影佐 禎昭(かげさ さだあき、1893年(明治26年)3月7… 影佐 禎昭(かげさ さだあき、1893年(明治26年)3月7日 - 1948年(昭和23年)9月10日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 広島県沼隈郡柳津村(後の松永市柳津町、現・福山市柳津町)に生まれる。幼名は亨(陸大学生時代に禎昭に改名)。影佐家は代々、広島浅野藩士の家系。 小学校を卒業後、姉の住んでいた大阪に出て、大阪府立市岡中学校を経て1914年、陸軍士官学校を優等卒業(26期)。1917年、陸軍砲工学校高等科第23期を優等で卒業。1923年、陸軍大学校優等卒業(35期)。大尉時代の1925年4月から1928年3月まで東京帝国大学政治科で学んだ学究肌。その後、参謀本部付として中国と深く関わり、陸軍部内でも中国通として一際目立つ存在となった。
中村 知(なかむら さとる、1893年2月21日 - 197… 中村 知(なかむら さとる、1893年2月21日 - 1972年3月1日)は、日本のボーイスカウトの黎明期から、第二次世界大戦前の拡大期、戦後の再建期にわたって活躍したボーイスカウト指導者。「ちーやん」の愛称で親しまれた。筆名に東野通義。 ボーイスカウト日本連盟の功労章である「はと章」「やたがらす章」の受賞者。 『ちーやん夜話集』や多くのスカウトソングの作詞作曲、スカウト運動の基礎となる書籍類の翻訳で知られる。 1893年、愛媛県松山市に生まれる。 1909年、広島高等師範学校(現・広島大学)付属中学校に在学中、当時の校長だった北条時敬より英国ボーイスカウトについての知識を得、生徒同志30名と日本最初のスカウティング集団「城東団」を結成し班長となる。
住吉 正(すみよし ただし、1893年(明治26年)2月10… 住吉 正(すみよし ただし、1893年(明治26年)2月10日 - 1976年(昭和51年)3月24日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 広島県吉舎町[要出典]出身。陸軍少尉住吉義夫の長男として生まれる。広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1914年(大正3年)5月、陸軍士官学校(26期)を卒業し、同年12月、砲兵少尉に任官し野戦砲兵第11連隊付となる。陸軍砲工学校高等科で学び、1923年(大正12年)11月、陸軍大学校(35期)を卒業した。 参謀本部員、陸軍重砲兵学校教官、陸軍省軍務局課員、留守第3師団参謀、気球連隊練習部長などを経て、1938年(昭和13年)3月、砲兵大佐に進級し野戦重砲兵第3連隊長となり日中戦争に出征した。
和知 鷹二(わち たかじ、1893年(明治26年)2月1日 … 和知 鷹二(わち たかじ、1893年(明治26年)2月1日 - 1978年(昭和53年)10月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 広島県出身。旧中津藩士、陸軍中佐・和知蓁一郎の二男として生まれる。広島高等師範学校附属中学校、広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1914年(大正3年)5月、陸軍士官学校(26期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第3連隊付となる。1922年(大正11年)11月、陸軍大学校(34期)を卒業した。 1923年(大正12年)8月、歩兵第3連隊中隊長となり、参謀本部付勤務、参謀本部員(支那課)、参謀本部付(支那研究員・南支駐在)、参謀本部員、第6師団司令部付(済南特務機関)、済南駐在武官などを歴任し、1929年(昭和4年)3月、歩兵少佐に昇進。
住田 正一(すみた しょういち、1893年〈明治26年〉1月… 住田 正一(すみた しょういち、1893年〈明治26年〉1月2日 - 1968年〈昭和43年〉10月2日)は、経営者、東京都副知事、海事史研究家で日本海事史学会会長を務めた。 愛媛県下浮穴郡砥部村(現伊予郡砥部町)で生まれた。小学校在学中に広島県呉市に移り、広島県立第三中学校(現広島県立広島国泰寺高等学校)、第六高等学校を経て、1918年、東京帝国大学法科大学政治学科卒。当時日本一の総合商社だった神戸の鈴木商店に入社、同船舶部勤務。鈴木商店の「大番頭」金子直吉の秘書を永く務めた。金子直吉名義の唯一の著書「経済野話」(1924年、巌松堂書店)は、東京ステーションホテル20号室で金子が住田に語った内容を住田が口述筆記の形でまとめたものである。
伊藤 良秋(いとう よしあき、1893年(明治26年) - … 伊藤 良秋(いとう よしあき、1893年(明治26年) - 1972年(昭和47年)7月30日)は、日本の海軍軍人。最終階級は少将。広島県出身。
桐原 葆見(きりはら しげみ、1892年11月10日 - 1… 桐原 葆見(きりはら しげみ、1892年11月10日 - 1968年5月2日)は、日本の心理学者、僧侶、第十四代浄楽寺住職。 広島県安佐郡八木村(現・広島市安佐南区)の浄土真宗本願寺派浄楽寺住職桐原慈見の長男として誕生する。八木尋常小学校(現広島市立八木小学校)、高宮高等小学校、第四仏教中学(現崇徳高等学校)、旧制第三高等学校を経て1919年に東京帝国大学文科大学哲学科心理学専修を卒業した。東京帝国大学では日本心理学会の草分けである松本亦太郎に師事して心理学を専攻した。卒業の年に実父が他界し、浄楽寺第14世住職を継ぐが引き続き大学院へ進学する。大学院在院中より倉敷労働科学研究所(現・公益財団法人大原記念労働科学研究所)の設立に貢献した。
金島 桂華(かなしま けいか、1892年〈明治25年〉6月2… 金島 桂華(かなしま けいか、1892年〈明治25年〉6月29日 - 1974年〈昭和49年〉9月14日)は、日本画家、日本芸術院会員。福山市名誉市民。 広島県安那郡湯田村(現・福山市神辺町湯野)に父儀一郎、母シナの長男として生まれる。本名は政太(まさた)。 絵の勉強は平井直水に師事、竹内栖鳳主催の竹杖会では西山翠嶂、西村五雲、橋本関雪、土田麦僊や小野竹喬、徳岡神泉、池田遙邨あるいは大村廣陽と同門である。橋本とは1917年、共に揚子江を旅している。 私塾の衣笠会を主催し、藤島博文など後進の育成に努め、四条派と院体風を取り入れた花鳥画を得意とした。万鉄五郎とは金島の妻が加わった参禅の会を介して知己を得る。
佐藤 一男(さとう かずお、1892年5月23日 - 195… 佐藤 一男(さとう かずお、1892年5月23日 - 1959年10月29日)は、日本の鉄道技術者、実業家。 広島県福山市出身。1918年に京都帝国大学工学部電気工学科を卒業し、京阪電気鉄道に入社。 車両技術部門で活躍し、全鋼製ロマンスカー京阪1550型電車の設計、製作に携わり、欧米での留学で得た知識を生かして、日本最初の連接車である京阪60型電車(びわこ号)を立案、建造した。 取締役、常務、専務を経て、1943年に陸上交通事業調整法による阪神急行電鉄との統合により、京阪神急行電鉄副社長に就任した。 1946年11月に公職追放を受け、副社長を辞任し、相談役に就任した。 1959年10月29日死去。
三枝 博音(さいぐさ ひろと、1892年〈明治25年〉5月2… 三枝 博音(さいぐさ ひろと、1892年〈明治25年〉5月20日 - 1963年〈昭和38年〉11月9日)は、日本の哲学者。 思想史・科学史・技術史についての研究も多い。 広島県山県郡本地村(現・北広島町)出身。生家は浄土真宗の寺院・浄専坊。第四仏教中学(現・崇徳高等学校)を経て、東京帝国大学文学部哲学科に進む。在学中1年間の兵役体験から、社会的なものへ傾倒しマルクス主義に没頭した。 1922年大学卒業後は同郷で、医学史の大家・富士川游に師事。東洋大学、立正大学、法政大学などで教職に就いた。1928年、無神論運動を起こす。1931年半年間ドイツに留学、世界観の変革に多大な影響を受けた。1932年に戸坂潤らとともに唯物論研究会の創立に参加。
正木 亮(まさき あきら、1892年3月25日 - 1971… 正木 亮(まさき あきら、1892年3月25日 - 1971年8月22日)は、昭和期(戦前〜戦後)の監獄学・刑事政策の実践的法学者。戦後は死刑廃止の提唱者として日本における死刑廃止運動の中心的役割を担った。 広島県佐伯郡玖波村(現・大竹市玖波)出身。旧制三次中学校(のち三次高等学校)から第二高等学校を経て1918年、東京帝国大学法科大学法律学科(ドイツ法)卒。 大学在学中から牧野英一の教育刑論やトルストイの影響を受け、監獄の改善に強い関心を持つ。1916年(大正5年)1月1日、巣鴨監獄を参観。音羽の護国寺から田圃や雑木林を通り、はるか彼方に見える高い壁のそこに至るまでには一軒の農家さえなかったという。
耕三寺 耕三(こうさんじ こうぞう、1891年〈明治24年〉… 耕三寺 耕三(こうさんじ こうぞう、1891年〈明治24年〉12月2日 - 1970年〈昭和45年〉10月25日)は、日本の実業家、発明家、僧侶。日本溶接界の先駆けとして数々の鉄工所を興し、後半生を耕三寺の建立に捧げた。広島県尾道市名誉市民。出生名、金本 福松(かねもと ふくまつ)。1935年に得度し金本 耕三(かねもと こうぞう)と改名、1956年には耕三寺 耕三と改姓。 耕三は1891年(明治24年)、金本福松として兵庫県神戸市に生まれた。 父親はもと鉄道建設業をしていたが、1893年(明治26年)に福岡県鞍手郡直方町(現・直方市)に鉄工所を起業する。このとき福松は直方には行かず、母の実家のあった瀬戸内海の生口島(現・尾道市瀬戸田町御寺)に移り住んだ。
田中 貢(たなか みつぐ、1891年(明治24年)10月21… 田中 貢(たなか みつぐ、1891年(明治24年)10月21日 - 1961年(昭和36年)12月21日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党→日本進歩党)。経済学者。 広島県呉市出身。1917年(大正6年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、明治大学教授に就任した。1921年(大正10年)より東京帝国大学経済学部講師を兼ね、同年から欧米で経済政策・社会政策を学び、翌年に帰国した。1925年(大正14年)には、明治大学より商学博士の学位を受けた。 1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第22回に至るまで5回当選を果たし、1946年6月22日に議員を辞職した。その間、陸軍省の委嘱でドイツとイタリアの経済・財政政策を視察した。
岩沢 忠恭(岩澤 忠恭、いわさわ ただやす、1891年6月7… 岩沢 忠恭(岩澤 忠恭、いわさわ ただやす、1891年6月7日 - 1965年12月8日)は、日本の内務及び建設官僚、教育者、政治家。位階は従三位、勲等は勲二等。建設事務次官(初代)、参議院議員(3期)、日本大学教授。 1891年(明治24年)広島県広島市仁保(現在の南区)で仁保島村村長・岩沢熊助の長男に生まれ。県立広島中学(現広島県立国泰寺高校)を経て第三高等学校卒業。 1920年、日本大学教授(道路工学)として日本大学高等工学校(現在の日本大学理工学部・大学院理工学研究科)設立に参画。同大学で長らく教鞭を執った。また内務省土木局に属し、多くの道路整備、河川の改修・維持事業に携わる。1936年着工した新京浜国道の工事事務所長としてその建設に尽力。
竹下 義晴(たけした よしはる、1891年(明治24年)4月… 竹下 義晴(たけした よしはる、1891年(明治24年)4月9日 - 1979年(昭和54年)2月7日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 広島県出身。竹下一清の二男として生まれる。広島第一中学校(現広島県立広島国泰寺高等学校)、広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1911年(明治44年)5月、陸軍士官学校(23期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第41連隊付となる。参謀本部付勤務、陸士生徒隊付などを経て、1921年(大正10年)11月、陸軍大学校(33期)を卒業し歩兵第41連隊中隊長に就任。 1922年(大正11年)12月、参謀本部付勤務となり、支那駐屯軍司令部付、参謀本部員(兵要地誌班)を経て、1926年(大正15年)3月、歩兵少佐に昇進。
倉田 百三(くらた ひゃくぞう / ももぞう)、1891年(… 倉田 百三(くらた ひゃくぞう / ももぞう)、1891年(明治24年)2月23日 - 1943年(昭和18年)2月12日)は、日本の劇作家、評論家で大正、昭和初期に活躍した。故郷の広島県庄原市には、倉田百三文学館がある。 広島県比婆郡庄原村107番屋敷(現庄原市本町)出身。
佐竹 哲雄(さたけ てつお、1890年5月16日 - 198… 佐竹 哲雄(さたけ てつお、1890年5月16日 - 1981年3月26日)は、広島県出身の哲学者。主な専門は現象学。勲四等瑞宝章受賞。 広島県出身。第四仏教中学卒業後。1916年、東京帝国大学文学部哲学学科卒業。1919年、第八高等学校教授に就任。1945年、同職を退職。1949年、熊本大学教授に就任。1951年、東京都立大学教授に就任。1957年、東洋大学教授に就任。 1981年3月26日、逝去。享年90歳。墓所は青山霊園。
山本 実一(やまもと じついち、1890年5月6日 - 19… 山本 実一(やまもと じついち、1890年5月6日 - 1958年9月17日)は、日本の経営者。中国新聞社社長、ラジオ中国社長を務めた。 広島県安芸郡府中町出身。東京帝国大学農学部を卒業し、1916年に中国新聞社に入社。1918年に副社長を経て、1933年から1947年までに社長を務め、1951年11月には再び社長に就任。ラジオ中国(現在の中国放送)社長も務めた。 1958年9月17日、気管支肺炎のために在任中に死去。68歳没。
八杉 角五郎(やすぎ かくごろう、1890年(明治23年)3… 八杉 角五郎(やすぎ かくごろう、1890年(明治23年)3月4日 - 1977年(昭和52年)1月25日)は、日本の実業家。八杉商店社長、会長を務めたほか、広島地方裁判所司法委員、福山家庭裁判所調停委員、福山商工会議所副会頭などを歴任した。位階勲等は従五位勲五等。藍綬褒章受章。 現在の広島県府中市にて、小川良平の子として生まれた。旧制福山中学校(現・広島県立福山誠之館高等学校)に入学し、1907年(明治40年)に卒業した。中学校では剣道部に所属した。1910年(明治43年)に長崎高等商業学校(現・長崎大学経済学部)を卒業し、教員となった。 福山市深津町の八杉家の婿養子となって八杉商店6代目社長に就任、福山ガス(株)、ニコニコバス(株)、福山合金(株)、福山興業(株)の取締役を務めた。
高垣 寅次郎(たかがき とらじろう、1890年2月26日 -… 高垣 寅次郎(たかがき とらじろう、1890年2月26日 - 1985年8月25日)は、日本の経済学者。 1890年(明治23年)、広島県尾道市生まれ。1911年(明治44年)、神戸高等商業学校(現神戸大学)卒業。 続いて東京高等商業学校(後の東京商科大学、一橋大学)において佐野善作に師事。同じ門下に塩野谷九十九、鬼頭仁三郎、高橋泰蔵、新庄博、岡田俊平などがいた。彰化商業銀行董事長を務めた呉金川なども高垣ゼミ出身。1913年、東京高等商業学校を卒業。 卒業後、1913年(大正2年)に三井銀行に入行。しかし1915年(大正4年)には母校の東京高等商業学校へ戻り、助教授となり、1924年(大正13年)より同校教授。
山口 儀三郎(やまぐち ぎさぶろう、1889年(明治22年)… 山口 儀三郎(やまぐち ぎさぶろう、1889年(明治22年)11月26日 - 1972年(昭和47年)12月13日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。位階勲等は正四位勲一等。 広島県佐伯郡宮内村(廿日市町を経て現廿日市市)に生まれた。1912年(明治45年)7月、海軍兵学校第40期を卒業し、1913年(大正2年)12月、海軍少尉に任官。その後、海軍水雷学校高等科を卒業し、第一遣外艦隊司令部附兼参謀、「日進」分隊長、海軍水雷学校教官兼分隊長などを歴任。1924年(大正13年)12月、海軍少佐に進級し、海軍大学校甲種第24期学生となる。1926年(大正15年)12月に長門通信長兼分隊長に就任し、1927年(昭和2年)12月、高松宮宣仁親王附武官兼八雲乗組となった。
多田 勉吉(ただ べんきち、1889年(明治22年)9月19… 多田 勉吉(ただ べんきち、1889年(明治22年)9月19日 - 1958年(昭和33年)4月16日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍主計中将。広島県出身。
島 善鄰(しま よしちか、1889年8月27日 - 1964… 島 善鄰(しま よしちか、1889年8月27日 - 1964年8月7日)は、日本の農学者。北海道大学第6代学長。その一生をリンゴの研究と普及に努めリンゴの神様といわれる。正三位、勲一等瑞宝章を授与。 1889年、陸軍軍人の島時中、きち夫婦の5男として広島県広島市に生まれる。8歳の時に父が亡くなり岩手県稗貫郡矢沢村高木(現・花巻市)に移る。盛岡中学(現・岩手県立盛岡第一高等学校)を経て1914年、東北帝国大学農科大学(現・北海道大学)を卒業。1916年、星野勇三教授に推挙されて青森県農事試験場の技師となる。当時の青森は褐斑病の発生でリンゴ生産減退の時期であったが、早速減収原因の調査に着手。リンゴ栽培改善事業として の三大事業を実施し、従来の粗放な技術から労働集約技術への転換を指導した。
瀬越 憲作(せごえ けんさく、1889年〈明治22年〉5月2… 瀬越 憲作(せごえ けんさく、1889年〈明治22年〉5月22日 - 1972年〈昭和47年〉7月27日)は、大正、昭和時代の囲碁棋士。広島県佐伯郡能美村(現広島県江田島市)出身。方円社、日本棋院などに所属、名誉九段。1946年から48年に日本棋院理事長を務めるなど、棋院運営や囲碁普及に大きく貢献した"日本棋院の父"。 父は県会議員も務めた家で次男として生まれた。育った能美島は昔から囲碁が盛んな土地柄。祖父が本因坊秀元から初段を受けるほどの碁好きで、5歳の時に眼病と耳を患っていた間に、祖父から碁の手ほどきを受け、中学校に入学した頃には、二、三段くらいの人とは互角に戦えるようになっていた。広島一中(現・広島県立国泰寺高校)では賀屋興宣らと同級だった。
藤田 定市(ふじた さだいち、1889年〈明治22年〉4月1… 藤田 定市(ふじた さだいち、1889年〈明治22年〉4月1日 - 1973年〈昭和48年〉9月3日)は、日本の実業家。フジタ工業(現・フジタ)会長。広島県知事をつとめた藤田雄山は孫。 広島県賀茂郡中黒瀬村字大多田(現・東広島市黒瀬町)の農家に生まれる。藤田次助の三男。1910年12月、21歳の頃、兄の一郎とともに広島市台屋町で土木建築請負業を始める。 土木建築請負業を営む。1916年、「藤田組」を名乗り、兄の一郎が組長に、定市が副組長になる。1944年、藤田組社長に就任。1945年8月6日の広島市への原子爆弾投下により、定市は自宅で家屋の下敷きとなり、重傷を負う。1962年、藤田組会長に就任。
近藤 荒樹 (こんどう あらき、明治22年(1889年)3月… 近藤 荒樹 (こんどう あらき、明治22年(1889年)3月6日 - 昭和61年(1986年)6月11日)は日本の実業家、相場師。元近藤商事会長。「丸ビル将軍」、「金融王」などと呼ばれた。
藤井 清水(ふじい きよみ、1889年〈明治22年〉2月17… 藤井 清水(ふじい きよみ、1889年〈明治22年〉2月17日 - 1944年〈昭和19年〉3月25日)は、日本の作曲家。童謡作曲家、民謡研究家。広島県安芸郡焼山村(現・呉市)出身。生涯に約1900曲も作曲、編曲しながら、あまり世に知られることのなかった人である。のちに、『日本民謡大観』のもととなる民謡の採譜をたくさん行い、民謡の楽譜化に力を尽くして、日本民謡の音楽的研究の推進に多大な貢献をした。 医師として由緒ある家の三男として、生を享けた。幼い頃から三味線の音を聞き分け、調子を合わせることができたという。 焼山尋常小学校(現・呉市立昭和西小学校)、呉高等小学校をへて福山中学校で学んだ。音楽学校進学を志した清水だが、最初の受験には失敗し、1911年、東京音楽院受験科に入学する。
賀屋 興宣(かや おきのり、1889年〈明治22年〉1月30… 賀屋 興宣(かや おきのり、1889年〈明治22年〉1月30日 - 1977年〈昭和52年〉4月28日)は、日本の政治家、大蔵官僚。主計局長、大蔵次官を経て、第一次近衛内閣大蔵大臣、貴族院勅選議員。東條内閣でも大蔵大臣として戦時財政における中心的な役割を担った(賀屋財政)。戦後、衆議院議員、池田内閣法務大臣、日本遺族会会長などを歴任した。 位階は正三位、勲等は勲一等(後者は1946年返上)。広島県広島市出身。旧姓は藤井。 父は国学者の藤井稜威(いつ)、母は愛国婦人会幹事を務めた漢学者の賀屋鎌子。4歳の時、母方の伯父の家を継いで賀屋姓を名乗った。父方の祖父は山口県熊毛郡上関町長島の白井田八幡宮司・藤井厚鞆、父方の叔父に靖国神社第3代宮司・賀茂百樹がいる。
中村 憲吉(なかむら けんきち、1889年1月25日 - 1… 中村 憲吉(なかむら けんきち、1889年1月25日 - 1934年5月5日)は、広島県生まれの歌人。 1889年(明治22年)1月25日、広島県三次郡上布野村(現・三次市)に、後に三次銀行初代頭取を務めた他に多くの田畑・山林を所有し醸造業も営む地元名望家の父・修一の次男として生まれる。 1894年、布野尋常小学校に入学。1898年、布野尋常小学校卒業、同高等科に入学。1900年、祖母の異父妹で、三次で旅館業を営んでいた香川八重の養子となる。香川家へは後に弟で倉田百三と親交のあった三之助が入り、憲吉は中村姓に復する。9月、三次小学校高等科に転校。 1901年、三次中学に入学。四年時には倉田百三が一年生として入学。
畝 為吉(うね ためきち、 1889年(明治22年)- 19… 畝 為吉(うね ためきち、 1889年(明治22年)- 1988年(昭和63年))は、広島県安芸郡坂町出身の人物である。上条トンネルをはじめとする坂町の道路建設に尽力し、町内の児童公園には銅像が建てられ、坂町の町史に紙幅を割いて紹介されるとともに、広島県内の小学校高学年向けの社会科の教材にも取り上げられている。 呉線の敷設工事で坂村にトンネルが開通したことにヒントを得て、上条トンネルをつくることを決意する。その後、上条トンネルを完成させ、上条トンネルの端に「共存共栄」「協力一致」という名前を彫った。
森戸 辰男(もりと たつお、1888年(明治21年)12月2… 森戸 辰男(もりと たつお、1888年(明治21年)12月23日 - 1984年(昭和59年)5月28日)は、日本の学者、社会思想家、教育者(初代広島大学学長・名誉教授)、政治家(衆議院議員、文部大臣)。広島県広島市、福山市名誉市民。文化功労者(1971年)、勲一等旭日大綬章(1974年)。位階は従二位。 広島県深津郡福山東堀端(現在の福山市)に旧福山藩士・森戸鸞蔵、チカの二男として生まれる。広島県立福山中学校(現在の広島県立福山誠之館高等学校)から1907年、第一高等学校に進学した。前年校長に就任した新渡戸稲造の倫理の講義に感銘を受ける。弁論部で活動し、一高を卒業する1911年2月、弁論部の後輩・河上丈太郎に頼まれ大逆事件を主題とした徳冨蘆花の講演会「謀叛論」を開催した。
藤井 厚二(ふじい こうじ、1888年〈明治21年〉12月8… 藤井 厚二(ふじい こうじ、1888年〈明治21年〉12月8日 - 1938年〈昭和13年〉7月17日)は、日本の建築家・建築学者。広島県出身。建築環境工学の先駆者の一人。東京帝国大学工科大学建築学科卒業。 広島県福山市の酒造家・金融業の「くろがねや」の次男として生まれる。経済的にも文化的にも恵まれた環境で育ち、福山中学校(現・福山誠之館高校)、第六高等学校を経て、1913年(大正2年)に東京帝国大学工科大学建築学科を卒業した後、竹中工務店に就職。大阪朝日新聞社などの設計を手がけ、1919年(大正8年)まで勤務。同社退職後から約9ヶ月間、欧米諸国を巡遊し、環境工学への関心を高めた。 欧米から帰国した後の1920年(大正9年)、同郷の武田五一が創設した京都帝国大学工学部建築学科に招かれ、1926年(大正15年)に教授となった。
坂村 徹(さかむら てつ、1888年10月13日 - 198… 坂村 徹(さかむら てつ、1888年10月13日 - 1980年10月18日)は、遺伝学者、植物細胞学、生理学者。教育者。北海道大学農学部名誉教授。広島県広島市幟町(現・中区)幟町出身。 旧制・広島一中(現・広島国泰寺高校)から北海道帝国大学農学部に進み同大学卒業。恵迪寮OB。植物細胞学・植物生理学を研究し1918年、世界で初めて小麦の正確な染色体数を明らかにした。この発見は画期的なもので、この後日本で小麦の研究が盛んになり世界の学会をリードした。この研究を引き継ぎ、木原均が小麦の細胞遺伝学的研究でこの分野の新しい領域を切り拓いた。その他生物を利用した微量重金属の検出法などを開発。1919年同大学教授。
枝正 義郎(えだまさ よしろう、明治21年(1888年)9月… 枝正 義郎(えだまさ よしろう、明治21年(1888年)9月22日 - 昭和19年(1944年)9月8日)は、広島県出身の映画監督、カメラマン。 円谷英二を初め多くの秀でた監督やカメラマンを育てた日本映画初期の先覚者。映画技術者の草分け。 広島県佐伯郡玖島村(現・廿日市市玖島)生まれ。学歴は不詳。上京して明治41年(1908年)日本で最初に映画の興行に着手したといわれる吉沢商店に入り、目黒行人坂撮影所で千葉吉蔵に師事、現像と撮影技術を学ぶ。その後、福宝堂、東洋商会と移籍し大正3年(1914年)、その両社合併により生まれた新会社・天然色活動写真株式会社(天活)へ転じ撮影技師となる。ここでは沢村四郎五郎、市川莚十郎の旧劇映画を撮影。
三川 軍一(みかわ ぐんいち、1888年〈明治21年〉8月2… 三川 軍一(みかわ ぐんいち、1888年〈明治21年〉8月29日 - 1981年〈昭和56年〉2月25日)は、日本の海軍軍人。海兵38期・海大22期。最終階級は海軍中将。 広島県佐伯郡高田村(能美町を経て現:江田島市)で生まれる。広島一中を経て、1910年(明治43年)7月、海軍兵学校38期を3位/149名の好成績で卒業。1912年(大正元年)12月、戦艦「金剛」乗組。1913年(大正2年)7月、巡洋艦「宗谷」乗組。同年12月、海軍中尉に進級、水雷学校普通科学生。1914年(大正3年)5月、砲術学校普通科学生。12月、巡洋艦「阿蘇」乗組。1916年(大正5年)2月、駆逐艦「杉」乗組。 1916年、海軍大尉に進級。
井上 麗三(いのうえ れいぞう、1888年8月28日 - 1… 井上 麗三(いのうえ れいぞう、1888年8月28日 - 1953年12月30日)は、日本の俳優、脚本家、映画監督、映画プロデューサーである。井上 麗吉(-れいきち)とも名乗った。新派、無声映画の俳優から監督へと転身、活動写真資料研究会、マキノ映画製作所での作品を残す。 1888年(明治21年)8月28日、広島市大手町(現在の同市中区)に生まれる。同県立の旧制中学校を中退したのち、当時日本の植民地であった台湾に渡る。事業に失敗して帰国、東京で新派の俳優になる。 1921年(大正10年)、32歳のときに松竹キネマに入社、新派出身の岩田祐吉、関根達発とともにヘンリー・小谷監督、栗島すみ子主演の映画『虞美人草』に出演、続いて同監督の『電工と其妻』に主演の岩田、栗島、そして新派出身の岡本五郎とともに出演した。
河根 良賢(かわね よしかた、1888年(明治21年)7月2… 河根 良賢(かわね よしかた、1888年(明治21年)7月29日 - 1949年(昭和24年)2月12日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級。 1888年(明治21年)に広島県福山市で生まれ、1890年(明治23)に福山誠之館を卒業。陸軍士官学校第23期卒業。1936年(昭和11年)8月に輜重兵第2連隊長(第2師団)に就任し、満州に駐屯した。1937年(昭和12年)8月に陸軍輜重兵大佐に進級し、1938年(昭和13年)7月に自動車第1連隊長を経て、1939年(昭和14年)8月に輜重兵科教育を行う唯一の予備士官学校である久留米陸軍予備士官学校の初代校長に就任した。 1941年(昭和16年)3月1日に陸軍少将に進級し、7月28日に北支那方面軍司令部附を経て、8月8日に第3野戦輸送司令官(南方軍・第14軍)に就任し、フィリピン攻略戦に出征した。
津田 喜次郎(つだ きじろう、1888年7月11日 - 19… 津田 喜次郎(つだ きじろう、1888年7月11日 - 1959年)は、株式会社津田式ポンプ製作所の創業者であり、同社元社長、広島県立広島観音高等学校元PTA会長。紫綬褒章と紺綬褒章を受章。 明治21年(1888年)7月11日に広島県佐伯郡鹿川村に生まれる。その後、養子として親戚の津田氏に入籍した。 大正9年(1920年)10月、広島市広瀬町において、従来の手押しポンプを改良・考案し、合資会社・津田式ポンプ製作所を設立し「津田式ポンプ大臣號」と名付けたポンプの製造販売を行った。「菱形の中に大臣」の商標を使用した。 専売特許などを自身が持つ約30種以上の各種ポンプ製造に従事した。また地下水に含まれる塩分を薬品を用いずに完全に除去する機能を持つ浄水ポンプを発明、特許を取得した。
道面 豊信(どうめん とよのぶ、1888年4月9日 - 19… 道面 豊信(どうめん とよのぶ、1888年4月9日 - 1981年3月8日)は、日本の実業家。元味の素社長。広島県広島市仁保島本浦(現南区本浦)出身。 広島商業卒業後渡米。オハイオ北部大学、コロンビア両大学で学ぶ。サンミット神崎商店支配人を経て、1918年、味の素の前身・鈴木商店に入社。1935年、同店の外国課長で帰国するまで米国に在勤し、製品の米国市場売り込み、及び原料買い付けなどに手腕を発揮した。1940年取締役、その後1945年、終戦直後の常務時代には、GHQの要請でDDTの製造に協力、これが同社戦後再建の原動力となった。1947年専務を経て1950年、戦後初めて同族以外から同社4代目社長に就任。
安達 潮花(あだち ちょうか、明治20年(1887年)12月… 安達 潮花(あだち ちょうか、明治20年(1887年)12月11日 - 昭和44年(1969年)6月5日)は、華道家。いけばな安達式挿花創流者、いけばな近代化の先駆者。広島県豊田郡内海村跡(現在の呉市安浦町安登)生まれ。本名:良雄。 安浦町浄念寺に生まれる。7歳から池坊のいけばなを習いはじめ、忠海中学(現・広島県立忠海高等学校)から早稲田大学政経学部に進むが中退し花の道に進む。形式美だけを追う当時の華道界をきらい、「一切の因習、定型を捨てて模倣をなさず」と飾花を提唱、生花を傷花として退け、大正6年(1917年)安達式挿花を興した。西洋花弁装飾に触発された家庭いけばなを創案、洋風化し始めた生活様式に合う近代花として人気を博し、上流の婦人たちの大きな支持を得た。
酒井 隆(さかい たかし、1887年(明治20年)10月18… 酒井 隆(さかい たかし、1887年(明治20年)10月18日 - 1946年(昭和21年)9月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。太平洋戦争勃発時に第23軍司令官として香港を攻略した。のち、このときの虐殺事件で戦犯となり死刑となる。 広島県賀茂郡原村(現・東広島市)出身。神戸一中(現・神戸高等学校)、大阪陸軍地方幼年学校、 中央幼年学校本科を経て 、1908年(明治41年)陸軍士官学校(20期)を卒業し、同年歩兵第38連隊付少尉に任官した。1916年(大正5年)には陸軍大学校(28期)も卒業している。 1924年(大正13年)少佐。1928年3月の済南事件では、済南で日本人280人が虐殺されたとのデマ報道が日本で一時流れたが、これは当時済南で駐在武官となっていた彼が日本軍の大量出兵を目論み、画策したものではないかとの見方がある。
岡部 直三郎(おかべ なおざぶろう、1887年(明治20年)… 岡部 直三郎(おかべ なおざぶろう、1887年(明治20年)9月30日 - 1946年(昭和21年)11月23日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は大将。北支那方面軍司令官、第3方面軍司令官、第6方面軍司令官。 広島県広島市袋町(現中区袋町)に於いて、陸軍書記を務めていた岡部栄次郎の三男として生まれる。1899年(明治32年)に崇徳中学校卒業後、広島陸軍地方幼年学校入学。その後、陸軍中央幼年学校、陸軍士官学校(18期)と進み、陸軍大学校(27期)卒業。陸士同期生には山下奉文、藤江恵輔、阿南惟幾、山脇正隆、安井藤治、小松原道太郎らがいる。陸大卒業後、1918年(大正7年)にハバロフスク特務機関(砲兵大尉)、1922年(大正11年)にポーランド公使館附武官(砲兵少佐)。
岡田 偆一(おかだ しゅんいち、1887年(明治20年)5月… 岡田 偆一(おかだ しゅんいち、1887年(明治20年)5月10日〈1886年生とも〉- 1943年(昭和18年)12月24日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。位階および勲等は従四位・勲三等。 平民出身で初めて宮家(高松宮)付の武官となった人物。 広島県芦品郡駅家町大字服部本郷(現在の福山市)の屋号観音堂の、岡田馳次郎・アサの次男として生まれる。品治高等小学校2年を修了後、広島県第二中学校(後の誠之館)に入学する。1904年(明治37年)、19歳の時に広島県立福山中学校(誠之館)を卒業する。1907年(明治40年)、22歳の時に海軍兵学校を第35期生として卒業する。1909年(明治42年)、24歳の時に海軍大学を第16期生として卒業。
大塚 節治(おおつか せつじ、1887年3月3日 - 197… 大塚 節治(おおつか せつじ、1887年3月3日 - 1977年11月18日)は、大正・昭和期のキリスト教神学者。文学博士(1949年)。旧姓は沖田。同志社第13代総長。 1887年(明治20年)広島県高宮郡飯室村(現在の広島市安佐北区安佐町)で沖田惣左衛門の六男に生まれる。1912年(明治45年)に愛媛県伊予郡中山村(現在の伊予市中山町)の大塚家の養子となる。 広島県師範学校講習部から1903年同志社普通学校に入学。1905年日野真澄から受洗。1909年同志社普通学校を卒業して同志社神学校に入学。1912年に渡米し、ユニオン神学校、コロンビア大学で学び、マスター・オブ・アーツの学位を受ける。帰国後の1919年に専門学校令による同志社大学神学部教授、翌年大学令による同志社大学文学部神学科教授となり、多くの著書、論文を発表、キリスト教倫理学および組織神学を講じた。
新見 政一(にいみ まさいち、1887年〈明治20年〉2月1… 新見 政一(にいみ まさいち、1887年〈明治20年〉2月14日 - 1993年〈平成5年〉4月2日)は、日本の海軍軍人、戦史研究家。最終階級は海軍中将。 広島県広島市安佐北区出身。農業・醤油製造業の新見千五郎の二男として誕生。妻の澄子は小林躋造海軍大将の妹。旧制広島県立忠海中学校より海軍兵学校第36期入校。席次は入校時200名中35番、卒業時191名中14番。同期生の水戸春造海軍中将は中学同窓でもある。新見は海軍砲術学校高等科を修了し、同校教官を務めた砲術専攻士官であり、またオックスフォード大学で国際法を学んだ日本海軍有数の知英派である。 駐英武官補佐官在任中に第一次世界大戦の戦史研究を行い、帰国後『海軍中央軍令機関整備ノ意見書』および『持久戦ニ関スル意見書』を当局に提出した。
磯 永吉(いそ えいきち、1886年11月23日 - 197… 磯 永吉(いそ えいきち、1886年11月23日 - 1972年1月21日)は、日本の農学者、作物育種学者。台北帝国大学(現台湾大学)教授。台湾米(蓬萊米)の父と呼ばれた。農学博士(北海道大学・論文博士・1928年)(学位論文「台湾稲ノ育種学的研究」)。 1886年、広島県福山市新馬場町(霞町)で生まれた。旧制日彰館中学(現・広島県立日彰館高校)を経て、1905年に札幌農学校に入学。同学校は東北帝国大学農科大学に在学中に東北帝国大学農科大学に改組となったため、1911年に東北帝国大学農科大学を卒業。 1912年、台湾へ渡り、台湾総督府農事試験場に勤務。1928年、学位論文『台湾稲ノ育種学的研究』を北海道帝国大学に提出して農学博士号を取得。
山本 祥吉(やまもと しょうきち、1886年(明治19年)1… 山本 祥吉(やまもと しょうきち、1886年(明治19年)10月25日 - 1976年(昭和51年)10月28日)は、日本の調味学者。農林省水産講習所教授、水産試験場技師、南興水産取締役、東海大学教授、東京水産大学講師。 鰹節の研究を専門とし、味の素等の商品開発や南洋群島での水産事業に関わった。 1886年(明治19年)10月25日広島県安芸郡牛田村椎ノ木44番地(広島市東区牛田南一丁目)に小学訓導山本象六とタニの長男として生まれた。牛田村立尋常小学校を経て、1897年(明治30年)4月安佐郡立沼田高等小学校に入学したが、1899年(明治32年)3月中退、4月広島市立第二高等小学校に転じ、1901年(明治34年)3月卒業した。
国崎 登(くにさき のぼる、1886年(明治19年)8月20… 国崎 登(くにさき のぼる、1886年(明治19年)8月20日 - 1960年(昭和35年)11月27日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
藤田 一郎(ふじた いちろう、1886年〈明治19年〉5月5… 藤田 一郎(ふじた いちろう、1886年〈明治19年〉5月5日 - 1949年〈昭和24年〉9月19日)は、日本の実業家、土木建築請負業、地主。藤田組(現・フジタ)初代社長。広島県多額納税者。東亜木材防腐社長。広島商工会議所顧問。族籍は広島県平民。参議院議長を務めた藤田正明は甥。 広島県賀茂郡中黒瀬村字大多田(現・東広島市黒瀬町)の農家に生まれた。藤田次助の二男。1900年、高等小学校を卒業。 郷里で百姓のまま埋もれたくなかったため、広島市で請負業をやっていた母方のおじに当たる森信正市の店で小僧として働く。土木建築業の見習いの傍ら夜学に通い、建築や簿記を学ぶ。17歳の時、アメリカへの密航を企てたが、失敗に終わり再び森信方に連れ戻された。
谷本 馬太郎(たにもと うまたろう、1886年〈明治19年〉… 谷本 馬太郎(たにもと うまたろう、1886年〈明治19年〉4月20日 - 1942年〈昭和17年〉11月11日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 広島県福山市出身。旧制広島県立福山誠之館中学校より海軍兵学校第35期入校。海軍兵学校入校時成績順位は183名中第82名、卒業時成績順位は172名中第37位。 第1次上海事変の際に、第3戦隊旗艦の軽巡洋艦「由良」艦長として参戦したが、上官の堀悌吉第3戦隊司令官の命令を忠実に守り、攻撃対象を中国軍関係に対してのみ限定させ中国国民への被害を最小限度に止めた為に作戦終了後、攻撃が手緩いとの批判が相次いだが、谷本は報告書の中で『堀司令官ノ判断処置ニ鑑ミ一点ノ非アラザル事明白ニシテ現地ニ於ケル事当ラザリシ者ガ非難スルハ司令官ヲ陥シ入レントスル意図明白ナリ』と憤懣やるかたなき状況を伝えている。