吉田 能安(よしだ よしやす、1891年(明治24年)9月2… 吉田 能安(よしだ よしやす、1891年(明治24年)9月26日 - 1985年(昭和60年)11月15日)は日本の弓道家。正法流を創始した。岡山県高梁市出身。 1891年(明治24年)岡山県高梁市の旧備中松山藩士の家に生まれる。先祖代々備中松山藩主板倉家に仕えたが、早くに両親に死別し、祖父文治郎に育てられる。藩士であった祖父に幼少から剣術を習い、旧制高梁中学(現・岡山県立高梁高等学校)を経て、1909年(明治42年)に早稲田大学予科へ進学する。早稲田大学では、初め剣道部に所属した。その後、早稲田大学商科へ進み、翌年の7月に弓術に出会った。 同年、大学2年で中退し、京都帝国大学政治学科の聴講生となる。
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津田 健治(つだ けんじ、1891年(明治24年)9月25日… 津田 健治(つだ けんじ、1891年(明治24年)9月25日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚。 山口県吉敷郡宮野村(現山口市)に生まれる。1909年(明治42年)3月、山口県立農業学校農科を卒業し、1910年(明治43年)3月、山口県農事試験場研究科を修了する。同年4月、宮野村農会技手兼書記を拝命し、11月、現役志願兵として入隊する。1915年(大正4年)2月、台湾総督府巡査となり、1918年(大正7年)府施行の普通文官試験に合格。嘉義庁警務課勤務、嘉義庁庶務課勤務、台南州斗六郡勤務、新化郡、曽文郡、嘉義郡各庶務課長、台南州地方課地方係長、同州文書課長を経て、1940年(昭和15年)3月、台南市助役に就任し、1941年(昭和16年)6月、台北州文山郡守に就任した。
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竹友 藻風(たけとも そうふう、1891年9月24日 - 1… 竹友 藻風(たけとも そうふう、1891年9月24日 - 1954年10月7日)は、日本の英文学者、詩人、翻訳家。 『ルバイヤット』『神曲』などの翻訳がある。 (出典)大阪市生まれ。本名・乕雄(とらお)。父・安治郎は実業家で、のち東海生命保険専務取締役。 関西学院中学校、同志社中学校を経て1910年3月桃山学院中学校卒業。同年同志社神学校進学。1911年京都帝国大学英文科選科に移り、上田敏、新村出(言語学)、藤井乙男(国文学)、吉沢義徳(国語学史)、鈴木虎雄(中国文学)、藤代禎輔(独文学)らに学び、1914年卒業。京都大学在学中の1913年、処女詩集『祈祷』を上梓。 1915年夏、渡米。同年10月イェール大学神学部に入学するが翌1916年に退学し、ニューヨークに出てブルックリン博物館で東洋美術の管理助手として勤務。
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須藤 栄之助(すどう えいのすけ、1891年9月24日 - … 須藤 栄之助(すどう えいのすけ、1891年9月24日 - 1969年1月20日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
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玉田 美郎(たまだ よしお、1891年9月23日 - 198… 玉田 美郎(たまだ よしお、1891年9月23日 - 1989年8月16日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。新潟県糸魚川市出身。法学者の玉田弘毅は息子。 歩兵大隊長のときに短期の戦車補備教育をうけ、戦車第4大隊付として一年余勤務して歩兵にもどり、また昭和11年、陸軍戦車学校で師団軽装甲車要員の教官となって、以後戦車拡張期における部隊長たるべき人の標準的コースを歩んだ。 ノモンハン事件において独立混成第1旅団麾下の戦車第4連隊連隊長として戦史上初の装甲部隊による大規模な戦車夜襲を決行した。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。
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宇賀 武(うが たけし、1891年(明治24年)9月23日 … 宇賀 武(うが たけし、1891年(明治24年)9月23日 - 1945年(昭和20年)3月29日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 1891年(明治24年)9月、高知県幡多郡中村町(中村市を経て現四万十市)に生まれた。県立第三中学校を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官。 1920年(大正9年)から1922年(大正11年)の間、シベリア出兵に従軍。1932年(昭和7年)、満州事変に出兵。1937年(昭和12年)には日中戦争(支那事変)に従軍し中南支各地を転戦。功により1940年(昭和15年)、旭三、功四級金鵄勲章を受ける。同年、山砲兵第55連隊長になる。
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市丸 利之助(いちまる りのすけ、1891年(明治24年)9… 市丸 利之助(いちまる りのすけ、1891年(明治24年)9月20日 - 1945年(昭和20年)3月26日)は、日本の海軍軍人で、日本海軍の航空草創期のパイロットである。硫黄島の戦いで戦死。最終階級は海軍中将(戦死による特進)。佐賀県東松浦郡久里村(現・唐津市)出身。 佐賀県東松浦郡久里村(現・唐津市)出身。旧制唐津中学校を卒業後、海軍兵学校および陸軍士官学校(第25期)を受験し、双方に合格している。1910年(明治43年)に海軍兵学校第41期に入校し、1913年(大正2年)に118名中46位の成績で卒業した。1917年(大正6年)12月、第3期航空術学生(飛行学生の前身)となり、1918年(大正7年)12月に卒業し、パイロットの資格を習得。
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丹羽 鼎三(にわ ていぞう、1891年9月18日 - 196… 丹羽 鼎三(にわ ていぞう、1891年9月18日 - 1967年2月23日)は、日本の造園学者。造園学の教育者。 横浜市生まれ。第二高等学校を経て、1917年東京帝国大学農学部農学科を卒業。ただちに宮内技手として内匠寮に入り、新宿御苑において桜と菊の研究に従事した。1922年ヨーロッパ留学を経て、1924年三重高等農林学校教授、1929年東京大学助教授となり園芸学を担当した[要出典]。同年2月、東京帝国大学農学博士。論文の題は「日本菊花ニ関スル研究」。1932年同大学教授に就任。原煕の後継者として、東京大学農学部農学科園芸第二講座として花井及び庭園学を担当。この講座を大成させた。1952年定年退官、東京大学名誉教授。
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山名 義鶴(やまな よしつる、1891年(明治24年)9月1… 山名 義鶴(やまな よしつる、1891年(明治24年)9月17日 - 1967年(昭和42年)2月26日)は、大正・昭和の社会運動家。男爵。貴族院議員。正四位勲二等。 男爵山名義路の嫡男として青森県に生まれるが、後に京都府京都市に転居して同地で育つ。 京都府立第五中学校、第三高等学校を経て東京帝国大学法科大学を卒業。 三高時代、同級生の麻生久や棚橋小虎らとともに三高内に縦横会を組織、酒井校長弾劾運動など進歩的学生運動を起こす。東京帝国大学に進学し、新人会で活動。大学卒業後は大原社会問題研究所、等で活動。日本労働者教育協会主宰。財団法人中東調査会理事長、公安審査委員会委員等歴任。 男爵山名義路、母トヨの嫡男として青森県に生まれる。
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荻原 廣(おぎわら ひろし、1891年9月16日 - 197… 荻原 廣(おぎわら ひろし、1891年9月16日 - 1972年11月25日)は、日本の実業家。 長野県上伊那郡中箕輪村(現箕輪町)に生まれ、高等尋常小学校を卒業後上京し、1909年明治薬学校を卒業、薬剤師の国家試験に合格。 1912年太田胃散本舗に入社し、1915年東西製薬営業部長、1918年星製薬細菌部販売部長、1922年高木商店製薬部東京支店長と職を転じる。関東大震災を機に独立し、1923年東洋新薬社を設立。1928年東京市神田区に水道橋診療所を開設。1931年杏林化学研究所を設立し、1940年杏林製薬として株式会社に改組させ、販売部門を杏林薬品として独立させた。 また、1941年星薬学専門学校の設立に参加し、大学昇格と同時に理事長となった。
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真鍋 儀十(眞鍋 儀十、まなべ ぎじゅう、1891年(明治2… 真鍋 儀十(眞鍋 儀十、まなべ ぎじゅう、1891年(明治24年)9月16日 - 1982年(昭和57年)4月29日)は日本の政治家、俳人、文学研究家。松尾芭蕉の研究家として知られ、そのコレクションは江東区芭蕉記念館に寄付された。高浜虚子に師事、「ホトトギス」同人。俳号は蟻十。 長崎県壱岐郡箱崎村(現壱岐市芦辺町)生まれ。長崎師範学校(現・長崎大学教育学部)を卒業後明治大学法学部に入学し、雄弁部に所属する。在学中から普選運動にかかわり、1920年(大正9年)1月18日の学生普選促進大会(日比谷公園)で検挙された。 明大中退後憲政会に入党。六十数回の拘禁を受けながら1930年(昭和5年)旧東京4区から立憲民政党公認で第17回衆議院議員総選挙に立候補し初当選、戦前は通算5回の当選を果たす。
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英 義彦(はなぶさ よしひこ、1891年(明治24年)9月1… 英 義彦(はなぶさ よしひこ、1891年(明治24年)9月15日 – 1935年(昭和10年)5月1日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。日本大学教授。 鹿児島県大島郡喜界村(現在の喜界町。奄美群島・喜界島)大字湾の出身。鹿児島県立第二鹿児島中学校(現在の鹿児島県立甲南高等学校)を経て、1915年(大正4年)、日本大学法律科正科を卒業。1916年(大正5年)7月、アメリカ合衆国に渡り、カリフォルニア大学・スタンフォード大学・コロンビア大学・ニュースクール大学(New school for social research)において心理学・社会心理学・政治心理学などを学び、1921年(大正10年)10月にコロンビア大学のDoctor of phirosophy(Ph.D)の学位を取得する。
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鶴田 義隆(つるた よしたか、1891年(明治24年)9月1… 鶴田 義隆(つるた よしたか、1891年(明治24年)9月15日 - 1945年(昭和20年)8月1日)は、日本の内務官僚。新潟県長岡市長。 熊本県出身。1920年(大正9年)、東京帝国大学法学部を卒業。司法官試補、浦和区裁判所検事代理、警視庁警部・代々幡警察署長、地方警視・水戸警察署長、茨城県事務官・社寺兵事課長、福島県特別高等課長、香川県社寺兵事課長・知事官房主事、兵庫県商工水産課長、富山県都市計画課長・学務課長・社会教育課長、新潟県学務課長、鹿児島県農務課長・地方課長、神奈川県商工課長、佐賀県学務部長、和歌山県学務部長、同経済部長を歴任した。 1944年(昭和19年)、青森県内政部長から長岡市長に転じ、戦時下の対応にあたったが、1945年8月1日の長岡空襲で殉職した。
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立川 平(たつかわ おさむ、1891年(明治24年)9月12… 立川 平(たつかわ おさむ、1891年(明治24年)9月12日 - 1978年(昭和53年)11月9日)は、大正から昭和期の弁護士、実業家、政治家。衆議院議員。 長野県北佐久郡岩村田町(浅間町を経て現佐久市岩村田)で、弁護士、政治家立川雲平の長男として生まれる。1898年(明治31年)家督を相続した。第二高等学校を経て、1916年(大正5年)11月、文官高等試験行政科試験に合格し、1917年(大正6年)3月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業した。 司法官試補となるが、大阪田中商事 (株) に転じ、さらに十五銀行に移った。大阪地方裁判所勤務を経て、1922年(大正11年)神戸市で弁護士を開業した。
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金 道泰(キム・ドテ、김도태、きん どうたい、1891年9月… 金 道泰(キム・ドテ、김도태、きん どうたい、1891年9月11日 - 1956年12月26日)は、大韓民国の教育者。 朝鮮の日本統治時代初期において三・一運動に関わるなど独立運動に一定の功績があったが、末期には親日的な論説の寄稿や行動も行なった。本貫は慶州。 平安北道定州郡(後の定州市)生まれ。 定州の五山学校(朝鮮語版)(後の五山高等学校)を経て、日本に留学し、正則英語学校(後の正則学園高等学校)を卒業した。 その後、地理と歴史を教える教師となり、1912年に満州の新興武官学校(朝鮮語版)、その後は載寧郡にあったキリスト教系の明神女学校に勤めた。 1919年の三・一運動には、民族代表48人のひとりとして参加した。
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友田 二郎(ともだ じろう、1891年〈明治24年〉9月10… 友田 二郎(ともだ じろう、1891年〈明治24年〉9月10日 - 1969年〈昭和44年〉2月5日)は、日本の外交官。 兵庫県会議員や但馬銀行監査役を務めた友田一郎(友田酒造工場主)の弟。妻・盛子は子爵・曾我祐邦の二女。長女・二三子(1927年~2023年)は鳥取滋治郎の妻。二三子の長女・憲仁親王妃久子は孫である。 兵庫県城崎郡日高町江原(現・豊岡市)出身。俊蔵の二男。東京外語卒業。1915年、外務省に入る。終戦直後に退官した。 1939年には、フランス共和国レジオン・ドヌール勲章シュヴァリエを受章した。義父の曾我祐邦もレジオン・ドヌール勲章コマンドゥールを受賞している。 その後外務省研修所講師、宮内庁式部官を兼任した。
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岡部 平太(おかべ へいた、1891年9月10日 - 196… 岡部 平太(おかべ へいた、1891年9月10日 - 1966年11月6日)は日本のスポーツ指導者、柔道家、日本で最初のアメリカンフットボール紹介者。スポーツ黎明期の日本に科学的トレーニングを導入した事から「近代コーチの祖」と呼ばれている。柔道8段、剣道5段。 福岡県糸島郡芥屋村(現在の糸島市)出身。 1891年(明治24年)養蚕業と櫨ろう業を営む農家の9人兄弟の長男として生まれる。 1908年(明治41年)福岡師範学校(現・福岡教育大学)入学。学校では持前の運動神経を発揮し、柔道、剣道、相撲、軟式テニス、陸上、野球、ボートと多岐にわたり活躍する。 1911年(明治44年)当時の武道界最大の大会で、京都武徳殿(旧武徳殿)で開かれた「青年大演武会」柔術16歳以上20歳未満 選抜勝負の部 で準優勝(金光弥一兵衛、宇土虎雄も出場)。
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舞出 長五郎(まいで ちょうごろう、明治24年(1891年)… 舞出 長五郎(まいで ちょうごろう、明治24年(1891年)9月8日 - 昭和39年(1964年)7月15日)は、日本の経済学者。経済学博士。東京大学名誉教授。日本学士院会員。五女は政治評論家三宅久之の兄で元福島大学経済学部教授三宅皓士の妻。 神奈川県出身。幸次郎の四男。 大正6年東大政治科卒業。同大学院特選給費学生を経て大正8年1月助教授に任ぜられ経済学研究のため欧米に留学。同12月経済学部教授となり経済学部長に就任。 昭和10年学術視察のため欧米に出張。昭和22年12月学位を受け昭和24年10月学士院会員に選ばれ昭和27年3月東大教授を退職。翌月学習院大学教授となり政経学部長を依嘱さる。 厚木中学、一高を経て東京帝国大学では高野岩三郎に師事する。
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勝俣 稔(かつまた みのる、1891年(明治24年)9月5日… 勝俣 稔(かつまた みのる、1891年(明治24年)9月5日 - 1969年(昭和44年)3月9日)は、大正から昭和期の医師、技官、公衆衛生学者、政治家。参議院議員(1期)、衆議院議員(1期)、厚生省顧問、藤楓協会理事。父は、医師で第2代上田市長を務めた勝俣英吉郎。日本の近代公衆衛生の父と称された。 長野県小県郡上田町馬場町(現上田市)で勝俣英吉郎の長男として生まれた。上田中学校(現長野県上田高等学校)、第八高等学校を経て、1919年(大正8年)東京帝国大学医学部を卒業。 北里研究所に入所。慶應義塾大学医学部に転じ細菌学教室助手に就任。 1923年(大正12年)内務省衛生局に移り防疫官に就任。関東大震災では医療救護に尽力。
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和辻 春樹(わつじ はるき、1891年(明治24年)9月5日… 和辻 春樹(わつじ はるき、1891年(明治24年)9月5日 - 1952年(昭和27年)8月24日)は、昭和時代の造船技師、科学評論家。また京都市長(官選)、観光日本社長、関西造船協会会長、造船協会常務理事長を務めた。従兄に和辻哲郎、姪にロミ・山田。 医師の子として東京で生まれる。旧制第三高等学校を経て、1915年に東京帝国大学工科大学船舶工学科を卒業後、大阪商船(現・商船三井)に技師として入社した。1921年の別府航路の客船「むらさき丸」の設計をはじめ世界一周航路用の「あるぜんちな丸」、南米航路移民船「ぶらじる丸」(この2隻はあるぜんちな丸級貨客船)など多くの名船を手がけ、専務取締役になった。
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浅原 源七(あさはら げんしち、1891年9月1日 - 19… 浅原 源七(あさはら げんしち、1891年9月1日 - 1970年8月23日)は、日本の実業家、技術者である。日産自動車社長や自動車技術会会長を務め、日本の自動車産業発展の礎を築いた人物の一人である。なお、正確な氏名は旧字体の「淺原源七」であるが、ここでは「浅原」で統一する。 大阪市東区出身。東京帝国大学理学部化学科を卒業後、理化学研究所に勤務。主任研究員として研究を進める。1931年、戸畑鋳物に入社。1933年に同社は日産自動車となり、浅原は民生・軍用トラックの生産を中心とした同社の中心的人物として、日産コンツェルン創始者の鮎川義介を助けた。1942年から1944年までは同社の第3代社長となった。
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松浦 嘉一(まつうら かいち、1891年(明治24年)9月1… 松浦 嘉一(まつうら かいち、1891年(明治24年)9月1日 - 1967年(昭和42年)8月7日)は、英文学者。 1891年、愛知県名古屋市で生まれた。第八高等学校を経て、東京帝国大学英文科に進学。大学では、夏目漱石門下として学んだ。1916年に東京帝国大学を卒業。 1920年、法政大学予科教授となった。1925年に東京高等学校教授となり、続いて第一高等学校教授となった。 1946年、学位論文『ダンの修辞的映像に現れたる彼の世界観及び将来の英帝国に対して彼の抱きたる幻想』を東京帝国大学に提出して文学博士号を取得。1949年、東京大学教養学部教授に就いた。1951年からはお茶の水女子大学教授として教鞭をとり、1956年に定年退職した。
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青木 好月(あおき こうげつ、本名:由平、1891年 <明治… 青木 好月(あおき こうげつ、本名:由平、1891年 <明治24年> 9月1日 - 1982年 <昭和57年> 1月16日)は、民謡歌手。佐渡おけさや江差追分を得意とした。 現在の新潟県加茂市で生まれた。家で瞽女を泊めていたため民謡を覚える。17歳で上京し、鮮魚店で奉公し後に独立した。民謡を趣味とし、ラジオ放送開始と共に全国から上京する民謡人の支援を行った。第二次世界大戦後、日本郷土民謡協会を設立し、理事長を務めた。民謡界の元老として1974年秋に勲五等双光旭日章を受賞した。墓所は永平寺東京別院長谷寺。護国寺に顕彰碑が建つ。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、歌手に関連した書きかけの項目です。
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東山 千栄子(ひがしやま ちえこ、旧字体:千榮子、1890年… 東山 千栄子(ひがしやま ちえこ、旧字体:千榮子、1890年9月30日 - 1980年5月8日)は、日本の女優。日本新劇俳優協会初代会長。本名:河野 せん(旧姓:渡辺・寺尾)。 築地小劇場を経て俳優座の結成に参加した新劇出身者である。舞台では翻訳劇の貴婦人役を多く演じ、『桜の園』のラネーフスカヤ夫人役が当たり役となった。テレビドラマや映画では老婦人役を多く演じ、特に『東京物語』の老母役で知られる。主な栄典・称号・褒章に紫綬褒章、文化功労者。著書に自伝『新劇女優』などがある。 妹に料理研究家の中江百合、弟にベース奏者の渡辺良がいる。 千葉県千葉市に生まれる。司法官で後に貴族院議員を務めた渡辺暢の次女で、10人兄妹の3番目である。
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平山 泰(ひらやま やすし、1890年(明治23年)9月29… 平山 泰(ひらやま やすし、1890年(明治23年)9月29日 - 1946年(昭和21年)3月27日)は日本の政治家、官僚。松本市長。 長野県士族平山季雄の五男として生まれる。1916年東京帝国大学法科政治学科を卒業し、高知県官吏となる。その後、鳥取県警視、青森県理事官、愛知県理事官、台湾総督府秘書官兼参事官、復興局書記官、同局東京第三出張所長、復興事務局監理課長、山形県内務部長、台湾総督府高雄州知事、台北州知事。東京市監査局長、財務局長、電気局長を歴任して1939年退官。帰郷して松本市長に就任。在任中に終戦し、米軍約200名の進駐を迎えた。
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羅 景錫(ナ・ギョンソク、나경석、 1890年9月27日(旧… 羅 景錫(ナ・ギョンソク、나경석、 1890年9月27日(旧暦8月14日) - 1959年12月31日)は、朝鮮の独立運動家、実業家。 本貫は羅州羅氏。洋画家で作家の羅蕙錫は実妹。 父・羅基貞と母・崔是議の間に京畿道水原に生まれた。父の家系は代々官僚をつとめ、資産家で子弟教育に関心が高かった。 1910年に日本に留学し、1914年に東京高等工業学校(現東京工業大学)を卒業。同年、大阪に移り、鄭泰信が組織した朝鮮人労働者の相互扶助団体である朝鮮人親睦会を主導するなど、労働運動に従事した。 1918年に朝鮮に戻り、金性洙が経営する中央学校の物理学の教師となった。そしてウィルソンの民族自決主義発表に触発され、三・一独立運動の際には、独立宣言書を満州に届けた。
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金森 虎男(かなもり とらお、1890年(明治23年)9月2… 金森 虎男(かなもり とらお、1890年(明治23年)9月26日 - 1957年(昭和32年)11月27日)は、日本の大正・昭和期における歯科医・医学博士。東京高等歯科医学校(現在の東京医科歯科大学)教授・東京大学教授・札幌医科大学教授。福井県出身。 1890年(明治23年)、福井県大野郡大野町(現大野市)に伊藤作四郎の四男として生まれ、1909年(明治42年)医師金森辰二郎の養子となった。1902年(明治45年)7月第四高等学校を卒業し、1916年(大正5年)12月東京帝国大学医科大学を卒業した。 養父辰二郎が東京帝国大学医科大学歯科学教室教授である石原久と大学同窓であったため石原に親しみ、虎男は歯科を志望し1916年(大正5年)12月大学卒業後同教室に入局した。
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金 明植(キム・ミョンシク、1890年9月26日 - 194… 金 明植(キム・ミョンシク、1890年9月26日 - 1943年4月11日)は、朝鮮の独立運動家で、後に親日派へ転向した人物として知られている。号は松山(ソンサン、송산)。 済州島の名家に生まれる。日本へ留学して早稲田大学を卒業し、留学中にアジア地域の被圧迫国家の青年達によって構成された秘密結社である新亜同盟団で活動した。新亜同盟団は以後社会革命党に改編され、帰国した金明植は社会革命党と上海派高麗共産党(朝鮮語版)において活動し、労働運動団体である朝鮮労働共済会の創立に参加した。 上海派は民族主義勢力との広範囲な連帯をはかる統一戦線路線を歩んだが、1922年に金允植が死去した際、金允植の社会葬を推進した張徳秀の右派とこれに反対した金明植や兪鎮煕の左派が対立し、分離することとなった。
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柳沢 七郎(やなぎさわ しちろう、1890年〈明治23年〉9… 柳沢 七郎(やなぎさわ しちろう、1890年〈明治23年〉9月25日 - 1978年〈昭和53年〉1月25日)は、元住友金属工業社長。 1890年宮城県大崎市の小松家に生まれ、のちに東京都の柳沢家の養子となる。宮城県古川高等学校、東北大学卒業。 1916年 住友製鋼所入社。1921年住友金属工業設立により住友金属工業に移籍。 1945年11月30日に専務取締役に就任し、1946年1月21日に取締役社長に就任、公職追放により1947年4月21日に取締役社長を辞任した。 1967年勲三等瑞宝章を受章。1978年に死去した。
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早田 福蔵(はやた ふくぞう、1890年〈明治23年〉9月2… 早田 福蔵(はやた ふくぞう、1890年〈明治23年〉9月25日 - 没年不詳)は、日本の検事。朝鮮総督府官僚。弁護士。税理士。 長崎県上県郡佐須奈村(現在の対馬市)出身。1917年(大正6年)、東京帝国大学法学部独法科を卒業。大邱地方法院司法官補、同判事、平壌地方法院検事、平壌地方法院新義州支庁検事、京城地方法院水原支庁検事、同春川支庁検事、清津地方法院検事、大邱覆審法院検事、全州地方法院検事、京城地方法院検事、公州地方法院検事正、大田地方法院検事正、釜山地方法院検事正、大邱地方法院検事正を歴任。1943年(昭和18年)、朝鮮総督府法務局長に就任した。 戦後は弁護士および税理士を開業し、静岡地方裁判所、同家庭裁判所各判事、裁判所調停委員、保護司、静岡県保護司連盟会長を歴任した。
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河辺 虎四郎(かわべ とらしろう、1890年(明治23年)9… 河辺 虎四郎(かわべ とらしろう、1890年(明治23年)9月25日 - 1960年(昭和35年)6月25日)は、日本の陸軍軍人、最終階級は中将。富山県出身。 1890年(明治23年)9月、富山県礪波郡東野尻村大字苗加(東礪波郡東野尻村、砺波町を経て現砺波市)に河辺純三の四男として生まれる。河辺正三大将(陸士19期歩兵科)は兄、瀧田俊吾軍医大佐は弟である。1905年(明治38年)に正三、虎四郎兄弟は陸軍士官学校、名古屋陸軍幼年学校に合格している。兄弟は草鞋ばきでそれぞれの受験地金沢までの往復を共にした(草地貞吾著『将軍32人の「風貌」「姿勢」』p.42,43)。 その後、1912年(明治45年)5月に陸士第24期砲兵科を卒業。
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松本 與作(まつもと よさく、1890年9月24日 - 19… 松本 與作(まつもと よさく、1890年9月24日 - 1990年3月9日)は、近代日本の建築家。 東京築地にあった工手学校卒業後、辰野葛西事務所所員として東京駅や東京京橋の第一相互館の設計を担当し、第一相互館竣工後、クライアントの第一生命創業者矢野恒太に誘われて第一生命保険初代営繕課長となり、代表作となる第一生命館を設計した。 その後も90歳を超えて第一生命の顧問技師として勤務した。 中央停車場の設計担当者として多くの証言を残しており、松本の半生は伊藤ていじが『谷間の花が見えなかった時』(彰国社、1982年)としてまとめている。 1890年9月24日、宮内省で京都御所の修繕などに携わっていた松本源次郎の長男として、現在の京都市上京区に生まれる。
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角田 覚治(かくた かくじ、1890年(明治23年)9月23… 角田 覚治(かくた かくじ、1890年(明治23年)9月23日 - 1944年(昭和19年)8月2日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。テニアン島で戦死。 1890年(明治23年)9月23日、新潟県南蒲原郡槻田村字諏訪新田(現・三条市諏訪)で農家の父角田利八と母角田ソメの七人兄弟(兄1人妹2人弟3人)の二男に生まれる。1908年3月、旧制三条中学校(現:新潟県立三条高校)卒業。在学中に新潟港遠足に行った折見た海軍士官に憧れて受験し、1908年(明治41年)9月14日、海軍兵学校第39期生として入校した。入校時の席次は150人中102番。1911年(明治44年)7月18日、148人中45番の成績で卒業。
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河井 昇三郎(かわい しょうざぶろう、1890年9月23日 … 河井 昇三郎(かわい しょうざぶろう、1890年9月23日 - 1973年9月18日)は、日本の実業家。住友本社常務理事。大阪建物社長。 静岡県掛川市出身。東京帝国大学政治学科を1915年に卒業し、住友に入る。総本店、伸銅所尼崎工場、別子銅山を経て1925年欧米留学。1927年製鋼所、以降本社総務部部長、人事部部長、常務理事兼経理部長などを歴任。この間住友各社の役員を兼務。1946年辞任。1949年大阪建物社長、1960年辞任。 静岡県掛川市出身の政治家河井彌八の血縁者。 神宮寺(静岡県掛川市仁藤65)敷地内墓地にある墓所にて一族と共に眠る。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
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伊藤 康安(いとう こうあん、1890年(明治23年)9月2… 伊藤 康安(いとう こうあん、1890年(明治23年)9月23日 - 1965年(昭和40年)12月10日)は、臨済宗僧侶・仏教学者。 東京・北品川の沢庵宗彭ゆかりの臨済宗春雨寺に生まれる。1912年早稲田大学文学部和漢文学科卒。早稲田第一高等学院教授、高等師範部教授、1942年早大教授。61年定年退任、名誉教授。1941-59年早稲田大学仏教青年会会長。中世文学、仏教文学を教えた。のち春雨寺主管。
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三浦 肆玖楼(みうら しくろう、1890年(明治23年)9月… 三浦 肆玖楼(みうら しくろう、1890年(明治23年)9月21日 - 1961年(昭和36年)10月4日)は、大正から昭和時代の日本の農学者。 島根県那賀郡井野村(現・浜田市三隅町)にて生まれる。島根県農林学校を経て、1917年(大正6年)東京農業大学を卒業。シンガポールの三五公司の社員となり、ゴムノキの芽接ぎ技術を完成、熱帯ゴム樹栽培の技術を確立した。1925年(大正14年)島根県邑智郡農会技師、1928年(昭和3年)岐阜高等農林学校勤務を経て、1931年(昭和6年)母校の東京農業大学講師となる。さらにアメリカのネブラスカ大学に留学。1934年(昭和9年)に帰国し、東京農業大学教授となり、同校の戦後復興に尽力。
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永田 龍雄(ながた たつお、1890年〈明治23年〉9月20… 永田 龍雄(ながた たつお、1890年〈明治23年〉9月20日 - 1965年〈昭和40年〉9月29日)は、日本の舞踊批評家、歌人。 1910年、東京外国語学校英語科を卒業する。村井吉兵衛の秘書を務めたのち1921年(大正10年)に帝国劇場文芸部に入り、関東大震災での解散までそこに勤めた。部の解散後、舞踊批評家に転身する。 時事新報の嘱託も務め、西洋舞踊や邦楽の批評を執筆し、村松道弥らと音楽新聞も創刊した。西欧舞踊の黎明期から晩年まで多くの批評を残し、印象批評と独自な見解に定評がある。 スペイン語の永田寛定、詩人の永田助太郎を親族に持つ[要出典]。
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大野 伴睦(おおの ばんぼく、本名:大野 伴睦〈おおの とも… 大野 伴睦(おおの ばんぼく、本名:大野 伴睦〈おおの ともちか〉、1890年〈明治23年〉9月20日 - 1964年〈昭和39年〉5月29日)は、日本の政治家。 典型的な党人政治家として知られ、「伴ちゃん」の愛称で親しまれた。東京市会議員を経て衆議院議員となり当選13回、衆議院議長、北海道開発庁長官、日本自由党幹事長、自民党副総裁を務めた。1955年の保守合同に際し三木武吉と協力し、自民党結成に尽力。1957年以降自民党副総裁を長く務めた。派閥の力関係を巧みに操る寝業師型の政治家とされる。 「政治は義理と人情だ」[要出典]「猿は木から落ちても猿だが、代議士は選挙に落ちればただの人だ」などの名言を残した。
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安井 英二(やすい えいじ、1890年(明治23年)9月18… 安井 英二(やすい えいじ、1890年(明治23年)9月18日 - 1982年(昭和57年)1月9日)は、日本の内務官僚・政治家。岡山県知事・大阪府知事・文部大臣(第1次近衛内閣)・内務大臣兼厚生大臣(第2次近衛内閣)・神祇院総裁・貴族院議員などを歴任する。 判事安井重三の次男として東京に生まれる。母は小原中上家に生まれ玉置奉悦医師の養女となった芳野。宇都宮中学、愛媛県立松山中学校、一高を経て、1916年(大正5年)に東京帝国大学を卒業後、内務省に入省。1918年(大正7年)警保局事務官となり、南原繁とともに労働組合法の草案作りを行い、1923年(大正12年)から1年間ドイツで調査を行った。その後、内務大臣秘書官(大臣官房文書課長兼務)、地方局行政課長として地方自治改革にあたる。
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土屋 文明(つちや ぶんめい、1890年〈明治23年〉9月1… 土屋 文明(つちや ぶんめい、1890年〈明治23年〉9月18日〈戸籍上は1月21日〉 - 1990年〈平成2年〉12月8日)は、日本の歌人・国文学者。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 東大哲学科卒。伊藤左千夫に師事し、斎藤茂吉とともに歌誌「アララギ」の編集に参加。社会化された民衆の生活の内面を表そうとする歌風で、歌集に『往還集』(1930年)、『山谷集』(1935年)など。著述に『万葉集私注』(1949~56年)などがある。 群馬県群馬郡上郊村(現・高崎市)の貧しい農家に生まれる。祖父の藤十郎は賭博で身を持ち崩し強盗団に身を投じて北海道の集治監で獄死したと伝えられており、家族は村人たちから冷たい目で見られ幼い文明にとって故郷の村は耐えがたい環境であった。
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小田嶋 定吉(おだじま さだきち、1890年(明治23年)9… 小田嶋 定吉(おだじま さだきち、1890年(明治23年)9月18日 - 1972年(昭和47年)12月19日)は、日本の実業家。日本経済新聞社元社長。 岩手県和賀郡岩崎村出身(現:北上市)。1916年に早稲田大学文学部英文科卒業。万朝報で記者としての勤務を経て、日経の前身である中外商業新報社に入社した。 常務を経て、公職追放を受けた小汀利得に代わり、1947年から日本経済新聞社代表取締役を務め、翌年には社長に就任した。 共同通信社理事会長、日本短波放送社長、日本教育テレビ代表取締役などを歴任し、1951年から55年まで日本新聞協会会長を務めた。1965年に勲二等旭日重光章を受章した。 1972年12月19日肺炎のために死去。
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滝沢 浜吉(たきざわ はまきち、1890年〈明治23年〉9月… 滝沢 浜吉(たきざわ はまきち、1890年〈明治23年〉9月17日 - 1960年〈昭和35年〉4月30日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)、群馬県多野郡八幡村長。 群馬県多野郡八幡村阿久津(現・高崎市阿久津町)に生まれる。群馬県立高崎中学校(現・群馬県立高崎高等学校)に学ぶが、郷里の水害により中退。村の田畑・家屋の復旧に尽力し、1925年(大正14年)八幡村長に選ばれ、1938年(昭和13年)まで在職した。多野郡畜産業組合長、多野郡養蚕業組合長、多野郡農会長、烏川沿岸漁業会長、群馬県馬匹組合連合会副会長、群馬県町村会副会長となる。戦後も1946年(昭和21年)群馬県農業会長となり、同年から1年間八幡村長を務めた。
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清水 謙一郎(しみず けんいちろう、1890年(明治23年)… 清水 謙一郎(しみず けんいちろう、1890年(明治23年)9月17日 - 1981年(昭和56年)10月30日)は、日本の教育者、詩人である。 長野県上水内郡水内村字里穂刈(現在の長野市信州新町)の生まれ。清水勘兵衛・ちよの長男として出生。明治38年(1905年)、南佐久郡臼田教員養成所に入所。1911年(明治44年)に長野師範学校卒業。長野県の尋常高等小学校訓導に任ぜられる。その後、内地留学のため休職する。 1914年(大正3年)に早稲田大学専門部に入学するが、中途退学し、1915年(大正4年)に国学院大学師範部に入学する。学監であった杉浦重剛から教えを学ぶ。 国学院大学卒業後小学校訓導となる。
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森 於菟(もり おと、1890年〈明治23年〉9月13日 -… 森 於菟(もり おと、1890年〈明治23年〉9月13日 - 1967年〈昭和42年〉12月21日)は、日本の医学者。専門は解剖学。専門書の他に、父・森鷗外の回想記と随筆を著した。 1890年9月13日に東京府で、森鷗外と最初の妻・登志子(海軍中将赤松則良の長女)との間に長男として生まれた。その直後に両親が離婚、生まれて間もない授乳期の於菟は、数え年の5歳まで本郷森川町(現・文京区本郷6丁目辺り)のタバコ屋、平野甚三方(歌人平野万里の実家)に預けられた。森家に引き取られると、支配的な祖母の峰によって厳しく育てられ、父鷗外と同じように熱心な教育を受けた。1900年に生き別れた実母が病死、1902年に父鷗外が再婚し、新しい母ができたことを喜んだが、義母の志げは於菟に冷たかった。
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金 用茂(キム・ヨンム、朝鮮語: 김용무、1890年9月13… 金 用茂(キム・ヨンム、朝鮮語: 김용무、1890年9月13日または1891年 - 1951年9月12日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の政治家、法曹、弁護士。連合軍軍政期の大法院長、第2代韓国国会議員。 本貫は羅州金氏(朝鮮語版)。制憲国会議員を務めた金用鉉は弟。 現在の全羅南道務安郡夢灘面出身。中央大学法学部卒。高等文官試験司法科に合格した後は弁護士を開業し、抗日民族弁護士として無料弁論を引き受けた。1930年初に普成専門学校の委託講師として法律学の実務についての講義をした。1930年10月より東亜日報社取締役、強制廃刊までの10年間に民族言論の創達に貢献した。1935年に普成専門学校創立30周年記念事業会実行委員会常任委員、1939年に普専学会会員。
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木村 チヨ(きむら チヨ、1890年(明治23年)9月12日… 木村 チヨ(きむら チヨ、1890年(明治23年)9月12日 – 1956年(昭和31年)7月2日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 福岡県宗像郡上西郷村(現:福津市)出身。1909年、私立技芸裁縫女学校卒。卒業後上京し政治経済研究所に勤める。結婚後は京都府相楽郡上狛町(現木津川市)に住む。 1946年の第22回衆議院議員総選挙では京都府から無所属で立候補し当選した。当選後、「福岡県立女学校卒業」という経歴が詐称であることが発覚した。翌1947年の第23回衆議院議員総選挙において京都2区から民主党公認で立候補したが落選した。1956年の第4回参議院議員通常選挙で京都府から無所属で立候補したが選挙中の7月2日に狭心症で死去した。
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倉橋 尚(くらはし ひさし、1890年(明治23年)9月11… 倉橋 尚(くらはし ひさし、1890年(明治23年)9月11日 - 1976年(昭和51年)9月2日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 1890年(明治23年)に富山市で生まれた。陸軍士官学校第24期卒業。区隊長は大島浩で、仁保進とは同じ区隊。原隊の歩兵第7連隊での勤務を経て、陸軍士官学校にて33期生の区隊長を担当。教え子に鈴木善康(のち陸軍大佐)がいる。その後は各地の配属将校を転々とし、1939年(昭和14年)8月1日に陸軍歩兵大佐進級と同時に第22師団兵器部長に着任。1940年(昭和15年)3月に歩兵第60連隊長(第13軍・第15師団・第15歩兵団)に就任し、南京の警備に任じた。
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東郷 実(とうごう みのる、1890年(明治23年)9月10… 東郷 実(とうごう みのる、1890年(明治23年)9月10日 - 1962年(昭和37年)4月22日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。元帥海軍大将東郷平八郎の次男。 東京府出身。東郷平八郎・てつ夫妻の二男として生まれる。学習院中等科を経て、1912年(明治45年)7月、海軍兵学校(40期)を卒業。1913年(大正2年)12月、海軍少尉に任官し「香取」乗組となる。 1919年(大正8年)12月、「金剛」分隊長となり、「天龍」分隊長、「浦風」砲術長、「長門」「山城」「日向」の各分隊長などを経て、横須賀海兵団分隊長兼教官に就任。1925年(大正14年)12月、海軍少佐に昇進した。1927年(昭和2年)5月、「多摩」砲術長に転じ、海兵教官兼監事、「八雲」「榛名」の各運用長を歴任。
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熊谷 一弥(くまがい いちや、1890年(明治23年)9月1… 熊谷 一弥(くまがい いちや、1890年(明治23年)9月10日 - 1968年(昭和43年)8月16日)は、福岡県大牟田市出身の男子テニス選手。旧漢字表記では 熊谷 一彌 と書く。 熊谷は日本テニス界の黎明期を築き、清水善造と共に日本人テニス選手の世界挑戦への道を開拓した選手のひとりである。1918年(大正7年)の全米選手権において日本人テニス選手として史上初のグランドスラムベスト4に進出した。 1920年(大正9年)のアントワープ五輪で男子シングルス、ダブルスともに銀メダルを獲得し、日本人初のオリンピックメダリストとなった。 英語文献では“Ichiya Kumagae”(イチヤ・クマガエ)と表記されることが多い。
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三浦 義秋(みうら よしあき、1890年(明治23年)9月8… 三浦 義秋(みうら よしあき、1890年(明治23年)9月8日 - 1953年(昭和28年)12月23日)は、日本の外交官。駐メキシコ公使。 滋賀県出身。1916年(大正5年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、1919年(大正8年)、高等試験外交科に合格した。外務事務官、対支文化事務局事務官、アメリカ合衆国大使館三等書記官、中華民国公使館三等書記官、関東庁事務官・長官官房外事課長、上海領事、中華民国公使館二等書記官、廈門領事・台湾総督府事務官、中華民国公使館一等書記官、漢口総領事、ロンドン総領事、上海総領事、中華民国大使館参事官を歴任。1940年(昭和15年)、駐メキシコ公使に任命され、1943年(昭和18年)に退官した。
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