中川 望(なかがわ のぞむ、1875年(明治8年)3月15日… 中川 望(なかがわ のぞむ、1875年(明治8年)3月15日 - 1964年(昭和39年)4月1日)は、日本の内務官僚、政治家。貴族院議員、枢密顧問官、錦鶏間祗候。 宮城県出身。仙台藩士・中川操吉の二男として生まれる。第二高等学校を経て、1901年(明治34年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。内務省に入省し内務属・総務局文書課兼地方局勤務となる。同年11月、文官高等試験に合格。 1903年(明治36年)7月、福島県参事官に就任。以後、兵庫県参事官、内務省参事官・衛生局保健課長、地方局市町村課長、埼玉県内務部長などを歴任。1909年(明治42年)12月から1911年2月まで欧米へ出張した。
三木 天遊(みき てんゆう、1875年〈明治8年〉3月12日… 三木 天遊(みき てんゆう、1875年〈明治8年〉3月12日 - 1923年〈大正12年〉9月1日?)は、日本の詩人。本名は三木 猶松、他の筆名に天友、未奇庵、雪衣、楽天遊などがある。 1875年3月12日、兵庫県赤穂市加里屋に、省六・恒子夫妻の次男として生まれる。 1879年に大阪へ移り、大阪府立北野中学校を経て、1894年に東京専門学校に入学。在学中に『早稲田文学』をはじめとした各新聞・雑誌で詩を発表する。後に病気のために退学。 1897年、浪華青年文学会の客員として、機関誌『よしあし草』に寄稿された詩の選者となる。1900年3月、須藤南翠、水谷不倒、菊池幽芳などと関西文学同好会を結成する。
井島 義雄(いじま よしお、1875年(明治8年)3月10日… 井島 義雄(いじま よしお、1875年(明治8年)3月10日 - 1920年(大正9年)6月27日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。弁護士。 熊本県熊本市出身。1903年(明治36年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業した。弁護士を開業し、熊本市会議員、熊本県会議員に選出された。 1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その他に肥後酒精株式会社監査役を務めた。
森本 慶三(もりもと けいぞう、1875年(明治8年)3月1… 森本 慶三(もりもと けいぞう、1875年(明治8年)3月10日 - 1964年(昭和39年)12月5日)は日本のキリスト教徒、学者。 樽井藤吉と森本ふさの三男として生まれ、キリスト教について学び、後に津山基督教図書館(現・森本慶三記念館)を設立した。その他にも、学者の一面があり、現在、森本慶三記念館に慶三の遺物が展示されている。 津山一の素封家であった樽井藤吉の三男として岡山県伏見町に生まれる。京都府立洛北高等学校・附属中学校を卒業した後、兄の後を継いで家業の呉服商「錦屋」を営んだ。しかし商売は上手くいかなったため、子供の頃から生きる事に悩んでいたとされている。キリスト教徒である内村鑑三に救われ、自らもキリスト教に入信し、1900年に上京して内村に師事した。
天野 健太郎(あまの けんたろう、1875年(明治8年)3月… 天野 健太郎(あまの けんたろう、1875年(明治8年)3月9日 - 1937年〈昭和12年〉6月17日)は、日本の商人(呉服商)、政治家。広島県呉市長。廣島銀行、呉銀行各取締役。広島合同貯蓄銀行常務取締役。族籍は広島県平民。 広島県安芸郡和庄村(のち和庄町、現・呉市)出身。広島県平民・天野健左衛門の長男。生家は代々農業を営む。1897年、呉服商店を開始する。1898年、家督を相続する。23歳の壮齢に早くも和庄町助役となり、2年余在職する。1902年、市会議員に当選し、翌年市助役に就任。 1908年、市参事会員となる。1909年、推されて廣島銀行取締役呉支店長に任ぜられる。1911年、市会議長となる。
植田 謙吉(うえだ けんきち、1875年〈明治8年〉3月8日… 植田 謙吉(うえだ けんきち、1875年〈明治8年〉3月8日 - 1962年〈昭和37年〉9月11日)は、日本の陸軍軍人。陸士10期、陸大21期。陸軍大将正三位勲一等功三級。 大阪府南河内郡狭山村(現:大阪狭山市)出身。陸軍軍吏、植田謙八の二男として生れる。北野中学校、東京高等商業学校(現:一橋大学)を経て、1898年(明治31年)11月、陸軍士官学校(10期)を卒業し、翌年6月、騎兵少尉任官。陸士生徒隊附、騎兵監部員などを経て、1909年(明治42年)12月、陸軍大学校(21期)を卒業。第18師団参謀、第16師団参謀、陸軍省軍務局課員、参謀本部附(欧州出張)などを歴任。シベリア出兵に際しては、浦塩派遣軍参謀として出征した。
皆川 治廣(みながわ はるひろ、1875年(明治8年)3月7… 皆川 治廣(みながわ はるひろ、1875年(明治8年)3月7日 - 1958年(昭和33年)3月7日)は、司法官僚、検事、判事。 愛媛県松山市出身。旧制第一高等学校を経て、1903年(明治36年)に東京帝国大学法科大学を卒業し、司法官試補として大阪地方裁判所に勤務した。翌年、日露戦争が勃発すると第四軍司令部附国際法顧問として従軍した。 1906年(明治39年)、大阪地方裁判所予備検事となり、小倉区裁判所検事、東京地方裁判所検事を歴任した。1910年(明治43年)、ブリュッセルで開催された万国刑法会議に出席した後、フランス・ドイツ・スイスに留学した。1913年(大正2年)に帰国後、司法書記官・大臣官房職員課長に任命され、法律取調委員会幹事も務めた。
清水 六和(きよみず ろくわ、1875年〈明治8年〉3月6日… 清水 六和(きよみず ろくわ、1875年〈明治8年〉3月6日 - 1959年〈昭和34年〉8月1日)は近代日本の陶芸家。5代目清水六兵衛。日本芸術院会員。 京都府京都市東山区五条坂八幡前に、4代目六兵衛の子として生まれる 。母はキタ 。次男であったが長男が夭逝したため実質的に長男として育つ 。祖父・3代六兵衛の幼名を受け継ぎ栗太郎を称した。1887年、日本画家の幸野楳嶺に師事し、さらに京都府立画学校に学ぶ。1895年に楳嶺が没した後は、谷口香嶠に指導を受けた。 陶法は父に師事。1895年の第4回内国勧業博覧会に花瓶を出品したのが自身初の陶芸作品出品となる。1896年、京都市立陶磁器試験場が設立されると同所で科学的釉薬、製陶法を研究する。
川名 兼四郎(かわな かねしろう、1875年3月5日 - 1… 川名 兼四郎(かわな かねしろう、1875年3月5日 - 1914年11月7日)は、日本の法学者。専門は民法。梅謙次郎に師事。弟子に末弘厳太郎、岩田新など。 千葉県出身。東京帝国大学卒業後、1900年に東京帝国大学助教授となる。1903年から1906年までドイツに留学して民法を研究し、帰国翌年の1907年に教授となった。1911年刊行の『法律大辞書』(復刻版 ISBN 4820529935) の主要執筆者一覧にも「東京帝国大学法科大学教授」として名を連ねる。末弘厳太郎の指導教官。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
野村 益三(のむら ますぞう、1875年(明治8年)3月5日… 野村 益三(のむら ますぞう、1875年(明治8年)3月5日 - 1959年(昭和34年)12月25日)は、明治から昭和期の教員、政治家、華族。貴族院子爵議員。 外務省出仕・野村靖の長男として生まれる。父の死去に伴い、1909年(明治42年)2月19日に子爵を襲爵した。 東京帝国大学農学部を修了し、1910年(明治43年)ドイツ帝国に留学した。 1905年(明治38年)和歌山県立粉河中学校教諭に就任。以後、愛知県立第五中学校教諭、愛知県立第五中学校教諭、神奈川県立第四中学校教諭などを歴任。その他、教科書調査会副会長、帝国水産会長、南洋水産協会長、産業組合中央金庫評議員、大日本育英会評議員、帝国教育会評議員会議長、大日本農会理事、東京農業大学理事、国語審議会委員、教育評議会委員、文政審議会委員、物価審議会委員、農林計画委員会委員などを務めた。
東園 基光(ひがしぞの もとみつ、1875年(明治8年)3月… 東園 基光(ひがしぞの もとみつ、1875年(明治8年)3月4日 - 1934年(昭和9年)2月26日)は、明治から昭和初期の内務・警察官僚、政治家、華族。官選富山県知事、貴族院子爵議員。 東京府出身。侍従・宮中顧問官・子爵、東園基愛の長男として生まれる。学習院高等学科を経て、1903年(明治36年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し大学院に進む。同年、文部省に入省し普通学務局属となる。1904年(明治37年)11月、文官高等試験行政科試験に合格した。 1905年(明治38年)内務省に転じ内務属となる。以後、岡山県事務官、静岡県事務官・第二部長、滋賀県事務官・警察部長、愛知県事務官・警察部長、茨城県内務部長、東京府内務部長などを歴任。
八波 則吉(やつなみ のりきち、1875年3月1日 - 19… 八波 則吉(やつなみ のりきち、1875年3月1日 - 1953年12月7日)は、日本の日本文学研究者、国語教育学者、作詞家。旧制第四高等学校教授、旧制第五高等学校名誉教授。
中村 勝麻呂(なかむら かつまろ、1875年〈明治8年〉3月… 中村 勝麻呂(なかむら かつまろ、1875年〈明治8年〉3月 - 1944年〈昭和19年〉3月23日)は、日本の歴史学者、教育者。史料編纂官および立教大学文学部教授を務め、幕末から維新期の古文書の編纂を行った。 1875年(明治8年)3月、滋賀県で中村平太の長男として生まれる。叔父には、彦根藩儒学者の中村不能齊(中村不能斎)がおり、養子の関係から勝麻呂は不能斎の孫となる。 1901年(明治34年)、東京帝国大学文科大学史学科を卒業し、同大学院に入り幕末外交史を専攻する。 1908年(明治41年)、東京帝国大学の史料編纂掛(後の史料編纂所)に務める史料編纂官に任ぜられ、1935年(昭和10年)まで勤務する。
大谷 登(おおたに のぼる、 1874年3月26日 - 19… 大谷 登(おおたに のぼる、 1874年3月26日 - 1955年7月31日)は、日本の海事実業家。日本郵船第7代代表取締役社長、船舶運営会初代総裁。 福井県出身。東京高等商業学校(現一橋大学)卒業後日本郵船に入る。カルカッタ支店長、ニューヨーク支店長、ロンドン支店長、副社長等を経て、1935年(昭和10年)から代表取締役社長。日本航空輸送会長兼務を経て、1938年(昭和13年)大日本航空初代会長兼務。この間、1937年(昭和12年)日本通運発足時には理事に就任した。1942年(昭和17年)船舶運営会初代総裁に就任。太平洋戦争中の戦時体制下で海運統制を行った。このほか南洋拓殖参与理事、海運協会理事長、如水会理事等も務めた。
前田 政八(まえだ まさはち、1874年〈明治7年〉3月25… 前田 政八(まえだ まさはち、1874年〈明治7年〉3月25日 - 1965年〈昭和40年〉1月21日)は、日本の実業家、政治家。立憲民政党(のち立憲政友会)衆議院議員、佐賀県藤津郡塩田町(現・嬉野市)長。 佐賀県藤津郡塩田村で生まれる。代々武士の家系で、先祖には塩田津出身で治水の神様と評される前田伸右衛門がいる。1898年3月、東京の工手学校土木科を卒業し、さらに達英舎で英学を修める。 1900年5月、北海道庁技手に任じられ室蘭支庁に勤務。その後、道庁属・札幌支庁第二課長に転じ、1908年に退職。その後、札幌区外五郡産牛馬組合副組長、前田一歩園管理人を経て、前田倉庫、材木商を経営。釧路木材商組合長、北海道会議員、釧路区会議員、釧路市会議員、同議長、釧路商業会議所議員、賓江木材倉庫社長(満州国哈爾賓市)などを務めた。
両國 梶之助(りょうごく かじのすけ、1874年3月25日 … 両國 梶之助(りょうごく かじのすけ、1874年3月25日 - 1949年1月11日)は、長崎県北高来郡(現:長崎県諫早市)出身の元大相撲力士。本名は古川 九八(ふるかわ きゅうはち)。 1874年(明治7年)3月25日に長崎県北高来郡(現・諫早市)で農家を営む家に生まれる。家業に従事しながら土地相撲では「若木野」という四股名で活躍したが、顔役の楠という人物に才能を見出されて不知火部屋(大坂相撲)へ連れて行かれた。しかし、ここでは入門を快諾してもらえなかったことから時津風部屋(大坂相撲)へ入門したが、入門後は順調に出世したことで不知火に懇望され、不知火部屋に転属した。四股名は本名から取った「九(いちじく)」で、後に「一軸(読みは同じ)」、「國岩」と改めて活躍した。
森垣 亀一郎(もりがき きいちろう、1874年(明治7年)3… 森垣 亀一郎(もりがき きいちろう、1874年(明治7年)3月22日 - 1934年(昭和9年)1月23日)は、兵庫県出身の日本の土木技術者。大阪築港工事に8年間従事し、鉄桟橋、神戸築港、防波堤の工事にあたった。 但馬国豊岡(現・兵庫県豊岡市)に生まれる。新治郎とちくの次男。5歳で父を亡くす。明治13年に豊岡小学校に入学。学業が優秀だったことから、地元の資産家の援助により東京府尋常中学校に入学する。さらに第一高等中学校に進むが、資産家が事業に失敗したことで、苦学を余儀なくされた。その状況でも帝国大学工科大学土木工学科に進学し、1898年(明治31年)に卒業した。この間の学費は、出身小学校長の弟だった土木技師の沖野忠雄から援助された。
南沢 宇忠治(みなみざわ うちゅうじ、明治7年(1874年)… 南沢 宇忠治(みなみざわ うちゅうじ、明治7年(1874年)3月21日 - 昭和7年(1932年)4月6日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 長野県更級郡石川村(現長野市)に旧松代藩士・南沢忠正の長男として生まれる。旧制長野県尋常中学、旧制第一高等中学を経て、明治34年(1901年)東京帝国大学工科大学電気工学科卒業。大倉組に入社したが、同38年(1905年)に日光電力に技師長として招聘され、その後は独立し 東京に八重洲商会を創立し、電気器具の販売の他、東京市電気局や東京電燈等各社の電気工事の請負を手掛けた。また藤田組と協力し、北安曇郡大町に明治水力電気を創立して重役となった。 大正6年(1917年)第13回衆議院議員総選挙に当選し、千曲川の堤防構築による治水問題に取り組んだ。
三浦 銕太郎(みうら てつたろう、1874年3月20日 - … 三浦 銕太郎(みうら てつたろう、1874年3月20日 - 1972年5月8日)は、日本のジャーナリスト、時事評論家。東洋経済新報社代表社員・主幹を務め、帝国主義批判の論客として小日本主義を唱え、石橋湛山・高橋亀吉らを鍛え上げた。旧姓、山下。 地主・山下太左衛門の次男として生まれる。静岡県志太郡相川村(後の大井川町、現・焼津市)出身。 1892年、国民英学会で修学。1893年、東京専門学校(現・早稲田大学)に入学し、天野為之に師事する。東京専門学校卒業後、同校教授の井上辰九郎の書生をしながら立教学校(現・立教大学)、青山学院などで英語を勉強する。 1897年、三浦貞と結婚、この時、三浦家の養子となる予定であったが、すぐには実父の承諾を得られなかった(正式入籍は1906年)。
稲田 龍吉(いなだ りょうきち、1874年(明治7年)3月1… 稲田 龍吉(いなだ りょうきち、1874年(明治7年)3月18日 - 1950年(昭和25年)2月27日)は、愛知県名古屋市出身の細菌学者。九州帝国大学医学部第一内科初代教授、恩賜財団母子愛育会愛育研究所(現・日本総合愛育研究所)初代所長を歴任。東京大学名誉教授、医学者。 洋学校を経て上京し、共立学校などの予備校に在籍した後、第一高等中学校を経て1895年(明治28年)帝国大学医科大学(現 東京大学医学部)に入学、1900年(明治33年)に首席で卒業し、青山胤通教授の内科教室に入局。 1902年(明治35年)から文部省海外留学生としてドイツに公費留学。1905年(明治38年)京都帝国大学福岡医科大学内科学第一講座初代教授に着任(現九州大学医学部第一内科(病態修復内科))。
有馬 彦吉(ありま ひこきち、1874年3月18日 - 19… 有馬 彦吉(ありま ひこきち、1874年3月18日 - 1950年2月25日)は明治時代から昭和初期の実業家。貿易商社有馬洋行の創業者で代表取締役社長。 1874年(明治7年)3月、有馬新之助の二男として鹿児島市に生まれる。12歳で父を失い上京、伯父に引き取られる。 1893年(明治26年)に慶應義塾大学を中退後、近衛騎兵に志願して日清戦争に従軍。1895年(明治28年)に除隊。翌年日本銀行に入行して台湾出張所勤務となり、1898年(明治31年)の台湾銀行創立に伴い日銀から移籍した。1901年(明治34年)から台南支店勤務となり、1902年(明治35年)に有馬洋行を創業。 台湾での製糖業の勃興を予見して製糖機械の販売を始め、数年で100万円(当時)の利益を挙げた。
西川 籐吉(にしかわ とうきち、1874年(明治7年)3月1… 西川 籐吉(にしかわ とうきち、1874年(明治7年)3月17日 - 1909年(明治42年)6月22日)は、日本の真円真珠養殖の研究者、真円真珠発明者。大阪府桃谷出身。 見瀬辰平とともに真円真珠を発明した研究者として知られている。西川式・ピース式と呼ばれ、現在の真珠養殖の技術の基礎となっている。東京帝国大学で水産動物学を専攻し1897年(明治30年)に卒業した後、農商務省水産局技師として、箕作佳吉・飯島魁両博士の指導の下、真円真珠養殖およびアワビの人工授精の研究に従事した。御木本研究所で本格的な真珠の研究にはいり、真円真珠形成の原理を解明した。 1903年(明治36年)、御木本幸吉の次女を嫁に貰う。
大石 和三郎(おおいし わさぶろう、1874年〈明治7年〉3… 大石 和三郎(おおいし わさぶろう、1874年〈明治7年〉3月15日 - 1950年〈昭和25年〉12月18日)は、日本の気象学者。ジェット気流の発見者として有名。エスペランティストである。 1874年、佐賀県鳥栖市生まれ。第一高等中学校予科尋常中学科、第一高等学校第二部学科を経て、1898年(明治31年)東京帝国大学理科大学物理学科を卒業。さらに大学院で学んだ。1899年(明治32年)中央気象台に入り、地磁気、空中電気の観測を担当する。1911年(明治44年)ドイツのリンデンベルク高層気象台及びポツダム気象台に留学した。帰国後の1920年(大正9年)に高層気象台の初代台長に就任した。 1926年に刊行された「高層気象台報告第1号」で、大石は測風気球による高層気流の観測結果をエスペラントで世界に公表した(同年に「高層気象台彙報」にて日本語で報告している)。
立 作太郎(たち さくたろう、1874年(明治7年)3月15… 立 作太郎(たち さくたろう、1874年(明治7年)3月15日 - 1943年(昭和18年)5月13日)は、日本の法学者(国際法)。東京帝国大学教授。 東京で旧幕臣・立嘉度(よしのり)の息子として生まれ、伯父・立嘉一(広作、外務省文書権正・大蔵省大丞)の養子となる。慶應義塾幼稚舎、共立学校、第一高等学校を経て、1897年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年10月、大学院に進み国際公法を専攻。1900年6月、外交史研究のためヨーロッパに留学。1901年3月、東京帝国大学法科大学助教授に発令され、1904年3月に帰国した。 1904年4月、東京帝国大学法科大学教授に就任し、外交史の講座を担当。
伊達 源一郎(だて げんいちろう、1874年(明治7年)3月… 伊達 源一郎(だて げんいちろう、1874年(明治7年)3月15日 - 1961年(昭和36年)7月15日)は、日本の政治家。緑風会参議院議員(1期)。読売新聞主筆。鳥類研究家。号・樸堂。 島根県出身。1899年同志社大学政治学部卒。1901年国民新聞に入り、編集局長、国際通信社ニュース部長、読売新聞主筆、ジャパンタイムス、島根新聞の各社の社長などを経て、1947年の第1回参議院議員通常選挙において島根地方区から無所属で立候補して当選する。国会内では内閣委員長を務めた。1953年の第3回参議院議員通常選挙には立候補しなかった。1961年死去。
大内 暢三(おおうち ちょうぞう、1874年(明治7年)3月… 大内 暢三(おおうち ちょうぞう、1874年(明治7年)3月15日 - 1944年(昭和19年)12月31日)は、衆議院議員(憲政本党→立憲国民党→革新倶楽部→立憲政友会)、東亜同文書院院長・同大学学長。 福岡県八女郡白木村(現在の八女市)に、大内精一郎の長男として生まれる。1890年(明治23年)に東京専門学校(現在の早稲田大学)に入学して政治学を専攻し、1894年(明治27年)からはアメリカ合衆国のコロンビア大学に入学して、政治学と憲法学を学んで法学修士の称号を得た。帰国後、早稲田大学の講師を務めたが、貴族院議員・公爵近衛篤麿の知遇を得、1899年(明治32年)に近衛の欧米歴訪に随行した。また近衛が東亜同文会を創設するのに協力した。
酒井 勝軍(さかい かつとき/かついさ、1874年〈明治7年… 酒井 勝軍(さかい かつとき/かついさ、1874年〈明治7年〉3月15日 - 1940年〈昭和15年〉7月6日)は独自のキリスト教伝道者、日ユ同祖論者、オカルティスト、「日本のピラミッド」発見者である。 酒井には勲五等が贈られている。 オカルト雑誌「ムー」創刊にも参画し、1980年代の「オカルトブーム」に大きな役割を果たした武田崇元は、酒井の著作に大きな影響を受け、彼の発行していた『神秘之日本』を復刻している。 オウム真理教の麻原彰晃も酒井勝軍の著作や竹内文書の影響を受けており、麻原は雑誌「ムー」1985年(昭和60年)11月号において、教徒石井久子を伴い、酒井縁の岩手県の五葉山にまで旅して、酒井の著作の中に登場している霊石「ヒヒイロカネ」を、生前の酒井と面識のあったという老人より譲り受けたと記述している。
犬塚 信太郎(いぬづか のぶたろう、1874年(明治7年)3… 犬塚 信太郎(いぬづか のぶたろう、1874年(明治7年)3月14日 - 1919年(大正8年)12月10日)は、日本の実業家。孫文の支援者で、南満州鉄道理事などを務めた。立山水力電気設立者。 原籍は佐賀県だが、東京で有馬小学校を卒業後、中学校には進まず、1890年に高等商業学校(現・一橋大学)本科卒業後、17歳で三井物産に入社した。 三井物産では門司支店から始め、ロンドン等で勤務し、シンガポール支店長代理や、香港支店長等を経て、門司支店長を務めた。ロンドンや東京では悪友各務鎌吉らと女遊びに興じたという。 1906年に南満洲鉄道が設立されると、同社理事に就任。三井物産門司支店次席を務めていた部下の相生由太郎も同社に招聘した。
渡辺 世祐(わたなべ よすけ、1874年3月13日 - 19… 渡辺 世祐(わたなべ よすけ、1874年3月13日 - 1957年4月28日)は、日本史学者。明治大学、國學院大學各教授。学位は、文学博士(1919年)。山口県平民。 1874年、山口県吉敷郡下宇野令村(現・山口市)生まれ。旧姓は蔵田。山口高校を経て1900年7月、東京帝国大学文科大学国史学科を卒業。熊谷中学校勤務の後、1903年に「関東ヲ中心トシタル足利時代史」の研究のため、東京帝国大学大学院に進学する。 1904年(明治37年)から東京帝国大学史料編纂掛(史料編纂所)に勤務。1905年(明治38年)からは東京帝国大学文科大学講師として室町時代・戦国時代の歴史を講義する。1910年(明治43年)からは國學院大學部でも教鞭を取る。
磯野 長蔵(いその ちょうぞう、旧姓・三島、1874年〈明治… 磯野 長蔵(いその ちょうぞう、旧姓・三島、1874年〈明治7年〉3月12日 - 1967年〈昭和42年〉6月25日)は日本の実業家。明治屋社長、会長を務めたほか、キリンビール設立発起人となり、キリンビール社長や会長を歴任。同社をビール業界トップとした。 鳥取県倉吉市河原町の呉服屋、三島久平・なをの次男として生まれる。勉強がよくでき、1883年、9歳のときに倉吉の戸長を務めた松本家を継ぐため松本仁平の養子となる。 鳥取県尋常中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)の授業料免除優待生を経て上京。高等商業学校予備門(現・日本大学第三中学校・高等学校)で1年間の浪人生活を送り、高等商業学校(現・一橋大学)入学。
梨本宮守正王(なしもとのみや もりまさおう、1874年〈明治… 梨本宮守正王(なしもとのみや もりまさおう、1874年〈明治7年〉3月9日 - 1951年〈昭和26年〉1月1日)、または梨本 守正(なしもと もりまさ)は、日本の旧皇族、陸軍軍人。梨本宮家第3代当主。官位は元帥陸軍大将。栄典は大勲位功四級。明仁上皇の大叔父にあたる。また、娘の方子は、大韓帝国最後の皇太子で日本の王公族だった李王垠に嫁いでいる。 久邇宮朝彦親王の第4王子として1874年に誕生。当初は多田と名付けられたが、梨本宮家相続にあたり、守正と改名した。梨本宮家は初代守脩親王のあと、山階宮家出身の菊麿王が後継者となったが、のちに実家を継ぐことになったため梨本宮家を離れ、代わって守正王が相続したものである。
清 崟太郎(せい きんたろう、1874年〈明治7年〉3月3日… 清 崟太郎(せい きんたろう、1874年〈明治7年〉3月3日 - 1921年〈大正10年〉5月29日)は、衆議院議員(立憲政友会)。 静岡県富士郡柚野村(現在の富士宮市)で酒造業を営む清家の四男として生まれた。1903年(明治36年)に東京専門学校(現在の早稲田大学)を卒業後、中央新聞の記者となった。その後、東京市長尾崎行雄の知遇を得、市長秘書役に抜擢された。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、当選回数は5回を数えた。その他、東京市会議員も務めた。
坂口 拙三(さかぐち せつぞう、1874年(明治7年)3月3… 坂口 拙三(さかぐち せつぞう、1874年(明治7年)3月3日 - 1946年(昭和21年)11月24日)は、明治から昭和前期の農業経営者・地主・実業家・政治家。衆議院議員、岐阜県会議長。 岐阜県方県郡、のちの稲葉郡木田村(現岐阜市)で、豪農・坂口太八郎の長男として生まれる。1888年(明治21年)岐阜高等小学校を卒業し、1889年(明治22年)上京して、慶應義塾正課を卒業し、さらに東京法学院(のち英吉利法律学校、現中央大学)で学んだ。 帰郷して家業の畜産業を継承。北海道、朝鮮で開墾事業を行い、揖斐川電力(現イビデン)取締役、岐阜製氷取締役、京城工業社長、日本鉄煉瓦取締役などを務め、岐阜市でS電機商会を、中華民国山東省青島で雑貨店を経営した。
草野 俊助(くさの しゅんすけ、1874年(明治7年)3月2… 草野 俊助(くさの しゅんすけ、1874年(明治7年)3月2日 - 1962年(昭和37年)5月19日)は、日本の植物学者、病理学者である。東京大学名誉教授。理学博士。 福島県の生まれ。草野孝信の長男。 東京帝国大学(現在の東京大学)卒業後、1925年(大正11年)に母校の同大学教授として活動する。同大学勤務中は教鞭を執る傍ら主に菌類の研究に携わり、1933年(昭和8年)に壺状菌類の生活史に関する研究に携わったことで帝国学士院賞(東宮御成婚記念賞)を受賞し、同院の会員となった。 また帝大に勤務中の1931年(昭和6年)には東京文理科大学(後の東京教育大学、現在の筑波大学)の教授としても活動し、1937年(昭和12年)の定年退官まで両大学教授を兼務する。
白河 鯉洋(しらかわ りよう、1874年(明治7年)3月2日… 白河 鯉洋(しらかわ りよう、1874年(明治7年)3月2日 - 1919年(大正8年)12月25日)は、衆議院議員(立憲国民党)、ジャーナリスト、東洋学者。本名は次郎。 福岡県京都郡豊津村(現在のみやこ町)出身の豊津藩(小倉藩)士で、豊前宇都宮氏の末裔である。 1897年(明治30年)、東京帝国大学文科大学漢学科を卒業。卒業後は神戸新聞、九州日報の主筆を務めた。1903年(明治36年)、清に渡って南京の江南高等学堂の総教習を務めた。帰国後は、早稲田大学講師、関西日報客員を務めた。1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。 墓所は多磨霊園(6-2-6)と日光市浄光寺(田岡嶺雲との連理塚)。
岡野 義三郎(おかの よしさぶろう、1874年(明治7年)3… 岡野 義三郎(おかの よしさぶろう、1874年(明治7年)3月1日 - 1939年(昭和14年)8月27日)は、日本の教育者。 大阪府出身。第三高等学校を経て、1897年(明治30年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。高知県尋常中学校教諭、岐阜県尋常中学校教諭、第六高等学校教授、第八高等学校校長、第二高等学校校長を歴任。1928年(昭和3年)、第六高等学校長に就任した。1935年(昭和10年)に退官した後は、第六高等学校名誉教授の称号を受けた。建築家の岡野寛次(竹中工務店)は弟儀助の養子となった次男である。
遠藤 熊吉(えんどう くまきち、1874年(明治7年)3月1… 遠藤 熊吉(えんどう くまきち、1874年(明治7年)3月1日 - 1952年(昭和27年)8月31日)は、日本の教育家である。 秋田県雄勝郡西成瀬村(現在の横手市)に所在する安養寺に生まれる。後の増田町立西成瀬小学校(現在は閉校)の前身である荻袋安養寺小学校に入学し、卒業後の1893年(明治26年)に上京し大八洲学校および国語伝習所に入学し標準語を学んだ。1895年(明治28年)に再度秋田に戻り、駒形尋常小学校(後の湯沢市立駒形小学校、現在は閉校)に准訓導として教鞭を執る。 翌1896年(明治29年)には母校である西成瀬小学校に教師として同学校に戻り、同学校にて方言教育を指導せず専ら標準語教育の指導および話し言葉の指導に携わった。
川井 源八(かわい げんぱち、1874年〈明治7年〉3月 -… 川井 源八(かわい げんぱち、1874年〈明治7年〉3月 - 1945年〈昭和20年〉6月22日)は、日本の実業家。第2代三菱電機会長。 福島県耶麻郡、のちの翁島村(現猪苗代町)出身。若松中学校(現福島県立会津高等学校)を経て、1894年高等商業学校(現一橋大学)卒業。東京倉庫神戸支店副支配人、東京倉庫大阪支店支配人等を経て、1920年三菱電機代表取締役。1931年から三菱電機常務取締役として退任した武田秀雄前会長に取り替わり社業を統括した。1935年三菱電機取締役会長。三菱電機において消費者向けの家庭用電化製品事業の創設を進め、扇風機、モーターなどの生産の発案や、ショールームの設立などを行った。
坂本 健一(さかもと けんいち、1874年3月 - 1930… 坂本 健一(さかもと けんいち、1874年3月 - 1930年?月)は、日本の歴史家、著述家。号は蠡舟(れいしゅう・いしゅう)。坂本 健名義の著書もあるらしい。 兵庫県淡路島平民出身。1895年7月3日に旧制第四高等学校大学予科第一部を卒業、1898年7月10日に東京帝国大学文学部史学科を卒業。1900年北京京師大学堂(現・北京大学)の招聘を受け、7年間の出向を経て著述業に従事。 大正期には「コーラン経」(1920年、セイルらのクルアーン英訳本からの重訳)や「ムハメッド伝」(1923年)を著した。 以下は北京京師大学堂での同僚。
斎藤 春子(さいとう はるこ、1873年〈明治6年〉3月30… 斎藤 春子(さいとう はるこ、1873年〈明治6年〉3月30日 - 1971年〈昭和46年〉9月14日)は、日本の華族。第30代内閣総理大臣夫人。斎藤実子爵夫人。 東京出身。1873年〈明治6年)3月30日、薩摩藩士で海軍の重鎮であった仁礼景範の長女として生まれる。兄の仁礼景一は日露戦争で初瀬分隊長として戦死、弟の仁礼景雄は昆虫学者。1884年(明治17年)に明倫女学校(現在の横浜清風高等学校)を卒業。その後、東洋英和女学校に進学したが中退。 1892年(明治25年)2月5日に斎藤実と結婚。斎藤実との間には子供はなく、斎藤斉を養子に迎えている。 1932年(昭和7年)5月、斎藤実の内閣総理大臣就任により、内閣総理大臣夫人となる。
西 晋一郎(にし しんいちろう、1873年(明治6年)3月2… 西 晋一郎(にし しんいちろう、1873年(明治6年)3月29日 - 1943年(昭和18年)11月13日)は、日本の倫理哲学者。学位は、文学博士。京都帝国大学の西田幾多郎博士とともに“両西”と呼ばれ、倫理哲学界の重鎮であった。 1873年、鳥取県鳥取市で西昇蔵の長男として生まれた。山口高校を経て東京帝国大学に入り、1899年(明治32年)に同大学哲学科を卒業した。 1902年、広島高等師範学校が設立されると同校教授に就任。同校が1929年に文理科大学に改組されたのちも引き続きその教授をつとめた[疑問ありーノート参照]。1937年に満州国の首都・新京に建国大学を設立することが満洲国国務院の会議で決定するが、設立にあたっては創立委員を務めた。
田守 三郎兵衛(たもり さぶろうべえ、前名・龜三郎、1873… 田守 三郎兵衛(たもり さぶろうべえ、前名・龜三郎、1873年(明治6年)3月28日 - 没年不明)は、日本の銀行家。富田林銀行取締役。族籍は大阪府平民。 大阪府人・田守三郎平の長男。1917年、家督を相続し、前名・龜三郎を改める。河内紡績、富田林銀行各取締役をつとめる。住所は大阪府南河内郡富田林町(現富田林市)。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
秦 佐八郎(はた さはちろう、1873年(明治6年)3月23… 秦 佐八郎(はた さはちろう、1873年(明治6年)3月23日 - 1938年(昭和13年)11月22日)は、日本の医師、細菌学者。医学博士(東京帝国大学医科大学)。 数百年に渡り、不治の病の筆頭として人類を苦しめて来た梅毒の、史上初の治療薬となったサルバルサン(砒素化合物製剤606号)を、ドイツのパウル・エールリヒ(エールリヒは、秦との共同研究以前の業績で1908年ノーベル生理学・医学賞を受賞していた)と共に開発し、多くの患者を救ったことで知られる。 秦は、1911年にノーベル化学賞と1912年・1913年にノーベル生理学・医学賞の候補に挙がっていたものの、受賞を逸した。島根県美濃郡都茂村(現:益田市)出身。
安芸 晋(あき すすむ、旧字体: 安藝 晉、1873年〈明治… 安芸 晋(あき すすむ、旧字体: 安藝 晉、1873年〈明治6年〉3月18日 - 1947年〈昭和22年〉12月15日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級。 徳島県名東郡徳島出来島町(現徳島市)の水野静宜の二男として生まれる。1878年(明治11年)、先代の安芸弘栄の養子となり、1910年(明治43年)に家督を相続する。1896年(明治29年)、陸軍士官学校第7期卒業。のち1902年(明治35年)11月に陸軍大学校第16期卒業。 参謀本部部員、関東都督府陸軍参謀、歩兵第14連隊附、同大隊長、第17師団参謀、歩兵第66連隊附、朝鮮駐箚軍参謀。1916年(大正5年)11月に陸軍歩兵大佐・京都連隊区司令官。
白滝 幾之助(しらたき いくのすけ、1873年〈明治6年〉3… 白滝 幾之助(しらたき いくのすけ、1873年〈明治6年〉3月17日 - 1960年〈昭和35年〉11月25日)は、兵庫県出身の日本の洋画家。作風は写実的作品を発表し続けた。 1873年(明治6年)3月17日、但馬国豊岡県朝来郡(現・兵庫県朝来市)生野奥銀谷町に生まれる。幼少時に父を亡くし、女手一つで育てられた。 1890年(明治23年)、17歳時に鉱山技師を目指して上京、築地の工手学校に入学。1894年(明治27年)、第4回内国勧業博覧会にて「待ち遠し」が入選。褒状を受け有栖川官家に買い上げ。1896年(明治29年)、下宿先で同居していた同郷の和田三造に誘われて山本芳翠の生巧館画塾に入る。後に生巧館画塾が黒田清輝に譲られ、天心道場となった後、黒田清輝に師事。
丹下 梅子(たんげ うめこ、1873年3月17日 - 195… 丹下 梅子(たんげ うめこ、1873年3月17日 - 1955年1月29日)は、日本の栄養学者、食品化学者。東京帝国大学農学博士。辻村みちよに次いで日本人女性として2人目の女性農学博士である。女性初の帝国大学(東北帝国大学理科大学)に入学・卒業した3名のうちの一人。丹下ウメ子、丹下ウメの表記を採る資料もある。 1873年(明治6年)に鹿児島県鹿児島府下金生町ほか十四町(現在の山形屋鹿児島本店付近)の商家、戸高丹下伊左衛門と丹下エダの三女として生まれる。幼年時にままごとの竹箸を持ちながら走っていたときに転倒して竹箸が右眼に刺さり、失明する。 鹿児島県立女子師範学校(現在の鹿児島大学教育学部)を卒業後、当時の女子師範附属尋常小学校(現在の鹿児島市立名山小学校)の教師になる。
気賀 勘重(きが かんじゅう / けが かんじゅう、1873… 気賀 勘重(きが かんじゅう / けが かんじゅう、1873年〔明治6年〕3月15日 - 1944年〔昭和19年〕11月11日)は、日本の経済学者(専攻は農業経済学・農政学)・政治家。法学博士、慶應義塾大学経済学部長・学事顧問、衆議院議員。静岡県出身。 静岡県浜名郡都盛村(現・浜松市中央区)の農家・三輪家に生まれる。西遠銀行頭取・気賀敬太郎の婿養子となる。19歳まで農業に従事したのち東上して、1895年(明治28年)に慶應義塾大学部文学科を卒業し、翌年普通部教員、1898年(明治31年)に理財科教務主任となる。1899年(明治32年)に慶應義塾が行ったドイツ留学派遣の第1期留学生として選抜され、ゲッティンゲン大学、ライプツィヒ大学、ベルリン大学で、経済学者カール・ビュヒャー (Karl Bücher) および財政学者のグスタフ・コーンらに師事し、論文 Das Bankwesen Japans(「日本の銀行制度」)にて博士学位を取得し、1903年(明治36年)に帰国した。
山本 平三郎(やまもと へいざぶろう、1873年〈明治6年〉… 山本 平三郎(やまもと へいざぶろう、1873年〈明治6年〉3月15日 - 1931年〈昭和6年〉1月31日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 京都府桑田郡、のちの南桑田郡曽我部村(現亀岡市)出身。鉄工業、建築請負業、海運業を営み、神戸市会議員となる。兵庫県土木建築請負業組合長、神戸市土木建築請負業組合相談役、神戸商工会議所議員兼常任議員、桜麦酒(株)監査役、相良銀行、相良運輸(株)取締役を務めた。 1930年の第17回衆議院議員総選挙において兵庫2区(当時)から立憲民政党公認で当選、1期務める。当選した翌1931年1月に死去した。
小原 新三(おはら しんぞう、1873年(明治6年)3月13… 小原 新三(おはら しんぞう、1873年(明治6年)3月13日 - 1953年(昭和28年)6月27日)は、日本の内務・朝鮮総督府官僚。官選県知事、錦鶏間祗候。俳号・烏兎(うと)。 東京府出身。新潟県庶務課長を務めた小原実の長男として生まれる。第一高等学校を卒業。1897年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年12月、文官高等試験行政科試験に合格。貴族院事務局に入局した。 1898年、貴族院事務局書記官兼内務省参事官に就任。以後、青森県事務官、奈良県内務部長を歴任。1910年10月、朝鮮総督府に転じ内務部地方局長に就任。さらに、忠清南道長官を経て、1916年10月、総督府農商工部長官となる。
柴崎 雪次郎(しばさき ゆきじろう、1873年(明治6年)3… 柴崎 雪次郎(しばさき ゆきじろう、1873年(明治6年)3月13日 - 1929年(昭和4年)8月10日)は、日本の教育者、新潟市長。 埼玉県比企郡東吉見村(現在の吉見町)出身。1894年(明治27年)、東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業。高田商会勤務の後、1897年(明治30年)に京都府商業学校教諭となり、新潟市立商業学校教諭、1899年(明治32年)同校長を歴任した。1901年(明治34年)より海上運送学研究のため、イギリス・フランス・ベルギーに留学。1905年(明治38年)に帰国し、神戸高等商業学校(現神戸大学)教授を務めた。1909年(明治42年)、長崎高等商業学校(現長崎大学)校長に転じ、1913年(大正2年)まで務めた。