龍 粛(りょう すすむ、1890年4月29日 - 1964年… 龍 粛(りょう すすむ、1890年4月29日 - 1964年2月25日)は、大正・昭和期の歴史学者。専攻は中世史。元東京大学史料編纂所長。萩野由之は舅に当たる。
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龍 粛(りょう すすむ、1890年4月29日 - 1964年… 龍 粛(りょう すすむ、1890年4月29日 - 1964年2月25日)は、大正・昭和期の歴史学者。専攻は中世史。元東京大学史料編纂所長。萩野由之は舅に当たる。
二代目 三遊亭 円歌(さんゆうてい えんか、1890年〈明治… 二代目 三遊亭 円歌(さんゆうてい えんか、1890年〈明治23年〉4月28日 - 1964年〈昭和39年〉8月25日)は、日本の落語家。本名∶田中 利助。出囃子は『踊り地』。新潟県新潟市出身。 新潟県立新潟中学校卒業。当時の落語家には珍しく旧制中学校卒業の高学歴で、家は洋館三階建ての裕福な両替屋であったが、祖母が米相場で失敗して破産し、神奈川県横浜市で貿易商館員として働くも、女性問題を起こしたことがきっかけで北海道札幌市に移り、京染屋を始める。花柳界相手の商売を通じて、元噺家の松廼家右喬と出会ったことで、落語に興味を抱き、素人演芸の集団に加わる。 北海道に移り住んだ後は旅回りの一座に入り、勝手に「東京落語の重鎮・三遊亭柳喬」と名乗っていたが、小樽市で巡業中の二代目三遊亭小圓朝に見つかり、それがきっかけとなり落語家の道に入る。
久保田 豊(くぼた ゆたか、1890年4月27日 - 198… 久保田 豊(くぼた ゆたか、1890年4月27日 - 1986年9月9日)は、日本の実業家。位階は正三位。日窒コンツェルンの野口遵と共に、当時世界最大級の水豊ダムをはじめ、朝鮮北部に大規模なダムを建設した。戦後は建設コンサルタント会社日本工営社長を務めた。 日窒コンツェルンの長津江水電、朝鮮送電の取締役を経て、朝鮮電業社長に就任。当時世界的な生産規模を有していた朝鮮窒素肥料興南工場などへ電力を供給する体制を整えた。また世界でも最大級のダムである鴨緑江の水豊ダムの建設を実現した。戦後、ビルマ(現ミャンマー)のバルーチャン発電計画を受注し、これは結果的にODAの原点となる戦後賠償の第1号案件につながった。
内海 安吉(うつみ やすきち、1890年4月27日 - 19… 内海 安吉(うつみ やすきち、1890年4月27日 - 1976年4月11日)は、日本の政治家。自由民主党衆議院議員。宮城県桃生郡小野村(現在の東松島市)出身。自民党衆議院議員で建設大臣、国土庁長官を務めた内海英男は長男。 1890年(明治23年)桃生郡小野村の農家に生まれる。1910年(明治43年)日本大学法律科を卒業し、日本電報通信社に入社し政治記者となる。同社の京城支局員、大連支局長を経て、奉天公報社長、帝国新報社長を務めた他、内閣嘱託として、興亜院に入り、上海で勤務する。この間、帰国中に執筆した「産業立国策」が犬養毅に評価され、1930年(昭和5年)立憲政友会から第17回衆議院議員総選挙に立候補するが落選する。
堀田 くに(ほった くに、1890年4月26日 - 1985… 堀田 くに(ほった くに、1890年4月26日 - 1985年8月10日)は、日本の女性運動家。富山県高岡市出身。石川県立金沢第一高等女学校卒業。 廻船問屋堀田善右衛門の娘として生まれる。堀田家は、南北朝時代に後醍醐天皇第8皇子宗良親王を奉じて越中に落ち延びた朝臣の子孫で、親王を守り立てるために廻船問屋業を始めたという。 この廻船問屋は、くにの代で廃業となる。大正14年(1925年)、船荷を運ぶ女性労働者の子どもたちが浜辺に放置されるままであるのを見かねて、くには富山県初の託児所である伏木託児所(現在の伏木保育園)を開設した。1942年に厚生大臣表彰、1954年に藍綬褒章、1964年に勲五等宝冠章を受けた。
崔南善(チェ・ナムソン、1890年4月26日 - 1957年… 崔南善(チェ・ナムソン、1890年4月26日 - 1957年10月10日)は朝鮮の詩人、ジャーナリスト、歴史家である。号は六堂(ユクタン)。本貫は東州崔氏。
西村 弥三郎(にしむら やさぶろう、1890年(明治23年)… 西村 弥三郎(にしむら やさぶろう、1890年(明治23年)4月26日 - 1981年(昭和56年)4月23日)は、大正から昭和時代の政治家、実業家。愛媛県八幡浜市長。愛媛県多額納税者。旧姓は本多、幼名は恭礼。 愛媛県東宇和郡宇和町久枝(現・西予市宇和町久枝)で本多好礼の三男として生まれ、1908年(明治41年)宇和島中学校(現・愛媛県立宇和島東高等学校)卒業とともに八幡浜の素封家・西村家(泉屋)の西村ヒサ方に養子入籍し、当主となる。第五高等学校(現・熊本大学)を経て、1918年(大正7年)東京帝国大学法学部を卒業し、2年間銀行に勤めたのちに郷里に戻り、家業を継ぎ、名を弥三郎と改める。 第二十九銀行(伊予銀行の前身)取締役、八幡浜信用金庫理事長、西宇和郡社会事業協会理事長、壮年団長などを歴任したのち、1936年(昭和11年)3月に前八幡浜市長の酒井宗太郎が病没すると、第2代八幡浜市長に就任。
武田 正憲(たけだ まさのり、1890年4月25日 - 19… 武田 正憲(たけだ まさのり、1890年4月25日 - 1962年3月3日)は、日本の俳優である。本名同じ。 1890年(明治23年)4月25日、東京府東京市芝区(現在の東京都港区芝)に、和歌山県出身の海軍中尉だった武田武守の息子として生まれる。 1979年(昭和54年)10月23日に発行された『日本映画俳優全集 男優編』(キネマ旬報社)によれば、暁星中学校を経て早稲田大学専門部英文科に入学し、1909年(明治42年)5月、坪内逍遥らの文芸協会演劇研究所に1期生として入る。『讀賣新聞』によれば、1914年(大正3年)に早稲田大学英文科を卒業し、文芸協会演劇研究所に加入したという旨が記されている。
戸塚 道太郎(とづか みちたろう、1890年〈明治23年〉4… 戸塚 道太郎(とづか みちたろう、1890年〈明治23年〉4月21日 - 1966年〈昭和41年〉3月6日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 1890年(明治23年)4月21日東京府南豊島郡千駄ヶ谷村(現在の東京都渋谷区)に生まれる。旧制東京府立第4中学校を経て、1907年(明治40年)9月21日海軍兵学校38期に150名中12番の成績で入校、1910年(明治43年)7月18日149名中33番の成績で卒業、少尉候補生、装甲巡洋艦「浅間」乗組。10月16日- 練習艦隊遠洋航海出発(ホノルル-サンフランシスコ-サンピドロ-マサニーリョ-アカプルコ-パナマ-アカプルコ-ホノルル方面巡航)。1911年(明治44年)3月6日帰着。
田辺 孝次(たなべ たかつぐ、1890年4月21日 - 19… 田辺 孝次(たなべ たかつぐ、1890年4月21日 - 1945年4月16日)は、日本の美術史家。 石川県金沢市生まれ。息子は美術史家の田辺徹。室生犀星とは幼馴染。1913年東京美術学校彫刻科を卒業、18年同校美術史研究室の助手、19年教授となり、工芸史を講じた。1924年から25年工芸史研究のため欧米諸国に学び、1927年東京高等工芸学校講師を兼ねた。1937年再び欧洲各国に出張して38年帰国、1939年には石川県立工業学校長となり42年退職した。
尾崎 義春(おざき よしはる、1890年〈明治23年〉4月2… 尾崎 義春(おざき よしはる、1890年〈明治23年〉4月20日 - 1973年〈昭和48年〉9月19日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。北海道旭川市出身。 農家の尾崎次郎の二男として生まれる。北海道庁立旭川中学校を卒業したのち、日本軍に入隊。 陸軍士官学校23期・ 陸軍大学校31期。関東軍に出仕。1928年の張作霖爆殺事件の際には河本大作大佐の部下として実行部隊を指揮する。その後、日中戦争(支那事変)では独立混成第13旅団長として出動し、淮南で新四軍と激戦を繰り広げた。 日米開戦後は第19師団長に親補され、北朝鮮からフィリピンへと転戦。リンガエン湾・プロム山の戦闘では圧倒的兵力を誇る米軍相手に善戦敢闘した。
森本 甚兵衛(もりもと じんべい、旧姓・細井、前名・悦蔵、1… 森本 甚兵衛(もりもと じんべい、旧姓・細井、前名・悦蔵、1890年〈明治23年〉4月20日 - 1983年〈昭和58年〉9月12日)は、日本の地主、実業家。西宮酒造(現・日本盛)代表取締役。12代森本甚兵衛。 大阪府豊能郡北豊島村(現・池田市)に細井重右衛門の四男として生まれた。1914年(大正3年)に兵庫県人・森本甚兵衛の養子となり家督を相続、1915年(大正4年)1月に前名・悦蔵を改め、甚兵衛を襲名した。戊辰土地、南大阪田園都市各監査役をつとめた。 西宮銀行に入行し、取締役に就任、同行が1936年(昭和11年)に神戸銀行に合併のため退任した。1930年(昭和5年)2月に西宮酒造入社、取締役に就任、1943年(昭和18年)4月に監査役に就任した。
山宮 允(さんぐう まこと、1890年(明治23年)4月19… 山宮 允(さんぐう まこと、1890年(明治23年)4月19日 - 1967年(昭和42年)1月22日)は、日本の詩人、英文学者。日本詩人クラブ発起人の一人。 山形県山形市出身。山形県立荘内中学校(現・山形県立鶴岡南高等学校)から、第一高等学校に進む。一高時代からアララギの歌会に参加した。 1914年在学中に中心となって第三次『新思潮』を創刊、ほかに豊島与志雄、山本有三、井出説太郎(土屋文明)、柳川隆之介(芥川龍之介)、草田杜太郎(菊池寛)、成瀬正一、久米正雄、佐野文夫、松岡譲がいた。 1915年東京帝国大学英文科卒。 1917年、川路柳虹らと詩話会を結成、1918年から評論集『詩文研究』を上梓する。
中野 英光(なかの ひでみつ、1890年(明治23年)4月1… 中野 英光(なかの ひでみつ、1890年(明治23年)4月18日 - 1982年(昭和57年)3月19日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 旧佐賀藩士・中野竹九郎の長男として生まれる。佐賀中学を卒業。1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第23連隊付となる。1920年(大正9年)11月、陸軍大学校(32期)を卒業し、参謀本部支那班に配属された。 1926年(大正15年)5月、関東軍司令部付としてハルビン特務機関に配属。その後、歩兵第63連隊大隊長、参謀本部員、吉林特務機関長、満州国軍政部顧問などを歴任。 1936年(昭和11年)8月、歩兵大佐に昇進。
小野 猛(おの たけし、1890年(明治23年)4月18日 … 小野 猛(おの たけし、1890年(明治23年)4月18日 - 1962年(昭和37年)5月9日)は、日本の逓信官僚。 大分県に百津民次郎の二男として生まれ、小野薫の養子となった。1914年(大正3年)、高等文官試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。逓信書記・岡山郵便局長、逓信事務官、同書記官・管船局庶務課長、同海員課長、同監理課長、高等海員審判所審判官、熊本逓信局長、管船局長・高等海員審判所長、逓信次官を歴任した。 1939年(昭和14年)に退官した後は、日本発送電株式会社副総裁、樺太石炭鉱業株式会社取締役、北海道石炭株式会社相談役、電気協会などを務めた。その後、船舶運営会総裁に就任した。
岡田 資(おかだ たすく、1890年4月14日 - 1949… 岡田 資(おかだ たすく、1890年4月14日 - 1949年9月17日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。鳥取県鳥取市江崎町出身。 岡田資は中尉時代の1916年(大正5年)12月から約1年間半にわたって、第30期第3中隊第3区隊長を務めている。この第3区隊員の中には、後に、日中和平工作に尽力し、バターン戦線では兵団本部からの米比軍捕虜千余名の処刑命令に抗して釈放した陸軍少将今井武夫がいた。岡田は1930年(昭和5年)には秩父宮付武官を務めている。若者を愛した人で「青年将軍」の通称があった。 第十三方面軍司令官兼東海軍管区司令官を務めていた1945年(昭和20年)5月14日の名古屋空襲の際、撃墜され捕虜となった米軍のB-29爆撃機搭乗員27名を自らの命令で処刑した(11名は略式の軍律会議で死刑判決が出たとされ、処刑は6月28日、瀬戸市付近。
大門岩 嘉右エ門(おおといわ かえもん、1890年4月13日… 大門岩 嘉右エ門(おおといわ かえもん、1890年4月13日 - 1950年4月5日)は、現在の福岡県糸島市出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名は吉村 嘉右衛門。最高位は東関脇(1922年1月場所)。現役時代の体格は175cm、101kg。得意技はもろ差し、右四つ、寄り、上手出し投げ。非力ながら出足は鋭かった。 福岡県志摩郡芥屋村(のち糸島郡芥屋村→同志摩村→同志摩町、現在の糸島市)出身。1909年1月山分部屋から初土俵を踏む。後に出羽海部屋に移籍する。四股名は故郷の名勝「芥屋の大門」に因んだ。順調に昇進し1914年1月十両、1917年1月入幕した。175cm、101kgの体でもろ差し、右四つを得意とし、上手出し投げも得意とするなど技巧派。
原 久一郎(はら ひさいちろう、1890年4月10日 - 1… 原 久一郎(はら ひさいちろう、1890年4月10日 - 1971年10月19日)は、ロシア文学者。
菊池 義郎(きくち よしろう、1890年4月10日 – 19… 菊池 義郎(きくち よしろう、1890年4月10日 – 1990年2月4日)は、日本の政治家、植民政策学者。自由民主党衆議院議員。日本商科大学(廃校)の学長も務めた。
細野 躋(ほその のぼる、1890年4月9日 - 1984年… 細野 躋(ほその のぼる、1890年4月9日 - 1984年3月30日)は昭和時代日本の官僚、実業家。 1890年(明治23年)、東京府豊多摩郡渋谷村(現在の東京都渋谷区)で細野順の長男として出生。1915年(大正4年)に東京帝国大学法学部を卒業し高等文官試験に合格、鉄道省に入省する。イギリス、次いでアメリカ合衆国へ留学し、帰国後に鉄道書記官を経て総務課長へ至る。官僚時代には各地の鉄道局職員が編成したチームの対抗戦「全国鉄道野球大会」への出場経験がある。 阪神電気鉄道へ出向後、取締役支配人に至るが読売新聞社の正力松太郎から甲子園球場を本拠地とする職業野球チーム創設を持ち掛けられ、今西与三郎社長、石井五郎専務らと1935年(昭和10年)12月に阪神タイガースの前身となる「大阪野球倶楽部」設立に尽力した。
原田 実(はらだ みのる、1890年4月8日 - 1975年… 原田 実(はらだ みのる、1890年4月8日 - 1975年1月6日)は、日本の教育学者、作家、翻訳家。早稲田大学名誉教授。 千葉県朝夷郡丸村に生まれる。千葉県立安房中学校(現・安房高等学校)を卒業。その後、早稲田大学高等師範部卒。 若山牧水と交流し、牧水が主宰する詩歌雑誌『創作』(1910年創刊)や太田水穂の『潮音』(1915年創刊)に短歌や歌論を精力的に発表。歌人として注目されたが、その後は学者の道で大成することとなった。 1918年、『青鞜』(1911 - 1916)や『潮音』などに「斎賀琴」あるいは「斎賀琴子」名義で短歌や小説を発表していた斎賀こと(1892 - 1973)と結婚。 雑誌『教育時論』編集長、1946年早大教授。
萩原 彦三(はぎわら ひこぞう、1890年(明治23年)4月… 萩原 彦三(はぎわら ひこぞう、1890年(明治23年)4月6日 - 1967年(昭和42年)10月15日)は、日本の拓務官僚。 埼玉県大里郡御正村(現在の熊谷市)出身。旧制熊谷中学、旧制第一高校を経て、1915年(大正4年)10月に文官高等試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学法律学科を卒業した。朝鮮総督府試補、同参事官、同事務官、学務局学務課長・宗教課長、殖産局水産課長、総督官房文書課長、殖産局土地改良課長、咸鏡南道知事などを歴任した。 その後、拓務省管理局長、同殖産局長を経て、1937年(昭和12年)5月14日に拓務次官に就任し、1939年(昭和14年)4月15日に次官を辞して退官した。
水沢 孝策(みずざわ こうさく、1890年(明治23年)4月… 水沢 孝策(みずざわ こうさく、1890年(明治23年)4月6日 - 1968年(昭和43年))は、日本の外交官。駐パナマ公使。 新潟県出身。1917年(大正6年)、東京帝国大学法学部政治科を卒業し、外交官及領事官試験に合格した。外務属、領事官補、スペイン公使館三等書記官、ドイツ大使館三等書記官、ポーランド領事館領事、ロサンゼルス領事、アメリカ合衆国大使館二等書記官、同一等書記官を歴任。1933年(昭和8年)、外務書記官・調査部第二課長となり、翌年には香港総領事に転じた。1937年(昭和12年)、ホノルル総領事に就任し、1939年(昭和14年)に駐パナマ公使に任命された。 1940年(昭和15年)に退官した後は、南洋拓殖株式会社顧問を務めた。
樋貝 詮三(ひがい せんぞう、1890年〈明治23年〉4月3… 樋貝 詮三(ひがい せんぞう、1890年〈明治23年〉4月3日 - 1953年〈昭和28年〉1月1日)は、日本の政治家、法学者。法学博士。位階は正三位。 保険院長官、衆議院議員、第37代衆議院議長、第3次吉田内閣国務大臣・賠償庁長官を歴任した。 山梨県東山梨郡勝沼町(現・甲州市)出身。日川中学、中央大学夜間法科在学中に文官高等試験に合格し、1918年に京都帝国大学法科大学を卒業。卒業後は法制官僚となり、法制局に勤務の傍ら中央大学講師を務め、内閣恩給局長・保険院長官などを歴任。1943年、『海の慣習法』で京都帝国大学法学博士。 1946年の戦後最初に行われた第22回衆議院議員総選挙では、郷里の山梨から日本自由党(鳩山自由党)の公認候補として擁立されて立候補し、当選する。
赤松 小寅(あかまつ ことら、1890年〈明治23年〉4月3… 赤松 小寅(あかまつ ことら、1890年〈明治23年〉4月3日 - 1944年〈昭和19年〉4月25日)は、日本の内務・警察官僚。官選府県知事。 東京府出身、静岡県磐田郡見付町で生まれる。旧幕臣、海軍中将・赤松則良の五男として生まれる。学習院中等学科、同高等学科を経て、1915年2月、京都帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年10月、文官高等試験行政科試験に合格。1916年2月、内務省に入り、長崎県工場監督官補として警察部保安課勤務となる。 1917年10月、長崎県属として内務部地方課勤務に転じた。以後、同地方課長心得、長崎県理事官、三重県農商課長、山梨県理事官、内務省社会局事務官・工場監督官などを歴任。
赤堀 鉄吉(あかほり てつきち、1890年(明治23年)4月… 赤堀 鉄吉(あかほり てつきち、1890年(明治23年)4月3日 - 1968年(昭和43年)1月1日)は、日本の外交官。台湾総督府官僚、弁護士。 大阪市此花区西島町出身。1918年(大正7年)、東京帝国大学法学部英法科を卒業。愛知県属、台南州警務課長・理蕃課長、台北州教育課長、高雄州警務部長、同内務部長、台中州警務部長、殖産局鉱務課長・商工課長、同山林課長・鉱務課長、文教局学務課長、内務局地方課長・地理課長、殖産局農務課長、専売局庶務課長、新竹州知事、高雄州知事などを歴任した。 退官後は台湾住宅営団理事長に就任した。 1942年(昭和17年)より中華民国大使館参事官・廈門総領事を務めた。戦後に弁護士を開業。
鷹司 信輔(たかつかさ のぶすけ、1889年4月29日 - … 鷹司 信輔(たかつかさ のぶすけ、1889年4月29日 - 1959年2月1日)は日本の公爵、貴族院議員、明治神宮宮司、鳥類学者。日本鳥学会会長。「鳥の公爵」と呼ばれた。
栗田 健男(くりた たけお、1889年〈明治22年〉4月28… 栗田 健男(くりた たけお、1889年〈明治22年〉4月28日 - 1977年〈昭和52年〉12月19日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。海軍兵学校38期卒業。 1889年4月28日、茨城県水戸市で父・栗田勤の次男として生まれる。父は漢学者であり、大日本史編集員も務めた。祖父は東京帝大教授の文学博士栗田寛(藤田東湖、会沢正志斎の弟子)。水戸藩士の家系であり、祖先は清和源氏に連なるというが、元禄時代に水戸に移り油屋を生業とした。父の訓育は水戸の気風を反映し無骨と不言実行をモットーとしたという。青年時代の栗田は学問は出来、頑張りやその上に高い人格を持っていた。 旧制水戸中学校(現在の茨城県立水戸第一高等学校)を経て、1910年7月18日、海軍兵学校を38期生として149名中28番の成績で卒業。
安詮院 貞熊(あぜぶ さだくま、1889年〈明治22年〉4月… 安詮院 貞熊(あぜぶ さだくま、1889年〈明治22年〉4月27日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚。彰化市尹、台中市尹。 熊本県玉名郡伊倉町大字伊倉出身。1903年(明治36年)玉名郡南都尋常高等小学校卒業。1904年(明治37年)7月、熊本県小学校准訓導検定試験に合格し、玉名郡賢木小学校准訓導となる。1907年(明治40年)熊本県師範学校を退学。1912年(明治45年)3月、殖産局林業講習所を卒業する。 ついで、1915年(大正4年)文官普通試験合格後、翌年、新竹市庁に出仕。1920年(大正9年)3月に台湾総督府営林局書記、同年同府属、1932年(昭和7年)台湾総督府地方理事官を経て、台北州基隆郡守となる。
山枡 儀重(やまます のりしげ、1889年(明治22年)4月… 山枡 儀重(やまます のりしげ、1889年(明治22年)4月24日 - 1937年(昭和12年)12月25日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)、教育者。
山下 太郎(やました たろう、1889年(明治22年)4月2… 山下 太郎(やました たろう、1889年(明治22年)4月24日 - 1967年(昭和42年)6月9日)は、日本の実業家。その業績から「満州太郎」「アラビア太郎」「山師太郎」などと呼ばれた。 秋田県平鹿郡大森村(のち大森町、現・横手市)に近藤正治・みつ夫妻の長男として生まれる。太郎の祖父母にあたる山下太惣吉・ひさ夫妻の養子となり、山下姓を名乗る。祖父はまもなく死去し、祖母の手で育てられた。大森小学校4年を修了し、東京の実父母の元で慶應義塾普通部に通った。その後北海道帝国大学農学部(旧札幌農学校、現北海道大学)に入学、北海道に渡った。 北海道帝国大学時代、のちに北海道学芸大学(現北海道教育大学)および帯広畜産大学の学長を務めた農学者の田所哲太郎(秋田県能代の出身)と知り合い、親交を深めた。
猪俣 津南雄(いのまた つなお、明治22年(1889年)4月… 猪俣 津南雄(いのまた つなお、明治22年(1889年)4月23日 - 昭和17年(1942年)1月19日) 戦間期日本の社会主義者。日本共産党創設(1922年)に参加。その後、『労農』同人に加わり、(第二次)共産党との論争で中心的役割を果たすが29年9月に脱退し、独自の立場から戦略論・組織論を展開。日本資本主義論争には参加せず。人民戦線事件(1937年)で逮捕されるまで政治・経済の現状分析や農村踏査に心血を注いだ。 ・1889年4月、新潟市の芸者・広木チヨの子として生まれる。父は長岡で油問屋を営む猪俣津平。小学校入学と同時に長岡の猪俣家に引き取られ、しばらくして猪俣姓を名乗る。 ・1902年に入学した県立長岡中学校は俳句が盛んなところで、猪俣も「鹿語」(ろくご)の俳号で句作に熱中する。
村上 義温(むらかみ よしあつ、1889年(明治22年)4月… 村上 義温(むらかみ よしあつ、1889年(明治22年)4月22日 - 1954年(昭和29年)10月20日)は、日本の外交官。駐ペルー公使。 石川県出身。1910年(明治43年)、神戸商業高等学校(現在の神戸大学)を卒業し、翌年に外交官及領事官試験に合格した。上海に領事官補として赴任し、以後大使館三等書記官、領事・関東都督府事務官、外務事務官・帝都復興院書記官などを歴任し、その間、長春、南京、ニューヨーク、イギリスに勤務した。1924年(大正13年)より香港総領事、ハンブルク総領事を務め、1931年(昭和6年)からはトルコ大使館参事官となった。1933年(昭和8年)に駐ペルー公使に任命され、1935年(昭和10年)からは駐エクアドル公使を、1936年(昭和11年)からは駐ボリビア公使を兼ねた。
塚本 三(つかもと ぞう、1889年4月21日 - 1952… 塚本 三(つかもと ぞう、1889年4月21日 - 1952年8月25日)は、日本のジャーナリスト、政治家。公選初の名古屋市長(2期)。戦前は衆議院議員(1期)、名古屋市会議員などを務めた。旧姓は井箟。 岐阜県土岐郡稲津村(現・瑞浪市稲津町)出身。幼くして塚本竜三郎の養子となる。稲津小学校、瑞浪高等小学校卒業。1907年、旧制名古屋中学校卒業。 日本陶器、森村組を経て、1920年2月に名古屋新聞政治記者となる。 1921年10月、名古屋市会議員に就任。1922年3月、名古屋新聞編集長となる。1928年2月、名古屋新聞を退社。 1937年、第20回衆議院議員総選挙で当選し、立憲民政党の衆議院議員となる。
和田 順顕(わだ じゅんけん、1889年4月21日 - 19… 和田 順顕(わだ じゅんけん、1889年4月21日 - 1977年12月13日)は、日本の建築家。横浜郵船ビルなどの作品で知られる。 石川県金沢市生まれ。石川県立金沢第一中学校を経て、東京美術学校図案科に進み、小島憲之、大澤三之助、古宇田実、岡田信一郎らの指導を受ける。1912年(明治45年)に卒業後、古宇田実設計の松屋呉服店、鶴屋呉服店の工事監督に従事する。1914年から松屋呉服店建築顧問(1921年まで)。1915(大正4年)年に独立した。1921年にアメリカ各地の建築を視察した。1923年(大正12年)、丸ビルに建築事務所を開いた。 1930年代後半から日本精工川崎工場など工場を多く設計した。
石野 瑛(いしの あきら、1889年〈明治22年〉4月21日… 石野 瑛(いしの あきら、1889年〈明治22年〉4月21日 - 1962年〈昭和37年〉12月5日)は、日本の教育者・歴史学者・考古学者。福井県出身。神奈川県横浜市に武相中学校・高等学校(学校法人武相学園)を創設した。 現在の福井県坂井市にあたる旧坂井郡丸岡町に生まれる。15歳で岐阜県内の郵便局に就職するが、教育者になることを志して教員資格を取得し、一家で神奈川県横浜市に転居する。 1905年(明治38年)、17歳で三浦郡葉山町の小学校教員となるが、自らも教養を高めるべく神奈川県尋常師範学校に通う。1911年(明治44年)に同師範学校を卒業し、神奈川県立旧制横浜小学校の教員(訓導)となる。 1914年(大正3年)、25歳の時に沖縄県に招聘され那覇天妃(てんぴ)小学校の校長となる。
萱嶋 高(かやしま たかし、1889年〈明治22年〉4月18… 萱嶋 高(かやしま たかし、1889年〈明治22年〉4月18日 - 1956年〈昭和31年〉2月18日)は、大日本帝国陸軍軍人、陸軍中将。宮崎県児湯郡高鍋町出身。陸士22期、陸大32期。 天津駐屯歩兵隊(昭和11年5月30日からは支那駐屯歩兵第2連隊)長、歩兵第136旅団長などを歴任し、太平洋戦争開戦後は、留守第6師団長から新設された第46師団の師団長となるが師団が南方に渡る前に予備役、その後召集され再び留守第6師団長。 退役後、1945年に宮崎市長に就任したが、連合国軍の進駐にともない辞職した。その後、公職追放となり、極東国際軍事裁判(東京裁判)において、通州事件に関する証言をおこなっている。
君島 清吉(きみじま せいきち、1889年(明治22年)4月… 君島 清吉(きみじま せいきち、1889年(明治22年)4月16日 - 1966年(昭和41年)1月11日)は、日本の内務官僚。官選県知事。 栃木県下都賀郡栃木町(現栃木市)出身。君島寅吉の長男として生まれる。第一高等学校を卒業。1917年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。内務省に入省し奈良県工場監督官補となる。1919年10月、高等試験行政科試験に合格。 以後、奈良県警視、国勢院書記官、内務省社会局事務官、同書記官、同労働部労務課長、兼同部労政課長などを歴任。 1931年12月、茨城県知事に就任。1932年6月、香川県知事に転任。県下の治安と県民の生活安定に尽力。1933年6月、宮崎県知事に転任。
井上 吉次郎(いのうえ きちじろう、1889年4月13日 -… 井上 吉次郎(いのうえ きちじろう、1889年4月13日 - 1976年3月4日)は、ジャーナリスト、社会学者。 和歌山県出身。東京帝国大学卒。1916年東京日日新聞社入社、大阪毎日新聞社出版局次長。1946年創刊の「新大阪新聞」主筆。1949年関西大学教授、60年定年、1966年追手門学院大学教授。1959年「社会交通と文化交流に就いての社会学的考察」で関西大学文学博士。
加藤 精一(かとう せいいち、1889年4月11日 - 19… 加藤 精一(かとう せいいち、1889年4月11日 - 1963年8月28日)は、日本の俳優である。本名同じ。坪内逍遙の文芸協会に参加、新劇の初期から舞台俳優として活動した人物として知られる。 1889年(明治22年)4月11日、岡山県上房郡高梁町(現在の同県高梁市)に生まれる。父は熊本藩の漢学者出身の人物であったが、精一の出生後、まもなく死去したため、精一は、加藤家の養子となった。のちの俳優の成松和一(1905年 - 1944年)は義弟にあたる。地元の旧制高梁中学(現・岡山県立高梁高等学校)へ通い卒業する。 東京に移り、早稲田大学英文科に入学、小川未明、三木露風、北原白秋、西條八十らと詩作を通じて親交を結んだ。
山下 長(やました たけし、1889年4月8日-1959年2… 山下 長(やました たけし、1889年4月8日-1959年2月9日)は、日本の実業家。オリンパス(旧・高千穂製作所)創業者、高千穂製作所社長。顕微鏡をはじめとする光学機器の製造業を経営した。 鹿児島県名瀬の金久(現・奄美市内)出身。名瀬の高等小学校で3年間学んだ後、鹿児島の本家にひきとられて中学造士館に入る。1904年に上京。東京の京北中学校 (旧制)と京都の第三高等学校 (旧制)を卒業。1915年東京帝国大学法科大学法律学科(独法科)卒業。弁護士となるが、父の勧めで実業界に転じ親戚の松方正義関連の企業に就職することとなる。川崎造船所などの大企業は断り、松方の五男・五郎が経営する常盤商会に1918年入社。
山本 熊一(やまもと くまいち、1889年(明治22年)4月… 山本 熊一(やまもと くまいち、1889年(明治22年)4月8日 - 1963年(昭和38年)1月17日)は、日本の外交官。外務次官、大東亜次官、駐タイ大使。 山口県出身。1912年(明治45年)、東亜同文書院を卒業。外交科試験以外の合格者を採用する「門戸解放」の一環として、高等文官試験に合格し、1920年(大正9年)に外務事務官となり、トルコ大使館三等書記官、外務省通商局勤務、イギリス大使館二等書記官、満州国大使館二等書記官、同一等書記官、外務省調査部第五課長、同通商局長を歴任した。1940年(昭和15年)東亜局長となり、1941年(昭和16年)10月にはアメリカ局長を兼任した。さらに1942年(昭和17年)外務次官に就任し、同年11月1日大東亜次官に転じた。
川副 隆(かわそえ たかし、1889年(明治22年)4月8日… 川副 隆(かわそえ たかし、1889年(明治22年)4月8日 - 1962年(昭和37年)8月2日)は、大正から昭和期の実業家・政治家。衆議院議員。 長崎県西松浦郡伊万里町(現伊万里市)で、政治家川副綱隆の長男として生まれる。1915年(大正4年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業した。 三菱商事に入社。漢口出張所長、船舶部長代理、漢口日本居留民団行政委員などを歴任。その後、海運業に従事し、神戸会陽汽船取締役、大阪静鉱業取締役、佐世保親和銀行取締役、佐世保運輸取締役、西肥菱油取締役、川副商会社長、日東燃料社長、九北運輸社長、丸三肥料社長、佐世保魚市場社長、佐世保製氷冷蔵社長などを務めた。 1937年(昭和12年)4月、第20回衆議院議員総選挙(長崎県第2区、立憲民政党公認)で初当選し、1942年(昭和17年)4月の第21回総選挙で翼賛政治体制協議会の推薦を受け出馬して再選された。
菊池 知勇(きくち ちゆう・ともお、1889年〈明治22年〉… 菊池 知勇(きくち ちゆう・ともお、1889年〈明治22年〉4月7日 - 1972年〈昭和47年〉5月8日)は、日本の教育者、歌人。 岩手県東磐井郡渋民村(現・一関市大東町曾慶)出身。奥玉高等小学校に入学したのち下折壁高等小学校を卒業。岩手師範学校(現・岩手大学教育学部)卒業。上京し、慶応幼稚舎の教員となる。1910年若山牧水の『創作』の創刊に参加、1926年初めての綴方専門誌『綴方教育』を創刊。1927年口語短歌誌『ぬはり』を創刊した。幼稚舎での教え子に詩人の薩摩忠がいる。 『ぬはり』は戦時下の用紙統制で1944年、『真樹』(1930年、山本康夫創刊)などと合併し『直毘』(なおび)として刊行された時期もあったが、その後も刊行が続いている。
中山 詳一(なかやま しょういち、1889年(明治22年)4… 中山 詳一(なかやま しょういち、1889年(明治22年)4月6日 - 1945年(昭和20年)3月20日)は、日本の外交官。駐イラン公使。 京都府出身。1913年(大正2年)、京都帝国大学法科大学を卒業。1916年(大正5年)、外交官及領事官試験に合格し、漢口に領事官補として赴任した。以後、浦塩派遣軍政務部員、ロシア在勤外交官補、外務事務官、通商局第二課勤務、在アメリカ合衆国大使館三等書記官、同二等書記官、牛荘領事・関東庁事務官、外務書記官、亜細亜局第一課長、同第二課長、在英国大使館一等書記官、中華民国公使館一等書記官、同大使館参事官を歴任。1934年(昭和9年)からはイタリア大使館参事官を務めた。
板垣 只二(いたがき ただじ、1889年(明治22年)4月5… 板垣 只二(いたがき ただじ、1889年(明治22年)4月5日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。弁護士。 徳島県出身。井村乕吉の二男として生まれ、板垣住蔵の養子となった。1911年(明治44年)、東京高等工業学校(現在の東京工業大学)紡織科を卒業。朝鮮総督府属、同税関鑑定官を務めた。1921年(大正10年)、高等試験行政科に合格。朝鮮総督府税関監視官・事務官、税関関税官、理事官、馬山府尹、木浦府尹などを歴任した。 退官後の1932年(昭和7年)、高等試験司法科に合格し、弁護士を開業した。1935年(昭和10年)には中央大学法学部を卒業した。 その他、東京ビタミン製造会社社長、第一化学工業株式会社社長、北陸工業株式会社社長、小倉鉱業株式会社社長、時事写真速報株式会社取締役会長、京浜昭興株式会社社長、共立企業株式会社取締役、蔵前工業会館株式会社取締役、共立興業株式会社取締役、壁谷ゴム工業株式会社取締役、銀座昭興株式会社監査役などを務めた。
福田 重清(ふくだ しげきよ、1889年〈明治22年〉4月4… 福田 重清(ふくだ しげきよ、1889年〈明治22年〉4月4日 - 1964年〈昭和39年〉7月19日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員(1期)。初代日立市長(1期) 。位階は従五位。勲四等旭日小綬章。 富山県出身。1909年(明治42年)中央大学法律科卒。日本鉱業(日鉱)に入り、日立鉱業所庶務課長を経て、1933年(昭和8年)副所長も兼任する。1939年(昭和14年)日立市が発足すると同所副所長のまま市長に就任した。市長は翌年まで務め、1942年(昭和17年)4月の第21回衆議院議員総選挙では茨城2区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受け立候補して当選する。衆議院議員在職中に日立鉱業所の所長に就任する。
大友 順治(おおとも じゅんじ、1889年(明治22年)4月… 大友 順治(おおとも じゅんじ、1889年(明治22年)4月4日 - 1966年(昭和41年)10月14日)は、日本の政治家。宮城県富谷村長(2期)。 宮城県黒川郡富谷村(のち富谷町、現・富谷市)出身。富谷高等小学校卒。家業(米穀・食糧・肥料・雑貨の販売)に従事し、1929年(昭和4年)富谷村会議員に当選。1945年(昭和20年)11月富谷村長に就任した。 1947年(昭和22年)地方自治法の施行に伴う初の公選による富谷村長に当選した。戦後の財政的に苦しい時期に六・三・三制による教育改革での新制中学校校舎建設計画を立案し、着工に至り、完成にこぎつけた。また、度重なる台風被害に対し、災害からの早期復旧事業の達成に力を入れた。
西村 卓爾(にしむら たくじ、1889年〈明治23年〉4月3… 西村 卓爾(にしむら たくじ、1889年〈明治23年〉4月3日) - 1967年〈昭和42年〉10月10日)は、大正時代中期の歯科医師である。 長門国美祢郡大嶺村(山口県美祢市大嶺町重安)に醫家西村家第四代当主西村俊三(にしむら しゅんぞう)の嫡男として生まれた。父親と同じく医師を志し大阪高等医学専門学校(現:大阪医科薬科大学)を卒業。しかし剣道の試合中に耳を痛め、歯科医師へ転向する。東京歯科医学専門学校(現:東京歯科大学)卒業(第3期)。大正2年3月、山口県下関市新地町において西村歯科医院開業。 大正7年、山口県に2歯科医師会が存立し、対立状態が続いた当時、日本連合歯科医師会会長である血脇守之助氏、山口県歯科医師会会長である林義三郎氏と会談、問題解決に尽力する[どうやって?]。
多田 北烏(ただ ほくう、1889年〈明治22年〉4月3日 … 多田 北烏(ただ ほくう、1889年〈明治22年〉4月3日 - 1948年〈昭和23年〉1月1日)は、日本の商業美術家。本名は多田 嘉寿計(かすけ)。大正から昭和初期にかけてポスターや雑誌のデザインを多数手がけ、日本のポスターデザインの先駆者と言われる。 長野県松本市北深志出身。多田庄野の長男として生まれる。江戸時代に信濃国安曇郡で発生した貞享騒動の義民多田加助の子孫にあたる。13歳で上京し、日本画家の大和雲陽に師事、旧制東京高等工業学校図案科選科修了、川端画学校に学び、凸版印刷図案部を経て、東京図案研究所長等を歴任した。大正11年(1922年)に、日本初のデザイン制作会社である実用美術研究所サン・スタジオを創設し、商業美術の向上と後進の指導に努力した。