鈴木 義雄(すずき よしお、1925年(大正14年)11月2… 鈴木 義雄(すずき よしお、1925年(大正14年)11月28日 - 2021年(令和3年)5月12日)は、日本の実業家である。株式会社鈴屋の社長や会長のほか、日本専門店協会会長などを歴任した。 紳士服を扱う東京市下谷の被服店「鈴木シャツ被服店」を経営する鈴木房吉の長男として生まれた。姉は後に呉服店「鈴乃屋」を創業した小泉清子である。 1950年(昭和25年)、慶應義塾大学経済学部を卒業し、伊藤萬東京店貿易部に勤務した。 1954年(昭和29年)になると生家である鈴木シャツ被服店に移った。専務として同店に就任した義雄は、それまで紳士服店だった鈴木シャツ被服店を婦人服専門店とするとともに、21〜22歳の独身女性を主な対象とするブランド「SUZUYA(スズヤ)」を始めた。
藤井 昇(ふじい のぼる、1925年(大正14年)11月28… 藤井 昇(ふじい のぼる、1925年(大正14年)11月28日 - 2003年(平成15年)4月12日)は、日本のラテン文学者。 1925年、東京府東京市芝区(現在の東京都港区)高輪に生まれる。妻妾同居の家庭で妾に育てられ、実母を慕う。 1942年、横浜ハリストス正教会で日本正教会の小野帰一主教により受洗。聖名はマトフェイ。1943年、慶應義塾普通部4年を修了、慶應義塾大学予科に進学。しかし戦局の悪化により、1944年、三重県第一気象連隊に入隊。戦後復学し、1948年に慶應義塾大学文学部英文科を卒業。卒業後は助手となる。その後、商学部助教授、1966年より教授、1974年より同言語文化研究所教授。
葛井 欣士郎(くずい きんしろう、1925年11月28日 -… 葛井 欣士郎(くずい きんしろう、1925年11月28日 - 2014年4月30日)は、実業家、映画館経営者、映画・演劇プロデューサー。日本アート・シアター・ギルド(ATG)の主要な映画館「アートシアター新宿文化」総支配人として、また、ATG映画の製作者として知られる。妻は村井志摩子。 三重県伊勢市生まれ。1951年、早稲田大学文学部芸術学科卒業後、三和興行に入社。 1961年の日本アート・シアター・ギルド創設に参加。1962年には、三和翼下で、ATGの映画を上映する映画館「アートシアター新宿」が設立され総支配人に。1963年からは、映画だけではなく、前衛演劇も上演するようになる。1967年には映画館の地下にアングラ小劇場「蝎座」を設立。
匠 秀夫(たくみ ひでお、1924年(大正13年)11月28… 匠 秀夫(たくみ ひでお、1924年(大正13年)11月28日 - 1994年(平成6年)9月14日)は、北海道出身の美術評論家。挿絵など近代日本美術史研究で著書多数がある。 札幌一中(現北海道札幌南高等学校)卒、京都大学文学部選科中退、北海道大学文学部西洋史学科卒、同大学院(旧制)修了。高校教諭を経て、1966年(昭和41年)から札幌大谷短期大学教授。1968年(昭和43年)から神奈川県立近代美術館に勤務、1981年(昭和56年)には同館長となる。1987年(昭和62年)に茨城県立美術博物館(現茨城県近代美術館)の館長となる。
加藤 健三(かとう けんぞう、1924年(大正13年)11月… 加藤 健三(かとう けんぞう、1924年(大正13年)11月28日 - )は、日本の医師。内科医。専門は循環器内科。旧姓、山田。元宮内庁皇太后宮侍医長。医学博士(東京大学)。 侍医、また侍医長として昭和天皇や香淳皇后の治療に当たった。 静岡県島田市出身。静岡県立静岡中学校に学ぶ。1948年(昭和23年)、東京大学医学部卒業。1949年(昭和24年)、東京大学医学部左々、美甘内科教室勤務。1952年(昭和27年)、東京大学助手。1955年(昭和30年)、関東逓信病院内科勤務。1957年(昭和32年)、医学博士(東京大学)。1964年(昭和39年)、佐々木研究所附属杏雲堂病院内科勤務。1976年(昭和51年)、銀座菊池病院内科勤務。
林 敬次郎(はやし けいじろう、1923年11月28日 - … 林 敬次郎(はやし けいじろう、1923年11月28日 - 2018年9月2日)は、美津濃株式会社(現ミズノ株式会社)元常務取締役技術開発本部長。 炭素繊維を用いたゴルフクラブ(ブラックシャフト)の開発などで、1970年代、1980年代にスポーツ用品への新素材活用を世界に先駆けておこなった技術者。CFRPを世界で初めてゴルフクラブに採用。1989年、通商産業大臣表彰(安全性認定制度普及功労者表彰)受賞。薬学博士。旧バット工業会会長。 1923年(大正12年)大阪市北区で美津濃株式会社(現ミズノ株式会社)創業者水野利八と内縁の妻林つゆとの間に生まれる。大阪薬学専門学校(旧制)(現大阪大学薬学部)卒業後、第二次世界大戦では海軍にて薬剤官として従事。
飯島 宗一(いいじま そういち、1922年11月28日 - … 飯島 宗一(いいじま そういち、1922年11月28日 - 2004年3月1日)は、日本の医学者(病理学者)である。医学博士。広島大学第4代学長、名古屋大学第8代総長。 長野県諏訪郡平野村(現岡谷市)生まれ。旧制諏訪中学(現長野県諏訪清陵高等学校)、旧制松本高校理科乙類を経て、1946年名古屋帝国大学医学部卒業。1955年西ドイツのフライブルク大学に留学。1958年名古屋大助教授を経て、1961年から広島大学医学部で原爆症を研究。同大学教授を歴任、大学紛争の中、46歳で広島大学学長となり、紛争収束後の大学再建を指揮した。広大学長を辞した後、1978年に母校の名古屋大学に移り、同大学医学部病理学科教授、同大学学長を歴任した。
濱口 浩三(はまぐち こうぞう、1922年(大正11年)11… 濱口 浩三(はまぐち こうぞう、1922年(大正11年)11月28日 - 2014年(平成26年)6月17日)は、日本の実業家。TBS元社長室名誉顧問・相談役・代表取締役社長。マスコミ功労者顕彰放送部門選出。 和歌山県出身。1944年(昭和19年)上智大学文学部新聞学科卒業。1948年(昭和23年)報知新聞社に入社。 1952年(昭和27年)TBSの前身であるラジオ東京に転じ、報道局ニュース部長、ラジオ本部ラジオ局長、大阪支社長を経て、1973年(昭和48年)取締役に選任、1977年(昭和52年)6月29日常務、1983年(昭和58年)顧問兼TBS映画社(後のTBSビジョンを経て現在のTBSスパークル)社長、1986年(昭和61年)TBS社長、1989年(平成元年)相談役、1993年(平成5年)社長室名誉顧問。
茅原 一也(ちはら かずや、1921年〈大正10年〉11月2… 茅原 一也(ちはら かずや、1921年〈大正10年〉11月28日 - 2006年〈平成18年〉8月29日)は、日本の地質学者、鉱物学者、岩石学者、ヒスイ研究者。理学博士。元キタック最高技術顧問。新潟大学名誉教授、日本地質学会名誉会員。 新潟県中蒲原郡横越村(現 新潟市江南区)出身。 1939年(昭和14年)3月に新潟中学校を卒業、1941年(昭和16年)3月に新潟師範学校を卒業、1943年(昭和18年)9月に東京高等師範学校を修了、1946年(昭和21年)9月に東京文理科大学地学科(地質鉱物学専攻)を卒業。 1946年(昭和21年)10月に新潟中学校教諭に就任、化学と地学と音楽を担当、1950年(昭和25年)3月に新潟大学理学部地質鉱物学教室助手に就任、1951年(昭和26年)4月に新潟大学理学部地質鉱物学教室講師に就任。
川崎 宏(かわさき ひろし、1921年11月28日 - 20… 川崎 宏(かわさき ひろし、1921年11月28日 - 2009年1月13日)は、漢文・中国文学、明治文学研究家。 愛媛県宇和島市出身(ただし生まれはアメリカ合衆国モンタナ州ディアロッジ)。宇和島中学(現愛媛県立宇和島東高等学校)、大東文化学院(現大東文化大学)卒業。元関東学院女子短期大学教授。 「明治村通信」の編集長を長くつとめた。 母方祖父母の住む吉田町の吉田尋常高等小学校に途中編入、母国語による学習をはじめ、のち宇和島の父母のもとに転じ宇和島市立第二尋常小学校を卒業、愛媛県立宇和島中学校在学、のち大東文化学院で漢学を学ぶ。 帝国海軍従軍後、東京にて「文芸新誌」編集人、中河与一編「現代フランス素描集」などの発行名義人に任じ、やがて新制度による中学校、高等学校発足後、宇和島市立城南中学校、愛媛県立吉田高等学校を含む県下の公立学校4校で教員勤務。
新井 益太郎(あらい ますたろう、1921年11月28日 -… 新井 益太郎(あらい ますたろう、1921年11月28日 - 2009年4月12日 )は、日本の会計学者。1985年から1990年まで日本簿記学会会長。第13期・第15期日本学術会議会員。成蹊学園名誉理事、成蹊大学名誉教授。
喜多 了祐(きた りょうゆう、 1921年11月28日 - … 喜多 了祐(きた りょうゆう、 1921年11月28日 - 2007年6月18日)は、日本の法学者。専門は商法。学位は、法学博士。小樽商科大学教授・一橋大学法学部教授を経て、一橋大学名誉教授。 北海道小樽市生まれ。中華人民共和国国務院の招聘により西安の西北法政学院において日本商法を講義。フルブライト留学生としてハーバード・ロー・スクール留学、ブリティッシュ・カウンシル留学生としてロンドン・スクール・オブ・エコノミクス法科大学院留学など海外研究の機会が多く、南山大学、富山大学、東洋大学大学院、亜細亜大学などでも講義。法学博士の学位を取得、学位論文は「私法における外観優越の理論―商法への展開のための基礎研究―」(1975年)。
宮尾 益英(みやお ますひで、1921年〈大正10年〉11月… 宮尾 益英(みやお ますひで、1921年〈大正10年〉11月28日 - 1994年〈平成6年〉5月29日)は、日本の小児科学者、小児科医。医学博士(東京大学・1953年)。徳島大学名誉教授、杏林大学名誉教授。 新潟県北蒲原郡京ヶ瀬村大字猫山(現 阿賀野市猫山)の10代続く医師の家・宮尾家の四男として新潟県新潟市西大畑町(現 新潟市中央区西大畑町)で育つ。 1939年(昭和14年)3月に新潟中学校を卒業、1942年(昭和17年)3月に新潟高等学校を卒業、1947年(昭和22年)9月に東京帝国大学医学部医学科を卒業。 実地修練後、1948年(昭和23年)10月に東京大学医学部小児科学教室(担任:詫摩武人教授)に入局、1949年(昭和24年)に助手に就任、1953年(昭和28年)5月に徳島大学医学部小児科学教室(担任:北村義男教授)助教授に就任、1964年(昭和39年)8月にドイツのマールブルク大学に留学、ホルスト・ビッケル(ドイツ語版、英語版)に師事、1968年(昭和43年)12月から1969年(昭和44年)12月までドイツのハイデルベルク大学に留学、ホルスト・ビッケルに師事、1970年(昭和45年)5月に徳島大学医学部小児科学教室第2代教授に就任、1974年(昭和49年)4月に徳島大学医学部附属看護学校第12代学校長に就任、1976年(昭和51年)2月に徳島大学医学部附属病院第13代病院長に就任、1977年(昭和52年)10月に徳島大学医学部附属助産婦学校第4代学校長に就任、1982年(昭和57年)4月に徳島大学医学部第12代学部長に就任、1987年(昭和62年)3月に徳島大学を定年退官、同年4月に徳島大学名誉教授の称号を受称、杏林大学客員教授に就任、東京海上メディカルサービス顧問に就任、1990年(平成2年)3月に千葉県柏市松ケ崎に宮尾クリニックを開業。
宮城 信勇(みやぎ しんゆう、1920年11月28日 - 2… 宮城 信勇(みやぎ しんゆう、1920年11月28日 - 2019年9月16日)は、沖縄県出身の八重山方言研究家、郷土史家。石垣市名誉市民。 1920年11月28日、沖縄県八重山郡石垣町(現在の石垣市)新川で生まれる。母は『八重山生活誌』で第1回伊波普猷賞を受賞した宮城文。 九州帝国大学法文学部を卒業。教員を経て、八重山群島政府文教部長、八重山地区教育長、琉球政府企画局長、沖縄電力取締役等を歴任。 定年後の1976年、母とともに石垣方言の研究をはじめ、翌1977年に『八重山ことわざ事典』を出版。2003年には、1万7千語余りを収録する『石垣方言辞典』を完成させた。1993年に東恩納寛惇賞、2016年に伊波普猷賞、2020年に吉川英治文化賞を受賞。
太田 正己(おおた まさみ、1920年 〈大正9年〉11月2… 太田 正己(おおた まさみ、1920年 〈大正9年〉11月28日 - 2004年〈平成16年〉1月24日)は、日本の外交官。OECD環境委員会議長、駐ケニア特命全権大使兼国連環境計画政府代表、外務省参与兼ユネスコ執行委員会委員・政府代表などを務めた。 1942年東京商科大学(現一橋大学)卒業、外務省入省。短期現役海軍主計科士官(9期)を志願し、同年9月に海軍経理学校に入校。1943年1月、海軍主計中尉に任官し経理学校を卒業。1944年5月に海軍主計大尉に進み終戦を迎えた。 1946年終戦連絡中央事務局総裁官房連絡官。1949年外務省総務局経済課外交官補。 1951年外務省条約局条約課外務事務官。
井筒 研一(いづつ けんいち、1919年11月28日 - 1… 井筒 研一(いづつ けんいち、1919年11月28日 - 1992年1月29日)は、兵庫県出身のプロ野球選手(投手)、審判員。
兪 泰興(ユ・テフン、1919年11月28日 - 2005年… 兪 泰興(ユ・テフン、1919年11月28日 - 2005年1月17日)は、大韓民国の第8代大法院長。 忠清南道洪城に出生。1941年、関西大学専門部第二部法律学科を卒業後、1948年に第2回朝鮮弁護士試験に合格した。 ソウル地方法院(地方裁判所)首席裁判長を務めていた1971年に発生した第一次司法波動の際には、裁判官を代表して声明を朗読し、裁判所上層部と政界に裁判官の改革の意志を表明した。1976年に大法院(日本の最高裁長官に相当)判事に任命された。大法院判事在職中の1980年、 朴正煕大統領と車智澈大統領府警護室長が暗殺された朴正煕暗殺事件では、金載圭大韓民国中央情報部部長に対して内乱目的の殺人を認め、死刑判決を言い渡した。
長谷 章久(はせ あきひさ、1918年〈大正7年〉11月28… 長谷 章久(はせ あきひさ、1918年〈大正7年〉11月28日 - 1985年〈昭和60年〉10月25日)は、国文学者。 東京生まれ。1942年東京帝国大学文学部国文科卒。1947年同大学院(旧制)修了、埼玉大学助教授、教授、1962年「仮作物語の享受に関する研究」で東京大学文学博士。1981年埼玉大学を定年退官、名誉教授、放送大学教授、埼玉教育センター長。日本風土文学会会長を務めた。自ら写真を撮り、啓蒙的な書物を多く著した。
福島 茂夫(ふくしま しげお、1917年11月28日 - 2… 福島 茂夫(ふくしま しげお、1917年11月28日 - 2012年7月15日)は、日本の医師、医学博士、政治家。位階は正五位。 参議院議員(1期、自由民主党)。 埼玉県出身。1942年日本大学専門部医学科(現医学部)卒。1944年、埼玉県児玉郡本庄町(現・本庄市)に福島病院(現・本庄福島病院)を開設し院長となる。埼玉県議会議員(自由民主党)を2期務めた後、1977年の第11回参議院議員通常選挙に日本医師会の政治連盟である日本医師連盟の支援を受け、全国区から自民党公認で立候補、127万を超える票を得て3位当選(自民党候補の中ではトップ)。1980年7月から1981年11月まで鈴木内閣において環境政務次官を務めた。
梅園 龍子(うめぞの りゅうこ、1915年11月28日 - … 梅園 龍子(うめぞの りゅうこ、1915年11月28日 - 1993年4月30日)は、日本の女優。 梅園 竜子と表記されることもある。 1915年(大正4年)11月28日、植草正枝として東京市日本橋区村松町(現在の東京都中央区東日本橋)に生まれる。 三崎英語学校在学中の1929年(昭和4年)に榎本健一の第2次カジノ・フォーリーの旗揚げ公演に踊り子で出演した。 1931年(昭和6年)退団し、1932年(昭和7年)パイオニヤ・クインテット舞踊団、益田隆のトリオ舞踊団に入団した。 1935年(昭和10年)P.C.L.映画製作所準専属で『乙女ごころ三人姉妹』で映画デビューした。 1936年(昭和11年)に専属となり、1937年(昭和12年)『夜の鳩』、『江戸の白鷺』、1938年(昭和13年)『エノケンの猿飛佐助 ありゃありゃの巻』、『泣蟲小僧』などに出演した。
澤野 十蔵(さわの じゅうぞう、1913年〈大正2年〉11月… 澤野 十蔵(さわの じゅうぞう、1913年〈大正2年〉11月28日 - 2007年〈平成19年〉7月20日)は、日本の解剖学者、医師、トンボ研究家。医学博士。広島大学名誉教授、日本解剖学会名誉会員、日本蜻蛉学会名誉会員、広島虫の会名誉会長。 新潟県新潟市関屋松波町(現 新潟市中央区関屋松波町)出身。1931年(昭和6年)3月に新潟中学校を卒業、1938年(昭和13年)3月に新潟高等学校を卒業、1941年(昭和16年)12月に新潟医科大学を卒業。 1941年(昭和16年)12月に新潟医科大学副手に就任、1942年(昭和17年)に新潟医科大学助手に就任、1944年(昭和19年)に新潟医科大学臨時附属医学専門部助教授に就任、新潟医科大学講師を兼任。
臺 弘(うてな ひろし、1913年11月28日 - 2014… 臺 弘(うてな ひろし、1913年11月28日 - 2014年4月16日)は、日本の医学者・精神科医。東京大学医学部教授、群馬大学医学部教授を歴任。医学博士(東京大学・1952年)。栃木県足尾町生まれ。『台弘』と表記されることもある。 1913年栃木県足尾町生まれ。1937年東京帝国大学医学部医学科卒業。1952年、論文「精神分裂病者腦組織の含水炭素代謝について」で東京大学より医学博士の学位を取得。東京大学病院精神科、松沢病院医員、群馬大学医学部教授、1966年東京大学医学部精神医学教室教授、1974年3月東大を定年退官。山田病院(東京都調布市)を経て坂本病院(埼玉県新座市)勤務。
中村 元(なかむら はじめ、1912年(大正元年)11月28… 中村 元(なかむら はじめ、1912年(大正元年)11月28日 - 1999年(平成11年)10月10日)は、日本のインド哲学者、仏教学者、比較思想学者。東京大学名誉教授、日本学士院会員。勲一等瑞宝章、文化勲章、紫綬褒章受章。 1912年 (大正元年) 11月28日、島根県松江市殿町にて生まれる。元年生まれだったことから、元と名付けられた。 1925年 (大正14年)、東京市立誠之小学校(現・文京区立誠之小学校)を卒業。1930年 (昭和5年)、東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を腎臓病により1年間休学後、4年で修了。1933年 (昭和8年)旧制第一高等学校を卒業。在学中、須藤新吉と亀井高孝から学問の基本を学び、ブルーノ・ペツォルトから仏教の話を聞く。
小林 純一(こばやし じゅんいち、1911年11月28日 -… 小林 純一(こばやし じゅんいち、1911年11月28日 - 1982年3月5日)は、日本の児童文学作家、童謡詩人。日本音楽著作権協会常務理事を務めた。 現在の東京都新宿区生まれ。本名は小林純一郎。中央大学経済学科を中退した。北原白秋に師事し、東京市、日本出版文化協会、日本少国民文化協会などに勤務しながら、第二次「赤い鳥」「チクタク」などに童謡を投稿した。戦後は文筆に専念した。日本童謡協会、日本児童文学者協会の設立に関与し、理事長、常任理事を務めた。 1971年に日本童謡賞功労賞、1979年に日本童謡賞、1978年に『少年詩集・茂作じいさん』で赤い鳥文学賞を受賞した。また没後の1982年に日本童謡賞特別賞、1995年に「小林純一・芥川也寸志遺作集 こどものうた」で日本童謡賞特別賞を受賞した。
森田 喜美男(もりた きみお、1911年(明治44年)11月… 森田 喜美男(もりた きみお、1911年(明治44年)11月28日 - 2002年(平成14年)7月30日)は、日本の政治家。1973年から1997年まで東京都日野市長を務めた。全国市長会理事、東京都市長会顧問などを歴任。 鳥取県出身。東京帝国大学農学部実科を卒業後、旧満州で農業指導員を務め、終戦後は日野市内で養鶏場を経営。同市議を2期務めた後、1973年の同市長選に出馬。日本社会党、日本共産党、公明党などでつくる「新しい革新日野市政をつくる会」を支持母体として、保守系の現職・古谷栄をやぶり初当選、都内9番目の革新市政が誕生した。 その後5期連続で市長を務め、1993年の市長選ではこれまで与党だった社会党が離脱し、共産党単独推薦で臨むこととなったが2新人をやぶり6選。
吉武 素二(よしたけ もとじ、1911年 <明治44年> 1… 吉武 素二(よしたけ もとじ、1911年 <明治44年> 11月28日 - 1999年 <平成11年> 2月14日)は、日本の気象技官。気象庁長官を務めた。位階は従三位。 山口県防府市出身。1934年に東京帝国大学理学部物理学科を卒業し、後に中央気象台に入庁。1966年に仙台管区気象台長を経て、1969年から1971年までに気象庁長官を務めた。 1981年に勲二等旭日重光章を受章 1999年2月14日に多臓器癌のために死去。87歳没。死没日付をもって従六位から従三位に進階した。
田嶋 好文(たしま こうぶん、1909年〈明治42年〉11月… 田嶋 好文(たしま こうぶん、1909年〈明治42年〉11月28日 - 1963年〈昭和38年〉3月5日)は、昭和期の弁護士、実業家、政治家。衆議院議員。 高知県出身。1933年(昭和8年)中央大学法学部を卒業した。 弁護士として働く。神戸製鋼所名古屋工場法律顧問、林金属工業代表取締役、大同衛生材料常任監査役などを務めた。 1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙で愛知県第1区から諸派で出馬して落選。1947年(昭和22年)4月の第23回総選挙で旧愛知1区に国民協同党公認で出馬したが落選。1949年(昭和24年)1月の第24回総選挙で民主自由党公認で出馬して初当選し、1953年(昭和28年)4月の第26回総選挙まで再選され、衆議院議員に連続3期在任した。
山本 和(やまもと かのう、1909年11月28日 - 19… 山本 和(やまもと かのう、1909年11月28日 - 1995年3月8日)は、日本基督教団牧師、神学者。日本の代表的なバルト主義者。 岡山県出身。東京帝国大学経済学科卒業、日本神学校卒業。関東学院大学教授を経て、玉川大学教授。日本基督教団松山教会にて牧会。『救済史の神学』で文学博士。 日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰の原案作成者である。彼はバルト神学を借用してこの使徒書簡を書いた。 大のバルト好きであった。バルトの肖像を飾り、その肖像にそっくりのパイプを買ってきてふかすほどだった。 日本キリスト教協議会編纂の『キリスト教大事典』の悪魔、救済史などを執筆。「悪魔」の項目で、キリスト教の教理としての伝統的な悪魔観を否定している。
田中 西二郎(たなか せいじろう、1907年11月28日 -… 田中 西二郎(たなか せいじろう、1907年11月28日 - 1979年1月15日)は、日本の翻訳家。 東京生まれ。東京商科大学卒。1930年中央公論社入社。文芸家協会、華北綜合調査研究所、一橋大学経済研究所などに勤務。文芸評論を志し「知識階級の文学論」、「鴎外と露伴」(『群像』1954年5月号)、「露伴に帰れ」(『群像』1954年8月号)などを発表。 また、英米文学の翻訳家としてハーマン・メルヴィル『白鯨』、グレアム・グリーン『情事の終り』など多くの翻訳を残した。初期の筆名は佐木狷介。白木茂、中村能三らと大久保康雄の元で下訳を担当し翻訳工場と呼ばれた。 『情事の終り』は映画化の際の邦題だが、田中はあえて『愛の終り』と訳し、そのまま文庫化されたが、その後改題した。
藤森 康男(ふじもり やすお、1907年(明治40年)11月… 藤森 康男(ふじもり やすお、1907年(明治40年)11月28日 - 1995年 (平成7年) 7月6日 )は、日本海軍軍人。海兵56期卒業。最終階級は海軍中佐。 1907年11月28日長野県諏訪郡湖南村(現諏訪市)に生まれる。諏訪中学を経て、1925年(大正14年)4月海軍兵学校56期に入校。1928年3月、同校を席次111名中16番で卒業。少尉候補生として練習航海に出発。1929年11月少尉任官。1931年12月中尉。1934年11月大尉。1936年12月潜水艦学校乙種卒業。1937年12月伊号第二十三潜水艦水雷長。1938年7月伊号第六十四潜水艦水雷長。1939年伊号第七十五潜水艦水雷長。
勝木 保次(かつき やすじ、1905年11月28日 - 19… 勝木 保次(かつき やすじ、1905年11月28日 - 1994年3月6日)は、生理学者、文化勲章受章者。聴覚の研究に大きく貢献した。 石川県小松生まれ。第三高等学校、東京帝国大学医学部卒業。当初は耳鼻科を専攻していたが、橋田邦彦の生理学教室に移る。1949年東京医科歯科大学教授、1971年に定年退職後に鶴見大学歯学部教授。1974年に東京医科歯科大学学長に就任し、1977年まで務める。1972年日本学士院会員。1977年生物科学総合研究機構長に就任し、1981年まで務めた。 1948年 東京大学 医学博士。論文は「日本語母音の構成と口腔及び附属管腔の研究」。 母音解析や魚類、哺乳類等の聴覚の研究から脳の聴覚機構を研究する。
櫛田 良洪(くしだ りょうこう、1905年11月28日 – … 櫛田 良洪(くしだ りょうこう、1905年11月28日 – 1980年11月4日 )は、日本の僧侶、日本仏教史研究者。 愛知県出身。大正13年旧制豊山中学校卒業、1929年大正大学文学部史学科卒業。1934年大正大学講師、1944年同助教授、1947年同教授。1966年には大正大学学長となり、1974年に名誉教授。日本仏教史、特に浄土真宗史の研究を専門とし、1960年に「東密の史的展開に関する研究」により大正大学から文学博士の学位を授与された。松戸市教育委員長なども務めた。1977年に勲三等瑞宝章を受章。
金井 元彦(かない もとひこ、1903年〈明治36年〉11月… 金井 元彦(かない もとひこ、1903年〈明治36年〉11月28日 - 1991年〈平成3年〉8月6日)は、日本の内務官僚、政治家。 行政管理庁長官(第43代)、参議院地方行政委員長、同沖縄及び北方問題に関する特別委員長、政策審議会地方行政部会長、自民党党紀委員長、参議院議員(2期)、兵庫県知事(第36-37代・公選)、兵庫県立近代美術館長(第3代)、兵庫県副知事、青森県知事(第45代・官選)などを歴任。 1903年(明治36年)、後に初代灘区長となる金井元雄と岡山県玉島地区の醤油商の出身の金井ことみの元に姫路市五軒邸に生まれる。金井家は赤松氏の幕下の太尾興次の末裔であり神戸市で育つ。大開第二尋常小学校(現・神戸市立兵庫大開小学校)、旧制第二神戸中学校(現・兵庫県立兵庫高等学校)、旧制第一高等学校を経て東京帝国大学法科を卒業した。
尾上 壽作(おのえ じゅさく、1903年〈明治36年〉11月… 尾上 壽作(おのえ じゅさく、1903年〈明治36年〉11月28日 - 1998年〈平成10年〉11月6日)は、日本の実業家。グローリー工業社長。国栄機械製作所(現グローリー)創業者尾上作兵衛の三男。グローリー名誉会長尾上壽男の父。 兵庫県姫路市出身。尾上作兵衛の三男。尾上家は姫路の商家だった。後分家した。 姫路中学校(現姫路西高校)を卒業した。1949年、株式会社国栄機械製作所の取締役社長に就任した。1963年、姫路商工会議所副会頭に就任した。1971年、取締役会長に就任した。趣味は乗馬、弓術。宗教は、浄土宗。住所は兵庫県姫路市俵町・同市南畝町。 1964年藍綬褒章、1974年勲三等瑞宝章受章。
久留 勝(くる まさる、1902年〈明治35年〉11月28日… 久留 勝(くる まさる、1902年〈明治35年〉11月28日 - 1970年〈昭和45年〉9月8日)は、日本の医学者。医学博士。がんの外科学研究で知られる。 三重県伊勢市豊川町の生まれ。1926年に東京帝国大学を卒業と同時に塩田広重教授の塩田外科に入局。1931年より2年間、文部省の在外研究員として欧米への外科学の研究のため留学。1933年1月に東京帝国大学医学博士。論文の題は「人の類黄色腫性病竈より培養せられたる一新病原性糸状菌イサリア・シオタエに就て (独文)」。1933年11月に、塩田教授の推薦で癌研究会の康楽病院外科医長として赴任。その後、1941年金沢医科大学の外科学教授として赴任。1954年1月に大阪大学の外科学教授を歴任、1962年国立がんセンター病院長に就任、1967年国立がんセンター総長となる。
豊崎 稔(とよさき みのる、1901年11月28日 - 19… 豊崎 稔(とよさき みのる、1901年11月28日 - 1984年9月13日)は、日本の経済学者。京都大学名誉教授。 1901年、徳島県徳島市生まれ。徳島県立徳島中学校(現徳島県立城南高等学校)を卒業し、山口高等商業学校を経て、1927年東北帝国大学法文学部経済学科を卒業した。 卒業後、母校の東北帝国大学助手に採用。1931年より大阪商科大学講師。1932年に同助教授、1941年に同教授に昇進。1945年に大阪商科大学に学位論文を提出して経済学博士号を取得。1946年、京都帝国大学経済学部教授となった。1949年より経済学部長。1951年からは日本学術会議会員となった。また、1959年税制調査会委員。
小田 雪窓(おだ せっそう、1901年(明治34年)11月2… 小田 雪窓(おだ せっそう、1901年(明治34年)11月28日 - 1966年(昭和41年)9月17日)は、大正・昭和時代の日本の臨済宗の禅僧。大徳寺506世、大徳寺派第11代管長等を歴任した。本名は小田虎蔵。雪窓は道号で、法諱は宗甫。蔵暉室と号した。 1901年(明治34年)に鳥取県八頭郡河原町(現在の鳥取市河原町)で生まれる。1913年、鳥取・竜峯山広徳寺の第21世住持・杉原春窓(元令)の下で得度。 1921年(大正10年)に妙心寺に掛塔、瑞巌宗碩に師事し、法嗣となる。 1947年(昭和22年)、師の瑞巌が大徳寺派9代管長・大徳寺503世に就任すると、高齢を理由に雪窓を大徳僧堂の師家代参とした。
三宅 正一(みやけ しょういち、1900年(明治33年)11… 三宅 正一(みやけ しょういち、1900年(明治33年)11月28日 - 1982年(昭和57年)5月23日)は、日本の農民運動家、政治家。衆議院副議長。 岐阜県恵那郡明智町(現・恵那市)出身。父親は村長を務める名望家だった。弟は名古屋市で眼科医院を開業した三宅寅三(歌人・三宅千代の夫)。旧制岐阜中学校(現・岐阜県立岐阜高等学校)から早稲田大学政治経済学部に進学。早大では学生無産運動団体の「建設者同盟」に参加した。同学年に平野力三(元農林大臣)。 1923年早大を卒業。翌1924年に日本農民組合関東同盟の新潟県出張所を新発田に開設、以後新潟県に定住する。1926年、小作料の減免を求める農民に対し、地主が土地への立入禁止処分で対抗したことから始まった木崎村小作争議(木崎村は現在の新潟市北区)を先頭にたって指導し、小作料不納同盟の結成、小作人子弟の同盟休校、村政改革、無産農民学校設立などを行い対抗した。
小野田 一雄(おのだ かずお、1900年11月28日 - 1… 小野田 一雄(おのだ かずお、1900年11月28日 - 1983年2月21日)は、大正期の日本の水泳選手。静岡県磐田郡今井村(現袋井市)出身。拓殖大学卒業。 浜松第一中学校(現静岡県立浜松北高等学校)卒業。1924年パリオリンピックには日本水泳チーム主将として出場。男子4×200m自由形リレーにおいて宮畑虎彦、野田一雄、高石勝男とともに4位の成績を収めた。 この項目は、水泳選手(飛込競技選手・アーティスティックスイミング選手・水球選手を含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:スポーツ/PJスポーツ人物伝)。
末綱 恕一(すえつな じょいち、1898年(明治31年)11… 末綱 恕一(すえつな じょいち、1898年(明治31年)11月28日 - 1970年(昭和45年)8月6日)は、日本の数学者。東京大学教授を歴任。日本学士院会員。 1898年、大分県東国東郡中武蔵村(現:国東市武蔵町)生まれ。大分県立杵築中学校(現:大分県立杵築高等学校)時代に、数学者高木貞治の下で教科書作成に関わった真鍋仙一に師事。旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学理学部数学科に進んだ。大学では、高木貞治に師事した。1922年3月、東京帝国大学理学部数学科を卒業。 東京帝国大学を卒業後は、1922年4月より九州帝国大学工学部講師となった。1923年、同大学助教授に昇進。1924年、東京帝国大学助教授となる。
兵藤 嘉門(ひょうどう かもん、1898年 <明治31年> … 兵藤 嘉門(ひょうどう かもん、1898年 <明治31年> 11月28日 - 1985年 <昭和60年> 5月2日)は、日本の経営者。藤倉電線(現在のフジクラ)社長、会長を務めた。位階は正五位。 栃木県出身。1923年に慶應義塾大学法学部政治学科を卒業し、同年に藤倉電線に入社。1944年に取締役に就任し、1948年に専務を経て、1961年7月に社長に就任。1965年11月に会長に就任し、1969年には相談役に就任。 1963年に藍綬褒章を受章し、1969年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1985年5月2日冠不全のために死去。86歳没。死没日付をもって正五位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
兵頭 嘉門(ひょうどう かもん、1898年11月28日 - … 兵頭 嘉門(ひょうどう かもん、1898年11月28日 - 1985年5月2日)は、日本の経営者。藤倉電線(現在のフジクラ)社長、会長を務めた。栃木県出身。 1923年に慶應義塾大学法学部政治学科を卒業し、同年に藤倉電線に入社。1945年に取締役に就任し、1948年に専務を経て、1961年7月に社長に就任。1965年11月に会長に就任し、1969年には相談役に就任。 1963年に藍綬褒章を受章し、1969年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1985年5月2日肝不全のために死去。86歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
宇野 千代(うの ちよ、1897年〈明治30年〉11月28日… 宇野 千代(うの ちよ、1897年〈明治30年〉11月28日 - 1996年〈平成8年〉6月10日)は、大正・昭和・平成にかけて活躍した日本の小説家、随筆家。多才で知られ、編集者、着物デザイナー、実業家の顔も持った。作家の尾崎士郎、梶井基次郎、画家の東郷青児、北原武夫など、多くの著名人との恋愛・結婚遍歴を持ち、その波乱に富んだ生涯はさまざまな作品の中で描かれている。日本芸術院会員。 山口県玖珂郡横山村(現・岩国市)出身。実家は酒造業を営む裕福な家だが、父親は生涯生業に就いたことはなく、博打好きだった。幼い頃に母親が没し、父親は千代と12歳しか違わない若い娘と再婚。実母と思って育ち、大変慕っていた。
鳥居 忠博(とりい ただひろ、1897年(明治30年)11月… 鳥居 忠博(とりい ただひろ、1897年(明治30年)11月28日 - 1976年(昭和51年)3月25日)は、大正から昭和期の実業家・政治家・華族。貴族院子爵議員。 旧壬生藩主、子爵・鳥居忠文の五男として生まれ、長兄鳥居忠一が京王線に衝突した自動車事故で死去したことで、1939年(昭和14年)2月15日、子爵を襲爵した。 学習院を経て、1923年(大正12年)東京帝国大学経済学部を卒業。三井物産に入社。三洞運輸監査役などを務めた。 1946年(昭和21年)8月22日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に属して活動し1947年5月2日の貴族院廃止まで在任した。
細迫 兼光(ほそさこ かねみつ、1896年11月28日 - … 細迫 兼光(ほそさこ かねみつ、1896年11月28日 - 1972年2月11日)は、日本の政治家。日本社会党衆議院議員(5期)。弁護士。 山口県厚狭郡厚西村(のち厚狭町→山陽町、現・山陽小野田市)出身。細迫家は長州藩寄組熊谷氏の一族で、陪臣ながら厚狭郡有数の名家であった。旧制山口中学校(現山口県立山口高等学校)時代は岸信介が一期先輩であった。第三高等学校を経て東京帝国大学に入学後、新人会に入る。1922年卒業。卒業後は弁護士となる。労働農民党に入り、書記長となり、1929年新労農党が結成されると書記長となったが、翌年除名される。1932年治安維持法により検挙される。その後は故郷に帰り、厚狭町議、小野田市長、山口県弁護士会副会長などを務める。
田尻 愛義(たじり あきよし、1896年11月28日 - 1… 田尻 愛義(たじり あきよし、1896年11月28日 - 1975年10月29日)は、日本の外交官。特命全権公使として上海在勤ののち、外務省政務局長や、大東亜次官、外務次官を務めた。 中国の民族主義を尊重する立場をとり、外交官生活の大半を中国で送った。日中和平交渉史の中では、汪兆銘側から求められて香港総領事に就任したことで知られるが、実際には田尻は「汪兆銘工作」に対して強い批判を持っていた。 1896年11月、島根県に生れる。1920年3月、東京高等商業学校(のちの一橋大学)附設商業教員養成所を卒業し、同年4月、京都市立第一商業学校(のち京都市立西京高等学校)の教諭となる。1921年外交官及領事官試験合格。
小穴 隆一(おあな りゅういち、1894年11月28日 - … 小穴 隆一(おあな りゅういち、1894年11月28日 - 1966年4月24日)は、日本の洋画家、随筆家、俳人。俳号は一游亭。
平田 春一(ひらた はるいち、1894年11月28日 - 1… 平田 春一(ひらた はるいち、1894年11月28日 - 1973年12月7日)は、歌人。 岡山県吉野郡讃甘村(現・美作市)出身。旧姓・井波。若山牧水に師事。日本ペンクラブ会員で再建当初から尽力した。「創作」復刊後から選者として活躍、関西で「みなかみ会」「三土会」を主宰。歌集「象刻集」「留年」など12冊。1957年日本歌人クラブ推薦歌集(第3回)「象刻集」。大阪市・道頓堀の法善寺横丁に、織田作之助文学碑と並んで歌碑がある。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
武藤 健(むとう たけし、1893年11月28日 - 197… 武藤 健(むとう たけし、1893年11月28日 - 1974年12月18日)は日本の大正時代・昭和時代の牧師。日本基督教団第4代議長、日本キリスト教文化協会理事長、キリスト新聞社社長。 青森県八戸市番長のクリスチャンの眼科医武藤一明の三男に生まれる。八戸中学時代より神学者を目指し、八戸中学を首席で卒業し、青山学院で学ぶ。1918年(大正7年)に日本メソヂスト教会の教職になり、メソジスト城西教会の牧師、銀座教会の福音英語学校校長になる。1919年(大正8年)に結婚し、東京帝国大学文学部、アメリカ合衆国ノースウェスタン大学大学院、ベルリン大学で神学の勉強を続ける。 1924年(大正13年)に帰国して青山学院教授に就任する。
高橋 文五郎(たかはし ぶんごろう、1893年11月28日 … 高橋 文五郎(たかはし ぶんごろう、1893年11月28日 - 1978年3月19日)は、日本の実業家、政治家、参議院議員(2期、自由民主党)。 宮城県栗原郡若柳町(現・栗原市)出身。1915年早稲田大学商学部卒。卒業後は七十七銀行に入り、支店長となる。その後、家業の醸造業を継ぎ、のち栗原鉄道(株)を創立、社長に就任する。 若柳町長(1935.11.28-1943.8.15)を務めたが、戦時中に地元の大政翼賛会の役員をしていたため、戦後、公職追放となる。 宮城県議を5期務め、議長を2期務める。1965年、高橋進太郎の宮城県知事選出馬による参議院補欠選挙で当選。同年春の叙勲で勲四等瑞宝章受章。1968年の第8回参議院議員通常選挙で再選した。