郡 祐一(こおり ゆういち、1902年(明治35年)3月16… 郡 祐一(こおり ゆういち、1902年(明治35年)3月16日 - 1983年(昭和58年)12月28日)は、日本の政治家、官僚。
茨城県:1,636人
郡 祐一(こおり ゆういち、1902年(明治35年)3月16… 郡 祐一(こおり ゆういち、1902年(明治35年)3月16日 - 1983年(昭和58年)12月28日)は、日本の政治家、官僚。
北沢 直吉 (きたざわ なおきち、1901年9月25日 - … 北沢 直吉 (きたざわ なおきち、1901年9月25日 - 1981年7月19日)は、日本の外交官、政治家。衆議院議員、外務省参与、内閣官房副長官を務めた。 茨城県筑波郡大穂村大字長高野(現在のつくば市長高野)生まれ。茨城県立下妻中学校(現在の茨城県立下妻第一高等学校)から東京商科大学(現在の一橋大学)に進学し、1925年に卒業すると外務省に入る。入省して直ぐアメリカに赴任しプリンストン大学でM.A.の学位を取得(1927年)、斎藤博大使の下で対米交渉の一員として加わるが斎藤大使の死去に伴い帰国する。その後は香港で中華民国との和平工作に従事するが、1941年に在中華民国(汪兆銘政権)大使館一等書記官兼北京総領事となり、1943年にはビルマ大使館に参事官として赴任し、ビルマ首相のバー・モウが日本軍の敗走と共に亡命する際に案内役となった。
海後 宗臣(かいご ときおみ、1901年9月10日 - 19… 海後 宗臣(かいご ときおみ、1901年9月10日 - 1987年11月22日)は、日本の教育学者。東京大学名誉教授。日本教育学会元会長。 1901年、茨城県水戸市生まれ。1920年、旧制茨城県立水戸中学校卒業。1923年、旧制第五高等学校卒業。1926年、東京帝国大学文学部教育学科卒業。1932年、国民精神文化研究所所員。1936年、東京帝国大学助教授。1947年、東京大学教育学部教授。1962年、定年退官、名誉教授。1958年、日本教育学会会長。明治教育史、社会科教育などを研究。 祖父は桜田門外の変に参加した「十八士」の一人である海後磋磯之介(宗親)。弟の勝雄も教育学者で埼玉大学名誉教授・福島大学学長。
中西 秀男(なかにし ひでお、1901年3月20日 - 19… 中西 秀男(なかにし ひでお、1901年3月20日 - 1996年3月30日)は、日本の英文学者、翻訳家。早稲田大学名誉教授。 茨城県土浦市生まれ。茨城県立土浦中学校を経て、1921年早稲田大学高等師範部英語科卒業。早稲田中学校専任教諭となり、46年まで務める。戦後47年母校講師、48年助教授、49年早大教育学部教授、71年定年退任、名誉教授。多くの翻訳をおこなった。
橋本 登美三郎(はしもと とみさぶろう、1901年3月5日 … 橋本 登美三郎(はしもと とみさぶろう、1901年3月5日 - 1990年1月19日)は、日本の政治家。衆議院議員(12期)、運輸大臣(第40代)、建設大臣(第19代、第26代)、内閣官房長官(第27代、第28代)、自由民主党幹事長(田中内閣)、自由民主党総務会長(佐藤内閣)などを歴任した。 茨城県行方郡潮来町(現:潮来市)の回送問屋の家に生まれた。当初父は「三郎」という名を考えていたが、親戚が生まれた子供に三郎と名づけたので、母親の名前をつけて「登美三郎」と命名したという。旧制佐原中学(現:千葉県立佐原高等学校)から、早稲田大学政治経済学部に入学。在学中は雄弁会に所属し、「闘将」と称された。 1927年(昭和2年)に大学卒業後、朝日新聞社に入社する。
永井 八津次(ながい やつじ、1901年(明治34年)1月2… 永井 八津次(ながい やつじ、1901年(明治34年)1月20日 - 1970年(昭和45年)8月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 茨城県出身。永井弥八郎の五男として生まれる。水戸中学校、陸軍中央幼年学校予科、同校本科を経て、1921年(大正10年)7月、陸軍士官学校(33期)を卒業。同年10月、歩兵少尉に任官し歩兵第25連隊付となる。陸士生徒隊付などを経て、1931年(昭和6年)11月、陸軍大学校(43期)を卒業し歩兵第25連隊中隊長に就任。 1932年(昭和7年)12月、陸軍省軍務局付勤務となる。以後、軍務局課員、参謀本部付仰付(中国駐在)などを経て、1936年(昭和11年)8月、歩兵少佐に昇進し関東軍司令部付に就任。
中井川 浩(なかいがわ ひろし、1900年(明治33年)9月… 中井川 浩(なかいがわ ひろし、1900年(明治33年)9月23日 – 1949年(昭和24年)11月3日)は、衆議院議員(立憲民政党)。厚生政務次官、陸軍参与官。ジャーナリスト。 茨城県に警察官の息子として生まれる。父の配属の都合で東京・茨城を転々としながら、水戸中学校に入学するも教師を批判したことで放校処分となり、日本中学校を卒業。日本大学専門部を中退し、やまと新聞に入社し水戸支局に入り、1922年(大正11年)に報知新聞へ移って土浦支局長になった。のち茨城民報を創刊するが、茨城民報はいはらき新聞に吸収合併され、そのままいはらき新聞社の取締役を務めた。 土浦町会議員、茨城県会議員に当選する一方で、茨城県出身の民政党代議士原脩次郎が拓務大臣に就任すると拓務省嘱託となり、ついで原が鉄道大臣に就任すると鉄道省嘱託となった。
小野瀬 忠兵衛(小野瀨忠兵衞、おのせ ちゅうべえ、1899年… 小野瀬 忠兵衛(小野瀨忠兵衞、おのせ ちゅうべえ、1899年(明治32年)8月21日 - 1977年(昭和52年)12月11日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員(3期)。 茨城県新治郡九重村生まれ、同県河内郡龍ケ崎町出身。旧制土浦中学校(現茨城県立土浦第一高等学校)、慶應義塾大学部理財科を卒業後、興亜製作所社長、茨城県塩業株式会社取締役。 次いで茨城県肥料卸商業組合、竜ヶ崎地方生活必需品配給統制組合、同食料品配給統制組合、同食糧営団格理事長。1946年(昭和21年)の第22回衆議院議員総選挙に茨城全県区から出馬し当選。衆議院経済安定委員長となり、茨城県司法保護委員。日本進歩党院内総務、民主党民情部長、民主自由党会計監督を務める。
稲葉 通彦(いなば みちひこ、1899年(明治32年)8月2… 稲葉 通彦(いなば みちひこ、1899年(明治32年)8月20日 - 1970年(昭和45年)4月16日)は、日本の実業家。鉄道建設興業(現在の鉄建建設)元社長。 鉄道建設業協会(現在の日本建設業連合会)元会長。位階は正四位。勲四等旭日小綬章受章者。弾丸列車計画に主任技師として任命され、計画のまとめ役となった。 茨城県水戸市出身。茨城県士族、奈良女子高等師範学校名誉教授の稲葉彦六の長男として生まれる。旧制第八高等学校を経て、1923年(大正12年)東京帝国大学工学部土木工学科を卒業し、鉄道省に入省した。 1925年(大正14年)鉄道技師となり、1931年(昭和6年)12月から1933年(昭和8年)8月まで欧米に留学した。
山本 敏雄(やままと としお、1899年(明治32年)4月2… 山本 敏雄(やままと としお、1899年(明治32年)4月27日 - 1971年(昭和46年)11月4日)は、日本の政治家。元茨城県水戸市長(5期)。 茨城県出身。1917年、茨城県立水戸中学校卒業。小学校代用教員を経て東京堂に勤務。水戸市会議員から水戸市助役となる。1947年、当時の水戸市長・風戸元愛が公職追放令により市長を辞職。市長選挙に立候補し、当選する。爾来5期20年に亘り市長の座にあった。水戸市から名誉市民を贈られた。
肥後 和男(ひご かずお、1899年(明治32年)4月8日 … 肥後 和男(ひご かずお、1899年(明治32年)4月8日 - 1981年(昭和56年)2月24日)は、日本の歴史学者。東京教育大学文理科教授を経て、東京教育大学名誉教授。日本古代史の重鎮であった。茨城県久慈郡大子町出身。従三位勲三等旭日中綬章。 茨城県久慈郡大子町生まれ。茨城県立下妻中学校、東京高等師範学校を卒業後、福岡県立東筑中学校、長野師範学校で教鞭をとる。1927年(昭和2年)京都帝国大学史学科(国史科専攻)卒業。同大学院入学。1932年(昭和7年)より東京文理科大学(後の東京教育大学)講師となり、1933年(昭和8年)同大助教授、1943年(昭和18年)同大教授。1946年(昭和21年)公職追放。
大高 康(おおたか やすし、1899年(明治32年)1月8日… 大高 康(おおたか やすし、1899年(明治32年)1月8日 - 1969年(昭和44年)1月29日)は、大正・昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(4期)、茨城県多賀郡高萩町長。 茨城県出身。1917年(大正6年)茨城県立水戸中学校(現茨城県立水戸第一高等学校)を卒業した。 高萩町会議員、高萩町長、同消防団長、茨城県会議員、同議長などを務めた。1953年(昭和28年)4月の第26回衆議院議員総選挙に茨城県第2区から改進党公認で出馬して初当選。第27回総選挙で再選されたが、1958年(昭和33年)5月の第28回総選挙は次点で落選。1960年(昭和35年)11月の第29回総選挙と第30回総選挙で再選され、衆議院議員に通算4期在任した。
富田 正文(とみた まさふみ、1898年(明治31年)8月2… 富田 正文(とみた まさふみ、1898年(明治31年)8月20日 - 1993年(平成5年)8月27日)は、日本の作家・編集者・福澤諭吉研究者。昭和期から平成期の慶應義塾大学職員・名誉博士。第55回日本学士院賞受章。 茨城県水戸市出身。水戸中学校、慶應義塾大学文学部卒業。水戸藩出身の『時事新報』主幹・石河幹明に認められて在学中からその助手を務めて『福澤諭吉伝』の編纂に参加、卒業後も職員としてその完成に尽力した。『福澤諭吉伝』完成以後も福澤諭吉の事績研究にあたり、それが評価されて1938年(昭和13年)から文学部講師を兼ねて明治文化について講義することになる。 当時の塾長小泉信三も富田に信任をおいて慶應義塾の新塾歌の作詞を担当させた。
宇賀田 順三(うがた まさぞう、じゅんぞう、1898年8月1… 宇賀田 順三(うがた まさぞう、じゅんぞう、1898年8月10日 - 1979年5月19日)は、日本の法学者。専門は、憲法・行政学。学位は、法学博士(大阪大学・論文博士・1961年)。九州帝国大学教授、八幡大学(現・九州国際大学)学長・理事長をつとめた。 1898年、茨城県古河市生まれ。 前身の法学校、専門学校から創設に於いて実質的な八幡大学の真の中心人物といえる宇賀田は1952年に学長に就任した。1954年人事に関し学長の宇賀田と一部教授陣との確執が大学紛争に発展し各メディアで報道される事になった。この八幡大学事件は八幡市長、八幡市議会、八幡商工会議所、安川電機株式会社等が両派の斡旋に動き、福岡地方裁判所小倉支部にて調停となったが断裂し、凡そ1年の及ぶ騒動は1955年1月、結局宇賀田の学長辞任(事実上解任)という結果で終止符を打った。
鈴木 良三(すずき りょうぞう、1898年3月29日 - 1… 鈴木 良三(すずき りょうぞう、1898年3月29日 - 1996年10月19日)は、日本の画家。茨城県水戸市出身。 水戸市の下市病院院長・鈴木錬平の三男として生まれる。旧制茨城県立水戸中学校(現在の茨城県立水戸第一高等学校)を卒業して、1917年に東京慈恵会医科大学に入学。在学中、叔父の幼なじみの画家中村彝や川端画学校で絵を学ぶ。1922年に東京慈恵医科大学を卒業するも、画家の仲間らによる「金塔社」の結成に参加。同年、帝展に初入選を果たす。1928年から1930年にかけてフランスに渡航する。1936年に結成された一水会(有島生馬・石井柏亭・安井曾太郎らが参加)の展覧会には、複数にわたり作品を出品した。
宮田 重文(みやた しげふみ、1898年(明治31年)3月1… 宮田 重文(みやた しげふみ、1898年(明治31年)3月17日 - 1973年(昭和48年)12月6日)は、昭和期の実業家、政治家。参議院議員(2期)、茨城県久慈郡太田町長、常陸太田市長、同名誉市民。旧姓は立川。 茨城県久慈郡太田町(現常陸太田市)で、立川義之の三男として生まれる。茨城県立太田中学校(現茨城県立太田第一高等学校・附属中学校)を経て、1921年(大正10年)早稲田大学政治経済科を卒業した。 1921年、明治屋に入社し、1926年(大正15年)に丸の内支店次長で退職して帰郷した。書籍・学用品販売業の宮田家の養子となった。茨城新聞社に入社し、営業局外交部長に就任。1928年(昭和3年)2月の第16回衆議院議員総選挙に大学の恩師五来欣造が茨城県第2区から立候補した際に、選挙事務長を務めたが五来は落選した。
河原田 巌(巖、かわらだ いわお、1898年(明治31年)2… 河原田 巌(巖、かわらだ いわお、1898年(明治31年)2月28日 - 1951年(昭和26年)2月28日)は、大正から昭和期の実業家、漁業家、政治家。衆議院議員。 茨城県東茨城郡吉田村吉沢(現水戸市堀町 )で、河原田太三郎の三男として生まれる。東京世田谷自動車学校を卒業した。 福島自動車学校教授を経て、東洋自動車学校を設立して校長兼教員となる。1940年(昭和15年)自動車学校を廃校し貨物自動車運送業を営む。1944年(昭和19年)茨城県北部貨物自動車運送、茨城県南部自動車運送の各取締役社長に就任。1945年(昭和20年)平潟町定置網漁業の網元となる。1946年(昭和21年)茨城水産工業取締役社長に就任。
武藤 完雄(むとう まさお、1898年2月27日 - 197… 武藤 完雄(むとう まさお、1898年2月27日 - 1972年6月20日)は、日本の外科医。専門は、消化器外科学。医学博士。東北大学名誉教授。 茨城県北相馬郡井野村大字青柳(現在の取手市青柳)生まれ。茨城県立龍ヶ崎中学校(現在の茨城県立竜ヶ崎第一高等学校)を経て、東北帝国大学医学部を卒業した。同医学部第一外科学教室教授として多くの門下生を育て、日本外科学会の重鎮として長く活躍した。終生のテーマは「胃癌の外科療法」であり、同大学医学部第三内科(黒川利雄教授)との公私とも綿密な連携により生涯で2000例の手術を行った。定年退官後は、福島県立医科大学学長及び宮城県成人病センター(現在の宮城県立がんセンター)院長を務めた。
安藤 信哉(あんどう のぶや、1897年11月24日 - 1… 安藤 信哉(あんどう のぶや、1897年11月24日 - 1983年1月1日)は、日本の洋画家。 千葉県生まれ。3歳の時、父が教員として赴任するため茨城県結城郡水海道町(現在の常総市)に移り住む。茨城県立水海道中学校卒業後一時教職に就くが、退職して洋画を学ぶ。 生前、売り絵を描かなかったため、画商がつかなかった。生前の親交により、遺族から静岡県の美術館に数十点の作品が寄贈されている。
川嶋 虎之輔(かわしま とらのすけ、1897年(明治30年)… 川嶋 虎之輔(かわしま とらのすけ、1897年(明治30年)11月1日 - 1984年(昭和59年)7月2日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍少将。八千代市議会議長。川島と表記される場合がある。 和歌山県出身。陸軍主計大尉・川嶋守太郎の息子として生まれる。水戸中学校(現在の茨城県立水戸第一高等学校)、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1919年(大正8年)5月、陸軍士官学校(31期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し重砲兵第3連隊付となる。1922年(大正11年)12月、砲兵中尉に昇進。1925年(大正14年)12月、兵科を航空兵に転科し航空兵中尉に任官し下志津陸軍飛行学校教官に就任。
菊田 七平(きくた しちへい、1897年(明治30年)8月2… 菊田 七平(きくた しちへい、1897年(明治30年)8月20日 - 1976年(昭和51年)11月16日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)、茨城県議会議長。 茨城県新治郡真鍋町殿里(現在の土浦市殿里)で、旧家・菊田広恵の長男として生まれる。1912年(大正元年)茨城県立土浦中学校(現在の茨城県立土浦第一高等学校)を卒業した。 土浦商工会議所会頭、湖南通運社長、環産業社長、高津油機社長、霞ケ浦食品工業社長、日神酒造社長、丸果生果社長、関東銀行(現在の筑波銀行)取締役会長などを務めた。その他、茨城県農業会長、同県蚕種協同組合長、同県観光連盟会長、新治郡真壁町農会長、同町産業組合専務理事などに在任した。
小林孝三郎(こばやし こうざぶろう、1897年6月29日 -… 小林孝三郎(こばやし こうざぶろう、1897年6月29日 - 1995年7月22日)は、茨城県坂東市(旧岩井市)生まれの実業家であり、コーセーの創設者である。 長男は第2代社長の小林禮次郎、三男は第3代社長の小林保清。孫は第4代社長の小林一俊。
鈴木 一司(すずき いちじ、1897年(明治30年)2月28… 鈴木 一司(すずき いちじ、1897年(明治30年)2月28日 - 1997年(平成9年)3月24日)は、大正から昭和期の獣医師、政治家。参議院議員(1期)。 茨城県多賀郡高萩村(松原町、高萩町大字高萩を経て現高萩市)で生まれる。1916年(大正5年)青森県畜産学校(現青森県立三本木農業高等学校)を卒業した。 高萩町会議員、茨城県獣医師協会長などを務めた。1947年(昭和22年)茨城県会議員に選出され5期在任。県議会では、農地委員長、議会運営委員長、副議長、議長(2期)、行政機構調査特別委員長、農業基本問題調査特別委員長、原子力開発特別委員長を歴任した。その他、茨城県教育委員、県監査委員なども務めた。
市川 忍(いちかわ しのぶ、1897年1月9日 - 1973… 市川 忍(いちかわ しのぶ、1897年1月9日 - 1973年11月2日)は、日本の実業家。丸紅の初代社長。 1897年1月9日、茨城県北相馬郡布川町(現:利根町布川)に生まれる。 1919年に神戸高等商業学校(現:兵庫県立大学)を卒業し、伊藤忠商事に入社。同系列の大同貿易を経て、丸紅商店に移り、貿易部長、上海支店長を歴任。 1941年9月、丸紅と伊藤忠商事と岸本商店の合併によって設立された「三興」の専務となり、1944年9月に三興と呉羽紡績と伊藤忠商事の貿易部門として分離していた大同貿易が合併され、「大建産業」が設立された後も専務を担当した。 1949年、GHQによる過度経済力集中排除(財閥解体)の中で、丸紅初代社長に就任。
渡辺 寧(わたなべ やすし、1896年11月15日 - 19… 渡辺 寧(わたなべ やすし、1896年11月15日 - 1976年11月17日)は、日本の電子工学者。東北大学名誉教授、静岡大学名誉教授。茨城県出身。 日本における電子工学の先駆者で、日本でのトランジスタ研究の最初期の研究を統括した。他に長距離電話中継用の独自の増幅機や溶接制御用の放電管等を発明した。文化功労者。 一つの線で同時に13局と送信通話のできる電話機や水中電話等を開発した。またPINダイオードの開発でも指導的役割を担った。
花柳 はるみ(はなやぎ はるみ、明治29年(1896年)2月… 花柳 はるみ(はなやぎ はるみ、明治29年(1896年)2月24日 - 昭和37年(1962年)10月11日)は、日本の女優である。本名は糟谷 いし(かすや いし)。「築地小劇場」で知られる新劇の女優であり、「日本映画の女優第1号」として知られる。 1896年(明治29年)2月24日、茨城県鹿島郡豊津村大船津(現鹿嶋市大船津)に生まれる。上京し、東京市立麹町高等女学校(現・麹町学園女子高等学校)を卒業。 第一期研究生として、1913年(大正2年)に島村抱月、松井須磨子の「芸術座」に参加、1915年(大正4年)、ツルゲーネフの『その前夜』で舞台女優としてデビュー。 1919年(大正8年)、23歳のとき、「天然色活動写真」(天活)の社員であり、映画評論誌「キネマレコード」同人の映画理論家、帰山教正の実験作『深山の乙女』および『生の輝き』(いずれも現代劇)に、村田実、青山杉作、近藤伊与吉といった新劇の劇団「踏路社」の主要メンバーとともに参加、主演に抜擢される。
住谷 悌(すみや てい、1896年〈明治29年〉1月18日 … 住谷 悌(すみや てい、1896年〈明治29年〉1月18日 - 1959年〈昭和34年〉2月14日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍主計少将。 茨城県出身。水戸中学校(現在の茨城県立水戸第一高等学校)を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍経理学校(11期)を卒業。同年12月、三等主計に任官し歩兵第16連隊付となる。1921年(大正10年)4月、二等主計に、1926年(大正15年)3月、一等主計にそれぞれ昇進。1927年(昭和2年)12月、第1師団経理部員(参謀本部付)に就任。1930年(昭和5年)8月、関東陸軍倉庫付に転じ、1932年(昭和7年)4月、関東軍司令部付(満州国軍軍事顧問)となる。
谷萩 那華雄(やはぎ なかお、1895年(明治28年)8月9… 谷萩 那華雄(やはぎ なかお、1895年(明治28年)8月9日 - 1949年(昭和24年)7月8日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 茨城県生まれ。1914年(大正3年)3月、茨城県立水戸中学校(現在の茨城県立水戸第一高等学校)を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校(第29期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第15連隊付となる。1919年(大正8年)4月から1920年(大正9年)12月までシベリア出兵に従軍。1927年(昭和2年)12月、陸軍大学校(第39期)を卒業し歩兵第15連隊中隊長に就任。 1929年(昭和4年)3月、教育総監部付勤務となり、第19師団参謀を経て陸軍技術本部付兼軍事調査委員(新聞班)に就任。
柳川 宗左衛門(宗左衞門、やながわ そうざえもん、1895年… 柳川 宗左衛門(宗左衞門、やながわ そうざえもん、1895年〈明治28年〉7月21日 - 1978年〈昭和53年〉11月8日)は、明治期から昭和期にかけての地主であり、醤油醸造家、実業家、政治家。衆議院議員(1期)、参議院議員(1期)。 常陸国鹿島郡の日川砂漠を開拓した柳川宗左衛門秀勝の孫(四代目)。 茨城県鹿島郡若松村大字柳川新田(現:神栖市柳川)に、農業や醤油醸造業を営む第三代・柳川宗左衛門の長男・謙一として生まれる。1911年(明治44年)家督を相続。1913年(大正2年)東京市の京北中学校(現・東洋大学京北中学高等学校)を卒業した。 父が小作人のために設立した産業組合、柳川信用販売組合を継承し発展させた。
前沢 長重(まえざわ ながしげ、1895年(明治28年)7月… 前沢 長重(まえざわ ながしげ、1895年(明治28年)7月8日 - 1990年(平成2年)10月3日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。兵科は歩兵科。 1895年(明治28年)に茨城県で生まれた。陸軍士官学校第30期、陸軍大学校第43期卒業。1941年(昭和16年)3月1日に陸軍大佐に進級し、7月28日に留守第57師団参謀長(東部軍)に就任した。1943年(昭和18年)6月に第47師団参謀長に転じ、1944年(昭和19年)7月に留守第57師団参謀長に戻った。 1945年(昭和20年)3月1日に陸軍少将に進級し、4月1日に弘前師管区参謀長に着任。6月1日には東北軍管区参謀副長兼第11方面軍参謀副長に転じ、仙台で終戦を迎えた。
鈴木 九萬(すずき ただかつ、1895年4月27日 - 19… 鈴木 九萬(すずき ただかつ、1895年4月27日 - 1987年4月4日)は、日本の外交官。 茨城県出身。第一高等学校及び東京帝国大学卒業後、外務省に入省した。 国立国会図書館に終戦連絡横浜事務局長時代の史資料436点が所蔵されている。
高田 保(たかた たもつ / たかだ たもつ、1895年(明… 高田 保(たかた たもつ / たかだ たもつ、1895年(明治28年)3月28日 - 1952年(昭和27年)2月20日)は、茨城県出身の劇作家、随筆家。俳号は羊軒。母方の従兄に近世文学研究者の山口剛がいる。 1895年、茨城県新治郡土浦町(現在の土浦市)の旧家に生まれる。子供の頃より気遣いが出来てまた話も面白く、同級の者以外とも交流するなど人望が厚かったという。旧制土浦中学校(現在の茨城県立土浦第一高等学校)を経て早稲田大学英文科へと進んだ。大学在学中から新劇運動に参加して宇野浩二を知るようになる。また、在学中に創立者・大隈重信の妻の銅像を建てるかの問題で「銅像事件」と呼ばれる騒動が起きるが、その時代を描いた尾崎士郎の小説『人生劇場・青春編』に、高田をモデルとした「吹岡早雄」という人物が登場している。
花井 忠(はない ただし、1894年〈明治27年〉12月3日… 花井 忠(はない ただし、1894年〈明治27年〉12月3日 - 1973年〈昭和48年〉10月5日)は、弁護士・検事総長。茨城県生まれ。従三位。勲一等瑞宝章受章。岳父は花井卓蔵(元衆議院副議長・法学博士・弁護士)。 茨城県行方郡麻生町(現:行方市麻生)にて福田病院の院長・福田安次郎の四男三女の次男として誕生する。麻生町立尋常小学校、県立水戸中学校、第八高等学校を経て、1919年7月東京帝国大学法学部(独法兼修)を卒業。 1921年7月に弁護士名簿に登録。著名な弁護士であった花井卓蔵の法律事務所に入る。1925年5月、花井卓蔵の次女・稲子と結婚し、花井卓蔵の養子となる。1929年よりベルリン大学、ウィーン大学にて刑事学を研究、帰国後、海軍軍人と民間人が政財界人を暗殺した五・一五事件や神兵隊事件の弁護人を務める。
古茂田 甲午郎(こもだ こうごろう、1894年(明治27年)… 古茂田 甲午郎(こもだ こうごろう、1894年(明治27年)10月9日 - 1982年(昭和57年)6月27日)は、日本の建築家。 大正8年(1919年)に文部省入省後、営繕技師として勤務していたが、関東大震災後の大正13年(1924年)に大学時代の恩師である佐野利器に請われて東京市に転じた。その後は東京市の学校建築に関する責任者として勤務し、特に復興小学校の実務により「当時の学校建築の権威」と評された。 茨城県出身。第一高等学校及び東京帝国大学卒業後、文部省に入省した。
鮎沢 巌(あゆさわ いわお、1894年10月5日 - 197… 鮎沢 巌(あゆさわ いわお、1894年10月5日 - 1972年11月30日)は、元・国際労働機関(ILO)職員。国際基督教大学名誉教授。 茨城県久慈郡太田町(現・常陸太田市)で元水戸藩士の次男として生まれた。芝中学校在学中に安部磯雄のユニテリアン教会や社会主義協会に足を運び、その社会改良思想に影響を受けた。1911年芝中学校を卒業。フレンド平和奨学会(Friend Peace Scholarships)の奨学生としてアメリカ合衆国に留学。ハワイの中央太平洋学院(ハイスクール)、ホイットマンカレッジを経て、1915年ハバフォード大学に入学。社会学と社会事業(特に社会問題と労働問題)を学ぶ。1917年ハバフォード大学を卒業。
佐藤 洋之助(さとう ようのすけ、1894年(明治27年)7… 佐藤 洋之助(さとう ようのすけ、1894年(明治27年)7月9日 - 1984年(昭和59年)7月7日)は、日本の政治家、実業家。所属政党は戦前は立憲政友会→政友会革新同盟→日本進歩党、公職追放解除後は自由党→自由民主党。衆議院議員を通算10期務めた。 茨城県猿島郡古河町(現在の古河市)の旧家・佐藤長之助の長男として生まれる。慶応義塾大学中退。古河町会議員、茨城県会議員、同副議長を経て、1932年の第18回衆議院議員総選挙で茨城県3区(当時)から政友会公認で立候補して初当選。1939年の政友会分裂に際しては中島知久平が総裁を務める政友会革新派に参加。1942年の翼賛選挙では翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する。
鈴木 庫三(すずき くらぞう、1894年(明治27年)1月1… 鈴木 庫三(すずき くらぞう、1894年(明治27年)1月11日 - 1964年(昭和39年)4月15日)は、日本の陸軍軍人。階級は陸軍大佐。 戦時中、情報局情報官として言論統制を行っていた人物として知られる。清沢洌曰く、「日本思想界の独裁者」。石川達三の小説「風にそよぐ葦」で出版社を支配する情報官佐々木陸軍少佐のモデルとされる。 茨城県真壁郡鳥羽村大字鷺島(現:筑西市明野町鷺島)の豪農、鈴木利三郎の第7子として生まれるが、生後まもなく同筑波郡田水山村大字田中(現:つくば市田中)の農家、大里菊平の養嗣子となる。高等小学校卒業後は、農業を手伝いながら帝国模範中学会で自習。 1913年(大正2年)12月、19歳で陸軍砲兵工科学校入学。
宇野 喜代之介(うの きよのすけ、1894年 - )は日本の… 宇野 喜代之介(うの きよのすけ、1894年 - )は日本の教育者、小説家。
近藤 常尚(こんどう つねたか、1893年(明治26年)12… 近藤 常尚(こんどう つねたか、1893年(明治26年)12月3日 - 1936年(昭和11年)6月29日)は、朝鮮総督府官僚。 茨城県水戸市出身。1916年(大正5年)に高等文官試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学仏法科を卒業した。岩手県理事官、朝鮮総督府事務官、咸鏡南道警察部長、警務局図書課長、朝鮮総督秘書官・総督官房秘書課長を歴任した後、1931年(昭和6年)に欧米に出張した。帰国後、警務局保安課長を経て、全羅南道知事を務めた。 1931年(昭和31年)死去。同年7月4日に行われた葬送の際には、勅使として穂積真六郎(朝鮮総督府殖産局長)が邸宅に訪れ幣帛が下賜された。
山形 清(やまがた きよし、1893年(明治26年)9月10… 山形 清(やまがた きよし、1893年(明治26年)9月10日 - 1991年(平成3年)2月23日)は、日本の外交官。 茨城県出身。第一高等学校及び東京帝国大学卒業後、大蔵省を経て外務省に入省した。複数の海軍軍縮会議随員、ベネズエラ及びコロンビア初代公使、チリ公使、パキスタン初代大使などを歴任した。
下村 千秋(しもむら ちあき、男性、1893年9月4日 - … 下村 千秋(しもむら ちあき、男性、1893年9月4日 - 1955年1月31日)は、日本の作家。 茨城県信太郡朝日村(稲敷郡朝日村を経て、現在の阿見町)生まれ。1908年、茨城県立土浦中学校(現在の茨城県立土浦第一高等学校)へ進む。1919年、早稲田大学英文科卒業後、読売新聞社に入社し社会部記者となるが同年12月に退社し、文筆活動に入る。小説・短歌・戯曲などを発表するほか、ゴーリキー全集の翻訳も行う。1923年、結婚を機に東京市役所労務課翻訳係に就職するが、8ヵ月で退職して再び作家生活に入る。主に『赤い鳥』などに童話を発表した。 昭和時代に入ると、私娼を描いた「天国の記録」(『中央公論』1930年7月)で有名となり、「ルンペン小説」の作家として有名となる。
橘 孝三郎(たちばな こうざぶろう、1893年〈明治26年〉… 橘 孝三郎(たちばな こうざぶろう、1893年〈明治26年〉3月18日 ‐ 1974年〈昭和49年〉3月30日)は、日本の政治活動家、農本主義思想家。農本ファシストであり、超国家主義者でもあった。 茨城県東茨城郡常磐村(現水戸市)生。茨城県立水戸中学校(現水戸第一高等学校)を経て第一高等学校に進むが中退。大杉栄や石川三四郎の著作を通じてエドワード・カーペンター、クロポトキンなどのアナキズムに影響を受けている。アンリ・ベルグソン、特に「エランビタル」に強い影響を受けた他、トルストイ、白樺派、柳宗悦、康有為などからも影響を受ける。 郷里で農業に従事する傍ら、講演活動を行い、1929年(昭和4年)11月に愛郷会を結成。
高野 素十(たかの すじゅう、1893年(明治26年)3月3… 高野 素十(たかの すじゅう、1893年(明治26年)3月3日 - 1976年(昭和51年)10月4日)は、茨城県出身の日本の俳人・医師。学位は、医学博士。高浜虚子に師事。虚子の唱えた「客観写生」を忠実に実践、簡潔で即物的な写生句で頭角を現し、山口誓子、阿波野青畝、水原秋桜子とともに「ホトトギスの四S」と称された。「芹」主宰。本名:高野与巳(よしみ)。 1893年、茨城県北相馬郡山王村(現・取手市神住)に生まれる。農家の長男で、小学校卒業まで利根川とその支流小貝川に囲まれた美しい田園地帯で育った。1905年、新潟県長岡市に住む叔父のもとに寄宿し新潟県立長岡中学校に入学。第一高等学校を経て、1913年に東京帝国大学医学部に入学。
小湊 潔(こみなと きよし、1893年(明治26年)- 19… 小湊 潔(こみなと きよし、1893年(明治26年)- 1974年(昭和49年))は、日本の化学者、理研化学工業社長。 茨城県水戸市生まれ。1914年茨城県立工業学校応用化学科卒、17年上田蚕糸専門学校製糸科卒、満鉄中央試験所勤務、志賀潔に見出され、京城医学専門学校助教授、1927年京都帝国大学農学部入学。30年卒業、36年ニンニクの無臭有効成分をスコルヂニンと命名。40年日生化学研究所を設立。1953年「「にんにく」の生化学的研究」で京大農学博士。紫綬褒章、勲三等瑞宝章受勲。理研化学工業社長。「にんにく博士」として知られた。 次男の小湊壌(ゆずる、1940 - )はのち理研化学工業社長。
藤田 清(ふじた きよし、1892年(明治25年)12月?日… 藤田 清(ふじた きよし、1892年(明治25年)12月?日 - 1965年(昭和40年)7月28日)は、茨城県真壁郡新治村(協和村、協和町を経て、現在の筑西市)出身の軍人、新治村での地域の指導者及び考古学者である。考古学者としては在野の研究者であったが新治郡衙跡、新治廃寺の研究・発掘調査で重要な役割を果たした。 藤田の家は真壁郡新治村の古郡に在り、村で5指に数えられる大地主であった。藤田は茨城県立水戸農学校(現在の茨城県立水戸農業高等学校の前身)卒業後、1912年(大正元年)に宇都宮騎兵第18聯隊に一年志願兵として入営し、1914年(大正3年)12月には陸軍騎兵少尉に任官している。しかし、任官後まもなく除隊した。
木内克(きのうち よし、1892年6月27日 - 1977年… 木内克(きのうち よし、1892年6月27日 - 1977年3月8日)は、茨城県水戸市出身の彫刻家である。 渡仏し、アントワーヌ・ブールデルの指導を受けた。二科展などに多数出品し、テラコッタの作品を多く残した。妻の木内てるも彫刻家。
大塚 博紀(おおつか ひろのり、1892年6月1日 - 19… 大塚 博紀(おおつか ひろのり、1892年6月1日 - 1982年1月29日)は、日本の空手家。昭和期を代表する空手家の一人であり、和道流空手道の開祖。また、自身が修行した柔術に空手を加味して和道流柔術拳法も開いた。 1892年(明治25年)、医師・大塚徳次郎の嫡男として茨城県真壁郡下館町(後の下館市、現在の筑西市)に生まれた。本名は大塚孝(こう)。1897年(明治30年)、江橋長次郎から為我流柔術の手ほどきを受けた。1905年(明治38年)、大塚は茨城県立下妻中学校(現在の茨城県立下妻第一高等学校)に入学、剣術師範でもあった中山辰三郎(神道揚心流第3代目師範)に師事して、神道揚心流柔術と為我流柔術を学んだ。
御西山 政夫(おにしやま まさお、1892年3月25日 - … 御西山 政夫(おにしやま まさお、1892年3月25日 - 1978年8月30日)は、茨城県水戸市出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名は田中 正夫。第19代横綱・常陸山谷右エ門の従弟(甥とも伝わる)。170cm、92kg。最高位は東前頭6枚目。 1910年6月初土俵、1917年5月十両昇進。1918年5月新入幕したが、この場所途中休場してからは成績不振に陥り、一度は幕下まで転落した。なお、御西山の四股名は常陸山谷右エ門が若い時分に名乗っていたものである。 1923年1月に廃業し剣道家に転向した。
高杉 晋一(たかすぎしんいち、1892年(明治25年)3月1… 高杉 晋一(たかすぎしんいち、1892年(明治25年)3月1日 - 1978年(昭和53年)6月6日)は、日本の実業家。 1892年3月1日、茨城県鉾田町の高杉健作の子として生まれる。1910年(明治43年)、土浦中学校卒業(岡野保次郎と同期)。第二高等学校を経て、1917年(大正6年)東京帝国大学法学部を卒業。 同年三菱合資銀行部に入社。名古屋支店長を経験し、監査、取締常務を歴任する。1947年(昭和22年)1月、三菱電機社長となる。1956年(昭和31年)11月、三菱電機会長となる。1962年(昭和37年)、同会長を退任。 1964年(昭和39年)12月14日、日韓会談における日本側首席代表の杉道助が死去。
犬田 卯(いぬた しげる、1891年(明治24年)8月23日… 犬田 卯(いぬた しげる、1891年(明治24年)8月23日 - 1957年(昭和32年)7月21日)は、日本の小説家、農民運動家。 茨城県河内郡牛久村(稲敷郡牛久村、牛久町を経て、現在は牛久市)城中の農家の長男に生まれる。高等小学校卒業後農業に従事していたが、25歳の時上京し、1917年博文館に勤務した。1924年に中村星湖らと農民文芸研究会を作り、雑誌『農民』を刊行し、小説家として活動した。「自治村落」による「世界連合」を構想。汎農主義者。墓所は青山霊園の無名戦士墓。 妻は小説家の住井すゑ。次女は毎日新聞論説委員の増田れい子。孫は画家のHATAOでその妻は絵本作家の永田萠。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。