佐々木 康之(ささき やすゆき、1935年2月20日 - )… 佐々木 康之(ささき やすゆき、1935年2月20日 - )は、日本の畜産学者・農学者。専門は、畜産学。農学博士(東北大学)。東北大学名誉教授。元帯広畜産大学学長。元三島学園女子短期大学学長。 宮城県仙台市生まれ。1957年(昭和32年)東北大学農学部畜産学科卒業。1963年(昭和38年)同大学院農学研究科畜産学専攻博士課程修了、農学博士。論文名は「反芻動物の唾液及び唾液分泌に関する研究」。 1963年6月、農林水産省東北農業試験場農林技官。1968年(昭和43年)東北大学農学部助手。1982年(昭和57年)同助教授。1987年、同教授。1994年(平成6年)農学部部長。1998年(平成10年)東北大学を停年退官、同名誉教授。
田村 大五(たむら だいご、1935年(昭和10年)2月20… 田村 大五(たむら だいご、1935年(昭和10年)2月20日 - 2009年(平成21年)2月13日)は、日本のベースボールコラムニスト、スポーツジャーナリスト。 『巨人軍5000勝の記憶』 読売新聞社、ベースボールマガジン社、2007年。ISBN 9784583100296。一部記事(公式戦初勝利、他多数)
ソンコ・マージュ(Sonko Mayu、1935年〈昭和10… ソンコ・マージュ(Sonko Mayu、1935年〈昭和10年〉2月20日 - )は、日本の音楽家、ギタリスト、フォルクローレ奏者。栃木県栃木市出身。本名は荒川 義男(あらかわ よしお)。 1966年、スペイン政府奨学生として留学し、アンドレス・セゴビアやホセ・トマス(英語版)に師事したのち、南米で民俗音楽を研究。1967年、アルゼンチンのフォルクローレ奏者であるアタウアルパ・ユパンキの弟子となり、愛用のギターを贈られ、ソンコ・マージュ(ケチュア語で『心の川』の意)と名づけられる。ギターは1953年製の初代ヌーニェスである。 1974年にLP「復活」を発表した時点では、ユパンキの作品のみをレパートリーとし、その奏法をコピーして活動していた。
池田 良兼(いけだ よしかね、1934年2月20日 - )は… 池田 良兼(いけだ よしかね、1934年2月20日 - )は、日本の裁判官。石川県出身。金沢大学法文学部卒業。大阪地方裁判所所長、名古屋高等裁判所長官などを歴任。金沢大学法曹会会長。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、法曹に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。
白石 善章(しらいし よしあき、1934年2月20日 - 2… 白石 善章(しらいし よしあき、1934年2月20日 - 2016年3月25日)は、日本の経営学者。流通科学大学名誉教授。 兵庫県神戸市出身。1974年神戸大学大学院経営学研究科修士課程修了。1977年神戸大学大学院商学研究科博士課程満期退学、1992年「流通過程における重層的競争の研究」で神戸大商学博士。福岡大学商学部助教授、西南学院大学教授、流通科学大学教授、流通科学大学副学長。2005年 流通科学大学 定年、流通科学大学名誉教授、熊本学園大学教授。 1991年~2004年 日仏経営学会 理事、1992年 - 2000年 日本商業学会 常任理事、1999年 - 2003年 日本商業教育学会 理事。
山田 吾一(やまだ ごいち、1933年〈昭和8年〉2月20日… 山田 吾一(やまだ ごいち、1933年〈昭和8年〉2月20日 - 2012年〈平成24年〉10月13日)は、日本の俳優・声優。 北海道瀬棚郡瀬棚町(現・久遠郡せたな町)出身。北海道深川西高等学校卒業。 高等学校時代に演劇部で活動し、1951年、卒業後に会社員となるも、演劇への夢を捨てきれず、1952年上京。舞台芸術学院本科に入る。卒業後、劇団四季・劇団中芸に所属。 1958年には『事件記者』にガンさんこと岩見記者役で出演。猪突猛進型の正義感溢れる記者役を演じ、これが生涯の当たり役となり、後の劇場版にも同役で出演した。テレビドラマや映画の脇役で活動し、1973年の『仁義なき戦い 完結篇』では大友勝利(宍戸錠)大友組組長から松村保(北大路欣也)天政会会長代行に寝返るヤクザを演じ、1974年の『激突! 殺人拳』では千葉真一が扮する主人公の相棒である中国人を演じている。
尾形 英夫(おがた ひでお、1933年2月20日 - 200… 尾形 英夫(おがた ひでお、1933年2月20日 - 2007年1月25日)は、TMF代表取締役社長、元徳間書店常務取締役、『アニメージュ』初代編集長。宮城県気仙沼市出身。 宮城県気仙沼市松岩出身。宮城県気仙沼高等学校、明治大学卒業。 1961年に徳間書店入社後『アサヒ芸能』編集長などを経て、日本初のアニメ専門雑誌『アニメージュ』を創刊し初代編集長。誌名の由来は「animation」と「image」をミックスさせ、「アニメージュ」(Animage)とした。 アニメーターに目を掛け、漫画家として発掘するという手法を実践し特集号を多く組み、部数増加に成功。宮崎駿『風の谷のナウシカ』を『アニメージュ』(1982年 - 1994年)で連載させ、1984年春公開の同劇場版アニメ『風の谷のナウシカ』や、1986年夏公開の『天空の城ラピュタ』でプロデューサーをつとめる。
内井 昭蔵(うちい しょうぞう、1933年2月20日 - 2… 内井 昭蔵(うちい しょうぞう、1933年2月20日 - 2002年8月3日)は、日本の建築家。博士(工学)(京都大学・論文博士・1992年)(学位論文「住宅の集合形態に関する実践的研究」)。京都大学教授・滋賀県立大学教授を歴任。戦後の日本建築史を代表する建築家の一人。勲三等旭日章受章。東京都出身。 1933年、東京市神田区に生まれる。祖父の河村伊蔵と父の内井進は建築家であり、進は金成ハリストス正教会と小田原ハリストス正教会の両聖堂、およびニコライ堂のイコノスタスの設計に関わった。祖父の河村伊蔵は司祭でもあったため幼少期から教会で過ごすことが多く、「ロシア正教会の持つ空間と祈りと形の関係が、幼少期にすでに強く印象づけられていたように思う」と述べ、こうした経験はモダニズム全盛期の学生時代を経た後に手がけた日蓮宗の寺院やYMCA野辺山高原センターなどにおける合理性のみの形態とは異なるアプローチ、さらには親しみやすさを旨とした公共建築への設計思想へとつながっていったと述べている。
佐藤 祐弘(さとう すけひろ、1933年2月20日 - )は… 佐藤 祐弘(さとう すけひろ、1933年2月20日 - )は、日本の政治家。元衆議院議員(日本共産党公認、通算3期)。 大阪府大阪市大正区出身。大阪府立高津高校定時制卒業。カメラマン、赤旗記者などを経て、1983年の衆院選で東京10区から出馬し初当選を果たす。以後3期連続で衆議院を務めた後、1993年の衆院選には出馬せず引退を表明する。地盤は元赤旗外信部記者の佐々木陸海に継承。
小林 功典(こばやし よしのり、1933年2月20日 - )… 小林 功典(こばやし よしのり、1933年2月20日 - )は、日本の厚生官僚。第23代社会保険庁長官。薬害エイズ事件時の厚生省薬務局長。 静岡県静岡市出身。1952年、静岡県立静岡城内高等学校卒業。1956年、東京大学法学部卒業。同年、厚生省入省。1972年、医務局指導課長、1973年、内閣審議官、1976年、社会保険庁年金保険部計画課長、1977年、保健局企画課長、1979年7月、大臣官房会計課長、1981年8月、社会保険庁年金保険部長、1982年11月、大臣官房総務審議官、1984年8月、薬務局長、1986年6月、社会局長、1989年、社会保険庁長官、1990年6月、退任。同年同月、財団法人厚生年金事業団副理事長。
公地 次男(こうち つぐお、1933年2月20日 - 没年不… 公地 次男(こうち つぐお、1933年2月20日 - 没年不明)は、伊勢ヶ濱部屋、荒磯部屋、再度伊勢ヶ濱部屋に所属した元力士。本名同じ。現在の秋田県横手市出身。179cm、100kg。最高位は西十両3枚目。得意技は左四つ、寄り。 1952年5月場所初土俵、1958年11月場所に十両昇進し、30場所務めた。1964年1月場所限りで廃業した。
藤木 英雄(ふじき ひでお、1932年2月20日 - 197… 藤木 英雄(ふじき ひでお、1932年2月20日 - 1977年7月9日)は、日本の刑事法学者。元東京大学法学部教授。法学博士。従四位勲四等旭日小綬章。長野県松本市出身。
鮫島 敬治(さめじま けいじ、1932年〈昭和7年〉2月20… 鮫島 敬治(さめじま けいじ、1932年〈昭和7年〉2月20日 - 2004年〈平成16年〉12月26日)は、日本の元ジャーナリスト。 1932年、中国の大連市で生まれる。 1956年に大阪外国語大学卒業後、日本経済新聞社に入社。 北京特派員時代に文化大革命の混乱で中国当局にスパイ容疑で拘束され、1968年6月から約1年半にわたって抑留生活を送った。 その後、編集委員兼論説委員や論説副主幹、大阪本社編集局長を経て、1985年に取締役、1989年に常務、1992年に専務に就任。 2004年12月26日午前9時20分、呼吸不全により静岡市の病院で死去。72歳没。葬儀・告別式は12月29日に営まれた。
吹野 安(ふきの やすし、1932年2月20日 - 2015… 吹野 安(ふきの やすし、1932年2月20日 - 2015年2月1日)は、日本の漢文学者。國學院大學名誉教授。中国古典学専攻。 茨城県西茨城郡大原村(現・笠間市)出身。1956年國學院大學文学部中国文学科卒、1957年大東文化大学文学部中国文学科専攻科修了。1958年錦城商業高等学校教諭、1966年錦城高等学校講師、1967年相模女子大学学芸学部専任講師、1969年助教授、1971年國學院大學文学部助教授、1978年教授、1985年「中国古代中世文学発想論」で國學院大學文学博士。1997年退職、名誉教授。 吹野安の中国学に関する学績を記念し、吹野の意志に基づき、学術奨励のために平成10(2008)年度から設置された。
霊山 勝海(よしやま しょうかい/かつみ、1932年2月20… 霊山 勝海(よしやま しょうかい/かつみ、1932年2月20日 - 2020年6月21日)は、浄土真宗の仏教学者・僧侶。 広島県生まれ。1954年龍谷大学文学部真宗学科卒業、56年同大学院修士課程修了。京都女子大学文学部助教授、教授、同宗教研究所長、本願寺派司教、勧学。広島県安芸高田市法圓寺元住職。
松尾 英三(まつお えいぞう、1931年2月20日 - )は… 松尾 英三(まつお えいぞう、1931年2月20日 - )は、日本の実業家。元島原鉄道社長。雲仙普賢岳の噴火に伴う土石流により一部区間が寸断された島原鉄道の再建に尽力した。 1931年長崎県生まれ。長崎県立長崎東高等学校、長崎大学経済学部を経て、1954年に長崎県入庁。県通商貿易課勤務を経て、香港やバンコクで貿易促進駐在員を務めた。その後長崎県議会事務局長、労働部長、企画部長を歴任し、1989年に長崎空港ビルディング常務取締役に就任。同社専務取締役を経て、1993年島原鉄道社長に就いた。 島原鉄道は当時、1991年を中心に起きた雲仙普賢岳の噴火災害により、島原外港駅-深江駅間が不通となっていた。
金 壽根 (キム・スグン、김수근、1931年2月20日 - … 金 壽根 (キム・スグン、김수근、1931年2月20日 - 1986年6月14日) は、大韓民国の建築家、都市計画家。金重業(1922-1988)と共に韓国近代建築の巨匠と称される。 生涯に韓国内に200以上の建物を設計し、代表作として、ソウル蚕室総合運動場 (1977年)、空間社屋(1978年)、馬山聖堂(1979年)、国立清州博物館(1986年)などが挙げられる。 金は1966年に韓国で初めての建築・芸術総合誌である月刊『空間』を創刊し、1972年には空間舍廊を建立して文化活動の場所として開放した。また弘益大学校や建国大学校、国民大学校で教鞭をとった。これらの活動を通して多様な芸術活動を支援し、芸術運動を展開した。
田中 修(たなか おさむ、1930年2月20日 - 1992… 田中 修(たなか おさむ、1930年2月20日 - 1992年9月29日)は、日本の経済学者。経済学博士(北海道大学)。元・北海学園大学学長。 北海道における場所請負制度や炭鉱・炭山における囚人の強制労働・炭山鉄道の経済効果を研究。この他、開拓期から昭和期に至るまでの北海道経済史も研究。 柴田義人とは、北海道大学の同期卒業であり、北海学園大学に於いてもほぼ同年で講師・助教授・教授となった為、よきライバルであり、良き友人であったという。また、田中は、柴田義人らと共に北海学園大学経済学部草創期を支えた一人。 正五位勲三等瑞宝章(1992年) この項目は、経済学者(経済評論家を含む)に関連した書きかけの項目です。
黛 敏郎(まゆずみ としろう、1929年2月20日 - 19… 黛 敏郎(まゆずみ としろう、1929年2月20日 - 1997年4月10日)は、日本の作曲家。戦後のクラシック音楽、現代音楽界を代表する音楽家の一人として知られる。また、東京藝術大学作曲科講師として後進の育成にもあたった。
広岡 富夫(ひろおか とみお、1928年2月20日 - 20… 広岡 富夫(ひろおか とみお、1928年2月20日 - 2009年9月26日[要出典])は、広島県呉市出身のプロ野球選手(内野手)。読売ジャイアンツで活躍した広岡達朗は弟。 呉二中から広島県庁に入り、軟式野球チーム「オール県庁」で強打の捕手として活躍していた。バッテリーを組んでいた渡辺信義が1951年に広島へ入団していて、広岡も「周囲からカープへ入ったらどう?」と言う声が起こって欲も得もなく、1952年に広島カープへ入団。公務員からプロ入団という珍しいケースであり、弟の達朗によると「子供のころから器用で、運動神経も私よりはるかにまさっていたがまさかプロになるとは思わなかった。私のプロへの道筋は、細々と芽生えていたんだ」と語っている。
宮原 守男(みやはら もりお、1928年2月20日 - 20… 宮原 守男(みやはら もりお、1928年2月20日 - 2021年12月14日)は、日本の弁護士。東京大学法学部卒業。福岡県福岡市中央区出身。日本基督教団顧問弁護士。日本基督教団新泉教会所属。創価学会顧問弁護士。親族に大蔵大臣を勤めた北村徳太郎がいる。 ロッキード事件主任弁護士を務めたほか、本田技研工業、丸紅、川崎製鉄(現・JFEホールディングス)等の顧問弁護士を歴任した。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
津野 力男(つの りきお、1928年2月20日 – 2009… 津野 力男(つの りきお、1928年2月20日 – 2009年7月25日)は、沖縄県で活動を行った写真家。台湾高雄州生まれ、沖縄県石垣市出身。 1950年にアマチュア写真同好会『でいごカメラ倶楽部』を石垣市にて結成、1979年には沖縄写真連盟会長に就任している。1990年から2008年までは全日本写真連盟の西部本部委員を務めた。1996年、沖縄県文化功労者賞を受賞。 2009年7月25日、肺がんにより那覇市内の病院で死去。享年81。
浅香 光代(あさか みつよ、1928年〈昭和3年〉2月20日… 浅香 光代(あさか みつよ、1928年〈昭和3年〉2月20日 - 2020年〈令和2年〉12月13日)は、日本の剣劇女優。東京府東京市神田区(現:東京都千代田区)出身。血液型はB型。本名は北岡 昭子(きたおか しょうこ)。愛称は「ミッチー」。内縁の夫はコメディアンの世志凡太。マスメディアからは「ストリップ剣劇と第一人者」と称された。 10歳ぐらいの頃、浅香新八郎、森静子らの舞台劇団「新生国民座」に入団、森静子の森をとって芸名「小森昭子」をもらう。1944年(昭和19年)、座長の浅香新八郎が急逝し新生国民座は解散する。1945年(昭和20年)、阪東鶴蔵一座に入り「富士龍子」の芸名をもらう。その後「浅香光代」と名乗り自分の一座を結成する。
北沢 清功(きたざわ せいこう、1927年2月20日 - 2… 北沢 清功(きたざわ せいこう、1927年2月20日 - 2001年11月15日)は、日本の政治家。元衆議院議員。
大国 正巳(おおぐに まさみ、1927年2月20日 - )は… 大国 正巳(おおぐに まさみ、1927年2月20日 - )は、日本の経営者。山陽電気鉄道社長、会長を務めた。 兵庫県出身。1950年に関西大学法学部を卒業し、同年に山陽電気鉄道に入社した。1981年6月に取締役に就任し、1984年6月に常務、1987年6月に専務、1990年6月に副社長を経て、1992年6月に社長に就任。社長在任時には、1995年の阪神・淡路大震災の際には、鉄道の復旧の指揮を執り、阪神電気鉄道との直通特急を実現させた。1999年6月に会長に就任し、2001年6月には相談役に就任。 1996年4月に藍綬褒章を受章し、2001年11月に勲三等瑞宝章を受章。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
飯田 幸雄(いいだ ゆきお、1927年2月20日 - 201… 飯田 幸雄(いいだ ゆきお、1927年2月20日 - 2014年8月14日)は、日本の実業家。東海テレビ放送社長を務めた。東京都出身。 1950年に慶應義塾大学経済学部卒業。1958年に東海テレビ放送に入社した。 東京支社長、取締役、常務、専務、副社長を経て、1993年に代表取締役副社長に就任し、1997年に社長に就任した。2001年6月から副会長に就任し、2003年6月から相談役に就任した。 2004年11月に旭日中綬章を受章した。 2014年8月14日肝細胞がんのために死去。87歳没。
土井 大助(どい だいすけ、1927年(昭和2年)2月20日… 土井 大助(どい だいすけ、1927年(昭和2年)2月20日 - 2014年(平成26年)7月30日 )は、日本の詩人・劇作家・社会運動家。本名:吉沢四郎(旧姓堀井)。 山形県鶴岡市出身。陸軍航空士官学校在校中に終戦を迎え、復員して、旧制新潟高等学校に編入、そこから東京大学法学部卒。1962年(昭和37年)、詩「十年たったら」でデビューした。この詩は、20歳代の日本共産党員を語り手とした詩だったので、それを読んだ壺井繁治が、作者も主人公と同じ境遇だと勘違いしたというエピソードがある。その後、詩人会議運営委員長、同顧問を歴任した。 1964(昭和39)年9月より1966(昭和41)年9月まで、中国 遼寧省大連市 大連日本語専科学校(現大連外国語大学)にて日本語教師を勤めた。
瀬在 良男(せざい よしお、1926年(大正15年)2月20… 瀬在 良男(せざい よしお、1926年(大正15年)2月20日 - 2001年(平成13年)4月15日)は、日本の哲学研究者。日本大学第9代総長。 長野県埴科郡五加村内川(現千曲市)に医師の次男として生まれる。医学者で第10代日本大学総長の瀬在幸安は実弟。 旧制屋代中学(長野県屋代高等学校)を経て、1950年(昭和25年)日本大学法文学部文学科を卒業、母校専任講師となる。1958年(昭和33年)に日本大学助教授となる。1964年(昭和39年)から翌年の昭和40年度まで南カリフォルニア大学に留学し、大学院哲学専攻博士課程修了。帰国後、1967年(昭和42年)日本大学文理学部の教授となり、1975年(昭和50年)に文学博士(日本大学)。
小泉 保(こいずみ たもつ、1926年2月20日 - 200… 小泉 保(こいずみ たもつ、1926年2月20日 - 2009年12月18日)は、日本の言語学者、文学者(ウラル語学、フィンランド文学研究)。勲等は瑞宝中綬章。学位は博士(文学)(東京大学・論文博士・1995年)。関西外国語大学名誉教授。 静岡県立静岡高等学校教諭を経て、静岡女子短期大学に勤務し、ヘルシンキ大学講師、静岡女子大学文学部教授、大阪外国語大学外国語学部教授、関西外国語大学外国語学部教授、関西外国語大学国際言語学部教授、関西外国語大学国際言語学部学部長、学校法人関西外国語大学理事などを歴任した。 静岡県出身でウラル語学を専攻する言語学者、文学者である。ウラル語の母音体系や母音調和に関する研究や、音韻理論の日本語への適用などに取り組んだ。
寺前 巌(てらまえ いわお、1926年2月20日 - 202… 寺前 巌(てらまえ いわお、1926年2月20日 - 2020年6月6日)は、日本の政治家。日本共産党名誉役員。 北海道夕張市出身。京都青年師範学校(現、京都教育大学)卒。国鉄機関士、京都府議会議員を経て第32回衆議院議員総選挙に京都府第2区より立候補し初当選。以降、党中央委員、幹部会委員、国対委員長、常任幹部会委員、両院議員総会会長を歴任。国会では衆議院運輸委員会などに属した。 革新が強い京都において選挙では毎回安定した戦いを続けていたが、第37回衆議院議員総選挙において共産党が寺前と新人の有田光雄の2名を擁立したところ、絵に描いたような共倒れとなり落選した(両者の得票を足せば、1位当選者の得票をはるかに上回っていた)。
飛山 一男(とびやま かずお、1925年(大正14年)2月2… 飛山 一男(とびやま かずお、1925年(大正14年)2月20日 - 2015年(平成27年)10月23日)は、日本の実業家。いすゞ自動車社長(1984年 - 1992年)、会長を務めた。 長野県の生まれ。山梨工業専門学校(現在の山梨大学)卒業後、1946年(昭和21年)にいすゞ自動車(当時の社名はヂーゼル自動車)に入社する。 軽自動車の研究や開発に携わり、後にアメリカ合衆国の自動車メーカーゼネラルモーターズと連携する等、戦後の自動車における日米関係の良化に貢献した。1984年(昭和59年)にいすゞ自動車社長に就任し、1992年(平成4年)までその職にあたった。1991年(平成3年)には会長職に就任した。
栃錦 清隆(とちにしき きよたか、1925年2月20日 - … 栃錦 清隆(とちにしき きよたか、1925年2月20日 - 1990年1月10日)は、東京府南葛飾郡小岩村下小岩(現・東京都江戸川区南小岩)出身で春日野部屋に所属した大相撲力士。第44代横綱。本名は大塚 清(おおつか きよし)で、のちに栃木山守也の養子となって中田 清(なかた きよし)となる。 1925年に、小岩村(現・江戸川区南小岩)で蛇の目傘の製造を営む家の二男として生まれる。少年時代から運動神経は抜群で、並外れた体力と恵まれた体格を見た近所の八百屋の勧めもあって、下小岩尋常小学校(現・江戸川区立下小岩小学校)卒業後、13歳で春日野部屋の門を叩き、1939年1月場所で初土俵を踏む。十両昇進を機に名乗った四股名の「栃錦」は、春日野の現役名である栃木山守也と、その兄弟弟子だった大錦卯一郎から付けたものであり、当時の期待ぶりが窺える。
大谷 幸夫(おおたに さちお、1924年〈大正13年〉2月2… 大谷 幸夫(おおたに さちお、1924年〈大正13年〉2月20日 - 2013年〈平成25年〉1月2日)は、日本の建築家、都市計画家。東京大学名誉教授。 東京都赤坂区(現・港区)生まれ。東京大学工学部建築学科卒業。丹下健三の片腕として、広島平和記念資料館や旧東京都庁舎の設計を手伝う。1964年、東京大学都市工学科助教授就任。1971年から1984年まで、東京大学都市工学科教授。1984年から東京大学都市工学科名誉教授。1983年から1989年まで千葉大学建築学科教授。大谷は生前、「住宅は中庭のあるのが基本」と述べ、自身のポリシーとしていた。2001年、勲三等瑞宝章受章。 一級建築士 登録番号第32349号 日本建築学会、日本都市計画学会、日本建築家協会文化庁文化財保護審議会専門委員会、文部省大学設置審議会専門委員会、建設省建築審議会委員、厚生省生活環境審議会 等
冨山 實(とみやま みのる、大正12年(1923年)2月20… 冨山 實(とみやま みのる、大正12年(1923年)2月20日 - )は、日本の税理士。 青山学院大学文学部教授・冨山太佳夫は長男。 鳥取県西伯郡日吉津村出身。百姓の長男である。 昭和15年(1940年)鳥取県立米子商蚕学校卒業。同年広島国税局松江税務署勤務。 昭和42年(1967年)広島国税局直税部資産税課課長補佐を最後に退職。同年税理士登録、三社の監査役に就任。 昭和45年(1970年)米子市坂口合名会社支配人、昭和54年(1979年)同常務理事、昭和59年(1984年)同常任監査役。 実業家坂口平兵衛 (2代)との関係について、冨山實によれば
早坂 泰次郎(はやさか たいじろう、1923年2月20日 -… 早坂 泰次郎(はやさか たいじろう、1923年2月20日 - 2001年10月8日)は、日本の心理学者。立教大学名誉教授。専攻は実存心理学、人間関係の心理学、看護学。 宮城県仙台市生まれ。幼いころから台北で過ごし、台北帝国大学を経て、1949年東北大学文学部卒。東北大学講師、立教大学助教授、社会学部教授。1989年定年退任、名誉教授。 2001年10月8日、出血性脳梗塞のため死去。
平岡 芳江(ひらおか よしえ、 1922年2月20日 - 2… 平岡 芳江(ひらおか よしえ、 1922年2月20日 - 2007年3月11日)は、IA Prep School 平岡(旧称:平岡塾)の創立者・前塾長。 大阪の造り酒屋の家に生まれ、後に芦屋に移住。神戸女学院出身。都内の中高一貫校に通っていた自分の子供に自宅で英語を教え始めたが、その内容が友人たちの間で評判になり、1965年4月、実弟の金谷晴夫(東京大学元教授)を顧問に迎え、東京大学を受験する生徒専用の英語塾として、東京都世田谷区に平岡塾を創設。1976年、平岡塾を東京都渋谷区に移す。 1995年3月、所得税法違反の容疑により東京国税局から告発を受ける。1991年1月から1993年12月までの間に約6億4200万円の所得を隠し、約3億1400万円を脱税した疑い。
本島 等(もとしま ひとし、1922年〈大正11年〉2月20… 本島 等(もとしま ひとし、1922年〈大正11年〉2月20日 - 2014年〈平成26年〉10月31日)は、日本の政治家。1979年(昭和54年)から1995年(平成7年)までの4期にわたり長崎県長崎市長を務めた。 長崎県南松浦郡北魚目村(現在の同郡新上五島町)に生まれる。洗礼名、イグナチオ・ロヨラ。カトリック教徒。 隠れキリシタンの末裔であるカトリック教徒で母は未婚であることから戦時中はスパイ疑惑を掛けられた。旧制高校在学中の21歳の時に徴兵されて見習士官として新兵に大砲の撃ち方を指導した。所属する西部軍管区教育隊・砲兵生徒隊が疎開する熊本市郊外の山奥で終戦を迎えた。1945年8月砲兵少尉に昇進予定だった。
本田 茂(ほんだ しげる、1921年2月20日 - 2009… 本田 茂(ほんだ しげる、1921年2月20日 - 2009年2月21日)は、日本の経営者。間組社長、会長を務めた。熊本県出身。 1941年に熊本高等工業学校土木工学科を卒業し、1946年に間組に入社。1975年11月に取締役に就任し、1977年12月に専務、1979年に副社長を経て、1981年8月に社長に就任。1989年12月に会長に就任し、1990年12月から1992年9月までには社長も兼任した。 2009年2月21日心不全のために死去。88歳没。
清水 成之(しみず しげゆき、1921年2月20日 - 20… 清水 成之(しみず しげゆき、1921年2月20日 - 2002年2月9日)は、日本の元文部省管理局長、国士舘大学・国士舘短期大学学長、学校法人国士舘理事長。 三重県出身。昭和19年(1944年)東京帝国大学法学部政治学科卒業。昭和22年(1947年)高等文官試験行政科合格。昭和63年(1988年)学校法人国士舘理事長就任。 1992年、勲三等旭日中綬章を受章。2002年2月9日、呼吸不全のため死去。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
戸田 与三郎(とだ よさぶろう、1920年2月20日 - 1… 戸田 与三郎(とだ よさぶろう、1920年2月20日 - 1986年)は、奈良県出身のプロ野球選手(三塁手)、高校野球監督。 畝傍中学(現・奈良県立畝傍高等学校)卒業後、1939年3月10日に南海軍に入団。翌1940年に一軍出場を果たし、3月18日の巨人戦(西宮球場。トリプルヘッダーの3試合目だった)で初出場。しかし、自身の成績不振と戦局の悪化に伴い、一軍出場の期間は約1ヶ月と短く、4月20日の名古屋軍(鳴海球場)が最終出場となった。1940年シーズン終了後、軍に入営し、そのまま現役引退した。 戦後は、奈良県立高田高等学校の監督に就任。高田高校を1955年春の甲子園に導き、ベスト4に入る健闘をみせた(準決勝で稲川東一郎率いる桐生高〈この大会準優勝〉に3-6で惜敗)。
古本 次郎(ふるもと じろう、1920年2月20日 - 20… 古本 次郎(ふるもと じろう、1920年2月20日 - 2000年1月25日)は、日本の実業家、旭硝子元代表取締役社長。一貫して「拡大均衡」路線をかかげ、海外にも積極的に事業を展開、今日のグローバル企業としての基盤を築いた。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
金谷 治(かなや おさむ、1920年2月20日 - 2006… 金谷 治(かなや おさむ、1920年2月20日 - 2006年5月5日)は、日本の東洋学者。専門は、中国哲学、特に中国古代思想史)。2003年勲二等瑞宝章受章。 1920年、三重県阿山郡上野町(現・伊賀市)生まれ。早くに両親を亡くし、兄弟の庇護の下、関西大学第二商業学校、関西大学専門部国漢文専攻科で学んだ。在学中、石濱純太郎に師事。石濱の勧めにより武内義雄が在任していた東北帝国大学法文学部文科に進学し師事した。しかし太平洋戦争の戦況悪化を受け、1944年9月に学徒出陣で東北帝国大学を繰り上げ卒業し入隊、大陸に出征した。 復員後、大学院に復学、旧制弘前高等学校嘱託講師となった。1948年、東北大学法文学部講師となり、武内義雄が退官し、しばらく空席になっていた支那学第一講座を引き継いだ。
矢口 洪一(やぐち こういち、1920年〈大正9年〉2月20… 矢口 洪一(やぐち こういち、1920年〈大正9年〉2月20日 - 2006年〈平成18年〉7月25日)は、日本の裁判官。第11代最高裁判所長官を務めた。父の矢口家治も裁判官。 裁判官生活の3分の2を法服ではなく背広姿で過ごした人は、矢口以外にはなく、事務総長をはじめ、総務・人事・行政・民事・経理と7局のうち、5局までを経験した。普通は、この中の1局でも担当すれば、最高裁行政の専門家として重きをなすのだが、矢口の場合は想像を超える最高裁の表裏のすべてに通じていた。そのため、「ミスター司法行政」の異名を取った。 熊本水俣病(チッソ)、新潟水俣病(昭和電工)、イタイイタイ病(三井金属鉱業)、四日市ぜんそく(昭和四日市石油・三菱化成・三菱樹脂・三菱モンサント(前記3社は現:三菱ケミカル)・中部電力・石原産業)の四大公害訴訟のときは、民事局長として、被害者の立証の難しさを緩和する理論を提唱し、早期解決に尽力した。
弥勒 祐徳(みろく すけのり、1919年2月20日 - 20… 弥勒 祐徳(みろく すけのり、1919年2月20日 - 2024年5月16日)は、宮崎県内で活動した日本の画家。西都市にて生まれ、在住も死没地も同市であった。珍しい名前だが、本名である。宮崎県立都農高等学校講師、宮崎県美術協会理事。息子はテレビ宮崎役員の弥勒猛。 精力的に活動を続け、350回を越える個展を開いた。自宅の近くに展示室『神楽館』を設けており、作品を見ることができるほか、アートカフェや美術館で作品展示を行った。主に神楽や桜をテーマにする画家として有名。代表作に、銀鏡神楽(しろみかぐら)で舞われた「山の神」を描いた百二十号の大作など。
百瀬 晋六(ももせ しんろく、1919年2月20日 - 19… 百瀬 晋六(ももせ しんろく、1919年2月20日 - 1997年1月21日)は日本の航空機・自動車技術者。 富士重工業の四輪自動車ブランド「スバル」の初期車種開発(1951年 - 1960年代)で設計統括を担い、日本の自動車史における卓越したエンジニアの一人に数えられる。主な作品に、日本初のモノコック構造リアエンジンバス「ふじ号」、スバル・360、初代スバル・サンバー、スバル・1000などがある。 1919年(大正8年)2月に、長野県塩尻市の造酒家の家に生まれる。松本高等学校 (旧制)を経て、1939年に東京帝国大学工学部航空学科へ入学し原動機を専攻。1941年12月の卒業後、翌1942年1月に中島飛行機株式会社に入社。
宮永 岳彦(みやなが たけひこ、1919年2月20日 - 1… 宮永 岳彦(みやなが たけひこ、1919年2月20日 - 1987年4月19日)は、日本の画家。 静岡県磐田郡(現・磐田市)生まれ。名古屋市立工芸学校(現名古屋市立工芸高等学校)卒業後、松坂屋名古屋本店に入社。その後、第二次世界大戦の兵役の後、実家の神奈川県秦野市に戻り、松坂屋銀座店宣伝部に勤務しながら秦野市、後に東京都新宿区にて創作活動を行う。 油絵をはじめ、小田急電鉄や全日本空輸、横浜開港祭のポスター、童画、週刊漫画TIMESなどの表紙画、挿絵、水墨画などの作品を残した。特に1955年の発売以来、現在に至るまでパッケージに使用されている「ぺんてるくれよん」のイラストがつとに有名である。その多才さから「器用貧乏」と揶揄されたが、「器用貧乏が勝つか、不器用が勝つか、勝負だ」と意に介さなかった。
永瀬 隆(ながせ たかし、1918年2月20日 - 2011… 永瀬 隆(ながせ たかし、1918年2月20日 - 2011年6月21日)は、日本の英語教師、社会活動家、元陸軍通訳。 岡山県都窪郡福田村(現:岡山県岡山市南区福田地域)生まれ。 1941年青山学院文学部英語科を卒業。同年12月、英語通訳として陸軍省に入省する。1943年、婚約者を置いてタイに赴き泰緬鉄道の建設にあたり、『建設作戦要員』として通訳に従事する。6万2千人ちかくのうち約1万3千人が死んだといわれる連合軍捕虜(en:Far East prisoners of war)虐待(泰緬鉄道建設捕虜虐待事件)の現場に出くわし、戦後において、この一件についての証言活動に至る。1945年9月、イギリス軍の墓地捜索隊の通訳となる。
西脇 安(にしわき やすし、1917年2月20日 - 201… 西脇 安(にしわき やすし、1917年2月20日 - 2011年3月27日)は、日本の生物学者(放射線生物学)。勲等は勲三等。学位は医学博士(京都大学・1954年)、理学博士(京都大学・1962年)。東京工業大学名誉教授、ウィーン大学名誉教授。 大阪帝国大学理学部助手、大阪理工科大学助教授、大阪市立医科大学助教授、東京工業大学理工学部付属原子炉研究施設教授などを歴任した。 初期のキャリアにおいては原子核物理学実験を専門とし、第二次世界大戦中は核兵器開発研究にも関与したが、戦後連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ)によって原子核の研究が禁止されたことを受けて、放射線生物学に転向した。 アメリカ合衆国が1954年にビキニ環礁で行った水爆実験「ブラボー実験」による被害の調査を行い、日本国外にも事件の情報を伝達した。
青木 一雄(あおき かずお、1917年〈大正6年〉2月20日… 青木 一雄(あおき かずお、1917年〈大正6年〉2月20日 - 2001年〈平成13年〉7月13日)は、元NHKアナウンサー。 青木一雄1968 / 野村泰治1968-1973 / 中江陽三1973-1976.3 / 加治章1976.4-1978.3 / 川野一宇1978.4-1981.3 / 松平定知1981.4-1984.3 / 吉川精一1984.4-1987.3 / 佐藤充宏1987.4-1988.3 / 徳田章1988.4-1989.3 / 佐藤充宏(再)1989.4-1990.3 / 徳田章(再)1990.4-1991.3
山本 茂実(やまもと しげみ、1917年〈大正6年〉2月20… 山本 茂実(やまもと しげみ、1917年〈大正6年〉2月20日 - 1998年〈平成10年〉3月27日)は、日本の小説家。非常に寡作な人物であり、代表作「あゝ野麦峠」で日本文学史にその名を刻んだ。 長野県東筑摩郡松本村(現・松本市)に農家の長男として生まれる。松本青年学校に通うが、1937年(昭和12年)に召集され近衛歩兵第3連隊に入る。終戦後は農業に従事し、31歳になってから上京し、早稲田大学文学部哲学科の聴講生となる。青年海外協力隊の専任講師も務めた。 松本市歴史の里に「山本茂実展示コーナー」がある。夫人山本和加子の回想記『「あゝ野麦峠」と山本茂実』(角川学芸出版、2010年)がある。 1998年3月27日死去。