住田 正二(すみた しょうじ、1922年(大正11年)5月2… 住田 正二(すみた しょうじ、1922年(大正11年)5月26日 - 2017年(平成29年)12月20日)は、日本の官僚、実業家、運輸事務次官やJR東日本社長を務めた。 東京都副知事などを務めた住田正一の次男として生まれる。兄は住田俊一。兵庫県神戸市生まれだが、父の正一が呉造船所社長だった事から、本籍は居住経験のない広島県呉市で広島県人会にも登録されていた。またワイズメン・グループの大来佐武郎のあとを継いで、1979年ワイズメンに選ばれる。国際情勢研究会会長、国際戦略研究所副会長、アジア調査会理事などを歴任。1983年勲二等旭日重光章。 小学校から旧制高校まで成蹊で過ごし、同級生には緒方四十郎や堀江鉄弥がいた。
松田 耕平(まつだ こうへい、1922年1月28日 - 20… 松田 耕平(まつだ こうへい、1922年1月28日 - 2002年7月10日)は、マツダ(東洋工業)の創業者一族であり、同社元社長、プロ野球・広島東洋カープ元オーナー。広島県広島市上幟町(現・中区)出身。京北中学校 - 旧制修道中学校 - 慶應義塾大学卒業。
藤田 正明(ふじた まさあき、1922年(大正11年)1月3… 藤田 正明(ふじた まさあき、1922年(大正11年)1月3日 - 1996年(平成8年)5月27日)は日本の実業家、政治家。広島地方区選出の自由民主党参議院議員。第16代参議院議長(在任期間・1986年7月22日 - 1988年9月30日)、総理府総務長官、沖縄開発庁長官、自由民主党参議院議員会長を歴任。
青山 行雄(あおやま ゆきお、1921年8月1日 - 200… 青山 行雄(あおやま ゆきお、1921年8月1日 - 2002年6月12日)は、日本の実業家。讀賣テレビ放送(よみうりテレビ、読売テレビ)社長・名誉会長、日本民間放送連盟副会長、関西経済連合会理事、関西経営者協会理事、近畿警察官友の会会長、日本室内楽振興財団理事長。広島県府中市出身。
久保谷 唯三(くぼたに ただぞう、1921年1月25日 - … 久保谷 唯三(くぼたに ただぞう、1921年1月25日 - 没年不明)は、日本の実業家、政治家、馬主。 1921年1月25日、広島県竹原町(現竹原市竹原町)で煙草、塩の販売業を営む家庭に生まれる。学校を卒業後、一度大阪府に出たのち長崎県へ向かい、三菱長崎造船所に入社した。1941年には現役兵として下関第72部隊に入隊したが、終戦に伴い除隊となると故郷の竹原に戻った。1946年5月には25歳ながら竹原町議会議員選挙に立候補し2位当選を果たすと、町議会内で起こった不正事件にかかるリコール問題でリコール派の筆頭として活動し議会の解散に持ち込む。翌1947年にトップで再選を果たすと同議会副議長に就任した。
坂部 武夫(さかべ たけお、1921年(大正10年)1月15… 坂部 武夫(さかべ たけお、1921年(大正10年)1月15日 - 1987年(昭和62年)1月26日)は、日本の実業家。旭硝子(現AGC)社長や、同社会長を務めた。 広島県福山市出身。旧制広島高校を経て1943年東京帝国大学法学部政治学科卒業、旭硝子入社。1975年取締役総務部長に昇格。1981年から社長を務めた。社長在任中に「21世紀に繁栄する企業作り」を標榜し、新製品、新規事業への投資を中心とする拡大路線を指揮。エレクトロニクス、エンジニアリングセラミックス、バイオテクノロジー分野などに積極展開した。健康悪化により1987年1月には会長に退いたが、まもなく肺炎のため死去した。享年66。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
小泉 重則(こいずみ しげのり、1920年12月10日- 2… 小泉 重則(こいずみ しげのり、1920年12月10日- 2003年4月23日 )は、日本の経営者。広島ホームテレビ社長を務めた。 広島県広島市出身。1942年に法政大学予科を卒業し、1943年に芸備銀行(現在の広島銀行)に入社した。1971年に取締役に就任し、1981年に常務、1984年に専務を経て、1985年に広島ホームテレビ社長に就任。1989年に名誉会長に就任し、1990年から相談役を務めた。 2003年4月23日、心不全のために死去。82歳没。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
稲葉 侃爾(いなば かんじ、1920年 <大正9年> 10月… 稲葉 侃爾(いなば かんじ、1920年 <大正9年> 10月31日 - 2017年 <平成29年> 1月14日 )は、日本の経営者。中国銀行頭取を務めた。位階は従四位。 岡山県出身。福山誠之館中学(現:広島県立福山誠之館高等学校)、旧制姫路高等学校を経て、1946年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年に中国銀行に入行した。1970年9月に取締役に就任し、1975年12月に常務、1978年4月に専務を経て、1985年6月に副頭取に就任し、1987年6月には頭取に昇格した。1997年6月には会長も兼任し、1999年4月には会長に専任。2000年3月から6月までには再び頭取を兼任し、2001年6月に相談役を経て、2005年4月から参与を務めた。
藤田 一暁(ふじた かずあき、1920年〈大正9年〉4月1日… 藤田 一暁(ふじた かずあき、1920年〈大正9年〉4月1日 - 1991年〈平成3年〉5月16日)は、日本の実業家。フジタ社長・会長。フジタドルフィンクラブ設立者。 広島県広島市出身。広島済美小学校(広島偕行社付属済美学校)、旧制広島一中を経て、1943年に日本大学旧工学部建築学科卒業。藤田組に入り、1949年に監査役、1951年に取締役、1957年に副社長を経て、1962年に社長に就任。 1945年(昭和20年)8月6日の広島市への原子爆弾投下により、東白島町の藤田家はぺしゃんこにつぶれた。自宅にいた一暁は気を失ったが、何秒後かに気がつき、ケガもないため自力で這い出した。家の下にある両親とお手伝いさんを助けようとしたが、一人ではどうにもならず、通りがかりの兵隊の助けを借りて救出した。
桑田 琢磨(くわた たくま、1919年12月19日 - 20… 桑田 琢磨(くわた たくま、1919年12月19日 - 2011年4月22日)は、日本の経営者。時事通信社代表取締役を務めた。 広島県福山市出身。1944年に中央大学を卒業し、同盟通信社での勤務を経て、1945年に時事通信社に入社。1974年に取締役に就任し、1978年から1980年までに代表取締役を務めた。 2011年4月22日肺炎のために死去。91歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
中川 順(なかがわ すなお、1919年9月29日 - 201… 中川 順(なかがわ すなお、1919年9月29日 - 2010年5月22日)は、日本の実業家。テレビ東京(TX)元社長。広島県出身。
井関 章(いせき あきら、1919年〈大正8年〉9月16日 … 井関 章(いせき あきら、1919年〈大正8年〉9月16日 - 2011年〈平成23年〉1月7日)は、日本の実業家、1級建築士。フジタ工業(現在のフジタ)副社長、フジタ顧問を務めた。 広島県広島市出身。1936年、広島県立広島工業学校を卒業し、同年に当時の藤田組に入り広島支店次長を経て1967年に取締役広島支店長に就任する。 フジタ工業常務、同副社長、廿日市観光開発社長を務めた。2011年1月7日、多臓器不全のため死去した。 趣味はゴルフ、登山、園芸。住所は広島県広島市東区牛田本町1丁目、廿日市市阿品4丁目。
葛原 繁(くずはら しげる、1919年(大正8年)8月25日… 葛原 繁(くずはら しげる、1919年(大正8年)8月25日 - 1993年(平成5年)1月7日)は、日本の歌人・実業家。 広島県呉市出身。東京工業大学電気工学科卒。1938年(昭和13年)、『多磨』に入会し、北原白秋に師事。1950年(昭和25年)、岡部桂一郎、金子一秋、三木あや、山崎一郎らとともに「泥の会」の活動を開始。翌年、伊藤麟、片山貞美、草柳繁一、杉本二木雄、深作光貞、森比左志、山崎方代らが加わる。1953年(昭和28年)、宮柊二の『コスモス』創刊に参加、のち編集人。1981年(昭和56年)、歌集『玄』で第32回読売文学賞受賞。日新運輸倉庫(現・日新)取締役を務めた。
山本 朗(やまもと あきら、1919年〈大正8年〉8月20日… 山本 朗(やまもと あきら、1919年〈大正8年〉8月20日 - 1998年〈平成10年〉1月11日)は、日本の新聞記者、実業家。中国新聞社第4代社長。 広島県広島市出身。中国新聞創業家に生まれる。子供時代から優等生で広島高等師範学校附属小学校を5年で修了し、広島県立広島第一中学校に入学。旧制中学を4年修了で旧制広島高等学校に進学。自転車通学で3年間無遅刻、無欠席を続け卒業時には皆勤賞を受けた。同期に永野厳雄(広島県知事)、1年後輩に松谷健一郎(中国電力会長)などがいる。 旧制高校卒業後、東京帝国大学経済学部に進学。1941年4月、実父の山本實一が社長を務める中国新聞社に入社。県政記者などを担当していたが、1944年(昭和19年)3月召集令状が来て呉海兵団へ入隊。
久保 道正(くぼ みちまさ、1918年〈大正7年〉3月16日… 久保 道正(くぼ みちまさ、1918年〈大正7年〉3月16日 - 1992年〈平成4年〉6月28日)は、広島県広島市出身の実業家。第一産業(後のダイイチ/デオデオ/エディオンWEST、現エディオン WESTカンパニー)創業者。現エディオン社長、サンフレッチェ広島会長・久保允誉は長男、上新電機取締役を経てエディオン専務取締役の浄弘晴義は次男。 広島県広島市大手町(現在の同市中区大手町)生まれ。久保家は代々江州屋の屋号で刀剣商を営んでいた。寺下辰夫の小説『サンパギタ咲く戦線で』に太平洋戦争中、陸軍報道班員として広島宇品港からフィリピンに向かう寺下、尾崎士郎、石坂洋次郎らが、その前日、今日出海の短刀を軍刀に拵えるため、ふと久保刀剣店に立ち寄り、刀が出来る間、店の二階で御馳走に与り、訣れの酒宴を行なったエピソードが書かれている。
松谷 健一郎(まつたに けんいちろう、1918年〈大正7年〉… 松谷 健一郎(まつたに けんいちろう、1918年〈大正7年〉1月1日 - 2002年〈平成14年〉10月23日)は、日本の実業家。元中国電力代表取締役社長、元中国経済連合会会長。 広島市生まれ。旧制広島高等師範学校附属中学、旧制広島高等学校を経て、1941年(昭和16年)京都帝国大学工学部を卒業し、海軍を経て、中国配電入社。 1975年(昭和50年)中国電力株式会社取締役総合企画室第一企画室長、1977年(昭和52年)中国電力株式会社常務取締役、1979年(昭和54年)中国電力株式会社取締役副社長、1981年(昭和56年)中国電力株式会社代表取締役社長、1987年(昭和62年)中国経済連合会会長、1989年(平成元年)中国電力株式会社代表取締役会長、1995年(平成7年)中国電力株式会社相談役。
山内 敕靖(やまうち ただやす、1918年〈大正7年〉 - … 山内 敕靖(やまうち ただやす、1918年〈大正7年〉 - 1983年〈昭和58年〉8月28日)は、日本の実業家。元広島ガス社長、元広島商工会議所会頭。 広島市出身。広島県立広島第一中学校を経て旧制広島高等学校に入学。旧制高校では松谷健一郎元中国電力社長、山本朗元中国新聞社社長、永野厳雄元広島県知事らと同期で、友人だった。旧制高校では寮委員を務め留年したが、非常に人望があった。 旧制高校を卒業後は九州帝国大学工学部に進学、卒業後は住友金属工業に入社するも間もなく海軍に応召。終戦により復員するも、財閥解体により復職できず、四国ガスに勤務した後、1947年(昭和22年)、実父が重役をしていた広島ガスに入社。
岡野 良定(おかの よしさだ、1916年9月10日 - 20… 岡野 良定(おかの よしさだ、1916年9月10日 - 2008年1月30日)は、実業家、元三菱自動車工業会長。サッカー選手、サッカー指導者、三菱重工業サッカー部(現:浦和レッズ)創設者、初代監督。選手時代のポジションはフォワード。 広島県広島市白島(現:中区白島)出身。広島一中(現:広島県立国泰寺高校)、広島高等学校卒業。一中時代からサッカー一筋で一中の2つ上の先輩にのちに東洋工業サッカー部を創設する山崎芳樹がいる。広高時代、1938年の第14回全国高等学校ア式蹴球大会では主将・フォワードとしてチームを優勝に導く。京都帝国大学経済学部進学後も蹴球部で活躍、1941年卒業。同年、三菱重工業入社。
奥原 義人(おくはら よしと、1916年〈大正5年〉9月9日… 奥原 義人(おくはら よしと、1916年〈大正5年〉9月9日 - 2001年〈平成13年〉11月19日)は、日本の実業家、政治家。元広島県呉市市長。呉信用金庫理事長。寿工業相談役。 広島県呉市出身。1931年、阿賀高小卒、同年に広島海軍第十一航空廠に勤務。1935年、東亜航空工業に転じ、のち取締役。 1945年、寿組社長。1946年、寿農機具製作所社長。1947年、奥原商店取締役。寿工業取締役、常務顧問をつとめた。 1951年、呉市議会議員に当選。1952年、同市議会議長。1961年11月に呉市長に当選。1978年、呉信用金庫入庫、同理事長。 趣味は囲碁、読書、ゴルフ。住所は呉市西中央5丁目。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
沢原 梧郎(澤原 梧郎、さわはら ごろう、1916年〈大正5… 沢原 梧郎(澤原 梧郎、さわはら ごろう、1916年〈大正5年〉3月14日 - 没年不明)は、日本の実業家、広島県多額納税者。辰栄工業会長。 広島県呉市出身。沢原亮吉の長男。沢原俊雄の孫。1941年、慶應義塾大学経済学部経済学科卒業。1948年3月より1952年3月まで呉市公安委員並びに委員長を務める。1963年7月より1978年7月まで広島県公安委員並びに委員長を務める。呉三田会会長を務める。 趣味は洋楽。宗教は真宗。住所は広島県呉市長ノ木町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
山﨑 芳樹(やまさき よしき、1914年(大正3年)4月8日… 山﨑 芳樹(やまさき よしき、1914年(大正3年)4月8日 - 2014年(平成26年)3月10日)は、広島県広島市出身の実業家。 マツダ5代目社長。元広島商工会議所会頭。元サッカー選手・東洋工業蹴球部(のちのマツダSC、現サンフレッチェ広島)創設者、初代監督。 広島県安芸郡仁保島村大河(現・広島市南区北大河町)生まれ。生家は広島の旧家、父も技術者。 広島高等師範学校附属小学校(現広島大学附属小学校)5年生からサッカーを始め、広島県立第一中学校(現広島県立広島国泰寺高等学校)でもサッカー部に所属する。二浪した後、広島高等工業学校機械工学科(現広島大学工学部)に入学。 1938年(昭和13年)、東洋工業へ入社、以降生産技術畑を歩む。
小林 政夫(こばやし まさお、1914年 <大正3年> 2月… 小林 政夫(こばやし まさお、1914年 <大正3年> 2月16日 - 2000年 <平成12年> 9月15日)は、日本の実業家、政治家。日東製網社長、参議院議員(1期)、福山商工会議所会頭などを歴任した。位階は従四位。孫に衆議院議員の小林史明がいる。 広島県福山町(現・福山市西町)に生まれる。1931年(昭和6年)、広島県立福山誠之館中学校(現・広島県立福山誠之館高等学校)卒業。1938年(昭和13年)に東京商科大学(現・一橋大学)を卒業。 三洋証券社長の土屋陽三郎、新日本証券社長の鷹尾寛、東京銀行頭取の横山宗一、鹿島建設副会長の原明太郎、マツダ会長の岩沢正二、丸井今井社長の今井道雄、三井不動産社長の坪井東、一橋大学学長の小泉明らとともに大学の同期会を結成。
奥原 次郎(おくはら じろう、1914年〈大正3年〉1月15… 奥原 次郎(おくはら じろう、1914年〈大正3年〉1月15日 - 2008年〈平成20年〉7月24日)は、日本の実業家。寿工業会長。呉商工会議所会頭。 広島県呉市出身。高小卒。1935年、広島県呉市阿賀町に奥原工作所を創設。1943年に奥原工作所を改組、東亜航空工業と改称。1952年、寿工業株式会社へ商号変更。東亜航空工業、呉繊維、寿工業各社長を務める。 1965年9月、トヨタカローラ山口取締役。1971年9月、サンデーサン(現・ジョリーパスタ)取締役。1974年8月、山口トヨペット取締役。1985年、郷原ゴルフ観光社長。黒瀬観光会長を務める。勲四等に叙せらる。トヨタオート広島代表取締役名誉会長となる。
松尾 孝(まつお たかし、1912年(明治45年)7月15日… 松尾 孝(まつお たかし、1912年(明治45年)7月15日 - 2003年(平成15年)10月28日)は、日本の実業家。カルビー創業者。広島県広島市出身。 カルビーの前身は1905年(明治38年)広島市宇品で創業した広島名産柿ようかん製造の松尾巡角堂である。ただ、松尾が幼少時代の家業は、米ぬかを中心とした穀粉製造販売を行っていた。幼少期は比較的不自由なく生活していた。太田川(旧太田川)で捕った小エビで母親が作ってくれたかき揚げが大好物で、これがのちにかっぱえびせんにつながっていく。 もち米の暴落で父が相場で失敗し、当時の金額で1万円の莫大な借金を抱えた。さらに1927年(昭和2年)広島第一中学校(現広島県立広島国泰寺高等学校)5年のとき、母が亡くなり、病弱で足も不自由な父と弟を養わなくてはならなくなり家業を始めた。
金田 邦夫(かねだ くにお、1911年(明治44年)12月1… 金田 邦夫(かねだ くにお、1911年(明治44年)12月15日 - 1962年(昭和37年)10月6日)は、日本の実業家、サンスターの創業者。広島県安芸郡坂町出身。 大阪に出て1932年、金田兄弟商會を設立し自転車や履物用ゴム糊の製造を開始。1941年、4社のゴム製造業者統合により帝國合同護謨工業が設立され、翌年社長に就任。太平洋戦争期の空襲で工場の大半を焼失したが戦後1946年、金田軽金属チューブ工業所(同年改組し金田金属工業)を設立し、焼け残ったゴム糊を金属チューブに充填する機械を活かし、金属チューブ容器の開発に成功。その後取引先であった星光社からの相談によりチューブに歯磨剤を充填し、金属チューブ入り練歯磨剤を開発し発売した。
永野 治(ながの おさむ、1911年(明治44年)10月9日… 永野 治(ながの おさむ、1911年(明治44年)10月9日 - 1998年(平成10年))は、日本の航空技術者、実業家。元海軍技術少佐、元石川島播磨重工業(IHI)副社長。国産のジェットエンジンを開発した技術者。
橋本 達吉(はしもと たつきち、1911年〈大正元年〉10月… 橋本 達吉(はしもと たつきち、1911年〈大正元年〉10月4日 - 没年不明)は、日本の実業家。 大阪電気軌道入社後、近鉄百貨店(近畿日本鉄道百貨店部)勤務を経て、京都近鉄百貨店(旧・丸物、現在の近鉄百貨店)で社長を務めた。 広島県尾道市出身。日本画家の橋本関雪と姻戚関係にあり、子供時代は画家になりたいと思っていた。しかし、関雪の一門であった叔父から「画家で飯は食えない」と言われたことから、グラフィックデザイナーに志望変更し、京都工業専門学校(現在の京都工芸繊維大学)図案課へ進学した。 尾道へ帰省の時は丸物本店で土産を買って帰っており、創業時の建物の北側に鉄筋コンクリート造の新館ができているのを目にしていた。
正坊地 隆美(しょうぼうじ たかみ、1910年12月9日 -… 正坊地 隆美(しょうぼうじ たかみ、1910年12月9日 - 2004年12月10日)は、日本の実業家。日本コロムビア元代表取締役社長。最大で64億円の累積赤字を出し、1970年前後に経営危機にあったレコード界の名門・日本コロムビアに日立製作所から送り込まれ、経営立て直しに成功させた。また日本レコード協会会長を二度にわたり務めた。 広島県高田郡白木町(現・広島市安佐北区)出身。白木小学校を経て、広島県立職工学校(広島県立広島工業高等学校)電気工学科を卒業後、日立製作所に入社。1960年代後半の日本コロムビアは、神崎丈二社長以下経営陣が内紛を繰り返し、バックアップしていた野村證券の奥村綱雄相談役(当時)と横田郁日本勧業銀行頭取(当時)は、たまりかねて日立製作所の駒井健一郎社長(当時)に駆け込み、1969年5月、日立製作所の西清専務が日本コロムビアに会長として送り込まれ、続いて1970年5月、正坊地が副社長として送り込まれた。
湧永 満之(わくなが まんじ、1910年9月10日 - 19… 湧永 満之(わくなが まんじ、1910年9月10日 - 1992年8月9日)は、実業家。 湧永製薬創業者。 広島県高田郡甲田町(現安芸高田市)出身。1929年、旧制崇徳中学(現崇徳高校)卒業。野村信託勤務後、共同で大阪に商社を設立、薬品担当の役員だった1950年代前半、人を介して紹介された元ベルリン大学教授・シュネル博士のニンニク研究のすすめを受け独立。1955年6月、湧永薬品を設立した。当初はシュネル博士の研究室で作った薬品を販売する会社であった。このため製品の遅れや営業の不慣れがあって経営は苦難があった。湧永は専門家でも研究者でもないが、こうした販売業と並行し素人の強みで体当たりでニンニク研究にも没頭。
鈴木 實(すずき みのる 1910年(明治43年)4月20日… 鈴木 實(すずき みのる 1910年(明治43年)4月20日- 2001年(平成13年)10月28日)は、東京麹町生まれの大日本帝国海軍の軍人、実業家。旧海軍時代の最終階級は海軍中佐。本籍は新潟県岩船郡村上本町。
進藤 貞和(しんどう さだかず、1910年3月4日 - 20… 進藤 貞和(しんどう さだかず、1910年3月4日 - 2002年2月22日)は、日本の実業家。三菱電機社長を歴任。広島県呉市生まれ、長崎県、高知県育ち。九州帝国大学工学部電気科卒。
入江 仁士(いりえ ひとし、1910年 <明治43年> 2月… 入江 仁士(いりえ ひとし、1910年 <明治43年> 2月26日 - 1973年 <昭和48年> 9月28日)は、日本の経営者。大阪建物(現在のダイビル)社長を務めた。 広島県広島市出身。1935年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年に大阪商船に入社。 1963年5月に取締役、1964年4月に大阪商船三井船舶常務、1965年5月に大阪建物常務を経て、1972年9月に社長に就任。 1973年9月28日、肝癌のために死去。63歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
佐竹 利彦(さたけ としひこ、1910年(明治43年) - … 佐竹 利彦(さたけ としひこ、1910年(明治43年) - 1998年(平成10年)7月24日)は、日本の技術者・実業家。広島県東広島市出身。 サタケ二代目社長。おいしくて光沢のある白米ができる精米機を発明し、精米理論を体系化した。またヤシ・ソテツ類植物の収集・分類において権威であった。東京大学で農学博士号を取得(近代精米技術に関する研究)、東京農業大学名誉博士(ヤシの研究)、広島大学名誉博士(近代精米およびヤシの研究)。 1910年(明治43年)、佐竹利市の長男として生まれる。旧制山陽中学校(現・山陽高等学校)で優秀な成績を収め、旧制広島高等工業学校(現・広島大学工学部)への推薦入学が決まっていた。
中野 重美(なかの しげみ、1909年(明治42年)10月5… 中野 重美(なかの しげみ、1909年(明治42年)10月5日 - 1991年(平成3年)8月9日)は、広島県広島市出身の実業家。中国電力副社長、中国電気工事(中電工)社長、広島商工会議所会頭などを務めた。
浦上 豊(うらかみ ゆたか、1909年7月20日 - 197… 浦上 豊(うらかみ ゆたか、1909年7月20日 - 1972年7月19日)は、日本の実業家。菱備製作所(現・リョービ)創業者。 広島県芦品郡岩谷村(現在の同県府中市目崎町)生まれ。肥料商の長男。旧制府中中学校(現・広島県立府中高等学校)を第1期生として卒業。同級に江草隆繁、岡崎平夫ら。東京株式取引所に就職し、夜学の日本大学専門部商業学科に通い1930年卒業。成瀬証券を経て東京で友人と工具やベルト販売の会社を設立。1943年設立された三菱電機福山工場(現・福山製作所)が航空機部品の協力企業を探していることを耳にして交渉の末、34歳で帰郷し、岩谷村に醤油蔵を改造したダイカスト工場建屋を完成させ、第1号製品を三菱電機に納入した。
吉原 貞敏(よしはら さだとし、1909年5月3日 - 19… 吉原 貞敏(よしはら さだとし、1909年5月3日 - 1995年9月17日)は、日本の実業家、馬主。広島県向島(現・尾道市)出身。東京鐵鋼創業者である。東京鐵鋼現社長で、馬主の吉原毎文は長男。 祖父は広島県向島の八幡神社の神官で、祖父まで137代を数える家系。父・吉原敏(1885-1962)が明治大学在学中から清浦奎吾に私淑し卒業後、清浦の秘書として仕えたあと、日本兵器製造の東京支社長などを経て、長男にあたる貞敏とともに1940年に大和製鉄を買収して同社を名称変更したものが東京鐵鋼の創業となる。貞敏は明治大学商学部を1932年に中退し、飛島組に入社。1937年に有明鉄工所、1938年に高級鋳鉄研究所を設立した後、高級鋳鉄の生産を目指して父とともに東京鐵鋼を創業。
辻 良雄(つじ よしお、1909年1月1日 - 1980年1… 辻 良雄(つじ よしお、1909年1月1日 - 1980年11月30日)は、日本の経営者。広島県広島市出身。鴻池運輸創業家に婿入りした辻卓史は子。 1934年に神戸商業大学(現神戸大学)を卒業。サンマス貿易での勤務を経て、1939年に日商に転じ、取締役、常務、専務を経て、1968年10月に日商岩井専務に就任し、1969年11月には社長に昇格。 1971年10月に藍綬褒章を受章。 1980年11月30日急性肝炎のために死去。71歳没。
清宮 博(せいみや ひろし、1908年8月6日 - 1976… 清宮 博(せいみや ひろし、1908年8月6日 - 1976年4月27日)は電気工学者、実業家。元富士通社長、会長。日本のコンピューターパイオニアの一人。旧姓根岸。 広島県広島市大手町(現在の同市中区)出身。広島高等師範学校附属中学校(現・広島大学附属高校)から第一高等学校をへて東京帝国大学電気工学科卒(1932年)。逓信省電気試験所第4部に入り、光通信、電子管(マグネトロン、速度変調管)などの研究を担当。1936年、関杜夫とともにグラスファイバーを光通信に使うアイデアを発明した。 終戦後の1947年12月23日、アメリカベル電話研究所でトランジスタが発明され、翌1948年6月30日公表された。
高橋 敏雄(たかはし としお、明治41年(1908年)1月1… 高橋 敏雄(たかはし としお、明治41年(1908年)1月13日 - 不明)は、広島県広島市出身の実業家・経営者である。萬国製針二代目社長・会長を歴任。父は萬国製針創業者の高橋誠太郎。 1908年1月13日に広島県広島市で生まれる。1926年に旧制崇徳中学校を卒業し、家業を継ぐべく萬国製針商会に入社する。1936年に同会代表者となる。1945年8月6日に原子爆弾の被害により、工場・設備の一切を失い、自宅も焼かれ、長男を始め近親者の10名が亡くなった。高橋自身、原爆を恨み、アメリカに対する憎悪の念を燃やしながら終戦を迎えたとされる。アメリカに対する憎悪は、やがてアメリカへの積極的な針の輸出という企業化精神へと転化されていった。
田部 文一郎(たなべ ぶんいちろう、1907年(明治40年)… 田部 文一郎(たなべ ぶんいちろう、1907年(明治40年)9月5日 - 2002年(平成14年)2月7日)は、日本の実業家。三菱商事社長・会長、日本商工会議所副会頭。 広島県広島市出身。名前は文一郎だが男女9人兄弟姉妹の四番目。一郎・二郎・三郎の繰り返しで文一郎となった。実家は中級の燃料商で、当時から広島ガスや三菱商事などとも石炭で取引があった。両親はサラリーマンが嫌いで息子はみな商売人となるよう教育した。父親はさほど仕事に熱心でなく、よく仕事を休んでいたという。広島市立本川小学校6年の頃から集金をやらされたが子供の集金に取引先はお金を払わず。子供ながら絶対商売人にはなりたくないと強く願い、他の男兄弟はみな商業学校に行った中で一人だけ広島県立一中(現・広島国泰寺高校)へ進学した。
八谷 泰造(やたがい たいぞう、1906年12月14日 - … 八谷 泰造(やたがい たいぞう、1906年12月14日 - 1970年3月23日)は、日本の技術者、実業家。日本触媒化学工業(現・日本触媒)第2代社長(実質の創業者)。高杉良の経済小説『炎の経営者』の主人公として実名で登場する日本の石油化学工業のパイオニア。 広島県比婆郡山内東村(現・庄原市)出身。三次中学(現三次高等学校)卒業。代用教員を経験した後、大阪高等工業学校を経て一旦就職し、働きながら苦学して1932年、大阪帝国大学工学部応用化学科を卒業。由良染料を経て。1935年にヲサメ硫酸工業事務所へ入社。研究責任者としてバナジウム触媒の開発を行う。 1941年にヲサメ硫酸工業事務所から、大阪桃谷(現在の大阪市生野区桃谷)の長屋の2階にヲサメ合成化學工業株式會社が設立。
松井 義男(まつい よしお、1906年4月1日 - 1983… 松井 義男(まつい よしお、1906年4月1日 - 1983年2月26日)は、広島県呉市出身の技術者、実業家。ダイワ精工創業者。 1923年山陽中学校卒。広島でカメラ店を経営するが上京し1953年、カメラの距離計の製造を主とする「松井製作所」を創業。1955年からは釣り具のリールの製造を開始、釣り用品の需要増大に伴い、リールを本格的に生産するため1958年、東京都中野区に資本金200万円で「大和精工」を設立した。さらにスポーツ用品の製造も開始。1960年、リール生産工場を東京都東久留米市前沢に新設、1962年本社もここへ移転した。 1964年、グラスロッド(ガラス繊維強化プラスチック製の釣り竿)の生産工場を新設、1965年にはオリジナル仕様のダイワブランド・リールを開発、販売を開始した。
渋谷 昇(澁谷昇、しぶや のぼる、1904年〈明治37年〉9… 渋谷 昇(澁谷昇、しぶや のぼる、1904年〈明治37年〉9月23日 - 1994年〈平成6年〉6月6日)は、日本の実業家・政治家・慈善家。広島県福山市出身。福山市市議会議員。福山通運、ベッセルを創業し、しぶや美術館、福山通運渋谷長寿健康財団、財団法人渋谷育英会を創設した。1956年に紺綬褒章受章、以後、延べ15回受章。 広島県芦品郡有磨村下有地山村(現在の福山市芦田町下有地)に5人兄弟(2男3女)の男(4番目)として、かつて庄屋を務めた旧家に生まれる。父・新太郎は土建業を営み、比較的裕福な家であった。芦田川の治水事業を多く手がけ、地区の中心的な名家であったが、1919年(大正8年)7月に備後地方を襲った未曾有の大水害によって、手がけていた芦田川堤防工事、県道の補修工事、城山 の砂防工事のすべてが跡形も無く崩壊し、大損害をこうむった。
滝口 征夫(たきぐち ゆきお、1904年6月26日 - 19… 滝口 征夫(たきぐち ゆきお、1904年6月26日 - 1967年11月17日)は、日本の経営者。 広島県広島市出身。1926年に慶応義塾大学法学部を卒業し、1927年にエヌチーエヌ製作所(現在のNTN)に入社。1949年に取締役に就任し、1956年5月に常務、1959年2月に専務を経て、1959年4月から1964年5月までに社長を務めた。 1967年11月17日、肺癌のために死去。63歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
翁 孝文(おきな たかふみ、1904年(明治37年)3月2日… 翁 孝文(おきな たかふみ、1904年(明治37年)3月2日 - 1980年(昭和55年)5月9日)は、日本の実業家。倉敷紡績取締役を経て倉敷国際ホテル社長を務めた。広島県神石高原町出身。 広島県神石郡豊松村(現:神石高原町)の社家である翁家に生まれる。1919年(大正8年)地元に近い旧制岡山県立高梁中学校(現:岡山県立高梁高等学校)に進み、同期に石川達三、金澤覚太郎、日野西義輝がいた。1924年(大正13年)卒業後、名古屋高等商業学校(現:名古屋大学経済学部)へ進学。1927年(昭和2年)同校を23歳で卒業した。 卒業後、同年に倉敷紡績へ入社。総務畑を歩み、1937年(昭和12年)に当時の倉敷紡績の大原孫三郎の社長秘書課長となった。
米田 健三(よねだ けんぞう、1904年1月13日 - 19… 米田 健三(よねだ けんぞう、1904年1月13日 - 1971年6月20日)は、日本の経営者、工学博士。久保田鉄工(現在のクボタ)社長を務めた。 広島県呉市出身。1928年に東京帝国大学工学部機械工学科を卒業し、同年に久保田鉄工(現在のクボタ)に入社。1946年に取締役に就任し、1949年に常務、1960年に専務を経て、1967年に社長に就任した。 1968年11月に紫綬褒章を受章した。 1971年6月20日、胃がんのために死去。67歳没。
佐藤 勇二(さとう ゆうじ、1903年9月15日 - 197… 佐藤 勇二(さとう ゆうじ、1903年9月15日 - 1977年12月4日)は、日本の実業家。三菱自動車工業初代社長。 広島県福山市出身。山口高等商業学校を経て、旧制東京商科大学(のちの一橋大学)卒業。 三菱造船勤務、水島航空機製作所業務部長、水島機器製作所営業部長、三菱重工業副社長などを経て、1970年三菱自動車工業初代社長に就任。クライスラーとの提携を実現。合弁事業を行い、アメリカへの進出を進め、1971年には北米のクライスラーチャンネルでコルトギャランの発売を開始。 1977年12月4日世田谷区の橋本病院で肝硬変のため死去。享年74。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
宋 能云(ソン・ヌンウン、朝鮮語: 송능운、1903年5月2… 宋 能云(ソン・ヌンウン、朝鮮語: 송능운、1903年5月23日 - 1980年12月27日または12月29日)は、日本統治時代の朝鮮の教員、実業家、大韓民国の政治家。全羅北道議会(朝鮮語版)議員、第5代韓国国会議員。本貫は礪山宋氏。 全羅北道沃溝郡出身。群山公立農林学校、全羅北道教員養成所を経て、1928年広島広陵中学校卒。城山公立普通学校教員を経て、慶尚南道農務課で10余年間勤務した。その後、沃溝郡庁産業技手、朝鮮米穀調査委員、新泰仁中央醸造株式会社社長、自由党所属の全羅北道議会議員、大韓国民会井邑郡副会長、井邑郡酒造組合理事長、新泰仁中高等学校財団理事、国会農林委員を務めた。 1980年12月27日、ソウル市江東区岩寺洞の自宅で持病により死去。
高橋 朝次郎(たかはし あさじろう、1902年9月24日 -… 高橋 朝次郎(たかはし あさじろう、1902年9月24日 - 1976年8月5日)は、日本の実業家。キリンビール代表取締役社長や、同社代表取締役会長を務めた。広島県広島市出身。 広島市立本川小学校、旧制広島一中を経て、1927年東京商科大学(現一橋大学)卒業、キリンビール入社。1942年営業部第一部長。1943年営業部第一部長兼東京支店長。1944年麦酒配給統制出向。1948年酒類配給公団理事。1949年酒類配給公団解散に伴い、キリンビールに復帰し、同社取締役営業部長に就任。1953年取締役営業部長兼宣伝部長。1958年常務取締役営業部長。1966年専務取締役。1969年から代表取締役社長を務め、史上最高の63.8パーセントの市場シェアを獲得。
宮森 和夫(みやもり かずお、1902年9月17日 - 19… 宮森 和夫(みやもり かずお、1902年9月17日 - 1988年1月9日)は、日本の実業家。元丸善石油(現コスモ石油)社長、会長。広島県三原市出身。1971年、藍綬褒章受章。