西野 照太郎(にしの てるたろう、1914年3月31日 - … 西野 照太郎(にしの てるたろう、1914年3月31日 - 1993年12月30日)は、日本のアフリカ研究家。徳島県出身。京都帝国大学卒。海軍嘱託として蘭印ジャカルタに駐在。1948年から国立国会図書館勤務、専門調査員としてアフリカや南太平洋の問題を研究し著述をなした。
3月31日生まれ:384人
西野 照太郎(にしの てるたろう、1914年3月31日 - … 西野 照太郎(にしの てるたろう、1914年3月31日 - 1993年12月30日)は、日本のアフリカ研究家。徳島県出身。京都帝国大学卒。海軍嘱託として蘭印ジャカルタに駐在。1948年から国立国会図書館勤務、専門調査員としてアフリカや南太平洋の問題を研究し著述をなした。
小川 徹(おがわ とおる、1914年3月31日 - 2001… 小川 徹(おがわ とおる、1914年3月31日 - 2001年4月1日)は、日本の地理学者・民俗学者。岡山県生まれ。 東京帝国大学理学部地理学科卒。1972年「沖縄民族社会の歴史地理的研究」で、文学博士(広島大学)の学位を取得。法政大学文学部助教授、教授、1973年駒澤大学教授、1990年退職。
安田 保雄(やすだ やすお、1914年3月31日 - 199… 安田 保雄(やすだ やすお、1914年3月31日 - 1998年6月)は、国文学者。立教大学講師、鶴見女子大学教授、成蹊大学教授等を歴任。 近代文学、比較文学、上田敏が専門。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
青山 良道(あおやま よしみち、1914年(大正3年)3月3… 青山 良道(あおやま よしみち、1914年(大正3年)3月31日 - 1986年(昭和61年)4月23日)は、日本の政治家、教諭。東京都中野区長(2期)、東京都議会議員(3期)を務めた。位階は従五位。勲四等旭日小綬章。 長男は石原慎太郎東京都知事の下で東京都副知事を務めた青山佾。 静岡県御殿場市生まれ。1943年立正大学専門部地理学科卒業。東京府立第三中学校(現・東京都立両国高等学校)教諭、東京都高等学校教職員組合委員長を務めた。 1955年、日本社会党公認で東京都議会議員選挙に出馬し、初当選を果たした。3期目任期中の1965年に都議を辞職した。 1971年2月26日から1979年2月9日まで足掛け3期、中野区教育委員を務めた。
鈴木 治雄(すずき はるお、1913年(大正2年)3月31日… 鈴木 治雄(すずき はるお、1913年(大正2年)3月31日 - 2004年(平成16年)7月3日)は、日本の実業家。昭和電工社長・会長や企業メセナ協議会初代会長、経団連常任理事、東京商工会議所監事などを歴任。経済同友会設立や湘南国際村発起にも関わった。フンボルト大学ベルリン名誉博士。 神奈川県葉山村生まれ。東京に転居後、麹町の永田町小学校(現・麹町小学校)に入学するも、一家の転居に伴い、3年時に白金小学校に転入し卒業。卒業後は旧制東京高等学校に入学。1936年、東京大学法学部を卒業し野村合名会社(現・野村証券)へ入社するが、1939年に昭和電工創立に伴い同社へ入社した。軍需産業を推進した理由で戦後公職追放されたものの、1951年に同社に復帰し、1971年に社長、1981年には会長に就任。
大島 清(おおしま きよし、1913年3月31日 - 198… 大島 清(おおしま きよし、1913年3月31日 - 1984年5月15日)は、日本の経済学者。法政大学名誉教授、元法政大学大原社会問題研究所所長。マルクス経済学における農業経済学専攻。1941年、東北帝国大学卒業。1960年、法政大学経済学博士。 なお、同時期に同一大学でマルクス経済学を専攻していた金融論の大島清とは別人である。しかし、ともに傍系入学(旧制高等学校を卒業せずに入学すること)であり、しかも優秀だったことから、よく間違われた。
里木 佐甫良(さとき さぶろう、1912年3月31日 - 1… 里木 佐甫良(さとき さぶろう、1912年3月31日 - 1999年12月23日)は、日本の俳優。本名は佐藤 喜三郎。旧芸名は里木三郎、里木左甫良。他に里木三朗、里木三甫良、黒木三郎、黒木三朗、黒木左甫良、黒木佐甫良、悟木三郎などの別表記もある。 山形県山形市八森出身。旧制・山形県立山形中学校(現・山形県立山形東高等学校)卒業。東京俳優生活協同組合に所属していた。 中学校卒業後の1930年に上京し、1931年、日本俳優学校(歌舞伎役者・六代目尾上菊五郎が設立した四年制の学校)へ二期生として入学し、演技を学ぶ。同期には山形勲や植村謙二郎、加藤嘉、三津田健がいた。その後は日本楽劇協会演劇研究所(山田耕筰が設立)に在籍し、1944年に陸軍移動演劇隊に入隊、満州および北支・中支前線を慰問で廻った。
島田 豊作(しまだ とよさく、1912年3月31日 - 19… 島田 豊作(しまだ とよさく、1912年3月31日 - 1988年7月11日)は、日本の陸軍軍人。士候45期。最終階級は陸軍中佐。群馬県館林市出身。 1929年、旧制館林中学校を卒業後、陸軍士官学校に入校(第45期、兵科:歩兵)。卒業後は見習士官を経て陸軍歩兵少尉として戦車第2連隊で戦車教育を受ける。 その後、1935年の満州事変、1939年の日中戦争(支那事変)に従軍。 太平洋戦争(大東亜戦争)緒戦の南方作戦においては、戦車第6連隊麾下の第4中隊長(島田戦車隊、九七式中戦車・九五式軽戦車計15両装備)としてマレー作戦に参加。スリム・リバーの戦い(英語版)では、第4中隊の戦車および随伴の歩兵・工兵100人余りとともに、トロラク、スリム・リバー、スリムの陣地に対し戦史上稀な戦車による夜襲を決行。
本田 弘慈(ほんだ こうじ、1912年3月31日 - 200… 本田 弘慈(ほんだ こうじ、1912年3月31日 - 2002年4月6日)は、日本の牧師。 1912年(明治45年)3月31日 福井県丸岡町出身。父善太郎、母はつえの長男として生まれる。 1929年(昭和4年)7月22日 丸岡教会で洗礼を受ける。1930年 福井商業学校(現・福井県立福井商業高等学校)を卒業後、上京し、魚河岸の金物屋に勤める傍ら、日本大学文学部に入学する。同大学を中退、米国聖書教会の聖書配布の仕事を務める。 1934年(昭和9年) 関西聖書神学校に入学して、沢村五郎らの薫陶を受ける。1938年(昭和13年) 関西聖書神学校を卒業し、牧師として働く。 1940年(昭和15年)4月22日、森田志づと結婚する。
八木 勇平(やぎ ゆうへい、1912年3月31日 - 200… 八木 勇平(やぎ ゆうへい、1912年3月31日 - 2001年1月4日)は、日本の実業家。東急建設社長や、世紀東急工業会長、静岡県人会会長などを務めた。 静岡県小笠郡出身。1933年小樽高等商業学校(現小樽商科大学)卒業、東京横浜電鉄(現東急)入社。1958年取締役。1971年東急建設専務取締役。1972年東急建設取締役副社長。1973年東急建設取締役社長。1976年東急道路取締役社長。1978年東急工建取締役会長、東急不動産取締役。1979年東京急行電鉄監査役。1982年世紀東急工業取締役会長。静岡県人会会長なども歴任した。
白井 武明(しらい たけあき、1912年〈明治45年〉3月3… 白井 武明(しらい たけあき、1912年〈明治45年〉3月31日 - 2002年〈平成14年〉10月16日)は、日本の経営者。日本電装(現在のデンソー)社長、会長を務めた。 愛知県出身。1932年に浜松高等工業学校機械科を卒業。豊田自動織機、トヨタ自動車工業、日本電気自動車製造での勤務を経て、1949年に日本電装取締役に就任し、1953年4月に常務、1962年8月に専務を経て、1967年12月に副社長に就任し、1973年2月には社長に昇格。1977年3月に会長、1982年3月に取締役相談役を経て、、1983年3月に相談役に就任。 1976年3月に藍綬褒章を受章し、1982年11月に勲三等旭日中綬章を受章。
寺井 啓之(てらい ひろゆき、1912年(明治45年)3月3… 寺井 啓之(てらい ひろゆき、1912年(明治45年)3月31日 - 1997年(平成9年)4月10日)は、森田流笛方能楽師。寺井久八郎家12代。 1912年(明治45年)東京生まれ。永田町小学校、東京音楽学校 (旧制)能楽科卒業。1928年(昭和3年)より寺井鉦次郎に師事し、同年「熊坂」で初舞台を踏む。1967年(昭和42年)より日本能楽会会員。重要無形文化財「能楽」保持者(日本能楽会会員としての総合認定)。 長男は十世・寺井久八郎(森田流笛方)で、二男は寺井良雄(宝生流シテ方。2010年死去)、三男は寺井栄(観世流シテ方)で、ともに重要無形文化財「能楽」の保持者(総合認定)。孫に寺井千景(観世流シテ方)がいる。
森 誓夫(もり ちかお、1911年3月31日 - 2001年… 森 誓夫(もり ちかお、1911年3月31日 - 2001年1月23日)は、日本の官僚、実業家。元通商産業省軽工業局長。元石油資源開発社長。 香川県三豊郡常磐村(現 観音寺市流岡町)出身。旧制香川県立三豊中学校、旧制第六高等学校を経て、東京帝国大学法学部英法科卒業。 1934年(昭和9年)商工省入省。特許、貿易、工務、機械、電力の各局を担当、電業課長、機械課長を務める。1939年(昭和14年)三豊中学の同級生であった蒙疆の張家口に勤務する大平正芳(大蔵省派遣の興亜院事務官)を訪問。 1943年(昭和18年)フィリピン島戦線に応召。三豊中学の頃から親しんで来た短歌に於いては、社会人になって間もなく斉藤茂吉が育てた結社「アララギ」に所属。
中島 隆太郎(なかじま りゅうたろう、1911年3月31日 … 中島 隆太郎(なかじま りゅうたろう、1911年3月31日 - 1998年11月1日)は、日本の経営者。日本ペイント社長を務めた。兵庫県出身。位階は正五位。 1932年に神戸高等商業学校を卒業し、同年4月に日本ペイントに入社。1963年6月に取締役に就任し、1968年12月に常務、1971年6月に専務を経て、1974年6月に副社長に就任し、1975年7月には社長に昇格。1981年7月には相談役に就任。 1982年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1998年11月1日肺炎のために死去。87歳没。死没日付をもって正五位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
安田 巌(やすだ いわお、1910年3月31日 -1996年… 安田 巌(やすだ いわお、1910年3月31日 -1996年8月24日)は、広島県広島市出身の官僚、教育者。厚生事務次官、医療金融公庫総裁、安田学園理事長を歴任した。 広島の私学・安田学園創立者・安田リヨウの長男。戦後の1949年、厚生省保険局長に就任。戦時及び戦後の混乱で乱雑となった厚生年金台帳の整理に尽力し、また海外視察の経験を基にして台帳整理の機械化導入を指示した。1959年には厚生事務次官に就任。1960年、医療金融公庫総裁となる。退官後の1978年、母リヨウ死去に伴い安田学園理事長に就任。1996年、広島市内の病院で死去。享年86。
沢海 東助(さわみ とうすけ、1910年(明治43年)3月3… 沢海 東助(さわみ とうすけ、1910年(明治43年)3月31日 - 没年不明)は、日本の水球選手。1932年ロサンゼルスオリンピックに出場した。 1910年3月31日、新潟県に生まれる。慶應義塾大学予科に入学してからは、東京都渋谷区にある同大学の寄宿舎に暮らした。ポジションは右翼のフォワードで、長身を生かした力強いシュートを持ち味とした。1931年に翌年のオリンピックの選手として推薦される。1932年のロサンゼルスオリンピックでは水球競技において、8月7日のアメリカ合衆国戦と8月8日のハンガリー戦に出場したが、どちらでも他の全ての日本選手と同じく0シュートに終わった。その後、日本水泳連盟水球委員、日本学生水泳連盟水球常任委員、慶應義塾大学水球部主将などを歴任した。
川野 三暁(かわの さんぎょう、1910年(明治43年)3月… 川野 三暁(かわの さんぎょう、1910年(明治43年)3月31日 - 1989年(平成元年)12月18日)は、昭和期の僧侶、政治家。参議院議員、浄土真宗本願寺派・正念寺住職。 広島県山県郡出身。龍谷大学予科を経て、1937年(昭和12年)東洋大学文学部を卒業した。その後、中国に8年間留学した。 1953年(昭和28年)浄土真宗本願寺派宗会議員に就任し1989年まで9期在任。1960年(昭和35年)同派総務に就任し2回任じられた。1976年(昭和51年)池田勇人大蔵大臣秘書官となる。1978年(昭和53年)日本仏教連合会国際部長、1982年(昭和57年)浄土真宗本願寺派布教研究所所長に就任。 1962年(昭和37年)7月の第6回参議院議員通常選挙で全国区から自由民主党公認で出馬して当選し、参議院議員に1期在任した。
河合 亨(かわい とおる、1910年3月31日 - 1993… 河合 亨(かわい とおる、1910年3月31日 - 1993年10月14日)は、日本のフランス文学者、翻訳家。 東京生まれ。早稲田大学文学部仏文科卒。早稲田大学教授を務め、1980年定年退任、名誉教授。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
浦辺鎮太郎(うらべ しずたろう、1909年3月31日 - 1… 浦辺鎮太郎(うらべ しずたろう、1909年3月31日 - 1991年6月8日)は、日本の建築家。 岡山県児島郡粒江村(現:倉敷市)出身。岡山県第一岡山中学校(現:岡山県立岡山朝日高等学校の一つ)、旧制第六高等学校を経て、1934年京都帝国大学工学部建築学科卒業後、倉敷レイヨン(現:クラレ)に入社し営繕関連部門に勤務。1962年、倉敷レイヨン内に同社社長で同郷の実業家大原総一郎の庇護のもとに倉敷建築研究所(現:浦辺設計の前身)を設立した。1964年に倉敷レイヨンを退社し倉敷建築事務所として独立、1966年に浦辺建築設計事務所と改称した。倉敷レイヨン時代から大原総一郎の構想する倉敷のまちづくりを建築家として支え、1968年の総一郎死去後も大原家や倉敷に関連する建築をはじめ多くの作品を残している。
松下 隆章(まつした たかあき、1909年3月31日 - 1… 松下 隆章(まつした たかあき、1909年3月31日 - 1980年9月15日)は、日本の美術史家。中世日本美術を主として扱った。
本林 譲(もとばやし ゆずる、1909年3月31日 - 19… 本林 譲(もとばやし ゆずる、1909年3月31日 - 1992年4月17日)は最高裁判所判事。弁護士。東京府出身。 松本高等学校文科乙類、京都帝国大学法学部卒業。1933年、父と同じ弁護士になった後、司法官試補として仙台地裁で勤務するも、1年後に父親が死去したことで再び弁護士に。 戦後、「食えないため」明大の講師をしたこともある。日弁連事務総長や法制審議会国際私法部会委員などを務めた。 1975年8月に最高裁判事に就任。就任時には「36年間、庶民の相談相手として養った感覚については、いささかの自負をもっています」「弁護士出身の裁判官として責任を感じます」と挨拶。 1979年3月に定年退官。 長男も弁護士で三代続く法曹一家。
西田 長男(にしだ ながお、1909年3月31日 - 198… 西田 長男(にしだ ながお、1909年3月31日 - 1981年3月28日)は、日本の神道学者、國學院大學名誉教授。 三重県出身。國學院大學卒。宮地直一に師事。戦前は大倉精神文化研究所研究員、東京帝国大学講師、戦後は國學院大學教授。1955年「日本宗教の発生に関する一試論」で國學院大文学博士。
鳥居 保治(とりい やすじ、1909年3月31日 - 199… 鳥居 保治(とりい やすじ、1909年3月31日 - 1996年3月9日)は、日本の実業家。三井石油化学工業(現在の三井化学)社長および会長を務めた。愛知県宝飯郡御津町出身。孫は植物学者の鳥居啓子。 旧制愛知県豊橋中学校、旧制第八高等学校を経て、1932年に東京帝国大学工学部応用化学科を卒業し、三井鉱山に入社した。1941年に三井化学工業に転じ、1954年に取締役に就任し、1969年に三井石油化学工業社長に就任。1977年に会長に就任し、1982年から相談役を務めた。 1971年4月に藍綬褒章を受章し、1979年4月に勲二等瑞宝章を受章した。 1996年3月9日狭心症のために東京都府中市の病院で死去。
貴志 康一(きし こういち、1909年3月31日 - 193… 貴志 康一(きし こういち、1909年3月31日 - 1937年11月17日)は、大阪府吹田市、大阪市都島区、兵庫県芦屋市出身の作曲家、指揮者、ヴァイオリニスト。 母の実家である大阪府三島郡吹田町(現:吹田市)の仙洞御料屋敷西尾邸に生まれる。父方の祖父は代々式部卿を務め、後にメリヤス業で成功した裕福な大商家である貴志彌右衛門(松花堂弁当の考案者)という環境で育つ。小学校5年生の時に、芦屋市に転居。14歳より、神戸市の深江文化村でミハイル・ヴェクスラーに直接ヴァイオリンを師事。音楽理論と作曲法を当時、宝塚交響楽団の指揮を務めていたヨーゼフ・ラスカより学ぶ。16歳の時に、大阪で、ヴァイオリニストとしてデビュー。
塩見 賢吾(しおみ けんご、1908年3月31日 - 197… 塩見 賢吾(しおみ けんご、1908年3月31日 - 1971年6月4日)は、日本の化学者。東京大学名誉教授、学位は理学博士。専攻は植物栄養化学。 岡山県出身。旧制岡山第一中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)、第六高等学校を経て、1930年(昭和5年)東京帝国大学理学部化学科卒業。台湾総督府工業研究所技師、第一高等学校教授、東京大学教授を経て、東邦大学教授在職中の1971年(昭和46年)逝去。
成田 春人(なりた はると、1908年3月31日 - 199… 成田 春人(なりた はると、1908年3月31日 - 1992年3月17日)は、日本の建築家。宮城県仙台市出身。1950年に国鉄施設局建築課長となり、鉄道建築の総締めの地位につく。位階は従五位。 国鉄の建物の多くは木造であり、成田は建築物の不燃化に取りくみ、「不燃化の成田さん」として知られた。 終戦直後の1945年10月、伊藤滋鉄道省建築課長から「鉄道に来てくれるような良い建築技師が軍にいないだろうかと相談を受けた」のちに同僚となる太田和夫は成田春人を陸軍航空本部に訪ねた。成田は同僚の井上英彦と高山馨を誘うことを約束し、同年12月に3人が鉄道省に入ることになったという。 井上英彦によると木造の格納庫建築のために木造大張間構造の実現が求められ、陸軍航空本部では木材の接合部の処理を釘とジベルの2つとし、釘は高山馨、ジベルは成田が中心となって担当することとなり、いずれの工法も成功して鋼材の節約に貢献したという。
細見 綾子(ほそみ あやこ、1907年3月31日 - 199… 細見 綾子(ほそみ あやこ、1907年3月31日 - 1997年9月6日)は、兵庫県出身の俳人。松瀬青々に師事、「倦鳥」を経て「風」同人。夫は沢木欣一。 1907年(明治40年)、父・細見喜市、母・とりの長女として兵庫県氷上郡芦田村、現・兵庫県丹波市青垣町東芦田に生まれる。実家は江戸時代から名主をつとめた素封家。 1919年、柏原高等女学校に入学、寮生活を送る。1923年、日本女子大学校国文科入学。1927年(昭和2年)、同大学を卒業、同時に東京大学医学部助手の太田庄一と結婚。1929年、夫を結核で失い、秋に肋膜炎を発病したため帰郷。佐治町の医師でもあった俳人・田村菁斎の勧めで俳句を始め、松瀬青々の俳誌「倦鳥」に入会、その年に投句し初入選する。
赤尾 好夫(あかお よしお、1907年3月31日 – 198… 赤尾 好夫(あかお よしお、1907年3月31日 – 1985年9月11日)は山梨県東八代郡英村(現笛吹市石和町)出身の出版人、放送人である。
三上 次男(みかみ つぎお、1907年(明治40年)3月31… 三上 次男(みかみ つぎお、1907年(明治40年)3月31日 - 1987年(昭和62年)6月6日)は、日本の東洋学者、考古学者。日本学士院会員、東京大学名誉教授、出光美術館理事、中近東文化センター理事長。号は「白水子」。 1907年、京都府宮津町(現・宮津市)で生まれた。小学5年生まで宮津で過ごし、その後、家族と共に北海道へ移住した。東京帝国大学文学部東洋史学科で学び、1932年に卒業。東亜考古学会の留学生として、中華民国に渡り、東洋美術や考古学の勉学に励んだ。 1939年、東京大学文学部講師に就いた。1949年に同教授昇格。この時期、鎌倉アカデミアでも講義した。1951年5月から9月にかけて、皇居に招かれて歴史関係の科学委員会合に出席。
石井 泉(いしい いずみ、1907年〈明治40年〉3月31日… 石井 泉(いしい いずみ、1907年〈明治40年〉3月31日 - 1982年〈昭和57年〉2月4日)は、日本の農業経営者、政治家。長野県小県郡泉田村長、上田市長。位階は従五位。勲四等旭日小綬章。 長野県小県郡泉田村(現上田市)で、石井基、うた の長男として生まれた。泉田実業補習学校を卒業。農業を営む。 1944年(昭和19年)泉田村半過区長に就任。1951年(昭和26年)6月、泉田村助役となり、1955年(昭和30年)5月、同村長となり、翌年上田市に合併し、同市専門委員となる。1959年(昭和34年)5月、上田市議会議員に当選し、1963年(昭和38年)同議長を務めた。1969年(昭和44年)上田市監査委員に就任。
沼野井 春雄(ぬまのい はるお、1906年3月31日 - 1… 沼野井 春雄(ぬまのい はるお、1906年3月31日 - 1998年5月14日)は、日本の生物学者。東京大学名誉教授。理学博士。 茨城県水戸市生まれ。東京帝国大学理学部動物学科卒業後、大学院に通いながら旧制浦和高等学校で教鞭をとり、旧制浦和高等学校教授を経て、1949年(昭和24年)に東京大学理学部教授となる。定年退官後は、早稲田大学教育学部理学科生物学専修の教授に就任。。高校課程の生物教育にも大きく貢献し、旺文社より出版された『生物の研究』は特に有名で、ラジオ生物学講座の講師にもなり、多くの後進の生物学者を育てた。 また、早大教授時代は合気道部の部長も務めた。なお、中学は旧制豊山中学(現日本大学豊山高等学校)に学んだが、旧制新潟中学校から転入してきた作家の坂口安吾とは豊山中学時代の同級生である。
朝永 振一郎(ともなが しんいちろう、1906年(明治39年… 朝永 振一郎(ともなが しんいちろう、1906年(明治39年)3月31日 - 1979年(昭和54年)7月8日)は、日本の理論物理学者。東京教育大学名誉教授。学位は理学博士(東京帝国大学・1939年)。位階は従二位。 京都帝国大学理学部物理学科卒。東京帝国大学にて博士号取得。相対論的に共変でなかった場の量子論を超多時間論で共変な形にして場の演算子を形成し、場の量子論を一新した。超多時間論を基に繰り込み理論の手法を発明、量子電磁力学の発展に寄与した功績によりノーベル物理学賞を受賞した。東京生まれで、少年時代以降は京都育ち。なお、朝永家自体は長崎県の出身。武蔵野市名誉市民。 1906年、東京市小石川区小日向三軒町(現:文京区小日向)に、父・朝永三十郎(祖父は肥前大村藩の重臣であった朝長氏)と母(埼玉県出身)の第二子(2男2女)で出生。
瀬川 美能留(せがわ みのる、1906年(明治39年)3月3… 瀬川 美能留(せがわ みのる、1906年(明治39年)3月31日 - 1991年(平成3年)9月10日)は日本の実業家。野村證券元社長・会長。 奈良県出身。成器商業を経て、1929年に大阪高等商業学校・大阪商科大学高等商業部(現大阪市立大学)を卒業後、野村證券に入社。早くから営業担当者として頭角を現した。戦後は、1946年に取締役、1948年に常務取締役、1952年に専務取締役となり、さらに1956年に副社長、1959年に社長となった。 社長就任後、1965年には調査部を独立させて、野村総合研究所を設立した。1968年に会長に退き、取締役相談役を経て、1986年12月には最高顧問となった。会長時代に、右翼の児玉誉士夫との関係ができ、児玉の頭文字を冠した口座(K口座)がつくられた。
下郡 平治(しもごおり へいじ、1906年〈明治39年〉3月… 下郡 平治(しもごおり へいじ、1906年〈明治39年〉3月31日 - 1993年〈平成5年〉)は、日本の政治家。元大分県鶴崎市(現・大分市)長(2期)。 大分県大分郡明治村(のち鶴崎市、現・大分市)出身。大分県立三重農学校(現・大分県立三重農業高等学校)を経て、大分県立実業補習学校教員養成所(現・大分大学教育学部)卒。卒業後は県内の各青年学校の教員となる。1943年(昭和18年)10月に大分県視学となった。1946年(昭和21年)3月に戸次専修女学校長となった。 戦後の1947年(昭和22年)、明治村村長に当選。1953年(昭和28年)まで務めた。翌1954年(昭和29年)、明治村は鶴崎町などと合併し、鶴崎市が発足した。
難波田 春夫(なにわだ はるお、1906年3月31日 - 1… 難波田 春夫(なにわだ はるお、1906年3月31日 - 1991年9月1日)は、日本の経済学者。元関東学園大学学長。 兵庫県出身。1934年、東京帝国大学経済学部卒業。1935年、同大学経済学部助手となる。東京帝国大学の土方成美の愛弟子である。1939年の平賀粛学では同僚と共に辞表を提出するものの撤回、助教授に昇進する。1945年11月4日、東京帝国大学経済学部教授会が難波田の退職を決定したことを受け、同大学を辞職。翌年、公職追放。講談社の野間省一の協力を得て、講談社内に経済学研究所を設けて所長となる。1951年の公職追放解除後、1952年に東洋大学教授に着任。1954年、東京都立商科短期大学教授、1966年 - 1978年まで早稲田大学社会科学部教授。
村田 禎介(むらた ていすけ、1905年3月31日 – 19… 村田 禎介(むらた ていすけ、1905年3月31日 – 1969年12月22日)は、日本の実業家。村田機械創業者。旧姓:岩城。 明治38年(1905年)小浜市湯岡、岩城喜左衛門の3男として出生。大正8年 – 今富尋常高等小学校高等科卒業、嶋長商店入店。 大正9年 – 京都市 村田直商店入店。昭和8年 – 村田家入籍、同社専務。昭和10年 – 西陣ジャカード機製作所設立。 昭和14年 – 東亜機械製造株式会社設立。昭和20年 – 村田繊維機械株式会社、村田産業株式会社設立。 昭和37年 – 村田機械株式会社設立、京都商工会議所副会頭、会頭代行。 昭和42年 – 藍綬褒章受章、機械振興協会賞受賞。昭和44年(1969)- 12月22日死去、勲三等瑞宝章受章、京都南禅寺に葬る。
小岩井 源一(こいわい げんいち、1904年3月31日 - … 小岩井 源一(こいわい げんいち、1904年3月31日 - 1978年1月31日)は、長野県浅間温泉の旅館「香蘭荘」の経営者で、当時の東筑摩郡本郷村の初代公選村長となり、後には助役も務めた。他方では、筆名の高橋 玄一郎(たかはし げんいちろう)として詩人、文学者としても知られた。 浅間温泉で温泉旅館「香蘭荘」を経営していた小岩井家から、石川県輪島の高橋家に養子に出ていた父・孝八のひとり息子として輪島で生まれた。その後、父が浅間温泉の家業を継ぐこととなり、輪島で母方の高橋家の祖父母によって育てられた。中学に上がることになり、父に呼び寄せられ、浅間温泉に戻り、松本中学校(後の長野県松本深志高等学校)に学ぶ。
杉田 一次(すぎた かずし、1904年〈明治37年〉3月31… 杉田 一次(すぎた かずし、1904年〈明治37年〉3月31日 - 1993年〈平成5年〉4月12日)は、日本の陸軍軍人、陸上自衛官。陸士37期・陸大44期。最終階級は帝国陸軍では陸軍大佐、陸自では陸上幕僚長たる陸将。第4代陸上幕僚長を務めた。 米国陸軍隊付の経験に加えて在アメリカ大使館駐在武官補佐官の経験から、対米開戦に終始反対し、海軍をも巻き込んで開戦阻止に動いたが上層部を説得することができなかった。第25軍情報参謀としてマレー作戦に従軍、シンガポールの戦い後の降伏交渉において後半から山下奉文将軍の通訳を務める。イギリス軍に対する降伏勧告文を起案した。 ガタルカナル作戦では大本営派遣参謀として現地に入り、第2師団の作戦に関与。
斎 辰雄(とき たつお、1904年3月31日 - 1967年… 斎 辰雄(とき たつお、1904年3月31日 - 1967年10月26日)は日本の元陸上競技選手。徳島県那賀郡今津村(現阿南市)出身。旧制富岡中学校(現富岡西高校)、三重高等農林学校(現三重大学)卒業。
山田 丈夫(やまだ たけお、1904年〈明治37年〉3月31… 山田 丈夫(やまだ たけお、1904年〈明治37年〉3月31日 – 1971年〈昭和46年〉1月19日)は、日本の弁護士・実業家。 1904年(明治37年)3月31日、岐阜県岐阜市に生まれた。岐阜県岐阜中学校の同期には、岐阜市長を務めた松尾吾策などがおり、松尾とは大学も一緒だった。 1927年(昭和2年)に明治大学法学部を卒業し、1928年(昭和3年)に弁護士を開業した。1943年(昭和18年)には岐阜県弁護士会会長に就任した。 1946年(昭和21年)、『東海夕刊新聞』を創刊して自身が社長に就任した。1954年(昭和29年)、『岐阜タイムス』(現・『岐阜新聞社』)の社長に迎えられると、1959年(昭和34年)には社名を岐阜日日新聞社に変更し、1960年(昭和35年)には紙名を『岐阜日日新聞』に変更した。
松下 整吉(まつした せいきち、1904年〈明治37年〉3月… 松下 整吉(まつした せいきち、1904年〈明治37年〉3月31日 - 1986年〈昭和61年〉)は、日本の実業家、政治家。松下酒店社長。境港商工会議所副会頭。 鳥取県西伯郡境町松ヶ枝町(現境港市松ヶ枝町)出身。質屋・松下専次郎の息子。1947年から2期境町会議員を務める。境港魚市場社長、北陽産業社長、境港魚凾社長などを歴任する。 境港魚市場の大株主である。妻・さいは面谷代表、酒類醸造業の面谷友太郎の二女。住所は境港市松ヶ枝町。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
森谷 新一(もりたに しんいち、1903年(明治36年)3月… 森谷 新一(もりたに しんいち、1903年(明治36年)3月31日 - 1978年(昭和53年)12月19日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、岡山県和気郡日生町長。旧姓・森下。 岡山県和気郡日生村(日生町を経て現備前市)で、森下元治の長男として生まれ、5歳で母方の森谷虎吉の養子となる。閑谷中学校(現岡山県立和気閑谷高等学校)を経て、1927年(昭和2年)早稲田大学電気科を卒業した。 朝鮮に渡り全羅南道宝城郡筏橋面で、筏橋電気常務取締役兼主任技師として電灯開発を担当した。1930年(昭和5年)ころに帰郷して製綿業、耐火煉瓦工場を営み、児島窯業社長、日生造船造機社長、日生土地取締役、中日生土地取締役、日生町商工会長などを務めた。
松山 義雄(まつやま よしお、1903年(明治36年)3月3… 松山 義雄(まつやま よしお、1903年(明治36年)3月31日 - 1958年(昭和33年)10月25日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員、埼玉県副知事。正五位勲三等に叙せられた。 長崎県諌早市出身。中央大学法学部卒業。 1936年、弁護士登録。1938年、東京弁護士会常議員に就任。1941年、日本弁護士会理事に就任。 その後は中央政界への進出をもくろみ、1946年4月の第22回衆議院議員総選挙に進歩党公認で立候補したが落選。1947年4月の第23回衆議院議員総選挙では民主党公認で埼玉2区から立候補したが落選。1949年1月の第24回衆議院議員総選挙でも落選した。同年、埼玉県知事大沢雄一の要請により、埼玉県副知事に就任。
広川 弘禅(ひろかわ こうぜん、旧字体: 廣川 弘禪、190… 広川 弘禅(ひろかわ こうぜん、旧字体: 廣川 弘禪、1902年〈明治35年〉3月31日 - 1967年〈昭和42年〉1月7日)は、日本の政治家、僧侶、教育者。「弘禅」は曹洞宗の僧侶名で、本名は広川 弘(ひろかわ ひろし)。 衆議院議員。農林大臣(第12・14・16代)、行政管理庁長官(第6代)、自由党総務会長・幹事長、民主自由党幹事長、財団法人青葉学園理事長、青葉学園短期大学初代学長を歴任した。位階・勲等は正三位勲一等瑞宝章。 福島県石川郡玉川村生まれ。生家は曹洞宗の寺院大安寺。苦学し曹洞宗大学(後の駒澤大学)仏教学部中退。当時広川は、藤田俊訓らと共に同大学の単科大学昇格運動に積極的に参加していたため「風紀を乱す」として大学に目をつけられており、退学理由についても「当時の学長である忽滑谷快天の怒りを買った」ためとする説がある。
安宅 乕雄(あたか とらお、1902年〈明治35年〉3月31… 安宅 乕雄(あたか とらお、1902年〈明治35年〉3月31日 - 1989年〈平成元年〉11月12日)は、日本の洋画家。 新潟県新潟市東堀通9番町(現 新潟市中央区東堀通9番町)の資産家・安宅安太郎の次男として出生。 1920年(大正9年)3月に新潟中学校を卒業、1922年(大正11年)に独学で画家を志す。 1926年(大正15年)の第7回帝展で『風景』が初入選、1928年(昭和3年)に義兄(姉の夫)の大久保賢治郎の支援によりヨーロッパに渡って各国の美術を研究、1931年(昭和6年)に帰国。 1936年(昭和11年)に二科会会友になるが、1939年(昭和14年)に二科会を退会、1940年(昭和15年)に一水会会員になり、1946年(昭和21年)に一水会委員に就任、1949年(昭和24年)に一水会運営委員に就任。
山内 以九士(やまのうち いくじ、1902年3月31日 - … 山内 以九士(やまのうち いくじ、1902年3月31日 - 1972年6月3日)は、日本の野球公式記録員。日本プロ野球の規則や記録の整理・研究に貢献した人物である。本名・山内育二、後に祖名相続により山内佐助となる。 島根県松江市天神町の「山内佐助商店」の跡取りとして生まれる。山内佐助商店は1764年(明和元年)創業で、小間物問屋から始まり廻船問屋を経て、山内の誕生当時は呉服反物商だった。当主は代々「佐助」を名乗り、自身も1936年に7代目佐助を襲名している。長男にもかかわらず「育二」と名付けられたのは、養子の義兄がいたためとされる。生家は天神町および隣接する灘町に485坪の土地を持ち、祖父(5代目佐助)と父(6代目佐助)はともに地元銀行や商業会議所の要職も兼ね、松江市議会議員も務める名士で、裕福な家庭だった。
井浦 祥二郎(いうら しょうじろう、1902年(明治35年)… 井浦 祥二郎(いうら しょうじろう、1902年(明治35年)3月31日 - 1965年(昭和40年)7月6日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。 福岡県朝倉市出身。旧制福岡県立朝倉中学校より海軍兵学校第51期入校。席次は入校時293名中70番、卒業時255名中31番。太平洋戦争中、軍令部作戦部や第六艦隊などで参謀として潜水艦作戦の立案に携わる。潜水艦に関する航空本部と同様の中央機関の必要性を訴え、潜水艦部の発足に尽力。戦後B級戦犯に問われ巣鴨刑務所に収監された。 井浦の自著によれば、将兵の娯楽ために、各地の基地に慰安所を設置することを、軍中央は公然と指示しており、各地の司令部が慰安所の管理をしたという。
広川 弘禅(ひろかわ こうぜん、旧字体:廣川 弘禪、1902… 広川 弘禅(ひろかわ こうぜん、旧字体:廣川 弘禪、1902年(明治35年)3月31日 - 1967年(昭和42年)1月7日)は、日本の政治家、僧侶、教育者。「弘禅」は曹洞宗の僧侶名で、本名は広川 弘(ひろかわ ひろし)。農林大臣、国務大臣行政管理庁長官、日本自由党総務会長を歴任した。正三位勲一等瑞宝章。
村山 道雄(むらやま みちお、1902年3月31日 - 19… 村山 道雄(むらやま みちお、1902年3月31日 - 1981年12月10日)は、日本の政治家。山形県知事や参議院議員を務めた。また、アララギ派の歌人でもあった。1972年勲二等旭日重光章。1982年正四位。 兵庫県出身。東京帝大法学部政治学科卒。1945年官選山形縣知事、1947年から山形県知事を2期8年務めた。同年8月に行われた昭和天皇の戦後巡幸では随行役を務めたほか、在任中は基督教独立学園高等学校の新制高校認可を助けるなどした。1950年に自由党入党。 知事退任後は、1959年の第5回参議院議員通常選挙に自由民主党公認で山形地方区から出馬し当選。内閣委員長を務めている。 1981年12月10日、老衰のため79歳で死去。
平井 美奈子(ひらい みなこ、1902年(明治35年)3月3… 平井 美奈子(ひらい みなこ、1902年(明治35年)3月31日 - 2004年(平成16年)3月3日)は、日本の声楽家(ソプラノ)、歌手、童謡歌手、音楽教育者。 旧姓:早川(はやかわ) 実業家、早川鉄冶の子として東京に生まれる。6歳から山田流箏曲を山木派の須藤春賀に学ぶ。1919年(大正8年)青山女学院卒業。東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)でハンカ・シェルデルップ・ペツォルトとマルガレーテ・ネトケ=レーヴェに師事し、1923年(大正12年)同校本科声楽部卒業。1925年(大正14年)同校研究科声楽部修了。1925年8月函館市で本居長世・みどり・貴美子、吉田晴風、早川美奈子による演奏。