2代 江原 桂三郎(えばら けいざぶろう、1894年〈明治2… 2代 江原 桂三郎(えばら けいざぶろう、1894年〈明治27年〉5月9日 - 1967年〈昭和42年〉9月28日)は、大正から昭和時代前期の政治家、実業家。群馬県前橋市長。初名・亮次。 のちに前橋市長を務める先代・江原桂三郎の次男として前橋市新町(現在の朝日町2丁目)に生まれる。1919年(大正8年)東京帝国大学法学部政治科を卒業し、三菱合資会社銀行部(三菱銀行)に勤務する。東京電燈前橋支店勤務、群馬中央銀行調査部長、同行常務取締役、群馬県農工銀行取締役などを歴任。さらに群馬大同銀行(現・群馬銀行)常務取締役となった。1929年(昭和4年)に桂三郎の名を襲名。 1933年(昭和8年)12月24日、前橋市長に就任。
谷 三三五(たに ささご、1894年5月9日 - 1956年… 谷 三三五(たに ささご、1894年5月9日 - 1956年7月24日、旧姓:真殿)は、日本の陸上競技選手(短距離)・指導者。日本人では初めて100m走で10秒台の記録を出した人物である。1924年のパリオリンピックに出場。 岡山県和気郡伊里村(現在の備前市伊里)出身。 伊里尋常高等小学校(現在の備前市立伊里小学校)を卒業、後に明治大学に進学し、大学卒業後は鉄道省に入省した。 1917年の第5回日本陸上競技選手権大会男子100mで真殿三三五名義で出場し、12秒0で初優勝。その後、日本選手権では第10回大会から第12回大会まで男子100m三連覇を果たしている。 1924年にはパリオリンピックの日本代表に選ばれ、岡山県出身者で初の五輪代表となる。
竹内 新平(たけうち しんぺい、1894年5月7日 - 19… 竹内 新平(たけうち しんぺい、1894年5月7日 - 1945年4月1日)は、大正・昭和期の大蔵官僚。 静岡県相良町(現牧之原市)出身。東京帝国大学法学部独法科卒業後、大蔵省に入省し、主税局勤務を振り出しに長野税務署長、高崎税務署長、大阪北税務署長などを歴任。阿波丸事件で遭難死した。
大見 為次(おおみ ためじ、1894年(明治27年)5月6日… 大見 為次(おおみ ためじ、1894年(明治27年)5月6日 - 1962年(昭和37年)5月)は、日本の政治家。安城町会議員(1920年-1947年)、安城町長(1947年-1952年、2期)、初代安城市長(1952年-1959年、2期)、愛知県会議員(1931年-1955年)、愛知県議会議長(1947年-1950年)。 元衆議院議員の大見正は孫。 1894年(明治27年)5月6日、愛知県碧海郡安城村字出郷(現・安城市新田町)に生まれた。1907年(明治40年)に愛知県立農林学校(現・愛知県立安城農林高等学校)に入学し、1911年(明治44年)3月に卒業した。農林学校卒業後には青年団の学習会である双葉会に入会し、機関誌『双葉集』の1914年(大正3年)3月号には「農業組織改革に於ける組合中心主義」という論考を発表している。
青砥 喜三郎(あおと きさぶろう、明治27年(1894年)5… 青砥 喜三郎(あおと きさぶろう、明治27年(1894年)5月5日 - 昭和61年(1986年)8月13日)は、日本の実業家。元米子商工会議所顧問名誉副会頭。元米子信用金庫会長。 元山陰放送社長青砥昇、元米子信用金庫会長青砥順の父。 吉太郎の長男。鳥取県立農学校(現・鳥取県立倉吉農業高等学校)卒業。 昭和11年(1936年)米子信用組合主事、専務理事を経て第四代組合長に就任。昭和26年(1951年)から28年間にわたって改組後の米子信用金庫理事長を務め、山陰第一位、中国地方第三位の信用金庫の実績を築いた。 この間、鳥取県信用金庫協会会長、中国地区信用協会会長、全国信用金庫協会理事、米子商工会議所副会頭、米子ロータリークラブ会長、美保大空友の会会長、陸上自衛隊米子駐屯部隊協力会長などを務め、業界や地方経済社会の発展に尽くした。
林要(はやし かなめ、1894年5月3日-1991年12月2… 林要(はやし かなめ、1894年5月3日-1991年12月26日)は、日本のマルクス経済学者。 山口県出身。1920年東京帝国大学法学部卒、大原社会問題研究所助手となり『日本労働年鑑』の編集にあたる。1923年同志社大学教授。東大新人会で活動以来のマルクス主義者で、そのため1936年、同僚の野村重臣から赤化教授と糾弾されて大学を追われ、38年には執筆も禁止される。 戦後は愛知大学教授、関東学院大学教授。1979年退職。妻は林てる。
池田 宇右衛門(いけだ うえもん、1894年〈明治27年〉5… 池田 宇右衛門(いけだ うえもん、1894年〈明治27年〉5月3日 - 1960年〈昭和35年〉1月5日)は、日本の政治家。参議院議員。 長野県上水内郡三輪村(現長野市)生まれ。同郡上松農業会評議員を経て、長野市農会総代、副会長から会長となった。1928年(昭和3年)長野市会議員、1939年(昭和14年)長野県会議員となる。農村青年教育に力を入れ、中年青年代表者の指導員設置を提唱し、女子専門学校や市道展望道路の開通に尽力した。その他、養蚕組合長、長野県農会常任理事、全国都市農会常任理事、同副会長、長野市、長野県各参事会員、都市計画地方委員、長野県蚕糸会、同園芸協会各副会長、長野県花卉組合連合会、長野市農業協同養蚕組合連合会各会長などを歴任した。
高山 喜六(たかやま きろく、1894年(明治27年)5月3… 高山 喜六(たかやま きろく、1894年(明治27年)5月3日 - 1938年(昭和13年)4月13日は、日本の杖術家。号は武勝。玄洋社の一員でもあった。 福岡県宗像郡勝浦村(現在の福津市)出身 。白石範次郎(重明)より神道夢想流杖術を学んだ。 1928年(昭和3年)大日本武徳会杖術錬士之部 (精)錬士 1929年(昭和4年)福岡市大学通3丁目5の自宅に「福岡道場」を開き、兄弟弟子の清水隆次(克泰)、乙藤市蔵(勝法)らと神道夢想流杖術を指導した。同年5月 「第三十三回武徳祭大演武会」において制剛心照流居合術を演武、同年7月 大日本武徳会捕縄術錬士之部 (精)錬士 1930年(昭和5年)11月 「明治神宮鎮座十周年祭奉納武道形大会」において、神道夢想流杖術五月雨、一達流捕縄術、中和流短剣術、大和流軍用抱火筒術を演武 1933年(昭和8年)5月 「第三十七回武徳祭大演武会」において神道流剣術を演武7月 武道総合雑誌『信義』創刊号に福岡道場師範高山喜六武勝として「一達流捕縄術及び一心流鎖鎌術」の解説を寄稿 1935年(昭和10年)5月 大日本武徳会杖術教士之部 教士 1936年(昭和11年)3月20日 福岡農士学校の卒業式に際し、研究科第三期生、本科第四期生に対し高山師範より武道証をそれぞれ授与される。
猪原 良右衛門(いはら りょうえもん、1894年〈明治27年… 猪原 良右衛門(いはら りょうえもん、1894年〈明治27年〉5月2日 - 没年不明)は、日本の醸造家。 広島県山県郡加計町(現・安芸太田町)出身。先代良右衛門の息子。1915年7月、大阪高等工業学校醸造科卒業。1920年、東京薬学専門学校卒業。1年志願兵として入営、除隊後家業を継ぐ。 加計町商工会長、広島県火薬商組合長、広島県薬種商組合長、広島県地方森林会議員、広島県山林会長、所得税調査委員、山県郡連合軍人分会長、加計町軍人分会長、大日本消防協会代議員、加計郵便局長などをつとめる。戦後、公職追放となる。 農業及び林業の発展に多大の力を尽くす。宗教は真宗。趣味は読書。住所は広島県山県郡加計町古市。
沼田 亮義(ぬまた りょうぎ、1894年5月1日 - 198… 沼田 亮義(ぬまた りょうぎ、1894年5月1日 - 1981年1月15日)は、日本の政治家、僧侶。長野県常盤村村長、長野県仏教会副会長、總持寺顧問などを歴任。号は大安。 長野県下水内郡常盤村 (現飯山市照里)生まれ。旧制世田谷中学卒業。1819年(大正8年)曹洞宗大学林(現: 駒澤大学)卒業。 長崎県の三菱鉱業高嶋炭坑布教師、地方改良布教師、宗務所長、宗会議員、特選議員を経て、長野県遺族会理事、長野市老人クラブ連合会長、長野県保護司会理事、常盤村会議員を歴任。1951年に常盤村村長に就任。總持寺顧問、長野市如法寺33世を務める。
土井 正治(どい まさはる、1894年5月1日 - 1997… 土井 正治(どい まさはる、1894年5月1日 - 1997年5月3日)は、日本の実業家。住友化学工業社長・会長。住友化学の中興の祖でもある。 兵庫県武庫郡大庄村浜田(尼崎市浜田町に)父・武内舛量、母・菊恵の長男として生まれる。生家は浄専寺と言い、境内に大きな樅や楠のある広い寺である。武内家は武内宿禰(神功皇后、応神天皇らに仕えた大臣。蘇我氏の祖と伝えられる)の子孫といわれる。土井は武内宿禰から数えて、ちょうど七十代目の末裔にあたる。父武内舛量は、西本願寺に勤め、法王の大谷光尊(明如上人)(大谷光瑞の父)に目をかけられ、日清戦争のころ軍隊布教使となった。ところが軍隊布教でマラリアにかかり、1897年9月、土井が3歳のとき、32歳で死去した。
前田 善治(まえだ ぜんじ、1893年(明治26年)5月31… 前田 善治(まえだ ぜんじ、1893年(明治26年)5月31日 - 1970年(昭和45年)6月2日)は、日本の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員。 和歌山県名草郡安原村字吉原(現・和歌山市)で前田和一の長男として生まれ、1910年、前田勝之助の養子となる。北海道庁立上川中学校を経て、慶應義塾大学部理財科で学んだ。北海道に戻り農業を営む。 旭川信用組合監事、北日本無尽 (株) 監査役、下村育英財団理事、前田和一商店社長、旭川小型モータース社長、旭川信用金庫理事、旭川瓦斯 (株) 常任監査役、人事調停委員などを務めた。 政界では、旭川市会議員、同議長、北海道会議員、同参事会員を歴任。この間、旭川市長候補者に推薦されたが承諾しなかった。
三好萬次(みよし まんじ 1893年5月28日 - 1967… 三好萬次(みよし まんじ 1893年5月28日 - 1967年7月30日)は、日本の実業家で近畿日本鉄道株式会社元代表取締役会長、近畿車輛株式会社取締役。京都府出身。 1915年(大正4年)、関西大学専門部法律学科在学中に大阪電気軌道(現・近畿日本鉄道)に入社。会計課長から総務部長を経て、1934年(昭和9年)には常務取締役、3年後専務取締役に就任。1944年(昭和19年)には常任監査役となるが、1947年(昭和22年)、公職追放令により同社を退職。1951年(昭和26年)、公職追放解除となり、再び近畿日本鉄道取締役に就任。1954年(昭和29年)には同社取締役会長に選ばれた。1960年(昭和35年)には関西大学第四代理事長に就任した。
菊田 多利男(きくた たりお、1893年5月28日 - 19… 菊田 多利男(きくた たりお、1893年5月28日 - 1963年12月17日)は、日本の冶金学者。元日立製作所中央研究所所長。元日本金属学会会長。帝国学士院賞受賞。 宮城県仙台市出身。1920年東北帝国大学理学部物理学科卒業。1926年東北帝国大学理学博士。1933年戸畑鋳物(のちの日立金属)入社。1940年帝国学士院賞受賞。1948年日立製作所常務。1951年日立製作所中央研究所所長。1959年日本金属学会会長。日立化工社長、日本学術会議会員を歴任。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
斎藤 清衛(さいとう きよえ、1893年5月26日 - 19… 斎藤 清衛(さいとう きよえ、1893年5月26日 - 1981年3月4日)は、日本の国文学者。筆名・伎世江。 1893年、山口県熊毛郡で生まれた。徳山中学校、第三高等学校を経て、東京帝国大学国文科に進学。1918年に卒業。 大学卒業後は教諭となり、埼玉師範学校に勤務。次いで1920年より広島高等師範学校教授、1933年に退職し、欧米を訪ねた。1938年、学位論文『応永永享時代文芸意識の研究』を東京帝国大学に提出して文学博士号を取得。1940年、北京師範大学教授として中国に赴任。1942年、京城帝国大学教授に就いた。 1946年、広島文理科大学教授に就いた。1953年、旧・東京都立大学教授に転じた。
市岡 寿(いちおか ひさし、1893年5月26日 - 196… 市岡 寿(いちおか ひさし、1893年5月26日 - 1963年2月14日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
及川 規(おいかわ ただし、1893年(明治26年)5月26… 及川 規(おいかわ ただし、1893年(明治26年)5月26日 - 1981年(昭和56年)11月26日)は、大正から昭和期の教育者、弁護士、政治家。衆議院議員。 岩手県江刺郡岩谷堂町(江刺町、江刺市を経て現奥州市)で生まれる。岩手師範学校を経て、1917年(大正6年)東京高等師範学校(のち東京教育大学)を卒業。 岩手県師範学校教諭、島根県立杵築中学校(現島根県立大社高等学校)教諭を歴任。1920年(大正9年)高等試験行政科試験に合格。神奈川県視学官に就任。その後、横浜市で弁護士を開業し、横浜弁護士会副会長も務めた。その他、私立本牧中学校(のち現在の横浜中学校・高等学校に合併)校長兼理事長となった。
浜田 広介(はまだ ひろすけ、旧字体:濱田 廣介、1893年… 浜田 広介(はまだ ひろすけ、旧字体:濱田 廣介、1893年〈明治26年〉5月25日 - 1973年〈昭和48年〉11月17日)は、日本の童話作家。本名は濱田 廣助。日本児童文芸家協会初代理事長。代表作に『泣いた赤鬼』『椋鳥の夢』『竜の目の涙』などがあり、一連の作品は「ひろすけ童話」と称される。坪田譲治、小川未明とともに「児童文学界の三種の神器」と呼ばれた。次男濱田滋郎は音楽評論家になった。 山形県東置賜郡高畠町の農家に生まれた。幼少時から巖谷小波を愛読。米沢中学(現山形県立米沢興譲館高等学校)、早稲田大学英文科卒。中学時代は大熊信行や上泉秀信と同人誌を作っていた。 1914年(大正3年)大学入学の年に『萬朝報』の懸賞小説に短編小説『零落』が入選したのを皮切りに、何作かの小説を著す。
浜田 広介(はまだ ひろすけ、旧字体:濱田 廣介、1893年… 浜田 広介(はまだ ひろすけ、旧字体:濱田 廣介、1893年(明治26年)5月25日 - 1973年(昭和48年)11月17日)は、日本の童話作家。本名は廣助。日本児童文芸家協会初代理事長。代表作に『泣いた赤鬼』『椋鳥の夢』『竜の目の涙』などがある。坪田譲治、小川未明とともに「児童文学界の三種の神器」と呼ばれた。既婚。息子は音楽評論家の濱田滋郎である。
岩元 禄(いわもと ろく 1893年5月23日- 1922年… 岩元 禄(いわもと ろく 1893年5月23日- 1922年12月24日)は日本の大正期の建築家。歴史主義から離れ、斬新なデザインの作品を設計し、建築を創造として捉えた姿勢は同世代、次世代の建築家に影響を与えた。建築家、建築教育者として将来を嘱望されていたが、病気のため早世した。 西陣電話局を設計し、逓信省営繕の中核をなす設計者の一人であった。夭折のため作品数は少ない。 1893年(明治26年)、鹿児島県鹿児島市照国町生まれ。幼少時に父が死去し、兄・岩元禎が一高教師となったのに伴い、上京。青山小学校、府立一中、一高を経て、1915年(大正4年)東京帝国大学工科大学建築学科に入学。1918年に卒業し、逓信省に入った。
池田 克(いけだ かつ、1893年5月23日 - 1977年… 池田 克(いけだ かつ、1893年5月23日 - 1977年9月4日)は、日本の司法官僚、検事、裁判官。最高裁判所判事。 静岡県出身。幕臣、郡長・池田忠一の三男として生まれる。三重一中、第一高等学校を経て、1917年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(仏法)を卒業。同年8月、司法省に入り司法官試補・東京地方裁判所詰となる。 1917年7月、東京地裁予備検事に発令され、同検事、兼司法書記官・行刑局付、刑事局兼行刑局(思想部長)、大臣官房調査課長などを歴任。治安維持法などを立案し、その後、思想犯担当検事(通称・思想検事)となる。 1935年3月、大審院検事に就任。以後、東京刑事地方裁判所検事正、司法省刑事局長、名古屋控訴院(現:名古屋高等裁判所)検事長を歴任し終戦を迎える。
山本 晴介(やまもと はるすけ、1893年〈明治26年〉5月… 山本 晴介(やまもと はるすけ、1893年〈明治26年〉5月20日 - 1978年〈昭和53年〉12月25日)は、日本の武道家。段位は全日本剣道連盟居合道範士九段、剣道教士七段。流派は無双直伝英信流。 高知県香美郡赤岡町須留田で生まれる。香南八ヵ町村組合立城山高等小学校卒業後、唐箕作りの大工修行をしながら大日本武徳会赤岡支所及び高知支部で川崎善三郎らに剣道を学ぶ。1917年(大正6年)、大江正路に入門し、無双直伝英信流居合術を学ぶ。1922年(大正11年)4月、上京し、岩倉鉄道学校3年生に編入するも、同年8月に退学、帰郷する。 土陽新聞通信員兼高知農学校の剣道及び生理衛生科教師となる。1939年(昭和14年)、京都で開かれた全国青年剣道大会に高知農学校剣道部員を引率し、350校の中で準優勝に導いた。
内山 敬二郎(うちやま けいじろう、1893年5月19日 -… 内山 敬二郎(うちやま けいじろう、1893年5月19日 - 1977年12月24日)は、元旧制高等学校教授、元信州大学、元文教大学教授、西洋古典文学(ギリシア悲劇)研究家、西洋古典学会会員。 新潟県生まれ。1917年東京帝国大学文科大学英文科卒業。1922年旧制松江高等学校に英語の教授として奉職、1941年まで務める。1941年旧制松本高等学校に英語の教授として奉職、1949年5月に信州大学に包括されると、文理学部の英語の教授となり、1959年まで務める。その後、文教大学教授を1977年3月まで務めた。 上述の通り、西洋古典学の専門教育を受けた訳ではなく、在学中に田中秀央から西洋古典学を学んだ程度である。
薬師寺 尊正(やくしじ たかまさ、1893年(明治26年)5… 薬師寺 尊正(やくしじ たかまさ、1893年(明治26年)5月17日 - 1985年(昭和60年)12月8日)は、日本の弁護士。日本にバスケットボールやバレーボールが紹介された最初期に両競技の選手として活動。大日本体育協会主事を務め、バスケットボールとバレーボールの普及に努めた。第二次世界大戦後に東京都目黒区で人権擁護委員などの役職を務め、区政に貢献したことから、名誉区民として顕彰されている。 熊本県出身。旧制玉名中学校(現在の熊本県立玉名高等学校・附属中学校)、旧制第五高等学校を経て、東京帝国大学に進学。1917年(大正6年)、東京帝国大学法学部政治科を卒業。弁護士となり、岸清一法律事務所で勤務した。
山田 良秀(やまだ よしひで、1893年5月16日 - 19… 山田 良秀(やまだ よしひで、1893年5月16日 - 1978年1月7日)は、日本の経営者。 佐賀県佐賀市出身。1919年に行文行政科に合格し、1920年に東京帝国大学法学部英法学科を卒業し、同年に逓信省に入省し、岡山郵便局長、経理局長、航空局長官などを歴任。1943年に退官し、北海道配電(のちの北海道電力)社長に就任。北海道放送取締役、北日本航空社長なども歴任。 1978年1月7日老衰のために死去。84歳没。
保良 せき(ほら せき、1893年5月15日 - 1980年… 保良 せき(ほら せき、1893年5月15日 - 1980年10月6日)は、日本の看護師、厚生官僚、幼稚園経営者である。日本の訪問看護、公衆衛生、保育事業の先駆者の1人である。 長野県飯田市出身。東京市の東京慈恵医院看護婦教育所卒業後、1921年に女性伝道師として渡米。アメリカ合衆国コロラド州の看護師資格を得る。コロラド病院看護学校、コロンビア大学などで学び、ニューヨーク市で公衆衛生看護やセツルメントの訪問看護に携わる。 1929年に帰国後は大阪市の「大阪朝日社会事業団」(朝日新聞社)の「公衆衛生訪問婦協会」で主任として働きつつ、1931年から1943年まで看護専門雑誌「看護婦」を発刊し続けた。
市川 房枝(いちかわ ふさえ、1893年〈明治26年〉5月1… 市川 房枝(いちかわ ふさえ、1893年〈明治26年〉5月15日 - 1981年〈昭和56年〉2月11日)は、日本の婦人運動家、政治家。参議院議員(5期)。 1924年に「婦人参政権獲得期成同盟会」を結成。婦人参政権運動を主導した。終戦直後の1945年11月3日には「新日本婦人同盟」を結成。公職追放を受けるも、解除後の1950年に同団体を「日本婦人有権者同盟」に改称し、国会と女性を結び付ける運動を推し進めた。1953年に参議院議員に初当選。政界浄化、女性の地位や権利の向上に尽力した。 愛知県中島郡明地村字吉藤(現:一宮市明地)に生まれた。男2人、女4人の6人きょうだいで、市川は三女。誕生名は「ふさゑ」。
中御門 経民(なかのみかど つねたみ、1893年(明治26年… 中御門 経民(なかのみかど つねたみ、1893年(明治26年)5月13日 - 1989年(平成元年)12月31日)は、大正から昭和期の官僚、政治家、華族。貴族院男爵議員。 海軍士官・男爵、中御門経隆の三男として生まれた。父の隠居に伴い、1915年(大正4年)10月30日、男爵を襲爵した。 1917年(大正6年)7月、京都帝国大学法科大学政治経済学科を卒業。同年、拓殖局嘱託となる。その後、衆議院書記官兼拓務書記官、衆議院秘書課長、同調査部二課長、衆議院事務局議事課長、海軍省事務官、議院制度調査会幹事、議会制度審議会幹事などを務めた。 1939年(昭和14年)6月21日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで2期在任した。
元泉 馨(もといずみ かおる、1893年〈明治26年〉5月1… 元泉 馨(もといずみ かおる、1893年〈明治26年〉5月11日 - 1948年〈昭和23年〉7月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。変名・元金福。 愛媛県出身。小学校・元泉久吉の三男として生まれる。横浜第一中学校(現神奈川県立希望ヶ丘高等学校)卒業を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業し、同年12月、陸軍騎兵少尉に任官し騎兵第11連隊付となる。1926年(大正15年)12月、陸軍大学校(38期)を卒業した。 1927年(昭和2年)3月、騎兵第11連隊中隊長に就任し、陸士教官を経て、1931年(昭和6年)8月、騎兵少佐に昇進し近衛師団参謀となる。1932年(昭和7年)12月、陸軍騎兵学校教官に転じ、1936年(昭和11年)3月、騎兵中佐に進む。
紅露 みつ(こうろ みつ、1893年〈明治26年〉5月10日… 紅露 みつ(こうろ みつ、1893年〈明治26年〉5月10日 - 1980年〈昭和55年〉12月20日)は、日本の政治家。参議院議員(4期)、衆議院議員(1期)。 群馬県碓氷郡坂本村(現安中市松井田町)出身。神田女学校を卒業して、雑誌記者となり兄の友人[要出典]だった弁護士・紅露昭と結婚。衆議院議員を4期務めた夫の公職追放に伴い、1946年の総選挙に徳島県全県区から出馬(無所属)し、初当選を果たす。 その後民主党に入党するも翌1947年の総選挙では落選、だが同年8月の第1回参議院議員通常選挙補欠選挙で当選(任期3年)して国政復帰を果たし、以後国民民主党→改進党→日本民主党→自由民主党と党籍を変えながら通算4期務める。
鈴木 泉三郎(すずき せんざぶろう、1893年5月10日 -… 鈴木 泉三郎(すずき せんざぶろう、1893年5月10日 - 1924年10月6日)は、日本の劇作家、編集者である。豊島屋主人(としまやしゅじん)、伊豆 巳三郎(いず みさぶろう)などの筆名ももつ。 1893年(明治26年)5月10日、東京市赤坂区の青山地区(現在の東京都港区北青山か南青山)に生まれる。四谷区左門町(現在の新宿区左門町)にあった旧制・四谷第二小学校(現新宿区立四谷第六小学校)を卒業後、四谷銀行に入社、その傍ら、当時、同市同区葵町3丁目(現在の港区虎ノ門2丁目)にあった旧制・大倉商業学校(現在の東京経済大学)夜間部に通い、卒業する。が同市神田区錦町3丁目(現在の千代田区神田錦町)にあった国民英学会に進む。
岩切 章太郎(いわきり しょうたろう、1893年5月8日 -… 岩切 章太郎(いわきり しょうたろう、1893年5月8日 - 1985年7月16日)は、日本の実業家。宮崎交通グループの創業者。宮崎県宮崎市出身。 宮崎を観光地として整備した立役者として「宮崎観光の父」と呼ばれる。日南海岸に現在宮崎の風物詩になっているフェニックスの植林を行い、こどもの国の開園、えびの高原の観光開発、橘公園の造園など「大地に絵を描く」という理念で大型の観光開発を行った。 住友時代の同期には、田路舜哉(住友商事会長)、土井正治(住友化学会長)などがいた。また大学の同窓生である岸信介元首相と懇意であり、佐藤栄作元首相に全日空の社長就任を要請されるなど中央政界にも太いパイプを持った人物だった。
川村 カ子ト(かわむら カネト、1893年〈明治26年〉5月… 川村 カ子ト(かわむら カネト、1893年〈明治26年〉5月5日 - 1977年〈昭和52年〉1月6日)は、上川アイヌの長で、日本国有鉄道の測量技手。アイヌ文化の啓発・普及にも寄与した。国鉄退職後は川村カ子トアイヌ記念館の館長、旭川アイヌ民族史跡保存会長、旭川アイヌ民族工芸会長などを務めた。弟に川村才登、妹・コヨの夫に貝澤藤蔵がいる。 なお、「カネト」の「ネ」を「子」と書いているのは、かつて使われた、カナの「ネ」の異体字である。「カネト」と書かれることもある。また、カネトアイヌの正確な発音は、長男の川村兼一によると、カネトゥカイヌである。 1893年(明治26年)、旭川永山町(現旭川市永山)キンクシベツに生まれる。
3代 諸橋 久太郎(もろはし きゅうたろう、1893年(明治… 3代 諸橋 久太郎(もろはし きゅうたろう、1893年(明治26年)5月3日 - 1973年(昭和48年)2月12日)は、昭和時代の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。福島県平市長。旧名・守次。位階は正五位。勲三等旭日中綬章。 福島県磐前郡平町(石城郡平町、平市を経て現いわき市)の金物商、釜屋商店の2代諸橋久太郎の嗣子として生まれる。1916年(大正5年)早稲田大学政治経済科を卒業。1930年(昭和5年)3代久太郎を襲名した。1931年(昭和6年)石城郡農会長に就任したのを皮切りに、平市農会長、信用組合平庶民金庫理事長、諸橋合名会社代表、磐城水産工業、片倉磐城製糸、植田水力電気、福島県農工銀行、相馬塩業などの重役を歴任した。
尼崎 康定(あまさき やすさだ、旧姓・戸田、1893年(明治… 尼崎 康定(あまさき やすさだ、旧姓・戸田、1893年(明治26年)5月2日 - 1952年(昭和27年)1月16日)は、日本の実業家。尼崎汽船部常務。尼崎造船、尼崎海上火災、関西汽船各取締役。大阪曹達、大阪曹達商事各監査役。 信州松本藩主・戸田光則(松平光則)の孫。子爵・戸田康泰の息子。子爵・戸田康保の弟。1919年、北海道帝国大学附属水産専門部を卒業した。趣味は謡曲、ゴルフ。宗教は神道。住所は大阪市天王寺区生玉町、同市福島区鷺洲南。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
立花 秀吉(たちばな ひでよし、1893年〈明治26年〉5月… 立花 秀吉(たちばな ひでよし、1893年〈明治26年〉5月1日 - 1956年〈昭和31年〉6月13日)は、福島県磐城市(現・いわき市)長。 福島県磐前郡小名浜町(のち石城郡小名浜町→磐城市、現・いわき市)出身。小名浜の大船主の家に生まれる。1937年、小名浜町会議員となり、1954年に小名浜町長に就任する。同年、小名浜町は泉町、江名町、渡辺村と合併し、磐城市が発足、合併後の市長選挙に立候補し、当選した。市長就任後は小名浜港1万トン埠頭の建設、臨海工場の誘致などに常磐地区総合開発期成同盟会の副会長として力を尽くした。1期目在任中の1956年に死去した。
中野 泰介(なかの やすすけ、1893年5月 - 没年不詳)… 中野 泰介(なかの やすすけ、1893年5月 - 没年不詳)は、日本のジャーナリスト、実業家、政治家。玄洋社社員。 中野泰次郎の二男として福岡県に生まれる。政治家中野正剛は兄。1912年福岡県立中学修猷館を経て、1917年早稲田大学政治経済学科を卒業。 九州日報社常務取締役を経て、1933年福岡市会議員に挙げられる。 長男は読売テレビ社長を務めた中野達雄。
中村 寿一(なかむら じゅいち、1892年〈明治25年〉5月… 中村 寿一(なかむら じゅいち、1892年〈明治25年〉5月29日 - 1956年〈昭和31年〉1月6日)は、日本の政治家。愛知県挙母市長(1期、挙母市は豊田市の旧市名)、挙母町長、愛知県会議員などを歴任した。 挙母町長在職中、トヨタ自動車工業(現・トヨタ自動車)の工場誘致、土地買収に尽力したことで知られる。 愛知県八名郡下条村(現・豊橋市)出身。農業を営む中村桂次郎の長男として生まれる。下川村第一尋常高等小学校卒業。父の死をきっかけとして1906年(明治39年)、14歳のときに家を出て農業試験場養蚕部に入る。養蚕教師として西三河の農家の指導にあたった。 1912年(明治45年)、第15師団に入隊。
澤田 正二郞(さわだ しょうじろう、新字体:沢田 正二郎、1… 澤田 正二郞(さわだ しょうじろう、新字体:沢田 正二郎、1892年(明治25年)5月27日 - 1929年(昭和4年)3月4日)は、大正から昭和初期に活躍した大衆演劇の人気役者。劇団新国劇を創設して座長をつとめ、澤正(さわしょう)と呼ばれて広く親しまれた。
澤田 正二郞(さわだ しょうじろう、新字体:沢田 正二郎、1… 澤田 正二郞(さわだ しょうじろう、新字体:沢田 正二郎、1892年〈明治25年〉5月27日 - 1929年〈昭和4年〉3月4日)は、大正から昭和初期に活躍した大衆演劇の人気役者。劇団新国劇を創設して座長を務め、澤正(さわしょう)と呼ばれて広く親しまれた。 澤田正弘・寿々子の第3子として、滋賀県大津市の三井寺の近くに生まれる。父は土佐藩士で維新後は収税吏を務めていたが、2歳のときに没してしまった。その後一家は上京し、1898年(明治31年)、車坂(現:東京都台東区上野七丁目)にあった下谷小学校(1990年に台東区立上野小学校へ統合)へ入学した。 1903年(明治36年)、開成中学校へ進み、翌年の陸軍中央幼年学校の受験は、近視により失敗した。
勝亦 干城(かつまた たてき、1892年〈明治25年〉5月2… 勝亦 干城(かつまた たてき、1892年〈明治25年〉5月26日 - 1953年〈昭和28年〉6月12日)は、昭和時代の政治家。漁業家。実業家。静岡県沼津市長。 静岡県出身。県立沼津中学校を経て、1916年(大正5年)明治大学商科卒業。 歩兵第18連隊へ一年志願兵として入隊し、陸軍三等主計に進んだ。千本浜で定置網漁を営む傍ら、1939年(昭和14年)9月に沼津市会議員に当選。1943年(昭和18年)9月には同議長に推挙された。ほか、駿東地方事務所参与、沼津漁業会長、静岡県水産業会副会長を歴任した。 1945年(昭和20年)11月、沼津市の最後の官選市長に就任。戦後の混乱期にあって復興部を設け庶務・土木・都市計画・建設・水道の5課を置き戦災復興を進めた。
小西 作太郎(こにし さくたろう、1892年5月25日 - … 小西 作太郎(こにし さくたろう、1892年5月25日 - 1985年2月5日)は、日本の実業家。朝日新聞社元常務。全国高校野球の生みの親でもある。京都府京都市出身。 京都第二中学、旧制三高を経て、1918年に京都帝国大学工学部卒業。1921年に朝日新聞社に入社。印刷部長、印刷局長、常務などを歴任し、特に印刷部門でアメリカから高速度輪転機を導入したり、他社よりも先駆けて扁平活字を考案し採用した。 京都二中時代は捕手を務め、のちに京都市長となる高山義三とバッテリーを組んだ。第三高校では主将となり、高山と相談した上で、大阪朝日京都通信部主催で、中等野球の京津大会の開催を実現させた。これが契機となり、全国中等学校優勝野球大会が始まった。
梅津 芳三(うめづ よしぞう、1892年(明治25年)5月2… 梅津 芳三(うめづ よしぞう、1892年(明治25年)5月25日 - 1977年(昭和52年)5月17日)は、日本の内務官僚。神奈川県横須賀市長。 岩手県稗貫郡花巻町(現在の花巻市)出身、盛岡中学卒業。東京帝国大学法科大学英法科在学中の1916年(大正5年)に高等文官試験に合格し、翌年に卒業した。大分県属、高知県警視、同理事官、兵庫県理事官、群馬県書記官・警察部長、山梨県書記官・警察部長、静岡県書記官・警察部長を歴任した。 1930年(昭和5年)、神戸市助役となり、神戸市中央卸売市場長事務、神戸海港博覧会事務を執った。さらに1934年(昭和9年)には横浜市助役に就任した。その後、京浜地区魚類配給統制協会専務理事を務めていたが、1943年(昭和18年)に横須賀市長に選出され、1947年(昭和22年)まで務めた。
綾錦 由之丞(あやにしき よしのじょう、1892年5月25日… 綾錦 由之丞(あやにしき よしのじょう、1892年5月25日 - 1963年2月21日)は、青森県南津軽郡尾上町(現在の平川市)出身で追手風部屋所属の元大相撲力士。本名は斎藤 由之丞(さいとう よしのじょう)。身長173cm、体重90kg。最高位は張出前頭筆頭格。得意手は右四つ、吊り、投げ。 1913年1月に追手風部屋に入門して、同年1月場所に前相撲で初土俵を踏んだ。1916年1月場所には部屋付き親方であった湊川親方(関脇・綾浪源逸)の独立に伴い湊川部屋に移籍した。1919年1月場所に新十両、1922年1月場所で新入幕を果たした。右四つからの吊りや投げを得意とした相撲巧者だったが、取り口は地味だった。
山口 久吉(やまぐち ひさきち、1892年5月24日 - 1… 山口 久吉(やまぐち ひさきち、1892年5月24日 - 1968年5月20日)は、日本の医師、弁護士、政治家。衆議院議員(1期)。 東京都出身。日本医学校(現・日本医科大学)に学び、1920年、明治大学法律科を卒業する。医師となり、警視庁検疫医員、長谷川病院勤務、仁寿生命保険(株)審査医となる。精工塗料(資)代表社員、東洋青果市場(株)取締役、東京都指圧師会長を務める。弁護士の業務に従事し、東京市議、東京都議となった。 1932年の第18回衆議院議員総選挙において東京7区(当時)から立憲政友会公認で立候補したが落選。1936年の第19回衆議院議員総選挙で当選した。1937年の第20回衆議院議員総選挙では昭和会から立候補したが落選した。
佐藤 一男(さとう かずお、1892年5月23日 - 195… 佐藤 一男(さとう かずお、1892年5月23日 - 1959年10月29日)は、日本の鉄道技術者、実業家。 広島県福山市出身。1918年に京都帝国大学工学部電気工学科を卒業し、京阪電気鉄道に入社。 車両技術部門で活躍し、全鋼製ロマンスカー京阪1550型電車の設計、製作に携わり、欧米での留学で得た知識を生かして、日本最初の連接車である京阪60型電車(びわこ号)を立案、建造した。 取締役、常務、専務を経て、1943年に陸上交通事業調整法による阪神急行電鉄との統合により、京阪神急行電鉄副社長に就任した。 1946年11月に公職追放を受け、副社長を辞任し、相談役に就任した。 1959年10月29日死去。
齋藤 悠輔(さいとう ゆうすけ、1892年〈明治25年〉5月… 齋藤 悠輔(さいとう ゆうすけ、1892年〈明治25年〉5月21日 - 1981年〈昭和56年〉3月26日)は、日本の最高裁判所判事。 栄典・称号は、正三位・勲一等瑞宝章・温海町名誉町民(後の鶴岡市名誉市民)。山形県西田川郡温海町(後の鶴岡市)出身。 山形県西田川郡温海町湯温海の刀工・齋藤清人の息子として生まれる。1910年、荘内中学校(後の山形県立鶴岡南高等学校)卒業(同窓生に石黒岩太がいた。)。第一高等学校卒業。 1917年、東京帝国大学法学部卒業。大阪地方裁判所司法官試補 任官。1918年、同裁判所判事 任官。1926年、大阪控訴院判事 任官。1935年、東京地方裁判所検事 任官。1937年、司法制度を調査するため欧米諸国を歴訪する。
黒川 渉(くろかわ わたる、1892年(明治25年)5月21… 黒川 渉(くろかわ わたる、1892年(明治25年)5月21日 - 1950年(昭和25年)12月25日)は、司法官僚、検事。 東京市出身。1910年(明治43年)、東京府立四中卒業。1917年(大正6年)、東京帝国大学法科大学独法科卒業。同年、司法官試補となり、東京地方裁判所に勤務した。 翌年、検事となり、神戸地方裁判所、東京地方裁判所を歴任した。1926年(大正15年)より書記官として司法省刑事局に勤務し、1932年(昭和7年)には大臣官房会計課長となる。1935年(昭和10年)、大審院検事に転じる。1939年(昭和14年)には司法省刑事局長となり、東京控訴院検事を経て、1941年(昭和16年)に大審院検事となった。
小早川 博(こばやかわ ひろし、1892年〈明治25年〉5月… 小早川 博(こばやかわ ひろし、1892年〈明治25年〉5月21日 - 1980年〈昭和55年〉10月)は、愛知県額田郡本宿村(現・岡崎市上衣文町)出身の地方自治功労者。本宿村会議員、本宿村長、岡崎市議会議員、岡崎市議会議長。 1892年(明治25年)5月21日、愛知県額田郡本宿村上衣文森下35(現・岡崎市上衣文町森下)に生まれた。「知多郡内海町に生まれ、1911年(明治44年)に小早川家に養子に入った」とする文献もある。父の小早川九七も農業の傍らで本宿村会議員を務めた人物である。 1906年(明治39年)には東海高等小学校を卒業し、家業である農業に従事していた。江戸時代の本宿村は赤坂宿と藤川宿の間にある東海道の間の宿であり、松平家所縁の寺である法蔵寺は大名や旅人などの参拝者が絶えなかったとされるが、近代になると官設鉄道(現・JR東海道本線)の経路から外れたことで往来が減っていた。
三枝 博音(さいぐさ ひろと、1892年〈明治25年〉5月2… 三枝 博音(さいぐさ ひろと、1892年〈明治25年〉5月20日 - 1963年〈昭和38年〉11月9日)は、日本の哲学者。 思想史・科学史・技術史についての研究も多い。 広島県山県郡本地村(現・北広島町)出身。生家は浄土真宗の寺院・浄専坊。第四仏教中学(現・崇徳高等学校)を経て、東京帝国大学文学部哲学科に進む。在学中1年間の兵役体験から、社会的なものへ傾倒しマルクス主義に没頭した。 1922年大学卒業後は同郷で、医学史の大家・富士川游に師事。東洋大学、立正大学、法政大学などで教職に就いた。1928年、無神論運動を起こす。1931年半年間ドイツに留学、世界観の変革に多大な影響を受けた。1932年に戸坂潤らとともに唯物論研究会の創立に参加。