内田 隆滋(うちだ たかしげ、1919年(大正8年)3月20… 内田 隆滋(うちだ たかしげ、1919年(大正8年)3月20日 - 2016年(平成28年)7月29日)は、昭和から平成時代の土木工学者、鉄道官僚、実業家。位階は従四位。東武鉄道社長。 1943年(昭和18年)東京帝国大学工学部土木工学科卒業、海軍技術将校として教育に当たる。戦後、鉄道省に入省し、施設局附となる。1963年(昭和38年)建設局計画課長、1968年(昭和43年)幹線調査室長、1970年(昭和45年)建設局長、1972年(昭和47年)常務理事を経て、1975年(昭和50年)退官。民間に転じ、1976年(昭和51年)東武鉄道常務、専務を経て、1983年(昭和58年)日本鉄道建設公団総裁となる。
佐藤鬼房(さとう おにふさ、1919年3月20日 - 200… 佐藤鬼房(さとう おにふさ、1919年3月20日 - 2002年1月19日)は、日本の俳人。岩手県釜石市出身。本名は喜太郎。 塩竈町立商業補習学校(現・塩釜市立第一小学校)卒業。10代からロシア文学を耽読する一方で俳句に目覚め、1935年より新興俳句系の「句と評論」に投句、渡辺白泉の選句を受ける。1936年より長谷川天更の「東南風」同人。1940年、徴兵により入隊、中国・南方に転戦。なお占領地の南京でそれまで面識のなかった鈴木六林男に出会っている。 戦後は西東三鬼に師事し、「青天」「雷光」「梟の会」などに参加。1953年「風」同人。1954年、第3回現代俳句協会賞受賞。1955年、「天狼」同人。
太田 敏夫(おおた としお、1919年(大正8年)3月20日… 太田 敏夫(おおた としお、1919年(大正8年)3月20日 - 1942年(昭和17年)10月21日)は日本の海軍軍人。太平洋戦争における撃墜王。最終階級は海軍飛行兵曹長。 1919年(大正8年)、長崎県の農家に生まれる。軍に入ってから弟の中学学費の仕送りを続ける、家族思い、親孝行の好青年であった。1935年(昭和10年)、佐世保海兵団に入団。戦艦金剛勤務を経て、1939年(昭和14年)1月、第46期操縦練習生課程修了。1941年(昭和16年)6月、十二空に配属。漢口に進出するが、戦闘の機会はなかった。 1941年(昭和16年)10月、台湾の台南基地に新設された台南海軍航空隊(以下、台南空)に配属。
伊藤 庄七(いとう しょうしち、1918年3月20日 - 1… 伊藤 庄七(いとう しょうしち、1918年3月20日 - 1999年3月6日)は、愛知県名古屋市出身の元プロ野球選手(外野手)・コーチ、解説者。
飯沼 二郎(いいぬま じろう、1918年3月20日 - 20… 飯沼 二郎(いいぬま じろう、1918年3月20日 - 2005年9月24日)は、日本の農学者・市民運動家。京都大学名誉教授。元京都ベ平連代表。専門は、農業経済学、農業史(農業・農法の歴史的研究)。農学博士(京都大学・論文博士・1961年)。 東京都生まれ。1941年、京都帝国大学農学部農林経済学科卒業。1948年に国立国会図書館主事を経て、1951年に農林省農業技術研究所技官。1954年2月に京都大学人文科学研究所助教授、1974年6月に京都大学人文科学研究所教授。1981年に定年退官。1981年4月に京都大学名誉教授。 1961年5月に「農学成立史の研究」により、京都大学から農学博士の学位を授与される。
永野 嚴雄(ながの いづお、1918年3月20日 - 198… 永野 嚴雄(ながの いづお、1918年3月20日 - 1981年10月8日)は、日本の弁護士、政治家。広島県知事(5-7代)。参議院議員(2期) 父は、戦後揃って政経財界で活躍した「永野六兄弟」の長兄で戦中戦後に国会議員を務めた永野護であった。旧制広島高校を経て1941年東京帝国大学法学部を卒業し司法試験に合格。短期現役海軍主計科士官(8期)を志願し、1942年1月、海軍経理学校に入校し海軍主計中尉に任官。同年5月、経理学校を卒業。1943年(昭和18年)11月、主計大尉に進み終戦を迎えた。 戦後は東京地方検察庁検察官、法務総裁秘書官を歴任。 弁護士や会社経営を経て、広島県知事の大原博夫がスキャンダルで任期途中で辞任したため、1962年に行われた県知事選挙で当選した。
吉田 廣一(よしだ ひろいち、1918年〈大正7年〉3月20… 吉田 廣一(よしだ ひろいち、1918年〈大正7年〉3月20日 - 1967年〈昭和42年〉1月)は、教育者、重量挙げ選手。身長184cm、体重85kgの筋骨隆々体で知られ、平和祈念像のモデルとされている。何事も1番でなければ気が済まないという性格から「先頭」を意味する「せんとうはん」の愛称がある。 徳島県立穴吹高等学校出身のオリンピック代表選手。
庄司 榮吉(しょうじ えいきち、1917年3月20日 - 2… 庄司 榮吉(しょうじ えいきち、1917年3月20日 - 2015年2月7日)は、日本の洋画家。日本藝術院会員。位階は従四位。 大阪府出身。1936年に赤松麟作に師事。1938年に大阪外国語学校フランス語科を卒業後、旧制東京美術学校(現東京芸術大学)入学、寺内萬治郎に師事。新文展「庭にて」初入選。1942年光風会展「F嬢の像」初入選・レートン賞、美校繰上げ卒業、1943年海軍派遣教員としてインドネシアのセレベスに赴任。1946年帰国、1952年日展「K牧師の像」で特選・朝倉賞、1967年新日展「音楽家」で菊華賞、1970年日展審査員、1981年光風会展「舞踊家とギタリスト」辻永記念賞、1982年光風会理事、1987年日展「音楽家たち」で文部大臣賞、1998年勲四等瑞宝章、2000年日展出品作品「聴音」恩賜賞・日本芸術院賞、2000年日本芸術院会員、日展参事、光風会理事長。
富原 薫(とみはら かおる、1916年3月20日 - 201… 富原 薫(とみはら かおる、1916年3月20日 - 2015年5月15日)は、日本の経営者。北海道放送社長、会長を務めた。北海道旭川市出身。 1939年に早稲田大学専門部法科を中退し、同年に満蒙学校を卒業。1941年に小樽新聞社に入社後、全道の新聞社統合により1942年11月に北海道新聞社に移籍し、政経記者として活躍。1945年には内閣記者会詰めとして憲法審議を担当。1951年12月に北海道放送に転じ、1956年の日ソ和平交渉の際には民間放送代表特派員の一人として鳩山一郎首相の随行団に参加した。1967年に取締役、1970年に常務、1978年に専務、1979年に副社長を経て、1984年に社長に就任。
武藤 武雄(むとう たけお、1916年(大正5年)3月20日… 武藤 武雄(むとう たけお、1916年(大正5年)3月20日 - 1978年(昭和53年)10月20日)は、昭和期の労働運動家、政治家。衆議院議員、初代日本労働組合総評議会(総評)議長。 茨城県那珂郡山片村(山方町を経て現常陸大宮市)出身。1930年(昭和5年)茨城県小貫農業公民学校を卒業した。 入山炭鉱(のち常磐炭鉱)に入社し坑内夫として勤務。労働運動に加わり、常磐炭鉱労働組合長となり、1946年(昭和21年)常磐地方炭鉱労働組合連合会の初代組合長に就任。1947年(昭和22年)炭労(のちの日本炭鉱労働組合)中央執行委員長となり、1950年(昭和25年)総評が結成されると初代議長に就任した。1952年(昭和27年)の炭労の労働ストでの対応を巡り、炭労臨時大会で不信任となり委員長を解任され、総評議長も退任した。
上関 敏夫(かみぜき としお、1915年3月20日 - 20… 上関 敏夫(かみぜき としお、1915年3月20日 - 2003年8月21日)は、日本の経営者。北海道新聞社社長を務めた。 北海道出身。1946年に北海道庁立釧路中学校を卒業し、同年に北海タイムス社に入社。1942年に統合により、北海道新聞社に転じ、1964年12月に取締役に就任し、1966年に常務を経て、1968年に社長に就任。1979年1月に会長に就任し、1981年には相談役に就任。 1986年11月に勲二等旭日重光章を受章。 2003年8月21日脳梗塞のために死去。88歳没。
伊藤 通弘(いとう みちひろ、1915年〈大正4年〉3月20… 伊藤 通弘(いとう みちひろ、1915年〈大正4年〉3月20日 - )は、日本のフィールドホッケー選手。 慶應義塾大学経済学部卒業。1936年ベルリンオリンピックで男子トーナメントに出場した。慶應義塾からは伊藤のほか、上野安夫、柳武彦、浜田駿吉が参加している。 伊藤赳夫 | 伊藤通弘 | 上野安夫 | 大津敏雄 | 菊池信 | 倉内大次 | 酒井義雄 | 杉山益男 | 武知治 | 田中昇 | 浜田駿吉 | 村岡敏 | 柳武彦 | 脇坂貞夫 | 監督: 石川周策 この項目は、スポーツ関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル スポーツ/プロジェクト スポーツ人物伝)。
宮本 幹也(みやもと みきや、1913年3月20日 - 19… 宮本 幹也(みやもと みきや、1913年3月20日 - 1993年11月2日)は、日本の作家。本名は正勝(まさかつ)。 長野県上水内郡吉田村(現長野市)生まれ。旧制長野中学(長野県長野高等学校)を経て、明治大学文学部卒業。1932年「青春街」がサンデー毎日新人賞を受賞し、作家デビュー。週刊朝日に「霧の中の獣心」「渋柿」を掲載、1935年日活撮影所脚本部員となり、1937年社会浪漫派同人となる。1940年国民文化建設同盟を結成し、1941年『公論』編集長となる。1943年に軍に応召し、1945年復員、1949年から文筆業に復帰。戦後、ユーモア小説、通俗小説を多く書いたが、50代で筆を折ったようである。
藤井 英男(ふじい ひでお、1913年3月20日 - 200… 藤井 英男(ふじい ひでお、1913年3月20日 - 2002年10月1日)は、日本の弁護士。日本弁護士連合会会長。 東京都出身、山口県育ち。1939年九州帝国大学法学部卒業。高等試験司法科合格後、東京弁護士会会長、日本弁護士連合会副会長を経て、1988年日本弁護士連合会会長。 この項目は、法曹に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
外山 礼三(とやま れいぞう、1913年3月20日 - 19… 外山 礼三(とやま れいぞう、1913年3月20日 - 1947年)は、日本の植物学者である。コケ類を専門とした。 熊本市に生まれた。第五高等学校から京都帝国大学理学部植物学科に進み、大学入学後から植物学を学び、在学中の1935年に「東亜蘚類考察」という論文を発表し、キブネゴケなどを記載するが、ほとんどの新種はシノニムとなった。キブネゴケは新種・新属のKibunemuscus nipponicus として記載するが新属とは認められず、Rhachithecium nipponicum のシノニムとなった。京都大学にあったフランスの蘚苔類学者、カルド(Jules Cardot)によって同定された、ユルバン・ジャン・フォーリーが収集した標本を調べ、日本各地や朝鮮に採集旅行を行った。
宮本 光庸(みやもと こうよう、本名:宮本 正雄、1913年… 宮本 光庸(みやもと こうよう、本名:宮本 正雄、1913年(大正2年)3月20日 - 2001年(平成13年)3月8日)は、日本の彫刻家。徳島県徳島市出身。帝国美術学校(現在の武蔵野美術大学)卒業。 帝国美術学校(現在の武蔵野美術大学)卒業。清水多嘉示、建畠大夢に師事する。 日本美術展覧会参与を務め、1981年には徳島県文化賞を受賞。また1953年と1954年に朝倉賞を受賞するなど日本の彫刻界に功績を残した。鳴門市の妙見山公園の遊歩道沿いには彼の作品が展示されている。2001年3月8日、腎肺不全のため死去。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
吉永 榮助(よしなが えいすけ、1912年3月20日 - 1… 吉永 榮助(よしなが えいすけ、1912年3月20日 - 1998年9月28日)は、日本の法学者。専門は、商法・経済法。学位は、法学博士(一橋大学)。一橋大学名誉教授。東京出身。 1929年府立第七中学校(現・東京都立墨田川高等学校)卒業。東京商科大学(現一橋大学)予科入学。1934年司法試験合格(旧制)。1935年東京商科大学商学部卒業。商学部助手。民法学の岩田新ゼミナール出身だったが、岩田が白票事件で退官すると、田中誠二に師事して商法研究に転じた。また、大平正芳(のちに内閣総理大臣)や武野義治(のちに初代駐イスラエル大使)、小島太作(のちに駐インド大使)、富樫総一(のちに労働事務次官)らと、憲法の田上穣治講師や国際法の大平善梧教授が中心となっていた研究会にも参加した。
大阪 圭吉(おおさか けいきち、1912年3月20日 - 1… 大阪 圭吉(おおさか けいきち、1912年3月20日 - 1945年7月2日)は、愛知県出身の推理作家、小説家。本名は鈴木 福太郎(すずき ふくたろう)。 愛知県南設楽郡新城町(現・新城市)の旅館、「鈴木屋」の息子として生まれる。地元の小学校から豊橋商業学校(現・愛知県立豊橋商業高等学校)に進学するも、3年で中退。上京して日本大学商業学校(夜間、現在の日本大学第一高等学校)で学ぶ。この頃、坂上蘭吉のペンネームで「中央公論」の文壇アンデパンダン懸賞小説に応募するが選外となる。1931年には大学を卒業、郷里に戻り新城町役場に入職する。 やがて探偵小説を書くようになり、ペンネームも敬愛する江戸川乱歩の「江戸」に対する地名から、「大阪」圭吉と改め、1932年に『日の出』の創刊号懸賞小説に応募した「人喰い風呂」が佳作入選。
李 相敦(イ・サンドン、朝鮮語: 이상돈、1912年3月20… 李 相敦(イ・サンドン、朝鮮語: 이상돈、1912年3月20日 - 1997年7月14日)は、大韓民国の実業家、ジャーナリスト、政治家。制憲・第5・6代韓国国会議員。 本貫は慶州李氏。号は青居(チョンゴ、청거/靑居)。 日本統治時代の忠清南道天安郡出身。光州学生運動に関わったことにより公州高普中退、1933年徽文高等普通学校卒。早稲田大学第一高等学院を経て、1939年に早稲田大学政治経済学部経済科卒。卒業後は東亜日報に入社して記者・編集局論説部論説委員を務めたが、翌1940年に強制廃刊された。その後は京城天一薬房庶務課長、東亜薬品工業創立者・常務理事、韓国民主党中央執行委員・宣伝部次長、民主国民党宣伝部次長、民主党天安乙区党委員長・中央常務委員・政策委員を務めた。
加藤 六美(かとう むつみ、1911年3月20日 - 200… 加藤 六美(かとう むつみ、1911年3月20日 - 2000年7月8日)は日本の工学者、工学博士。愛知県出身。東京工業大学学長、国立大学協会会長、人事官を歴任した。正三位勲一等瑞宝章。 略歴は以下のとおり。
伊藤 不二男(いとう ふじお、1911年3月20日-1987… 伊藤 不二男(いとう ふじお、1911年3月20日-1987年3月25日)は、日本の国際法学者。 福岡県出身。1936年東京帝国大学法学部法律学科、37年同政治学科卒。1940年九州帝国大学大学院修了、同副手、助手、南山大学助教授、熊本大学助教授、1953年九州大学法学部助教授、54年教授、62年九州大学法学博士。63-65年法学部長。74年定年退官、名誉教授、西南学院大学教授。1966年「ビトリアの国際法理論」で日本学士院賞受賞。
斎藤 喜博(さいとう きはく、1911年〈明治44年〉3月2… 斎藤 喜博(さいとう きはく、1911年〈明治44年〉3月20日 - 1981年〈昭和56年〉7月24日)は、日本の教育者。群馬県佐波郡芝根村(現・玉村町)生まれ。群馬師範学校(現・群馬大学共同教育学部)本科第一部卒業。小中学校の教師や群馬県教職員組合常任委員(文化部長)を経て、1952年、佐波郡島小学校長となり、11年間、「島小教育」の名で教育史に残る子どもたちの表現力を育てる実践を展開した。計8回開かれた公開研究会には、全国から延べ1万人近い教師、研究者らが参観に来た。 併行して民間教育研究運動にも積極的に携わり、自ら設立に関与した教育科学研究会(教科研)教授学部会や教授学研究の会で現職教員を指導した。
深沢 松美(深澤、ふかさわ まつみ、1910年(明治43年)… 深沢 松美(深澤、ふかさわ まつみ、1910年(明治43年)3月20日 - 1976年(昭和51年)6月21日)は、昭和期の地方公務員、政治家。松本市長(公選第4代)。 位階は正五位。勲三等瑞宝章。 長野県東筑摩郡波田村(現:松本市)で、深沢忠太、か津へ の長男として生まれた。1929年(昭和4年)3月、松本商業学校卒業後、東京片倉生命保険、信濃毎日新聞に勤務。1941年(昭和16年)波田村収入役に就任し、のち助役となる。1951年(昭和26年)から長野県議会議員に5回当選。この間、中小企業振興審議会長、総合開発審議会委員などを務める。 1969年(昭和44年)松本市長に当選し2期務め、病のため1976年(昭和51年)3月に退任した。
徳久 克己(とくひさ かつみ、1910年3月20日 - 20… 徳久 克己(とくひさ かつみ、1910年3月20日 - 2001年4月)は、元生長の家理事長。産婦人科医。医学博士。 高知県出身。1937年、岡山医科大学卒業。1942年、「「ビタミン」B1およびB2の雌性性器に及ぼす実験的研究」で医学博士。戦争中は満州で病院長を務める。戦後、生長の家本部練成道場設立や、ブラジル、アメリカ合衆国、中華民国での布教活動に尽力。生長の家関係の要職を歴任し、1982年、生長の家本部理事長。 1983年にはカトリック東京大司教の白柳誠一や全日本仏教婦人連盟の山本杉、日蓮宗管長の金子日威らと「〝生命尊重の日〟実行委員会」を結成した。これは優生保護法が制定された7月13日を「生命尊重の日」として、優生思想や堕胎に反対していこうという運動であった。
江里口 清雄(えりぐち きよお、1910年〈明治43年〉3月… 江里口 清雄(えりぐち きよお、1910年〈明治43年〉3月20日 - 1983年〈昭和58年〉2月16日)は、日本の裁判官。 佐賀県出身。東京帝国大学卒業。裁判官で刑事訴訟が専門だが、司法省に一時期出向。 東京地方裁判所では帝銀事件を担当した際には、一般市民は被告人の自供があるからと言っているが、はなはだ危険という旨を述べ慎重な態度を見せた。法廷で被告人の平沢貞通をじっくり尋問し、録音テープを何度も聞き返すなどした上で、死刑判決。 その後、最高裁判所刑事局長、長野地家裁所長、福岡高等裁判所長官などを歴任。 1973年1月に最高裁判所判事に就任。就任時に「帝銀事件以外に死刑判決を出したことはない。
佐田 徳平(さた とくへい、1909年(明治42年)3月20… 佐田 徳平(さた とくへい、1909年(明治42年)3月20日 - 1933年(昭和8年)12月17日)は、山梨県生まれ、名古屋育ちの日本の競泳選手。 1928年アムステルダムオリンピック競泳男子800m自由形リレー銀メダリスト。 山梨県南巨摩郡八日市場村(現:山梨県南巨摩郡身延町八日市場)で電気技師だった佐田多一、妻ちよの長男として生まれる。父の仕事の関係で転居を重ねた。佐田家の実家は富士川にほど近く、夏休みに帰郷した際には急流の中を泳ぐなど幼少より水に親しんでいた。 父の仕事で転居した名古屋の愛知水泳協会に所属し活躍する。旧制富田中学(現:三重県立四日市高等学校)卒業後、明治大学に進み、水泳部主将を務めた。
木村英夫(きむらひでお、明治42年3月20日 - 平成13年… 木村英夫(きむらひでお、明治42年3月20日 - 平成13年8月22日)は、日本の造園系都市計画家。日本都市計画学会名誉会員。都市計画学会はもとより,日本造園学会の名誉会員さらに日本造園修景協会の会長や顧問をつとめたほか,審議会関係では,歴史風土審議会,埼玉県都市計画審議会,群馬県都市計画審議会に関係し、活動の足跡を残す。また東京農業大学造園学科,東洋大学工学部,東京大学農学部や国土建設学院の非常動講師も歴任。 技術士。 戦時中は皇紀2600年記念事業に関係した神都計画や神宮関係施設等の計画,東京緑地計画に続く戦時体制下での防空を含む総合都市計画、戦後は戦災復興事業,昭和31年に制定された都市公園法の運用に当たり、埼玉県時代は江戸川の改修事業に関連した土地区画整理事業,国道17号バイパス計画,県立自然公園指定に尽力し1964年東京オリンピック関連施設計画でも力量を発揮。
田辺 三郎(たなべ さぶろう、1909年3月20日 - 19… 田辺 三郎(たなべ さぶろう、1909年3月20日 - 1987年9月15日)は、日本の経営者。伊奈製陶(INAXを経て、現在のLIXIL)社長を務めた。 東京都出身。1929年に東京高等工業学校窯業学科を卒業し、同年に伊奈製陶に入社した。1948年9月に取締役に就任し、1961年12月に常務、1963年12月に専務、1967年12月に副社長を経て、1968年10月に社長に就任した。1976年1月に会長を経て、1980年1月に相談役に就任した。 1974年10月に藍綬褒章を受章し、1980年5月に勲三等瑞宝章を受章した。 1987年9月15日、心不全のため死去した。78歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
小西 健一(こにし けんいち、1909年(明治42年)3月2… 小西 健一(こにし けんいち、1909年(明治42年)3月20日 - 1986年(昭和61年)3月20日)は、日本のフィールドホッケー選手、スケート指導者。 朝鮮の咸興市で生まれた。1932年、早稲田大学経済学部を卒業した。 1932年、日本のフィールドホッケーチームのメンバーとして、1932年ロサンゼルスオリンピックに出場し銀メダルを獲得した。彼はフォワードとして2試合に出場した。 1933年、大日本スケート競技連盟(現日本スケート連盟)理事、大日本体育協会(現日本スポーツ協会)理事に就任。1972年札幌オリンピックの日本スケート代表チームの選手強化本部長を務めた。 その他、日本アイスホッケー連盟参与、日本スケート連盟参与、小西産業社長などを務めた。
小松 多喜雄(こまつ たきお、1909年(明治42年)3月2… 小松 多喜雄(こまつ たきお、1909年(明治42年)3月20日 - 1982年(昭和57年)8月4日)は、昭和期の実業家、政治家。塩尻市長(初代)。位階は正六位。勲四等旭日小綬章。 長野県東筑摩郡塩尻村(塩尻町を経て現塩尻市)で生まれた。1922年(大正11年)旧制松本商業学校5年次中途退学。家業の運送業に従事。1928年(昭和3年)から鉄道小運送業に従事(美勢運送合資会社勤務)し、1941年(昭和16年)から貨物自動車業を営む(塩尻陸運取締役)。1944年(昭和19年)5月、中信興業代表取締役に就任。1946年(昭和21年)に小松組(信州急送などを経て現信州名鉄運輸)を創業し、長野県内におけるトラック運送業の先駆けとなる。
高島 春雄(たかしま はるお、1907年(明治40年)3月2… 高島 春雄(たかしま はるお、1907年(明治40年)3月20日- 1962年(昭和37年)5月31日)は、日本の動物学者。 高島春雄は、東京生まれの動物学者である。 1960年にコビトカバが上野動物園に導入された際、オカピ、ジャイアントパンダ、コビトカバの3種を世界三大珍獣として選抜したことで知られる。
山下 実(やました みのる、1907年3月20日 - 199… 山下 実(やました みのる、1907年3月20日 - 1995年4月4日)は、兵庫県神戸市出身のプロ野球選手・監督。抜群の打撃力で鳴らし、高校野球、東京六大学野球、草創期のプロ野球で活躍した。
藤見 敬譲(ふじみ けいじょう、1907年3月20日 - 1… 藤見 敬譲(ふじみ けいじょう、1907年3月20日 - 1982年12月9日)は、日本の経営者。明治乳業社長を務めた。 山口県出身。1930年に九州帝国大学農学部農芸化学科を卒業。明治製菓での勤務を経て、1937年に明治乳業に転じ、1959年に取締役に就任し、常務、専務、副社長を経て、1977年6月に社長に就任した。 1982年12月9日、肝臓癌のために死去。75歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
新関 勝芳(しんぜき / にいぜき かつよし、1906年(明… 新関 勝芳(しんぜき / にいぜき かつよし、1906年(明治39年)3月20日 - 1994年(平成6年)4月27日)は、日本の裁判官、弁護士。大阪高等裁判所長官、ロッキード事件の弁護団長を務めた。
唐澤 鹿男(からさわ しかお、1906年〈明治39年〉3月2… 唐澤 鹿男(からさわ しかお、1906年〈明治39年〉3月20日 - 没年不明)は、昭和時代の台湾総督府官僚。公吏。 長野県上伊那郡に生まれる。松本高等学校を経て、1932年(昭和7年)東京帝国大学経済学部を卒業する。 卒業後、直ちに台湾総督府に出仕し金融課勤務を発令され、官房審議室勤務を経て、1942年(昭和17年)8月、地方理事官に進み、高雄州恒春郡守に就任した。 戦後、長野県出納長を務めた。
柴田 文三(しばた ぶんぞう、1905年3月20日 - 19… 柴田 文三(しばた ぶんぞう、1905年3月20日 - 1989年5月20日)は、日本の経営者。青森県出身。 1929年に東北帝国大学工学部機械工学科を卒業し、同年に高砂熱学工業に入社。1947年に取締役に就任し、1955年に常務、1965年に専務を経て、1967年に副社長に就任し、1968年6月には社長に昇格した。1976年8月から相談役を務めた。 1989年5月20日心不全のために死去。84歳没。
氏原 大作(うじはら だいさく、1905年〈明治38年〉3月… 氏原 大作(うじはら だいさく、1905年〈明治38年〉3月20日 - 1956年〈昭和31年〉12月31日)は、日本の小説家、詩人、教育者。山口県阿武郡篠生村(のちの阿東町、現在の山口市)篠目出身。氏原大作は筆名で、本名は原 阜()。 尋常小学校高等科を卒業後、故郷の小学校の代用教員などを務めながら、同人誌を発行するとともに、短歌などを発表。1936(昭和11)年に雑誌『少年倶楽部』に投稿した『見たか青空』が同誌に掲載されたのを契機に、同誌の常連作家となる。1938(昭和13)年に、主婦の友社の懸賞小説で『幼き者の旗』が一等に当選、のちに同作が映画化するなど、注目を集めた。 1905(明治38)年3月20日、山口県阿武郡篠生村篠目の農家に生まれる。
立林 文二(たてばやし ふみじ、1904年(明治37年)3月… 立林 文二(たてばやし ふみじ、1904年(明治37年)3月20日 - 1966年(昭和41年)7月10日)は、日本の銀行家。三和相互銀行社長(現・トマト銀行)。岡山県新見市出身。 1904年(明治37年)岡山県阿賀郡刑部村(現:新見市)に生まれる。1895年(明治28年)に旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学し、その後、1922年(大正11年)第六高等学校文科甲類へ入学した。1925年(大正14年)、同高校を卒業し、東京帝国大学法学部法律学科へ入学、イギリス法を学び1929年(昭和4年)3月、同大学を卒業した。 大学卒業後、日本勧業銀行(現・みずほ銀行)へ入行し、大阪支店に配属となり、1935年(昭和10年)には、貸付課の書記に配属となった。
由井 敢(ゆい いさむ、1904年(明治37年)3月20日 … 由井 敢(ゆい いさむ、1904年(明治37年)3月20日 - 1985年(昭和60年)5月16日)は、日本の実業家。住友電気工業副社長。 製紙王藤原銀次郎の妻禄子の兄の孫。 鳥取県西伯郡境町(現在の境港市)出身。由井哲三の長男。 1924年(大正13年)、東京商科大学(現在の一橋大学)附属商学専門部を卒業。住友電気工業入社。 1946年(昭和21年)、東京支店長に就任。1947年(昭和22年)、取締役に挙げられた。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
高橋 等(たかはし ひとし、1903年3月20日 - 196… 高橋 等(たかはし ひとし、1903年3月20日 - 1965年8月10日)は、日本の逓信官僚、政治家。位階は従三位。衆議院議員(6期)、法務大臣を歴任。 広島県福山市深津町出身。福山中学校(現・福山誠之館高校)から1921年、第六高等学校を経て1927年、東京帝国大学法科大学英法科卒業。高等文官試験行政科に合格し逓信省入省後、札幌・熊本通信局で幹部を務めた後、逓信省簡易保険局管理課長、商工省金属回収本部総務課長、広島商工局商工部の部長を歴任。また、軍需省では大阪燃料局の局長などを務めた。 終戦後の1949年、旧広島3区から自由党公認で第24回衆議院議員総選挙に出馬し初当選。以降、在職中に死去するまで連続6回当選(当選同期に佐藤栄作・岡崎勝男・前尾繁三郎・橋本龍伍・麻生太賀吉・小渕光平・西村英一・橋本登美三郎・福永健司・塚原俊郎・藤枝泉介・木村俊夫・中川俊思・稲葉修・河本敏夫・森山欽司・床次徳二・有田喜一など)。
小野 薫(おの かおる、1903年(明治36年)3月20日 … 小野 薫(おの かおる、1903年(明治36年)3月20日 - 1957年(昭和32年)1月11日)は、日本の建築構造学者。構造教育者。 架構力学理論の研究者であり、難解な構造力学の分野を平易に紹介。戦前は満州で建築教育に携わり、戦後は東京大学および日本大学において後進の育成に当たった。 日本の強度計算方式に1つの形式を与え、その水準を高める上に現在日本のラーメン計算ではスラブからの三角型分布荷重と小梁からの集中荷重で大梁の曲げモーメント失算出することが行われているが、これは小野の創意になる図表が用意されていたからこそ可能になった習慣とされる。小野の図表がなければ、恐らく外国並に有効等分布荷重といったもので概算する程度に止まっていたとされている。
渡部 喜十郎(わたなべ きじゅうろう、1902年(明治35年… 渡部 喜十郎(わたなべ きじゅうろう、1902年(明治35年)3月20日 – 2004年(平成16年)10月11日)は、日本の弁護士、第22代日本弁護士連合会会長。 1902年、愛媛県温泉郡難波村(現・松山市)にて出生。 1920年、北予中学卒業後、上京し働きながら明治大学にて学ぶ。 1929年、高等試験司法科に合格。弁護士となる。 1966年、東京弁護士連合会会長に就任。 1968年、東京都弁護士協同組合の設立を提唱し、初代理事長に就任。 1971年、日本弁護士連合会会長に就任。 1984年、全国弁護士協同組合連合会の初代理事長に就任。 2004年、死去。102歳。
門田 勲(かどた いさお、1902年3月20日 - 1984… 門田 勲(かどた いさお、1902年3月20日 - 1984年10月27日)は、ジャーナリスト。 東京生まれ。1927年京都帝国大学法学部卒。東京朝日新聞入社、社会部長、学芸部長、1950年大阪本社編集局長。学生時代は、京大教授・厨川白村の息子(厨川文夫)の家庭教師をしていた。鎌倉に住んでおり、『外国拝見』には川端康成の推薦文がついた。
虎尾ハルシア(とらお はるしあ、1902年〈明治35年〉3月… 虎尾ハルシア(とらお はるしあ、1902年〈明治35年〉3月20日 - 1991年〈平成3年〉3月4日)はアイヌの口承文芸ユカㇻとウエペケレの伝承者。出生名である虎尾ハルとしても知られる。 北海道静内郡静内町(現在の日高郡新ひだか町)農屋(旧ノヤサㇽコタン)のオプスケ川の近くで生まれ育つ。父・虎尾桃太郞(とうたろう、アイヌ名イコㇽパ)はハルシアが4歳の時に亡くなり、その後は母ムメ(アイヌ名シケヌカㇻ)に育てられた。父方の祖父は南部衆であり、母方の祖母である福島タノペトからウエペケㇾを伝えられている。9歳の時に学校へ通ったが、一年も行かなかったという。15~16歳の頃に畑作や道路工事の日雇いで働くようになり、川船で船を漕いだり、鱒漁の網を馬で引いたりできるようになった。
中西 秀男(なかにし ひでお、1901年3月20日 - 19… 中西 秀男(なかにし ひでお、1901年3月20日 - 1996年3月30日)は、日本の英文学者、翻訳家。早稲田大学名誉教授。 茨城県土浦市生まれ。茨城県立土浦中学校を経て、1921年早稲田大学高等師範部英語科卒業。早稲田中学校専任教諭となり、46年まで務める。戦後47年母校講師、48年助教授、49年早大教育学部教授、71年定年退任、名誉教授。多くの翻訳をおこなった。
島田 謹二(しまだ きんじ、1901年(明治34年)3月20… 島田 謹二(しまだ きんじ、1901年(明治34年)3月20日 - 1993年(平成5年)4月20日)は、日本の比較文学者、英米文学者。文化功労者。日本学士院賞受賞。 1901年、東京府で生まれた。東北帝国大学英文科で学び、卒業。 卒業後、英文学者の矢野峰人に見込まれて、台北帝国大学講師となった。講師の期間は17年に及んだ。若き日は英国詩を専門としたが、他のヨーロッパの国々や日本の詩歌に関心を深めていった。 戦後の引き揚げ後は、第一高等学校教授に就いた。1949年の新制大学移行後は、東京大学教養学部教授。新設された大学院比較文学比較文化専修課程の初代主任教官となり、平川祐弘、芳賀徹、小堀桂一郎、亀井俊介ら、多方面で活躍する人材を多く育てた。
松本 瀧藏(まつもと たきぞう、松本 滝蔵、Takizo F… 松本 瀧藏(まつもと たきぞう、松本 滝蔵、Takizo Frank Matsumoto、1901年3月20日 - 1958年11月2日)は、日本の政治家、教育者。衆議院議員、外務政務次官、内閣官房副長官(政務担当)、明治大学教授などを歴任した。広島県佐伯郡廿日市町(現廿日市市)生まれ。 私生児として生まれる。家族とともに2、3歳からアメリカに渡り、カリフォルニア州フレズノで育つ。アメリカに落ち着くまもなく父が他界。母はレストランを経営する日本人とすぐに再婚。瀧藏はフランク・ナルシマを名乗るようになった。1919年、高校を卒業すると「the Fresno Athletic Club(フレズノ・アスレチック・クラブ)」に日系アメリカ人野球チームを創設した。
丸野 弥高(まるの やこう、1900年3月20日-1976年… 丸野 弥高(まるの やこう、1900年3月20日-1976年3月22日)は、日本の国文学者。明治大学名誉教授。 鹿児島県鹿児島市平之町に生まれ、鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を1918年3月に卒業。同校3年次に1年休学しており、その間、文学書を読みあさっていた。また、当時の校長の方針で旧制第二鹿児島中では国語の副読本に田山花袋の随筆「椿」が使われており、この頃から自然主義文学に興味を抱く。 1926年3月に第七高等学校造士館 (旧制)を、1930年に東京帝国大学文学部国文学科をそれぞれ卒業。旧制第七高校では文芸部に入っていた。また、学生時代から「潮騒」主宰の太田水穂に師事して短歌をつくる。
太田 光二(おおた みつじ、1900年〈明治33年〉3月20… 太田 光二(おおた みつじ、1900年〈明治33年〉3月20日 - 1973年〈昭和48年〉1月7日)は、日本の政治家、新聞記者。第13-15代岡崎市長(3期)、愛知県会議員、岡崎市会議員、全国市長会副会長、日本消防協会副会長などを歴任した。 父親は伊賀八幡宮の神官の家来だった鈴木四郎三郎。鈴木が愛知県額田郡下山村田代(現・豊田市下山田代町)に逃れ、魚行商人をしていた頃、三男として生まれた。5歳の時、一家をあげて本籍地の岡崎へ戻った。のちに母方の実家の太田家を継ぐ。 広幡町立広幡尋常高等小学校(現・岡崎市立広幡小学校)を卒業後、教師として身を立てるつもりで足助町の准教員養成講習会に通う。免許を受ける際、修身の科目を落としたため教師の道は一旦閉ざされる。
織田 智(おだ さとる、1899年(明治32年)3月20日 … 織田 智(おだ さとる、1899年(明治32年)3月20日 - 1981年(昭和56年)7月19日)は、昭和期の内務官僚。戦後山形県知事(官選最後)を経て、市川市長となる。 福井市出身。東京帝国大学を経て内務省に入省し、1940年から3年間、千葉県書記官・経済部長を務める。その後、朝鮮総督府物価課長となるが、戦後帰国して本省に戻り、1947年3月14日に山形県知事に任命される。 ところが、就任直後に千葉県知事選挙に出馬すべく県知事の辞表を出して無所属での立候補を表明した。折しも日本自由党と日本進歩党(3月31日に民主党となる)の間で統一候補の合意に失敗し、候補を欠いた進歩党は3月17日になって織田を推薦した。