伊藤 勲(いとう いさお、1917年1月20日 - 2012… 伊藤 勲(いとう いさお、1917年1月20日 - 2012年11月15日)は、日本の政治学者、上智大学名誉教授。 山形県山形市生まれ。1938年中央大学専門部法律科卒、1939年内閣情報局勤務、1941年中央大学法学部卒、中央気象台勤務、1949年運輸省へ出向。1957年上智大学法学部助教授、1963年教授、1966年「明治政党史の研究」で中大法学博士。1983年上智大学を定年、名誉教授、松阪大学教授。
渡辺 弥栄司(わたなべ やえじ、1917年(大正6年)1月2… 渡辺 弥栄司(わたなべ やえじ、1917年(大正6年)1月20日 - 2011年(平成23年)は、通商産業省官僚、弁護士。退官後、日中経済協会、国際ビジネスコミュニケーション協会(IIBC)、ビューティフルエージング協会(BAA)の設立のほか、通産省に関係する多くの公益法人の理事などを務めたが、財団私物化疑惑が2009年に週刊誌に報じられ、92歳で理事長などの重職から退いた。 新潟県北蒲原郡中条町(現・胎内市)で10人兄弟姉妹の5番目として生まれる(実家は新潟県関川村の豪農・渡辺家の一族)。新発田の中学を卒業後、姫路高等学校 (旧制)へ進学。1939年に東京帝国大学法学部法律学科卒業後、商工省(現・経済産業省)入省。
田中 志津(たなか しづ、1917年〈大正6年〉1月20日 … 田中 志津(たなか しづ、1917年〈大正6年〉1月20日 - 2024年〈令和6年〉11月3日)は、日本の女性作家。日本文藝家協会会員。本名は田中 シヅ。 次男の田中佑季明も同じく作家である。 新潟県北魚沼郡小千谷町に生まれる。1966年(昭和41年)に随筆日記「雑草の息吹」が「今日の佳き日は」としてNHKで放送される。長女の佐知がFM放送で2001年(平成13年)に『佐渡金山を彩った人々』を全編朗読し、2003年(平成15年)には『冬吠え』を全編朗読した。 2005年(平成17年)、佐渡金山に「田中志津文学碑」(佐渡金山顕彰碑)が建立され、2010年(平成22年)には新潟県小千谷市船岡公園に「田中志津生誕之碑」が建立された。
稲村 佐近四郎(いなむら さこんしろう、1917年1月20日… 稲村 佐近四郎(いなむら さこんしろう、1917年1月20日 - 1990年7月29日)は、日本の政治家。元自由民主党衆議院議員(8期)。 石川県羽咋市大町出身。安田商工専門学校卒業。建設会社社長を経て、1963年の第30回衆議院議員総選挙に旧石川2区から立候補し初当選。連続当選8回(当選同期に小渕恵三・橋本龍太郎・小宮山重四郎・田中六助・伊東正義・渡辺美智雄・佐藤孝行・藤尾正行・中川一郎・鯨岡兵輔・西岡武夫・奥野誠亮・三原朝雄など)。自民党内では中間派の大野伴睦→村上勇→水田三喜男派に所属したが消滅後は中曽根康弘派に合流。1977年福田改造内閣の総理府総務長官兼沖縄開発庁長官として初入閣。1983年第2次中曽根内閣で国土庁長官兼北海道開発庁長官として再度入閣を果たす。
小坂 徳三郎(こさか とくさぶろう、1916年1月20日 -… 小坂 徳三郎(こさか とくさぶろう、1916年1月20日 - 1996年2月23日)は、日本の実業家・政治家。信越化学工業社長・会長、信濃毎日新聞社長、衆議院議員、運輸大臣(53代)などを歴任した。 東京帝国大学卒業後、朝日新聞記者から、小坂財閥に戻り、信越化学工業社長に。財界活動も始め、財界の支援で1969年に政界入りした。将来の首相候補といわれ、一年生議員ながら、政策集団「新風政治研究会」を設立、当選2回で総理府総務長官で初入閣した。以降も経済企画庁長官や運輸大臣を歴任し、大平、中曽根康弘とともに「大中小」、安倍晋太郎、竹下とともに「安竹小」と総理総裁候補として目された。しかし、運輸大臣時代に国鉄改革をめぐって、土光敏夫や中曽根康弘首相など政財界の支持を失い、影響力が低下。
近藤 良三(こんどう りょうぞう、1916年(大正5年)1月… 近藤 良三(こんどう りょうぞう、1916年(大正5年)1月20日 - 没年不詳)は、日本の作曲家。元徳島大学学芸学部教授。東京音楽学校卒業。香川県高松市出身。 香川県高松市出身。1943年(昭和18年)に東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)を卒業。作曲を下総皖一と田中規矩士に師事した 。 徳島大学学芸学部で教授を務める傍ら、徳島県内の小中学校で数多くの学校歌を手掛け、とりわけ保科千代次が作詞を務めることが多かった。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、音楽関係者(バンド等)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:芸能人)。
倉石 隆(くらいし たかし、大正5年(1916年)1月20日… 倉石 隆(くらいし たかし、大正5年(1916年)1月20日 - 平成10年(1998年)11月19日)は、新潟県高田市(現上越市)に生まれた洋画家。 太平洋美術学校で学び、自由美術協会を経て昭和39年(1964年)、主体美術協会の創立会員となる。人物油彩画を中心に制作した。書籍や新聞雑誌の挿絵も多く手がけた。 昭和62年(1987年)、脳梗塞で倒れて右半身と言語機能を失うも左手で制作を続け「左手のデッサン帳」の出展を重ねた。平成10年(1998年)に82歳で死去。 上越市の樹下美術館に常設展示されている。 平成7年(1995年)9月から10月にかけて新潟市美術館で倉石隆展が開催された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
吉川 勇次(よしかわ ゆうじ、1915年1月20日 - 19… 吉川 勇次(よしかわ ゆうじ、1915年1月20日 - 1977年2月6日)は、日本のヤクザ。暴力団三代目山口組若頭補佐、初代吉川組組長。三重県度会郡出身。 大正4年(1915年)三重県度会郡に生まれた。 大正8年(1919年)、兵庫県神戸市に移住した。 昭和6年(1931年)、神戸二中(後の兵庫県立兵庫高等学校)に入学した。田岡一雄(後の三代目山口組組長)らと喧嘩を繰り返した。その後、父親の病死で神戸二中を中退した 昭和20年(1945年)終戦後、田岡一雄と再会した。 同年、田岡が神戸市兵庫区下沢通りで田岡組を作った。吉川勇次も田岡組に参加した。戦後の混乱で警察力は弱体化していた。田岡は、街や闇市の警備のために、神戸市新開地の「花月劇場を本拠地に「自警団」を結成し、闇市への不良在日外国人の干渉を排除した。
遊佐 正憲(ゆさ まさのり、1915年(大正4年)1月20日… 遊佐 正憲(ゆさ まさのり、1915年(大正4年)1月20日 - 1975年(昭和50年)3月8日)は、日本の水泳選手。1932年ロサンゼルスオリンピックの800mリレーで金メダル、1936年ベルリンオリンピックの800mリレーで金メダル、100m自由形で銀メダルを獲得した。 香川県仲多度郡多度津町の出身。旧制多度津中学校(現・香川県立多度津高等学校)から日本大学に進学、日大1年次の17歳で出場した1932年ロサンゼルスオリンピック800メートルリレーで宮崎康二、横山隆志、豊田久吉とチームを組んで金メダルを獲得する。この800mリレーの優勝を讃えられ、遊佐は宮崎、横山、豊田と共に1932年度の朝日賞体育部門(現・朝日スポーツ賞)を受賞した。
丹羽 淑雄(にわ としお、1914年1月20日 - 没年不明… 丹羽 淑雄(にわ としお、1914年1月20日 - 没年不明)は、名古屋軍(現在の中日ドラゴンズ)に所属した野球選手。守備位置は投手。右投げ。名古屋軍で初めて背番号1を背負った選手である。
大久保 利春(おおくぼ としはる、1914年1月20日 - … 大久保 利春(おおくぼ としはる、1914年1月20日 - 1991年11月30日)は、日本の実業家。 1914年(大正3年)、大久保利賢(横浜正金銀行頭取、大久保利通八男)と和喜子(高橋是清次女)の長男として生まれた。大久保利通の孫、かつ、高橋是清の孫にあたる。妻は和子(事業家の坂内虎次の娘で、与謝野馨の叔母)。姉・百合子の夫は安田一(安田財閥当主)。 同姓同名の人物に、1946年設立の時計店・宝飾品店の経営者がいる。 1938年(昭和13年)東北帝国大学法科を卒業後、三和銀行に入行。 戦後の1949年(昭和24年)、日本海商事の代表取締役に就任し、朝鮮戦争のあいだ、児玉誉士夫設立の東京レアメタルの輸送部門を請け負っていた。
鈴木 正二(すずき しょうじ、1913年1月20日 - 20… 鈴木 正二(すずき しょうじ、1913年1月20日 - 2010年9月21日)は、日本の経営者。第四銀行頭取、会長を務めた。新潟県出身。 1935年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年に第四銀行に入行した。1959年11月に取締役に就任し、1962年11月に常務、1970年3月に専務を経て、1972年11月に頭取に就任した。1983年3月に会長に就任し、1988年6月から取締役相談役を務めた。 1978年11月に藍綬褒章を受章し、1983年11月に勲三等瑞宝章を受章した。 2010年9月21日肺炎のために死去。97歳没。
山手 満男(山手 滿男、やまて みつお、1913年(大正2年… 山手 満男(山手 滿男、やまて みつお、1913年(大正2年)1月20日 – 1973年(昭和48年)4月17日)は、昭和期の日本の政治家。位階は正三位。 労働大臣(第25代)、衆議院議員(9期)を歴任。 1913年山口県玖珂郡周東町(現在の岩国市)生まれ。旧制松江高等学校を経て、1937年に京都帝国大学法学部を卒業後、東洋紡績に入社。戦時中はジャワ島ジョクジャカルタの軍委託タバコ工場に派遣されていた。 戦後帰国して同社(東洋紡績)四日市工場に勤務する傍ら東洋紡績労働組合の役員。その後、三重繊維工業の役員→毛織物共同組合役員→四日市織物等各社の役員→伊勢毛織協同組合理事長などを歴任し、1949年の第24回衆議院議員総選挙に民主党公認で三重県第1区 (中選挙区)(旧三重1区)から立候補して初当選(当選同期に池田勇人・佐藤栄作・前尾繁三郎・麻生太賀吉・橋本龍伍・小渕光平・西村英一・橋本登美三郎・福永健司・塚原俊郎・木村俊夫・藤枝泉介・稲葉修・河本敏夫・森山欽司・床次徳二・有田喜一など)。
彌永 恭二郎(いやなが きょうじろう、1913年 <大正2年… 彌永 恭二郎(いやなが きょうじろう、1913年 <大正2年> 1月20日 - 2002年 <平成14年> 1月20日)は、日本の経営者。日本光学工業(現在のニコン)社長、会長を務めた。位階は従四位。 東京出身。銀行家・弥永克己の二男。兄に弥永昌吉、弟に弥永貞三。1934年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年に三菱銀行に入行。1965年5月に取締役に就任し、1967年11月には常務に就任。 1969年5月に日本光学工業副社長に就任し、1973年5月には社長に昇格。1979年6月に会長に就任し、1983年6月から相談役を務めた。 1983年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 2002年1月20日心不全のために死去。
安藤 はつ(あんどう はつ、1912年〈明治45年〉1月20… 安藤 はつ(あんどう はつ、1912年〈明治45年〉1月20日 – 1985年〈昭和60年〉12月4日)は、政治家、衆議院議員(1期)。旧姓は千。日本初の女性代議士の一人である。 静岡県田方郡韮山村(現伊豆の国市)出身。静岡県の教員養成所を卒業後、大見村の国民学校で教鞭を執り、安藤秀雄との結婚により退職した。その後、疎開で長野県に移った。 1946年の第22回衆議院議員総選挙に日本平和党公認で長野県から立候補し当選し、日本初の女性代議士の一人となった。その後、国民協同党に移り、1947年の第23回衆議院議員総選挙で落選した。 1951年7月23日に有価証券詐欺などの容疑で夫婦ともに起訴され、懲役一年に処された。
井上 禅定(いのうえ ぜんじょう、1911年〈明治44年〉1… 井上 禅定(いのうえ ぜんじょう、1911年〈明治44年〉1月20日 - 2006年〈平成18年〉1月26日)は、日本の禅僧。元東慶寺住職。相模工業大学教授。学僧として名高く、また自然保護運動でも活躍した。 神奈川県高座郡渋谷村(現・藤沢市)高倉に円覚寺派東勝寺の禅僧の三男として生まれる。大正の初め、父の転住に伴い、足柄上郡南足柄村(現・南足柄市)の狩野極楽寺に移る。この極楽寺は臨済宗円覚寺の末寺であり、そこで少年時代の井上は、晩年の釈宗演の法話を聞き感銘を受ける。1921年春、10歳で親元を離れ鎌倉に赴き、東慶寺住職として釈宗演の跡を継いでいた佐藤禅忠の弟子となる。 神奈川県立湘南中学校(現在の神奈川県立湘南高等学校)、松本高等学校文科甲類を経て、東京帝国大学文学部印度哲学科で辻直四郎の指導を受け、また和辻哲郎にも学ぶ。
秋月直胤(あきづき なおかず、1911年〈明治44年〉1月2… 秋月直胤(あきづき なおかず、1911年〈明治44年〉1月20日 - 1988年〈昭和63年〉11月)は日本の歌手、教育者。 岡山県岡山市広瀬町出身。東京音楽学校を卒業後も声楽の研究を続けるつもりでいたが、山田耕筰の推薦でコロンビアレコードに入り、青山 薫(あおやま かおる)の芸名で歌手として活動する。青山薫の芸名は西條八十によるものである。流行歌歌手を引退後はクラシック界に復帰し、バリトン独唱者として活躍した。1948年(昭和23年)には大阪音楽大学に声楽部長、教授として招かれ、教鞭をとった。 その後大学を退いて新設音楽大学の設立を計画するもかなわず、1951年(昭和26年)4月からは兵庫県宍粟郡山崎町(現在の宍粟市)に居を移し、兵庫県立山崎高等学校で教鞭をとる。
北川 弥助(きたがわ やすけ、1911年1月20日 - 20… 北川 弥助(きたがわ やすけ、1911年1月20日 - 2005年6月9日)は、滋賀県の政治家、滋賀県議会議員。五個荘町名誉町民。県議を連続14期・約53年間務め、大山広司に更新されるまで全国の県議の在職期間の最長記録保持者だった。戦後の滋賀を語る「県政の生き字引」と呼ばれた。 滋賀県神崎郡旭村伊野部(現東近江市五個荘伊野部町)出身。油の行商の傍ら青年団活動を行い、1950年の第1回統一地方選県議補選で民主自由党から立候補して初当選。その後、連続で14期・19440日間議員を務めた。1970年に藍綬褒章、1981年に勲三等瑞宝章を受章。1998年には都道府県議で初の在職五十年表彰を受賞した。 県議会議長を三回、自民党県連会長三回、全国農業共済協会副会長、県商工連合会長、県農業共済連合会長、県土地改良事業団体連合会長、愛知川沿岸土地改良区理事長など多くの役職を務めた。
中村 浩(なかむら ひろし、1910年〈明治43年〉1月20… 中村 浩(なかむら ひろし、1910年〈明治43年〉1月20日- 1980年〈昭和55年〉12月30日)は、日本の微生物学者。別名「うんこ博士」。「泉三三彦」名義の著書もある。 1910年、成蹊学園創立者・中村春二の次男として東京本郷富士前町で生まれた。1927年に旧制成蹊高等学校理科を卒業。東京帝国大学理学部植物学科で学び、1933年に卒業。 1942年、東京帝国大学理学部講師に就いた。1943年、ドイツ語執筆した学位論文『紅色細菌の代謝生理への寄与』を東京帝国大学に提出して理学博士号を取得。 戦後の1950年、九州大学理学部教授に就いた。その後、近畿大学教授に転じた。1959年、日本クロレラ研究所副所長。
高森 文夫(たかもり ふみお、1910年1月20日 - 19… 高森 文夫(たかもり ふみお、1910年1月20日 - 1998年6月2日)は、宮崎県生まれの詩人、政治家。 中原中也と親交が深かったことで知られる。旧制成城高等学校時代に後輩の吉田秀和と同居を始め、吉田のフランス語の家庭教師だった中也と知り合った。当時高森は21歳、中也は24歳だった。高森は同人誌「白痴群」などで発表されていた中也の詩をすでに読んでいたため、二人はすぐに仲良くなり、1932年5月には京都・奈良を二人で旅行。8月には山口県に帰省中だった中也を高森が訪問した後に二人で高森の実家の宮崎へと向かい、そのまま九州旅行をした。中也の死後も積極的に回想などを綴り、研究にも協力した。中也が藁の上で寝転んでいる有名な写真は、中也が宮崎を訪れた際に高森の手で撮影されたものである。
中村 輝夫(なかむら てるお、1910年1月20日 - 没年… 中村 輝夫(なかむら てるお、1910年1月20日 - 没年不明)は、愛媛県出身のプロ野球選手(捕手)。1937年の登録名は相原 輝夫(あいはら てるお)。
中村 輝夫(なかむら てるお、1910年1月20日 - 没年… 中村 輝夫(なかむら てるお、1910年1月20日 - 没年不明)は、愛媛県出身のプロ野球選手(捕手)。1937年の登録名は相原 輝夫(あいはら てるお)。 松山商業学校から明治大学に進学し、卒業後に京城電気へと進む。1936年に名古屋金鯱軍に入団。主将を任されるが、目立った成績を残すことなく1937年に応召される。1939年に金鯱軍へ復帰するが、ここでも打率.220と低迷し、同年限りで再び退団。 この項目は、野球選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ野球選手/P野球)。
今川 憲次 (いまがわ けんじ IMAGAWA Kenji、… 今川 憲次 (いまがわ けんじ IMAGAWA Kenji、1908年1月20日 - 1984年4月17日)は、北海道・根室市出身の英文学者、南山大学名誉教授。 第八高等学校教授等を経て、南山大学で教鞭をとる。 中世英文学とカトリック系文学の解明をライフワークとした。 言語時評を中心とした軽妙洒脱なエッセイの書き手として活躍。 妻・蕁子(かずこ)は文化学院女学部の教師時代に、与謝野晶子の助手として師事。 同僚に、西村伊作、戸川秋骨、与謝野鉄幹、西脇マジョリーがいた。 今川の文学研究のありように関して、遠藤周作は他の欧米文学研究者と基本的にちがう点をあげ、「文学研究をとおして御自分の基督教を練磨」したことにあると、最高の賛辞をもって評した。
奥田 豊三(おくだ とよぞう、1908年(明治41年)1月2… 奥田 豊三(おくだ とよぞう、1908年(明治41年)1月20日 - 1983年(昭和58年)10月7日)は、参謀本部陸地測量部の測量官を務めた陸軍技師、内務官僚。第2代国土地理院長を務めた。 富山県富山市出身。第四高等学校理科甲類から1933年(昭和8年)3月31日東京帝国大学理学部天文学科学士試験合格後、東京天文台を経て、1942年(昭和17年)11月10日陸軍技師(高等官六等)に任官し陸地測量部付となる。 終戦を受け陸地測量部解体後、地理調査所を経て、1952年(昭和27年)理学博士(東京大学)、1961年(昭和36年)4月1日国土地理院長に就任。1962年(昭和37年)10月1日に国土地理院長を退官後は緯度観測所長、日本天文学会理事長、日本地図調製業協会会長を務めた。
吉識 雅夫(よしき まさお、1908年1月20日 - 199… 吉識 雅夫(よしき まさお、1908年1月20日 - 1993年6月27日)は、日本の船舶工学者、東京大学名誉教授。兵庫県福崎町名誉町民。理学博士(1945年・東京帝国大学、論文タイトルは『圧縮ヲ受ケル船体構造部分ノ挫屈並ニ圧壊強度ノ研究』) 長崎県対馬生まれ、兵庫県福崎町出身。旧制一高、東京帝国大学工学部卒業。東京理科大学学長、学士会理事長(第5代、1988年から没時まで)などを務めた。 船体構造の強度や振動に対する研究で功績を上げる。東京大学在住中は、船舶の構造力学に関する研究並びに教鞭に従事した。特に船の大型化および溶接に関する研究に専念し、日本造船業を当時「世界一の造船王国」に導くことに大きく寄与する。
小野 正則(おの まさのり、1907年1月20日 - 198… 小野 正則(おの まさのり、1907年1月20日 - 1989年12月7日)は、日本の経営者。明治乳業社長を務めた。北海道出身。 1926年に小樽高等商業学校を卒業し、同年に明治製菓に入社。1944年に明治乳業に転じ、1959年11月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1973年5月に社長に就任。1977年6月に会長に就任し、1979年6月には相談役に就任。 1989年12月7日急性心不全のために死去。82歳没。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
山口 和雄(やまぐち かずお、1907年 <明治40年> 1… 山口 和雄(やまぐち かずお、1907年 <明治40年> 1月20日 - 2000年 <平成12年> 5月1日)は、日本の経済史学者。東京大学名誉教授。日本経済史・経営史を専門とし、幕末・明治の経済史を研究した。位階は従四位。勲二等瑞宝章。 栃木県生まれ、千葉県出身。1932年(昭和7年)東京帝国大学経済学部卒。1934年(昭和9年)日本共産党に資金提供していたとして治安維持法違反の疑いで逮捕。1935年(昭和10年)-1945年(昭和20年)、アチック・ミューゼアムの研究員を務める。 第二次世界大戦後、北海道大学法文学部助教授、同経済学部教授を経て、1957年(昭和32年)東京大学経済学部教授。
四家 文子(よつや ふみこ、1906年(明治39年)1月20… 四家 文子(よつや ふみこ、1906年(明治39年)1月20日 - 1981年(昭和56年)7月16日)は、昭和期の歌手、声楽家。息子は元日本テレビプロデューサーの横田岳夫。 東京府出身。東京府立第三高等女学校の1学年上には女優の高島愛子がいた。東京音楽学校でネトケ=レーヴェに師事。首席で卒業後、「不壊の白珠」で歌手デビューする。とはいえ、四家が契約したビクターは当時、「波浮の港」「東京行進曲」「愛して頂戴」「紅屋の娘」などのヒット曲を連発していた佐藤千夜子がトップ歌手だったので、四家のデビューは小さいものだった。それに四家自身は「音楽学校卒業者があまり低俗にはしるのもよくない」として藤野豊子という変名で吹き込みも行っていた。
瀬谷 誠一(せや せいいち、1906年(明治39年)1月20… 瀬谷 誠一(せや せいいち、1906年(明治39年)1月20日 - 1978年(昭和53年)2月7日)は、日本の経営者、銀行家。東邦銀行頭取を務めた。 福島県出身。1932年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、浅野物産での勤務を経て、1934年7月に白河瀬谷銀行に入行。 1941年に郡山商業銀行、会津銀行、白河瀬谷銀行が合併し東邦銀行が発足。1948年10月に取締役に選任され、1964年5月に常務、1969年11月に副頭取に就任し、1972年2月には頭取に昇格。 1978年2月7日、急性心不全のために死去。72歳没。
田中勇(たなか いさむ、1905年(明治38年)1月20日 … 田中勇(たなか いさむ、1905年(明治38年)1月20日 - 2000年(平成12年)2月12日)は、日本の実業家。東京急行電鉄副社長、伊豆急行社長、東亜国内航空社長。五島慶太・昇父子に仕え「東急グループの大番頭」の異名で呼ばれた。
畠山 久尚(はたけやま ひさなお、1905年1月20日 - … 畠山 久尚(はたけやま ひさなお、1905年1月20日 - 1994年2月11日)は、日本の地球物理学者。 新潟県北蒲原郡新発田町生まれ。1922年旧制東京府立第三中学校卒業。1925年旧制第一高等学校理科甲類卒業。1928年東京帝国大学理学部物理学科を卒業し、中央気象台に入る。1949年気象研究所長、1958年東京管区気象台長、1963年気象庁長官。1965年退官、のち二松學舍大学教授、1975年名誉教授。 1938年10月に、地磁気湾形変化の研究を発表した。1940年「地磁気及び地電流の湾型変化並に脈動に関する研究」で理学博士の学位を取得。
佐藤 義美(さとう よしみ、男性、1905年1月20日 - … 佐藤 義美(さとう よしみ、男性、1905年1月20日 - 1968年12月16日)は、大分県竹田市出身の童謡作詞家、童話作家、詩人。代表曲に『犬のおまわりさん』など。ひらがな表記のさとう・よしみ名義の作品も存在する。 代表作の『犬のおまわりさん』は、2007年(平成19年)に日本の歌百選に選出されている。他に童謡の代表的な作品に、『グッドバイ』、『月の中』、『ともだちシンフォニー』、『おすもうくまちゃん』、『アイスクリームのうた』などがある。 また、童話集『あるいた雪だるま』は1954年(昭和29年)に第1回産経児童出版文化賞を、『佐藤義美全集』(全6巻)は1975年(昭和50年)に第5回赤い鳥文学賞を受賞している。
伊藤 秀五郎(いとう ひでごろう、1905年(明治38年)1… 伊藤 秀五郎(いとう ひでごろう、1905年(明治38年)1月20日 - 1976年(昭和51年)2月22日)は、日本の生物学者・登山家・アルピニスト・エスペランティスト。専門は、生物学・山岳文学論。元札幌静修短期大学学長。日本山岳会名誉会員。 神奈川県横浜市出身。北海道帝國大學予科卒。北海道帝國大學農学部卒。卒業後は、東京帝國大學医学部助手をしながら、日本各地の山々を登る。1935年(昭和10年)にはペンシルベニア大学にも生物学の研究のため留学。 1947年北海道学芸大学教育学部教授に就任。1958年北海道学芸大学退官。北海道教育庁教育長に就任。1965年教育庁停年退官。札幌医科大学教授。1972年札幌医科大学退官。
小林 正基(こばやし まさもと、1905年〈明治38年〉1月… 小林 正基(こばやし まさもと、1905年〈明治38年〉1月20日 - 1978年〈昭和53年〉10月27日)は、昭和時代の警察官・弁護士。 1905年1月、北海道空知郡中富良野村で小林権三郎の子として生まれる。1929年に高等試験行政科に合格。神奈川県巡査を拝命。1931年、明治大学法学部を卒業し、神奈川県警部補、神奈川県警部を経て1933年、高等試験司法科に合格。秦野警察署長、藤沢警察署長、神奈川県警察部保安課長、石川県警察部警務課長兼警防課長、福岡県警察部警務課長、海軍司政官、ボルネオ民政部に勤務。内務事務官、兵庫県警察部刑事課長、兵庫県警察部警務課長、青森県警察部長を歴任。1948年3月に横浜市警察局長に就任し、これをもって退官。
蛭川 幸茂(ひるかわ ゆきしげ、1904年(明治37年)1月… 蛭川 幸茂(ひるかわ ゆきしげ、1904年(明治37年)1月20日 - 1999年(平成11年)1月29日)は、旧制高校、及び新制大学の教授。 ヒルさん、蛭公の愛称で慕われた。 東京市小石川区に生まれる。愛知県西尾に転居し、1920年に名古屋市の明倫中学を4年で修了後、第八高等学校理科乙類に入学。 1923年東京帝国大学理学部数学科入学。1926年卒業。同年より旧制松本高校(信州大学の前身)講師となる。同年10月教授就任。 1950年、旧制高校の廃止と共に退職。同年より長野県新村小学校の代用教員となる。後年に教諭就任。 1954年3月小学校教諭退職、愛知学院大学助教授として就任。後、教授。名古屋大学でも教鞭を執る。
清澤 又四郎(きよさわ またしろう、1903年1月20日 -… 清澤 又四郎(きよさわ またしろう、1903年1月20日 - 2001年7月4日)は、日本の眼科医。日本医師会副会長、福岡県医師会会長。
中川 俊思(ながかわ しゅんじ、1903年(明治36年)1月… 中川 俊思(ながかわ しゅんじ、1903年(明治36年)1月20日 - 1973年(昭和48年)11月30日)は、日本の政治家。位階は従三位。 衆議院議員(8期)を務めた。娘婿は衆議院議員を務めた中川秀直、孫は衆議院議員を務めた中川俊直。 広島県賀茂郡荘野村(現竹原市)出身。堀川市助の三男に生まれ、禎助の養子となる。 1923年(大正12年)中央大学法学部中退。中国新聞や國民新聞の記者を経て1949年の第24回衆議院議員総選挙に吉田茂率いる民主自由党公認で広島2区から立候補し初当選、通算8回当選(当選同期に池田勇人・佐藤栄作・岡崎勝男・前尾繁三郎・橋本龍伍・麻生太賀吉・小渕光平・西村英一・橋本登美三郎・福永健司・塚原俊郎・藤枝泉介・木村俊夫・稲葉修・河本敏夫・森山欽司・床次徳二・有田喜一など)。
上枝 一雄(うええだ かずお、1903年(明治36年)1月2… 上枝 一雄(うええだ かずお、1903年(明治36年)1月20日 - 1987年(昭和62年)5月5日)は、日本の実業家。三和銀行元頭取。 香川県高松市出身。1934年に東京帝国大学法学部を卒業し、三和銀行の前身である三十四銀行に入行。取締役、常務、専務を経て、1957年11月から副頭取を務め、1960年5月から頭取に就任し、1971年9月までに務めた。 その一方で、1966年から1977年までに関西経済連合会副会長を務め、南海電気鉄道、江崎グリコ、関西電力の各取締役、毎日新聞社相談役、関西テレビ放送監査役などを歴任した。1973年に勲二等旭日重光章を受章した。 1987年5月5日脳卒中により兵庫県芦屋市内の自宅で死去。
永井 大三(ながい だいぞう、1903年(明治36年)1月2… 永井 大三(ながい だいぞう、1903年(明治36年)1月20日 - 1988年(昭和63年)1月20日)は、日本の実業家。社長不在時の朝日新聞社で常務取締役業務局長としてトロイカ体制を敷いたが村山事件で解任された。 広島県出身。1927年旧制東京商科大学(現一橋大学)を卒業し、朝日新聞社に入社。 販売部門を歩み売上を伸ばし、1947年に販売及び広告を統括する業務局長に就任。業務局長のまま、1951年から取締役、1956年から常務を兼任し、社長不在の中で、信夫韓一郎専務、笠信太郎論説主幹とトロイカ体制を敷いた。 この間、1952年から東京放送取締役を兼務。1961年に復帰した村山長挙社長と対立し、1963年の村山事件で退任して朝日新聞社社友となる。
佐藤 虎次郎(さとう とらじろう、1902年(明治35年)1… 佐藤 虎次郎(さとう とらじろう、1902年(明治35年)1月20日 - 1983年(昭和58年)3月27日)は、日本の政治家。衆議院議員(5期) 、清水市長(3期) 。位階は従四位。勲二等瑞宝章。 静岡県出身。明治大学中退。沼津市議に二回当選し、副議長などを務めた。1946年(昭和21年)から1963年(昭和38年)まで衆議院議員を5期務めた (自民党)。 1965年(昭和40年)から清水市長を3期を務め、この間静岡県柑橘振興会長なども歴任。実業家としては東洋パイルヒューム管製作所会長なども務めた。
永井 八津次(ながい やつじ、1901年(明治34年)1月2… 永井 八津次(ながい やつじ、1901年(明治34年)1月20日 - 1970年(昭和45年)8月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 茨城県出身。永井弥八郎の五男として生まれる。水戸中学校、陸軍中央幼年学校予科、同校本科を経て、1921年(大正10年)7月、陸軍士官学校(33期)を卒業。同年10月、歩兵少尉に任官し歩兵第25連隊付となる。陸士生徒隊付などを経て、1931年(昭和6年)11月、陸軍大学校(43期)を卒業し歩兵第25連隊中隊長に就任。 1932年(昭和7年)12月、陸軍省軍務局付勤務となる。以後、軍務局課員、参謀本部付仰付(中国駐在)などを経て、1936年(昭和11年)8月、歩兵少佐に昇進し関東軍司令部付に就任。
中田 政美(なかた まさみ、1901年(明治34年)1月20… 中田 政美(なかた まさみ、1901年(明治34年)1月20日 - 1976年(昭和51年)7月15日)は、大正から昭和期の官僚、政治家。位階は従三位。衆議院議員(1期)、建設事務次官。 鳥取県出身。自作農・中田亀太郎の長男として生まれる。1915年(大正4年)安井尋常高等小学校高等科を卒業。同年4月、日下部村役場戸籍係となる。1920年(大正9年)4月、鳥取県八頭郡書記となり、1921年(大正10年)普通文官試験に合格。1922年(大正11年)6月、徴兵され輜重兵第16連隊に入隊し、同年8月に満期除隊となる。同年9月、簡易保険局書記補に転じ、1923年(大正12年)5月、同書記に任官。同年6月、高文予備試験七条試験に合格。
筧 元貞(かけい もとさだ、1901年(明治34年)1月20… 筧 元貞(かけい もとさだ、1901年(明治34年)1月20日 - 没年不明)は、日本の実業家。日本内燃機元専務取締役。族籍は東京府士族。 筧鏡平の長男として生まれる。母は衆議院議員や日本中央競馬会理事長を務め、「日本競馬の父」と呼ばれた安田伊左衛門の妹・田鶴。 旧制第六高等学校を経て、1924年(大正13年)東京帝国大学法学部英法科を卒業。大学卒業後、三菱銀行に入行しロンドン大学に留学。1940年(昭和15年)日本内燃機に転職。同社企画部長を経て、1943年(昭和18年)取締役に就任し、その後常務、専務、監査役を歴任。退職後はエース商会専務を務めた。 茅ヶ崎徳洲会総合病院(現:湘南藤沢徳洲会病院)にて84歳で死去。
土井正徳(どい まさのり、1900年1月20日-1966年8… 土井正徳(どい まさのり、1900年1月20日-1966年8月18日)は、日本の精神医学者。 熊本県出身。熊本県立玉名中学校(現・熊本県立玉名高等学校)、1925年東北帝国大学医学部卒、29年医学博士となる。満州医科大学(現・中国医科大学)助教授を務め、戦後は最高裁判所家庭局法務技官をへて、1965年東洋大学文学部教授となる。フロイトの著作の翻訳も行った。
高柳 健次郎(たかやなぎ けんじろう、1899年〈明治32年… 高柳 健次郎(たかやなぎ けんじろう、1899年〈明治32年〉1月20日 - 1990年〈平成2年〉7月23日)は、日本の工学者、日本ビクター元副社長・技術最高顧問。静岡大学名誉教授。日本のテレビの父と呼ばれる。文化勲章受章。 静岡県浜名郡和田村(今の静岡県浜松市中央区安新町)に生まれた。静岡師範学校を経て1921年(大正10年)、東京高等工業学校(現・東京工業大学)附設工業教員養成所卒業。同年、神奈川県立工業学校(現・神奈川県立神奈川工業高等学校)教諭、1924年(大正13年)に浜松高等工業学校(現・静岡大学工学部)助教授となり「無線遠視法」(テレビジョン)の研究を本格的に開始する。 大正天皇が崩御し昭和天皇が即位した1926年(昭和元年)12月25日、高柳はブラウン管による電送・受像に世界で初めて成功した。
津島 文治(つしま ぶんじ、1898年〈明治31年〉1月20… 津島 文治(つしま ぶんじ、1898年〈明治31年〉1月20日 - 1973年〈昭和48年〉5月6日)は、日本の実業家、政治家、地主、青森県多額納税者。 金木銀行頭取。衆議院議員(3期)。参議院議員(2期)。青森県知事(公選初・第2・3代)。陸奥銀行、津軽鉄道、津軽酒造各取締役。東北鳩協会顧問。農業。 小説家の太宰治(津島修治)は弟、俳優の津島康一は長男。元衆議院議員の津島雄二は義理の甥。 大地主で銀行家の津島源右衛門(旧姓松木)とタ子(たね)の三男として青森県北津軽郡金木村(現在の五所川原市)に生まれた。 金木第一尋常小学校から五所川原農学校(現青森県立五所川原農林高等学校)を卒業後上京し、早稲田大学政治経済学部に入学。
高垣 眸(たかがき ひとみ、1898年〈明治31年〉1月20… 高垣 眸(たかがき ひとみ、1898年〈明治31年〉1月20日 - 1983年〈昭和58年〉4月2日)は、日本の児童文学作家、大衆小説作家、小説家。男性。本名・末男。別筆名に田川緑、青海、小野迪夫がある。 幼少期から軍艦に憧れ、海に情憬を持ち育った。このため海を舞台にした作品が多い。 広島県尾道市土堂生まれ。先祖は備後一宮城主で、生家は酢と醤油の醸造業を営んでいた。1902年(明治35年)、4歳のときに父親が赤痢で死去。翌年、尾道幼稚園に第一回生として入園する。またこの年、祖母より箏曲を習う。1904年(明治37年)、土堂小学校に入学、級長を務めた。1906年(明治39年)の夏に屋根から落ちて頭を打撲し京都府立病院に半年ほど入院。
岩松 五良(いわまつ ごろう、1898年1月20日 - 19… 岩松 五良(いわまつ ごろう、1898年1月20日 - 1964年12月15日)は、日本の文部官僚。文部省実業学務局長等を経て、長崎高等商業学校校長を務めた。 東京府東京市杉並区生まれ。1918年第一高等学校大学予科文科志望卒業。1921年東京帝国大学文学部東洋史科卒業。1924年東京帝国大学法学部法律学科卒業。 1928年海軍兵学校文官教授。1932年文部省社会教育官。1938年文部大臣秘書官、文部大臣官房会計課長、文部大臣官房秘書課長、文部省普通学務局学務課長。 1939年文部省実業学務局長兼企画院参与。同年拓務省拓務局参与。1940年関東局在満教務部長。1942年長崎高等商業学校長。同年退官。
有賀 喜左衛門(あるが きざえもん、 1897年1月20日 … 有賀 喜左衛門(あるが きざえもん、 1897年1月20日 - 1979年12月20日 )は、日本の社会学者。日本の農村社会を独自のイエ・ムラ理論によって考究し、農村社会学の理論的確立を行なった。 1897年、長野県上伊那郡朝日村平出(現在の辰野町)の地主・六世有賀喜左衛門の長男として生まれた。幼名は道夫。1909年(明治42年)、朝日尋常高等小学校を卒業後、長野県諏訪中学校に入学し、寄宿生活を送った。1918年(大正7年)、第二高等学校文科乙類を卒業。同年9月、京都帝国大学法学部に進学。 1919年、京都帝国大学を中退し、同年7月東京帝国大学文学部に入学し、美術史学を専攻。当時の朝鮮に対する民族文化抑圧政策に強く抗議していた柳宗悦の影響を受け、朝鮮美術の研究に取り組み、卒業論文『新羅の仏教美術』としてまとめた。
桜田 常久(さくらだ つねひさ、1897年〈明治30年〉1月… 桜田 常久(さくらだ つねひさ、1897年〈明治30年〉1月20日 - 1980年〈昭和55年〉3月25日)は、日本の小説家。並木 宋之介の筆名も持つ。 大阪市生まれ。旧制郡山中学校から第四高等学校を経て、1923年東京帝国大学文学部独文科卒。在学中から同人雑誌に関わり、小説や戯曲を発表、戯作に関心を抱いた。大学では川端康成と同窓であった。郡山中学時代の漢文の先生であった中島田人は作家中島敦の父。 卒業後は大学で教え、ドイツ戯曲を翻訳した。1932年から半農生活を志し東京市町田町に居住。1936年独文科の仲間である豊田三郎、高木卓、高橋義孝、および福田恆存、野口冨士男らと『作家精神』を創刊。1941年、同誌掲載の「平賀源内」で芥川賞(1940年度下半期)を受賞。