坂 信弥(さか のぶよし、1898年12月23日 - 199… 坂 信弥(さか のぶよし、1898年12月23日 - 1991年2月22日)は、日本の内務官僚、実業家。富山県知事、警視総監、大商証券社長。旧姓・田中。坂信彌とも表記、あるいはこちらが正確か。 堺市出身、本籍・山口県。農業・市会議員、田中龍太郎の四男として生まれる。堺中学校、第八高等学校を経て、1924年4月、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。1923年12月、高等試験行政科試験に合格。1924年5月、内務省に入り茨城県属として内務部産業課に配属された。その後、長州系官僚である坂仲輔の家の婿養子に迎えられる。 1924年12月、茨城県警部を兼務。以後、地方警視・滋賀県警務課長、長野県警務課長、京都府保安課長、北海道庁道路課長、奈良県書記官・経済部長、鹿児島県書記官・警察部長、埼玉県書記官・警察部長、上海領事(工部局警察部長)、警視庁官房主事、大阪府部長・警察部長などを歴任。
平井 常次郎(ひらい つねじろう、1898年6月13日 - … 平井 常次郎(ひらい つねじろう、1898年6月13日 - 1989年11月12日)は、日本の実業家。朝日放送元社長。 大阪府大阪市出身。1919年に大阪高等商業学校を卒業。朝日新聞大阪本社で社会部長、編集局次長などを歴任し、1951年に3月朝日放送に移り、専務に就任し、1959年6月に副社長を経て、1968年6月から1971年5月までに社長を、1979年6月から1983年6月までに会長をそれぞれ務めた。1964年に藍綬褒章を受章し、1970年11月に勲二等瑞宝章を受章した。また、大阪日伊協会会長を務めるなど日本とイタリアの親善交流に尽力し、その功績により、1974年にイタリア政府から勲二等イタリア政府功労章を受章した。
田中 繁松(たなか しげまつ、1898年〈明治31年〉3月1… 田中 繁松(たなか しげまつ、1898年〈明治31年〉3月13日 - 1976年〈昭和51年〉2月26日)は、日本の経営者。三井造船社長を務めた。位階は正四位。 大阪府岸和田市出身。1918年に大阪高等工業学校造船学科を卒業し、同年に三井物産に入社。1942年1月に三井造船に転じ、1946年5月に取締役、同年11月に常務、1947年5月に専務を経て、1958年5月に副社長に就任し、1960年5月には社長に昇格。1970年5月に取締役相談役を経て、1972年5月には相談役に就任。 1968年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1976年2月26日脳血栓のために死去。77歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
三田 良蔵(みた りょうぞう、1897年 <明治30年> 8… 三田 良蔵(みた りょうぞう、1897年 <明治30年> 8月20日 - 1970年 <昭和45年> 6月2日)は、日本の経営者、医学博士。参天製薬社長を務めた。位階は正五位。 大阪府大阪市出身。1919年に千葉医学専門学校薬学科を卒業。島商店での勤務を経て、1936年には参天堂に転じ、1940年には社長に就任し、1952年には三田製薬社長も兼任。 1960年10月に藍綬褒章を受章し、1967年11月に勲三等瑞宝章を受章。。 1970年6月2日脳血栓のために死去。72歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
竹内 俊一(たけうち しゅんいち、1896年1月17日 - … 竹内 俊一(たけうち しゅんいち、1896年1月17日 - 1976年10月26日)は日本の実業家。三菱石油(現ENEOSホールディングス)社長・会長や、石油連盟会長を務めた。 大阪府出身。津山中学校(現岡山県立津山高等学校)を経て、1917年東京高等商業学校(現一橋大学)卒業後、三菱合資会社入社。三菱商事を経て、1941年から三菱石油。 1946年三菱石油社長、1936年同会長。社長就任後、各ポストの職名を変え、責任を明確化。方針決定は、合議制で行われるように組織改編を行った。 石油連盟会長や、日経連常任理事、東京ロータリークラブ会長等も歴任。 趣味はゴルフと歌舞伎鑑賞。
松田 恒次(まつだ つねじ、1895年11月24日 - 19… 松田 恒次(まつだ つねじ、1895年11月24日 - 1970年11月15日)は、大阪府大阪市出身の実業家。 東洋工業(現マツダ)3代目社長。実父は東洋工業創始者の松田重次郎、息子にマツダ4代目社長の松田耕平。自身から孫の松田元と3代続けて広島東洋カープオーナーである。 1895年、大阪市の天満橋筋で鉄工所を営んでいた父松田重次郎、母千代の長男として生まれる。重次郎が造船技術者として呉や佐世保など各地の海軍工廠で勤務したため、幼少期は大阪で祖母に育てられていた。 重次郎と同様に機械好きで、学校から帰ると重次郎の経営する鉄工所で手伝いをしていた。1911年、大阪市立工業学校に入学、野球部に入った。
八木 幸吉(やぎ こうきち、1895年(明治28年)2月25… 八木 幸吉(やぎ こうきち、1895年(明治28年)2月25日 - 1976年(昭和51年)7月26日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(1期)、参議院議員(2期)。 大阪府大阪市出身。八木商店創業者八木与三郎の二男として生まれる。1917年(大正6年)慶應義塾大学部理財科を卒業した。 鐘淵紡績(のちカネボウ)に入社し、営業部蚕業課長、兵庫工場長などを歴任。武藤山治の秘書となり、1919年(大正8年)ワシントンで開催の第1回国際労働会議に傭主側代表となった武藤に父の与三郎とともに随行して出席した。1921年(大正10年)武藤の次女二三子と結婚。 実業同志会理事に就任し、1930年(昭和5年)2月の第17回衆議院議員総選挙で兵庫県第3区から出馬して当選し、衆議院議員を1期務めた。
正木 孝之(まさき たかゆき、1895年 - 1985年)は… 正木 孝之(まさき たかゆき、1895年 - 1985年)は、日本の実業家・美術コレクター・庄屋当主・素封家。正木美術館創設者。 正木孝之は、明治28年、和泉市池上町に南玄亥三郎の六男として生まれ、私立関西商工学校(現・関西大倉高等学校)土木科に入り、卒業と同時に南定翁の尽力により大阪電気軌道株式会社(近鉄の前身)に入り、大阪・奈良間の軌道敷設工事の設計監督を司り、開通後3・4年後に退社、25歳で工務所を自営、昭和8年から堺市にある映画館経営に転向、その間、23歳のときに遠縁にあたる正木家の養子となり、その翌年頃から蒐集活動を開始した。後に、茶道の大成者・千利休を生んだ堺に隣接する大阪府泉北郡忠岡町にある正木美術館(1968年開館)を創設することになる。
岸 要(きし かなめ、1894年3月23日 - 1982年1… 岸 要(きし かなめ、1894年3月23日 - 1982年10月1日)は、日本の実業家。住友電気工業社長、会長を務めた。 大阪府泉佐野市出身。1918年に京都帝国大学法学部を卒業し、住友銀行での勤務を経て、1937年に住友電気工業の前身である住友電線製造所に転職。 総務部長、経理部長、取締役、常務を経て、1947年から1956年11月までに社長を務め、1956年11月から1962年6月までに会長を務めた。1962年以降は相談役を務めた。 日本電気取締役、関西テレビ放送監査役なども歴任した。 1965年春に勲三等瑞宝章を受章した。 1982年10月1日、呼吸不全のために大阪市の住友病院で死去。88歳没。
喜多 市松(きた いちまつ、1893年8月23日 - 198… 喜多 市松(きた いちまつ、1893年8月23日 - 1986年9月25日)は、日本の経営者。大阪府出身。 1914年に旅順工科学堂電気工学科を卒業し、1917年に京阪電気鉄道に入社。1942年に取締役に就任し、同年から1年間社長を務めた。 1986年9月25日老衰のために死去。93歳没。
山本 為三郎(やまもと ためさぶろう、1893年(明治26)… 山本 為三郎(やまもと ためさぶろう、1893年(明治26)4月24日 - 1966年(昭和41)2月4日)は、実業家。大阪市中央区船場生まれ。「ビール王」、「ホテル王」と呼ばれた。
小畑 忠良(おばた ただよし、1893年(明治26年)3月1… 小畑 忠良(おばた ただよし、1893年(明治26年)3月16日 - 1977年(昭和52年)10月11日)は、日本の実業家、企画院・内務官僚、弁護士。企画院次長、大日本産業報国会理事長、大政翼賛会事務総長、官選愛知県知事、東海北陸地方総監。 漢学者、小畑万治郎の六男として大阪府で生まれる。茨木中学校、第一高等学校を経て、1917年(大正6年)3月、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を優等で卒業し、銀時計を授与された。住友合資会社に入り総本店経理部に配属された。1923年(大正12年)2月から1925年(大正14年)3月まで欧米に商工業研究のため留学した。 1925年(大正14年)10月、住友総本店経理部第三課長となる。
中北 辨造 (なかきた べんぞう、1893年-1965年)は… 中北 辨造 (なかきた べんぞう、1893年-1965年)は、日本の実業家。中北製作所の創業者。 1893年、大阪天満宮の近くで江戸時代より扇屋庄兵衛を代々名乗る、呉服や質屋を営む家の三男として生まれる。1912年、旧制都島工業学校(現・大阪府立都島工業高等学校)機械科を第一期生として卒業。その後、専売局(現・日本たばこ産業)へ入社し機械設計に従事。1930年、中北製作所を創業。以後、新製品の開発に取り組み中北製作所の基礎を固める。1965年、死去。
武 為太郎(たけ ためたろう、1891年〈明治24年〉10月… 武 為太郎(たけ ためたろう、1891年〈明治24年〉10月 - 没年不明)は、日本の政治家、実業家。大阪府泉南郡山直下村村会議員。輸出内地向綾木綿製造販売、武織物工場代表。泉南郡北部綿織物工業組合理事長。 大阪府泉南郡山直下村三田(のち山直町、現・岸和田市)の人である。織物業を営む。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
新田 昌次(にった しょうじ、1890年〈明治23年〉10月… 新田 昌次(にった しょうじ、1890年〈明治23年〉10月 - 1948年〈昭和23年〉2月7日)は、日本の実業家。日本工業革製品統制社長。新田化学工業取締役。新田帯革製造所(現ニッタ)、新田ベニヤ製造所各無限責任社員。父は新田帯革製造所創業者の新田長次郎。族籍は大阪府平民。 大阪府大阪市出身。新田長次郎の四男、あるいは三男。新田宗一、新田長三の弟。新田愛祐の兄。慶應義塾大学理財科卒業。帯皮革製造業を営む。1923年、分家した。1948年死去。宗教は真言宗。大阪府在籍で、住所は大阪市住吉区帝塚山中、同市浪速区久保吉。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
森本 甚兵衛(もりもと じんべい、旧姓・細井、前名・悦蔵、1… 森本 甚兵衛(もりもと じんべい、旧姓・細井、前名・悦蔵、1890年〈明治23年〉4月20日 - 1983年〈昭和58年〉9月12日)は、日本の地主、実業家。西宮酒造(現・日本盛)代表取締役。12代森本甚兵衛。 大阪府豊能郡北豊島村(現・池田市)に細井重右衛門の四男として生まれた。1914年(大正3年)に兵庫県人・森本甚兵衛の養子となり家督を相続、1915年(大正4年)1月に前名・悦蔵を改め、甚兵衛を襲名した。戊辰土地、南大阪田園都市各監査役をつとめた。 西宮銀行に入行し、取締役に就任、同行が1936年(昭和11年)に神戸銀行に合併のため退任した。1930年(昭和5年)2月に西宮酒造入社、取締役に就任、1943年(昭和18年)4月に監査役に就任した。
加賀 正太郎(かが しょうたろう、1888年(明治21年)1… 加賀 正太郎(かが しょうたろう、1888年(明治21年)1月17日 - 1954年(昭和29年)8月8日)は、日本の資産家、実業家。加賀証券社長。大阪府多額納税者。 1888年、大阪市東区今橋生まれ。加賀市太郎の長男。加賀家は大阪目抜きの場所、高麗橋通りにあり、大阪屈指の資産家として、又著名の旧家として遠近に知られた。12歳の時に父親が亡くなり、船場にあった江戸時代から続く実家の繊維業・米穀仲買業・両替商「富商加賀商店」を継ぐ。 ヨーロッパに渡り、日英博覧会やキューガーデンの見学、アルプス山脈ユングフラウ登頂を行った。 東京府立第三中学校(現・東京都立両国高等学校)を経て、1911年、東京高等商業学校(現・一橋大学)卒業。
山野 平一(やまの ひらかず、1887年〈明治20年〉8月4… 山野 平一(やまの ひらかず、1887年〈明治20年〉8月4日 - 1971年〈昭和46年〉12月31日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 大阪府、現在の大阪市で山野助四郎の三男として生まれる。1905年(明治38年)大阪府立八尾中学校(現大阪府立八尾高等学校)を卒業。1914年(大正3年)家督を相続した。 実業界では、都島商事社長、大阪地下街監査役などを務めた。 政界では、大阪市会議員、同副議長を務めた。その他、都島警防団長、都島教育会長、帝国在郷軍人会都島分会顧問、軍事援護会北区連合会理事長、大政翼賛会大阪支部常務委員、借家借地調停委員、北区町会連合会長、都島簡易裁判所調停委員、大阪調停協会長、大阪市社会福祉協議会副会長などを務めた。
大本 寅治郎(おおもと とらじろう、1887年7月21日 -… 大本 寅治郎(おおもと とらじろう、1887年7月21日 - 1961年9月25日)は、日本の発明家、実業家。妻・フサは樽井藤吉の長女。 機械式計算機である「タイガー計算器」を発明した。 広島県深安郡出身。岡山紡績株式会社鉄工部の見習工となり、備前紡績株式会社鉄工部、神戸湊川川上鉄工所、大阪府下稻畑染工場鉄工所、大阪府下毛斯綸紡織株式会社鉄工部、大阪砲兵工廠火砲第一工場などに勤務した。明治38年(1905年)に大阪府西成郡豊崎村本庄(現・大阪市北区)において共同経営において鉄工業を創設した。 大正元年(1912年)に鉄工業を合意解散し、西成郡豊崎村南濱に個人経営において大本鉄工業を創始し、機械の製作販売を行う。
浅田 長平(あさだ ちょうへい、1887年4月15日 - 1… 浅田 長平(あさだ ちょうへい、1887年4月15日 - 1970年10月21日)は、日本の実業家。神戸製鋼所社長を務め、「神鋼中興の祖」と呼ばれた。 大阪府堺市出身。1911年に京都帝国大学理工科大学採鉱冶金科を卒業し、神戸製鋼所に入社した。取締役、製鉄部長、常務、専務を経て、1945年9月に社長に就任した。しかし、1946年12月に公職追放により辞任。1952年11月に社長として復帰し、1958年1月から1965年3月までに会長を務めた。 神戸商工会議所会頭、関西経済連合会副会長なども歴任した。1964年11月に勲二等瑞宝章を受章した。 1970年10月21日急性心不全のために神戸市の自宅で死去。
宇野 茂兵衛(うの もへえ、1887年〈明治20年〉1月22… 宇野 茂兵衛(うの もへえ、1887年〈明治20年〉1月22日 - 没年不明)は、日本の実業家。宇野製粉所代表社員。関西製鋼監査役。族籍は大阪府平民。 大阪府平民・宇野庄壽計の長男。1900年3月、家督を相続する。鋳物、製粉業を営む。会社の重役である。住所は大阪府泉南郡貝塚町(現・貝塚市)。 貝塚市北町の宇野家はもともとは貝塚鋳物師(いもじ)である金屋長右衛門(かなやちょうえもん)家の分家で、代々「茂兵衛」を名乗り、製粉業を営んだ。1887年ごろに長右衛門家の鋳物業を引き継いだ。宇野家住宅は登録有形文化財である。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
長瀬 徳太郎(ながせ とくたろう、1886年12月15日 -… 長瀬 徳太郎(ながせ とくたろう、1886年12月15日 - 1972年12月13日)は、日本の経営者。長瀬産業社長を務めた。 大阪府大阪市出身。1904年に大阪高等商業学校を卒業し、同年に長瀬商店(のちの長瀬産業)。1917年に取締役に就任し、常務、専務を経て、1943年に社長に就任し、1968年5月には会長に就任。 1960年に藍綬褒章を受章し、1966年に勲四等瑞宝章を受章。 1972年12月13日、心不全のために死去。85歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
佐藤 博夫(さとう ひろお、1885年11月23日 - 19… 佐藤 博夫(さとう ひろお、1885年11月23日 - 1966年4月15日)は、日本の実業家。 熊本県阿蘇郡北小国村に生まれ、年少期に祖母に連れて、大阪に移住。1904年に岸和田中学を卒業。1907年に箕面有馬電気軌道に入社。 専務を経て、1936年から阪神急行電鉄社長を務め、1943年に陸上交通事業調整法による京阪電気鉄道との統合により、京阪神急行電鉄社長に就任した。 1946年11月に公職追放を受け、社長を辞任したが、1951年に会長として、阪急に復帰し、1951年に阪急不動産の社長に就任し1957年に東宝の会長に就任。1956年に交通文化賞を受賞し、1964年には勲三等旭日中綬章を受章した。
高碕 達之助(たかさき たつのすけ、1885年2月7日 - … 高碕 達之助(たかさき たつのすけ、1885年2月7日 - 1964年2月24日)は、日本の政治家・実業家。満洲重工業開発株式会社副総裁・第2代総裁、電源開発初代総裁、通商産業大臣、初代経済企画庁長官などを歴任した。 大阪府島上郡三箇牧村(現在の高槻市)で生まれる。旧制茨木中学を卒業後、農商務省水産講習所(後の東京水産大学、現在の東京海洋大学)に入所。その後、メキシコ万博漁業に入社し、水産技師として勤務。1917年、東洋製罐を創立。1938年、東洋製罐専修学校(後の東洋食品工業短期大学)を設立。1942年、満洲重工業開発総裁に就任。1947年公職追放、1951年同解除。1952年、電源開発総裁に就任。
寺田 利吉(てらだ りきち、前名・信三、1884年〈明治17… 寺田 利吉(てらだ りきち、前名・信三、1884年〈明治17年〉6月8日 - 没年不明)は、日本の政治家、実業家。岸和田名誉職市長。寺田銀行頭取。大阪紡績、寺田紡績工廠各社長。 大阪府・先代利吉の長男。1901年、大阪府立第二中学校を卒業する。1903年、岸和田紡績に入社する。1918年、家督を相続し信三を改め襲名する。 公共慈善に対しては深甚な理解を持ち、常に私財を投じる。趣味は書画、茶道。住所は大阪府岸和田市岸城町、同市堺町。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
前田 多門(まえだ たもん、1884年(明治17年)5月11… 前田 多門(まえだ たもん、1884年(明治17年)5月11日 - 1962年(昭和37年)6月4日)は、日本の政治家・実業家・文筆家。位階は正三位。 大阪府出身。喜兵衛の長男。立教中学、一高、東京帝国大学卒業後、内務省入省。1916年(大正5年)、後藤新平内務大臣の秘書官に起用され、後藤系の有力官僚となり、1920年(大正9年)、池田宏の後を継いで第2代の内務大臣官房都市計画課長となった。後藤新平が東京市長に就任すると第1助役は永田秀次郎、第2助役は池田、第3助役は前田という後藤のいわゆる「畳」であり、後藤自身および電気局長の長尾半平と合わせて「三田二平」と称された。 1925年(大正14年)3月、外務省の守屋栄夫とともに第7回国際労働会議の政府代表に選出。
北野 清治(きたの せいじ、1883年〈明治16年〉12月2… 北野 清治(きたの せいじ、1883年〈明治16年〉12月20日 - 没年不明)は、日本の政治家、実業家、貝塚市有功者。貝塚市議会議員。北野織布合名会社代表社員。北野タオル工場工場主。日本浴巾取締役。岸和田タオル商会取締役。族籍は大阪府平民。 大阪府泉南郡麻生郷村大字海塚(現・貝塚市)出身。北野定治郎の長男。兵役満期後は一時祖業の農業を営む。農を廃して商業に転じ、親族関係を有する岡田伊平商店に入り、木綿仲買業に3年従事する。 独立し綿布製織を創める。父が蕩尽した家産は回復し、以前より倍の産を築く。1920年、兼松商店の浴巾製織工場が海塚に建設されると、清治はこれに賛与し自家営業を廃して同会社に投資し、役員選挙の結果、常務取締役の重任に選ばれ、就任する。
右近 福次郎(うこん ふくじろう、1883年〈明治16年〉1… 右近 福次郎(うこん ふくじろう、1883年〈明治16年〉10月4日 - 没年不明)は、日本の実業家、資産家。族籍は福井県平民。 福井県・右近権左衛門の男。右近和作の養弟。1901年、大阪府立北野中学校卒業。慶應義塾に学ぶ(1927年に特選)。1918年、分家する。 日本海上保険常務、同専務取締役、朝鮮電気社長、右近商事、元山水力電気、南朝鮮水力電気各取締役、日海興業、大阪酸水素、和歌山紡績各監査役等をつとめる。 実業界に入り日本海上保険、朝鮮電気、元山水力電気等の重役だった。兵庫県在籍で、住所は神戸葺合町、武庫郡住吉村室ノ内(現・神戸市東灘区住吉本町)。
松尾 四郎(まつお しろう、1883年(明治16年)5月12… 松尾 四郎(まつお しろう、1883年(明治16年)5月12日 - 1958年(昭和33年)7月17日)は、明治末から昭和前期の政治家、実業家。衆議院議員(5期)、奈良県宇陀郡松山町長(3期)、同郡大宇陀町長(1期)。 奈良県宇陀郡松山上中町(松山町大字上中、大宇陀町を経て現宇陀市大宇陀上中)で、林業・松尾徳三郎の二男として生まれた。1903年(明治36年)大阪府立北野中学校(現大阪府立北野高等学校)を卒業し、大和銀行(現南都銀行)に入行した。1909年(明治42年)奈良水力電気の創立に参画した。1911年(明治44年)9月、家督を相続した。奈良県農会議員、宇陀郡農会長、同教育会長に就任。実業界では、大和銀行監査役、大和電気専務取締役、大正水力電気取締役、宇治川電気取締役、三芳索道取締役、信貴生駒電気鉄道(のち信貴生駒電鉄)取締役、奈良県農工銀行取締役、南都銀行取締役、大和貯蓄銀行取締役、吉野銀行監査役、奈良信託監査役、新日本工業取締役、松尾合名会社代表社員などを務めた。
岡田 伊平(おかだ いへい、1883年〈明治16年〉5月1日… 岡田 伊平(おかだ いへい、1883年〈明治16年〉5月1日 - 没年不明)は、日本の商人(綿布商)、実業家。泉州瓦斯社長。岸和田呉服、岸和田タオル商会、寺田銀行、和泉織物、東洋製鋼各取締役。マンジ堂製菓監査役。岸和田本町郵便局長。旧姓は北野。族籍は大阪府平民。 大阪府泉南郡麻生郷村大字海塚(現・貝塚市)出身。北野弥之助の弟。岡田伊平の養子となる。1905年、家督を相続し、旧名泰一を改める。父業を継ぎ綿布商を営む。傍ら会社の重役である。 住所は岸和田市本町。 岡田家は古くより泉州岸和田に定住し、代々八百屋を渡世としていたが、先代伊平に至り綿布商に転じた。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
吉岡 重三郎(よしおか じゅうさぶろう、1883年3月10日… 吉岡 重三郎(よしおか じゅうさぶろう、1883年3月10日 - 1974年3月22日)は、大阪府大阪市出身の実業家。東京テアトル株式会社創業者。 1883年(明治16年)3月10日、大阪府大阪市の吉岡勘三郎の三男として生まれた。大阪高等商業学校(後の旧制大阪商科大学、大阪市立大学の母体の一つ)在学中は野球部捕手として活躍し、1903年(明治36年)に大阪高等商業学校を卒業した。1909年(明治42年)に箕面有馬電気軌道(阪急電鉄の前身)に入社して営業を担当。同時期に入社した人物には佐藤博夫がいる。1915年(大正4年)には同社が建設した豊中球場の活用策として、全国中等学校優勝野球大会(現・全国高等学校野球選手権大会)を発案して大阪朝日新聞の(当時社会部長)長谷川如是閑らと交渉し開催を実現させた。
上野 精一(うえの せいいち、1882年(明治15年)10月… 上野 精一(うえの せいいち、1882年(明治15年)10月28日 - 1970年(昭和45年)4月19日)は、日本の新聞経営者。朝日新聞社社主。 1882年、朝日新聞社社主・上野理一の長男として大阪市東区平野町に生まれる。北野中学校、第三高等学校を経て、東京帝国大学法科大学卒。大学院在籍のまま日本勧業銀行に入行するが、1910年に朝日新聞社に入社。営業部長、副社長を歴任。妻は九鬼隆義の娘の梅子(琴の奏者として知られる。戒名は慈徳院殿仁讓琴室梅箏大姉) 村山龍平社長のもとに専務取締役、取締役会長を経て1933年に社長就任。廃止されていた主筆制を復活させる。1946年、全国中等学校野球連盟(現日本高等学校野球連盟(高野連))設立、初代会長に就任。
片岡 直方(かたおか なおまさ、1882年(明治15年)9月… 片岡 直方(かたおか なおまさ、1882年(明治15年)9月26日 - 1949年(昭和24年)3月21日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。貴族院勅選議員。 東京府神田駿河台(現:東京都千代田区)で海軍主計官・片岡直輝の長男として生まれる。1893年(明治26年)父の大阪府書記官就任に伴い大阪に移住。大阪府第一中学校、第七高等学校造士館を卒業。東京帝国大学法科大学に入学したが、京都帝国大学法科大学に転じ、1910年(明治43年)7月、同大学を卒業した。 卒業後、父が役員を務めていた阪堺電気軌道に入社し、一社員として現場での働きを経験して庶務課長に昇進。3年ほど務め、今後の経営者としての働きのため金融の経験が不可欠と考え、近江銀行に転じた。
黒田 慶太郎(くろだ けいたろう、1882年〈明治15年〉2… 黒田 慶太郎(くろだ けいたろう、1882年〈明治15年〉2月 - 1951年〈昭和26年〉10月5日 )は、日本の実業家。中国にあった日系紡績会社の上海紡織代表取締役会長として戦前の上海に暮らした。孫は明仁上皇の女婿・黒田慶樹。 大阪府堺市出身。黒田吉三郎の長男。 1904年に東京高等商業学校(現・一橋大学)を卒業した。卒業後は三井物産会社ロンドン支店で約9年勤務し、1912年に東京本社へ異動となった。1913年、三井物産会社の傘下にあった上海紡織に入社し、1926年に代表取締役に就任し、のちに代表取締役会長に就任した。 終戦と同時に上海紡織は閉鎖され、黒田一家は日本へ引き揚げた。 黒田について『第五版 財界人物選集』(1939年、560頁)には、「在華紡織界の指導的人材として知らる」とある。
権野 健三(ごんの けんぞう、1881年(明治14年)4月 … 権野 健三(ごんの けんぞう、1881年(明治14年)4月 - 1959年(昭和34年)6月28日)は、日本の実業家。東洋綿花(現・豊田通商株式会社)代表取締役会長を務めた。 大阪生まれ。茨木中学校(現大阪府立茨木高等学校)卒業後、三井物産で綿花を取り扱い、1920年に三井物産綿花部が東洋綿花として独立すると、同社取締役に就任。上海紡織会長を経て、1936年から東洋綿花会長を務めた。豊田利三郎と豊田喜一郎、藤野勝太郎が保有していた豊田紡織株を東洋棉花が取得したことにともない、1937年豊田紡織の取締役に就任。1943年トヨタ自動車工業取締役。1959年藍綬褒章受章。同年死去。趣味は狩猟、囲碁、陶磁器で、酒は飲まなかった。
川喜田 半泥子(かわきた はんでいし、1878年(明治11年… 川喜田 半泥子(かわきた はんでいし、1878年(明治11年)11月6日 - 1963年(昭和38年)10月26日)は、日本の陶芸家・実業家・政治家。川喜田久太夫16代目。「東の魯山人、西の半泥子」、「昭和の光悦」などと称される。本名は久太夫政令(きゅうだゆうまさのり)、幼名は「善太郎」。号は「半泥子」の他に、「無茶法師」「其飯(そのまま)」等。実業家としては、河芸銀行、一志銀行、三重共同貯蓄銀行、百五銀行各頭取等を務めた。 大阪市東区本町で生まれ、津市の川喜田家の本宅で育つ。15代続く伊勢の豪商の家に生まれる。裕福な家庭で育ったが、祖父や父は半泥子の生後まもなく他界し、1歳で川喜田家16代当主となり、久太夫(政令)を襲名。
三島 海雲(みしま かいうん、1878年〈明治11年〉7月2… 三島 海雲(みしま かいうん、1878年〈明治11年〉7月2日 - 1974年〈昭和49年〉12月28日)は、明治・大正・昭和時代の日本の実業家。特に「カルピス」生みの親、カルピス株式会社の創業者として著名。
廣海 惣太郎(ひろみ そうたろう、前名・惣十郎、1878年〈… 廣海 惣太郎(ひろみ そうたろう、前名・惣十郎、1878年〈明治11年〉4月29日 - 没年不明)は、日本の商人(肥料商)、実業家。阪南銀行頭取。岸和田煉瓦綿業社長。泉醤油、本辰酒造各取締役。貝塚織物相談役。泉醤油監査役。族籍は大阪府平民。 大阪府泉南郡貝塚町(現・貝塚市)、先代廣海惣太郎(後に廣海惣爺と改名)の長男。1901年、家督を相続した。同志と図り、貝塚銀行を創立し、次いで頭取となり、1940年、合併により阪南銀行頭取に挙げられた。諸会社の重役を兼ねた。 辰馬半右衛門の従兄である。人柄は『泉州商工便覧』で「品性高潔温厚玉の如き人」と評される。趣味は囲碁、盆栽、能楽、茶道。宗教は真宗。住所は大阪府泉南郡貝塚町西(現・貝塚市西町)。
川崎 佐治右衛門(かわさき さじえもん、1874年〈明治7年… 川崎 佐治右衛門(かわさき さじえもん、1874年〈明治7年〉11月6日 - 没年不明)は、日本の商人(肥料商)、資産家、醸造家、実業家。川崎肥料社長。和泉商店代表。泉醤油取締役。和泉洋反物監査役。族籍は大阪府平民。 大阪府泉南郡岸和田町北町(現・岸和田市)の人。川崎佐治郎の長男。1882年、家督を相続する。醤油醸造業を営む。諸会社の重役である。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
上畠 益三郎(うえはた ますさぶろう、1873年(明治6年)… 上畠 益三郎(うえはた ますさぶろう、1873年(明治6年)1月7日 - 1938年(昭和13年)1月25日)は、日本の政治家、法律家、実業家。衆議院議員、弁護士、大阪株式取引所理事長、日本信託銀行取締役、法政大学監事を務めた。 大阪市生まれ。上畠又兵衛の二男として生まれた。 1891年(明治24年)に和仏法律学校(現法政大学)邦語法律科を卒業。その後、判事検事登用試験に合格し、徳島地方裁判所検事、大阪地方裁判所検事を経て弁護士になる。1920年(大正9年)に第14回衆議院議員総選挙に大阪府第2区から無所属で出馬し当選。当選後は庚申倶楽部に所属した。その後、大阪株式取引所理事長、日本信託銀行取締役に就任。
長尾 良吉(ながお りょうきち、1870年11月19日(明治… 長尾 良吉(ながお りょうきち、1870年11月19日(明治3年10月26日)- 1937年(昭和12年)1月22日)は、日本の経営者。鐘淵紡績社長を務めた。 兵庫県出身。1885年に府立大阪中学校(現大阪府立北野高等学校)初等中等科を卒業。1891年に高等商業学校(現一橋大学)本科を卒業。県立神戸商業学校教諭を経て、1895年に同校長事務取扱となる。 内外綿神戸出張所長、孟買出張所主任/副支配人を経て、1900年に鐘淵紡績に入社。1916年取締役。1922年には平生釟三郎の甲南高等学校(現甲南大学)設立を支援。1925年常務取締役。1928年副社長。1930年に社長に就任。 1933年川崎造船所取締役、本山村会議員。
種子島 源兵衞(たねがしま げんべえ、旧姓・川崎、旧名・豊治… 種子島 源兵衞(たねがしま げんべえ、旧姓・川崎、旧名・豊治郎、1869年4月22日〈明治2年3月11日〉 - 没年不明)は、日本の醸造家、実業家。泉醤油社長。族籍は大阪府平民。 大阪府岸和田市、平民・川崎潮平の長男。須藤与惣に就いて漢学を修める。1878年9月に先代源一の養子となり、1880年に家督を相続、1893年9月に旧名・豊治郎を改める。 身を実業界に投じ、1912年に有志と謀り醤油醸造業を開始し、泉醤油株式会社を起こし、推されて社長となり傍ら貝塚織物、川崎肥料の監査役を兼ねる。東洋商工、貝塚紡績各取締役をつとめる。 貝塚実業界の第一人者であった。趣味は読書、囲碁、抹茶、謡曲、旅行、漢詩。
河盛 又三郎(かわもり またさぶろう、1867年11月30日… 河盛 又三郎(かわもり またさぶろう、1867年11月30日〈慶應3年11月5日〉 - 1941年〈昭和16年〉11月)は、日本の醸造家、政治家、資産家、実業家。河又醤油社長。族籍は大阪府平民。 和泉国堺(現・大阪府堺市)出身。三代目・河内屋又平の末子として誕生。1883年、家督を相続する。醤油醸造業を営み、河又醤油社長である。 日本醸造協会監事、堺商工会議所顧問を兼ね、泉醤油相談役に推され、堺商工会議所会頭、堺市会議員に選ばれ、大阪府多額納税者に列する。 はやくから醸造工程の機械化にとりくむ。1913年、緑綬褒章を下賜される。趣味は書画。宗教は仏教。住所は大阪府堺市新在家町。 河盛又三郎の遠祖は、豊臣家の家臣で米田藤内(こめだとうない)といったが1615年、大坂夏の陣に敗れて豊臣家が滅亡すると大和国宇智郡三在村(現・奈良県五條市三在町)へ落ちて、ここに住みつき、郷士となって農業に従事した。
西田 為之(爲之、にしだ ためゆき、1866年12月27日(… 西田 為之(爲之、にしだ ためゆき、1866年12月27日(慶応2年11月21日)- 1925年(大正14年)7月24日)は、明治から大正期の教育者、実業家、政治家。衆議院議員、大阪府三島郡玉櫛村長。 摂津国島下郡内瀬村(大阪府島下郡玉櫛村大字内瀬、三島郡玉櫛村大字内瀬を経て現茨木市)で、西田為三郎の息子として生まれる。1888年(明治21年)7月、大阪府師範学校を卒業した。 大阪市内の東区高等小学校の校長代(1893年)、首座教員(1894年)を務め、1895年(明治28年)10月から1906年(明治39年)まで船場尋常小学校で訓導・校長に在任した。 その後、帰郷して父の跡を継ぎ、玉櫛村会議員に選出された。
初代 田村 駒治郎(たむら こまじろう、1866年7月29日… 初代 田村 駒治郎(たむら こまじろう、1866年7月29日(慶応2年6月18日) - 1931年(昭和6年)3月31日)は、明治から昭和時代戦前の実業家。政治家。貴族院多額納税者議員。田村駒創業者。 摂津国池田村槻木(現・池田市槻木町)の酒造業・笹部九兵衞(神田屋)の二男として生まれたが、家業はすでに傾いており、9歳で父親を亡くし、13歳で西田商店(現・呉春酒造)に奉公、徴兵逃れのため1883年に親戚の田村キクの養嫡子となった。翌年、モスリン友禅の開発に成功した大阪の洋反物商・岡島千代造の店員となり、鮮明な染色法等を完成、1891年に岡島合名会社の共同出資者となり、1894年に洋反物卸商として独立、実弟の平松徳三郎(伊丹平松家養子)とともに「神田屋田村駒商店」を創業。
里井 圓治郎(さとい えんじろう、1865年7月28日〈慶応… 里井 圓治郎(さとい えんじろう、1865年7月28日〈慶応元年6月6日〉 - 1937年〈昭和12年〉6月21日)は、明治-昭和期の日本の実業家。 国内ではじめて近代的なタオルの織機を開発し生産を始めた人物。 1865年(慶応元年)に和泉国日根郡佐野村(現大阪府泉佐野市)で生まれる。1885年〈明治18年〉、大阪で舶来雑貨商を営む新井末吉の奨めによりタオル製織の研究を始める。1887年(明治20年)、タオルの特徴である輪奈をつくる打出機を開発したことにより、国内で初めてのタオル製織に成功する。以後同地では日本のタオル産業発祥地として発展していき同地で生産されたタオルは「泉州タオル」と呼ばれている。
秋岡 義一(あきおか ぎいち、1863年6月26日〈文久3年… 秋岡 義一(あきおか ぎいち、1863年6月26日〈文久3年5月11日〉- 1925年〈大正14年〉3月31日)は、明治から大正期の日本の地主・農業経営者・実業家・政治家。衆議院議員。妻のタニは、川端康成の母方の叔母。 摂津国東成郡蒲生村(大阪府東成郡鯰江村を経て現大阪市)で、大地主、豪農・秋岡伊兵衛の長男として生まれる。1884年(明治17年)4月、家督を相続し農業を営む。 実業界では、朝鮮綿業監査役、京阪電気鉄道監査役、京阪土地建物監査役、大阪農工銀行頭取、利別農場業務執行社員などを務めた。 1894年(明治27年)3月の第3回衆議院議員総選挙で大阪府第4区から無所属で出馬して初当選。その後、第11回総選挙まで再選され、衆議院議員に通算8期在任した。
清瀧 徳兵衛(きよたき とくべえ、1860年4月13日〈万延… 清瀧 徳兵衛(きよたき とくべえ、1860年4月13日〈万延元年3月23日〉 - 没年不明)は、日本の商人(青物商、乾物砂糖商)、資産家、実業家。池田実業銀行頭取。北摂信託副社長。摂池銀行、池田実業銀行、池田製氷各取締役。族籍は大阪府平民。 大阪府平民・清瀧徳兵衛の長男。1883年、家督を相続する。青物商や、乾物砂糖商を営み、傍ら池田実業銀行頭取のほか会社重役であった。大阪府在籍で、住所は豊能郡池田町(現池田市)。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
大西 五一郎(おおにし ごいちろう、1858年9月14日(安… 大西 五一郎(おおにし ごいちろう、1858年9月14日(安政5年8月8日)- 1917年(大正6年)2月25日)は、明治から大正前期の実業家、政治家。衆議院議員、大阪府堺市長。 和泉国大鳥郡堺甲斐町西四丁(現堺市堺区)で、代々具足屋の屋号で両替商を営んだ大西家当主・先代大西五一郎の長男として生まれる。大和国の儒学者谷三山に漢籍を学んだ。 1881年(明治14年)大西銀行を設立して頭取に就任し終生在任した。1886年(明治19年)3月、家督を相続し五一郎を襲名した。堺商業会議所副会頭、大阪電機製造取締役、大阪電気信託取締役、市立堺商品陳列所長、第5回内国勧業博覧会評議員などを務めた。 1879年(明治12)堺区学区取締に就任。
寺田 利吉(てらだ りきち、1857年10月20日〈安政4年… 寺田 利吉(てらだ りきち、1857年10月20日〈安政4年9月3日〉 - 1918年〈大正7年〉12月10日)は、日本の実業家。寺田銀行頭取。寺田紡績工廠社長。高野登山鉄道、岸和田紡績、和泉水力電気各取締役。族籍は大阪府平民。 大阪府岸和田市、寺田甚与茂の異父弟。1880年、分家して一家を創立する。住所は大阪府泉南郡岸和田浜町(現・岸和田市) この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。