大橋 光夫(おおはし みつお、1936年(昭和11年)1月1… 大橋 光夫(おおはし みつお、1936年(昭和11年)1月18日 - )は、日本の実業家。昭和電工(現:レゾナック・ホールディングス)社長、会長を務めた。公益財団法人日本台湾交流協会会長。慶應義塾評議員。国民政治協会会長。 父は政治家で労相や運輸相を務めた大橋武夫、祖父は元首相の濱口雄幸、富士銀行元頭取の岩佐凱実は義父。 東京に生まれる。東京教育大学附属中学校・高等学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を経て、1955年に慶應義塾大学経済学部経済学科に入学。 同大学を卒業後は三井銀行に就職したが、3年足らずで退職、1961年12月に昭和電工に入社する。 入社直後の1962年、昭和電工が八幡製鐵、カイザー・アルミニウムと合弁で設立する「スカイ・アルミニウム」計画のため、米国に派遣される。
菅沼 光弘(すがぬま みつひろ、1936年〈昭和11年〉1月… 菅沼 光弘(すがぬま みつひろ、1936年〈昭和11年〉1月18日 - 2022年〈令和4年〉12月30日)は、日本の評論家、元公安調査官。公安調査庁で調査第二部部長を務めた。 1958年(昭和33年)、国家公務員上級職甲種採用試験(法律職)合格。1959年(昭和34年)、東京大学法学部卒業後、公安調査庁入庁。近畿公安調査局調査第二部第一課長を経て、1977年(昭和52年)4月1日、和歌山地方公安調査局長。1979年(昭和54年)4月1日、中国公安調査局調査第二部長。1980年(昭和55年)4月1日、中国公安調査局調査第一部長。1981年(昭和56年)4月1日、千葉地方公安調査局長。1982年(昭和57年)4月1日、公安調査庁本庁総務部資料課長。
和田 洋一(わだ よういち、1936年1月18日 - 199… 和田 洋一(わだ よういち、1936年1月18日 - 1999年8月10日)は、三才ブックス創業者。中央大学卒業。 自由国民社の編集者(経理、もしくは総務、という説もある)を経て1980年に独立、三才ブックスを創業し社長に就任。同年6月に『ラジオライフ』を創刊。 1999年に急逝し、妻の淳子が社長職を継いだ。63歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
鈴木 喬(すずき たかし、1935年1月18日 - )は、日… 鈴木 喬(すずき たかし、1935年1月18日 - )は、日本の実業家。エステー会長(元社長)。東京都渋谷区出身、一橋大学商学部卒業。 1935年(昭和10年)今でいう日用品のディスカウンターをしていた鈴木千蔵(エステー化学初代社長)の四男として東京都で生まれる。戦争にかり出された兄たちにかわり、小学生のころから家業を手伝う。東京大空襲で店を焼かれ、焼け野原のなか父のゼロからの再出発を支えた。 東京都立新宿高等学校を経て、商人になりたいという想いから叔父に勧められ一橋大学商学部に進学。すでに父と兄がエステー化学工業㈱(現エステー)を設立していたが「もっと広い世界で活躍したい」と考え、サラリーマンの道を選択する。
西川 章(にしかわ あきら、1935年1月18日 - 202… 西川 章(にしかわ あきら、1935年1月18日 - 2024年12月13日)は、日本の経営者。三菱マテリアル社長を務めた。大阪府出身。 1959年に京都大学工学部を卒業し、同年に三菱金属に入社した。1991年6月に取締役に就任し、2000年6月に社長に就任。2004年6月に会長に就任したが、2005年に土壌汚染隠しの責任を取る形で会長を辞任し、取締役相談役に退き、また、大阪府警察により髙木茂らと宅地建物取引業法違反容疑で書類送検された。 2024年12月13日午前4時59分、老衰のため東京都の病院で死去。89歳没。
高山 鉄男(たかやま てつお、1935年1月18日 - )は… 高山 鉄男(たかやま てつお、1935年1月18日 - )は、日本のフランス文学者、慶應義塾大学名誉教授。 東京市四谷区四谷坂町生まれ。杉並区立若杉小学校・慶應義塾普通部・慶應義塾高等学校を経て、1957年慶應義塾大学文学部フランス文学専攻卒業。59年慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程修了。62年パリ第4大学で博士号取得。63年慶應義塾大学文学部助手、67年専任講師、72年助教授、79年教授、2000年定年退任、名誉教授、日本橋学館大学人文経営学部教授、06年退職、名誉教授。72年ル・クレジオ『発熱』の翻訳でクローデル賞受賞。 バルザックが専門。妻は元慶應義塾大学商学部教授でフランス文学者の高山晶(あき)。
稲川 素子(いながわ もとこ、1934年〈昭和9年〉1月18… 稲川 素子(いながわ もとこ、1934年〈昭和9年〉1月18日 - 2024年〈令和6年〉5月13日)は、日本の芸能プロモーター。株式会社稲川素子事務所代表取締役。 1934年、福岡県柳川市に生まれた。父は旧家出身で、若い頃にヨーロッパで何年も遊学できるほどの恵まれた環境で育ったという。実家は1万坪の敷地の中にテニスコートが2面あるほどの大きな屋敷で、別府にあった別荘にはグランドピアノが置かれていた。稲川はここで何不自由ない幼少期を過ごした。戦争が激しくなった頃この実家に疎開し、小学校6年生のときに終戦を迎えた。 戦後の農地改革で不在地主として土地を没収されると、家計が火の車に陥り、甚だしい食糧難と貧苦に見舞われた。
尾上 悦三(おのえ えつぞう、1933年1月18日 - 19… 尾上 悦三(おのえ えつぞう、1933年1月18日 - 1989年5月21日)は、日本の中国経済研究者。奈良県高市郡高取町出身。 大阪外国語大学中国語科卒、神戸大学大学院経済学研究科博士課程満期退学。1975年『中国の経済配置の研究』で神戸大学経済学博士。アジア経済研究所香港派遣員、セントルイス・ワシントン大学客員助教授、アジア経済研究所主任調査研究員、東京国際大学商学部教授。 この項目は、経済学者(経済評論家を含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ウィキポータル 経済学、ウィキプロジェクト 経済)。
山田 順彦(やまだ よりひこ、1933年1月18日 - 19… 山田 順彦(やまだ よりひこ、1933年1月18日 - 1997年1月24日)は日本映画のプロデューサー。 1955年に慶應義塾大学文学部を卒業と同時に東宝に入社、文芸部配属。1965年より製作担当者。1967年にプロデューサーに昇格。1969年に契約者となる。1981年に契約が切れフリープロデューサーとなる。小寺朝名義で脚本や原作を手がけることもある。(共同脚本=『育ちざかり』『死ぬにはまだ早い』『娘ざかり』、原作=『年ごろ』『縄と乳房』) この項目は、映画関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。
北村 恭二(きたむら きょうじ、1933年1月18日 - 2… 北村 恭二(きたむら きょうじ、1933年1月18日 - 2023年5月15日)は日本の大蔵官僚。大臣官房総務審議官、証券局長、大阪証券取引所理事長などを歴任。 長野県長野市出身。東京大学法学部卒業。1956年 大蔵省入省(大臣官房文書課)。1956年入省同期に小粥正巳(日本経済研究所会長、初代日本政投銀総裁、日本開銀総裁、公正取引委員会委員長、大蔵事務次官、主計局長、大臣官房長)、秦郁彦(歴史研究者)らがいた。 1963年7月 館林税務署長。1980年6月 銀行局総務課長。1981年6月 東海財務局長。1982年6月 大臣官房審議官(理財局担当)。1983年6月 銀行局検査部長。1984年6月27日 大臣官房総務審議官。
児島 章郎(こじま あきろう、1933年1月18日 - 20… 児島 章郎(こじま あきろう、1933年1月18日 - 2015年3月17日)は、日本の経営者。ダイセル化学工業(現在のダイセル)社長、会長を務めた。東京都出身。 1956年に一橋大学経済学部を卒業し、同年に大日本セルロイドに入社。1983年6月に取締役に就任し、1985年6月に常務を経て、1987年6月に副社長に就任し、1988年6月には社長に昇格。1999年6月に会長に就任。 2015年3月17日腸閉塞のために死去。82歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
広瀬 豊(ひろせ ゆたか、1932年(昭和7年)1月18日 … 広瀬 豊(ひろせ ゆたか、1932年(昭和7年)1月18日 - 2006年(平成18年)7月20日)は日本の実業家、編集者。陸上競技社設立者・元社長、元関東学生陸上競技連盟会長。苗字の広は正確には广に黄。 愛知県稲沢市に生まれる。愛知県立一宮高等学校を1950年(昭和25年)に卒業、1954年(昭和29年)に法政大学経済学部を卒業し、ベースボールマガジン社に入社。季刊だった『陸上競技マガジン』の編集長に就任し、月刊化する功績を果たしたものの退社。その頃教科書出版に進出する講談社から、保健体育の編集者として声を掛けられ入社し、同時に1967年(昭和42年)に陸上競技専門誌『月刊陸上競技』を創刊、編集長を務める。
宮地 惟友(みやじ よしとも、1932年1月18日 - )は… 宮地 惟友(みやじ よしとも、1932年1月18日 - )は、石川県金沢市出身の元プロ野球選手(投手)。
岡田 睦(おかだ ぼく、男性、1932年1月18日 - )は… 岡田 睦(おかだ ぼく、男性、1932年1月18日 - )は、日本の作家。 東京生まれ。1956年慶應義塾大学文学部仏文科卒。 家庭教師などをしつつ黒田壽郎、黒田美代子、古屋健三らと同人誌『作品・批評』を創刊、また『三田文学』などに小説を書き、1960年「夏休みの配当」で芥川賞候補。 以後ゴーストライターや無署名ライターをしながら私小説を書いた。 三回結婚したが最後の妻から家を追い出され、老人ホームに入所、生活保護を受けていた。 2010年に「灯」を発表したが以後消息不明。
長瀧 重信(ながたき しげのぶ、1932年1月18日 - 2… 長瀧 重信(ながたき しげのぶ、1932年1月18日 - 2016年11月12日)は、日本の医学者。長崎大学名誉教授、国際被曝医療協会名誉会長。 長崎大学医学部長、放射線影響研究所理事長などを歴任した。 東京都生まれ。東京大学医学部卒業後、内科に入局しハーバード大学医学部に留学。帰国後、東京大学附属病院外来診療所医長、1980年長崎大学医学部教授(内科学第一教室)、学部長、放射線影響研究所(広島・長崎)理事長、日本アイソトープ協会常務理事、国際被曝医療協会(International Association of Radiopathology)会長などを歴任した。 長崎大学時代に被爆者の治療や調査にあたっており、東海村JCO臨界事故で現場周辺住民の健康管理にかかわった。
矢野浩一郎(やの こういちろう、1932年1月18日 - 2… 矢野浩一郎(やの こういちろう、1932年1月18日 - 2013年12月28日)は、日本の自治官僚。消防庁長官、市町村職員中央研修所学長、救急振興財団理事などを務めた。位階は正四位。勲二等旭日重光章受章。 宮崎県出身。東京大学法学部を卒業し、1954年 自治省に入省。振り出しは長崎県総務部庶務課。 1960年 自治庁長官官房総務課調査係長。同年 香川県職員研修所長。その後は同県農地拓殖課長、同県総務部地方課長、同県総務部財政課長、自治省財政局交付税課長補佐、大阪府総務部次長兼総務部財政課長、同府総務部長などに就く。 自治省税務局府県税課長などを経て、1978年7月1日 自治省財政局財政課長。1979年10月15日 自治省大臣官房審議官(税務担当)。
佐藤 功一(、1932年〈昭和7年〉1月18日 - )は、日… 佐藤 功一(、1932年〈昭和7年〉1月18日 - )は、日本の俳優。東京都出身。早稲田大学卒業。身長174センチメートル。 1953年11月、大学在学中に帝国劇場へ入団。1955年、帝劇のシネラマ設置に伴い、東宝の専属俳優となる。 クレジットされる作品は少数だが、1950年代から1970年代まで活動していた。東宝の俳優であった中島春雄によれば、東宝が専属制度を廃止したのちに佐藤は清水良二らとともに養鶏会社へ転職したという。
磯田 光一(いそだ こういち、1931年(昭和6年)1月18… 磯田 光一(いそだ こういち、1931年(昭和6年)1月18日 - 1987年(昭和62年)2月5日)は、日本の文芸評論家、イギリス文学者。東京工業大学教授などを歴任。没後勲四等旭日小綬章受章。 1964年に三島由紀夫論『殉教の美学』を刊行し文壇に登場。戦後文学の再検討を進め、文学を通した近代論へと批評の幅を広げた。代表作に『永井荷風』、『思想としての東京』、『鹿鳴館の系譜』などがある。 神奈川県横浜市中区伊勢町(現・西区伊勢町)に生まれ、東京都葛飾区亀有育ち。東京府立第十一中学校(現・東京都立江北高等学校)3年の時に敗戦を迎え、1948年に第一高等学校 (旧制)入学。東京大学文学部英文学科に進学し、イギリス・ロマン派を専攻して卒業。
赤松 蕙子(あかまつ けいこ、1931年1月18日 - 20… 赤松 蕙子(あかまつ けいこ、1931年1月18日 - 2012年5月7日)は、広島県出身の俳人。本名蕙。 大柿町(現江田島市)生。旧制広島県立広島第一高等女学校を経て広島県広島有朋高等学校卒業。1947年、俳誌「雪解」に入会、皆吉爽雨に師事。1953年、山口県徳応寺に嫁ぐ。「鶴啼いて月に一滴づつの金」「眠りみなこの世にさめて櫻どき」など、宗教性を持ちつつ着想に富む句風。1975年、『白亳』により第15回俳人協会賞受賞。1994年、山口県選奨(芸術文化功労)受賞。 句集に『子菩薩』『白亳』『天衣』『散華』『月幽』『海戀』『佩香』。また、俳人協会の「自註現代俳句シリーズ(3期)」に『赤松蕙子集』がある。
井口 昭夫(いぐち あきお、1931年1月18日 - 200… 井口 昭夫(いぐち あきお、1931年1月18日 - 2008年5月8日)は、囲碁・将棋の観戦記者。兵庫県出身。 神戸市外国語大学卒業。1953年、毎日新聞社に入社。学芸部副部長、学芸部編集専門委員を経て、1982年編集委員。 将棋・囲碁担当記者として、約40年にわたって囲碁の本因坊戦、将棋の名人戦、王将戦の観戦記を書いた。 1989年、第一回将棋ペンクラブ大賞(新聞観戦記部門)を受賞。将棋ペンクラブ代表幹事(事務局長)。 2000年、大山康晴賞(第7回)を受賞。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
川勝 久(かわかつ ひさし、1931年1月18日 - )は、… 川勝 久(かわかつ ひさし、1931年1月18日 - )は、日本の社会心理学者、ビジネス書の翻訳家、文筆家。 産業能率短期大学講師、助教授、教授をへて、淑徳大学国際コミュニケーション学部教授。 1953年一橋大学社会学部社会学科卒業。東京放送(TBS。現・TBSホールディングス / TBSテレビ・TBSラジオ)に入社し、CM部長、営業促進部長、調査部長等を歴任した。このころより、海外ビジネス書の翻訳、ビジネス書の執筆に携わる。 1985年、NPO法人知的生産の技術研究会で講師を務めた。一橋大学大学院修士課程修了、1985年退職。 1980年から2002年にかけてホノルルマラソン協会スペシャル・アドバイザーを務めた。
畑 博行(はた ひろゆき、1930年1月18日 - 2023… 畑 博行(はた ひろゆき、1930年1月18日 - 2023年9月4日)は、日本の法学者。専攻は憲法。学位は、博士(法学)(京都大学・論文博士・1992年)(学位論文「アメリカの政治と連邦最高裁判所」)。広島大学名誉教授。近畿大学名誉学長。 兵庫県明石市生まれ。兵庫県立明石高等学校卒業。1950年、神戸市立外事専門学校卒業。1954年、京都大学法学部卒業。1954年、運輸省航空局入局。まもなく退官。1960年、京都大学大学院(旧制)修了。 1960年、広島大学政経学部助手。1961年、専任講師。1966年、助教授。1970年コロンビア大学法科大学院客員スカラー(客員研究員)(~71年)。1972年、広島大学政経学部教授。
妹背 光雄(いもせ みつお、1930年1月18日 - 199… 妹背 光雄(いもせ みつお、1930年1月18日 - 1998年6月9日)は、日本の経営者。東洋信託銀行社長を務めた。大阪府堺市出身。 1952年に京都大学経済学部を卒業し、同年に三和銀行に入行。1976年7月に東洋信託銀行に転じ、1977年12月に取締役に就任し、1980年12月に常務、1983年12月に専務を経て、1987年2月には社長に就任。1993年3月に会長に就任。 1994年11月に藍綬褒章を受章。 1998年6月9日に心不全のために死去。68歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
西村 昭五郎(にしむら しょうごろう、1930年1月18日 … 西村 昭五郎(にしむら しょうごろう、1930年1月18日 - 2017年8月1日)は、日本の映画監督。 滋賀県出身。1954年、京都大学文学部仏文科を卒業後、従兄の吉村公三郎監督の紹介で、映画製作を再開した日活に入社。中平康を始めとする監督の下で助監督を務めたのち、1963年の『競輪上人行状記』で監督デビュー。末期の日活アクションや青春映画の演出に携わるが、ヒット作に恵まれず、1960年代終盤からは『大江戸捜査網』などのテレビ路線の演出に回された。それでもロマンポルノ開始以前に14本の映画を監督しており、これは同路線に参加した監督としては長谷部安春の17本に次ぐ数字である。ただし、長谷部は1本だけ撮った後は4年もブランクが空くなどロマンポルノには熱心ではなく、やがて他社の一般映画へと転じていった。
ジョー樋口(ジョーひぐち、1929年1月18日 - 2010… ジョー樋口(ジョーひぐち、1929年1月18日 - 2010年11月8日)は、日本の元プロレスラー、元レフェリー。 本名は樋口 寛治(ひぐち かんじ)。愛称は「ジョー」。 神奈川県横浜市出身。法政大学卒業。俳優の樋口隆則は息子。 日本プロレスと全日本プロレスでレフェリー、外国人係を務めた後、プロレスリング・ノア監査役、GHCタイトル管理委員長を歴任した。 実家は本牧の洋食材の問屋で、幼少時からコーヒーを嗜み、ジャズを愛好する少年だった。周囲の環境から、英語や洋食の調理もお手のものであった。また柔道の道に進み、二段まで昇段。終戦後は進駐軍に柔道を教えていた(この時期に英語をマスターしたとの記述もある)。
薗田 香融(そのだ こうゆう、1929年〈昭和4年〉1月18… 薗田 香融(そのだ こうゆう、1929年〈昭和4年〉1月18日 - 2016年〈平成28年〉8月4日)は、日本史・仏教学者。関西大学名誉教授。 和歌山県和歌山市に、薗田香勲の長男として生まれる。祖父は薗田宗恵。母方祖父は芦津実全。弟に薗田宗人、薗田坦、芦津家を継いだ芦津丈夫がいる。 第三高等学校を経て、1951年京都大学文学部史学科卒業。1953年関西大学文学部助手、専任講師、助教授を経て、1965年教授。1980年「古代財政史の研究」で関西大学文学博士。1999年定年退職、名誉教授。浄土真宗本願寺派妙慶寺第14世住職。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
工藤 圭章(くどう よしあき、1929年1月18日 - 20… 工藤 圭章(くどう よしあき、1929年1月18日 - 2008年4月4日)は、日本の建築史学者。 青森県南津軽郡大鰐町大鰐で大鰐温泉の湯元の家系に生まれた。弘前高等学校、海軍兵学校76期を経て、日本の降伏後弘前高等学校に戻り、1954年横浜国立大学工学部建築学科卒、1956年東京大学大学院数物系研究科修士課程修了、奈良国立文化財研究所建造物研究室臨時筆生。59年同庁務員。62年文部技官任官。64年奈良国立文化財研究所平城宮発掘調査部第二調査室長。65年「ナラの街区変遷過程の研究」で工学博士の学位を取得。67年文化財保護委員会事務局建造物課文化財調査官。1968年文化庁文化庁文化財保護部建造物課文化財調査官。
永嶋 大典(ながしま だいすけ、1929年1月18日 - )… 永嶋 大典(ながしま だいすけ、1929年1月18日 - )は、日本の英語学者、大阪大学名誉教授。専門は英語史。 福岡県出身。東京大学文学部英文科卒。福岡学芸大学講師、西南学院大学講師、神戸大学助教授、大阪大学教養部助教授、言語文化部教授、1993年定年退官、名誉教授、関西外国語大学教授、1999年甲子園大学教授。英訳聖書、サミュエル・ジョンソンなどについて研究した。
大下 浩爾(おおした こうじ、1928年1月18日 - 20… 大下 浩爾(おおした こうじ、1928年1月18日 - 2015年12月26日)は、広島県出身の実業家。マッキャンエリクソン博報堂(現マッキャンエリクソン・ジャパン)社長を務めた。
角田 達郎(つのだ たつお、1928年1月18日 - 200… 角田 達郎(つのだ たつお、1928年1月18日 - 2006年2月20日)は、日本の実業家・官僚。西日本旅客鉄道(JR西日本)の初代社長を務めた。 東京都出身。東京大学を卒業後、運輸省(現国土交通省)に入省。自動車局長や大臣官房長、海上保安庁長官を歴任した。 1987年4月1日、国鉄分割民営化に伴い発足した、JR西日本の初代社長に就任。同社は国鉄時代の負債は国鉄清算事業団に引き継いだものの、設備や社員など、必ずしも競争環境に適合しない資産を引き継いでの船出であった。大阪都市圏においては有力な私鉄各社や、長距離輸送については航空会社と激しい競合関係にある上に、北陸地方・中国地方を中心に不採算なローカル線を多く抱えており、人口の多い首都圏を商圏に含むJR東日本や東海道新幹線を有するJR東海に比して、収益構造が脆弱であった。
栗山 昌良(くりやま まさよし、1926年(大正15年)1月… 栗山 昌良(くりやま まさよし、1926年(大正15年)1月18日 - 2023年(令和5年)6月23日)は、日本の演出家、オペラ演出家、教育者。国立音楽大学名誉教授。劇団青年座座友。妻は声楽家(メゾソプラノ)の松内和子。 東京出まれ。獨逸学協会学校中学部卒業。 1946年(昭和21年)千田是也、伊藤道郎主宰の舞台芸術アカデミーに入所、舞台芸術への道を歩み始める。舞台芸術アカデミー卒。1949年(昭和24年)劇団俳優座に入り、1950年(昭和25年) - 1965年(昭和40年)俳優座演劇研究所所員として近代リアリズム演劇の表現手法を研究。同時に附属俳優養成所発足に伴い、講師として演劇映画界の俳優養成にあたる。
種瀬 茂(たねせ しげる、1925年(大正14年)1月18日… 種瀬 茂(たねせ しげる、1925年(大正14年)1月18日 - 1986年(昭和61年)6月17日)は、日本の経済学者。マルクス経済学専攻。一橋大学学長、国立大学協会副会長、経済理論学会代表幹事等を歴任した。 神奈川県横浜市生まれ。横浜市立横浜小学校、神奈川県立横浜第一中学校(現神奈川県立希望ヶ丘高等学校)、東京商科大学(現一橋大学)予科を経て、東京商科大学では杉本栄一ゼミナールに所属。1948年の卒業後、助手として大学に残る。助手時代は、杉本の『近代経済学の解明』において質問者の一人として貢献する。 1953年講師、57年助教授、65年教授。79年より2年間学部長。83年から2年間、野々村一雄一橋大学名誉教授の後任として経済理論学会代表幹事。
飯室 芳男(いいむろ よしお、1925年1月18日 - )は… 飯室 芳男(いいむろ よしお、1925年1月18日 - )は、日本の三段跳選手。 山梨県甲府市に生まれる。1942年、甲府工業学校を卒業し、1951年の第1回アジア競技大会の三段跳で優勝する。ついで1952年ヘルシンキオリンピックに出場し、6位に入賞した。 その後は、1954年山梨大学学芸学部非常勤講師、1980年山梨県国体準備局次長、1983年山梨県体育協会専務理事、1987年日本体育協会理事、日本スポーツ少年団副本部長、日本陸上競技連盟審議会会員などを歴任した。1995年県政功績者。2000年勲五等瑞宝章。
伊藤 昌寿(いとう よしかず、1925年 <大正14年> 1… 伊藤 昌寿(いとう よしかず、1925年 <大正14年> 1月18日 - 2006年 <平成18年> 2月18日)は、日本の経営者、工学博士。兵庫県神戸市出身。位階は正四位。 1948年に京都大学農学部農林化学科を卒業し、同年に東洋レーヨン(のちの東レ)に入社。 1970年11月に田代茂樹会長の抜擢により、取締役に就任し、1973年11月に常務、1978年6月に副社長を経て、1981年1月に社長に就任した。1987年4月に会長に就任し、1995年6月から相談役に就任した。 日本化学会会長なども歴任。 2006年2月18日心不全のために死去。81歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
笹森秀雄(ささもり ひでお、1925年1月18日 - 201… 笹森秀雄(ささもり ひでお、1925年1月18日 - 2014年6月13日)は、日本の社会学者。学校法人吉田学園前学園長。専門分野は都市社会学、この他、医療社会学なども研究。北海道奥尻郡奥尻町出身。 1952年、北海道大学文学部哲学科卒業。同年、北海道大学文学部助手(指導教授:鈴木栄太郎・関清秀)。その後、北海道大学スラブ研究センター助手。1964年同教養部専任講師。1965年、北海道大学文学部助教授。1973年、旭川医科大学創立に伴い同医学部教授に就く。1990年、旭川医科大学停年退官。同名誉教授。北海道東海大学国際文化学部教授。1995年、北海道東海大学定年退職。学校法人吉田学園学園長。2007年、学校法人吉田学園退職。
高島 照治(たかしま てるじ、1924年〈大正13年〉1月1… 高島 照治(たかしま てるじ、1924年〈大正13年〉1月18日 - 2006年〈平成18年〉3月17日)は、日本の農業家、政治家。主な役職に群馬県議会議員、同議長、嬬恋村議会議員、日本ホルスタイン登録協会会長など。 大正13年(1924年)、群馬県吾妻郡草津町に生まれる。長野県立小諸商業学校(現・長野県小諸商業高等学校)を卒業。 太平洋戦争終結後復員すると、1946年(昭和21年)に嬬恋村(群馬県吾妻郡)に入植し、仙之入開拓農協(全国開拓農業協同組合連合会参照)を設立して組合長に就任した。 群馬県の畜産に関する様々な団体の要職を歴任したほか、1984年(昭和59年)からは日本ホルスタイン登録協会の会長を務め、牛の個体識別システムの導入に携わった。
照ノ海 照光(てるのうみ てるみつ、1922年1月18日 -… 照ノ海 照光(てるのうみ てるみつ、1922年1月18日 - 没年不明)は、高知県南国市出身で二所ノ関部屋に所属した元大相撲力士。本名は北村 照光(きたむら てるみつ)。171cm、99kg。最高位は西十両筆頭。得意技は左四つ、寄り。 1936年1月場所に初土俵。入門してしばらくは全く勝ち越すことができかったが、1939年1月場所に入門して初めての勝ち越しを決めると、逆に勝ち越しを続けていき、1941年5月場所に十両昇進。1943年5月場所には西十両筆頭まで躍進するも入幕ならず、1947年11月場所に25歳で廃業した。
中山 仁(なかやま じん、1921年〈大正10年〉1月18日… 中山 仁(なかやま じん、1921年〈大正10年〉1月18日 - 2004年〈平成16年〉4月26日)は、日本の体育学者。新潟大学名誉教授。 新潟県新潟市田中町(現 新潟市中央区田中町)の新潟鐵工所新潟工場技師・中山礼吉の三男として出生。 1938年(昭和13年)3月に新潟中学校を卒業、1941年(昭和16年)12月に東京高等師範学校体育科を卒業。 1942年(昭和17年)に埼玉県立熊谷中学校教諭に就任、1943年(昭和18年)4月に応召、南方各地を転戦し、1946年(昭和21年)6月に帰還、同年に新潟高等学校教授に就任、1949年(昭和24年)に新潟大学教育学部助教授に就任、1971年(昭和46年)に新潟大学教育学部教授に就任、1986年(昭和61年)に新潟大学を定年退官、新潟大学名誉教授の称号を受称、関東学園大学教授に就任、1994年(平成6年)に退職。
南部 陽一郎(なんぶ よういちろう、英語: Yoichiro… 南部 陽一郎(なんぶ よういちろう、英語: Yoichiro Nambu、1921年1月18日 - 2015年7月5日)は、日系アメリカ人の理論物理学者。シカゴ大学名誉教授、大阪市立大学名誉教授・特別栄誉教授、大阪大学特別栄誉教授、立命館アジア太平洋大学アカデミック・アドバイザー。専門は素粒子理論。理学博士(東京大学・1952年)。 福井県福井市出身。1970年に日本からアメリカ合衆国へ帰化した。 日系アメリカ人(一世)の理論物理学者で1952年に渡米、1960年代に量子色力学と自発的対称性の破れの分野において先駆的な研究を行ったほか、弦理論の創始者のひとりとしても知られ、現在の素粒子物理学の基礎をなす様々な領域に多大な貢献をなした。
山口 恵一郎(やまぐち けいいちろう、1921年(大正10年… 山口 恵一郎(やまぐち けいいちろう、1921年(大正10年)1月18日 - 1991年(平成3年)10月9日)は、日本の地理学者、地名研究家。 1921年(大正10年)1月18日、愛知県豊橋市に生まれる。旧制豊橋中学校卒業後、小学校教諭を務めるが、退職して上京。1942年(昭和17年)に法政大学高等師範部歴史地理科を卒業する。渡辺光に師事した。文科省図書局・教科書局を経て、1946年建設省国土地理院地図部研究員に勤務。地図部研究係長、技術院養成所(建設大学校)教官、同研究員などを歴任する。1960年からは国土地理院の代表として、海上保安庁水路部と共同で設立された「地名等の統ーに関する連絡協議会」の委員を勤めた。
德川 義恭(とくがわ よしやす、1921年(大正10年)1月… 德川 義恭(とくがわ よしやす、1921年(大正10年)1月18日 - 1949年(昭和24年)12月12日)は、日本の美術研究者、装幀家。 尾張徳川家の分家の当主である男爵・徳川義恕の四男。母方の祖父・津軽承昭は弘前藩主。長兄・徳川義寛は昭和天皇の侍従・侍従長。姉・祥子の夫は北白川宮永久王。次兄・義孝(津軽英麿の養子となる)の娘は、常陸宮正仁親王妃華子で、義恭の姪にあたる。 夫人・雅子(のりこ)は田安徳川家の徳川達成の長女。 1942年(昭和17年)、学習院高等科を卒業し、東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学。同年7月1日、三島由紀夫や東文彦と共に同人誌『赤絵』を創刊した。同誌および、1944年(昭和19年)10月発行の三島の処女作品集『花ざかりの森』(七丈書院)の装幀を担当した。
牧野 昇(まきの のぼる、1921年1月18日 - 2007… 牧野 昇(まきの のぼる、1921年1月18日 - 2007年3月2日)は、日本の技術評論家。元三菱総合研究所会長、東京大学工学博士。 栃木県出身。1944年東京帝国大学工学部卒業。同大学院修士課程修了。1956年東京大学工学博士。 東大の講師をへて、1951年東京計器製造所(現東京計器及び長野計器)に入社。在学中に発明したMT磁石の工業化に成功する。1964年三菱製鋼に移る。1970年三菱総合研究所の設立に参画し、専務、副社長を経て、1984年会長、1994年相談役。技術予測、産業政策の論評で知られた。1999年原子力事故防止のための「NSネット」初代理事長に就任。
杉本 悌二郎(すぎもと ていじろう、1921年1月18日 -… 杉本 悌二郎(すぎもと ていじろう、1921年1月18日 - 1988年10月25日)は、日本の実業家。元ノリタケカンパニーリミテド社長・会長。 愛知県生まれ。旧制東京商科大学(のちの一橋大学)を卒業し、1942年日本陶器入社。 通算15年の米国生活を経て、副社長就任。1971年には米国ノリタケ社長として、磁器製食卓用品に関する米国関税委員会公聴会で証言する。 1977年日本陶器代表取締役社長就任。積極経営を進め1981年に社名をノリタケカンパニーリミテドに変更。同年脳血栓で倒れ、1982年倉田隆文を後任社長とし社長を退き、代表取締役会長就任。1984年会長を退任し、相談役に就任。これまで務めていた森村グループ企業の日本碍子、日本特殊陶業、東陶機器(現・TOTO)などの役員からも退く。
岡崎 哲夫(おかざき てつお、1920年(大正9年)1月18… 岡崎 哲夫(おかざき てつお、1920年(大正9年)1月18日 - 2000年(平成12年)12月15日)は、昭和後期から平成にかけての社会運動家。森永ミルク中毒資料館館長。 1920年(大正9年)岡山県に生まれる。早稲田大学在籍中の1941年(昭和16年)には、軍事教練を拒否したため、大学を中退している。1943年(昭和18年)臨時召集により、関東軍満洲第409部隊(歩兵第10連隊、佳期斯)に入隊。1945年(昭和20年)関東軍満洲第15国境守備隊(旧満洲国東安省虎頭要塞)に転属。この年、ソ連軍との激戦に生還している。その後、シベリアに抑留され、1948年(昭和23年)、帰国する。 1955年(昭和30年)に発生した森永ヒ素ミルク中毒事件の被災時の父親の一人として、森永ミルク被災者同盟の初代委員長に就任。
渡邊 睦裕(わたなべ むつひろ、1918年1月18日 - 2… 渡邊 睦裕(わたなべ むつひろ、1918年1月18日 - 2003年4月1日)は、大日本帝国陸軍の軍人。近衛歩兵第一連隊所属。最終階級は軍曹、ポツダム曹長。 捕虜監視員として東京俘虜収容所本所(大森)、第四分所(新潟県直江津)、第十二分所(長野県満島)に勤務。日本軍によって捕らえられた戦争捕虜を虐待していたことで知られる。捕虜たちから「ザ・バード(the Bird)」とあだ名されていた。敗戦後、戦犯として指名手配されるが、連合国軍による占領終結まで逃げ延び、起訴されることはなかった。 6人兄弟の4番目として、ホテルや鉱山を経営する豊かな家に生まれる。早稲田大学に進学し、フランス文学を専攻。卒業後、徴兵されるまでの1か月間、同盟通信社に勤務していた。
二代目 市村 吉五郎(にだいめ いちむら よしごろう、191… 二代目 市村 吉五郎(にだいめ いちむら よしごろう、1918年1月18日 - 2010年2月17日)は、歌舞伎役者。屋号は橘屋。定紋は根割り橘、替え紋は渦巻。公家役を得意とした。 1918年(大正7年)1月18日、十二代目片岡仁左衛門の次男として生まれる。 1922年(大正11年)12月天満八千代座『三日月次郎吉』の三太で本名の片岡義直の名で初舞台。 1940年(昭和15年)十五代目市村羽左衛門の養子となる。 1941年(昭和16年)1月歌舞伎座『鞍馬山だんまり』の牛若丸で二代目市村又三郎を襲名し名題昇進。 1946年(昭和21年)3月、父、十二代目片岡仁左衛門が下男に殺される(片岡仁左衛門一家殺害事件)。
神山 恵三(かみやま けいぞう、1917年〈大正6年〉1月1… 神山 恵三(かみやま けいぞう、1917年〈大正6年〉1月18日 - 1988年〈昭和63年〉12月22日)は、日本の生気象学者。東京農工大学教授、共立女子大学教授を歴任。医学博士。日本環境学会会長。 1917年(大正6年)、群馬県桐生市に生まれる。旧制桐生中学校を経て、1949年(昭和24年)気象大学校を卒業。 1949年(昭和24年)から気象研究所に勤務し、1950年(昭和25年)研究室長となった。1951年(昭和26年)東京医科歯科大学講師を兼務。1959年(昭和34年)「寒冷刺戟によるプレチスモグラムの変動について」で東京医科歯科大学医学博士。1976年(昭和51年)東京農工大学農学部教授となり、1980年(昭和55年)まで勤務。
河合 良一(かわい りょういち、1917年1月18日 - 2… 河合 良一(かわい りょういち、1917年1月18日 - 2008年11月3日)は、日本の経営者。小松製作所社長を務めた。 東京都で実業家河合良成の長男として生まれた。1939年に東京帝国大学経済学部を卒業。同年、短期現役海軍主計科士官(3期)を志願。同年10月、海軍経理学校に入学し海軍主計中尉に任官。1940年3月に経理学校を卒業。東京監督官事務所に配属。1944年11月、海軍主計少佐に進み、軍需省航空兵器総局勤務で終戦を迎えた。 日産自動車、商工省、農林省、通商産業省での勤務を経て、1954年に小松製作所に入社。1955年に取締役に就任し、1958年に常務、1960年に専務、1963年に副社長を経て、1964年に社長に就任。
天草 四郎(あまくさ しろう、1917年1月18日 - 19… 天草 四郎(あまくさ しろう、1917年1月18日 - 1986年7月25日)は、日本の俳優。熊本県熊本市出身。 芸名は同郷の天草四郎からとった。舞台俳優の天草浪子は従姉妹。義父(妻の父)は新国劇の俳優だった根岸若之助。 横浜戸部商業学校中退後。満州に渡り、ハルピン放送局のラジオドラマに出演。従姉妹の天草浪子から影響を受けたことから、1938年に新劇俳優に転向し、満州劇団ハルピンに入団。1939年(昭和14年)満映作品『私のうぐいす』で映画俳優としてデビュー。1944年に応召を受け、慰問活動に参加。1945年に復員し、日本に帰国。1946年に京都府にて劇団銀星座を立ち上げる。1948年、函館NHK放送劇団入団。
松岡利夫(まつおか としお、1914年1月18日ー1994年… 松岡利夫(まつおか としお、1914年1月18日ー1994年2月6日)は、日本の民俗学者。 奈良県出身。1947年広島文理科大学史学科卒、九州大学大学院修了(旧制)。公立学校教諭をへて、1951年山口大学人文学部助教授、教授、77年定年退官、名誉教授、山口女子大学教授、1979-89年岩国短期大学学長。89年秋、勲三等旭日中綬章受勲。