小泉 辰之助(こいずみ たつのすけ、1875年〈明治8年〉1… 小泉 辰之助(こいずみ たつのすけ、1875年〈明治8年〉12月24日 - 1936年〈昭和11年〉5月29日)は、大正から昭和時代前期の政治家。衆議院議員。 青森県東津軽郡幸畑村(筒井村、筒井町を経て、現在の青森市)に生まれる。函館中学校を卒業し、警官、陸奥日報記者を経て、日月新聞を主宰後、政治家に転身する。1905年(明治38年)東平内村長となり、1909年(明治42年)まで在職。1907年(明治40年)には東津軽郡会議員、同議長を経て、1915年(大正4年)東津軽郡選挙区から青森県会に立候補し当選し、再選後議長に就任した。 県議に3選後の1924年(大正13年)5月の第15回衆議院議員総選挙では青森県第5区から政友本党所属で出馬し当選するが、選挙後の訴訟に敗れて失格した。
松平 親信(まつだいら ちかのぶ、1875年〈明治8年〉12… 松平 親信(まつだいら ちかのぶ、1875年〈明治8年〉12月21日 - 1914年〈大正3年〉12月18日)は、明治・大正期の政治家、華族。貴族院子爵議員。幼名・龍若。 旧杵築藩主松平親貴の長男として生まれる。父の死去に伴い1882年(明治15年)10月12日に家督を継承し親信と改名。1884年(明治17年)7月8日に子爵を叙爵した。 学習院高等科を経て、1900年(明治33年)東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業し、さらに同大学院を修了した。浅草区教育会長を務めた。 1906年(明治39年)2月9日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、死去するまで在任した。会派は研究会に所属した。 1914年12月18日、東京市浅草区(現・台東区)浅草北三筋町の自宅で病のため死去した。
高原 操(たかはら みさお、1875年12月16日 - 19… 高原 操(たかはら みさお、1875年12月16日 - 1946年11月21日)は、日本のジャーナリスト。大阪朝日新聞主筆兼取締役編集局長。大正デモクラシーの第一線言論人。
黒住 成章(くろずみ せいしょう、前名・佐平治、1875年(… 黒住 成章(くろずみ せいしょう、前名・佐平治、1875年(明治8年)12月16日 - 1928年(昭和3年)7月17日)は、日本の弁護士、会社役員、政治家。衆議院議員(当選3回、立憲政友会)。族籍は岡山県平民。 1875年(明治8年)12月、岡山県津高郡一宮村(後の御津郡一宮町一宮、現在の岡山市北区一宮)で生まれる。黒住秀治の長男。生家は代々農業を営む。小学校卒業後、家業に従事する。 家が貧しく、学資を得ず、上京して牛乳配達、新聞配達等を勤めながら、1902年(明治35年)、和仏法律学校(現・法政大学)を卒業。 1903年(明治36年)、判検事登用試験に及第し、この年の12月に司法官試補を命ぜられ函館地方裁判所に勤務する。
山本 鶴一(やまもと かくいち、1875年〈明治8年〉12月… 山本 鶴一(やまもと かくいち、1875年〈明治8年〉12月15日 - 没年不明)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級。 島根県楯縫郡、後の簸川郡灘分村(現出雲市)で山本才之助の長男として生まれ、1900年(明治33年)に家督を相続した。 松江中学校(現島根県立松江北高等学校)を卒業。1897年(明治30年)11月、陸軍士官学校(9期)を卒業し、1898年(明治31年)6月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第11連隊付となる。1903年(明治36年)8月、陸軍大学校(20期)に入学。日露戦争勃発により1904年(明治37年)2月、陸大を中退し、1906年(明治39年)3月、陸大に復校し、1908年(明治41年)11月、同校を卒業し参謀本部に配属された。
6代 木津 太郎平(きづ たろへい、1875年(明治8年)1… 6代 木津 太郎平(きづ たろへい、1875年(明治8年)12月14日 - 1950年(昭和25年)7月8日)は、明治時代後期から昭和時代前期の政治家、実業家。衆議院議員。富山県高岡市長。富山県多額納税者。幼名は清太郎。号・蒼石、杉雨。 新川県射水郡高岡上川原町(石川県、富山県射水郡高岡上川原町を経て現・高岡市川原本町)で、先代・太郎平の長男として生れ、1903年(明治36年)3月に家督を相続し、幼名を改め、6代太郎平を襲名した。富山県立富山中学校(現富山県立富山高等学校)を卒業後、志願兵として従軍し陸軍歩兵中尉に任官する。日露戦争の功により功五級金鵄勲章および日独戦争の功により勲四等を叙勲される。
飛岡 卯一郎(とびおか ういちろう、1875年(明治8年)1… 飛岡 卯一郎(とびおか ういちろう、1875年(明治8年)12月13日 - 1925年(大正14年)6月25日)は、日本の政治家。帝国議会衆議院議員(1期)、鹿児島市会議員、鹿児島県会議員。 鹿児島県鹿児島市金生町出身。飛岡卯右衛門の長男として生まれる。1894年(明治27年)7月、鹿児島高等中学造士館予科卒業、1896年(明治29年)7月、鹿児島高等中学造士館本科卒業。1904年(明治37年)東京帝国大学法科大学政治学科卒業。鹿児島市会議員、鹿児島県会議員を歴任し、1912年(明治45年)5月の第11回衆議院議員総選挙において鹿児島市選挙区で当選、立憲政友会所属で1期務めた。そのほか、鹿児島商業会議所議員、同副会頭、第百四十七銀行(鹿児島銀行の前身のひとつ)常務取締役なども歴任。
瀬沼 夏葉(せぬま かよう、1875年12月11日 - 19… 瀬沼 夏葉(せぬま かよう、1875年12月11日 - 1915年2月28日)は日本の小説家、翻訳家、教師。本名は瀬沼 郁子(旧姓:山田)。アントン・チェーホフを初めて日本に紹介した。 高崎県高崎(現在の群馬県高崎市)で、種子業を営む父・山田勘次郎と母・よかの長女・郁子として生まれる。両親はともに正教会の信者であり、自身も早くから信者となった。1882年に主教のニコライ・カサートキンが高崎教会に来た際にはよかに連れられて他の信徒とともに前橋市まで出迎えに行き、大きくなったら駿河台の正教女子神学校に入学するよう勧められたという。1883年によかが結核のため亡くなったが、キリスト教徒である事を理由に先祖代々の墓所への埋葬を拒否されている。
大倉 和親(おおくら かずちか、1875年(明治8年)12月… 大倉 和親(おおくら かずちか、1875年(明治8年)12月11日 - 1955年(昭和30年)7月1日)は、明治期の実業家。日本陶器(現・ノリタケ)初代社長。東洋陶器(現・TOTO)社長、日本碍子社長、伊奈製陶(後のINAX、現・LIXIL)社長、大倉陶園主のほか、森村組取締役などを務めた。 大倉孫兵衛の長男として東京日本橋に生まれ、1921年に家督を相続する。慶應義塾幼稚舎から進んで、1894年(明治27年)慶應義塾正則本科を卒業し、森村組入社。明治28年渡米しイーストマン商業学校で学んだ後、森村組ニューヨーク店森村ブラザースに入る。欧米滞在9年を経て帰国し、明治37年日本陶器合名会社設立し、代表社員に就任。
結城 素明(ゆうき そめい、1875年(明治8年)12月10… 結城 素明(ゆうき そめい、1875年(明治8年)12月10日 - 1957年(昭和32年)3月24日)は、日本の明治から昭和にかけて活躍した日本画家。日本芸術院会員。 東京本所荒井町に、「池田屋」という酒屋を営んでいた森田周助の次男として生まれる。本名の貞松は勝海舟の命名といい、奇しくも後に素明は、「江戸開城談判」(聖徳記念絵画館蔵)において海舟の姿を描いている。10歳の頃、親類の結城彦太郎の養嗣子となる。明治24年(1891年)7月岡倉覚三(天心)の紹介で、川端玉章の画塾天真堂(天真社)に入門する。玉章に学びながら明治25年(1892年)東京美術学校日本画科に入学。常に墨斗と手帖を携帯し、目にとまったものは何でも写生したという。
新井 亀太郎(あらい かめたろう、1875年〈明治8年〉12… 新井 亀太郎(あらい かめたろう、1875年〈明治8年〉12月8日 - 1932年〈昭和7年〉11月7日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 群馬県出身。新井沢次郎の四男として生まれる。群馬県境野小学校、同山田第一高等小学校、錦城商業学校を経て、1896年(明治29年)11月陸軍士官学校(8期)を卒業。翌年6月、陸軍歩兵少尉に任官される。歩兵第16、9、35の各連隊付を経て、1903年(明治36年)陸軍大学校に入学。 日露戦争の勃発に伴い修学を中退、原隊復帰、第一回旅順攻撃(歩兵第35連隊第12中隊長)、第二回攻撃(歩兵第6旅団副官代理)、第三回攻撃及び奉天の会戦(同副官)に参加。 1907年陸軍大学校(第19期)を卒業。
野口 米次郎(のぐち よねじろう、1875年〈明治8年〉12… 野口 米次郎(のぐち よねじろう、1875年〈明治8年〉12月8日 - 1947年〈昭和22年〉7月13日)は、明治・大正・昭和前期の英詩人、小説家、評論家、俳句研究者。海外の文芸思潮の紹介に携わり、また海外に日本文化を紹介した。イサム・ノグチの父親。内田魯庵からノーベル文学賞の受賞を待望された。 愛知県海部郡津島町(現・津島市)生まれ。雑貨店を営む父・傳兵衛、母・久己(くわ)の四男として生まれた。10歳で英語を学び始める。 1888年(明治21年)生家を離れ名古屋で英学を学び、ユニオン第四読本、スマイルズ著『自助論』を学ぶ。1889年(明治22年)愛知県尋常中学校(現・愛知県立旭丘高等学校)に入学し、ザ・セカンド・ナショナル読本を学ぶも、1890年(明治23年)2月退学し、四日市から海路で上京、伯父である鵜飼大俊和尚旧居である芝・増上寺の通元院に寄寓し、のち現在の銀座に当たる京橋にあった長兄野口秀之助の知人である磯長宅に寄寓。
朽木 綱貞(くつき つなさだ、1875年(明治8年)12月2… 朽木 綱貞(くつき つなさだ、1875年(明治8年)12月2日 - 1929年(昭和4年)9月6日)は、明治から大正時代の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍少将。貴族院議員、子爵、工学博士。福知山藩13代(最後)の藩主朽木為綱の子。妻は徳川篤守の娘芳子。陸軍の火薬研究の権威であった。 1883年(明治16年)に父の為綱が没したため家督を継ぎ、1884年(明治17年)7月8日、子爵を襲爵する。慶應義塾幼稚舎を経て、1896年(明治29年)5月27日、陸軍士官学校(7期)を卒業。1897年(明治30年)1月、砲兵少尉任官。陸軍砲工学校高等科で学び、さらに陸軍派遣学生として東京帝国大学工科大学応用化学科を1904年(明治37年)6月に卒業。
松永 安左エ門(松永 安左衞門、まつなが やすざえもん、18… 松永 安左エ門(松永 安左衞門、まつなが やすざえもん、1875年(明治8年)12月1日 - 1971年(昭和46年)6月16日)は、「電力王」「電力の鬼」と言われた日本の財界人。政治家(帝国議会衆議院議員1期)。美術コレクター、茶人としても知られ、耳庵(じあん)の号を持つ近代小田原三茶人の一人。氏名は「松永安左ヱ門」と表記されることもある。
和田 義為(わだ よしため、1875年12月 - 没年不明)… 和田 義為(わだ よしため、1875年12月 - 没年不明)は、日本の実業家。共同酒造株式会社社長、大倉恒吉商店(現・月桂冠)株式会社取締役。族籍は兵庫県士族。 京都府士族、和田重為の長男として、1875年(明治8年)12月に生まれる。尚、尊皇派志士・正五位の和田義亮は祖父である。 1895年(明治28年)に家督を相続し、1897年(明治30年)、関西法律学校(現・関西大学)法科を卒業する。卒業後は大倉恒吉商店に勤務。その後、共同酒造株式会社社長、大倉恒吉商店(現・月桂冠)株式会社取締役を歴任した。
久保 猪之吉(くぼ いのきち、1874年(明治7年)12月2… 久保 猪之吉(くぼ いのきち、1874年(明治7年)12月26日 - 1939年(昭和14年)11月12日)は、日本の医学者・歌人・俳人。医学博士。京都帝国大学福岡医科大学(後の九州帝国大学、現・九州大学)教授。 明治7年12月26日、陸奥国二本松藩の藩士久保常保の子として現在の福島県二本松市に生まれる。戊辰戦争の当時、猪之吉は6歳、実兄たちは、二本松藩士久保長一郎常保(父親と同名のため父親と誤認されるが、実兄である)、二本松少年隊の久保鉄次郎13歳と久保豊三郎12歳として知られる。猪之吉は兄の豊三郎と共に二本松の戦いに参加したいと母親に懇願したが、懐妊中の母は猪之吉を無言で抱き締めていたと伝わる。
森 三之助(もり さんのすけ、1874年12月25日 - 1… 森 三之助(もり さんのすけ、1874年12月25日 - 1940年6月9日)は、日本の俳優である。本名は森 三吉(もり さんきち)、ニックネームは森三(もりさん)。 1874年(明治7年)12月25日、神奈川県横浜市中区初音町の海産物問屋森寅に、長男の「森三吉」として生まれる。 長じて、旧制・横浜商業学校(現在の横浜市立横浜商業高等学校)を卒業する。 1894年(明治27年)、川上音二郎の「川上音二郎一座」に入座、初舞台は横浜の港座であった。1902年(明治35年)、満27歳のときに独立し、「新演劇森三之助一座」を結成する。人気を得て、ファンやジャーナリズムから「森三」との愛称をいただく。 のち東京へ進出、1911年(明治44年)には、目黒にあった吉沢商店の撮影所で黎明期のサイレント映画に出演した。
住田 寅次郎(すみだ とらじろう、明治7年(1874年)12… 住田 寅次郎(すみだ とらじろう、明治7年(1874年)12月25日 - 昭和2年(1927年)11月25日)は、日本の実業家、政治家。米子商工会副会頭、米子町会議員、郡会議員。 漫画家水木しげる(本名武良茂)の大叔父。父は住田呉服店の主人で米子町長をつとめた住田善平。 米子東倉吉町の商家に生れた。家業は呉服商。 1902年7月、東京帝国大学法科大学政治学科卒業、法学士。 後には転じて製パンを志し、世上これを“学士パン”と呼んだ。 明治40年(1907年)9月、町会議員に当選。学務委員、角盤学校組合議員其の他各種の名誉職を兼ねた。 住田寅次郎は1902年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業した。
和田 英作(わだ えいさく、1874年12月23日 - 19… 和田 英作(わだ えいさく、1874年12月23日 - 1959年1月3日)は、鹿児島県出身の洋画家・教育者。東京美術学校校長(1932年 - 1936年)。文化勲章受章者、文化功労者。父は和田秀豊、弟は和田秀穂。 1874年12月23日、鹿児島県肝属郡垂水村(現・垂水市)に生まれた。父親は牧師の和田秀豊、母親は川上トヨ。鹿児島生まれとするのが定説だが、1997年にフェルケール博物館で開催された「日本近代洋画の重鎮・和田英作展」では、東京生まれだとする新説が提示されている。和田秀豊はトヨの父親川上幸彦と親しかった。英作は三男四女の長男である。 3歳4か月だった1878年3月に家族で上京し、東京府麻布区の麻布仲ノ町に住んだ。
太田 秀穂(おおた ひでお、1874年(明治7年)12月21… 太田 秀穂(おおた ひでお、1874年(明治7年)12月21日- 1950年(昭和25年)12月23日)は、日本の教育者。 茨城県出身。太田茂兵衛の四男。1898年(明治31年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業し、さらに大学院で学んだ。新潟県新潟師範学校教諭、山梨県師範学校校長、新潟県高田師範学校校長、長野県師範学校校長を歴任。1912年(明治45年)、朝鮮総督府視学官に転じ、さらに京城女子高等普通学校校長も兼ねた。1917年(大正6年)、佐賀県師範学校校長となり、1919年(大正6年)には台湾総督府視学官に転じ、翌年には台湾総督府台北師範学校も兼ねた。 1923年(大正12年)からは多摩少年院院長を務めた。
若林 徳懋(わかばやし のりしげ、1874年(明治7年)12… 若林 徳懋(わかばやし のりしげ、1874年(明治7年)12月20日 - 1939年(昭和14年)1月24日)は、明治時代後期から昭和時代前期の政治家、実業家。衆議院議員。 島根県周吉郡、のちの中条村、現在の隠岐の島町中央部出身。1896年(明治29年)島根県師範学校を卒業。ほか、明治法律学校、早稲田専門学校に学ぶ。小学校長となったのち農業に転じ、ついで中条村長、村農会長、島根県会議員、同参事会員、西郷町外十一箇村組合議員を歴任。ほか、満韓塩業社員、原田興業社長、同顧問を務めた。 1920年(大正9年)第14回衆議院議員総選挙で島根県第6区から立憲政友会所属で出馬して当選し、1期務めた。のち政友本党所属に転じた。
水野 吉太郎(みずの きちたろう、1874年(明治7年)12… 水野 吉太郎(みずの きちたろう、1874年(明治7年)12月18日 - 1947年(昭和22年)2月14日)は日本の政治家、弁護士。衆議院議員、高知弁護士会長。族籍は高知県平民。 1874年(明治7年)12月、高知県香美郡富家村に生まれる。水野源兵衛の長男。1899年(明治32年)に和仏法律学校法律科(現・法政大学)を卒業し、判事検事登用試験及び弁護士試験に合格する。 1900年(明治33年)に高知県で弁護士を開業するも、北海道に移住する。しかし、北海道での新聞事業の失敗、材木商との争いなどで、大連に渡る。 その後、高知県に帰郷し、1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選する(政友会)。
近藤 茂(こんどう しげる、1874年〈明治7年〉12月15… 近藤 茂(こんどう しげる、1874年〈明治7年〉12月15日 - 1954年〈昭和29年〉1月1日)は、明治から昭和初期にかけて活動した日本の電気技術者、実業家。工学博士。 逓信省の技官として電気局技術課長心得などを務め、退官後は実業界に転じて電力会社にかかわり大同電力常務取締役、昭和電力副社長に就任した。福井県出身。 福井県福井市出身。1874年(明治7年)12月15日、士族近藤寅之助の長男として生まれる。1896年(明治29年)7月第一高等学校第二部工科を卒業し、次いで1899年(明治32年)7月東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業した。同期に日本電気会長を務めた秋山武三郎らがいる。 卒業後は逓信省に入り、電気事業の監督にあたる。
上司 小剣(かみつかさ しょうけん、1874年(明治7年)1… 上司 小剣(かみつかさ しょうけん、1874年(明治7年)12月15日 - 1947年(昭和22年)9月2日)は、日本の小説家。 奈良県奈良市生まれ、兵庫県多田村(のちの川西市)育ち。本名は延貴。父が多田神社の宮司を務めていた為、小学生まで多田村で育ち、その後母の実家である大阪に預けられる。大阪の浪華文学会で活動したあと1897年上京、読売新聞社に勤め、編集局長。1914年の半生記小説『鱧の皮』が田山花袋に賞賛され、代表作となった。1937年帝国芸術院会員。戦後、新日本文学会の賛助会員となった。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
宮原 武熊(みやはら たけくま、1874年(明治7年)12月… 宮原 武熊(みやはら たけくま、1874年(明治7年)12月13日 - 没年不明)は鹿児島県出身の医学者、眼科医で、日本統治時代の台湾における政治家。台湾台中市のスイーツ専門店「宮原眼科(日出宮原眼科)」の由来として知られている。 鹿児島県川辺郡知覧村(現・南九州市)で出生。 同年退官し、東京で眼科開業。その後台湾に再渡航し、1927年(昭和2)に民間開業医として台中州台中市栄町に宮原眼科医院を開業。 1933年(昭和8)12月29日に陳炘および台湾文化協会や台湾民衆党を率いていた林献堂らとともに台湾人による台湾自治を目指す『東亜共栄協会』を設立し、一時は1万人超の会員数となったが、次第に日本の右翼団体の圧力で劣勢となり、1936年に解散に追い込まれている。
小森 雄介(こもり ゆうすけ、1874年(明治7年)12月1… 小森 雄介(こもり ゆうすけ、1874年(明治7年)12月11日)- 1942年(昭和17年)5月3日)は、明治後期から昭和前期の銀行家、政治家。衆議院議員。 鹿児島県鹿児島郡鹿児島城下高麗町(現鹿児島市高麗町)で、旧鹿児島藩士・小森新蔵の六男として生まれる。1896年(明治29年)7月、鹿児島高等中学造士館本科卒業。1899年(明治32年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業した。 衆議院事務局に入り同属に任官。1902年(明治35年)台湾銀行に転じて書記に就任。植民経済研究のため1905年(明治38年)アメリカ合衆国に留学しハーバード大学で学んだ。その後、ボストンのキタピポヂー銀行での実務研修、欧州各国の視察旅行を経て、1908年(明治41年)に帰国した。
前田 利定(まえだ としさだ、1874年〈明治7年〉12月1… 前田 利定(まえだ としさだ、1874年〈明治7年〉12月10日 - 1944年〈昭和19年〉10月2日)は、日本の政治家、華族(子爵)。逓信大臣(第26代)、農商務大臣(第32代)を務めた。東京府出身。 加賀前田家の分家の一つである旧七日市藩主家に、最後の藩主(藩知事)前田利昭の子として生まれる。 1894年(明治27年)、日清戦争に歩兵中尉として従軍。1902年(明治35年)、東京帝国大学法科大学を卒業。その後、司法官試補となる。1904年(明治37年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に所属し1944年(昭和19年)2月2日に辞職するまで在任した。 1922年(大正11年)に加藤友三郎内閣の逓信大臣となり初入閣。
瀧川 儀作(たきがわ ぎさく、1874年(明治7年)12月8… 瀧川 儀作(たきがわ ぎさく、1874年(明治7年)12月8日 - 1963年(昭和38年)1月31日)は、日本の実業家、政治家。瀧川辨三の養嗣子。旧姓梶岡。 瀧川辨三が発展させた東洋燐寸株式会社社長を引き継ぎ日本のマッチ王と呼ばれる。 奈良県吉野郡、のちの高見村(現東吉野村)で豪家梶岡源重郎、たみの三男として生まれた。後旧長州豊浦藩藩士瀧川辨三の養子となり、明治32年(1899年)分家す。 明治29年(1896年)大阪商業学校卒業。岳父を助けて幾多の事業に参画。 1918年1月には兵庫県下の28工場を合併して帝国燐寸株式会社を設立、2月には膠州湾租借地に青島燐寸株式会社を設立。神戸商業会議所会頭、神戸日華実業協会長、瀧川学園理事を歴任。
本多 熊太郎(ほんだ くまたろう、明治7年(1874年)12… 本多 熊太郎(ほんだ くまたろう、明治7年(1874年)12月8日 - 昭和23年(1948年)12月18日)は、明治・大正・昭和の外交官、太平洋戦争時の中華民国大使、東條内閣の外交顧問。戦後はA級戦犯容疑者として逮捕された。 和歌山県那賀郡で本多宇兵衛の子として生まれる。東京法学院(中央大学)法科在学中の1894年(明治27年)5月に外務省留学生試験(講習語は中国語)に合格し、同年6月に法学院を中途退学。翌1895年(明治28年)8月に外務省書記生試験(後の外務専門職試験)に合格し外務書記官。同期に中村巍、高橋橘太郎らがいる。1898年(明治31年)、外交官及領事官試験(第7回、後の外交官1種試験)に合格し外交官補となる。
錦織 幹(にしきおり かん、1874年(明治7年)12月7日… 錦織 幹(にしきおり かん、1874年(明治7年)12月7日 - 1955年(昭和30年)7月28日)は、内務官僚。長崎市長。 愛媛県出身。 父は判事を務めた錦織義弘・リウの子。1896年(明治29年)、東京法学院(現在の中央大学)を卒業。1899年(明治32年)に高等文官試験に合格した。内務属、秋田県参事官、鹿児島県参事官、山形県事務官、長崎県港務長、島根県事務官、山梨県内務部長、千葉県内務部長、新潟県内務部長などを歴任した。1917年(大正6年)に休職となった後は、日本スレートアスフハルト工業株式会社取締役、証券交換所株式会社取締役を務めた。 1922年(大正11年)、長崎市長に選出された。
山室 機恵子(やまむろ きえこ、1874年(明治7年)12月… 山室 機恵子(やまむろ きえこ、1874年(明治7年)12月5日 - 1916年(大正5年(7月12日)は、山室軍平の最初の妻で、明治時代の社会事業家である。 岩手県花巻の川口村(市町村制施行後は花巻川口町)に開明的な素封家の佐藤庄五郎の長女として生まれる。佐藤家は代々豪農で、庄五郎は農村改良指導者として天皇から奨励金を授与されたこともあった。 地元の高等小学校を卒業後、家業の養蚕を手伝っていたが、『女学雑誌』でキリスト教に触れ、1892年に上京、明治女学院に入学する。在学中、一番町教会に通い、1891年植村正久より洗礼を受ける。 1893年明治女学校普通科を卒業し、継いで高等文科に進み、1895年に卒業後は東京婦人矯風会の書記を経て、下田歌子らの大日本婦人教育会が設立した女紅場で教壇に立つ傍ら、『女学雑誌』の事務仕事にも携わった。
福田 徳三(ふくだ とくぞう、1874年(明治7年)12月2… 福田 徳三(ふくだ とくぞう、1874年(明治7年)12月2日 - 1930年(昭和5年)5月8日)は、日本の経済学を開拓した経済学者。社会政策学派、新歴史学派として経済理論、経済史などを導入した。東京商科大学(現・一橋大学)教授、慶應義塾教授、フランス学士院文科部外国会員等を歴任。レジオンドヌール勲章受章。 1874年、東京・神田で生まれた。母がクリスチャンであったため、1885年、12歳の時に築地新栄教会において植村正久から洗礼を受けた。泰明小学校から私立の東京英語学校などを経て、母の遺言と姉の助言に従い高等商業学校(後の東京高等商業学校、現在の一橋大学)に入学。学生時代には、東京の貧民窟(スラム)での伝道活動にも参加した。
早田 文藏(はやた ぶんぞう、1874年12月2日 - 19… 早田 文藏(はやた ぶんぞう、1874年12月2日 - 1934年1月13日)は日本の植物学者。 1871年、新潟県加茂生まれ。1903年東京帝国大学を卒業。台湾総督府の依頼で台湾の植物を研究し、さらにインドシナでも調査を行った。その後東京帝大理学部教授および東大附属植物園長となった。 台湾植物の命名にあたってはフランス人神父のユルバン・ジャン・フォーリー (Urbain Jean Faurie) が残した資料に拠る部分が多かったため、謝意を表するため日本人から寄付を募り、1917年に神父の銅像を建てた。 死後の1936年、台湾総督府は功績をたたえ記念碑を現台北植物園の腊葉館前に建てたが太平洋戦争の混乱により、フォーリー神父の銅像ともども行方不明となってしまった。
石破 市造(いしば いちぞう、1874年〈明治7年〉12月2… 石破 市造(いしば いちぞう、1874年〈明治7年〉12月2日 - 1941年〈昭和16年〉1月19日)は、日本の農民、政治家。鳥取県八頭郡大御門村長、同村会議員、同信用組合理事を歴任。 参議院議員や第39代鳥取県知事を務めた石破二朗の父で、第102・103代内閣総理大臣、第28代自由民主党総裁の石破茂の祖父。 鳥取県八東郡大御門村大字殿(後の郡家町、現・八頭町)で石破常七の長男として農家の家に生まれた。高等小学校卒業後は家業たる農業に従事したが、明治27年(1894年)隼村役場書記を拝命。明治28年(1895年)大御門村役場に転じ明治33年(1900年)辞任。明治35年(1902年)村書記復職。
相見 香雨(あいみ こうう、1874年(明治7年)12月1日… 相見 香雨(あいみ こうう、1874年(明治7年)12月1日 - 1970年(昭和45年)6月28日)は、日本の美術史家、新聞記者。本名は相見繁一(はんいち)。 96歳で没するまで約60年に亘り在野で実証的研究を続け、美術史界における「在野の大立者」(田中一松)と評された。生涯に書き継いだ自筆の調査記録は42帙240冊(九州大学文学部所蔵)にのぼる。87歳で紫綬褒章、勲四等旭日小綬章を受章した。 1874年、相見家(商家・野波屋)の長男として島根県松江魚町(現松江市魚町)に生まれた。白潟小学校(現松江市立中央小学校)、進取学館(のちの私立中学修道館)を経て、島根県尋常中学校(前身は松江中学)に進学。
前川 真平(まえかわ しんぺい、1874年12月1日 - 1… 前川 真平(まえかわ しんぺい、1874年12月1日 - 1906年4月24日、 英語 Shinpei MaekawaまたはShinpei Mykawa)は、愛知県出身の農業技術者。渡米し、テキサス州の南東部に稲作を導入させた。ヒューストンのMykawaという地域名、ならびにMykawa Roadという道路は彼の名にちなんで命名された。"Mykawa"は当初マエカワと発音させるためのスペリングであったが、米国での発音は“マイカワ”である。 前川は高等商業学校(のちの東京高等商業学校→東京商科大学、現・一橋大学)を卒業した。同校は当時、東京の商業学校の筆頭に位置づけられていた。 1903年、海軍士官だった前川は、翌年開催されたセントルイス万国博覧会日本使節団の一員として渡米した。
大沢 豊子(おおさわ とよこ、1873年(明治6年)12月3… 大沢 豊子(おおさわ とよこ、1873年(明治6年)12月31日 - 1937年(昭和12年)6月15日)は、明治から昭和にかけての速記者、ジャーナリスト。群馬県館林市生まれ。生涯で三度職業を変え、それぞれの分野を女性の職業とする先鞭をつけた。 旧館林藩士であった父大沢師容、母やをの長女として生まれる。小学校を卒業後の1888年(明治21年)、15歳で東京に出て、遠縁であった佃与次郎の速記塾に入り、2年間速記を学んだ。 翌1889年(明治21年)、講演速記として業務を始め、7月、大日本婦人衛生学会の講演会の速記を初めて担当。同年の12月9日には、設立3年目であった婦人矯風会が主催した廃娼演説会で、同門の中村たま子と共に植木枝盛らの演説を速記した。
小島 烏水(こじま うすい、1873年12月29日-1948… 小島 烏水(こじま うすい、1873年12月29日-1948年12月13日)は、日本の登山家、随筆家、文芸批評家、浮世絵や西洋版画の収集家・研究家。本名は小島 久太。 1873年(明治6年)香川県高松生まれ。横浜商業学校卒業。横浜正金銀行に入行。銀行は定年まで勤め、シアトル支店長などを歴任。 横浜商業学校時代に友人と雑誌『学燈』を編集するなど、早くから文筆に興味を持つ。銀行に入ってから、1896年に出した『一葉女史』により評論家として世に注目される。 また、登山家としても知られ、1897年立川から甲府の昇仙峡まで徒歩で青梅街道を歩く、1899年休暇に浅間山 - 木曽へ山旅するなど、旅を趣味とした。
星 一(ほし はじめ、1873年(明治6年)12月25日 -… 星 一(ほし はじめ、1873年(明治6年)12月25日 - 1951年(昭和26年)1月19日)は、福島県いわき市出身の実業家・政治家。略称、ホシピン。SF作家星新一の父。写真植字機を開発した石井茂吉と森澤信夫が出会うきっかけとなった星製薬を築いた。また、星薬科大学の創立者。
松井 元興(まつい もとおき、1873年12月25日 - 1… 松井 元興(まつい もとおき、1873年12月25日 - 1947年5月24日)は、日本の物理化学者。京都帝国大学総長、立命館大学学長、日本物理化学研究会初代会長。
本多 正復(ほんだ まさもと、明治6年(1873年)12月2… 本多 正復(ほんだ まさもと、明治6年(1873年)12月23日 - 昭和9年(1934年)4月9日)は、日本の華族(子爵)。平戸藩主松浦詮の六男。初名は松浦復。長尾藩主本多正憲の娘・純子の婿養子となり名を改める。子に房子、本多正震、稲葉正弘(稲葉正顕養子)、恒子(田中真茂妻)。 学習院高等科を卒業。宮内省に入り、東宮侍従、掌典次長を歴任、その後宮中顧問官を務めた。大正15年(1926年)7月に養父が隠居し家督を継ぐ。昭和9年、62歳で没した。墓所は青山霊園(1イ20-23)で、藩主の墓所を浅草徳本寺や谷中霊園から改葬している。
滝 精一(たき せいいち、1873年(明治6年)12月23日… 滝 精一(たき せいいち、1873年(明治6年)12月23日 - 1945年(昭和20年)5月17日)は、日本の美術史家。東京帝国大学教授。 東京生まれ。滝和亭の長男。号は拙庵。東京帝国大学哲学科卒、1914年、母校の文学部に美術史学講座が開設された際に初代教授となり、昭和9年(1934年)の退官まで日本美術史と中国絵画史を講じた。1925年帝国学士院会員。1927年文学部長。大阪朝日新聞客員、東方文化学院理事長、会長を務め、『国華』の編集に携わる。1940年朝日文化賞受賞。 かつて滝に新聞学講座開設を阻止された小野秀雄の恨みを買い、没後、小野の回想録で憎悪に満ちた批判を受けた。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
朝河 貫一(あさかわ かんいち、1873年(明治6年)12月… 朝河 貫一(あさかわ かんいち、1873年(明治6年)12月20日 - 1948年(昭和23年)8月10日)は、日本の歴史学者。日本人初のイェール大学教授。 福島県二本松市出身。父は旧二本松藩士朝河正澄、母は旧田野口藩士の長女杉浦ウタ(ウタは貫一が2歳の時に亡くなったため、その後は父正澄と継母エヒに育てられる)。 1874年(明治7年)、父正澄が「伊達郡立子山村小学校」(現福島市立立子山小学校)の校長格として赴任するため、現在の福島県福島市立子山にある天正寺に移住した後、新校舎とともに建設された校長住宅へ移る。天正寺には朝河が4歳の時に描いた馬の絵が現存する。 1878年(明治11年)、立子山小学校初等科に入学後、初等科首席卒業し、飛び級により同校普通科・高等科(3級まで)を修了する。
山川 端夫(やまかわ ただお、1873年(明治6年)12月1… 山川 端夫(やまかわ ただお、1873年(明治6年)12月15日 - 1962年(昭和37年)3月2日)は、日本の海軍・外務官僚、政治家、国際法学者。法学博士、貴族院議員、法制局長官。 長崎県出身。山川景範の長男として生まれる。長崎中学、第五高等学校を経て、1898年(明治31年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し大学院に進む。同年12月、文官高等試験に合格。1899年(明治32年)3月、海軍省に入り参事官に就任。その後、兼高等捕獲審検所事務官、兼鉄道院理事、海軍教官兼海軍省参事官、講和会議全権委員随員などを歴任。1919年(大正8年)4月、法学博士号を取得。 1920年(大正9年)4月、外務省に移り臨時平和条約事務局第1部長に就任し、さらに条約局長となる。
木暮 理太郎(こぐれ りたろう、1873年(明治6年)12月… 木暮 理太郎(こぐれ りたろう、1873年(明治6年)12月7日 - 1944年(昭和19年)5月7日)は、日本の登山家。 1873年(明治6年)12月7日、群馬県新田郡寺井村(現・太田市寺井町)の農家の長男として生まれる。東京の私立郁文館中学校を卒業後仙台の旧制第二高等学校に進み1897年(明治30年)に卒業した。さらに東京帝国大学に進学しはじめ哲学科、ついで史学科で学んだが、中途退学した。その後は博文館の雑誌『ハガキ文学』の編集に従事し、『泰西名画鑑』を著した。1907年(明治40年)からは東京市史料編纂室嘱託となり、亡くなるまで東京市史稿編集に携わった。 若年時から登山を趣味としていたが、田部重治と知り合ったことをきっかけに1913年(大正2年)9月に日本山岳会に入会した。
山辺 知春(やまべ ともはる、1873年(明治6年)12月6… 山辺 知春(やまべ ともはる、1873年(明治6年)12月6日 - 1936年(昭和11年)11月21日)は、日本の宮内官僚。教育者。 福島県人の山辺知一の子。1898年(明治31年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。一年志願兵として陸軍歩兵少尉となり、その後中等教育に従事した。1903年(明治36年)、北白川宮成久王の教育掛となり、1910年(明治43年)より北白川宮家家令を務めた。その後宮内事務官・式部官を務めた。1922年(大正11年)、秩父宮別当に就任し、1926年(大正15年)からは北白川宮永久王・美年子女王・佐和子女王・多恵子女王の保育係を務めた。1930年(昭和5年)、宮中顧問官に就任し、北白川宮家別当となった。
江木 翼(えぎ たすく、1873年〈明治6年〉12月5日 -… 江木 翼(えぎ たすく、1873年〈明治6年〉12月5日 - 1932年〈昭和7年〉9月18日)は、日本の内務官僚、政治家。法学博士。幼名は恵助(えすけ)。 1873年(明治6年)12月5日、山口県御庄村(現在の岩国市)に酒造業を営む羽村卯作の三男として生まれる。山口中学校、山口高等中学校予科、本科を経て、東京帝国大学法科大学英法科へ進学、1897年(明治30年)5月17日に、枢密顧問官、文部大臣、貴族院議員となる江木千之の養子となる。同年7月、帝大を卒業し、大学院に進学。1898年(明治31年)12月、文官高等試験に合格。1899年(明治32年)1月、内務省に入省する。神奈川県事務官、法制局参事官、1910年(明治43年)には拓殖局部長を歴任する。
高田 耘平(たかだ うんぺい、1873年(明治6年)12月1… 高田 耘平(たかだ うんぺい、1873年(明治6年)12月1日 - 1957年(昭和32年)6月29日)は、明治から昭和前期の農業経営者、政治家、実業家。衆議院議員。衆議院有数の弁論家で農政通として知られた。 栃木県那須郡、のちの荒川村(南那須村、南那須町を経て現那須烏山市)で、高田啓三郎、トヨ夫妻の長男として生まれる。1892年(明治25年)栃木県尋常中学校(現栃木県立宇都宮高等学校)を卒業。1902年(明治35年)11月に家督を相続し、農業を営む。 荒川村役場書記、栃木県会書記、税務属、荒川村助役、同村会議員、那須郡会議員を務め、1907年(明治40年)栃木県会議員に選出され2期在任し、参事会員も務めた。
和田 信二郎(わだ しんじろう、1873年12月 - 195… 和田 信二郎(わだ しんじろう、1873年12月 - 1950年8月29日)は、日本の国文学者・文部官僚。 若狭国小浜藩士・和田義比の次男。弟は和田光石。父の弟は和田維四郎、その子で従弟に推理作家の大坪砂男がいる。妹の夫は正木直彦。和田謹吾は五男。1891年東京英語学校、国語伝習所卒。1895年國學院卒。芳賀矢一に師事。奈良県立第一中学校(現奈良県立郡山高等学校)に赴任、のち津に移り、古事類苑編纂部に勤める。1903年文部省に入り、中学校高等学校教科書編纂官。1943年退任。
水野 幸吉(みずの こうきち、1873年(明治6年)12月 … 水野 幸吉(みずの こうきち、1873年(明治6年)12月 - 1914年(大正3年)5月23日)は、明治時代から大正時代の外交官。位階および勲等は従四位・勲三等。号は酔香で、俳人としても活動した。 旧尾張藩の勘定吟味役の水野尋樹の次男として姫路市龍野町に生まれる。父は明治維新後、東京に出て刑部省の役人となり、1872年に兵庫県庁に転職し1876年に淡路島洲本の支庁に移った。母は産後の肥立ちが悪く、産んだ5年後の1878年に没した。家は貧しかった。 幸吉は姉の栄子を頼り苦学し、1885年に京都の平安義校を卒業後、第三高等中学校に入学した。愛知県出身者のための愛育社の奨学金により、1897年に東京帝国大学政治学科を卒業。