鍋島 能弘(なべしま のりひろ、1904年9月21日 - 1… 鍋島 能弘(なべしま のりひろ、1904年9月21日 - 1979年12月22日)は、日本のアメリカ文学者、翻訳家。お茶の水女子大学名誉教授。 佐賀県出身。1927年東京帝国大学英文科卒。第二次世界大戦後、東京大学教養学部教授、お茶の水女子大教授、立正大学教授、昭和女子大学教授を歴任。ウォルト・ホイットマンなどを研究、翻訳した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
石垣 綾子(いしがき あやこ、1903年9月21日 - 19… 石垣 綾子(いしがき あやこ、1903年9月21日 - 1996年11月12日)は、日本の女性問題評論家、社会運動家。旧姓・田中。 陸軍幼年学校物理学教授田中三四郎の二女として東京(現在の東京都新宿区市谷加賀町)に生まれる。2歳のときに早稲田南町に転居した。転居先の近所には夏目漱石が居住しており、漱石の三女とは小学校で同級だった。4歳の時母親と死別し、父親の手で育つ。府立第一高女に学び、YMCAの英語クラス、バイブル・クラスに通って社会運動にふれる。卒業後は自由学園高等科に入学。自由学園卒業後。警察に検挙されたことをきっかけに、家族の勧めにより、1926年に外交官としてワシントンに赴任する姉夫婦とともに米国に渡り、反戦・社会運動に参加する。
正田 英三郎(しょうだ ひでさぶろう、1903年9月21日 … 正田 英三郎(しょうだ ひでさぶろう、1903年9月21日 - 1999年6月18日)は日本の実業家。群馬県邑楽郡館林町(現・館林市)出身。
木村 鉱二郎(きむら こうじろう、1903年9月21日 - … 木村 鉱二郎(きむら こうじろう、1903年9月21日 - 1995年2月18日)は、日本の経営者。日本冷蔵(現在のニチレイ)社長、会長を務めた。東京府出身。 1926年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に合同毛織に入社。日本水産を経て、1945年12月に日本冷蔵取締役に就任。 1951年に社長に就任し、1968年3月には会長に就任。1979年3月に相談役に就任。 1962年に藍綬褒章を受章し、1975年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1995年2月18日心不全のために死去。91歳没。
河原 喜久恵(かわはら きくえ、1902年(明治35年)9月… 河原 喜久恵(かわはら きくえ、1902年(明治35年)9月21日 - 1997年(平成9年))は昭和期の声楽家(ソプラノ)。 東京府芝区田村町(現在の東京都港区)出身。士官である河原喜久蔵の二女として生まれる。1920年(大正9年)に日本高等女学校(現・相模女子大学)を卒業。1923年(大正12年)に東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)に入学して長坂好子とマルガレーテ・ネトケ=レーヴェに師事し、1927年(昭和2年)3月に同校本科声楽部を卒業。1929年(昭和4年)3月に同校研究科声楽部を修了。山田耕筰の推薦によりコロムビアに入社。 1930年(昭和5年)「ザッツ・オーケー」「麗人の唄」、1931年(昭和6年)「月の浜辺」が大ヒット。
高村 弘平(たかむら こうへい、1901年9月21日 - 1… 高村 弘平(たかむら こうへい、1901年9月21日 - 1989年9月28日)は、日本の造園家。山形県上山市出身。 造園会社の高村造園(1971年から東急グループ傘下、1992年に社名を現在の東急グリーンシステムに商号変更)を設立し、近代造園草創期の造園家として活躍。財界人では五島慶太や藤山雷太などとのかかわりをもつ。また当時の民間鉄道会社が積極策の一つして展開していたレクリエーション施設の建設にかかわり、具体に係わった仕事でも全作品の四割は民間のアミューズメント商業関係の造園空間が多く、それらについての論述もいくつか発表している。 五島美術館庭園、聖蹟桜ヶ丘多摩聖蹟地計画、碑文谷公園、円山動物園、須磨海浜公園、二子玉川園などの造園作品を残す。
樫山 純三(かしやま じゅんぞう、1901年9月21日 - … 樫山 純三(かしやま じゅんぞう、1901年9月21日 - 1986年6月1日)は、日本の実業家でオンワード樫山の創業者。また、競走馬の生産者や馬主としても知られる。 純三は競走馬のオーナー(馬主)としても有名でありみずからオンワード牧場を創設し、オーナーブリーダーとして数々の名馬を世に送り出した。また、ハードツービートで日本人で初めてフランスダービー(ジョッケクルブ賞)を勝利した国際的ホースマンでもあった。勝負服の服色は日本国内・国外ともに「黒、青袖」を使用。 純三の死後、夫人の樫山ハルが競馬事業を引き継いだ。牧場は2012年まで運営された。 樫山奨学財団30周年記念事業の一環として創設された学術賞。
桐山 利三郎(きりやま りさぶろう、1900年9月21日 -… 桐山 利三郎(きりやま りさぶろう、1900年9月21日 - 1995年11月5日)は、日本の経営者。広島県出身。位階は正六位。 1912年に広陵中学校を卒業。 1932年に神戸屋専務を経て、1953年に社長に就任し、1971年には会長に退いた。 1969年10月に藍綬褒章を受章し、1976年に勲四等瑞宝章を受章。 1995年11月5日老衰のために死去。95歳没。死没日付をもって正六位に叙された。
濱田 成徳(はまだ しげのり、1900年(明治33年)9月2… 濱田 成徳(はまだ しげのり、1900年(明治33年)9月21日 - 1989年(平成元年)7月1日)は、日本の元官僚、元東海大学学長(第3代)を務める。東京府出身。 日本で最初に酸化物陰極を研究し多量生産方法を1928年に完成させた。電子技術審議会会長、NHK経営委員会長、日本科学技術情報センター長、エレクトロニクス協議会長などを歴任した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
篠田 統(しのだ おさむ、1899年9月21日 - 1978… 篠田 統(しのだ おさむ、1899年9月21日 - 1978年8月10日)は、日本の食物史学者。東アジア食物史の開拓者として知られる。栄養生理学から食物史研究に転じた。 大阪府出身。1923年京都帝国大学理学部化学科卒業、同大学院動物学科に入学。1926年から1928年までユトレヒト大学(オランダ)、ミュンヘン大学(ドイツ)、ナポリ水族館(イタリア)に留学。1928年ユトレヒト大学から学位授与。1929年、京都帝大講師、同年「昆虫の腸の分泌に就て」で京大理学博士。1938年、関東軍防疫技師として従軍し、1940年には北支軍軍医部所属として昆虫防疫に従事。1945年8月まで北京衛生試験所技師を勤め、同年12月に引き揚げた。
武田 一郎(たけだ いちろう、1899年9月21日 - 19… 武田 一郎(たけだ いちろう、1899年9月21日 - 1973年12月23日)は、日本の教育学者、教育行政家。 北海道出身。東京文理科大学卒。奈良女子高等師範学校教授、戦後は文部省視学官となり教育行政に携わる。のちお茶の水女子大学附属小学校長、1964年定年退官、お茶の水女子大学名誉教授、北海道学芸大学学長、十文字学園女子短期大学学長。
坂本 武(さかもと たけし、1899年(明治32年)9月21… 坂本 武(さかもと たけし、1899年(明治32年)9月21日 - 1974年(昭和49年)5月10日)は、日本の俳優。本名は永石 武平。 松竹蒲田撮影所で軽妙な脇役として活躍し、斎藤寅次郎監督らによる短篇喜劇映画に多く出演した。小津安二郎監督作品にも常連出演し、『出来ごころ』『浮草物語』などの「喜八もの」では主人公の喜八を演じて人気を得た。上記以外の出演作品に『カルメン故郷に帰る』『煙突の見える場所』など。 1899年(明治32年)9月21日、兵庫県赤穂郡坂越村(現在の赤穂市坂越)に、漁師の父・安吉と母・ます江の5人兄弟の長男として生まれる。坂越尋常高等小学校卒業後、大阪の時計店に勤めるうち、松旭斎天勝一座の奇術を観に行き、舞台からの呼びかけに奇術の相手として飛び入り出演する。
白鳥 義三郎(しらとり ぎさぶろう、1898年(明治31年)… 白鳥 義三郎(しらとり ぎさぶろう、1898年(明治31年)9月21日 - 1965年(昭和40年)12月27日)は日本の千葉県出身の教育者・政治家。千葉県津田沼町長、習志野市初代市長などを歴任。習志野市立習志野高等学校の創立に尽力した。 白鳥与惣左衛門の四男として千葉県千葉郡津田沼町久々田に生まれる。1926年(大正15年)、ベルリン工科大学建築科を卒業、帰国後は東京で教師をつとめた後、合理主義と人道主義の精神に徹した政治活動を展開。 1947年(昭和22年)、公選首長として津田沼町長となり、1955年(昭和30年)、習志野市制が施行されて連続2期市長に当選、文京住宅都市としての習志野市の基礎を築き、大いに地方自治を推進した文化人市長として知られた。
倉石 武四郎(くらいし たけしろう、1897年〈明治30年〉… 倉石 武四郎(くらいし たけしろう、1897年〈明治30年〉9月21日 - 1975年〈昭和50年〉11月14日)は、日本の中国語学者、中国文学者。文学博士。東京大学名誉教授、京都大学名誉教授。 1897年、新潟県高田町(現・上越市)に、十三人兄弟の四男として生まれる。倉石家は地元の名家で、一族には漢学者の高田藩校教授の倉石侗窩がいる。 高田第二尋常小学校(現上越市立東本町小学校)、新潟県立高田中学校(現新潟県立高田高等学校)、第一高等学校を経て、1921年東京帝国大学文学部支那文学科卒。一高時代は三木清や瀧川政次郎とともに岩元禎らの下で学び、東大では塩谷温・服部宇之吉・岡田正之らの下で学ぶ。卒業論文では中国天文学(英語版)を扱う。
田中 弘道(たなか ひろみち、1897年9月21日 - 19… 田中 弘道(たなか ひろみち、1897年9月21日 - 1975年11月3日)は、岡山県岡山市小畑町出身の政治家。 1897年9月21日、岡山市小畑町に生まれる。大西姓を名乗っていたが、後に田中姓となる。1918年、旧制関西中学校(現・関西高等学校)を卒業する。 1934年、岡山市会議員に当選する。その後、市会議長を務め、1939年、岡山県会議員となる。 1947年、公選による初代岡山市長に就任し、1951年まで1期務める。 退任後の1952年、播備商事を設立し、会社経営に尽力した。 活躍が評価され、勲五等双光旭日章が授与された。 1975年11月3日死去。享年79。
片桐 英郎(かたぎり ひでお、1897年9月21日 - 19… 片桐 英郎(かたぎり ひでお、1897年9月21日 - 1987年9月18日)は日本の農芸化学者。農学博士(東京帝国大学、1938年)。専門は発酵化学。 長野県下伊那郡根羽村生まれ。1919年旧制第二高等学校卒業、1922年東京帝国大学農学部農芸化学科卒業。東京帝大の助手から、1924年京都帝国大学農学部助教授、欧米留学から1927年に帰国後、1929年同教授、1960年退官、名誉教授。1963年から1965年まで日本農芸化学会会長を務める。1982年日本学士院会員選出。著作に「酵素化学工業」などがある。 乳酸菌の生化学、ラセミアーゼの発見、醱酵菌類によるビタミンB2関連物質の生産、有機発酵酸及び微生物の代謝に関する研究、繊維原料の発酵精錬に関する研究などで業績を上げた。
武田 キヨ(たけだ キヨ、1896年9月21日 - 1954… 武田 キヨ(たけだ キヨ、1896年9月21日 - 1954年3月14日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 滋賀県滋賀郡膳所町(現大津市)生まれ。のち父の転勤で山口県に移り、山口女学校に通う。その後1919年に東京女子高等師範学校文科を卒業する。卒業後は広島県立呉高等女学校、旧制呉港中学校、呉商業学校各教諭や大正学園理事、東京八雲女学校長などを歴任、婦選獲得同盟中国支部長も務めた。1946年の第22回衆議院議員総選挙に広島県から日本自由党公認で立候補して当選する。翌年の第23回衆議院議員総選挙でも再選。その直後に民主党に移籍した。1949年の第24回衆議院議員総選挙で落選した。1954年に脳溢血で死去した。
五十嵐 悌三郎(いがらし ていざぶろう、明治26年(1893… 五十嵐 悌三郎(いがらし ていざぶろう、明治26年(1893年)9月21日 - 昭和15年(1940年)5月1日)は、山形県西田川郡栄村(現・鶴岡市)出身の、作曲家、音楽教育者。 代表的な作曲に、『山形県青年団歌』(土井晩翠作詞)がある。 京城で学校教諭を務める傍ら、李王家の雅楽研究に没頭した。 山形県師範学校での授業の始めには、毎回1曲の歌を歌っていた。
三浦 肆玖楼(みうら しくろう、1890年(明治23年)9月… 三浦 肆玖楼(みうら しくろう、1890年(明治23年)9月21日 - 1961年(昭和36年)10月4日)は、大正から昭和時代の日本の農学者。 島根県那賀郡井野村(現・浜田市三隅町)にて生まれる。島根県農林学校を経て、1917年(大正6年)東京農業大学を卒業。シンガポールの三五公司の社員となり、ゴムノキの芽接ぎ技術を完成、熱帯ゴム樹栽培の技術を確立した。1925年(大正14年)島根県邑智郡農会技師、1928年(昭和3年)岐阜高等農林学校勤務を経て、1931年(昭和6年)母校の東京農業大学講師となる。さらにアメリカのネブラスカ大学に留学。1934年(昭和9年)に帰国し、東京農業大学教授となり、同校の戦後復興に尽力。
海野 三朗(うんの さぶろう、1889年(明治22年)9月2… 海野 三朗(うんの さぶろう、1889年(明治22年)9月21日 - 1961年(昭和36年)1月14日)は、大正・昭和期の冶金学者、僧侶、政治家。衆議院議員、参議院議員、理学博士。 山形県山形市で、浄土真宗本願寺派・明善寺住職、海野覚英の三男として生まれる。1916年(大正5年)東北帝国大学理科大学物理学科を卒業した。 山形県立米沢中学校(現山形県立米沢興譲館高等学校)教諭に就任。1919年(大正8年)農商務省に入省し、製鐵所技手、同技師を歴任。その後、八幡製鉄所研究所員、日本製鐵理事、同研究所調査部長、技術院事務嘱託などを務めた。1935年(昭和10年)鉄炭素の研究で日本学士院賞を受賞した。
三代目 尾上 多賀之丞(さんだいめ おのえ たがのじょう、1… 三代目 尾上 多賀之丞(さんだいめ おのえ たがのじょう、1889年(明治22年)9月21日 - 1978年(昭和53年)6月20日)は、歌舞伎役者。位階は正五位。 戦前戦後にかけて活躍した。本名は樋口 鬼三郎。俳名は梅華。屋号は音羽屋。 東京市日本橋区(現・東京都中央区)出身。叔父は歌舞伎役者四代目淺尾工左衛門。役者としての初舞台は明治25年(1892年)8月、市川鬼三郎の名前で東京赤坂福禄座『恋初緑鈴木主水』。明治32年(1899年)頃、一時、木挽町にいた鏑木清方に入門、日本画を習得している。明治44年(1911年)9月、明治座での『四千両小判梅葉』の子分助六他で五代目市川鬼丸(いちかわ きがん)を襲名し名題昇進を果たす。
横光 吉規(よこみつ よしのり、1888年(明治21年)9月… 横光 吉規(よこみつ よしのり、1888年(明治21年)9月21日 – 1965年(昭和40年)3月11日)は、静岡県浜松市長。台湾総督府官僚。 大分県下毛郡中津町(現在の中津市)出身。1914年(大正3年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、翌年に高等文官試験に合格した。台湾総督府鉄道部書記、同事務官、同庶務課長、殖産局商工課長、台南州内務部長、殖産局農務課長、台南州知事を歴任した。 1935年(昭和10年)、浜松市長に就任し、2期在任した。 その後は静岡県食糧営団理事長を務めた。戦後、公職追放となった。
本山 桂川(もとやま けいせん、1888年9月21日 - 1… 本山 桂川(もとやま けいせん、1888年9月21日 - 1974年10月10日)は、日本の民俗学者、文学碑研究家、文筆家。本名・豊治。孫は漫画家の本山一城。 長崎市出島町出身。1912年早稲田大学政治経済科卒。民俗および民芸の研究に従事し「日本民俗図誌」全20巻、「生活民俗図説」などの著書がある。戦後、金石文化研究所を主宰。その他実用書を含めて多種多様な著作をもつ。
松旭斎 天洋(しょうきょくさい てんよう、1888年〈明治2… 松旭斎 天洋(しょうきょくさい てんよう、1888年〈明治21年〉9月21日 - 1980年〈昭和55年〉9月30日)は日本の奇術師。敦賀市生まれ。本名は山田(旧姓:島田)松太郎。初代・第3代日本奇術協会会長。 日本における奇術の発展と普及に貢献した業績により、日本奇術界の「中興の祖」とも呼ばれた。 母親は奇術師の松旭斎天一の姉であった。子供の頃は大阪で丁稚奉公をしていた。 1905年(明治38年)に17歳で松旭斎天一に弟子入り、して松旭斎天松という芸名をもらった。兄弟弟子には松旭斎天勝や松旭斎天二らがいた。「天一一座」では天一の手伝いをやりながら、奇術の腕を磨いた。 師匠の天一が死去してからは松旭斎天洋と改名し、1912年(大正元年)に「天洋一座」を旗揚げして座長として独立し活躍した。
川崎舎 恒三(かわさきや つねぞう、1886年(明治19年)… 川崎舎 恒三(かわさきや つねぞう、1886年(明治19年)9月21日 - 1954年(昭和29年)9月)は、日本の実業家、技術者。 1886年(明治19年)9月21日、香川県高松市で男二人、女一人の3人兄姉の末っ子として生まれた。1899年(明治32年)4月、香川県立高松中学校(現:香川県立高松高等学校)へ入学。1904年(明治37年)、一高へ進学し、柔道部へ入って練習を積み、初段を得た。当時の一高柔道部の師範は講道館の横山作次郎であり、新井源水、山上岩次を擁して黄金時代を築いていた。一高時代には後々までの親友も得たが、中でも学生寮で同室であった勝沼精蔵(内科医、第3代名古屋大学学長)、橘本伝左衛門(京都大学農学部教授)ならびに森秀三(整形外科開業医)の3人とは終生にわたる親交が続いた。
有田 八郎(ありた はちろう、旧字体: 有田 八郞、 188… 有田 八郎(ありた はちろう、旧字体: 有田 八郞、 1884年〈明治17年〉9月21日 - 1965年〈昭和40年〉3月4日)は、日本の外交官、政治家。貴族院議員(勅選)、衆議院議員(1期)。号は澤農。旧姓山本。新潟県平民。 新潟県佐渡郡真野村(現佐渡市真野)出身。山本家に生まれ、有田家の養子となった。早稲田中学校、第一高等学校を経て、1909年(明治42年)東京帝国大学法科大学独法科卒業、外務省入省。 外務省ではアジア局長、オーストリア公使、外務次官、ベルギー大使、中華民国大使などを務める。1936年(昭和11年)、廣田内閣の外務大臣として初入閣。1938年(昭和13年)2月10日に貴族院議員に勅撰。
千葉 胤成(ちば たねなり、1884年〈明治17年〉9月21… 千葉 胤成(ちば たねなり、1884年〈明治17年〉9月21日 - 1972年〈昭和47年〉3月18日)は、日本の心理学者。東北大学名誉教授。 1884年、宮城県生まれ。1909年、京都帝国大学文科大学心理学科を卒業。 1917年より京都帝国大学の助教授となり、ドイツのライプツィヒ大学に留学し、ヴィルヘルム・ヴントの心理学を研究。母校の京都帝国大学西田幾多郎のもとで1922年に文学博士号を取得。1923年より東北帝国大学文学部教授となり、心理学講座を開設した。大学では、佐武安太郎と同僚で、後の「ヴント文庫」を購入。雑誌Tohoku Psychologica Foliaの刊行も開始。1940年に建国大学教授を命じられ、満州国に渡った。
宮本 貞三郎(みやもと ていざぶろう、1883年(明治16年… 宮本 貞三郎(みやもと ていざぶろう、1883年(明治16年)9月21日 - 1972年(昭和47年)4月29日)は、日本の内務・警察官僚。官選青森県知事、岩出山町長。 宮城県大崎市で素封家・宮本益輔の長男として生まれる。第二高等学校を卒業。1910年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1911年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し秋田県試補となる。 以後、大阪府事務官補、同府理事官・内務部地方課長、警視庁理事官、東京府事務官、埼玉県警察部長、愛知県警察部長、徳島県警察部長、青森県書記官・内務部長、京都府書記官・内務部長、長崎県書記官・内務部長などを歴任。1929年7月20日、大阪府書記官・学務部長に発令されたが、わずか5日後の同月25日に依願免本官となる。
鈴木 憲太郎(すずき けんたろう、1882年(明治15年)9… 鈴木 憲太郎(すずき けんたろう、1882年(明治15年)9月21日 - 1953年(昭和28年)1月17日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員、延岡市長。 宮崎県臼杵郡、現在の延岡市で、衆議院議員・小林乾一郎の二男として生まれる。1901年(明治34年)、鈴木シマの入夫となり家督を相続した。 1904年(明治37年)明治法律学校(現明治大学)卒業。陸軍三等主計、岡富村議、宮崎県議、県農会長等を経て、1928年(昭和3年)第16回衆議院議員総選挙で宮崎県より衆議院議員に初当選(民政党)。以後3回当選した。また、第2,3,7代の延岡市長を務めた。実業界に於いては、延岡電気・神都電気興業各取締役等を務めた。
井上 柳梧(いのうえ りゅうご、1880年(明治13年)9月… 井上 柳梧(いのうえ りゅうご、1880年(明治13年)9月21日 - 1962年(昭和37年)3月6日)は、日本の蚕糸学者、政治家。上田蚕糸専門学校第2代校長、上田市長。農学博士。勲二等旭日重光章。 東京府本郷区駒込千駄木町(現東京都文京区)で、官僚・井上廉の息子として生まれた。1893年(明治26年)高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)を卒業[要出典]。1898年(明治31年)高等師範学校附属尋常中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業[要出典]。官界を志していたが科学分野への興味がまさり 東京帝国大学農科大学に進み農芸化学を専攻。1908年(明治41年)7月に卒業して大学院に進み、1911年(明治44年)蚕糸研究のためフランス、ドイツ帝国に留学。
小泉 秀吉(こいずみ ひできち、1879年(明治12年)9月… 小泉 秀吉(こいずみ ひできち、1879年(明治12年)9月21日 - 1959年(昭和34年)2月11日)は、日本の船員、労働運動家、政治家。参議院議員(1期)。 茨城県久慈郡馬場村(後の誉田村大字馬場、現在の常陸太田市馬場町)で、鋳物業・小泉長介、とみ夫妻の六男として生まれた。太田尋常小学校、太田町立太田高等小学校を経て、1893年4月、茨城県尋常中学校に入学。1896年3月、中学第3学年を修了後退学し、同年7月、官立商船学校(現在の東京海洋大学海洋工学部)航海科に入学。1902年1月、同校を卒業した。 大阪商船の貸費生であったので、卒業後直ちに同社に入社し監督課技士となる。1903年夏過ぎ、大阪商船を退職し、同年9月、三井物産船舶部に入社して阿蘇山丸に二等運転士として配属された。
慶松 勝左衛門(けいまつ しょうざえもん、前名・勝太郎、18… 慶松 勝左衛門(けいまつ しょうざえもん、前名・勝太郎、1876年(明治9年)9月21日 - 1954年(昭和29年)1月28日)は、日本の薬学者、政治家。貴族院議員。参議院議員(1期)。薬学博士。 京都府出身で、都二条烏丸の薬種街の慶松衛生堂にて生まれる。先代勝左衛門の長男。1901年、東京帝国大学医科大学薬学科卒業。同年同大学の助手となる。 その後東京衛生試験所技師、関東都督府中央試験所長、南満洲鉄道中央試験所長を経て、1915年10月1日第一製薬の前身であるアーセミン商会を創業。梅毒の治療薬である駆梅剤アーセミン®を発売した。その後1922年東京帝国大学薬学科教授に就任した。この他京都帝国大学講師も務めた。
菱田 春草(ひしだ しゅんそう、1874年(明治7年)9月2… 菱田 春草(ひしだ しゅんそう、1874年(明治7年)9月21日 - 1911年(明治44年)9月16日)は、明治期の日本画家。横山大観、下村観山とともに岡倉天心(覚三)の門下で、明治期の日本画の革新に貢献した。本名は三男治(みおじ)。 1874年(明治7年)、長野県伊那郡飯田町(現・飯田市)に旧飯田藩士の菱田鉛治の三男として生まれた。飯田学校(現追手町小学校)で学んだ後に上京し、狩野派の結城正明の画塾で学ぶ。1890年(明治23年)、東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学。春草は美校では大観、観山の1学年後輩にあたる。美校での師は狩野派の末裔である橋本雅邦であった。春草は大観、観山とともに、当時美校校長であった岡倉天心の強い影響下にあった。
安藤 橡面坊(あんどう とちめんぼう、1869年9月21日(… 安藤 橡面坊(あんどう とちめんぼう、1869年9月21日(明治2年8月16日) - 1914年(大正3年)9月25日)は、岡山県出身の俳人。本名錬三郎。別号に影人、橡庵など。小田郡新賀(現笠岡市)生。1897年に大阪毎日新聞社に入社。校正部長を務めた。俳句ははじめ高浜虚子選の『国民新聞』に投句、のち正岡子規選の『日本』紙に投句。1901年、初代選者の桜井芳水の死を受けて「毎日唫壇(ぎんだん)」の二代目選者。 子規の俳句革新運動に加わり関西俳壇を盛り立てる。亀田小蛄主宰の糸瓜会の同人として活躍し「車百合」「宝船」「アラレ」の選者も務めた。「鴨川は千鳥に交じる落ち葉かな」「草花を集めて地蔵祭かな」など、日本派風の温厚な写生句を作った 。
小泉 成一(こいずみ せいいち、明治2年8月16日〈1869… 小泉 成一(こいずみ せいいち、明治2年8月16日〈1869年9月21日〉 - 1920年〈大正9年〉10月27日)は戦前日本の洋画家。備後福山藩出身。本多錦吉郎・小山正太郎門下。神奈川県尋常師範学校、宮城県立仙台第二中学校、私立東北学院等で絵画を教えた。 明治2年(1869年)8月16日備後福山藩士小泉卯一郎の長男として備後国深津郡福山に生まれた。本籍は西町。明治4年(1871年)旧知藩事阿部正桓が上京を命じられると、9月一家で神戸港から海路上京し、東京府駒込西片町9番地(現在の文京区西片一丁目)丸山屋敷内に移り住んだ。 1882年(明治15年)10月2日彰技堂に入学して本多錦吉郎に洋画・英学を学び、1883年(明治16年)4月5日から1885年(明治18年)12月まで東京英語学校、1886年(明治19年)3月1日から12月まで東京仏語学校にも通った。
松田 登三郎(まつだ とさぶろう、1867年9月21日〈慶応… 松田 登三郎(まつだ とさぶろう、1867年9月21日〈慶応3年8月24日〉 - 1949年〈昭和24年〉8月27日)は、日本の実業家、土木技術者。大倉土木(現・大成建設)常務取締役を勤めた。 塩飽諸島の讃岐国那珂郡廣島(現・香川県丸亀市)に生まれる。工手学校建築科(現・工学院大学)を首席で卒業後、当時の大倉組に入社する。入社後は設計や工事監督を歴任した。日本最初の地下鉄となった東京地下鉄道上野駅 - 浅草駅間(現・東京メトロ銀座線)の起工式では、東京地下鉄道社長の早川徳次らとともに杭を打ち込んだ。次女は彫刻家の高村光雲の三男高村豊周と結婚している。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
ドミンゴス中村長八(ドミンゴス なかむら ちょうはち、Dom… ドミンゴス中村長八(ドミンゴス なかむら ちょうはち、Domingos Chohachi Nakamura、1865年9月21日(慶応元年8月2日) - 1940年3月14日)は、明治時代から昭和戦前期にかけてブラジルで活動した日本人のカトリック司祭・海外宣教師。長崎県五島列島出身。 奄美大島での26年間の司牧を経て、17年間に渡りブラジル在住の日本人移民・日系人の司牧活動に取り組んだ。初の海外派遣日本人宣教師であり、生前にすでに「生ける聖人」と呼ばれていた。 1938年、教皇ピオ11世より「大聖グレゴリオ勲章」を受章する。1940年3月、鹿児島司教区の使徒管理に任命されたが、その通知が手許に届く直前にブラジルにて死去。
司天龍 政吉(してんりゅう まさきち、1860年9月21日(… 司天龍 政吉(してんりゅう まさきち、1860年9月21日(万延元年8月7日) - 1917年(大正6年)9月22日もしくは9月26日)は、大和国葛下郡(現在の奈良県葛城市)出身で小野川部屋、玉垣部屋、雷部屋、八角部屋に所属した力士。本名は勇川 政吉。7代大嶽、5代中立。身長不明、体重は70kg。最高位は西小結。 大坂相撲の小野川部屋から、1880年5月に三段目格で初土俵。1885年5月には新入幕を果たした。所属が八角部屋になったことから、四股名を鶴ヶ濱から司天龍に改めている。以後幕内20場所を務め、その間にはのちの横綱・小錦八十吉に幕内初黒星を付けた。1895年1月限りで引退し、年寄大嶽を襲名した。
熊本 寿人(くまもと ひさと〔仮、読み不詳〕、1858年9月… 熊本 寿人(くまもと ひさと〔仮、読み不詳〕、1858年9月21日(安政5年8月15日)- 1924年(大正13年)1月10日)は、明治から大正期の篤農家、実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・北村。 筑後国三潴郡、のちの福岡県久留米市で久留米藩士・北村養啓の二男として生まれ、三潴郡木室村中木室(現大川市)の熊本謹蔵の養子となる。和洋学を修めた。 1886年(明治19年)福岡県の花筵業振興のため合資会社共産社を設立。花筵の製造、販売に従事し、染料の改善、染釜の改良などにより製品の品質向上に尽力した。また、筑後茣蓙商同業組合頭取、福岡県花筵同業組合長などを務めた。その他、三潴銀行取締役、福岡県農工銀行監査役にも在任した。
青柳 四郎(あおやぎ しろう、安政4年8月4日(1857年9… 青柳 四郎(あおやぎ しろう、安政4年8月4日(1857年9月21日) - 大正10年(1921年)3月8日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 豊前国小倉城下(現在の福岡県北九州市小倉北区)に、小倉藩士鎌田思誠の四男として生まれ、青柳彦蔵の養子となった。法律学を学んで、代言人となった。福岡県会議員に選出され、参事会員も務めた。 1900年(明治33年)、衆議院補欠選挙で当選。第7回衆議院議員総選挙、第8回衆議院議員総選挙でも再選された。
伊藤 欽亮(いとう きんすけ(きんりょう)、安政4年8月4日… 伊藤 欽亮(いとう きんすけ(きんりょう)、安政4年8月4日(1857年9月21日) - 昭和3年(1928年)4月28日)は、日本の実業家。新聞『時事新報』編集長、新聞『日本』社長。交詢社理事、慶應義塾評議員。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
安東 貞美(あんどう さだよし/ていび/さだみ、1853年9… 安東 貞美(あんどう さだよし/ていび/さだみ、1853年9月21日〈嘉永6年8月19日〉- 1932年〈昭和7年〉8月29日)は、日本の陸軍軍人。朝鮮駐剳軍司令官、第10師団長、第12師団長、第6代台湾総督などを歴任した。階級は陸軍大将従二位勲一等功二級。勲功により男爵に叙爵された。 信濃国伊那郡南部の飯田藩槍術師範・安東辰武の三男として生まれる。父の辰武は松本藩槍術師範・菅沼政治の子で、飯田藩士・安東辰置の養子となり、辰置の長女志記と結婚。長男欽一郎を儲けたが、志記が早世したため、貞美の生母である島地菊子を娶った。貞美の同母兄には後に大審院判事となる柳田直平(柳田家に養子、柳田國男の義父)が、弟には中学校教師となる安東武雄がいる。
北条 元利(きたじょう もととし、1849年9月21日(嘉永… 北条 元利(きたじょう もととし、1849年9月21日(嘉永2年8月5日)- 1905年(明治38年)7月26日)は、幕末の米沢藩士、明治期の裁判官・検察官。官選岩手県知事。位階は従四位、勲等は勲三等。旧名・河村徳次。 出羽国置賜郡米沢館山口町(現:山形県米沢市)で米沢藩士・河村徳友の二男として生まれ、万延元年(1860年)北条源四郎と「はる」の養子となる。戊辰戦争では、振勇隊士官として板谷峠防禦陣地の構築に従事した。 明治4年(1871年)上京して築地の明治協會学院に入学しドイツ語を学ぶ。明治政府に出仕し、明治5年4月4日(1872年5月10日)東京府権区長に就任。その後、警視庁で権中警部などを務めた。
林 有造(はやし ゆうぞう、1842年9月21日〈天保13年… 林 有造(はやし ゆうぞう、1842年9月21日〈天保13年8月17日〉- 1921年〈大正10年〉12月29日)は、日本の政治家、自由民権運動家。逓信大臣、農商務大臣などを歴任。位階勲等は従二位勲四等。幼名を助次。実名は包直。梅渓と号した。 天保13年8月17日(1842年9月21日)、土佐国宿毛に土佐藩安東家(のち伊賀家)の家臣・岩村英俊・嘉乃の次男として出生。兄は岩村通俊、弟は岩村高俊。幼年期に林茂次平の養子となる。戊辰戦争では板垣退助の配下につき、越後国に転戦し、明治維新後は初代の高知県令(参事)をつとめる。藩の債務処理や在任中に発生した膏取り一揆の鎮圧を図るが、板垣が参議を辞任したのに合わせて辞職。
黒川 万由美(くろかわ まゆみ、9月21日 - )は、日本の… 黒川 万由美(くろかわ まゆみ、9月21日 - )は、日本の女性声優。福井県出身。 2010年4月よりリマックス所属。2009年1月までアトミックモンキーに所属していた。 趣味は手話で歌を歌う、福井自慢。特技はマジック、バルーンアート。 資格は介護福祉士、ホームヘルパー2級。
大和田 慧(おおわだ けい、英: Kei Owada、9月2… 大和田 慧(おおわだ けい、英: Kei Owada、9月21日 - )は日本のシンガーソングライター、作詞家、作曲家。東京都出身。早稲田大学第二文学部卒業。 シンガーソングライターの活動の他、NHKみんなのうた、MONDO GROSSOなど他アーティスト作品への参加、サポート、楽曲提供も行う。 2012年、都内を中心に活動を始め、2013年に1st EP「5 pieces +1」をリリース。定期的に渡米し、老舗The Bitter Endに出演するなど、ニューヨークでもライブを行う。 2014年、ニューヨークのアポロ・シアターのアマチュアナイトに自身の楽曲「You are my love」で出演、TOP DOG(準決勝)まで進出。
羅川 真里茂(らがわ まりも、9月21日[リンク切れ] - … 羅川 真里茂(らがわ まりも、9月21日[リンク切れ] - )は、日本の漫画家。青森県八戸市出身。血液型はB型。女性。 青森県立南郷高等学校に通学していた。 デビュー以前は、月刊『JUNE』「ケーコたん(竹宮惠子)のお絵描き教室」に投稿。竹宮から「背景画がサッパリしすぎていてプロとしては通用しない」と酷評された。なお、このとき用いられた主人公たちは後に『赤ちゃんと僕』などに再登場している。 1990年、『タイムリミット』(『花とゆめ』(白泉社)22号)にてデビュー。翌1991年、同誌にてホームコメディ『赤ちゃんと僕』の連載を開始。同作品は6年間に渡って連載され、1996年にはアニメ化も行われるなど、羅川の代表作となった。