河津 勝(かわづ まさる、1905年〈明治38年〉7月17日… 河津 勝(かわづ まさる、1905年〈明治38年〉7月17日 - 1985年〈昭和60年〉1月23日)は、昭和時代の政治家。相模原市長。位階は従五位。 河津養積、計以の二男として、神奈川県高座郡相原村(現相模原市)に生まれる。1920年(大正9年)相原村役場に奉職し、戦後、1946年(昭和21年)相模原町相原出張所長、1951年(昭和26年)総務課長兼財政課長、市制施行以降、建設部長、総務部長などを歴任した。 1957年(昭和32年)から8年間に渡り相模原市の助役を務め、1965年(昭和40年)その実績から市長選に立候補し、第5代市長に当選した。 市長在任中は、当時全国屈指の人口急増都市であった同市の都市機能の整備に力点を置き、1968年(昭和43年)相模原市総合計画を策定したほか、米軍基地返還問題について中央官庁との折衝に動いた。
可愛嶽 実男(えのだけ さねお、1905年7月17日 - 没… 可愛嶽 実男(えのだけ さねお、1905年7月17日 - 没年不明)は、昭和時代の大相撲力士。出羽海部屋所属。本名は森 実雄。最高位は十両4枚目。 宮崎県延岡市出身。出羽海部屋に入門し、1926年1月「嶋和泉」の四股名で序ノ口に就く。番付を上げ、1932年1月には幕下上位だったが、春秋園事件による大量の脱退者が出たため、その穴埋めのため十両に昇進した。2場所続けて勝ち越すことなく同年5月に幕下に落ちた。この場所から「可愛嶽」と改名した。1933年1月再び十両に上がったが、2場所続けて負け越して幕下に落ち、1934年1月に廃業した。
江戸 英雄(えど ひでお、1903年7月17日 - 1997… 江戸 英雄(えど ひでお、1903年7月17日 - 1997年11月13日)は、日本の実業家。三井不動産社長を務めた。終生、三井グループに影響力を持ち続け、グループ内で地位の低かった三井不動産を「三井御三家」の一角に押し上げた。また東京ディズニーランドのオープンに尽力したほか、妻と娘が関わった桐朋学園の発展にも一役買った。 茨城県筑波郡作岡村大字作谷(現:つくば市)の農家に生まれる。兄1人、姉3人の末っ子だったが、2人の姉は子供の頃早世した。 村の小学校を卒業後、茨城県立下妻中学校(現在の茨城県立下妻第一高等学校)に入学した。自宅から中学まで10キロあったが毎日自転車で通い、隣村の一級下の赤城宗徳(衆議院議員)は同じ自転車通学の仲間だった。
竹山 道雄(たけやま みちお、1903年7月17日 - 19… 竹山 道雄(たけやま みちお、1903年7月17日 - 1984年6月15日)は、日本の評論家、ドイツ文学者、小説家。日本芸術院会員。第一高等学校教授、東京大学教養学部教授などを歴任した。 1903年、銀行員の息子として赴任先の大阪市で出生。幼少期は父の転勤に伴い、1907年から1913年まで京城(現・ソウル)で過ごした。東京府立第四中学校から第一高等学校を経て、東京帝国大学文学部独文科に入学。1926年に大学を卒業した。 卒業後はドイツ語講師として第一高等学校に勤務。1928年から文部省より欧州留学を命じられ、ベルリンとパリに留学。1931年に帰国し、第一高等学校の教授となった。 戦後、第一高等学校が学制改革によって新制東京大学教養学部に改組されることとなり、改組後間もない1951年に東京大学教授を退官。
水島 あやめ(みずしま あやめ 1903年7月17日 - 1… 水島 あやめ(みずしま あやめ 1903年7月17日 - 1990年12月31日)は、新潟県六日町(現南魚沼市)出身の著述家。日本初の女流映画脚本家で後に児童文学作家となった。
今泉 忠義(いまいずみ ただよし、1900年7月17日 - … 今泉 忠義(いまいずみ ただよし、1900年7月17日 - 1976年11月5日)は、日本の国語学者。國學院大學名誉教授、立教大学文学部教授。 三矢重松、折口信夫に師事し、折口信夫の五博士のうちの一人。日葡辞書の研究や、源氏物語の現代語訳・語法の研究で知られる。主著は『国語発達史大要』、『国語学史概説』、『現代語の性格』、『日葡辞書の研究』、『源氏物語全現代語訳』など。 (以上はすべて関根賢司「今泉忠義の現代語訳」『解釈と鑑賞』2007年1月号 より)
韓 巌回(ハン・アムェ、朝鮮語: 한암회/韓巖回、1900年… 韓 巌回(ハン・アムェ、朝鮮語: 한암회/韓巖回、1900年7月17日 - 1975年5月25日)は、日本統治時代の朝鮮のジャーナリスト、大韓民国の政治家。制憲韓国国会議員。本貫は清州韓氏。 韓 厳回(ハン・オムェ、한엄회/韓嚴回)の表記もある。1960年代以降の報道では韓 邯錫または韓 甘錫(ハン・ガムソク、한감석)と紹介されていた。 ソウル市鐘路出身。養正高等普通学校、九州帝国大学農学部卒。日本統治時代は満州国および中華民国で活動しており、南満州農村天一農場農村振興会連合会理事、日大学院院長、上海中華日報社河南省支社長を務めた。1942年、蒋介石の統治区域で新聞の輸送をした際に日本兵に逮捕され、北京の日本軍の監獄で4か月間服役した。
張 炳晩(チャン・ビョンマン、朝鮮語: 장병만、1900年7… 張 炳晩(チャン・ビョンマン、朝鮮語: 장병만、1900年7月17日 - 没年不詳)は、大韓民国の政治家。制憲国会議員。 大韓帝国の慶尚北道漆谷郡出身。明治大学法学専門部、明倫専門学校(現・成均館大学校)卒業。1945年に呂運亨を中心とした朝鮮建国準備委員会で活動した後、1946年に大韓独立促成国民会に加入し、1947年に独立促成国民会漆谷郡会長に選出された。1948年の初代総選挙に大韓独立促成国民会の公認で立候補して当選し、国会議員を1期務めた。朝鮮戦争の初期に北朝鮮に拉致され、龍岡温泉の老人ホームに入所させられたとされる。1956年7月、在北平和統一促進協議会の中央委員を務め、1958年に朔州郡の協同農場に移住した。
山名 文夫(やまな あやお、1897年7月17日 - 198… 山名 文夫(やまな あやお、1897年7月17日 - 1980年1月14日)は、日本のイラストレーター、グラフィックデザイナーである。日本のグラフィックデザインの黎明期における先駆者の一人で、大正期から昭和初期にかけてのモダンなアール・デコスタイルで知られ、資生堂の現在にもつづくキーデザイン、紀ノ国屋のロゴ、新潮文庫の葡萄マークのデザインで知られる。 1897年(明治30年)7月17日、広島県広島市に生まれる。 少年期から竹久夢二や北野恒富、オーブリー・ビアズリーに憧れ、模写に没頭する。旧制・和歌山県立和歌山中学校(現和歌山県立桐蔭中学校・高等学校)後、1916年(大正5年)、大阪へ出て、赤松麟作が主宰する「赤松麟作洋画研究所」第2期生となり、絵画を学ぶ。
小山 知一(こやま ちいち、1893年(明治26年)7月17… 小山 知一(こやま ちいち、1893年(明治26年)7月17日 - 没年不明)は、日本の官僚。佐賀県知事、高知県知事、文部省普通学務局長を歴任した。 現在の福島県喜多方市出身。会津中学、四高を経て、東京帝国大学在学中に文官高等試験に合格し、1919年(大正8年)卒業。 官歴前半は警視庁警部、同保安部保安課長、愛知県警察部特高課長などの警察関係。その後福岡県内務部社会課長、高知県学務部長、 岩手県経済部長などを歴任。岩手県在任中には、国民健康保険課長の石原幹市郎を説得し、国民健康保険制度では全国でも他に例を見ない、農林水産省所管の産業組合代行による、国保事業の運営を奨励する。[要出典]1937年 、第32代佐賀県知事に就任。
佐久間 道夫(さくま みちお、1893年(明治26年)7月1… 佐久間 道夫(さくま みちお、1893年(明治26年)7月17日 - 1970年(昭和45年)12月6日)は、昭和時代の政治家。実業家。衆議院議員。 横浜市に生まれる。1911年(明治44年)神奈川県立横浜第一中学校卒業。 横浜市会議員、同参事会員、横浜地方裁判所調停委員、横浜土地協会理事を歴任した。ほか、実業家として佐久間家代表社員、花咲水産缶詰取締役、瑞興貿易会長を務めた。 1942年(昭和17年)4月の第21回衆議院議員総選挙では神奈川県第1区から翼賛政治体制協議会の推薦を受け出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。議員在任中は内閣、大東亜省、外務省の各委員を務めた。 戦後、公職追放となった。
大西 新蔵(おおにし しんぞう、1892年(明治25年)7月… 大西 新蔵(おおにし しんぞう、1892年(明治25年)7月17日 - 1988年(昭和63年)1月21日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 東京府(現・東京都江戸川区)出身。東京府立第三中学校から海軍兵学校(42期)へ進む。席次は入校時120名中首席、卒業時は117名中3番。海軍砲術学校高等科学生に進み、砲術専攻士官となる。また東京帝国大学で教育学を学んでいる。海軍大学校甲種学生に進んだが、入試は不合格であった。航空関係者を入校させるため人数あわせで入校を許されている。 1928年(昭和3年)10月、42期首席であった三木繁二少佐が死去すると、大西がクラスヘッドになっている。海軍兵学校教官を経てドイツ駐在となった。
佐竹 義春(さたけ よしはる、1890年〈明治23年〉7月1… 佐竹 義春(さたけ よしはる、1890年〈明治23年〉7月17日 - 1944年〈昭和19年〉4月13日)は、大正から昭和期の華族。佐竹宗家34代当主。貴族院侯爵議員。位階は従二位。勲等は勲二等。 侯爵・佐竹義生、祚子夫妻の長男として生まれる。父の死去に伴い1915年(大正4年)3月30日、侯爵を襲爵。同年、東京帝国大学文科大学国史科を卒業。同年7月16日、満25歳に達し貴族院侯爵議員に就任した。1928年(昭和3年)火曜会に入会して死去するまで在任した。 明治以来、佐竹侯爵家の財政は逼迫しており、1917年(大正6年)11月、家令の大縄久雄が義春同意のもと、益田鈍翁、高橋箒庵を世話人とした美術品の売立て「佐竹侯爵家御蔵器入札」を東京美術倶楽部で行った。
楠本 実隆(實隆、くすもと さねたか、1890年(明治23年… 楠本 実隆(實隆、くすもと さねたか、1890年(明治23年)7月17日 - 1979年(昭和54年)10月11日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 鹿児島県、のちの川内市(現薩摩川内市)で、楠本右之助の長男として生まれる。1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第33連隊付となる。1921年(大正10年)11月、陸軍大学校(33期)を卒業。 1922年(大正11年)12月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、参謀本部付(支那研究員)、参謀本部員を務め、1928年(昭和3年)3月、歩兵少佐に昇進し近衛歩兵第3連隊付となる。1929年(昭和4年)3月、近衛歩兵第3連隊大隊長に就任し、中国出張(支那政府応聘、北京陸軍大学教官)、歩兵第42連隊付、参謀本部付を務め、1932年(昭和7年)8月、歩兵中佐に進み参謀本部付(上海駐在)となる。
梅園 篤彦(うめぞの あつひこ、1889年〈明治22年〉7月… 梅園 篤彦(うめぞの あつひこ、1889年〈明治22年〉7月17日 - 1978年〈昭和53年〉8月4日)は、大正から昭和期の神職、政治家、実業家、華族。貴族院子爵議員。 男爵・梶野行篤の七男として生まれ、1913年(大正2年)6月、子爵・梅園実師の養子となる。養父の死去に伴い、1917年(大正6年)10月10日、子爵を襲爵した。 1909年(明治42年)京都府立第二中学校を卒業。1912年(明治45年)3月、大阪市立高等商業学校を卒業。その後、京都帝国大学法科大学を修了した。 1916年(大正5年)官幣中社白峯宮主典に就任。以後、府社男神社社司、京都市主事、京都市嘱託、滋賀県嘱託、京都薬学専門学校講師、京都計理士会会長、三島製紙常務取締役、精版印刷監査役などを務めた。
近藤 兵太郎(こんどう ひょうたろう/へいたろう、1888年… 近藤 兵太郎(こんどう ひょうたろう/へいたろう、1888年7月17日- 1966年5月19日)は、日本人の野球指導者。愛媛・松山商や、台湾台南州立嘉義農林学校(現在の国立嘉義大学)野球部などで監督を務めた。松山商野球部を初の全国出場に導くなど戦前の黄金時代の礎を築いた監督として、また日本統治下の台湾の嘉義農林学校を率いて甲子園に出場し、準優勝に導いたことで台湾野球史にもその名を残した。
沼田 徳重(ぬまた とくしげ、1887年(明治20年)7月1… 沼田 徳重(ぬまた とくしげ、1887年(明治20年)7月17日 - 1939年(昭和14年)8月12日)は、日本の陸軍軍人。陸軍中将正四位勲一等功二級。茨城県那珂郡額田村(現在の那珂市)出身。 教育総監部高級課員として陸軍軍隊教育の改革を先導、特に戦闘綱要の改正編纂を行った。また、東京帝国大学の配属将校を務め、軍隊教育関係の著作を発表するなど、軍隊教育の発展に努めた。
鳥山 喜一(とりやま きいち、1887年7月17日 - 19… 鳥山 喜一(とりやま きいち、1887年7月17日 - 1959年2月19日)は、日本の歴史学者。 1887年、東京府本郷区に生まれた。東京帝国大学を卒業。東洋史を専攻した。 1928年から1945年まで京城帝国大学教授を務め、渤海国の遺跡を求めて満洲(中国東北部)を精力的に踏査した。 戦後、日本に引揚げてからは第四高等学校校長(第13代)、金沢大学教授、富山大学学長などを務めた。 専門は満鮮史で、渤海史研究では日本のパイオニアとされる。1926年に初版が出た中国通史『黄河の水』は少年少女のためと銘打って書かれたものだが、中国史の好個の入門書として版を重ね、現在まで読み継がれるロングセラーとなっている。
北村 清士(きたむら せいし、1887年〈明治20年〉7月1… 北村 清士(きたむら せいし、1887年〈明治20年〉7月17日 - 1980年〈昭和55年〉4月4日)は、大分県直入郡竹田町(現・竹田市)出身の教育者・郷土史家。竹田市立図書館館長、別府大学文学部講師。竹田市名誉市民。 1887年(明治20年)7月17日、大分県直入郡竹田町(現・竹田市)の旧士族の家に生まれ、1908年(明治41年)に大分師範学校(大分大学学芸学部の前身)を卒業した。1916年(大正5年)に文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験に合格し、鹿児島県、大分県、東京府で中等学校の教諭や校長を務めた。 第二次世界大戦後に竹田町に帰郷し、1953年(昭和28年)に竹田市立図書館の館長に就任した。
辛島 浅彦(からしま あさひこ、1882年(明治15年)7月… 辛島 浅彦(からしま あさひこ、1882年(明治15年)7月17日 - 1965年(昭和40年)10月15日)は、日本の実業家。東洋レーヨン会長や、人絹絹統制会会長を務めた。藍綬褒章受章。 大分県生まれ。1905年第五高等学校工学部(現熊本大学工学部)卒業、芝浦製作所入社。1910年三井物産ロンドン支店詰。三井物産名古屋支店長代理等を経て、1927年東洋レーヨン常務取締役滋賀工場長に就任。 1933年からは東洋レーヨン専務取締役として経営にあたり業績の急成長を実現した。1937年東洋レーヨン会長。1942年人絹絹統制会会長。 1944年国策パルプ工業社長。1946年山陽パルプ取締役。1949年日本貿易会長、山陽パルプ監査役、大日本印刷監査役。
岡村 金蔵(おかむら きんぞう、1881年7月17日 - 没… 岡村 金蔵(おかむら きんぞう、1881年7月17日 - 没年不明)は、日本の工学者。 オイルシェール(油母頁岩)から含有される石油を採取する方法を発明した。この発明を実施しつつあった南満洲鉄道株式会社撫順炭鉱の1938年の生産量は、粗油14万5千トン(重油8万5百トン)に達した。1939年の日本の十大発明家の1人に選出されている。 1906年に京都帝国大学理工科大学電気工学科を卒業した。その後、八幡製鉄所に入る。1910年に京都市技師を経て、1913年に南満洲鉄道株式会社に入る。1928年に撫順炭鉱臨時製油工場建設事務所長となり、同社の研究所長、化学課長を歴任した。1934年に退社した。
覚心 平十郎(覺心 平十郎、かくしん へいじゅうろう、前名・… 覚心 平十郎(覺心 平十郎、かくしん へいじゅうろう、前名・政造、1879年〈明治12年〉7月17日 - 没年不明)は、日本の酒造家、資産家、兵庫県多額納税者、会社役員。族籍は兵庫県平民 兵庫県武庫郡西宮町(現・西宮市)の人、先代平十郎の長男。先代は1代にして巨万の富を積んだ。 1913年、家督を相続し、前名・政造を改める。酒造業を営む。また加島屋取締役、恵美酒銀行監査役などをつとめる。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。精力は絶倫で、頭脳明晰、統理経営の才に長じる。趣味は囲碁。宗教は真宗。住所は西宮市本町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
昇 曙夢(のぼり しょむ、1878年7月17日 - 1958… 昇 曙夢(のぼり しょむ、1878年7月17日 - 1958年11月22日)は、日本のロシア文学者。正教会の信徒であり、ニコライ・カサートキンの門下生の一人としても知られる。晩年には奄美群島の本土復帰運動に尽力した。 奄美群島加計呂麻島実久村芝(現鹿児島県大島郡瀬戸内町)生まれ。本名・直隆。 島の小学校を出ると鹿児島に行き、鹿児島正教会に通い間もなく洗礼を受けた。聖名はパウェル。 1895年、上京。1896年、日本正教会の教育機関である東京の正教神学校に入学。1903年、同校を卒業。在学中から評伝『露国文豪 ゴーゴリ』を執筆し、明治37年(1904年)刊行。卒業と同時に正教神学校講師として心理学・論理学を講じた。
箭内 亙(やない わたり、1875年〈明治8年〉7月17日 … 箭内 亙(やない わたり、1875年〈明治8年〉7月17日 - 1926年〈大正15年〉2月10日)は、日本の東洋史家、東京帝国大学教授。号は尚軒。モンゴル史研究に業績を残した。次男は歴史学者の箭内健次。 福島県西白河郡泉崎村出身。1889年(明治22年)福島県立安積中学校に入学、1894年(明治27年)3月卒業の後、仙台市の第二高等学校を経て、東京帝国大学文科卒。1907年に第一高等学校講師となる。1908年満州朝鮮歴史地理調査部部員となり、白鳥庫吉の指導で調査にあたる。1910年(明治43年)に教授となる。1919年(大正8年)東京帝大東洋史学科助教授、ついで1925年から教授を務めた。 1926年2月10日、胃潰瘍のため死去する。
新山 平四郎(にいやま へいしろう、1869年7月17日 -… 新山 平四郎(にいやま へいしろう、1869年7月17日 - 不明)は、明治から昭和初期にかけて文部省技師として活躍した建築家。明治期の新設された学校建築を多く手がけた。
一の濱 音吉(いちのはま おときち、1868年7月17日(慶… 一の濱 音吉(いちのはま おときち、1868年7月17日(慶応4年5月28日) - 1906年(明治39年)6月11日)は、摂津国豊島郡豊中村(現・大阪府豊中市大島町)出身の大相撲力士。本名は高橋 乙吉。大阪相撲で活躍し最高位は大関。 8代猪名川に入門、一の濱を名乗り1888年(明治21年)9月見習が初見。一時広角組に加わるが1894年(明治27年)4月入幕。174cm100kgの筋肉質の体格で左差しからの寄り、吊り、投げを得意とした。 1897年(明治30年)9月小結、1898年(明治31年)4月関脇。同年10月には大関となるがこの場所4勝4敗1分の五分ながら1899年(明治32年)6月は関脇に下げられた。
三島 通良(みしま みちよし、1866年7月17日(慶応2年… 三島 通良(みしま みちよし、1866年7月17日(慶応2年6月6日) - 1925年(大正14年)3月9日)は、明治から大正期にかけての日本の衛生学者、医師。文部省からの委嘱により日本の児童の調査を行い、日本独自の学校衛生を提唱、推進した。また、母子衛生法の改良、三島式種痘法の発明などを行った。しばしば「日本の学校衛生の生みの親」と称される。号は静堂。 慶応2年(1866年)に武蔵国入間郡霞関村笠幡(現・埼玉県川越市笠幡)に生まれる。父の通郷(つうけい)は嘉永から安政年間に私塾を開いて地元の子弟に漢字や習字を教え、明治維新後に受け持っていた修験道場が廃止されると家財や田畑を売り払って上京して遊学し、神奈川県検事などの官職を務めた人物であった。
高橋 欽哉(たかはし きんや、1866年7月17日〈慶応2年… 高橋 欽哉(たかはし きんや、1866年7月17日〈慶応2年6月6日〉 - 1937年〈昭和12年〉10月21日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員。 豊後国大分郡西庄内村(現由布市庄内町)生まれ。1890年(明治22年)に速見郡浜脇村(現別府市浜脇)で高級旅館泉孫を経営する高橋孫三郎の養子となる。浜脇町会議員を務めた。 1906年(明治39年)から7年間、別府町助役を務めた。同年、別府町会議員に当選した。その後、1909年(明治42年)、1912年(明治45年)、1916年(大正5年)、1920年(大正9年)に再選した。1919年(大正8年)9月25日には速見郡選出の大分県会議員に当選。1924年(大正13年)の別府市会議員選挙でも当選している。
白井 光太郎(しらい みつたろう、1863年7月17日(文久… 白井 光太郎(しらい みつたろう、1863年7月17日(文久3年6月2日) - 1932年(昭和7年)5月30日)は、日本の植物学者・菌類学者。日本の植物病理学や本草学史の開拓者。博物学者。 1863年に江戸霊岸島の福井藩中屋敷(現在の東京都中央区新川)に生まれる。元治元年、藩地に移転の為、福井城下毛矢町に移住する。1886年に東京帝国大学理科大学(現在の東京大学理学部)植物学科を卒業。 卒業後すぐに東京農林学校の助教授となり、翌年教授に就任。1890年に帝国大学農科大学(現在の東京大学農学部)に異動して助教授となり、植物学講座を担当した。 1899年から1901年まで、ドイツに留学して植物病理学の研究に取り組んだ。
澤山 勇三郞(さわやま ゆうざぶろう、1860年7月17日(… 澤山 勇三郞(さわやま ゆうざぶろう、1860年7月17日(万延元年5月29日)- 1936年(昭和11年)10月23日)は日本の数学者、陸軍教授。澤山-テボーの定理やフォイエルバッハの定理について20通り以上の証明を与えたことで知られる。 1860年(万延元年)、酒造業の武安治平の五男として長州藩厚狭郡二俣瀬村(現・宇部市)に生まれる。家業を継ぐ予定であったが、本人の強い希望で16歳のとき山口県の鴻城学舎に入り、英語・数学を学ぶ。当時県内には優れた英語教育者が少なかったので、ハワイ帰りで地元の刑務所に服役していた者から英語を学んだというエピソードがある。24歳で萩中学校の準助教諭となり、29歳の時に数学の中等教員の免状を得た。
加藤 正英(かとう しょうえい、1851年7月17日(嘉永4… 加藤 正英(かとう しょうえい、1851年7月17日(嘉永4年6月19日) - 1915年(大正4年)4月15日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(1期)。 工藤重助の二男として鶴岡に生まれ、幼くして田川郡松尾村(山形県東田川郡広瀬村、羽黒町を経て現鶴岡市羽黒町松尾)の加藤三七の養子となる。後田村の岡部宥盈につき和漢学を、父に算学や珠算を学ぶ。諸国を遊学したのち、1879年(明治12年)後田村外8箇村戸長を経て、1889年(明治22年)山形県会議員に当選する。県議会では議長を歴任した。この間、村会議員、東田川郡会議員を歴任した。1893年(明治26年)から1897年(明治30年)まで広瀬村長を務め、私立庄内中学校商議員会会頭を務め、乾田馬耕の普及に尽くした。
西 成度(にし なりのり / なりたき / しげのり、183… 西 成度(にし なりのり / なりたき / しげのり、1835年7月17日(天保6年6月22日)- 1891年(明治24年)4月5日)は、幕末の阿蘭陀通詞・幕臣・静岡藩士、明治期の司法官。大審院長、東京控訴院長。通称・吉十郎、幼名・松十郎。 肥前国長崎平戸町(現長崎市江戸町)で西家第11代・阿蘭陀通詞の西吉兵衛成量、登美夫妻の長男として生まれる。天保10年8月7日(1839年9月14日)数え5歳で稽古通詞を申し付けられる。以後、小通詞末席、小通詞並、小通詞助、小通詞と昇進。嘉永3年9月(1850年10月)幕府より阿蘭陀通詞に英和辞典編纂の命が下され、『エゲレス語辞書和解』(未完)の編纂者の一人となる。
萬 海歌(よろず みか、生年非公開 7月17日 - )は、日… 萬 海歌(よろず みか、生年非公開 7月17日 - )は、日本の声優・役者・女性アイドル。朗読ユニット『朗読むすめ』のメンバー。女性アイドルグループ『ripple link』のメンバー。岩手県釜石市出身。三木プロダクション所属(声優・役者)、Crossinng Music所属(アイドル)。 2011年、東日本大震災にて被災、肉親を失う。避難所生活中に、取材で訪れていたラジオパーソナリティやまだひさし氏のインタビューに応えた事が後の芸能生活に彩を添える事になった。 高校卒業後、上京。専門学校で研修を積む。 2021年、300名近いオーディションから、歴史コメンテーターの金谷俊一郎氏が監修する朗読ユニット『朗読むすめ』に選ばれる。