制)修了。1942年同専門部法律科専任講師(民法担当)。1950年同法学部教授(明治法制史担当)。1955年同大学院法学研究科教授(明治法制史担当)。1960年3月「明治法制史」にて早稲田大学で法学博士受く。その後、早稲田大学比較法研究所長、同法学会長を経て、1984年同定年退職。同名誉教授。1985年中央学院大学法学部客員教授(日本近代法制史担当)1989年同退職。 門下生に佐藤篤士らがいる。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
間中 喜雄(まなか よしお、1911年4月11日 - 198… 間中 喜雄(まなか よしお、1911年4月11日 - 1989年11月20日)は、日本の外科医、鍼灸師、医学博士。 神奈川県足柄下郡小田原町(現小田原市)出身。 1935年に京都帝国大学医学部を卒業し、同大学病院で外科を習得後、父の開業した間中外科医院を継ぐ。第二次世界大戦に医師として従軍、1946年に復員すると間中外科医院を医療法人温和会間中病院に改組した。 西洋医学の医師でありながら、東洋医学、特に鍼灸医学の普及発展に貢献し1950年には日本東洋医学会の設立に参加した。1957年に京都大学医学部で医学博士号を取得、小田原医師会会長に就任。その後、中国やアメリカ、フランスなどで講演活動を行う。
荒川 政司(あらかわ まさし、1911年4月11日 - 19… 荒川 政司(あらかわ まさし、1911年4月11日 - 1995年2月7日)は、日本の経営者。日野自動車社長を務めた。東京都出身。 1936年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に東京瓦斯電気工業に入社。1951年7月に日野自動車取締役に就任し、常務を経て、1969年11月に専務に就任し、1974年5月に社長に昇格。1983年6月に会長を経て、1985年6月から相談役を務めた。 1975年4月に藍綬褒章を受章し、1985年11月に勲二等瑞宝章を受章した。 1995年2月7日急性肺炎のために死去。83歳没。
三淵震三郎(みぶち しんざぶろう、1911年4月11日 - … 三淵震三郎(みぶち しんざぶろう、1911年4月11日 - 1989年3月20日)は、日本の保険事業家。三淵忠彦の三男。 1911年(明治44年)4月11日、元判事で元慶應大学講師、住友信託社員の父三淵忠彦と、母登喜の三男として、福島県に生まれる。 1935年(昭和10年)、早稲田大学法学部(ドイツ法)卒業。兄の三淵乾太郎は判事となっていた。 1941年(昭和16年)、大東京火災海上保険(現あいおいニッセイ同和損害保険)に入社し、1943年には徴収課主任。のち、常務を務めた。 妹の多摩は法学博士で大審院検事石渡敏一子息の石渡慎五郎(東京火災保険社員)と結婚した。 自動車保険料率算定会(自算会)の常務を務めた。
伊藤 一(いとう はじめ、1910年(明治43年)4月11日… 伊藤 一(いとう はじめ、1910年(明治43年)4月11日 - 1974年(昭和49年)9月26日)は、日本の政治家、内務官僚。1947年4月6日から1971年4月30日まで、24年の長きに渡って一宮市長を務めた(第5代-第10代)。一宮市名誉市民。 愛知県愛知郡鳴海町(現・名古屋市緑区)に生まれた。愛知県立一宮中学校(現・愛知県立一宮高等学校)卒業。1930年(昭和15年)3月、旧制第八高等学校卒業。1932年(昭和7年)10月、高等試験行政科試験に合格。1933年(昭和8年)に東京帝国大学法学部法律学科を卒業すると同時に内務省に入省し、地方事務官・厚生事務官・内務事務官を経験。陸軍司政官としてスマトラ島に渡り、ランボン州やパレンバンで産業部長を務め、現地で太平洋戦争終戦を迎えた。
井手 俊郎(いで としろう、1910年4月11日 - 198… 井手 俊郎(いで としろう、1910年4月11日 - 1988年7月3日)は、日本の脚本家。息子はプロ野球・元中日ドラゴンズ選手の井手峻。筆名(併用)=権藤利英、三木克巳。 佐賀県北波多村徳須江出身。祖父・井手豊助は1890年(明治23年)の公選で初代北波多村長となり、父の金次郎は政友会を北波多村に建て村議となった。生家は質店を営み、現存する当時の店舗兼住宅建物は2019年に国の登録有形文化財に登録されている。 旧制佐賀県立唐津中学(現・佐賀県立唐津東中学校・高等学校)を経て、官立東京高等工芸学校(現在の千葉大学工学部意匠科)を卒業する。 商業美術家としてパピリオ化粧品、アサヒビール、婦人画報社などの宣伝部嘱託を務めた。
井深 大(いぶか まさる、1908年(明治41年)4月11日… 井深 大(いぶか まさる、1908年(明治41年)4月11日 - 1997年(平成9年)12月19日)は、日本の電子技術者、実業家、教育者、弁理士。位階は正三位。 栃木県上都賀郡日光町(現在の日光市)出身。盛田昭夫とともにソニーの創業者の一人。 祖先は会津藩の家老であり、親戚には飯盛山で自刃した白虎隊の井深茂太郎や明治学院総理を歴任した井深梶之助、ハンセン病に一生を捧げカトリック看護師協会の会長を歴任した井深八重がいる。日露間で樺太・千島交換条約が締結された後、祖父基が公務員として千島列島を巡回し、明治11年に占守島を訪れているが、その際に現地で撮影された集合写真に収まっていた吏員の一人が祖父基であることを後に井深大自身が確認している。
山田 正孝(やまだ まさたか、1908年(明治41年)4月1… 山田 正孝(やまだ まさたか、1908年(明治41年)4月11日 - 1995年(平成7年)10月16日)は、日本の洋画家、教育者。長崎県長崎市出身。 代表作に「長崎の唐寺境内」、三部作「長崎の家」「長崎の丘」「長崎の庭」など。 1908年(明治41年)、長崎県長崎市に生まれる。 1933年(昭和8年)に大阪美術学校を卒業、同年第1回東光展に作品が入選。 1937年(昭和12年)より郷里長崎県に戻り、長崎市立商業学校の教諭を務める。 戦後の1950年(昭和25年)から1952年(昭和27年)にかけて3年連続で日展に出品した3部作「長崎の家」「長崎の丘」「長崎の庭」が全作入選した。 1966年(昭和41年)に東光会委員に推挙を受け、1969年(昭和44年)には東光会審査員を務める。
田川 基二(たがわ もとじ、1908年4月11日 - 197… 田川 基二(たがわ もとじ、1908年4月11日 - 1977年7月19日)は、日本の植物学者。シダ植物の分類学的な研究で知られる。 1908年、大阪府大阪市で、3人兄妹の次男として生まれた。兄は陶芸家の田川基一、弟は独文学者の田川基三。 1930年に京都帝国大学(現:京都大学)理学部に入学、植物学教室で小泉源一に師事した。同時期には大井次三郎や北村四郎も在籍していた。1933年に同大学を卒業し、大学院に進学、本格的にシダの研究を始めた。 1939年に理学部副手を嘱託されたため、大学院を退学、1942年に理学部講師となる。1953年に助教授、1970年に教授へと昇進し、研究、教育活動を行った。1972年に定年退職、京都大学名誉教授となった。
高橋 吉隆(たかはし よしたか、1908年4月11日 - 1… 高橋 吉隆(たかはし よしたか、1908年4月11日 - 1993年4月20日)は、日本の経営者。アサヒビール社長、会長を務めた。高橋龍太郎の長男。 愛媛県喜多郡内子町出身。1930年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年に住友銀行に入行。京都支店長、取締役、常務、専務などを歴任し、1967年3月に副頭取に就任した。1971年2月に朝日麦酒社長に就任し、1976年2月から1980年3月までに会長を務めた。金蘭会学園理事長も務めた。 1978年11月に勲三等旭日中綬章を受章した。 1993年4月20日急性呼吸不全のために死去。85歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
渡辺 光子(わたなべみつこ、1906年(明治39年)4月11… 渡辺 光子(わたなべみつこ、1906年(明治39年)4月11日 - 2003年(平成15年))は昭和期の歌手。他に和田春子等、多くの芸名がある。 東京都出身。東京高等音楽学院卒業後、東京音楽学校で教鞭をとる傍ら、レコード吹込みを行う。 1932年(昭和7年)には、7月に発売した「旅は青空」、和田春子名義で10月に発売したパーロフォンレコード「幌馬車の唄」、そして渡瀬春枝名義の11月発売「時雨ひととき」(池上利夫(松平晃)「忘られぬ花」B面)がそれぞれ別名で大ヒットを記録した。翌年も「街の流れ鳥」の大ヒットを飛ばすなど数々のヒット曲と共に、その別名の多さで知られた。 また、1937年(昭和12年)7月ポリドールレコード発売の「春の唄」も大ヒットする。
浜田 禎介(はまだ ていすけ、1905年〈明治38年〉4月1… 浜田 禎介(はまだ ていすけ、1905年〈明治38年〉4月11日 - 没年不明)は、日本の政治家、実業家。熱海市議会議員。相模屋社長。伊豆山観光協会長。 新潟県・須山斌二郎の三男。1927年、早稲田大学政治経済学部政治学科を卒業。東京大北電信会社に勤務。相模屋旅館・浜田三郎の養子となる。養父経営の相模屋旅館を継承する。1947年、熱海市議に当選。 教育委員長、早大稲門会会長、ユネスコ理事長に挙げられる。1948年、家業の相模屋を株式に改組と共に専務に就任。1955年、熱海商工会議所副会頭に就任。 宗教は真言宗。趣味は絵画、野球、乗馬、ゴルフ、カメラ、登山。住所は静岡県熱海市伊豆山。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
友近 晋(ともちか すすむ、1903年4月11日 - 196… 友近 晋(ともちか すすむ、1903年4月11日 - 1964年12月9日)は、日本の機械工学・物理学者。理学博士(東京帝国大学)。京都大学元理学部部長および大阪帝国大学理学部元教授。日本物理学会第14代会長。日本学術会議会員(1期)。国際理論応用力学連合日本代表。流体力学・航空物理学の第一人者の一人。 専門は、流体力学・流体機械、航空物理学。 愛媛県松山市生まれ。1926年東京帝国大学理学部物理学科卒業(指導教授は、理論物理学者の第一人者の一人で東京帝国大学航空研究所所長を務めた寺沢寛一)。同大学助手を経て、1929年同大学理学部助教授。1932年理学博士(東京帝国大学)。同大学航空研究所所員も務める。
大村 純毅(おおむら すみたけ、1903年(明治36年)4月… 大村 純毅(おおむら すみたけ、1903年(明治36年)4月11日 - 1974年(昭和49年)4月17日)は、日本の昭和時代の華族、陸軍軍人、政治家(第5代〜第8代大村市長)。大村家第33代当主。大村市名誉市民。 父大村純英が陸軍軍人として赴任中の静岡県静岡市で誕生、ほどなく東京へ移る。 学習院初等科で院長であった乃木希典の薫陶を受け、学習院中等科を経て陸軍中央幼年学校へ入り、1924年(大正13年)7月に陸軍士官学校本科卒業(第36期)。同年10月に砲兵少尉任官。以後、砲兵部隊中心に軍歴を重ねる。最終的には野戦重砲第八連隊付を経て中佐に昇進した。1933年(昭和8年)6月、父の死没に伴い伯爵を襲爵。
立汐 唯五郎(たてしお ただごろう、1903年4月11日 -… 立汐 唯五郎(たてしお ただごろう、1903年4月11日 - 1935年4月28日)は、青森県西津軽郡木造町(現在のつがる市)出身で振分部屋に所属した元大相撲力士。本名は藤本 唯五郎(旧姓長谷川)。最高位は西十両5枚目。兄は幕内力士の立汐祐治郎。 浪ノ音の振分部屋に入門。1918年5月場所で「鷹城山」の四股名で初土俵を踏む。1920年1月場所「鷹ヶ汐」に改名。1924年5月場所から兄の四股名の「立汐」を名乗った。1927年5月場所新十両。10月場所では幕下のままのため、東京場所と地方場所では番付の地位が異なるという珍現象を起こした。十両で勝ち越すことはなく、1930年3月場所限り廃業した。十両在位は4場所に終わり、兄に続く入幕は果たせなかった。
金子 みすゞ(かねこ みすず、本名:金子 テル〈かねこ テル… 金子 みすゞ(かねこ みすず、本名:金子 テル〈かねこ テル〉、1903年〈明治36年〉4月11日 - 1930年〈昭和5年〉3月10日)は、大正時代末期から昭和時代初期にかけて活躍した日本の童謡詩人。約500編の詩を遺した。没後半世紀はほぼ忘却されていたが、1980年代以降に脚光を浴び、再評価が進んだ。 西條八十に激賞された幻の童謡詩人とされている。遺稿集が発掘され、出版(1984年)、深く優しい世界観が広く知られた。代表作に「私と小鳥と鈴と」「大漁」など。 山口県大津郡仙崎村(現:長門市仙崎)で、父・金子庄之助、母・ミチとの間に生まれる。郡立深川高等女学校(現:山口県立大津緑洋高等学校)卒業。
小林 秀雄(こばやし ひでお、1902年(明治35年)4月1… 小林 秀雄(こばやし ひでお、1902年(明治35年)4月11日 - 1983年(昭和58年)3月1日)は、日本の文芸評論家、編集者、作家。
東畑 謙三(とうはた けんぞう、1902年4月11日 - 1… 東畑 謙三(とうはた けんぞう、1902年4月11日 - 1998年4月29日)は、日本の建築家。 三重県一志郡豊地村(現:松阪市)の地主の家に生まれた。東畑吉之助の三男。 1923年に第三高等学校理科乙類、1926年に京都帝国大学工学部建築学科を卒業。1932年に東畑謙三建築事務所を設立。以後、武田五一の弟子として関西の建築業界を牽引した。日本建築家協会名誉会長。日本建築学会名誉会員。
山口 茂吉(やまぐち もきち、1902年4月11日 - 19… 山口 茂吉(やまぐち もきち、1902年4月11日 - 1958年4月29日)は、昭和期の日本の歌人。 兵庫県多可郡杉原谷村清水(現・多可町)に生まれる。1924年(大正13年)に中央大学商学部を卒業し、明治生命東京本社に入社。当時、会社の幹部として作家の水上瀧太郎がいて、その感化を受けることが多かったという。同年「アララギ」入会、島木赤彦に学び赤彦が没後は斎藤茂吉に師事。斎藤茂吉・土屋文明の助手として「アララギ」の編輯・校正に携わることになる。1944年(昭和19年)には明治生命を辞職し、株式会社住友本社に入社する。1946年(昭和21年)に東京歌話会結成。1948年「アザミ」創刊主宰。1957年(昭和32年)以降は『斎藤茂吉全集』の編集校訂に携わる。
小林 秀雄(こばやし ひでお、1902年〈明治35年〉4月1… 小林 秀雄(こばやし ひでお、1902年〈明治35年〉4月11日 - 1983年〈昭和58年〉3月1日)は、日本の文芸評論家、編集者、作家、美術・古美術収集鑑定家。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 昭和文壇に大きな影響を与えた文芸評論家であり、日本における本格的な近代批評の創始者とみなされている。アルチュール・ランボー、シャルル・ボードレールなどフランス象徴派の詩人たち、ドストエフスキー、幸田露伴・泉鏡花・志賀直哉らの作品、ベルクソンやアランの哲学思想に影響を受ける。代表作に『無常といふ事』(1942年 - 1943年、1946年刊)、『ドストエフスキイの生活』(1935年 - 1937年)、『モオツァルト』(1946年)、『ゴッホの手紙』(1951年 - 1952年)などがあり、晩年には本居宣長などの学問大系を思索した『本居宣長』(1977年完成)でも高い評価を受けた。
鹿岡 円平(かのおか えんぺい、1901年(明治34年)4月… 鹿岡 円平(かのおか えんぺい、1901年(明治34年)4月11日 - 1944年(昭和19年)11月5日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 福島県出身。医師・鹿岡貫治の四男として生れる。旧制石川中学校を経て、1921年7月、海軍兵学校(49期)を卒業。皇族2名を除いた席次は172名中5番。翌年5月に海軍少尉任官。海軍水雷学校高等科を首席卒業し、「加古」分隊長、アメリカ駐在(イェール大学)、「夕霧」航海長、「夕凪」水雷長、「羽黒」分隊長などを経て、1934年7月、海軍大学校(甲種32期)を首席で卒業。 軍令部出仕、「嵯峨」艦長、軍令部第1部第2課部員、第2根拠地隊参謀、海軍省軍務局第1課局員などを歴任し東條英機首相秘書官となった。
秋山 六郎兵衛(あきやま ろくろうべえ、1900年4月11日… 秋山 六郎兵衛(あきやま ろくろうべえ、1900年4月11日 - 1971年8月23日)は、日本のドイツ文学者。専門は、E.T.A.ホフマンの『牡猫ムルの人生観』の翻訳、ヘルマン・ヘッセの研究。 香川県三豊郡下高瀬村(現 三豊市三野町)出身。旧制香川県立三豊中学校、旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学文学部独文科卒業。 東京帝国大学在学中、同ドイツ文学専攻の手塚富雄等と第8次、第9次「新思潮」に参加。1926年(大正15年)旧制福岡高等学校にドイツ語教師として赴任。1936年(昭和11年)10月、同高等学校の同僚の浦瀬白雨・大塚幸男等と文芸同人誌「九州文壇」を創刊。1937年(昭和12年)8月、「九州文壇」を廃刊し、「九州文学」(第1期)を創刊。
中村 汀女(なかむら ていじょ、1900年(明治33年)4月… 中村 汀女(なかむら ていじょ、1900年(明治33年)4月11日 - 1988年(昭和63年)9月20日)は、日本の俳人。本名、破魔子(はまこ)。星野立子・橋本多佳子・三橋鷹女とともに4Tと呼ばれた、昭和を代表する女流俳人。 高浜虚子に師事。「ホトトギス婦人句会」で活躍。俳誌「風花」を創刊、主宰。女流俳人の第一人者として、ラジオ、テレビなどを通し、俳句を家庭婦人層へ普及させた。句集に『春雪』(1940年)、『紅白梅』(1968年)など。 熊本県出身。熊本県飽託郡画図村(現熊本市東区江津1丁目)に斉藤平四郎・テイの一人娘として生まれる。平四郎は地主で、村長も務めた。1912年(大正元年)、熊本県立高等女学校(現熊本県立第一高等学校)に入学。
水野 一夫(みずの かずお、1900年4月11日 - 199… 水野 一夫(みずの かずお、1900年4月11日 - 1994年8月28日)は、日本の経営者。宇部興産(現・UBE)社長、会長を務めた。山口県防府市出身。 1938年に東京帝国大学法学部を卒業。 1942年に宇部興産(現・UBE)取締役に就任し、取締役、総務部長、常務、専務を経て、1961年11月に副社長に就任し、1977年12月から1983年6月までに社長を務め、1983年6月から取締役相談役を務めた。 経団連常任理事なども歴任した。 1966年に藍綬褒章を受章し、1972年に勲三等旭日中綬章を受章し、1980年に勲二等旭日重光章を受章した。 1994年8月28日、心不全のために死去。94歳没。
会田 軍太夫(あいだ ぐんだゆう、1900年4月11日 - … 会田 軍太夫(あいだ ぐんだゆう、1900年4月11日 - 1981年5月10日)は、日本の物理学者、化学者、評論家である。応用物理学を専門とし、東京理科大学や東海大学で教鞭を執り、日本の科学技術の発展に貢献した。 会田軍太夫は1900年(明治33年)4月11日に宮城県で生まれた。1923年(大正12年)に東京物理学校(現在の東京理科大学)を卒業した。 卒業後、岩城硝子研究所の所長を務め、実業界で活躍した。その後、学術の世界に戻り、東京理科大学および東海大学の教授を歴任し、後進の指導にあたった。また、日本眼鏡専門学校の校長も務めている。 評論家としての顔も持ち、日本ペンクラブの会員でもあった。科学技術に関する幅広い知見を基に、多岐にわたる評論活動を展開した。
堀内 唯生(ほりうち ただお、1900年4月11日 - 19… 堀内 唯生(ほりうち ただお、1900年4月11日 - 1981年12月25日)は、日本の洋画家である。