村上 正雄(むらかみ まさお、1898年4月5日 - 194… 村上 正雄(むらかみ まさお、1898年4月5日 - 1943年1月23日)は、日本の新聞記者。東京都千代田区永田町出身。父・萬助(宮内省-内匠寮<たくみ寮>勤務、建築設計士)、母・せき、5人兄弟の長男。家族は、配偶者・志久、長女・眞呂、次女・しま 慶応義塾大学理財科卒業。大正15年、フランス留学ソルボンヌ大学にてフランス民族史専攻。 昭和4年6月、読売新聞社入社。昭和13年、婦人部部長。昭和16年4月、読売新聞経営の静岡新報社取締役兼編集局長。12月、静岡新聞社専務取締役兼編集総務就任。 昭和17年9月、読売新聞本社復帰、部長待遇。昭和18年1月、副理事(読売新聞本社在勤13年8ヶ月)。 インドネシアのセラム新聞社長として赴任する折、昭和18年1月23日夜、敵潜水艦の攻撃を受け、スラウェシ州南岸サラヤル水道東方12km付近にて沈没、戦死。
小野 光洋(おの こうよう、1898年4月4日 - 1965… 小野 光洋(おの こうよう、1898年4月4日 - 1965年11月19日)は、日蓮宗僧侶、参議院議員(1期)。文教大学創立者。 山梨県東八代郡富士見村(現・笛吹市)東油の妙油寺住職小野日祥の息子として生まれる。幼名はみのる。 1918年、旧制甲府中学卒業後、日蓮宗大学補習科入学、また同時期に得度。1924年、日蓮宗大学本科を卒業後、翌年、同大学が立正大学となったため再度文学部哲学科に入学。1927年、馬田行啓と共に立正学園を設立。戦後1946年には同学園理事長に就任するほか、学園の各種学校の校長にもなった。1953年には新設された立正学園女子短期大学の学長に就任。また1947年には日本私立中学高等学校連合会理事長にもなった。
高島 巌(たかしま いわお、1898年4月4日 - 1976… 高島 巌(たかしま いわお、1898年4月4日 - 1976年5月8日)は、日本の社会事業家。兵庫県出身。 牧師の子として生まれる。東京聖書学院、東京学院高等学部(現・関東学院大学)を卒業後、1924年(大正13年)中央社会事業協会に入社。主事、参事になる。1937年(昭和12年)の母子保護法制定にも助力した。1939年(昭和14年)、児童擁護協会常務理事に就任。 獅子文六の小説「太陽先生」のモデルともなった。 またボランティア精神の基本を説いた人物でもあり、次の言葉が知られる。 しあわせなものが、ふしあわせなものにではない もてるものも、もたないものも、しあわせなものも、ふしあわせなものも、 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
岩田 義道(いわた よしみち、1898年(明治31年)4月1… 岩田 義道(いわた よしみち、1898年(明治31年)4月1日 - 1932年(昭和7年)11月3日)は、日本の労働運動家、社会運動家、政治活動家。戦前期の非合法政党時代の日本共産党幹部であった。愛知県葉栗郡北方村(現・一宮市)出身。 松山高等学校を卒業。京都帝国大学経済学部に入学し、河上肇に師事する。だが在学中に京都学連事件に連座して逮捕され、禁錮10か月の判決を受けたため中退した。産業労働調査所で活動し、1927年(昭和2年)には日本共産党(第二次共産党)に入党する。「非常時共産党」時代には党中央委員に選出され、宣伝煽動部(アジプロ)、農民部で部長を務めたほか、活版印刷による『赤旗』の発行を指導した。
岸本 義広(きしもと よしひろ、1897年〈明治30年〉4月… 岸本 義広(きしもと よしひろ、1897年〈明治30年〉4月30日 - 1965年〈昭和40年〉9月10日)は、日本の検察官、政治家。衆議院議員(1期)。 大阪府岸和田市生まれ。大阪府立岸和田中学校、第三高等学校を経て、1923年に東京帝国大学を卒業し、同年に検事となる。1945年に東京地検の検事正、1946年に札幌高等検察庁検事長となる。広島高等検察庁検事長を経て、1951年に大橋武夫法務総裁の強い要望で次長検事として中央に復帰(その過程で木内騒動が発生した)。1955年に法務事務次官、1957年に東京高等検察庁検事長となる。在任中の売春汚職事件で、読売新聞によって「売春汚職のため収賄容疑で召喚必至」と報じられた宇都宮徳馬が同紙記者を名誉毀損罪で告訴したため、これを逮捕。
川合 勇太郎(かわい ゆうたろう、1897年〈明治30年〉4… 川合 勇太郎(かわい ゆうたろう、1897年〈明治30年〉4月28日 - 1980年〈昭和55年〉10月30日)は、日本の民俗学者、民話・口承文芸研究家、口演童話家、地方史家、温泉史研究家、ジャーナリスト。青森県東津軽郡青森町(現・青森市)生まれ。20代で蘆谷蘆村に師事し、童話文学を学ぶ。1927年、子どもたちに民話・童話を語り聞かせる八戸童話会を仲間たちとともに結成。のちに同会の理事長も務めた。また十和田市(当時の三本木町、藤坂村)の郷土史も執筆した。青森県に伝わる民話や伝説を研究し、1939年には「民間伝承の会」(後の日本民俗学会)に入会。ジャーナリストとしては、三本木の日刊紙『南部日報』(1927年創刊)の編集長、『東奥日報』三本木支局長などを務めた。
橋本 凝胤(はしもと ぎょういん、1897年4月28日 - … 橋本 凝胤(はしもと ぎょういん、1897年4月28日 - 1978年3月25日)は、法相宗の僧侶で仏教学者。奈良・薬師寺元管主、法相宗管長。「20世紀最後の怪僧」「昭和の怪僧」の異名を持つ。 奈良県生駒郡平群村(現在の平群町)に生まれる。本名は東丈太郎。法隆寺の佐伯定胤に唯識を学び、その意向で後継者のいなかった薬師寺に入る。生涯肉食妻帯せず、厳格な仏教僧として活躍する。有名な尼僧が訪ねてきても絶対に寺に入れさせず、その手土産にも口をつけなかった。 あるとき弟子の高田好胤がよその家に呼ばれて、レコードで浪曲の「清水港は鬼より怖い、大政・小政の声がする」というくだりを耳にして、薬師寺にはもっと怖い鬼(橋本凝胤)がいると思ったという。
東郷 青児(とうごう せいじ、1897年(明治30年)4月2… 東郷 青児(とうごう せいじ、1897年(明治30年)4月28日 - 1978年(昭和53年)4月25日)は日本の洋画家。本名は東郷 鉄春。夢見るような甘い女性像が人気を博し、本や雑誌、包装紙などに多数使われ、昭和の美人画家として戦後一世を風靡した。派手なパフォーマンスで二科展の宣伝に尽力し、「二科会のドン」と呼ばれた。 1916年 パラソルさせる女 第1回昭和洋画奨励賞 1928年 日本芸術院賞 1957年 日活映画『誘惑』
藤田 耕二(ふじた こうじ、1897年 <明治30年> 4月… 藤田 耕二(ふじた こうじ、1897年 <明治30年> 4月27日 - 1970年 <昭和45年> 5月10日)は、日本の経営者。第四銀行頭取を務めた。位階は従五位。 新潟県出身。1921年に慶應義塾理財科を卒業し、1924年に第四銀行に入行。1941年1月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1953年5月には頭取に就任。 1960年5月に紺綬褒章を受章し、1967年4月に勲四等旭日小綬章を受章。 1970年5月10日心筋梗塞のために死去。73歳没。死没日付をもって従七位から従五位に進階した。
山極 一三(やまぎわ かずみ、1897年(明治30年)4月2… 山極 一三(やまぎわ かずみ、1897年(明治30年)4月26日- 1968年(昭和43年)5月19日)は、日本の医学者、生理学者、脳波研究者。医学博士。 日本人初の脳波研究者である。ただし帰国後は脳波研究からは手を引く。興奮伝導に関する理論研究に専念した。 東京高等歯科医学校(後の東京医科歯科大学)教授を務めた。 長野県小県郡西塩田村で出生、2,3才の頃東京に移る。大正4年に東京府立第三中学校を卒業、大正8年に第一高等学校を卒業、大正13年に東京帝国大学医学部医学科を卒業。昭和6年12月から橋田邦彦研究室の助教授を務めた。橋田門下での最優秀の学者と評される。 昭和8年、ヨーロッパへ留学。昭和11年まで主にケンブリッジ大学のエドガー・エイドリアン(1932年ノーベル生理学賞受賞)の下でヒト頭皮上計測脳波黎明期の研究に従事した。
佐藤 弘(さとう ひろし、1897年4月21日 - 1962… 佐藤 弘(さとう ひろし、1897年4月21日 - 1962年12月23日)は、日本の地理学者。一橋大学名誉教授。経済地理学会初代会長(1953年 - 1962年)。日本工業立地センター理事長。正三位、勲一等瑞宝章。 経済地理学を開拓し、その発展に大きく貢献した。晩年に随筆を刊行し、佐藤 弘人の筆名で知られる。 1897年、大分県下毛郡中津(中津市)の商家に生まれる。大分県立中津中学校(現・大分県立中津南高等学校)、第七高等学校造士館(現・鹿児島大学)を経て、1918年に東京帝国大学理科大学(現・東京大学理学部)地質学科に入学する。翌年、地質学科から分離独立した地理学科に転科。山崎直方らの指導を受け、1922年に飯本信之と共に同大学を卒業した。
川上 清志(かわかみ きよし、1897年(明治30年)4月2… 川上 清志(かわかみ きよし、1897年(明治30年)4月21日 - 1944年(昭和19年)12月8日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 鹿児島県日置郡田布施村(金峰町を経て現南さつま市)で生まれた。川辺中学校(現鹿児島県立川辺高等学校)、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1918年(大正7年)7月、陸軍士官学校(30期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第44連隊付となる。1928年(昭和3年)12月、陸軍大学校(40期)を優等で卒業した。 1929年(昭和4年)12月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員(作戦班)、ドイツ駐在、ルーマニア駐在、歩兵第23連隊大隊長、参謀本部員(戦史課)などを務め、1937年(昭和12年)8月、兵科を航空兵に転科し航空兵中佐に進んだ。
一ノ濵 善之助(いちのはま ぜんのすけ、1897年4月20日… 一ノ濵 善之助(いちのはま ぜんのすけ、1897年4月20日 - 1962年9月9日)は、北海道亀田郡七飯町出身で井筒部屋に所属した力士。本名は大塚 善作(旧姓佐々木、高橋)。175cm、83kg。最高位は西前頭4枚目。引退後は7代九重を一時期襲名し、後進の指導につとめた。 1916年1月初土俵、1922年5月十両昇進。1924年5月入幕した。オートバイの運転が得意だった。1928年10月を以て引退、九重を襲名する。1930年10月株の持ち主である同じ部屋の大関豊国が引退したために、廃業した。 ※預りが白岩に1つ、引分が綾鬼に1つ、若常陸に2つある。 大江嶽→一ノ濵(1920年5月)
岡田 酉次(おかだ いつじ / ゆうじ、1897年(明治30… 岡田 酉次(おかだ いつじ / ゆうじ、1897年(明治30年)4月19日 - 1994年(平成6年)7月4日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍主計少将。 三重県出身。岡田靖の息子として生まれる。富田中学校(現三重県立四日市高等学校)を経て、1919年(大正8年)5月、陸軍経理学校(13期)を卒業。同年12月、三等主計に任官し歩兵第38連隊付となる。1921年(大正10年)8月、宇品陸軍糧秣支廠員に就任し、1922年(大正11年)12月、二等主計に昇進。1923年(大正12年)8月、陸軍糧秣本廠員に就任。1928年(昭和3年)6月から1930年(昭和5年)5月まで、経理学校で第2期甲種学生として学んだ。
河原 侃二(かわら かんじ、1897年4月16日 - 197… 河原 侃二(かわら かんじ、1897年4月16日 - 1974年1月26日)は、日本の俳優であり、詩人・編集者出身で写真家としても知られる。本名同じ。詩人としての筆名は河原 森月(かわら しんげつ)。萩原朔太郎とともに詩誌『侏儒』を創刊し、新劇俳優としては「築地小劇場」「第二次芸術座」の設立に参加、写真の世界では「ヴェス単の名手」として知られる。 1897年(明治30年)4月16日、兵庫県赤穂郡赤穂町(現在の同県赤穂市)に生まれる、とされている。『群馬県百科事典』(上毛新聞社)には、生年は1899年(明治32年)、生地は群馬県前橋市堀川町(現在の同市表町)である旨が記されている。 生後に東京に移り、東京府荏原郡品川町(現在の東京都品川区)の旧制・公立小学校品川学校(のちの品川区立品川小学校、現在の品川区立品川学園)に入学、同校を卒業して、東京市芝区(現在の東京都港区)の旧制・正則中学校(現在の正則高等学校)に入学する。
岡崎 嘉平太(おかざき かへいた、1897年(明治30年)4… 岡崎 嘉平太(おかざき かへいた、1897年(明治30年)4月16日 - 1989年(平成元年)9月22日)は、日本の実業家。 1972年岡山県賀陽町(現・吉備中央町)名誉町民。1978年、勲一等瑞宝章受章。1985年、岡山県総社市名誉市民。1985年、岡山県名誉県民。1987年、中国洛陽市名誉市民。 岡山県賀陽郡大和村(上房郡賀陽町を経て現・加賀郡吉備中央町)に、農業・岡崎鶴太郎の長男として生まれる。 尋常小学校1年の頃に自宅が全焼し、吉備郡総社町(現・総社市)に移り住む。旧制岡山中学校(現・岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、1916年第一高等学校に入学する。一高時代はボート部で活動し、また中国人留学生たちとの交流を深める。
伊藤 完二(いとう かんじ、1897年〈明治30年〉4月16… 伊藤 完二(いとう かんじ、1897年〈明治30年〉4月16日 - 没年不明)は、昭和時代の台湾総督府官僚。屏東市尹。 伊藤和一郎の次男として大分県速見郡杵築町(現:杵築市)に生まれる。1925年(大正14年)京都帝国大学法科大学を卒業し、翌年6月、台湾総督府に出仕する。同府法務課課員、秘書課課員を経て、1928年(昭和3年)9月に高雄州警務課長に就任。 ついで、台湾警察官司、同獄司、練習所主席教官を経て、1931年(昭和6年)5月に地方理事官に進み、台北州に赴任する。同州内務部地方課長兼官房文書課長を経て、1932年(昭和7年)4月に新竹州新竹郡守に転じ、翌年の1933年(昭和8年)12月、屏東市尹に就任した。
佐々木 道雄(ささき みちお、1897年4月16日 - 19… 佐々木 道雄(ささき みちお、1897年4月16日 - 1996年2月2日)は、日本の経営学者。 三重県出身。三高を経て1920年東京帝国大学経済学部卒。同大助手となり、同年経済学士を取得、1923年より助教授、1925年ベルリン高等商業学校留学。 1951年「アメリカのFinancial Mathematics」で東京大学経済学博士。明治大学商学部教授。1969年定年、名誉教授、和光大学教授を務めた。98歳まで生きた。
飯田 蝶子(いいだ ちょうこ、1897年4月15日 - 19… 飯田 蝶子(いいだ ちょうこ、1897年4月15日 - 1972年12月26日)は、日本の女優。本名は茂原 てふ(旧姓は飯田)。 松坂屋店員など様々な職を経て松竹蒲田撮影所に入社。 庶民派の老女役や祖母役などの老け役を多く演じて「日本を代表するお婆さん女優」として親しまれた(出演本数は300本を超え、息の長い活躍を見せた)。 水木歌紅(栗島すみ子)の弟子として、水木 歌門の名で水木流日本舞踊の名取も務めた。 夫は撮影技師の茂原英雄。 1897年(明治30年)4月15日、東京府東京市浅草区堀端(現在の東京都台東区浅草)に生まれる。父の操は一人娘だった母・せいの婿養子で、逓信省の下級役人だったが、家が貧しかったため、飯田が2歳の頃に本所区緑町に住む母方の祖母の近所へ転居する。
牧原 源一郎(まきはら げんいちろう、1897年(明治30年… 牧原 源一郎(まきはら げんいちろう、1897年(明治30年)4月14日 - 1986年(昭和61年)8月3日)は、大正から昭和期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、福島県北会津郡荒舘村長、同郡北会津村長。 福島県出身。旧会津藩士の家系、牧原長英の長男として生まれる。1917年(大正6年)福島県立会津中学校(現福島県立会津高等学校)を卒業した。 農業を営む。会津銀行監査役、東邦銀行監査役、保証責任福島県信用販売購買利用組合連合会監事、福島県信用組合連合会幹事、農村協同体建設同盟福島県支部本部長、大政翼賛会福島県支部事務局長、福島県翼賛壮年団副団長などを務めた。 1942年(昭和17年)4月、第21回衆議院議員総選挙に翼賛政治体制協議会の推薦を受け福島県第2区から出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
横溝 光暉(よこみぞ みつてる、1897年(明治30年)4月… 横溝 光暉(よこみぞ みつてる、1897年(明治30年)4月12日 - 1985年(昭和60年)1月16日)は、日本の内務官僚・弁護士。内閣情報部長、官選県知事。 神奈川県出身。商業・横溝豊吉の四男として生まれる。横浜一中、第一高等学校を経て、1921年6月、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。1920年10月、高等試験行政科試験に合格。1922年2月、内務省に入り、東京府属として内務部庶務課に配属された。 1923年2月、広島県警視・警察部警務課長に就任。以後、同警察部保安課長、福岡県警察部特別高等警察課長、復興局長官官房計画課勤務、内務事務官・警保局保安課勤務、内閣書記官、内閣官房総務課長、兼法制局参事官、兼内閣調査局調査官、情報委員会事務官、内閣情報部長などを歴任。
秋山 理敏(あきやま まさとし、1897年〈明治30年〉4月… 秋山 理敏(あきやま まさとし、1897年〈明治30年〉4月12日 - 1947年〈昭和22年〉9月29日)は、日本の外交官。駐パナマ公使を経て、第二次世界大戦後、終戦連絡京都事務局局長を務めた。 長野県上伊那郡藤沢村(現伊那市)出身。長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1920年(大正9年)、東京高等商業学校を卒業し、高等試験外交科に合格した。外務属となり、1922年(大正11年)には東京商科大学(現在の一橋大学)専攻部領事科を卒業した。領事官補、外務事務官・通商局第一課勤務、イタリア大使館三等書記官、同二等書記官、通商局第三課勤務・外務大臣秘書官、外務書記官・大臣官房電信課長、企画庁調査官・総裁秘書官、企画院書記官、中華民国大使館一等書記官、シドニー総領事を歴任。
沼田 恵範(ぬまた えはん、1897年4月12日 - 199… 沼田 恵範(ぬまた えはん、1897年4月12日 - 1994年5月5日)は、宗教家、仏教伝道者。実業家、「ミツトヨ」創業者。 広島県賀茂郡志和町(現・東広島市志和町)の浄土真宗本願寺派・浄蓮寺の三男に生まれ、京都平安中学(現・平安高等学校)に学ぶ。卒業後、本山である西本願寺から派遣され1915年、仏教布教のため19歳で渡米。ハリウッド・ハイスクールとカリフォルニア大学バークレー校(UCB)で数学を4年、さらに同校大学院で経済学(統計経済、景気変動学)を学ぶ。「今でこそ日米は平等に扱われているが、当時は日本人は犬猫のようだった」と奮起、学業と平行して米国人に仏教文化を伝えたいと英文雑誌「ザ・パシフイック・ワールド」を創刊。
近藤 経一(こんどう けいいち、1897年4月12日 - 1… 近藤 経一(こんどう けいいち、1897年4月12日 - 1986年10月18日)は、日本の劇作家・小説家。 東京出身。父は外科医の近藤次繁、弟には裁判官の近藤綸二や東京女子医科大学教授の近藤台五郎がいる。 武者小路実篤の影響を受け、1917年戯曲集『蒔かれたる種』を刊行、1918年小説「第二の誕生」を『白樺』に発表し、以後しばらく小説家、劇作家として活動する。1922年東京帝国大学文学部国文科卒。 自身が製作した「愛の導き」に出演した女優の原光代と1924年に結婚。映画の製作や『キネマ旬報』の創設、文藝春秋の『映画時代』の編集などに携わり、後に文藝春秋専務となった。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
高橋 定一(たかはし ていいち、1897年(明治30年)4月… 高橋 定一(たかはし ていいち、1897年(明治30年)4月12日 – 1949年(昭和24年)12月25日)は、大正から昭和前期の鉄道官僚、政治家。衆議院議員。 山口県玖珂郡麻里布村(麻里布町を経て現岩国市)で、高橋亀助の二男として生まれる。第三高等学校を経て、1922年(大正11年)東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業した。 同年、鉄道省に入省し鉄道局書記に任官され東京鉄道局庶務課に配属された。1923年(大正12年)12月、高等試験行政科試験に合格。以後、国府津駅助役、鉄道局副参事・水戸運輸事務所営業主任、新橋運輸事務所営業主任、千葉運輸事務所長、東京鉄道局運輸課庶務掛長、同局運輸課旅客掛長などを経て鉄道省運輸局自動車課長に就任し、1939年(昭和14年)に退官した。
竹内 民次郎(たけうち たみじろう、旧姓・岩崎、1897年〈… 竹内 民次郎(たけうち たみじろう、旧姓・岩崎、1897年〈明治30年〉4月12日 - 没年不明)は、日本の酒造家(竹内本店)、政治家。 島根県能義郡宇賀荘村(現・安来市)に岩崎庫三郎の長男として生まれ、竹内信次郎の養子となる。1921年、家督を相続する。明治大学修業。 小学校訓導を経て酒造業を営む。町会議員、町信用組合理事、出雲銀行取締役などをつとめる。 宗教は浄土宗。趣味は文学。住所は島根県大原郡加茂町(現・雲南市)。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
瀬尾 俊三(せお しゅんぞう、1897年4月11日 - 19… 瀬尾 俊三(せお しゅんぞう、1897年4月11日 - 1980年9月17日)は、日本の経営者。雪印乳業社長を務めた。 北海道札幌市出身。札幌第一中学校(現・北海道札幌南高等学校)を経て、1922年に早稲田大学商学部を卒業。東海林太郎とは大学時代に同じ下宿にいた親友。 名古屋銀行での勤務を経て、1926年に北海道酪農販売組合連合会主事に就任し、1938年に専務、1950年6月に雪印乳業専務、1957年5月に副社長を経て、1963年5月に社長に就任。1971年5月に会長を経て、1973年5月には相談役に就任した。 1963年に藍綬褒章を受章し、1967年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1980年9月17日、急性肺炎のために死去。
山口 俊雄(やまぐち としお、1897年4月10日 - 19… 山口 俊雄(やまぐち としお、1897年4月10日 - 1945年1月27日)は、日本の俳優である。新派劇俳優であるが、牧野省三のマキノ・プロダクションとの提携で映画に主演、1928年(昭和2年)の片岡千恵蔵、嵐寛寿郎らのマキノからの独立時に歩調を揃えて、自らのスタープロダクションを立ち上げた。 1897年(明治30年)4月10日、熊本県に生まれる。東京に出て、旧制・錦城中学校(現在の錦城学園高等学校)を経て、18歳のときの1915年(大正4年)ころ、東京「有楽座」の文士劇で初舞台を踏む。のちに井上正夫の一座に入門、大阪の福井茂兵衛、都築文男らの新派劇団、高田実の門下を経て、1918年(大正7年)の暮れに松竹傘下の「新声劇」に参加し、活躍した。
広野 三郎(ひろの さぶろう、1897年(明治30年)4月1… 広野 三郎(ひろの さぶろう、1897年(明治30年)4月10日 - 1968年(昭和43年)4月4日)は、歌人。 東京出身。國學院大學卒。1915年『アララギ』に入会し、島木赤彦、斎藤茂吉に師事。1926年東京帝国大学史料編纂所業務嘱託、1927年史料編纂官補、1946年事務官、1954年東京大学史料編纂所助手、1958年講師、1962年退官。歌人としては1950年『白埴』を創刊、1953年『草苑』と合同して『久木』を主宰。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
原 侑(はら すすむ、1897年4月10日 - 1960年1… 原 侑(はら すすむ、1897年4月10日 - 1960年1月31日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 広島県出身。1923年日本大学高等師範部(現・文理学部)卒業。日大第二中学校長、京浜学園園長、日本汽船漁業(株)常任監査役、山路壁紙(株)監査役、(資)義合祥顧問、協同土木(株)総監督、国際科学食糧研究所専務理事となる。 1946年の第22回衆議院議員総選挙で広島県から日本自由党公認で立候補して初当選。翌1947年の第23回衆議院議員総選挙において広島3区で立候補して再選。この間自由党政調会同胞援護部長、政調会労働委員長、総務を務めた。1948年に議員辞職した。その後、1949年の第24回衆議院議員総選挙と1952年の第25回衆議院議員総選挙に続けて立候補したが、落選した。
加藤 まさを(かとう まさを、1897年4月8日 - 197… 加藤 まさを(かとう まさを、1897年4月8日 - 1977年11月1日)は、日本の画家、詩人、小説家、イラストレーター。本名は正男。別名、藤枝春彦、蓮芳夫。立教大学在学中の1919年(大正8年)に刊行した『アンデルセン童話』、『花の精』などの絵はがきで一躍有名となり、大正末期から昭和初期にかけて、竹久夢二、高畠華宵、蕗谷虹児らとともに抒情画の全盛時代を築いた。童謡『月の沙漠』の作詞家としても知られる。 1897年(明治30年)4月8日、静岡県志太郡西益津村田中(現・藤枝市大手)に生まれる。幼少期を祖父母と共に藤枝で過ごす。父は浦和中学の教師を務めたが、後に東京の小学校校長を務めた。西益津尋常高等小学校(現在の藤枝市西益津小学校)3学年を終了後、1910年(明治43年)に父母のもとに上京し、早稲田中学校に入学。
林 信雄(はやし のぶお、明治30年(1897年)4月8日 … 林 信雄(はやし のぶお、明治30年(1897年)4月8日 - 昭和39年(1964年)12月12日)は、日本の医学者、医学博士(千葉医科大学)。放射線による内科的診断・放射線医学の先駆者。従五位・勲四等・旭日小綬章。 山形県鶴岡市出身。
永田 年(ながた すすむ、1897年(明治30年)4月5日 … 永田 年(ながた すすむ、1897年(明治30年)4月5日 - 1981年(昭和56年)12月31日)は、昭和時代の土木工学者、台湾総督府官僚、内務官僚、実業家。 福岡県出身。1922年(大正11年)東京帝国大学工学部土木工学科卒業。台湾総督府、内務省土木局、満州国交通部を経て、電力界へ転じ東北振興電力および日本発送電にて勤務する。1951年(昭和26年)北海道電力副社長、1952年(昭和27年)電源開発理事を経て、1953年(昭和28年)佐久間発電所建設所長を兼務する。ついで、1957年(昭和32年)土木部長、1960年(昭和35年)電源開発顧問を経て、東京電力技術最高顧問に就任した。 ほか、国際大ダム会議副総裁、日本大ダム会議会長、日本ACI会長などの要職を歴任した。
能登 久(のと ひさし、1897年(明治30年)4月5日 -… 能登 久(のと ひさし、1897年(明治30年)4月5日 - 1980年(昭和55年)11月29日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 富山県出身。1920年(大正9年)5月、陸軍士官学校第32期卒業。陸軍砲工学校第29期を優等で卒業。東京帝国大学物理学科卒業。 北支那方面軍気象部長、陸軍技術本部附を経て、1941年(昭和16年)3月、陸軍大佐に進み、同年6月、陸軍技術本部課長となる。翌年の1942年(昭和17年)10月に第7陸軍技術研究所員に転じ、1945年(昭和20年)6月、陸軍少将に進んだ。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。
諫早 不二雄(いさはや ふじお、1897年〈明治30年〉4月… 諫早 不二雄(いさはや ふじお、1897年〈明治30年〉4月4日 - 1947年〈昭和22年〉1月16日)は、日本の華族(旧佐賀藩国老、男爵)、資産家。 長崎県北高来郡諫早村(現・諫早市)出身。諫早家興の弟。諫早家崇の庶子男。 1913年、家督を相続し、襲爵仰せ付けられる。1913年12月、長崎県北高来郡立諫早実科高等女学校敷地として畑2段5畝5歩を寄付し、銀杯1箇を賜う。住所は長崎県北高来郡諫早村原口名、東京府荏原郡品川町大字南品川三ツ木鎗ケ崎(現・品川区)。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
松根 宗一(まつね そういち、1897年4月3日 - 198… 松根 宗一(まつね そういち、1897年4月3日 - 1987年8月7日)は、日本の昭和時代に活動した実業家。後楽園スタヂアムおよび新理研工業会長、電気事業連合会副会長を歴任し「電力界のフィクサー」「ミスター・エネルギーマン」の異名で呼ばれた。 祖父は宇和島藩家老の松根図書、次兄は俳人の松根東洋城。 1897年(明治30年)、愛媛県北宇和郡宇和島町(現在の宇和島市)に生まれる。旧制宇和島中学校を経て東京高等商業学校を卒業後、日本興業銀行を経て1932年(昭和7年)7月に電力連盟書記長。1939年(昭和14年)の日本発送電設立に伴い電力連盟は解散し、興銀からの出向により理研コンツェルンの中核企業であった理研工業へ入社、常務を経て副社長に就任する。
新関 八洲太郎(にいぜき やすたろう、1897年(明治30年… 新関 八洲太郎(にいぜき やすたろう、1897年(明治30年)4月2日 - 1978年5月30日)は、埼玉県浦和市出身の実業家で、元三井物産社長・会長。
相賀 武夫(おうが たけお/おおが たけお、1897年4月2… 相賀 武夫(おうが たけお/おおが たけお、1897年4月2日 - 1938年8月12日)は、日本の出版事業家、小学館及び集英社の創業者。1932年(昭和7年)7月に相賀祥宏と改名している。長男は小学館第2代社長の相賀徹夫。孫は小学館第3代社長の相賀昌宏(徹夫の長男)。 岡山県都窪郡加茂村(現在の岡山市北区加茂)出身。1897年(明治30年)4月2日、庄屋を営む相賀虎右衛門の長男として生まれる。祖父の春治は村会議員を務め、私財を投げうって村の発展に尽くしていた。 父・虎右衛門の時代には生家が没落して貧しかったため、1910年(明治43年)3月に加茂尋常小学校(現・岡山市立加茂小学校)卒業後は書記見習として県立高松農学校(現・岡山県立高松農業高等学校)に書記見習として就職(後に書記代理へ昇進)。
我妻 榮(わがつま さかえ、1897年〈明治30年〉4月1日… 我妻 榮(わがつま さかえ、1897年〈明治30年〉4月1日 - 1973年〈昭和48年〉10月21日)は、日本の法学者。専門は民法。学位は法学博士(東京大学)、東京大学名誉教授、米沢市名誉市民。文化勲章、贈従二位(没時叙位)・贈勲一等旭日大綬章(没時叙勲)。憲法改正に伴う家族法大改正の立案担当者の一人。鳩山秀夫に師事。弟子に有泉亨、川島武宜、四宮和夫、幾代通、加藤一郎、鈴木録彌、星野英一、西原道雄など。 山形県米沢市出身。英語教師の父・又次郎と家計のたしにするため、自宅で中学生相手に国・漢・数学を教えた母・つるの長男として生まれる。5人の子における唯一の息子であったため、父母を安心させなければという気持ちから一心に勉強に励んだ。
中村 琢二(なかむら たくじ、1897年4月1日 - 198… 中村 琢二(なかむら たくじ、1897年4月1日 - 1988年1月31日)は、日本の洋画家である。日本芸術院会員。 鉱山技師であり、後に住友本社鉱山技師長となる中村啓二郎の二男として、当時啓二郎が勤務していた佐渡金山があった新潟県佐渡郡相川町(現・佐渡市)に生まれる。洋画家の中村研一は実兄。1899年、愛媛県新居浜に移り、1906年より、福岡県の祖父母のもとで育つ。旧制東筑中学(現福岡県立東筑高等学校)入学後、福岡県立中学修猷館に転校。在学中に兄・研一や児島善三郎らが創立した絵画同好会「パレット会」に参加して、西洋絵画を勉強している。1916年、父の跡を継ぐべく第五高等学校理科に進むが、健康上の理由で中退し、第六高等学校英法科に入学して、1924年、東京帝国大学経済学部を卒業する。
我妻 榮(わがつま さかえ、1897年〈明治30年〉4月1日… 我妻 榮(わがつま さかえ、1897年〈明治30年〉4月1日 - 1973年〈昭和48年〉10月21日)は、日本の法学者。専門は民法。学位は法学博士(東京大学)、東京大学名誉教授、米沢市名誉市民。文化勲章、贈従二位(没時叙位)・贈勲一等旭日大綬章(没時叙勲)。憲法改正に伴う家族法大改正の立案担当者の一人。鳩山秀夫に師事。弟子に有泉亨、川島武宜、四宮和夫、幾代通、加藤一郎、鈴木録彌、星野英一、西原道雄など。 山形県米沢市出身。英語教師の父・又次郎と家計のたしにするため、自宅で中学生相手に国・漢・数学を教えた母・つるの長男として生まれる。5人の子における唯一の息子であったため、父母を安心させなければという気持ちから一心に勉強に励んだ。
生越 三郎(おごし さぶろう、1897年(明治30年)4月1… 生越 三郎(おごし さぶろう、1897年(明治30年)4月1日 - 1969年(昭和44年)12月2日)は、大正から昭和期の技術者、実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 島根県那賀郡、現在の浜田市で生まれる。1919年(大正8年)大阪工業専門学校機械科を卒業。 三菱造船に技師として入社した。1935年(昭和10年)に日本機械車両工業を設立し社長に就任。その他、東京大同商会代表社員、日本電気漂白専務取締役、三星工業取締役社長、日本化機工業取締役などを務めた。 1940年(昭和15年)財団法人石見工業専修学校を設立し理事長に就任。同校は石見工業学校、益田商工高等学校を経て益田工業高等学校(現益田東高等学校)となり各理事長を務めた。
長谷川 透(はせがわ とおる、1897年(明治30年)4月 … 長谷川 透(はせがわ とおる、1897年(明治30年)4月 - 1977年(昭和52年)6月13日)は、日本の内務官僚。官選宮崎県知事。 京都府出身。長谷川吟之助の二男として生まれる。第三高等学校を卒業。1919年10月、高等試験行政科試験に合格。1920年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。農商務省に入り工務局属となる。その後、内務省に転じた。 以後、福井県理事官、愛媛県理事官、内務省社会局事務官兼内務事務官、同社会局書記官・社会部職業課長、同大臣官房文書課長などを経て、1937年6月、大阪府書記官・総務部長に就任。 1939年9月、宮崎県知事に就任。1941年1月に退官し、大日本産業報国会労務局長に就任。
山根 春衛(やまね はるえ、1897年4月 - 1981年2… 山根 春衛(やまね はるえ、1897年4月 - 1981年2月25日)は、日本の実業家。栃木県下都賀郡瑞穂村大字土与(現・栃木市大平町土与)出身。大正海上火災保険(現在の三井住友海上火災保険)の社長を務めた。 1917年3月に栃木中学校を卒業し、東京商科大学に入学。在学中は中国・南洋各地を旅行視察し、1921年7月卒業、大正海上火災保険に入社して東京本店勤務。1927年2月、社命を受けて欧米各国の保険事業を研究するため出張、1929年5月に帰国して大阪支店長代理を務める。1945年4月に取締役、翌1946年6月に常務取締役、さらに翌1947年5月に社長に就任する。 1957年5月に藍綬褒章を受章した。
井上 清(いのうえ きよし、1897年〈明治30年〉4月 -… 井上 清(いのうえ きよし、1897年〈明治30年〉4月 - 1996年〈平成8年〉9月30日)は、日本の時計職人。北海道札幌市のシンボルともいえる札幌時計台の修理を1933年(昭和8年)に始め、以来、3日に一度は必ず時計台の保守を行う作業を、半世紀にわたって無償で手掛け、「時計台のお医者さん」と呼ばれた。長男は同じく時計台の保守を手掛けた時計職人の井上和雄。 1897年(明治30年)4月に、北海道札幌郡広島村(後の恵庭市)で誕生した。小学校を卒業後、自らの意思で、進学ではなく就職の道を選んだ。 実家は祖父の代に山口県から北海道に入植した家で、父は旧国鉄の職員であったが、その仕事を嫌ったこと、機械いじりが好きだったことで、16歳で時計店に務めた。
大野 謙一(おおの けんいち、1897年(明治30年)4月 … 大野 謙一(おおの けんいち、1897年(明治30年)4月 - 1968年〈昭和43年〉5月2日)は、昭和時代前期の朝鮮総督府官僚。咸鏡北道知事。朝鮮総督府学務局長。 大野謙弼の長男として山口県大島郡蒲野村(大島町を経て現周防大島町)に生まれ、1901年(明治34年)家督を相続した。1897年(明治45年)高等小学校を卒業。1921年(大正10年)高等試験に合格し、朝鮮総督府に奉職する。江原道学務課長、江原道地方課長、平安南道地方課長、朝鮮総督府殖産局水利課長、黄海道財務部長、忠清北道警察部長、慶尚北道警察部長、朝鮮総督府学務局学務課長、慶尚南道内務部長、朝鮮総督府北京出張所長、朝鮮総督官房外務部長を経て、咸鏡北道知事に就任した。
門屋 盛一(かどや もりいち、1896年(明治29年)4月3… 門屋 盛一(かどや もりいち、1896年(明治29年)4月30日 - 1961年(昭和36年)5月10日)は、昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)。 愛媛県風早郡河野村(温泉郡河野村、北条町、北条市を経て現松山市)で、門屋フミの息子として生まれる。幼くして両親と大分県、のちの佐伯市に移った。貧しい家庭のため12歳から小学校給仕となる。村役場給仕、大分県南海部郡戊申溜池普通水利組合書記、薬局生などを務め、独学を続けた。長崎県の崎戸炭坑に移り採炭夫として働く。三菱長崎造船所工業補修学校に入学し木型職工となる。21歳で鉄道工業合資会社に転じ土木事業に係わる。24歳で同社桂事務所現場主任に就任し丹那トンネル工事に従事した。
井谷 正吉(いたに まさきち / まさよし、1896年(明治… 井谷 正吉(いたに まさきち / まさよし、1896年(明治29年)4月29日 - 1976年(昭和51年)2月10日)は、大正から昭和期の農民運動家、農業技術者、政治家。衆議院議員(4期)。 愛媛県北宇和郡日吉村下鍵山(現鬼北町下鍵山)で、井谷正命の長男として生まれる。1914年(大正3年)郡立宇和農蚕学校(現愛媛県立宇和高等学校)を卒業した。 兵役後の1918年(大正7年)に家出して大阪、奈良、三重などを巡り、帰郷して北宇和郡役所土木科に勤務した。1919年(大正8年)から1922年(大正11年)まで三重県度会郡七保村(現大紀町)の農業補習学校教師を務めた。この間、地元青年と土民協会を設け農村問題の研究を行う。
林 重義(はやし しげよし、1896年4月29日 - 194… 林 重義(はやし しげよし、1896年4月29日 - 1944年3月16日)は戦前日本の洋画家、版画家。 1896年に兵庫県神戸市に生まれた。始めは京都市立絵画専門学校において日本画を学ぶが、中退している。関西美術院において鹿子木孟郎に師事し油絵を学んでいる。1922年に小林和作とともに東京へ上京し、1923年に二科展に出品、初入選を果たす。1926年に「庭の一隅」で二科賞を受賞した。1928年から渡欧して、渡欧先から二科展に作品を出品している。1930年までヨーロッパに滞在、帰国後、二科会を退会する。1930年代に主に石版画を制作、発表した。1931年には独立美術協会の創立に参加するが、1937年には同会からも退会、同年、文展に出品している。
四方 諒二(しかた りょうじ、1896年〈明治29年〉4月2… 四方 諒二(しかた りょうじ、1896年〈明治29年〉4月28日 - 1977年〈昭和52年〉12月13日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 兼松商店[要出典]の役員であった四方素の二男として神戸市で生れる。第一神戸中学校、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校(29期)を卒業し、同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第19連隊付となる。1924年(大正13年)3月、陸軍委託学生として学んだ東京外国語学校(独語)を修了。1927年(昭和2年)6月、兵科を憲兵科に移し憲兵大尉となり、咸興憲兵分隊長となった。 小倉憲兵分隊長を経て、1930年(昭和5年)4月から3年間、陸軍派遣学生として東京帝国大学法学部で学ぶ。