尾津 喜之助(おづ きのすけ、1897年〈明治30年〉1月2… 尾津 喜之助(おづ きのすけ、1897年〈明治30年〉1月28日 - 1977年〈昭和52年〉6月28日)は、昭和期の露天商、関東尾津組組長。 東京府本所相生町(現在の東京都墨田区)に鍛冶職人の子として生まれる。母は水戸藩の士族の娘であったが、尾津が2歳のときに出奔し消息不明になる。 独力で府立第三中学校(現・東京都立両国高等学校)に合格するが、継母の反対により入学を許されず、激怒した尾津は家を飛び出した。 職を転々とした後、的屋組織飯島一家に属す。右翼団体「皇国決心団」を組織し、摂政宮(後の昭和天皇)の車列警備を妨害したブラジル公使に抗議しブラジル公使館に殴り込みをかけるなどの売名行為を行った後、新宿で関東尾津組を結成。
谷中 安規(たになか やすのり、1897年(明治30年)1月… 谷中 安規(たになか やすのり、1897年(明治30年)1月18日 - 1946年(昭和21年)9月9日)は、昭和時代前期の日本の版画家・挿絵画家。通称〈アンキ〉とも言われる。 奈良県桜井市初瀬の生まれ。6歳で母と死別、1904年(明治37年)父と朝鮮の京城に渡る。単身帰国し、東京の豊山中学に通うが学資が続かず中退、以後放浪生活を続ける。1922年(大正11年)日本美術学院出版の永瀬義郎著『版画を作る人へ 』から影響を受け、その書籍をもとに独学で木版画製作を始める。その後、1924年(大正13年)第一書房に勤め、社主の長谷川巳之吉に画才を認めらるその頃長谷川から日夏耿之介、堀口大學、佐藤春夫、与謝野晶子らを紹介される。
神吉 正一(かんき しょういち、1897年(明治30年)1月… 神吉 正一(かんき しょういち、1897年(明治30年)1月5日 - 1964年(昭和39年)8月17日)は、日本の外交官。満州国総務庁次長。蒙古聯合自治政府最高顧問。
三島 通陽(みしま みちはる、1897年(明治30年)1月1… 三島 通陽(みしま みちはる、1897年(明治30年)1月1日 - 1965年(昭和40年)4月20日)は、日本の政治家・小説家・劇作家・演劇評論家。位階・勲等・爵位は正三位勲二等子爵。二荒芳徳とともにボーイスカウト運動を日本に広めた人物として知られる。東京府麻布区生まれ、学習院中退。ペンネームに三島 章道(みしま しょうどう)。 祖父は三島通庸。父は第8代日本銀行総裁を務めた三島弥太郎、母は四条隆謌侯爵の三女・加根子。妹・壽子の夫は阪谷希一、妹・梅子の夫は土方与志。妻は松岡均平の長女・純。叔父に三島弥彦がいる。 幼少期から文学に親しむ。一方で、祖母・和歌子から薩摩の郷中の掟を教わる[要出典]。
朝井観波(あさい かんぱ、1897年‐1985年)は、日本画… 朝井観波(あさい かんぱ、1897年‐1985年)は、日本画家。東京都本郷出身。 1897年、漢学者朝井国南の家に生まれる。はじめ川端玉章の川端画学校で、のち日本美術院研究所に学ぶ。1917年(大正6年)の再興第4回院展への最初の出品作が入選し、同作品が美術院の大物後継者、原三渓の目をひく。三渓の援助により、荒井寛方のインド旅行に観波も随行できることとなり、帰国後、インドでの研究成果を活かした制作に専念する。1918年(大正7年)と1920年(大正9年)の院展で入選した出品作はともにインドの伝統的絵画から着想を得て描いたものであった。1922年(大正11年)日本美術院を脱退。その後は荒木十畝に師事し読書会に所属、以後は平福百穂の画風に接近した作風で、帝展の入選を重ねる。
文 時煥(ムン・シファン、朝鮮語: 문시환、1897年または… 文 時煥(ムン・シファン、朝鮮語: 문시환、1897年または1899年 - 1973年11月11日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の独立運動家、ジャーナリスト、官僚、政治家。東萊郡郡守、制憲韓国国会議員、慶尚南道知事。本貫は南平文氏(朝鮮語版)。 釜山蓮山洞(現・釜山広域市蓮堤区蓮山洞)または福泉洞出身。私立東萊東明学校、東京正則英語学校、モスクワ東方共産大学卒。満洲の安東で中国人貿易商会の書記を務めながら、秘密政治結社の花郎徒に参加した後、1920年に朝鮮共産党に入党した。1922年10月、ベルフネウジンスクで開催された高麗共産党連合大会に出席し、党中央委員会第3書記部(国内)委員となった。
高木 永二(たかぎ えいじ、1896年12月28日 - 19… 高木 永二(たかぎ えいじ、1896年12月28日 - 1943年12月14日)は、日本の俳優である。本名高木 英二(たかぎ えいじ)。『大地は微笑む』の主演、『新版大岡政談』、『織田信長』の助演で知られる。 1896年(明治29年)12月28日(12月12日)、兵庫県神戸市に生まれる。 東京に移り、旧制・荏原中学校(現在の日本体育大学荏原高等学校)に入学、同校を卒業し、旧制・早稲田大学予科(現在の早稲田大学高等学院)に進学する。同学予科を終了後の1916年(大正5年)、単身アメリカ合衆国に留学し、1918年(大正7年)に帰国する。1920年(大正9年)、神戸に帰って、ドイツ系資本の高級ホテル「トアホテル」(現存せず、現在跡地に神戸外国倶楽部)に勤務したが、1921年(大正10年)、東京に戻って、松竹蒲田撮影所に入社、満24歳のころから俳優生活を始める。
林 武(はやし たけし、1896年(明治29年)12月10日… 林 武(はやし たけし、1896年(明治29年)12月10日 - 1975年(昭和50年)6月23日)は、東京都出身の日本の洋画家。本名は武臣(たけおみ)といった。大正末期から洋画家として活動を始め戦後には原色を多用し絵具を盛り上げた手法で女性や花、風景などを描き人気を得た。晩年には国語問題審議会の会長も務めている。なお、孫に元衆議院議員の林潤がいる。
坂西 志保(さかにし しほ、1896年(明治29年)12月6… 坂西 志保(さかにし しほ、1896年(明治29年)12月6日 - 1976年(昭和51年)1月14日)は、日本の学者、評論家。外務省や参議院の専門委員、選挙制度審議会委員、中央教育審議会委員、憲法調査会委員、日本ユネスコ国内委員、放送番組向上委員会委員長、立教大学講師、警察育英会理事長、国家公安委員会委員などを務め、立法・行政・教育と多岐にわたり活躍した。 なお、名についてしおとする資料もある。志保自身の英文署名や自身が米国で出版した書物には「Shio」が使用されており、日本語署名には「志保」を用いており「しほ」はその読みである。戸籍には「シホ」とある。「志保」は聖書の「地の塩」による。 神奈川県横浜から北海道後志国忍路郡塩谷村伍助沢(現:小樽市塩谷)に開拓民として1893年(明治26)に入植した坂西傳明夫妻の娘として1896年(明治29)に生まれる。
岩崎 隆弥(いわさき たかや、1896年11月2日 - 19… 岩崎 隆弥(いわさき たかや、1896年11月2日 - 1983年6月2日)は、日本の実業家。三菱財閥のオーナー・岩崎家の一員で、三菱合資会社社長を務めた岩崎久弥の次男。 東京府(現:東京都)出身。 1909年に東京高等師範学校附属小学校(現:筑波大学附属小学校)、1915年に東京高等師範学校附属中学校(現:筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。1921年に東京帝国大学工学部を卒業。1922年英国グラスゴー大学に留学。 1926年の帰国後三菱製紙に入社。1943年三菱瓦斯(現在の三菱瓦斯化学とは別会社)の会長、1944年三菱製紙の会長に就任。 太平洋戦争後の1947年、財閥解体政策により、父久弥、兄彦弥太、弟恒弥と共に財閥家族に指定され、三菱傘下企業の全役職を辞任。
清見 陸郎(きよみ ろくろう、1896年10月11日 - 没… 清見 陸郎(きよみ ろくろう、1896年10月11日 - 没年不明)は、日本の作家、編集者、劇作家。東京市神田区猿楽町生まれ。東京中学校卒、東京美術学校中退、早稲田大学英文科中退。『美術新報』『秀才文壇』の編輯に当たり、根岸興行部脚本部員だったこともある。
正木 ひろし(まさき ひろし、 1896年〈明治29年〉9月… 正木 ひろし(まさき ひろし、 1896年〈明治29年〉9月29日 - 1975年〈昭和50年〉12月6日)は、日本の弁護士。 第二次世界大戦前より軍国主義批判を繰り広げ、戦時中には官憲による拷問を告発した首なし事件で有名となった。戦後も多くの反権力裁判、冤罪裁判に関与した。1953年に発生した八海事件の弁護を担当。同事件についての著書『裁判官』はベストセラーとなり、『真昼の暗黒』という題名で映画化された。 敬虔なキリスト教徒としても知られていた。 本名は旲(ひろし)であるが、自ら「正木ひろし」「まさき・ひろし」の表記を好んで用いた。 1896年(明治29年)、東京府東京市本所区(現在の東京都墨田区)林町に生まれる。
渋沢 敬三(しぶさわ けいぞう、正字体:澁澤 敬三、1896… 渋沢 敬三(しぶさわ けいぞう、正字体:澁澤 敬三、1896年〈明治29年〉8月25日 - 1963年〈昭和38年〉10月25日)は、日本の実業家、財界人、民俗学者、政治家。第16代日本銀行総裁、第49代大蔵大臣(幣原内閣)。祖父・渋沢栄一から渋沢子爵家当主及び子爵位を引き継いだ。 1896年(明治29年)8月25日、渋沢栄一の長男・篤二と妻・敦子の長男として生まれる(敬三の下に弟が2人がいる)。「敬三」は論語の一節「言忠信にして行篤敬ならば蛮貊()の邦といえども行われん」(衛霊公第十五)より栄一が命名した。敦子の父(母方の祖父)は羽林家の公卿出身の元老院議官を務めた伯爵橋本実梁。 東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)、東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。
濱口 雄彦(はまぐち たけひこ 1896年8月24日 - 1… 濱口 雄彦(はまぐち たけひこ 1896年8月24日 - 1976年10月5日)は、元東京銀行頭取。(社)日本陶磁協会 第3代理事長。東京府出身。濱口雄幸の長男。弟に濱口巌根。長女・幸は船後正道(中小企業金融公庫総裁、環境事務次官、大蔵官僚)に、次女・淑は正田巌(日銀監事)に嫁いだ。
鎌田 銓一(かまだ せんいち、1896年(明治29年)8月2… 鎌田 銓一(かまだ せんいち、1896年(明治29年)8月23日 - 1975年(昭和50年)11月3日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 東京府出身。兵庫県神戸で判事・鎌田孝二の長男として生まれる。早稲田中学校(現早稲田中学校・高等学校)、陸軍中央幼年学校予科、中央幼年学校本科を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校(29期)を卒業。同年12月、工兵少尉に任官し工兵第3大隊付となる。1920年(大正9年)11月、陸軍砲工学校高等科(26期)を優等で卒業。1921年(大正10年)4月、帝国大学理工学部陸軍派遣学生として京都帝国大学工学部土木工学科に入学し、1924年(大正13年)3月に卒業した。
大辻 司郎(おおつじ しろう、本名:大辻 四郎、1896年(… 大辻 司郎(おおつじ しろう、本名:大辻 四郎、1896年(明治29年)8月5日 - 1952年(昭和27年)4月9日)は、日本の活動弁士、漫談家。 漫談という言葉をつくり、自らを漫談宗家、漫談家元と名乗った文字通り漫談家の草分け。もく星号墜落事故犠牲者のひとりとしても知られる。 東京市日本橋出身。甲洋学舎卒業、父がやっていた「尾張屋」という株屋を経て活動弁士染井三郎や柳思外に師事。浅草帝国館で初舞台。活動写真の弁士を目指し、独学で1916年(大正5年)に外国映画の弁士としてスタート。きっかけはその年の徴兵検査で甲種合格したため、兵役から逃れる為だったという。喜劇専門の弁士として活躍。独特の奇声で喋る『勝手知ったる他人の家』、『胸に一物、手に荷物』、『ハラハラと落つる涙を小脇に抱え』といったフレーズで一躍、人気弁士に躍り出る。
岩岡 とも枝(いわおか ともえ、1896年(明治29年)6月… 岩岡 とも枝(いわおか ともえ、1896年(明治29年)6月15日 - 1933年(昭和8年)11月7日)は、大正末から昭和の初めにかけて活動した挿絵画家、日本画家。雅号に岩岡花僊、岩岡周和。 戸籍上の名前はともゑ。弁護士の父・岩岡伊代治(長野県南安曇郡倭村出身)と母・ふくの間に東京市日本橋区浜町に生まれ育った。日本画を学び、池田輝方の曙会に所属する。弁護士の傍ら衆議院議員を1期務めた父・伊代治が1921年(大正10年)11月に亡くなった後、児童雑誌などに挿絵を描き始めた。『コドモノクニ』、『コドモアサヒ』、『金の星』などの雑誌のほか、楠山正雄、小川未明などの児童書に挿絵を描いた。1933年11月7日、「長らく心臓を悩んでおりましたが遂に病気昂進の為め」現在の東京都済生会中央病院で死去した。
安藤 恭子(あんどう ゆきこ、1896年〈明治29年〉5月1… 安藤 恭子(あんどう ゆきこ、1896年〈明治29年〉5月13日 - 1992年〈平成4年〉12月28日)は、日本の子爵安藤信昭の夫人。元皇族で、旧名は恭子女王(ゆきこじょおう)。閑院宮載仁親王の第1女子。母は、三条実美公爵令嬢・智恵子。皇籍離脱前の身位は女王で、皇室典範における敬称は殿下。 1896年(明治29年)5月13日、閑院宮載仁親王と同妃智恵子の第1女子(第2子)として誕生。 1915年(大正4年)、従五位子爵安藤信昭との結婚が決まると、同年8月24日に宮中三殿を参拝し、9月2日には、皇太子裕仁親王から御悦として紅白縮緬が贈られた。翌9月3日に降嫁した。 1992年(平成4年)12月28日、96歳で逝去した。
李箕永(りきえい、1896年5月 – 1984年8月9日)は… 李箕永(りきえい、1896年5月 – 1984年8月9日)は朝鮮の小説家。本貫は徳水。号は民村。筆名に民村生、聖居山人、聖居、陽心谷人、陽心学人、箕永生がある。日本統治時代はプロレタリア主義作家としてKAPFの中心メンバーとして活動、解放後は左翼陣営に加わり文壇の重鎮の座に座り続けた。貧困を極めて精巧に描き出す李の筆は南北を通じて高く評価されている。 李箕永は1896年5月に忠清南道牙山に生まれる。父は李敏彰、母は密陽朴氏の間の長男である。生まれてすぐに天安に引っ越し、そこで育った。李の家庭は貧しく母は李が数え年で11歳のときに死んだ。学費の支払いにも苦労するほどの貧しさのなか、古代小説を読んで少年期を過ごす。
山田 作之助(やまだ さくのすけ、1896年(明治29年)4… 山田 作之助(やまだ さくのすけ、1896年(明治29年)4月22日 - 1995年(平成7年)5月20日)は、日本の会社役員、弁護士、裁判官。昭和セメント、肥後製糸各監査役。神戸弁護士会長[3]。最高裁判事[3]。衆議院議員山田喜之助の三男。
小松 平五郎(こまつ へいごろう、1896年 (明治29年)… 小松 平五郎(こまつ へいごろう、1896年 (明治29年) 4月20日 - 1953年 (昭和28年) 3月6日)は大正 - 昭和期の日本の作曲家。秋田県由利郡玉米村(現在の由利本荘市)生まれ。兄は作曲家の小松耕輔、弟は音楽評論家の小松清。筆名は平平平平 (ひらだいらひらへい) 。 8人兄弟の6男として生まれる。東京京華中学から慶應義塾大学商学部に進み、在学中にワグネル・ソサエティーを指揮するが、2年で中退し作曲に専念する。作曲はシュレーカーの門弟である亡命ポーランド人のステファン・ルビエンスキーに師事した。 1927年から1941年まで国民交響楽団を主宰、指揮したが、この楽団の目的は作曲家に発表の機会を、聴衆に鑑賞の機会を共に廉価で提供することにあった。
岡田 源三郎(おかだ げんざぶろう 1896年3月25日 -… 岡田 源三郎(おかだ げんざぶろう 1896年3月25日 - 1977年10月26日)は、東京都 出身の野球選手・指導者(名古屋金鯱軍監督。明治大学硬式野球部監督)。
亀井 凱夫(かめい よしお、1896年(明治29年)3月21… 亀井 凱夫(かめい よしお、1896年(明治29年)3月21日 - 1944年(昭和19年)8月10日)は、日本の海軍軍人。マリアナ航空隊司令としてグアム島で戦死し、一階級特進で最終階級は海軍少将。 1896年3月21日、東京都で父・亀井茲迪のもとに生まれる。茲迪の父は元谷田部藩第9代藩主細川興貫で、亀井氏分家の養子となっていた。兄に亀井貫一郎(外交官、衆議院議員)がいる。毛里英於菟(革新官僚)は妹の夫で義弟。父が事業に失敗し借金を背負って廃嫡し、11歳の凱夫が亀井氏分家を相続した。1908年3月、東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)を卒業。1913年3月、東京高師附属中(現・筑波大附属中・高)を卒業。
野村 兼太郎(のむら かねたろう、1896年〈明治19年〉3… 野村 兼太郎(のむら かねたろう、1896年〈明治19年〉3月20日 - 1960年〈昭和35年〉6月22日)は、日本の経済学者。経済学博士。専門は経済思想史(江戸時代・経世論)。 日本学士院会員。国文学研究資料館設立発起人。他、東洋貨幣協会名誉会員、社会経済史学会を創立し代表理事等を歴任。 東京府東京市日本橋区浜町(現・東京都中央区日本橋浜町)生まれ。東京府立第三中学校を卒業後、1918年に慶應義塾大学部理財科を卒業。予科教授を経て、1923年よりケンブリッジ大学キングス・カレッジ在籍。 1937年、慶應義塾大学で「英国資本主義の成立過程」により経済学博士の学位を授与される。 1950年に日本学士院会員となり、他に慶應義塾図書館長、東京大学経済学部講師、日本学術会議会員、文部省科学研究費総合研究「近世庶民資料調査研究」委員長、文部省史料館評議会長、経済学部適格審査委員会委員長などを歴任した。
小野田 千代太郎(おのだ ちよたろう、1896年(明治29年… 小野田 千代太郎(おのだ ちよたろう、1896年(明治29年)3月18日- 1944年(昭和19年)1月11日)は、日本の囲碁棋士。東京出身、方円社、日本棋院、棋正社などに所属、八段。院社対抗戦などで活躍し、強腕で鬼田強太郎の異名を取った。登山家としても著名。 東京京橋に金融業を営む父を持って生まれ、8歳頃から父が打っているのを見て碁を覚える。9歳の時には当時14歳の加藤信に七子で打ったといい、また本因坊秀栄、吉田菊子などに教えを受け、1907年12歳から方円社塾生となる。その後関星月発起で少年囲碁会が催された際に、坊門で2歳下の小岸壮二と対戦するが4連敗で先相先に打ち込まれ、次いで頭山満の計らいで数度の十番碁を打つが定先に打ち込まれた。
石野 芳男(いしの よしお、1896年(明治29年)3月10… 石野 芳男(いしの よしお、1896年(明治29年)3月10日 - 1950年(昭和25年)1月10日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 千葉県出身。東京私立錦城中学校(現錦城学園高等学校)卒業を経て、1916年(大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第33連隊付となる。1926年(大正15年)12月7日、陸軍大学校(38期)を卒業し歩兵第75連隊中隊長に発令された。 1928年(昭和3年)8月、支那駐屯軍司令部付となる。参謀本部員、参謀本部付(支那研究員・南京在勤)を経て、1932年(昭和7年)2月から同年5月まで上海派遣軍参謀として第一次上海事変に出動した。
有坂 与太郎(ありさか よたろう、1896年1月27日 - … 有坂 与太郎(ありさか よたろう、1896年1月27日 - 1955年6月8日)は日本の郷土玩具研究者・収集家。本名は正輔。(旧字表記は「與太郎」) 1896年1月27日に南品川に生まれる。「郷土玩具の普及」「玩具則生活描写」を提唱()し、郷土玩具の出版を勢力的に行い、郷土玩具運動のリーダー的存在となった。三田平凡寺らと交遊、『我楽他宗』に参加、第四番与太山玩狐寺と号し、狐に関するものを収集した。 1925年(昭和初め)ごろから興った郷土玩具収集の新たな高まりは、西洋的な事物を排除し、日本的な事物を評価しようという当時の国策にそったものでもあった。これまでの名士などいわゆる趣味人の特殊な階層の趣味を越えて,一般家庭主婦や若いサラリーマン,学生層にまで愛好熱が広まった。
諸井 貫一(もろい かんいち、1896年1月11日 - 19… 諸井 貫一(もろい かんいち、1896年1月11日 - 1968年5月21日)は、東京府(現東京都)生まれの実業家。セメント製造事業の開拓を手掛けた諸井恒平(渋沢栄一とは親類関係に当たる)の長男で、東諸井家12代当主。秩父セメント(現太平洋セメント)社長、秩父鉄道会長、埼玉銀行(現埼玉りそな銀行)会長、日本煉瓦製造会社会長を歴任し、経済団体連合会(経団連)の創設など日本の近代化に深く貢献した。従三位勲一等。
森一郎(もり いちろう、1896年(明治29年) - 197… 森一郎(もり いちろう、1896年(明治29年) - 1975年(昭和50年)2月6日)は、日本の政治家。稲城村長、初代稲城町長を務めた。 元稲城村長の森円蔵の息子として生まれる。稲城村議員を経験した後、1945年(昭和20年)の終戦直前に村長になるが、1946年(昭和21年)に公職追放令により、村長を辞職した。 その後、1951年(昭和26年)に再び村長を務め、1957年(昭和32年)の稲城町制施行に伴い、初代稲城町長となる。1963年(昭和38年)町長を退職。1975年(昭和50年)2月6日死去。78歳。常楽寺に眠る。息子は森直兄。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
阪本 牙城(さかもと がじょう、1895年12月1日 - 1… 阪本 牙城(さかもと がじょう、1895年12月1日 - 1973年8月8日)は、日本の漫画家、水墨画家。本名・坂本雅城(さかもと まさき)。水墨画家としては阪本雅城を用いる。 東京府西多摩郡五日市町(現東京都あきる野市)に生まれる。五日市小学校五年生のとき、同校の校章をデザインしたことにより、これは現在でも使われている。東京府立第二中学校(現東京都立立川高等学校)卒業後日本画家を志すが、生活できず岡本一平のすすめで漫画を描き始める。勤務していた中外商業新報(現日本経済新聞)や夕刊大阪新聞(現産経新聞)の家庭面に4コマ漫画を連載したが、思い切り奇想天外な作品を試したいと思い立ち、鉄の玉の中に人が入っている作品を「幼年倶楽部」編集部へ持ち込んだ。
箕作 秋吉(みつくり しゅうきち、1895年10月21日 -… 箕作 秋吉(みつくり しゅうきち、1895年10月21日 - 1971年5月10日)は、日本のクラシック音楽の作曲家である。箕作元八の長男として東京都に生まれた。箕作阮甫の曾孫にあたる。東洋音楽大学教授。
蜂谷 輝雄(はちや てるお 1895年10月4日 - 197… 蜂谷 輝雄(はちや てるお 1895年10月4日 - 1979年7月2日)は、日本の外交官。自由インド仮政府初代公使や内閣総理大臣秘書官を務めた。
高畠 達四郎(たかばたけ たつしろう、1895年10月1日 … 高畠 達四郎(たかばたけ たつしろう、1895年10月1日 - 1976年6月26日)は、日本の画家。独立美術協会会員。1952年2月に「暮色」で毎日芸術賞を受賞。
谷口 茂寿(たにぐち しげとし、1895年9月25日 - 1… 谷口 茂寿(たにぐち しげとし、1895年9月25日 - 1973年6月25日)は、日本の牧師。 1895年、大阪で生まれる。組合派の大阪天満教会にて受洗を務めながら、1916年に京都帝国大学入学。在学中に内村鑑三主筆の「聖書の研究」に触れ、内村鑑三の教えを受けることを願って東京帝國大学へ転入して上京。1918年1月より内村鑑三の集会である今井館に出席を許される。1920年、転入した東京帝國大学を卒業。三菱造船株式会社(現三菱重工業株式会社)に入社、神戸造船所に赴任。その後三菱合資会社に転任するが、再び上京し本郷駒込追分町に住む。1923年、三菱合資会社退社。文書伝道者としての活動を開始する。本郷神の教会牧師に就任し、教会内に日本聖書学校を設立、校長に就任。
岩崎 彦弥太(いわさき ひこやた、1895年9月15日 - … 岩崎 彦弥太(いわさき ひこやた、1895年9月15日 - 1967年9月8日)は、三菱財閥のオーナー・岩崎家の一員で、三菱合資会社元社長・岩崎久弥の長男。 東京府(現:東京都)出身。 1908年に東京高等師範学校附属小学校(現:筑波大学附属小学校)、1913年に東京高等師範学校附属中学校(現:筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。その後、旧制学習院高等科を経て1920年に東京帝国大学文学部社会学科を卒業。 一旦大学院に進むが、1922年英国に留学し、帰国後の1926年に三菱合資会社に入社。1934年副社長に就任。三菱財閥傘下の企業の取締役にも就任した。戦前の長者番付では常連と化しており、1939年公表の納税額は日本一となる228万2076円を記録。
鈴木 信太郎(すずき しんたろう、1895年〈明治28年〉8… 鈴木 信太郎(すずき しんたろう、1895年〈明治28年〉8月16日 - 1989年〈平成元年〉5月13日)は、洋画家。 東京府八王子生まれ。白馬会洋画研究所で黒田清輝に師事する。 1934年(昭和9年)出品した第二十一回二科展で推奨に選出されたことなどを契機に、1936年(昭和11年)、二科会に新会員として迎えられる。1955年(昭和30年)、二科会を退会して一陽会を結成し中心的存在として活躍する。1960年(昭和35年)、日本芸術院賞受賞、1969年(昭和44年)、日本芸術院会員、1988年(昭和63年)、文化功労者。
瀬田 醻一(せた しゅういち、1895年〈明治28年〉8月1… 瀬田 醻一(せた しゅういち、1895年〈明治28年〉8月16日 - 1968年〈昭和43年〉)は、日本の政治家、東京府多額納税者、鍋屋、金融業、地主・家主。東京市会議員(板橋区選出、革正会会員)、板橋区会議員。 東京府北豊島郡板橋町大山出身。質商・瀬田文次郎の長男。 早稲田中学、同高等学院を経て1917年、早稲田大学大学部法学科英法科卒業。貸地貸家業、金融業を営んだ。 1921年5月、板橋町会議員に当選し、1932年9月市郡併合迄3期在職。1931年4月、板橋町名誉助役として市郡併合迄在職。 1932年11月、板橋区会議員に当選。1933年3月、東京市会議員に当選。1938年4月、東京市参事会員に当選。
土田 耕平(つちだ こうへい、1895年(明治28年)6月1… 土田 耕平(つちだ こうへい、1895年(明治28年)6月10日 - 1940年(昭和15年)8月12日)は、日本の歌人、童話作家。 長野県諏訪郡上諏訪町(現・諏訪市)に生まれる。18歳で両親を失う。1911年旧制諏訪中学(長野県諏訪清陵高等学校)を中退、同郡玉川村立玉川小学校の代用教員となる。ここで島木赤彦に師事し『アララギ』に投稿、編集に携わる。1913年に上京し、1915年旧制東京中学校(現・東京高等学校)卒。1921年まで伊豆大島で病気療養、のち上諏訪へ帰り、長野県内各地を頻繁に転居。1924年信濃毎日新聞の歌壇撰者となる。 後半生の大半を不眠症の療養、短歌、童話の創作に費やした。1940年下伊那郡鼎町で心臓病で死去。
金刺 不二太郎(かなさし ふじたろう、1895年(明治28年… 金刺 不二太郎(かなさし ふじたろう、1895年(明治28年)5月18日 - 1980年(昭和55年)1月4日)は、日本の政治家。川崎市長(7期)。全国市長会会長(4期)。位階は正四位。勲二等旭日重光章。 静岡県賀茂郡(現在の西伊豆町)で、金刺長蔵の長男として生まれる。1912年に東京高等工芸学校を卒業、1914年に東京工科学校を卒業した。川崎田島町の建設会社飯草組(社長は飯草吉之輔で、東京自動車製作所支配人)に入り、1922年に堀之内の請負業万代商会・上田盛次郎(金沢市出身)の一大事業に協力した。1923年金刺組を興し、公共事業に携わる。川崎市議、同議長、参事会員、神奈川県議を経て、第17回衆議院議員総選挙に静岡県第2区より立候補するが落選に終わる。
多 忠亮(おおの ただすけ、1895年(明治28年)5月3日… 多 忠亮(おおの ただすけ、1895年(明治28年)5月3日 - 1929年(昭和4年)12月3日)は、大正期のヴァイオリン奏者・作曲家。
村松 正俊(むらまつ まさとし、1895年4月10日 - 1… 村松 正俊(むらまつ まさとし、1895年4月10日 - 1981年9月20日)は、文明批評家、翻訳家。
中嶋 舜司(なかじま しゅんじ 1895年〈明治28年〉3月… 中嶋 舜司(なかじま しゅんじ 1895年〈明治28年〉3月7日 - 1981年〈昭和56年〉3月11日) は、東京都立川市長(2期)。位階は正六位。 東京府北多摩郡立川村(立川町を経て、現在の東京都立川市)生まれ。東京府立第二中学校(現在の東京都立立川高等学校)卒業。立川村会議員、同町会議員、同市会議員を務める。その後、同議長、農業委員会委員長などを務める。 戦後の1947年、立川市長に就任。1期目は市公民館の建設に着手、自治体警察の発足、市営火葬場の建設、児童相談所の開設、上下水道も計画された。 1951年に板谷信一郎に市長を譲るも、1955年に再び市長に就任。立川基地拡張を巡り、反対闘争が起こる。
大久保 正二(おおくぼ しょうじ、1895年(明治28年)3… 大久保 正二(おおくぼ しょうじ、1895年(明治28年)3月6日 – 1965年(昭和40年)1月21日)は、東京都出身の実業家。 14年半に亘って日野自動車のトップを務め、積極政策、研究重視政策により、現在の同社の基礎を築いたとされる。販売の神様と称されたトヨタ自動車の神谷正太郎などと共に、自動車業界を代表する人物のひとりと言われた。
長谷川 春子(はせがわ はるこ、1895年(明治28年)2月… 長谷川 春子(はせがわ はるこ、1895年(明治28年)2月28日 - 1967年(昭和42年)5月7日)は、明治時代から昭和時代にかけての洋画家。文筆家としても活動し『戯画漫文』などの著作がある。またモダンガールと呼ばれた女性の一人とも、毒舌家としても知られ、エッセイに政治家から落語家、歌舞伎役者、柔道家の人物評、藤田嗣治とパブロ・ピカソの対照などをしたためた。 東京日本橋通油町(現・中央区)出身。父の長谷川深造は天保13年旧暦5月25日生まれ(1842年)で東京市参事会員、長谷川時雨は16歳離れた姉に当たる。25歳の時に姉の勧めにより画家を志し、鏑木清方に師事して日本画を学ぶが、梅原龍三郎から洋画も学んだ。
駒井 重次(こまい じゅうじ / しげつぐ、1895年(明治… 駒井 重次(こまい じゅうじ / しげつぐ、1895年(明治28年)2月23日 - 1973年(昭和48年)11月12日)は、日本の大蔵官僚、税理士、公認会計士、政治家。立憲民政党衆議院議員(4期)。 東京市に駒井重格の三男として生まれる。東京高等師範学校附属中学校(現筑波大学附属中学校・高等学校)から第四高等学校を経て、1920年東京帝国大学経済学部商科卒。大蔵省に入り、前橋、亀戸、神田橋各税務署長、銀行検査官などを務め、1932年に退官。同年の第18回衆議院議員総選挙で初当選し、以来4回当選した。戦後、公職追放となり、追放解除後の1952年と1953年の総選挙で改進党公認で東京1区から立候補したが、いずれも落選した。
北村 寿夫(きたむら ひさお、1895年1月8日 - 198… 北村 寿夫(きたむら ひさお、1895年1月8日 - 1982年1月3日)は、日本の脚本家、児童文学作家。 東京麹町区下六番町出身。本名・寿雄。早稲田大学中退。小山内薫に師事し、『劇と評論』同人となる。 1936年(昭和11年)NHK文芸部主事。 1947年(昭和22年)、ラジオドラマ『向う三軒両隣』の脚本を八住利雄、伊馬春部、北条誠とともに交代で執筆。終戦直後の民主的で明るい人間関係を描くホームドラマは人気番組となった。 1952年(昭和27年)から「白鳥の騎士」に始まる「新諸国物語」を五年連続してラジオ放送し、「笛吹童子」「紅孔雀」などがヒットして映画化もされた。墓所は雑司ヶ谷霊園。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
岡本 文弥(おかもと ぶんや、本名:井上 猛一、1895年〈… 岡本 文弥(おかもと ぶんや、本名:井上 猛一、1895年〈明治28年〉1月1日 - 1996年〈平成8年〉10月6日)は、日本の新内節の太夫、新内節岡本派五代目家元、新内節研究家、随筆家、俳人。 東京・谷中上三崎南町に生まれる。父・田崎源次郎は煉瓦職人、母・とらは新内語りの鶴賀若吉(のちに三世・岡本宮染)。幼少時より母親から浄瑠璃を習い、1913年(大正2年)、富士松加賀路太夫を名乗る。早稲田大学中退後、文芸誌の編集者をしながら、夜は新内を流す日々を過ごす。1923年(大正12年)母と共に独立して岡本派を再興、岡本宮太夫を名乗り、後に岡本文弥と改名。母の幼女で妹でもある三味線の名手、四世・岡本宮染とコンビを組み、母から多くの貴重な古曲を継承すると共に、生来の文才を生かして次々と新作を発表。
安藤 忍(あんどう しのぶ、1895年 - 1970年12月… 安藤 忍(あんどう しのぶ、1895年 - 1970年12月8日)は、日本の野球選手・監督。東京都出身。
小林 哥津(こばやし かつ、1894年11月20日 - 19… 小林 哥津(こばやし かつ、1894年11月20日 - 1974年6月25日)は日本の小説家。 1894年に小林清親の五女として東京府東京市京橋区に生まれる。名は哥津子。母は田島芳子。仏英和高等女学校(現・白百合学園中学校・高等学校)に入学し、同校在学中の1911年に平塚らいてうの雑誌『青鞜』の同人となり、伊藤野枝、尾竹紅吉らと同誌の編集に携わった。同雑誌に戯曲『お夏のなげき』や小説『麻酔剤』などを執筆した。1914年に青鞜社を退職し、外国文学の翻訳や東京回想、父の清親の研究資料などについての著作を行った。著書に『瑞典のお伽噺不思議な旅』、『清親考』がある。1974年6月25日、79歳で死去。
阿以田 治修(あいだ じしゅう、1894年(明治27年)11… 阿以田 治修(あいだ じしゅう、1894年(明治27年)11月16日 - 1971年(昭和46年)2月15日)は、大正-昭和期の日本の洋画家。本名は会田 治修 。 東京府生まれ。私立郁文館卒。 自身のアトリエで洋画を描き始め、1914年(大正3年)太平洋洋画会研究所に入り、満谷国四郎に師事。1919年(大正8年)二科会に初入選を果たし、1922年(大正11年)からヨーロッパへ留学。フランスでロジェ・ビシエールに学んだほかイタリアやスペインにも渡った。 帰国後、1925年(大正14年)の第6回帝展に「読書するイボンヌ」を出品し、入選。さらに、1926年より第7回から9回までの帝展にて「髪」、「画房小閑」、「部屋つづき」が3年連続で特選に選ばれた。