川越 博(かわごえ ひろし、1911年(明治44年)2月17… 川越 博(かわごえ ひろし、1911年(明治44年)2月17日 - 1968年(昭和43年)11月9日) は、昭和期の新聞記者、政治家、秘書官。衆議院議員(2期)。 宮崎県北諸県郡都城町(現都城市)で生まれた。1932年(昭和7年)青山学院高等学部(現青山学院大学)英語師範科を卒業した。 報知新聞社に入社し政治部記者となる。その後、東亜研究所嘱託、日本興亜同盟書記、輿論科学研究所理事、日向青年同志会常任委員などを務めた。 戦後、1946(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙に宮崎県全県区から日本協同党公認で出馬して落選したが、甲斐政治の辞職に伴い同年7月に繰上補充となった。1947(昭和22年)4月の第23回総選挙で宮崎県第2区から国民協同党公認で出馬して再選され、衆議院議員に連続2期在任した。
和井田 要(わいだ かなめ、1911年〈明治44年〉2月17… 和井田 要(わいだ かなめ、1911年〈明治44年〉2月17日 - 1967年〈昭和42年〉6月9日)は、日本の書家である。 青森県三戸郡八戸町(現在の八戸市)に生まれ、八戸水産学校中退後に第二次世界大戦中は従軍する。戦後は復員したことにより書家として活動師匠を持たずに独自の作風を執筆し、1949年(昭和24年)に前衛書道的な甲骨文字の書体を発表した。その後は和井田は従来の紙や墨を用いずに、ガラスやキャンバスにアクリル絵具やラッカー等を用いる等日本の書家としては極めて珍しい作風の作品を制作した事により名を馳せる。 後に自身の作品は毎日書道展やニューヨーク展、ヨーロッパ展等に出品され日本のみならず海外にも注目を浴びた。
大倉 弘(おおくら ひろむ、1910年(明治43年)2月17… 大倉 弘(おおくら ひろむ、1910年(明治43年)2月17日 - 2005年(平成17年)12月6日)は、日本の実業家。月桂冠株式会社元代表取締役会長・相談役。 1910年(明治43年)2月17日、大倉恒吉の五男として京都府京都市に生まれる。 1934年(昭和9年)3月、神戸商業大学(現・神戸大学)を卒業後、翌年の1935年(昭和10年)5月、第一銀行大阪支店に入行する。 1938年(昭和13年)4月、退行し、同年5月大倉常吉商店(現・月桂冠)株式会社に入社、同年6月取締役に就任。 1945年(昭和19年)2月、大倉酒造株式会社に社名変更、専務取締役、副社長を経て、1970年(昭和45年)6月社長に就任。
阿武 喜美子(あんの きみこ、1910年2月17日 - 20… 阿武 喜美子(あんの きみこ、1910年2月17日 - 2009年10月10日)は、日本の化学者、専門は生物化学。新しいムコ多糖類を多数発見し、その化学構造を決定した。キシリツト及びキシリタンに関する研究で農学博士(東京大学)(1949年)。東京女子高等師範学校教授、オハイオ州立大学客員研究員、お茶の水女子大学教授を歴任。 山口県生まれ。東京女子高等師範学校(1932年卒)を経て、1937年東京文理科大学化学科卒。1938年東京帝国大学大学院への入学が許可され、日本初の女性大学院生となった。1943年 東京帝国大学大学院修了(女性としては東大初)。1944年母校の東京女子高等師範学校教授。1950年 - 1953年、オハイオ州立大学客員研究員として渡米し、M.L.ウォルフロム教授のもとで研究。
柴田 治三郎(しばた じさぶろう、1909年2月17日 - … 柴田 治三郎(しばた じさぶろう、1909年2月17日 - 1998年7月27日)は、日本の文学研究者、ドイツ文学者、東北大学名誉教授。
小林 宏治(こばやし こうじ、1907年 <明治40年> 2… 小林 宏治(こばやし こうじ、1907年 <明治40年> 2月17日 - 1996年 <平成8年> 11月30日)は、日本の実業家。元日本電気(NEC)社長、会長。位階は正三位。 山梨県大月市出身。1925年に山梨県立都留中学校(現山梨県立都留高等学校)を卒業した後、旧制松本高校理科甲類、東京帝国大学工学部電気工学科を卒業し、1929年に日本電気に入社する。常務、専務、副社長を経て、1964年社長となる。小林が社長の時代に、NECは通信とコンピュータ、半導体を主軸とした総合電器メーカーへと発展し、「NEC中興の祖」と呼ばれた。1976年会長に就任。父親、藤本氏から小林氏に入婿(本姓 藤本氏)[要出典]。
久保田 藤麿(くぼた ふじまろ、1907年(明治40年)2月… 久保田 藤麿(くぼた ふじまろ、1907年(明治40年)2月17日 - 1993年(平成5年)5月8日)は、日本の政治家。参議院議員(1期)。衆議院議員(2期)。 1907年(明治40年)、三重県鈴鹿市にて出生。 旧制福岡高校を経て、東京大学法学部政治学科卒業。文部省各課長。内閣総理大臣・文部大臣秘書官。文部省施設局長・管理局長・調査局長。自由民主党の文教調査副会長となり万国著作権条約会議・諸外国の教育事情を視察するために欧米各国に出張する。九州大学助教授、日本短波研究所理事長も務めた。 1955年(昭和30年)の第27回衆議院議員総選挙と1958年(昭和33年)の第28回衆議院議員総選挙に三重1区から無所属で出馬するが、落選。
呉 泰次郎(ごう たいじろう、1907年〈明治40年〉2月1… 呉 泰次郎(ごう たいじろう、1907年〈明治40年〉2月17日 - 1971年〈昭和46年〉7月1日)は、日本の作曲家である。叔父は小説家の村井弦斎。校歌等、学校歌の作曲なども多く手がけ、代表的なものに日本体育大学の校歌や北海道帝国大学桜星会の歌等がある。 大連で実業家の次男として生まれた。家は代々雅楽を行い、父は篳篥の名人で大連雅楽会長であった。母は箏を奏した。姉はピアノを弾き、チェリストの彭城昌平と結婚した関係で、泰次郎は8歳の頃から義兄にチェロを習った。また泰次郎の家は兄弟7人とも楽器を奏し、一家で合奏することもしばしばであった。 13歳より5年間、ピアノを大連音楽学校長の園山民平に、歌を東海林久子、チェロをスカルスキーに学ぶ一方で作曲を独学し、多くの習作を書いた。
奥山 儀八郎(おくやま ぎはちろう、1907年(明治40年)… 奥山 儀八郎(おくやま ぎはちろう、1907年(明治40年)2月17日 - 1981年(昭和56年)10月1日)は、日本の木版画家。山形県出身。主に商業広告版画・創作版画を手がけた。広告版画のパイオニア。 1907年山形県西村山郡寒河江町(現・寒河江市)に生まれる。子供の頃から木版画に親しみを持ち、1928年に日本創作版画協会展に初入選を果たした。同年その技量を買われて日本毛織宣伝部の広告作家として数々の商業広告を手がけ、後に大高重治とともにニッカウヰスキーのポスター・ウイスキーラベルのデザインも木版画で制作した。1936年に浮世絵研究家の石井研堂に師事し、伝統的技法の復興に注力した。また、自らのコーヒー好きが高じて歴史等を研究しコーヒーの多様な呼び方を表した木版画「かうひい異名熟字一覧」を制作した。
志村 立美(しむら たつみ、1907年2月17日 - 198… 志村 立美(しむら たつみ、1907年2月17日 - 1980年5月4日)は、日本画家、挿絵画家、美人画家。群馬県高崎市生まれ。本名 仙太郎。 群馬県高崎市新町甲百番地の有馬屋質店の長男として生まれ、その後横浜市中区へ移住する。神奈川県立神奈川工業高等学校図案科を中退して、1924年(大正13年)山川秀峰に入門美人画を修める。当時、山川秀峰は鏑木清方同門であった伊東深水と共に、挿絵での活動もしていた。岩田専太郎、志村立美と小林秀恒は、挿絵界の「三羽烏」。山川秀峰の推薦を受け、立美も挿絵での活動を行うようになる。また、金田信武の株式会社金田商店から、新版画と呼ばれている木版画も描いている。 肉筆画も鏑木清方主宰の郷土会、師である山川秀峰、伊東深水らの主宰する青衿会等へ出品をする。
永瀬 清子(ながせ きよこ、1906年(明治39年)2月17… 永瀬 清子(ながせ きよこ、1906年(明治39年)2月17日 - 1995年(平成7年)2月17日)は、日本の詩人。岡山県赤磐郡豊田村熊山(現赤磐市)出身。幼年期を石川県金沢市で過ごし、愛知県立第一高等女学校(現愛知県立明和高等学校)卒業。本名は永瀬清。 高等女学校在学中から佐藤惣之助に師事し『詩之家』同人となる。1930年、詩集『グレンデルの母親』を発表。1940年、その名声を得た詩集『諸国の天女』の序文は高村光太郎によるもので、生涯敬慕した宮沢賢治の追悼会での出会いが縁だった。またこの詩集によって、山内義雄や宮本百合子らに認められ、随一の女性文学者たちの仲間入りを果たした。1945年岡山県に帰り、農業に従事しながら詩作を行う。
田島 孝寛(たじま たかひろ、1906年2月17日 - 19… 田島 孝寛(たじま たかひろ、1906年2月17日 - 1994年7月22日)は、日本の経営者。三井生命保険社長を務めた。 東京都出身。1931年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に三井生命保険に入社した。1954年5月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1966年5月に副社長に就任し、1971年5月には社長に就任。1981年7月に会長に就任し、1987年7月に取締役相談役を経て、1989年から相談役を務めた。 1977年5月に勲三等瑞宝章を受章。 1994年7月22日急性心不全のために死去。88歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
藤田 貞次 (ふじた ていじ、1905年2月17日 – 19… 藤田 貞次 (ふじた ていじ、1905年2月17日 – 1976年11月8日)は、日本のジャーナリスト。 東京書籍取締役、東京教育研究所理事。 明治38年(1905年)福井県遠敷郡雲浜村(現・小浜市)西山手で出生。小浜市立雲浜小学校、旧制小浜中学校、第四高等学校文科を経て、京都大学文学部哲学科、同大学院卒業。 昭和7年 – 朝日新聞社(大阪)入社、学芸部員、昭和22年から23年3月まで図書編集部次長。 昭和24年 – 東京書籍株式会社取締役、編集部長。 昭和28年 – 東京教育研究所理事、専務理事。昭和39年12月 – 東京書籍株式会社退任。
田辺 友太郎(たなべ ともたろう、1905年(明治40年)2… 田辺 友太郎(たなべ ともたろう、1905年(明治40年)2月17日 - 1970年(昭和45年)3月3日)は、日本の経営者、銀行家。北陸銀行頭取を務めた。 富山県出身。1929年(昭和4年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業。電力会社を興し、商工会議所会頭を務めた田辺貫一と、西田牧三の三女の和子の次男として生まれる。1935年7月、祖父甚三郎や父が務めた十二銀行取締役に就任し、1957年3月には北陸銀行頭取に就任。1946年5月から1957年3月までに東洋精機社長を務めた。妻は密田良太郎の次女の節子。 1970年3月3日、尿毒症のために死去。65歳没。墓所は富山の光厳寺にある。
渡辺 浩太郎(わたなべ こうたろう、1904年(明治37年)… 渡辺 浩太郎(わたなべ こうたろう、1904年(明治37年)2月17日 - 1994年(平成6年)11月28日)は、日本の政治家。新潟市長、全国市長会会長。
吉村 正一郎(よしむら しょういちろう、1904年2月17日… 吉村 正一郎(よしむら しょういちろう、1904年2月17日 - 1977年12月9日)は、日本のフランス文学者・文芸評論家・翻訳家。 滋賀県甲賀郡水口町(現・甲賀市)に、のち広島市長の吉村平造(吉村胆南)の長男として生まれる。弟に映画監督の吉村公三郎がいる。1925年京都帝国大学文学部仏文科入学、1928年同卒業、朝日新聞社に入社、京都支局長、パリ特派員、論説委員を歴任し、「天声人語」を書く。生島遼一の妹悦子と結婚するが先立たれた。戦後1959年に京都市助役、1968年に奈良県教育委員長となる。1976年に帝塚山学園長となり、在職中にガン性腹膜炎のため自宅で死去した。 逝去時には、東大寺信徒総代、大仏奉讃会副理事長を務めていた。
伊藤 彦造(いとう ひこぞう、1904年(明治37年)2月1… 伊藤 彦造(いとう ひこぞう、1904年(明治37年)2月17日 - 2004年(平成16年)9月9日)は、日本の画家、イラストレーター。大正から昭和にかけて活動、主に挿絵を描き細密なペン画で一世を風靡した。享年100歳。 大分県大分市出身。剣豪、伊藤一刀斉の末裔に生まれ、自らも剣の師範であった。朝日新聞東京本社で勤務中に同社の専属挿絵画家右田年英からイラストを学び、英明と号して改めて画家を目指した。その後、結核を患い帰省、日本画家の橋本関雪に師事する。 1925年(大正14年)に、『大阪朝日新聞』掲載の番匠谷英一作『黎明』の挿絵でデビュー、同年の行友李風の小説『修羅八荒』の挿絵で好評を得た。若くして時代ものの挿絵画家として第一人者となった。
松尾 靜磨(まつお しずま、1903年2月17日 - 197… 松尾 靜磨(まつお しずま、1903年2月17日 - 1972年12月31日)は運輸省航空庁長官および日本航空社長・会長を務めた人物。 佐賀県杵島郡若木村(後の武雄市)出身。 連合国軍最高司令官総司令部によって航空事業が壊滅的な打撃を受けた中、民間航空の再建に取り組み、フラッグ・キャリアの日本航空の設立に実現したことから戦後日本航空業界の父と言われる。 杵島郡若木村(後の武雄市若木町)に4人兄弟の次男として生まれた。松尾家は代々庄屋を務める旧家であり、靜麿の祖父・安兵衛は土木建築業・松尾組(現、松尾建設)を創業、更に佐賀県内の各種企業の経営に参画するなど地元財界にて重きを成した。 旧制佐賀中学校(現・佐賀県立佐賀西高等学校)、旧制佐賀高等学校(現・佐賀大学)を経て、九州帝国大学工学部機械工学科卒業。
松尾 靜麿(まつお しずま、1903年2月17日 - 197… 松尾 靜麿(まつお しずま、1903年2月17日 - 1972年12月31日)は、元運輸省航空庁長官および元日本航空社長・会長。佐賀県杵島郡若木村(後の武雄市)出身。連合国軍最高司令官総司令部によって航空事業が壊滅的な打撃を受けた中、民間航空の再建に取り組んだことから戦後日本航空業界の父と言われる。
和田 博雄(わだ ひろお、1903年〈明治36年〉2月17日… 和田 博雄(わだ ひろお、1903年〈明治36年〉2月17日 - 1967年〈昭和42年〉3月4日)は、日本の政治家、農林官僚。農林大臣(第4代)、経済安定本部総務長官(第4代)、物価庁長官(第4代)。衆議院議員(6期)、参議院議員(1期)。 旧制中学校教員の息子として埼玉県川越市に生まれる。父が岡山県の中学校に転任したため、尋常小学校から旧制高校(六高)まで学校教育を岡山県で受ける。 旧制第六高等学校を経て、東京帝国大学法学部に進み、1925年卒業。後に企画院事件で検挙された者には社会主義運動出身者が多く、また和田自身は統制経済派であったが、社会主義・左翼系の学生運動に参加したことはない。 農林省入省。
白洲 次郎(しらす じろう、1902年〈明治35年〉2月17… 白洲 次郎(しらす じろう、1902年〈明治35年〉2月17日 - 1985年〈昭和60年〉11月28日)は、日本の実業家。初代貿易庁長官。連合国軍占領下の日本で吉田茂の側近として活躍し、終戦連絡中央事務局や経済安定本部の次長を経て、商工省の外局として新設された貿易庁の初代長官に就任後、通商産業省(現・経済産業省)を創設した。吉田政権崩壊後は、実業家として東北電力の会長を務めるなど多くの企業役員を歴任した。 白洲次郎は1902年(明治35年)2月17日、貿易商白洲文平・芳子夫妻の二男として生まれた。祖父に役人、実業家、神戸女学院の創設者の一人である白洲退蔵がいる。白洲家は元三田藩の士族の出である。
石川 秀道(いしかわ しゅうどう、1902年〈明治35年〉2… 石川 秀道(いしかわ しゅうどう、1902年〈明治35年〉2月17日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。芸名の読みは「いしかわ ひでみち」と表記されることもある。本名は石川 秀道(いしかわ ひでみち)。新派の井上正夫門下を経て映画界に転向、島津保次郎の撮影助手および助監督を経て俳優となり、東亜キネマ甲陽・等持院撮影所の現代劇で主役を張り、トーキー以降は時代劇に転じた。 1902年(明治35年)2月17日、東京市日本橋区久松町(現在の東京都中央区日本橋久松町)の米穀商「三州屋」の三男として生まれる。1909年(明治42年)に家業が思わしくなく養子に出されるが、その後養子先を逃亡、1918年(大正7年)、16歳のときに映画界の道を志して井上正夫門下に入る。
清水 康雄(しみず やすお、1901年2月17日 - 196… 清水 康雄(しみず やすお、1901年2月17日 - 1966年9月9日)は、日本の経営者。清水建設元社長。東京都出身。 1923年に早稲田大学専門部政治経済学科を卒業し、同年に清水組に入社。 1937年に取締役に就任し、1940年には社長に昇格。 1956年に藍綬褒章を受章。 1966年9月9日肺炎のために死去。65歳没。
安積 得也(あずみ とくや、1900年(明治33年)2月17… 安積 得也(あずみ とくや、1900年(明治33年)2月17日 - 1994年(平成6年)7月27日)は、日本の内務官僚、社会評論家、詩人。官選県知事。 東京府(現・東京都)出身。安積得時の二男として生まれる。第一高等学校を卒業。1923年12月、高等試験行政科試験に合格。1924年、東京帝国大学法学部を卒業。内務省に入省し京都府属となる。 以後、社会局事務官、中央大学講師、地方警視、愛知県経済部長などを経て、東京府経済部長となる。 1943年7月、栃木県知事に就任。1944年11月、内閣綜合計画局部長に転じた。東海北陸地方副総監を経て、1945年9月、岡山県知事に就任。戦後初の県予算を編成したが、1946年1月、公職追放となり知事を辞した。
美野 順二郎(みの じゅんじろう、1900年 <明治33年>… 美野 順二郎(みの じゅんじろう、1900年 <明治33年> 2月17日 - 1981年 <昭和56年> 6月23日)は、日本の経営者。住友倉庫社長を務めた。位階は従四位。 石川県松任市出身。1925年に東京商科大学を卒業し、同年に住友倉庫に入社。1947年2月に取締役、1949年8月に常務、1954年5月に専務を経て、1956年1月には社長に就任。1965年5月に会長に就任し、1969年11月に相談役に退いた。 1964年11月に藍綬褒章を受章し、1970年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 1981年6月23日老衰のために死去。81歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
日下田 武(ひげた たけし、1900年(明治33年)2月17… 日下田 武(ひげた たけし、1900年(明治33年)2月17日 - 1966年(昭和41年)1月3日)は、昭和時代の政治家。実業家。大日本帝国陸軍軍人。衆議院議員。栃木県芳賀郡益子町長。 日下田実の長男として、栃木県芳賀郡益子町に生まれる。1924年(大正13年)早稲田大学政治経済学部経済科卒業。陸軍に入り、満州事変、支那事変に従軍し主計中尉に進んだ。 益子町長、栃木県森林組合連合会長、栃木県地方木材社長を歴任した。 1942年(昭和17年)4月の第21回衆議院議員総選挙では栃木県第2区から翼賛政治体制協議会推薦で出馬し当選。臨時召集を受け一時議員を退職し、1945年(昭和20年)8月25日に召集が解除され議員に復職した。
小林 中(こばやし あたる、1899年〈明治32年〉2月17… 小林 中(こばやし あたる、1899年〈明治32年〉2月17日 - 1981年〈昭和56年〉10月28日)は、日本の実業家。初代日本開発銀行(現・日本政策投資銀行)総裁、日本航空会長、東急電鉄社長、富国生命保険社長などを歴任。戦後の財界において影の財界総理と称されるほどの実力者であった。愛称はコバチュー。初代石和町名誉町民。位階は正三位。勲等は勲一等旭日大綬章。 1899年(明治32年)2月17日、山梨県中巨摩郡源村(現・南アルプス市)の村長を務めた矢崎貢と、小林伝右衛門の三女ふくの間に、次男として出生。伝右衛門の要請で両親とともに石和町に移り、同年12月に伝右衛門の養子となった。1901年(明治34年)9月には小林家の家督を相続した。
中原 綾子(なかはら あやこ、1898年2月17日 - 19… 中原 綾子(なかはら あやこ、1898年2月17日 - 1969年8月24日)は、大正時代から昭和時代にかけての女流歌人。 旧柳河藩士であった曽我祐保の次女として、父の任地・長崎に生まれる。父の転任に従って大阪・神戸・朝鮮へと移るが、主として東京に在住する。1915年(大正4年)に東洋高等女学校を卒業後、作歌を始めていたが1918年(大正7年)から与謝野晶子に師事し、新詩社同人としてその歌を『明星』に発表するようになる。同じく『明星』に参加していた高村光太郎と親交があり、統合失調症を病んだ妻・智恵子の自宅療養と介護に忙殺され疲弊した光太郎は、度々中原へ手紙を送っている 。 1929年(昭和4年)6月、吉井勇・秦豊吉らとともに文芸誌『相聞』(後に『スバル』と改称)を公刊、詩や戯曲を発表する。
本田 弘人(ほんだ ひろと、1898年2月17日 - 197… 本田 弘人(ほんだ ひろと、1898年2月17日 - 1978年4月10日)は、日本の教育者。官僚。 1898年、熊本県に生まれる。1916年、第五高等学校一部甲類に進学、1922年、東京帝国大学法学部卒業後、京都帝国大学文学部哲学科に入学。1925年に大学院に進学、同時に龍谷大学講師となった。1926年、福岡県女子専門学校教授、1928年に旧制静岡高等学校教授に就任。1936年に文部書記官、専門学務局学芸課長を務めた後、1945年7月、京都帝国大学事務監に転出。1949年に日本学術振興会事務局長となる。 1964年から1965年に熊本大学学長、文化財保護審議会委員、日本学術会議理事などを経て、1974年から1978年3月まで中九州短期大学の初代学長を務める。
戸波 宗道(となみ むねみち、1898年(明治31年)2月1… 戸波 宗道(となみ むねみち、1898年(明治31年)2月17日 - 1961年(昭和36年)8月14日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 福岡県出身。福岡県立中学修猷館を経て、1920年(大正9年)5月、陸軍士官学校第32期卒業。その後、東京帝国大学造兵学科を卒業する。 1941年(昭和16年)3月、陸軍大佐に進級と同時に陸軍航空技術研究所哈爾濱支所員を発令される。1944年(昭和19年)5月、南方軍航空技術部員を経て、同年7月より第3陸軍技術研究所員を兼ねた。その後、1945年(昭和20年)6月10日、陸軍少将に進んだ。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。
猪原 大華(いのはら たいか、1897年(明治30年)2月1… 猪原 大華(いのはら たいか、1897年(明治30年)2月17日 - 1980年(昭和55年)2月5日)は日本画家。広島県深安郡(現・福山市)出身。本名は寿(ひさし)。花鳥草木を得意とした。 自然観照に基づいた穏健な画風と枯淡な色彩で知られており、写実を越えた現代花鳥画の方向性を導く物として期待され、装飾的画題を荒いタッチで処理した独特の画風を展開した。 1897年(明治30年)2月17日、広島県深安郡八尋村(現・福山市)にて地主農家の生家に生まれる。 1915年、18歳のとき画家を志し広陵中学校(現・私立広陵高校)を中退。伯父を頼って大阪に出た折に金島桂華を知る。1918年京都市立絵画専門学校別科(現・京都市立芸術大学)入学。
徳根 吉郎(とくね よしお、1896年2月17日 - 198… 徳根 吉郎(とくね よしお、1896年2月17日 - 1980年10月12日)は、日本の経営者。日本セメント社長を務めた。 北海道函館市出身。1914年に九州帝国大学応用化学科を卒業し、同年に浅野セメント(のちの日本セメント)に入社。1942年に取締役に就任し、常務を経て、1946年から1947年までと1948年から1949年9月までに社長を務めた。1949年9月には会長に就任した。 1970年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1980年10月12日、心筋梗塞のために死去。84歳没。
木谷 千種(きたに ちぐさ、1895年(明治28年)2月17… 木谷 千種(きたに ちぐさ、1895年(明治28年)2月17日 - 1947年(昭和22年)1月24日)は、大正時代から昭和時代の日本画家。 1895年(明治28年)、大阪府大阪市北区堂島の唐物雑貨商を営む吉岡政二郎の娘として生まれる。本姓は吉岡、本名英子。幼くして母を失った後、12歳の時に渡米し2年間シアトルで洋画を学んでいる。1909年(明治42年)に帰国、帰国後の大阪府立清水谷高等女学校在学中より深田直城に師事して花鳥画を学んだ。同年7月の北の大火(天満焼け)により罹災して堂島の自宅を焼失した。そのため女学校卒業間際に東京に移住し、1913年(大正2年)から2年ほど日本画家の池田蕉園に師事している。
尹 致旺(ユン・チワン、朝鮮語: 윤치왕、1895年2月17… 尹 致旺(ユン・チワン、朝鮮語: 윤치왕、1895年2月17日 - 1982年12月21日)は、韓国の産婦人科医師、軍医である。朝鮮戦争時、彼は軍医官として在職し軍医官を教育、育成した。尹雄烈の庶子であり政治家である尹致昊の異母弟。字は「聖雲」、号は「南圃」。日本名は「伊東致旺」。 1895年、漢城府生まれ。京都帝国大学で学び、1930年8月5日、京都帝国大学大学院で医学博士号を取得(産婦人科分野)。また、グラスゴー大学大学院 医学修士(産婦人科分野)。 1949年8月18日、陸軍本部医務監となる(~1953年9月5日)。。 1953年5月16日、少将に任ぜられる。1956年11月より、第2軍管区司令官。
阿藤 伯海(あとう はくみ、1894年(明治27年)2月17… 阿藤 伯海(あとう はくみ、1894年(明治27年)2月17日 - 1965年(昭和40年)4月4日)は、日本の中国文学者、漢詩人。本名は簡。 1894年(明治27年)2月17日、岡山県浅口郡六条院村相部(現・浅口市鴨方町六条院東)の大地主の家に生まれる。旧制矢掛中学校(現・岡山県立矢掛高等学校)、第一高等学校、級友の難波準平と共に東京帝国大学に進む。多くの人は仏蘭西文学を専攻すると思っていたが、西洋哲学に進んだ。1924年(大正13年)東京帝国大学を卒業し、倉石武四郎同様に京都帝国大学大学院に入学する。藤代禎輔、朝永三十郎両教授の指導を受けるが、漢学に傾倒して狩野直喜に師事、鈴木虎雄、上田敏にも私淑した。
浅賀 ふさ(あさが ふさ、1894年2月17日 - 1986… 浅賀 ふさ(あさが ふさ、1894年2月17日 - 1986年3月3日)は愛知県出身の医療社会事業家で、日本における医療ソーシャルワーカーの先駆者。米国在住期を経て小栗 将江(おぐり まさえ)と名乗った。 愛知県半田町(後の半田市)の豪商、小栗富次郎と妻しげの二女・小栗ふさとして1894年(明治27年)に生まれる。小栗家は酒造・海運・金融業等で財をなした家柄で富豪として知られた。13歳で日本女子大学付属高等女学校に入学した後、日本女子大学へ進学。ふさは女性の幸福は結婚や家庭にあるという母親の考え方に反駁していた。長兄・常太郎が三井物産の社員としてニューヨークへ赴任することになると父親に直談判。ふさも同行を許された。
木暮 武太夫(こぐれ ぶだゆう、旧名・正一(まさかず)、18… 木暮 武太夫(こぐれ ぶだゆう、旧名・正一(まさかず)、1893年〈明治26年〉2月17日 - 1967年〈昭和42年〉7月10日)は、日本の政治家、実業家、群馬県多額納税者。位階は正三位。衆議院議員(8期)、参議院議員(2期)、運輸大臣。伊香保温泉の旅館業、木暮旅館主。群馬県観光協会、日本温泉協会各会長。群馬銀行取締役会長、関東いすゞ自動車販売社長、群馬バス社長。25代目武太夫。 群馬県北群馬郡伊香保町(現・渋川市)出身。先代・木暮武太夫(元衆議院議員)の長男。 1912年(明治45年)、旧制前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)卒業。1917年(大正6年)、慶應義塾大学理財科を卒業。はじめ三井銀行に勤めたが、退社して家業の旅館業に従事した。
吉野 繁(よしの しげる、1892年(明治25年)2月17日… 吉野 繁(よしの しげる、1892年(明治25年)2月17日 - 1962年(昭和37年)6月1日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍主計中将。 1892年(明治25年)に大阪府で生まれた。陸軍経理学校第8期主計候補生として1914年(大正3年)5月24日に卒業した。1921年(大正10年)4月から1924年(大正13年)3月まで員外派遣学生として東京帝国大学経済学部で聴講し、大学院にも進んだ。1934年(昭和9年)4月に陸軍省経理局課員兼参謀本部附となり、1937年(昭和12年)8月に陸軍主計大佐に進級し、1938年(昭和13年)4月に陸軍省経理局監査課長に就任した。1939年(昭和14年)8月に駐蒙軍経理部長(北支那方面軍)に転じ、日中戦争に出動した。
田上 八郎(たのうえ はちろう、1891年(明治24年)2月… 田上 八郎(たのうえ はちろう、1891年(明治24年)2月17日 - 1948年(昭和23年)10月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 鹿児島県(現在の薩摩川内市上川内町)出身。士族・農業、田上亭二の二男として生まれる。川内中学校(現鹿児島県立川内高等学校)を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第13連隊付となる。1926年(大正15年)12月、陸軍大学校(38期)を卒業。 1927年(昭和2年)3月、歩兵第45連隊中隊長となり、陸士教官、歩兵第17連隊大隊長、陸軍歩兵学校教官、第16師団参謀、第1師団参謀、歩兵学校教官などを務め、1937年(昭和12年)8月、陸軍大佐に進級し歩兵第34連隊長に発令され日中戦争(上海派遣軍/松井石根大将)に出征し上海戦、南京戦などに参戦した。
阿蘇ヶ嶽 寅吉(あそがたけ とらきち、1890年2月17日 … 阿蘇ヶ嶽 寅吉(あそがたけ とらきち、1890年2月17日 - 1942年9月21日)は、熊本県熊本市出身で八角部屋、雷部屋、再度八角部屋に所属した力士。本名は田尻 虎吉。170cm、97kg。最高位は東小結。 吉田司家の紹介で入門。1908年5月初土俵、序二段優勝と三段目優勝を記録し、1915年1月十両昇進。1916年5月に入幕し、1921年1月には小結に昇進した。小兵だが食い下がって鋭く寄るか押す地味ながら正攻法の取り口で、時に鋭い投げも見せた。1924年5月に廃業した。 錦山 虎吉→明(あきらか) 虎吉(1909年6月場所-)→阿蘇ヶ嶽 梶右エ門(1919年1月場所-)→阿蘇ヶ嶽 寅吉(1924年1月場所-)
天谷 虎之助(あまがい とらのすけ、1889年2月17日 -… 天谷 虎之助(あまがい とらのすけ、1889年2月17日 - 1977年3月6日)は、内務官僚。第6・7代茨城県土浦市長。 茨城県出身。茨城県立土浦中学校、第二高等学校を経て、1913年(大正2年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業した。高等文官試験に合格し、愛媛県属、同警視、同周桑郡長、同理事官、宮崎県理事官、福岡県理事官、福島県警察部長、岡山県警察部長、愛知県警察部長、京都府警察部長、秋田県内務部長、群馬県内務部長、福井県内務部長を歴任し、勅任官待遇となった。1932年(昭和7年)、退官。 その後、高松宮家嘱託、大正大学講師を務めた。 戦後は茨城県監査委員を務め、1951年(昭和26年)、土浦市長に初当選し1959年(昭和34年)まで2期務めた。
藤井 清水(ふじい きよみ、1889年〈明治22年〉2月17… 藤井 清水(ふじい きよみ、1889年〈明治22年〉2月17日 - 1944年〈昭和19年〉3月25日)は、日本の作曲家。童謡作曲家、民謡研究家。広島県安芸郡焼山村(現・呉市)出身。生涯に約1900曲も作曲、編曲しながら、あまり世に知られることのなかった人である。のちに、『日本民謡大観』のもととなる民謡の採譜をたくさん行い、民謡の楽譜化に力を尽くして、日本民謡の音楽的研究の推進に多大な貢献をした。 医師として由緒ある家の三男として、生を享けた。幼い頃から三味線の音を聞き分け、調子を合わせることができたという。 焼山尋常小学校(現・呉市立昭和西小学校)、呉高等小学校をへて福山中学校で学んだ。音楽学校進学を志した清水だが、最初の受験には失敗し、1911年、東京音楽院受験科に入学する。
多田 健蔵 (ただ けんぞう、1889年2月17日 - 19… 多田 健蔵 (ただ けんぞう、1889年2月17日 - 1976年) は、日本のオートバイレーサー。神奈川県秦野市出身。アジア人として初めてマン島TTレースに参加した。 オートバイを始める前は自転車レースに参戦していた。1907年(明治40年)に横浜貿易新報(現・神奈川新聞)主催の「自転車長距離競走」で、250マイル(実際の走行距離は約390kmだったとされる)を16時間53分で走破、優勝している。 東京市日本橋でオートバイの輸入販売を行う多田健蔵商店を営む。1921年からオートバイレースを始める。当時日本のオートバイレーサーは20名しかいなかった。彼は日本におけるモータースポーツイベント主催の中心的な役割を果たすようになった。
蒲 孚(かば まこと、1888年〈明治21年〉2月17日 -… 蒲 孚(かば まこと、1888年〈明治21年〉2月17日 - 1983年〈昭和58年〉3月12日)は、日本の内務技師。 東京帝国大学で林学士と工学士を取得、その後内務技師として、自らの実績をもとに我が国における近代工法によるコンクリート砂防堰堤(砂防ダム)の基礎を築くとともに治水砂防計画の体系化に貢献した人物である。 1888年(明治21年)2月17日、東京都に生まれる。1911年(明治44年)に東京帝国大学農科大学林学科を、1914年(大正3年)に東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、同年農商務省 (日本)に入省、1917年(大正6年)に同省を退職し、同年6月内務省東京土木出張所に移り、山梨県や栃木県の砂防工事に従事、1930年(昭和5年)に横浜土木出張所に転じ、1938年(昭和13年)には新潟土木出張所長(現在の国土交通省北陸地方整備局長)として転出、1942年(昭和17年)に内務省を退官した。
石塚 粂蔵(いしづか くめぞう、1886年〈明治19年〉2月… 石塚 粂蔵(いしづか くめぞう、1886年〈明治19年〉2月17日 - 1962年〈昭和37年〉7月15日)は、日本の実業家。日本製鋼所社長・会長や昭和飛行機工業社長、日本兵器工業会会長、日本機械工業連合会理事、旧・日経連理事、旧・経団連理事などを歴任した。 東京府麹町区出身。麹町小学校、府立一中(現・東京都立日比谷高等学校)、東京高等商業学校(現・一橋大学)卒業。一中では同級生に、市河三喜や黒田鵬心がいた。卒業後の1908年(明治41年)日本製鋼所に入社。1911年(明治44年)、会計事務研究のためイギリスの兵器メーカーヴィッカースに出向。帰国後は経理会計部門に配属後、室蘭工場次長や事務部長などを経て、1945年(昭和20年)に同社社長に就任した。
中島 鵬六(なかじま ほうろく、1885年(明治18年)2月… 中島 鵬六(なかじま ほうろく、1885年(明治18年)2月17日 - 1931年(昭和6年)2月17日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 宮城県加美郡中新田村(現在の加美町)出身。中新田町長・中島金也の長男として生まれる。古川中学校(現宮城県古川高等学校)、第二高等学校を経て、1912年(大正元年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、弁護士となる。仙台産馬畜産組合長、大東銀行監査役を務めた。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。合計で3期務めた。この間、馬政委員会委員、帝国馬匹協会理事を務めた。
吉田 貞次郎(よしだ ていじろう、1885年(明治18年)2… 吉田 貞次郎(よしだ ていじろう、1885年(明治18年)2月17日 - 1948年(昭和23年)7月25日)は、日本の農業経営者、政治家。衆議院議員、北海道空知郡上富良野村長。 三重県奄芸郡一身田村(現津市)で農業・米穀商の吉田貞吉の長男として生まれる。家業の不振のため、1900年、16歳の時に三重団体に加わる父に従い北海道空知郡富良野村(現上富良野町)に移住した。忙しい開墾の合間に独学で学びを続け、徴兵時には一年志願兵を優秀な成績で終え、在郷中に陸軍歩兵中尉に昇進した。 村役場職員となり、以後、上富良野村会議員、同村長、信用購買組合長、農業組合長、農業会長、帝国在郷軍人会上富良野分会長、東中富良野及び草分土功組合長などを務めた。
野波 治平太(のなみ じへいた、1884年〈明治17年〉2月… 野波 治平太(のなみ じへいた、1884年〈明治17年〉2月17日 - 没年不明)は、日本の醸造家、鳥取県多額納税者、野波商店経営主。 鳥取県米子市の醤油醸造業者である。1941年11月3日、善行者として表彰を受ける。貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。住所は鳥取県米子市法勝寺町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
藤沼 庄平(ふじぬま しょうへい、1883年(明治16年)2… 藤沼 庄平(ふじぬま しょうへい、1883年(明治16年)2月17日 - 1962年(昭和37年)1月2日)は日本の官僚、政治家。位階は従三位。勲一等瑞宝章。 栃木県安蘇郡堀米町(現・栃木県佐野市)に生まれる。10歳の時に実父・若田部友造が亡くなったため、長兄が相談して町長・藤沼友次郎の養子となる。1902年(明治35年)栃木県立栃木中学校(現栃木県立栃木高等学校)卒業、旧制一高を経て1909年(明治42年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業、内務省に入省する。 奈良県、鹿児島県、京都府、大阪府の警察部長を務め、1923年(大正12年)10月に茨城県知事に就任するが、虎ノ門事件により辞職する。この後内務省警保局長として摂政の関西行啓に井上孝哉、荒木貞夫と同道、唐沢俊樹を内務省参事官に起用する。
久保 勉(くぼ まさる、1883年2月17日 - 1972年… 久保 勉(くぼ まさる、1883年2月17日 - 1972年5月24日)は、日本のギリシア哲学者。 1883年、愛媛県伊予市で生まれた。松山中学校を卒業後、1901年に海軍兵学校へ進んだ。日露戦争終結後に退役し、東京帝国大学哲学科選科に入学した。大学ではラファエル・ケーベルの教えを受け、その後助手を務めた。1912年、東京帝国大学を卒業。同大学大学院に進んだ。 1925年よりドイツに留学し、ハイデルベルク大学やベルリン大学に滞在して研究を行った。1928年に帰国し、翌1929年、東北帝国大学法文学部助教授となった。大学では阿部次郎と同僚であり、『ソクラテスの弁明・クリトン』などの刊行を共に進めていった。