北野 吉内(きたの きちない、1892年(明治25年)3月1… 北野 吉内(きたの きちない、1892年(明治25年)3月10日 - 1956年(昭和31年)3月15日)は、日本のジャーナリスト、実業家である。旧姓は佐藤。 山形県山形市七日町の生まれ。兄に尾崎紅葉門下の佐藤流葉を持つ。旧制山形中学を経て東京外国語学校(現在の東京外国語大学)に入学し、卒業後はジャパン・アドバタイザー(現在のジャパンタイムズ)に勤務する。その後は萬朝報に転勤し、1916年(大正5年)には北野量子と結婚し婿入りの形で北野姓に改姓した。同年末には東京朝日新聞に転勤し、アサヒグラフ編集部および整理部次長を歴任した。1926年(大正15年)には同社のニューヨーク特派員となり、1929年(昭和4年)の帰国まで同職にあたった。
小田 常胤(おだ つねたね、1892年3月10日 - 195… 小田 常胤(おだ つねたね、1892年3月10日 - 1955年2月11日)は、日本の柔道家(講道館9段)。 立ち技を中心にして隆盛を極めた大正・昭和期の講道館にあって、それまでの古流柔術等を更に発展させた常胤流と呼ばれる独自の寝技技術を構築、旧制第二高校や旧制第四高校を指導して高専柔道の発展に大きく貢献し、寝技の大家と知られた。なお、名の正確な読みは「つねたね」だが、文献によっては「じょういん」とも記されており、海外でもそちらの名がよく通っている。 山梨県南都留郡船津村(のちの河口湖町、富士河口湖町)の浅川に生まれた。当時の南都留郡には中学校が無かったため、親族を頼って静岡県立沼津中学校(のちの静岡県立沼津東高等学校)に入学し、ここで柔道を始めた。
出 隆(いで たかし、1892年〈明治25年〉3月10日 -… 出 隆(いで たかし、1892年〈明治25年〉3月10日 - 1980年〈昭和55年〉3月9日) は、日本の哲学者。 岡山県苫田郡津山町(現津山市)で、渡部惟明(元鶴山高等小学校校長)の次男として生まれる。津山中学校在学中に叔父・出道直の養子となる。第六高等学校を経て東京帝国大学卒業、大学院に入り、副手を嘱託される。1920年、日本大学および法政大学教授、1921年、東洋大学教授となる。同年刊行の『哲学以前』は哲学青年の愛読書となる。1924年、東京帝国大学助教授となり、1925年より二年間、英国、およびドイツに留学。 1928年(昭和3年)、立教大学文学部教授に就任し、哲学史(古代哲学)や哲学演習を担った。
塩月 学(學、しおつき まなぶ、1892年(明治25年)3月… 塩月 学(學、しおつき まなぶ、1892年(明治25年)3月10日 - 1966年(昭和41年)12月17日)は、大正から昭和期の雑誌編集者、政治家。衆議院議員。 大分県大野郡三重村(三重町を経て現豊後大野市)で、塩月古五郎の長男として生まれる。故郷や大分の呉服店に奉公後、19歳で上京。苦学して、第七高等学校造士館を経て、1922年(大正11年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業した。 安田保善社に入社し、その後、秘書課長に就任。政界入りを目指して安田保善社を退職し、第一出版社を経営し、日本青年社を創立し雑誌『青年日本』を発刊した。 1929年(昭和4年)東京市疑獄事件を受けて実施された東京市会議員選挙に出馬して最高点で当選。
菅野 秀次郎(すがの ひでじろう、1892年3月10日 - … 菅野 秀次郎(すがの ひでじろう、1892年3月10日 - 1977年4月7日)は、日本の経営者。三重県上野市(現在の伊賀市)出身。 1917年に東京帝国大学法学部独法科を卒業し、同年に住友総本店に入社。1948年に住友本社清算人となり、住友不動産で社長、常務監査役を歴任した。 1977年4月7日、心不全のために死去。85歳没。
冨田 照(とみた てらす、1892年(明治25年)3月10日… 冨田 照(とみた てらす、1892年(明治25年)3月10日 - 1957年(昭和32年)3月13日)は、明治末から昭和前期の教育者、政治家。衆議院議員(1期)。富田とも表記されている。 千葉県天羽郡湊町桜井(君津郡湊町、天羽町、富津町を経て現富津市桜井)で、富田伊三郎、たく の三男として生まれる。湊小学校分教場和合小学校を経て、1907年(明治40年)天羽農学校(現千葉県立天羽高等学校)を卒業し家業に従事した。 1908年(明治41年)9月、君津郡役所の要請で湊小学校の代用教員に就任。準教員を経て1910年(明治43年)教員検定試験に合格し訓導となる。その後、木更津町真舟小学校訓導、君津郡中村小学校訓導を歴任。
上野 十蔵(上野 十藏、うえの じゅうぞう、1892年〈明治… 上野 十蔵(上野 十藏、うえの じゅうぞう、1892年〈明治25年〉3月10日 - 1972年〈昭和47年〉11月18日)は日本の実業家。中外製薬創業者・元代表取締役社長。位階は正五位。 鹿児島県薩摩郡隈之城郷(現在の鹿児島県薩摩川内市の一部)出身。実業家三代目上野喜左衛門の甥。 1916年東京高等商業学校(現一橋大学)卒業、三井鉱山入社。高等商業学校ではボート部に所属。 その後貿易会社の大正貿易商会紐育(ニューヨーク)支店長を務めたが、会社が倒産。関東大震災で子供をかばったまま死んだ母親の死体を見て衝撃を受け、1925年、32歳で中外新薬商会(現中外製薬)を設立。1942年に中外製薬に改組・改名。
池田 義信(いけだ よしのぶ、1892年3月10日 - 19… 池田 義信(いけだ よしのぶ、1892年3月10日 - 1973年9月1日)は、日本の映画監督、脚本家である。本名・旧名池田 義臣(いけだ よしおみ、いけだ ぎしん)。映画製作者連合会事務局長、映画倫理規程管理委員会(旧映倫)副委員長を歴任。 1892年(明治25年)3月10日、長野県上水内郡三輪村(現長野市)に生まれる。 長野郵便局(現在の長野中央郵便局)勤務を経て、1920年(大正9年)、松竹蒲田撮影所に入社、新派系の演出家賀古残夢、野村芳亭に師事する。翌1921年(大正10年)には、田中欽之が監督した『親なき娘』の脚本を書く。同年10月21日に公開された、柳川春葉原作、伊藤大輔脚本、栗島すみ子主演の映画『生さぬ仲』で監督に昇進している。
関 威雄(せき たけお、1892年(明治19年)3月10日 … 関 威雄(せき たけお、1892年(明治19年)3月10日 - 1955年(昭和30年)1月20日)は、日本の政治家。新潟県高田市(現・上越市)長(2期)。 新潟県南魚沼郡上田村(現・南魚沼市)生まれ。1906年(明治39年)新潟県高田師範学校卒。小学校訓導、同校長、新潟県視学、知事官房主事、岩船郡長、佐渡支庁長、学務兵事課長などを経て、1930年(昭和5年)長岡市助役となる。その後、1938年(昭和13年)7月に大阪機械製作所に入社し、同長岡工場で勤務する。 1947年(昭和22年)初の高田市長選挙に立候補し、無所属新人と共産党公認の新人2人を破って当選する。※当日有権者数:18,887人 最終投票率:73.8%(前回比:-pts) 同年4月10日に就任した。
高瀬 荘太郎(たかせ そうたろう、旧字体:髙瀨莊太郎 189… 高瀬 荘太郎(たかせ そうたろう、旧字体:髙瀨莊太郎 1892年3月9日 - 1966年9月4日)は会計学者、政治家。正三位勲一等瑞宝章。
本位田 祥男(ほんいでん よしお、1892年(明治25年)3… 本位田 祥男(ほんいでん よしお、1892年(明治25年)3月8日 - 1978年(昭和53年)11月17日)は、日本の経済学者。西洋経済史専攻。欧州経済史、殊にイギリス経済史および消費組合研究の権威者として知られ、協同組合論にも多大な貢献をもたらした。
石原 舟月(いしはら しゅうげつ、1892年3月7日 - 1… 石原 舟月(いしはら しゅうげつ、1892年3月7日 - 1984年10月13日)は、大正・昭和期の俳人。現在の山梨県笛吹市御坂町生まれ。本名は起之郎。慶應義塾大学部理財科卒業。 1921年「雲母」入会、飯田蛇笏に師事。のち「雲母」同人。1926年、小川鴻翔・西島麦南と「雲母東京支社」を創設した。1932年、東京電柱広告社を創業し、後に東広会長。戦後は一時期東京の自宅に「雲母」発行所を移し、復刊・継続に貢献した(1946年-1951年)。1967年、第3回山廬賞受賞。1976年、勲五等瑞宝章受章。1980年、俳人協会名誉会員。1981年、『雨情』により第15回蛇笏賞を受賞。 「雲母」一筋の俳人で、実業に携わりながら自然と生活を深い詩情をもって詠んだ。
片山 一男(かたやま かずお、1892年(明治25年)3月7… 片山 一男(かたやま かずお、1892年(明治25年)3月7日 - 1953年(昭和28年)12月27日)は、大正から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・河本。 岡山県久米北条郡大井西村坪井下(久米郡大井西村、大井町、久米町を経て現津山市坪井下)で、素封家・河本芳太郎の長男として生れ、同村の親族、医師・片山恒四郎の養子となる。三宮電信局通信書記補を経て、実業家を目ざして同郷の西山和三郎の秘書となり、久米銀行千代支店長、山陽銀行千代支店長、同落合支店長、津山土地支配人、東京小松川土地建物常務取締役などを務めて成功をおさめ、岡山土地倉庫常務取締役、東京平井三業社長、宇部燃料工業社長、津山土地取締役、中国住宅取締役などを務めた。
李 光洙(イ・グァンス、1892年3月5日 - 1950年1… 李 光洙(イ・グァンス、1892年3月5日 - 1950年10月25日)は、朝鮮の文学者、思想家。「朝鮮近代文学の祖」とも言われる。本貫は全州李氏。号は「春園」(チュンウォン、춘원)。創氏改名時の日本名は「香山光郎」(かやま みつろう)。 平安北道義州府定州郡出身。10歳の時に両親をコレラで亡くす。1905年に一進会の留学生に選抜され、日本の大成尋常中学校を経て、明治学院普通学部在学中に小説の執筆活動を始める。帰国後、五山学校に赴任。一時シベリアを放浪するが、ロシア帝国の第一次世界大戦を受け帰国。日本に再留学し、早稲田大学に入学。在学中に『無情』を発表。1919年、三・一運動に先立って、ほかの朝鮮人留学生とともに「二・八独立宣言」の起草に加わった後、上海に亡命、大韓民国臨時政府樹立に加わり独立新聞の編集長に就任する。
坂本 直道(さかもと なおみち、1892年(明治25年)3月… 坂本 直道(さかもと なおみち、1892年(明治25年)3月5日 - 1972年(昭和47年)7月30日)は、日本の実業家。南満州鉄道参与を務めた。坂本龍馬の甥の一人である坂本直寛の長男(第三子)。 高知県生まれ。1897年、父・直寛(郷士坂本家5代当主)ら一族で北海道訓子府に移住する。1906年釧路で北米・中国に鉄道枕木を輸出する目的で坂本商会を設立本拠地は釧路市となる。1911年に父が亡くなり、いったん郷士坂本家を相続する(郷士坂本家6代当主となる)が、1913年に直道が隠居する形で、郷士坂本家は義兄の彌太郎(郷士坂本家7代当主)が家督を継ぐこととなる。 1920年(大正9年)に東京帝国大学法学部を卒業して南満州鉄道に就職。
藤本 了泰(ふじもと りょうたい、1892年〈明治25年〉3… 藤本 了泰(ふじもと りょうたい、1892年〈明治25年〉3月4日 - 1945年〈昭和20年〉3月16日)は、日本の仏教学者、教育者、僧侶。大正大学文学部教授、立教大学文学部教授。京都・帰命院住職、東京芝・天徳寺住職。近代的な研究手法により、従来から不明瞭な部分が多かった浄土教の歴史解明に深く貢献した。号は摂蓮社心誉常阿。 1892年(明治25年)3月4日、茨城県猿島郡岩井村(岩井町、岩井市を経て、現在の坂東市)に生まれる。 1907年(明治40年)に得度(出家)し、東京・増上寺において堀尾貫務から宗脈・戒脈を授けられる。 1918年(大正7年)、東京帝国大学文科大史学科国史学専修を卒業したのち、1921年(大正10年)、同大史料編纂所に史料編纂補助嘱託として入り、のちに史料編纂官補となり、1929年(昭和4年)まで勤務した。
妹尾 韶夫(せのお あきお、1892年3月4日 ‐ 1962… 妹尾 韶夫(せのお あきお、1892年3月4日 ‐ 1962年4月19日)は、日本の翻訳家・探偵小説作家。創作では妹尾アキ夫名義での活動が多い。 岡山県津山市生まれ。早稲田大学英文科卒業後、1922年(大正11年)頃から雑誌『新青年』等で英米中心の探偵小説の翻訳を手がける。ステイシー・オーモニア(英語版)、L.J.ビーストン、R.A.フリーマン、ハリス・バーランド、ブリットン・オースティン、アガサ・クリスティーの短編が特に多かった。1925年(大正14年)以降はアキ夫名義で創作も手がけ、30作から40作ほどの短編を発表している。 また、『新青年』で月評を担当していた胡鉄梅、『宝石』で月評を担当していた小原俊一は、共に妹尾の変名だといわれている。
郷倉 千靱(ごうくら せんじん、1892年3月3日 - 19… 郷倉 千靱(ごうくら せんじん、1892年3月3日 - 1975年10月25日)は、日本画家、日本芸術院会員。 富山県小杉町出身。本名・與作。1915年東京美術学校日本画科卒業、1916年渡米、1922年院展日本美術院賞受賞、1924年日本美術院同人、院展に出品を続け、1934年帝国美術学校日本画科教授、1936年多摩美術学校日本画科教授、1949年日展審査員、1956年多摩美術大学教授、1958年日本美術院評議員、1960年日本芸術院賞受賞、1971年勲四等旭日小綬章受章、1972年日本芸術院会員。没後勲三等瑞宝章追贈。 壁画を描いた。長女の郷倉和子も日本芸術院会員。
長谷川 義起(はせがわ よしおき、1892年3月3日 - 1… 長谷川 義起(はせがわ よしおき、1892年3月3日 - 1974年2月20日)は、日本の彫刻家。特に相撲をテーマにした作品を得意とした。本名・勝之。 富山県射水郡大島村(現在の射水市)に生まれた。1910年(明治43年)に富山県立工芸学校(現在の富山県立高岡工芸高等学校)、1915年(大正4年)に東京美術学校(現在の東京芸術大学)彫刻科本科塑造部を卒業した。1920年(大正9年)の第2回帝展に「露光」が初入選してから連続入選を重ねた。1930年(昭和5年)の第12回帝展において「円盤」が推薦となり、以後無鑑査出品となった。 日展審員、日本彫塑家クラブ理事、日本陶彫会委員長、北陽美術会理事などを歴任した。
杉野 芳子(すぎの よしこ、1892年3月2日 - 1978… 杉野 芳子(すぎの よしこ、1892年3月2日 - 1978年7月24日)は、20世紀の大正時代から昭和時代にかけて活動した日本のファッションデザイナーで、学校経営者。「ドレメ式洋裁」の創案者で、杉野女子大学学長、杉野学園ドレスメーカー学院創立者。 1926年(大正15年)、ドレスメーカー女学院(現在のドレスメーカー学院)を設立。洋服に仕立て服(オーダーメイド)しかなかった時代に、標準的な型紙を使った、セミオーダーメイドや既製服(レディメイド)といった効率的な製作方法を教育。安価で良質な洋服の普及を目指した。 戦後はいくどとなく渡仏。オートクチュールの世界で巨匠とまでいわれていた、ジャック・ファット、クリスチャン・ディオール、ピエール・バルマンなどと親交があった。
吉田 萬次(よしだ まんじ、1892年(明治25年)3月2日… 吉田 萬次(よしだ まんじ、1892年(明治25年)3月2日 - 1958年(昭和33年)12月21日)は、日本の政治家、医師。参議院議員(1期)、愛知県会議員(3期)、一宮市長(2期)、一宮市会議員(4期)。 愛知県中島郡一宮町(現一宮市)に生まれる。1911年(明治44年)3月、明倫中学校(現愛知県立明和高等学校)卒業。1917年(大正6年)、愛知県立医学専門学校卒業。1918年(大正7年)、吉田医院を開業。 1921年(大正10年)、一宮市の市制施行に際し、一宮市会議員に初当選。1927年(昭和2年)、京都帝国大学で医学博士を修了。 1931年(昭和6年)9月、愛知県会議員選挙に立憲民政党公認で初当選。
西原 雅一(にしはら がいち、1892年3月2日 - 195… 西原 雅一(にしはら がいち、1892年3月2日 - 1954年11月11日)は、沖縄県の医師で、宮古支庁、宮古群島政府及び琉球政府の政治家。終戦直後に宮古支庁長や宮古群島知事を務めた。沖縄県宮古郡伊良部町(現在の宮古島市)出身。 明治25年(1892年)3月2日生まれ。大正5年(1916年)に熊本医学専門学校(現在の熊本大学医学部)を卒業する。 その後宮古島に帰島し医院を開業する。昭和10年(1935年)に伊良部村長となり、昭和12年(1937年)に沖縄県会議員に選出される。 沖縄戦後は、進駐したアメリカ軍によって宮古支庁長に任命され、1950年には宮古群島知事に選出された。 その後1952年の第1回立法院議員総選挙に出馬し当選する。
高杉 晋一(たかすぎしんいち、1892年(明治25年)3月1… 高杉 晋一(たかすぎしんいち、1892年(明治25年)3月1日 - 1978年(昭和53年)6月6日)は、日本の実業家。 1892年3月1日、茨城県鉾田町の高杉健作の子として生まれる。1910年(明治43年)、土浦中学校卒業(岡野保次郎と同期)。第二高等学校を経て、1917年(大正6年)東京帝国大学法学部を卒業。 同年三菱合資銀行部に入社。名古屋支店長を経験し、監査、取締常務を歴任する。1947年(昭和22年)1月、三菱電機社長となる。1956年(昭和31年)11月、三菱電機会長となる。1962年(昭和37年)、同会長を退任。 1964年(昭和39年)12月14日、日韓会談における日本側首席代表の杉道助が死去。
芥川 龍之介(あくたがわ りゅうのすけ、1892年〈明治25… 芥川 龍之介(あくたがわ りゅうのすけ、1892年〈明治25年〉3月1日 - 1927年〈昭和2年〉7月24日)は、日本の小説家。号は澄江堂主人(ちょうこうどうしゅじん)、俳号は我鬼(がき)。東京府東京市京橋区(現:東京都中央区)出身。 1892年(明治25年)、東京市京橋区入船町8丁目(現:東京都中央区明石町)に牛乳製造販売業を営む新原敏三、フクの長男として生まれる。出生時刻については資料がないため不明である。 戸籍上の正しい名前は「龍之介」であるが、養家である芥川家や府立三中、一高、東京大学関係の名簿類では「龍之助」になっている。芥川自身は「龍之助」の表記を嫌った。姉が2人いたが、長姉は、龍之介が生まれる1年前に6歳で病死している。
西田 祥実(にしだ よしみ、1892年(明治25年)3月1日… 西田 祥実(にしだ よしみ、1892年(明治25年)3月1日 - 1944年(昭和19年)2月24日)は、日本の陸軍軍人。陸士25期。第二次世界大戦中、エニウェトクの戦いにて戦死した。最終階級は陸軍少将、死後中将に特進。位階勲等功級は従四位勲二等功三級。 高知県土佐郡一宮村薊野(現・高知市薊野)に又吉・令の次男として生まれる。高知県尋常中学海南学校(現・高知県立高知小津高等学校)、陸軍中央幼年学校を経て、陸軍士官学校卒業後、歩兵第41連隊附となり、中国東北部に駐屯する。 内地帰還後、陸軍士官学校生徒隊附、歩兵第41連隊中隊長、歩兵第25連隊大隊長を経て、1933年(昭和8年)歩兵第13旅団副官となり、再び中国東北部に出征する。
西村 敬太郎(にしむら けいたろう、1892年3月1日 - … 西村 敬太郎(にしむら けいたろう、1892年3月1日 - 1971年11月7日)は、日本の聖職者、教育者。日本聖公会の聖職者として真光教会や浦和や福島で司牧したほか、立教大学でチャプレン、学生部長および講師を務めた。 1892年(明治25年)、東京府東京市日本橋区瀬戸物町出身。1916年(大正5年)、立教大学文学部卒業。同級生に中国の政治家の陳樹人(広東省長、国民党外務大臣、嶺南画派の創始者の一人)がいる。 1923年(大正12年)に日本聖公会の執事となり、1926年(大正15年/昭和元年)に司祭に按手。 聖職者として浦和や福島で司牧したほか、1935年(昭和10年)に当時本所区(現・墨田区)にあった真光教会の第2代牧師として着任。
永井 英夫(ながい ひでお、1892年(明治25年)3月 -… 永井 英夫(ながい ひでお、1892年(明治25年)3月 - 没年不明)は、日本の発明家。 愛媛県宇和島市出身。1906年(明治39年)に大阪市で莫大小卸商を開業し、1909年(明治42年)に永井莫大小製造所と改め工場を新設した。1926年(大正15年)2月に新工場が竣工するとともに営業所を移転し、新たに輸出部を設けた。 莫大小編成機色染装置を発明した。この機械は1918年(大正7年)11月の第1回発明博覧会において、皇后陛下の台覧を賜り、1929年(昭和4年)6月に天覧を賜った。 1926年(大正15年)に帝国発明協会の全国発明表彰により、進歩賞が授与されている。
齋藤 百合(さいとう ゆり、1891年(明治24年)3月31… 齋藤 百合(さいとう ゆり、1891年(明治24年)3月31日 - 1947年(昭和22年)1月17日)は、日本の社会運動家。盲人女性のための教育施設・福祉施設を設置し、その地位向上に力を尽くした。旧名は野口小つる。 愛知県八名郡石巻村(現・豊橋市)にて、野口浪太郎の次女・小つるとして生まれた。父の浪太郎は旅まわりの浪曲師で、母のきくは村の旧家の娘であったが彼に心を寄せ、駆け落ち同然に所帯を持った。二人の間には子どもが5人生まれた。長女のつるは浪太郎の実家の竹上家に引き取られ、次女の小つるが生まれた頃に浪太郎は野口家の養子となり、小つると2人の男の子(沢治・福三郎)は祖父母に預けられ、三女のきんは三ヶ日の外山家に養子に出された。
棈松 熾(あべまつ さかん、1891年(明治24年)3月30… 棈松 熾(あべまつ さかん、1891年(明治24年)3月30日 - 没年不明)は、明治時代後期から昭和時代前期の台湾総督府官僚。 鹿児島県日置郡上伊集院村(現・鹿児島市)に生まれる。1909年(明治42年)2月、台湾総督府税関官吏に任ぜられ、府属、台北州属、総督官房秘書課勤務を経て、1928年(昭和3年)9月、地方理事官に進み、基隆市助役に就任した。1930年(昭和5年)4月、台北州羅東郡守、1931年(昭和6年)5月、高雄州潮州郡守を歴任し、1932年(昭和7年)4月に退官した。 退官後は、清水街長、台北市主事、台南商工会議所理事、花蓮港市会議員などを歴任した。
戸塚 九一郎(とつか くいちろう、1891年3月27日 - … 戸塚 九一郎(とつか くいちろう、1891年3月27日 - 1973年10月13日)は、日本の官僚、政治家。位階は正三位。 衆議院議員(3期)、徳島県知事、山口県知事、宮城県知事(第28代)、福岡県知事、北海道庁長官(第25代)、労働大臣(第8代)、建設大臣(第8代、第9代)、北海道開発庁長官(第5代、第6代)、衆議院議員(3期)を務めた。 静岡県出身。酒造業・町長、戸塚藤平の三男として生まれる。掛川中学(現在の静岡県立掛川西高等学校)、一高を経て、1917年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、内務省に入り香川県属となり内務部地方課に配属。1918年10月、高等試験行政科試験に合格。
酒井 直次(さかい なおじ、1891年〈明治24年〉3月26… 酒井 直次(さかい なおじ、1891年〈明治24年〉3月26日 - 1942年〈昭和17年〉5月28日)は、日本の陸軍軍人。第15師団長、陸軍通信学校長、歩兵第19旅団長等を歴任し、階級は陸軍中将功二級に至る。暗号通信の権威として知られる。本籍は東京府。 1891年(明治24年)3月26日、出羽国庄内藩初代藩主酒井忠勝の6男酒井忠直(藩主家一門・酒井奥之助家)の後裔である酒井直興の次男として山形県西田川郡鶴岡五日町(現:鶴岡市)に生まれる。1902年(明治35年)、東京に移住し、1903年(明治36年)、成城中学校に入学。 1904年(明治37年)、陸軍中央幼年学校予科に入学し同本科を経て、1911年(明治44年)5月27日、陸軍士官学校を92番/740名で卒業する。
清水 善造(しみず ぜんぞう、1891年(明治24年)3月2… 清水 善造(しみず ぜんぞう、1891年(明治24年)3月25日 - 1977年(昭和52年)4月12日)は、群馬県西群馬郡箕輪村(現・高崎市箕郷町)出身の男子テニス選手。 日本人初のウィンブルドン出場者でありベスト4に進出した。全米選手権でもベスト8入りしている。 元俳優の清水善三、関西学院大学教育学部教授の藤木大三らは、清水の孫にあたる。 群馬県立高崎中学校(現:群馬県立高崎高等学校)に進学。東京高等商業学校(現:一橋大学)を卒業後、1912年に三井物産に入社、カルカッタ(インド)、ニューヨーク(アメリカ合衆国)へに駐在員として在任した。テニス選手として国際大会に出場したのはこの期間である。
中村 拓(なかむら ひろし、1891年(明治24年)3月25… 中村 拓(なかむら ひろし、1891年(明治24年)3月25日- 1974年(昭和49年)2月7日)は、日本の医学者、生化学者、古地図学者。本業である生化学者としての業績のほか、古地図研究でも多くの業績を残している。 1891年、福島県伊達郡梁川町に生まれる(現在の伊達市)。1916年第一高等学校を卒業。1920年(大正9年)東京帝国大学医学部を卒業。 1921年、伝染病研究所(長与又郎研究室)に入り、パリのパスツール研究所に留学。1924年ガブリエル・ベルトラン(英語版)教授に師事し、ソルボンヌ大学から理学博士号を授与される。1925年、東京帝国大学から医学博士号を授与される。1926年にポール・ジャクレーの母で18歳上の未亡人ジャンヌ (1874-1940)と結婚。
内藤 政光(ないとう まさみつ、1891年(明治24年)3月… 内藤 政光(ないとう まさみつ、1891年(明治24年)3月24日 - 1961年(昭和36年)3月28日)は、大正から昭和期の考古学者、政治家、華族。貴族院子爵議員。 愛知県西加茂郡挙母村(現豊田市)で子爵・内藤政共の長男として生まれる。父の死去に伴い、1902年(明治35年)12月23日、子爵を襲爵した。 1916年(大正5年)3月、学習院高等学科を卒業し、さらに、1922年(大正11年)東京帝国大学文学部国史学科を卒業した。 1924年(大正13年)実践女子専門学校講師に就任。以後、国士舘専門学校講師、同教授、東京帝室博物館歴史課事務嘱託、同館学芸委員、外務省調査局勤務などを務めた。 1946年(昭和21年)5月10日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
本間 国生(ほんま くにお、本名:本間 国雄、明治24年(1… 本間 国生(ほんま くにお、本名:本間 国雄、明治24年(1891年)3月24日 - 昭和48年(1973年)12月30日)は、米沢市出身の日本画家。文学博士の本間久雄の実弟。号は逸老庵。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
立松 ふさ(たてまつ ふさ、1891年(明治24年)3月23… 立松 ふさ(たてまつ ふさ、1891年(明治24年)3月23日 - 1992年(平成4年)11月16日)は、日本の声楽家。声種はソプラノ。音楽教育者。作曲家。武蔵野音楽大学名誉教授。旧姓は薗部。名は房子と表記されることが多い。フサと表記されることもある。 東京府亀戸出身。警察官、薗部久五郎の長女として生まれる。東京府立第一高等女学校卒。東京音楽学校にてハンカ・シェルデルップ・ペツォルト、宮廷歌手ヘルマン・ヴーハープフェニッヒに師事。1913年(大正2年)に同校本科声楽部を卒業。1915年(大正4年)から同校声楽講師。1925年(大正14年)私立東京女子体操音楽学校(現:東京女子体育大学)講師。1927年(昭和2年)函館で演奏会を開催。
川並 密(かわなみ ひそか / みつ、1891年〈明治24年… 川並 密(かわなみ ひそか / みつ、1891年〈明治24年〉3月22日 - 1978年〈昭和53年〉11月4日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 茨城県出身。土浦中学校を経て、1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉任官。1923年(大正12年)11月、陸軍大学校(35期)を卒業。陸軍歩兵学校勤務となる。 1936年(昭和11年)8月、歩兵大佐に昇進し歩兵学校教官に就任した。1937年(昭和12年)3月、陸軍通信学校教育部長に異動。同年9月、歩兵第6連隊長に戦死した前任者の後任として着任し日中戦争に出征。南京攻略戦、徐州会戦、武漢作戦に参加した。
柴田 知常(しばた ともつね、1891年(明治24年)3月2… 柴田 知常(しばた ともつね、1891年(明治24年)3月22日 - 1980年(昭和55年)1月20日)は、日本の音楽教育者、作曲家。東京市出身。東洋音楽短期大学初代学長、前東京音楽大学理事長。 1891年(明治24年)東京市生まれ。麹町小学校、東京府立第四中学校を経て、1916年(大正5年)東京音楽学校 (旧制)卒業。1927年(昭和2年)、東京市の視学制度により視学官としてアメリカ合衆国の教育事情を視察するために渡米。1951年(昭和26年)から東洋音楽学校校長を務めた。その後、東洋音楽短期大学発足に伴い、同大学の初代学長に就任。東京音楽大学に改組されてからは理事長を務めた。この間、日本音楽文化協会理事や上野学園大学教授、早稲田大学講師、東京芸術大学同声会会長などを歴任。
古賀 米吉(こが よねきち、1891年(明治24年)3月22… 古賀 米吉(こが よねきち、1891年(明治24年)3月22日 - 1983年(昭和58年)6月7日)は日本の教育者。千葉県市川市の学校法人市川学園の創立者として知られる。 1891年、古賀米吉は福岡県三井郡(現在の小郡市)で生まれた。9歳のときに父が亡くなり、貧乏な母子家庭で育ったという。1915年に[要出典]福岡師範学校二部を卒業したが、経済的理由で上級学校に進めなかったという[要出典]。卒業後は小学校教諭となり、教師として働く傍らで学資を貯めていたという[要出典]。 27歳のときに上京し、1922年に[要出典]旧制東京外国語学校英語科(現在の東京外国語大学英文科)を卒業した。その後[いつ?]、府立四中(現在の都立戸山高校)の英語教師、主任として働きながら自身も進学し、1930年に39歳で東京帝国大学文学部社会学科を卒業したが、その後府立四中を退職した。
岩井 盛次(いわい もりつぐ、1891年3月21日 - 19… 岩井 盛次(いわい もりつぐ、1891年3月21日 - 1974年3月20日)は、日本の実業家で、エコナックホールディングスの創業者でもある。 京都府京都市出身。1908年に京都市立第一商業学校を卒業した。1926年に日本レースを設立し、1942年に同社の社長に就任した。 近畿放送、京都銀行の各取締役などを歴任し、1965年4月に京都商工会議所会頭に就任した。1965年11月に勲三等旭日中綬章を受章した。 1974年3月20日に腹部腫瘍のために死去。82歳没。
森 寿五郎(もり ひさごろう、1891年(明治24年)3月2… 森 寿五郎(もり ひさごろう、1891年(明治24年)3月20日 - 1983年(昭和58年)1月8日)は、日本の経営者。工学博士。岡山県高梁市出身。 1891年(明治24年)岡山県川上郡落合村福地(現:高梁市落合町)に信原忠吉の四男として生まれる。この後、川上郡成羽町中村にある森家の養子となる。地元の旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を経て、第三高等学校を1914年(大正3年)に卒業し、1919年(大正8年)に東京帝国大学工学部電気工学科を卒業した。 卒業と同時に、宇治川電気へ入社。翌年、日本電力に移り、試験係長、大阪変電所長、発電・送電各課長、送電総務理事などを歴任し順調に出世した。1950年(昭和25年)10月、59歳で日本発送電副総裁に就任し、翌年、1951年(昭和26年)5月に関西電力が発足すると同時に、関西電力副社長に就任した。
瀬藤 象二(せとう しょうじ、1891年3月18日 - 19… 瀬藤 象二(せとう しょうじ、1891年3月18日 - 1977年10月20日)は、電気工学者。和歌山県出身。
出羽 重芳(でわ しげよし、1891年(明治24年)3月16… 出羽 重芳(でわ しげよし、1891年(明治24年)3月16日 - 1946年(昭和21年)6月7日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。 海軍士官・出羽重遠の四男として生まれる。父の死去に伴い、1930年(昭和5年)3月15日、男爵を襲爵した。 1916年(大正5年)早稲田大学商学部を卒業した。同年、日本郵船に入社。その後、国際汽船に移り、横浜出張所長、調度課長を務め、さらに大阪商船で勤務。その他、鶴見化学工業取締役、東京測機監査役、船舶運営会副参事などを務めた。 1946年(昭和21年)5月11日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属したが、翌月に死去した。
古市 春彦(ふるいち はるひこ、1891年3月15日 - 1… 古市 春彦(ふるいち はるひこ、1891年3月15日 - 1943年1月9日)は、日本の学者・労働運動家。 鹿児島県熊毛郡南種子村(現・南種子町) 出身。農業に従事していたが、20歳で志をたてて上京し錦城中学に入る。在学中友愛会の賛助会員となる。第五高等学校を経て京都帝国大学に入るが友愛会運動を続ける。京大では1918年9月に結成された河上肇を顧問とする労学会に所属し、同年10月には同年12月に赤松克麿らが東大で新人会をつくるきっかけにもなる東西両大学連合演説会(岡崎公会堂で東京帝国大学と京都帝国大学の学生が行った)で東京帝大の赤松らと論戦する。卒業後の大正10年に上京し出版社隆文館に勤務するが、13年福岡の西南学院商科長となる。
小笠原 長丕(おがさわら ながまさ、明治24年(1891年)… 小笠原 長丕(おがさわら ながまさ、明治24年(1891年)3月15日 - 昭和43年(1968年)4月7日)は、日本の華族。子爵。旧安志藩忠脩系小笠原家第13代当主。旧小倉藩小笠原家当主小笠原忠忱の二男。 兄に小笠原長幹、弟に小笠原豊、妹に津軽英麿夫人、百子(尚昌夫人)。養子に小笠原忠幸。 明治38年(1905年)、安志小笠原家12代の子爵小笠原貞孚が後嗣なく没したため、貞孚の甥にあたる長丕が養子として跡を継いだ。明治44年(1911年)3月、学習院中等科を卒業。その後、早稲田大学専門部に進学、卒業。東京府立第一中学校、法政大学商業学校などの講師となる。昭和5年(1930年)に隠居し、養子忠幸(兄小笠原長幹の子)に家督を譲った。
清水谷 恭順(しみずだに きょうじゅん、1891年〈明治24… 清水谷 恭順(しみずだに きょうじゅん、1891年〈明治24年〉3月14日 - 1979年〈昭和54年〉8月8日)は、天台宗の僧、仏教学者、浅草寺貫首。 1891年(明治24年)、群馬県新田郡笠懸村西鹿田(現・みどり市笠懸町西鹿田)の長昌寺住職・林恵順の子として生まれる。幼名・光司。笠懸尋常小学校を経て、県立太田中学校へ進学。1906年(明治39年)清水谷慶順につき得度し、清水谷姓となる。 1915年(大正4年)天台宗大学を卒業。1919年(大正8年)天台宗大学教授となり、1926年(大正15年)の大正大学創設に伴い教授に就任し、1945年(昭和20年)に退任。この間、宮内省職員養成所講師や、比叡山中学校校長も務める。
寺岡 謹平(てらおか きんぺい、1891年3月13日 - 1… 寺岡 謹平(てらおか きんぺい、1891年3月13日 - 1984年5月2日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 1891年(明治24年)3月13日、山形県東田川郡羽黒町手向(現・鶴岡市)で小学校長・寺岡義秀の二男として生れる。新庄中学校を経て、1912年(明治45年)7月に海軍兵学校(40期)を卒業、少尉候補生となる。 1913年(大正2年)12月、海軍少尉任官。1915年(大正4年)12月、中尉に昇進。1918年12月、大尉に昇進。1919年(大正8年)12月、海軍水雷学校高等科を卒業し、第二艇隊艇長に就任。1920年(大正9年)8月、檜 (桃型駆逐艦)に乗組。1921年(大正10年)6月、菱 (樅型駆逐艦)に乗組。
仲井間 宗一(なかいま そういち、1891年(明治24年)3… 仲井間 宗一(なかいま そういち、1891年(明治24年)3月13日 - 1965年(昭和40年)12月2日)は、沖縄県出身の日本の弁護士、政治家。衆議院議員。 名護間切名護(現名護市)で、仲井間宗宣の長男として生まれる。1911年、沖縄県立第一中学校5年に在学中に上京。苦学して日本大学専門部法律科に入学。1922年、弁護士試験に合格。 1923年に帰郷して那覇に弁護士事務所を開業した。その後、那覇弁護士会会長に就任。 1930年2月の第17回衆議院議員総選挙で沖縄県選挙区から立憲民政党所属で出馬して当選。その後、第19回 から第21回総選挙まで連続三回の当選を果たし、衆議院議員を通算四期務めた。
川崎 備寛(かわさき よしひろ、かわさき びかん、1891年… 川崎 備寛(かわさき よしひろ、かわさき びかん、1891年3月13日 - 1963年3月26日)は、日本の翻訳家、麻雀研究家。 大阪府貝塚市生まれ。関西学院大学政治部中退後、文筆活動に入り1923年(大正12年)『文藝春秋』の同人となる。1924年から麻雀を始め、1929年(昭和4年)日本麻雀連盟創立に際し中央委員。1930年(昭和5年)最高段位7段となる。1932年(昭和7年)麻雀団体が合併して大日本麻雀連盟が結成され、機関誌『麻雀日本』の編集長に就任。 1934年(昭和9年)、警視庁による麻雀賭博の摘発が続く中で、川崎も同年2月に死去した直木三十五の追善麻雀大会に参加したことを追及され、同年3月に福田蘭童、多賀谷信乃、淵川銀次らとともに一斉検挙された。
河鰭 実英(かわばた さねひで、1891年(明治24年)3月… 河鰭 実英(かわばた さねひで、1891年(明治24年)3月12日 - 1983年(昭和58年)2月23日)は、日本の服飾史学者。日本服飾史が専門。 三条実美の四男として東京に生まれる。河鰭家当主・河鰭公篤の養子となる。養父の死去に伴い、1922年4月29日、子爵を襲爵した。東京帝国大学文学部卒業。大正天皇の侍従。1949年昭和女子大学教授、1969年学長。1960年に日本風俗史学会の設立に参加。1961年「近世に於ける公家服飾の史的研究」で東京教育大学より文学博士の学位を取得。墓所は多磨霊園。