吉賀 大眉(よしか たいび、1915年2月8日 - 1991… 吉賀 大眉(よしか たいび、1915年2月8日 - 1991年10月13日)は、陶芸家。文化功労者。 山口県萩市出身。本名は寿男。東京美術学校彫刻科卒。萩焼作家協会会長、山口芸術短期大学教授を務めた。1971年日本芸術院賞受賞。1982年日本芸術院会員。1986年勲三等瑞宝章、1990年文化功労者。墓は山口県萩市大井の周鷹寺の墓地にある。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
戸倉 勝城(とくら かつき、1914年11月3日 - 199… 戸倉 勝城(とくら かつき、1914年11月3日 - 1997年6月6日)は、山口県出身のプロ野球選手(外野手)・監督。 豊浦中学を経て、法政大学を卒業。卒業後は、大連満倶・林兼商店でプレーイングマネージャーを務めた。1950年に社会人野球大洋漁業から河内卓司らと引き抜かれ、この年創立された毎日に入団。 35歳という高齢でのプロ入りながら、同年3月11日のパ・リーグ開幕戦(西鉄戦)で4番を打ち、初打席で木下勇から本塁打を放って初打席初本塁打とパ・リーグ第1号本塁打を記録した。この年の7月5日の大映戦(後楽園球場)では、ナイターでの第1号本塁打を記録する。最終的には21本塁打、96打点でチームの初優勝に貢献した。
土方 三郎(ひじかた さぶろう、1914年8月16日 - 2… 土方 三郎(ひじかた さぶろう、1914年8月16日 - 2002年9月19日)は、日本の経営者。日東電気工業(現:日東電工)社長を務めた。山口県萩市出身。 1935年に高松高等商業学校を卒業し、日立製作所での勤務を経て、同年に日東電気工業(のちの日東電工)に入社。1949年に取締役に就任し、1957年に常務、1961年に専務、1971年11月に副社長を経て、1974年6月に社長に就任。1985年6月に会長に就任し、1989年6月には相談役に就任。 1985年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 2002年9月19日老衰のために死去。88歳没。
長岡 三重子(ながおか みえこ、1914年〈大正3年〉7月3… 長岡 三重子(ながおか みえこ、1914年〈大正3年〉7月31日 - 2021年〈令和3年〉1月19日)は、日本の女子水泳選手、実業家、能楽師。 1914年7月31日、山口県徳山市(現在の周南市)で、商家の7人兄弟の次女として生まれる。勉強熱心な家庭で山口県立徳山高等女学校(現在の山口県立徳山高等学校)に進学。同校を卒業したのち、1938年(昭和13年)、23歳の時に長岡守治と結婚し、藁工品の卸問屋「田布施長岡本店」に嫁ぐ。その後、守治との間に2人の子(二男)を授かり、専業主婦として一家を支え続けた。 1968年(昭和43年)、夫・守治が56歳で死去。53歳で家業を継ぐこととなったが、当時藁工品から化学製品への移行期で藁工品は斜陽になりつつあった。
奈良本 辰也(ならもと たつや、1913年12月11日 - … 奈良本 辰也(ならもと たつや、1913年12月11日 - 2001年3月22日)は、日本の歴史学者。立命館大学教授、部落問題研究所所長などを歴任。日本中世史、幕末史、特に郷里でもある長州藩に関係した著作多数。 1913年、山口県大島郡小松志佐村(後に大島町を経て現・周防大島町)で生まれた。旧制岩国中学校(現:山口県立岩国高等学校)を経て、1935年3月旧制松山高等学校文科甲類を卒業。 京都帝国大学文学部国史学科に進学し、西田直二郎に師事した。1938年、同大学を卒業。卒業論文は『近世に於ける市民的世界観への通路-主として思想史に於ける商業資本の問題-』であった。 1938年、兵庫県立豊岡中学校(現:兵庫県立豊岡高等学校)教諭となった。
飯田 房太(いいだ ふさた、1913年(大正2年)2月12日… 飯田 房太(いいだ ふさた、1913年(大正2年)2月12日 - 1941年(昭和16年)12月8日)は、日本の海軍軍人。海兵62期。空母「蒼龍」戦闘機搭乗員として真珠湾攻撃に参加。戦死による二階級特進で最終階級は海軍中佐。 1913年(大正2年)2月12日、山口県都濃郡富田村 (現周南市)で旧家の一人息子として生まれた。1925年(大正14年)4月、徳山中学校 (現山口県立徳山高等学校)に進学、1931年(昭和6年)4月、海軍兵学校に入学し、1934年(昭和9年)11月17日、同校(62期)を125名中5番の成績で卒業した。少尉候補生として艦隊勤務や遠洋航海など実務練習を経て、1936年(昭和11年)4月、海軍少尉に任官、軽巡洋艦「那珂」に配属された。
松田 正平(まつだ しょうへい、1913年1月16日 - 2… 松田 正平(まつだ しょうへい、1913年1月16日 - 2004年5月15日)は、日本の洋画家。山口県宇部市出身。 1913年、島根県鹿足郡青原村(現・津和野町)で久保田家の二男として出生するが、8歳のころに山口県宇部市の松田家の養子となる。 神原尋常小学校を経て旧制宇部中学(後の山口県立宇部高等学校)に入学。卒業後は上京して川端画学校に通う。2年の浪人生活を経て1932年に東京美術学校西洋画科に入学し藤島武二教室に学んだ。1学年上に同じ山口出身の香月泰男がいた。 美校卒業してまもない1937年10月に渡欧、パリのアカデミー・コラロッシュでデッサンを学ぶ。1939年に帰国した後、1940年第15回国画会展に出品するも落選、同年宇部市の緑屋百貨店で滞欧作展を開催する。
田島 直人(たじま なおと、1912年(大正元年)8月15日… 田島 直人(たじま なおと、1912年(大正元年)8月15日 - 1990年(平成2年)12月4日)は、日本の男子陸上競技選手。1936年ベルリンオリンピック金メダリスト。位階は正五位。 大阪府において出生。その後、父の郷里である山口県玖珂郡岩国町(現在の岩国市)に戻り、岩国尋常高等小・旧制岩国中学(山口県立岩国高校の前身)に進学。兄・田島元も三段跳の日本チャンピオンになったことのあるジャンパーで、旧制広島一中時代の織田幹雄と親交があり岩国中学に来てよく一緒に練習した。この兄と織田の影響で三段跳を始めた。 山口高校(山口大学の前身)を経て京都帝国大学経済学部(現京都大学)を卒業する。 1932年、ロサンゼルスオリンピックに出場し、走幅跳で6位入賞。
木村陽二郎(きむら ようじろう、1912年7月31日 - 2… 木村陽二郎(きむら ようじろう、1912年7月31日 - 2006年4月3日)は、日本の植物学者・科学史家。東京大学名誉教授。 1912年、山口県山口市生まれ。旧制長崎中学、旧制山口高校を経て、東京帝国大学理学部に進んだ。大学では中井猛之進に師事。卒業後の1938年、東京帝国大学副手に着任。1939年、同大学助手に昇進。1944年、学位論文『おとぎりそう科ノ研究』を提出して理学博士号を取得。 太平洋戦争後の1949年より、東京大学教養学部生物学科助教授。1960年に同教授に昇進。1973年に東京大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は中央大学教授として教鞭をとった。学界では、日本植物分類学会の創設に尽力し、1977年から1980年まで会長を務めた。
佐古 利正(さこ としまさ、明治45年〈1912年〉6月26… 佐古 利正(さこ としまさ、明治45年〈1912年〉6月26日 - 平成10年〈1998年〉9月22日)は、日本の神職、教育者。宇津神社宮司。 明治45年(1912年)6月26日、佐古吉浦・しづ夫妻の五男として、山口県都濃郡鹿野町(現周南市)に誕生した。 昭和5年(1930年)、旧制山口県立岩国中学校を卒業すると、姉幸嬰の強い影響を受けて、同年4月1日に神宮皇學館本科第二部に入学した。同期には呉市出身の白石舜逸がいた。在学中の昭和7年(1932年)5月、神宮皇學館大講堂に於いてジョセフ・ウォーレン・ティーツ・メーソンの「神道の創造性について」という講演会が開かれこれに出席すると強い衝撃を受け、メーソンの『神ながらの道』を日夜読み耽ったという。
丸山 誠治(まるやま せいじ、1912年6月15日 - 19… 丸山 誠治(まるやま せいじ、1912年6月15日 - 1989年11月22日)は日本の映画監督。男性映画を得意とする一方、司葉子のデビュー作を撮った監督としても知られる。代表作に『男ありて』『太平洋奇跡の作戦 キスカ』『日本海大海戦』など。
大犮 柳太朗(おおとも りゅうたろう、1912年〈明治45年… 大犮 柳太朗(おおとも りゅうたろう、1912年〈明治45年〉6月5日 - 1985年〈昭和60年〉9月27日)は、山口県出身の俳優。本名:中富 正三。 新国劇出身。戦後の東映時代劇映画で数多く主演を務めた剣劇スター。晩年はテレビの現代劇でも活躍した。 父親は山口県柱島(現岩国市)出身、母親は広島県能美島(現江田島市)の出身で、大犮は母親の実家に近い広島市中の棚(現在の同市中区立町付近)で生まれ、父親は出生届を柱島で出した。生後間もなく柱島で育ち、小学校3年から5年までは山口県屋代島(周防大島)(現同県大島郡)で育った。1935年(昭和10年)、松山中学(現・愛媛県立松山東高等学校)卒業後、大阪へ出て新国劇に入り、辰巳柳太郎に師事。
林 伊佐緒(はやし いさお、1912年5月11日 - 199… 林 伊佐緒(はやし いさお、1912年5月11日 - 1995年9月29日)は、日本の歌手・作曲家。日本歌手協会4代目会長。 山口県厚狭郡王喜村(現下関市)生まれ。明治大学中退。1975年に紫綬褒章、1983年には勲四等旭日小綬章を受章。没後、功績により従五位を追贈されている。 父の林正二は王喜村長を務めた。旧制興風中学校時代には陸上400メートルと水泳自由形の選手。音楽も好きで、体育学校か音楽学校を志望していたが、母に反対され、明治大学商科に進む。しかし、大学への通学途中に東京高等音楽学院があることに気付き、四谷分教場ピアノ科に籍を置いて両方に通うようになり、やがて大学を中退。1934年、郷里に戻って徴兵検査を受けた後、再び上京。
豊田 久吉(とよだ ひさきち、1912年(明治45年)1月2… 豊田 久吉(とよだ ひさきち、1912年(明治45年)1月2日 - 1976年(昭和51年)10月7日)は、日本の水泳選手。1932年ロサンゼルスオリンピックの800メートルリレー金メダリスト。1930年代後半には豊田 満の芸名で短期間映画俳優としても活動。姓はその後峰島となっている。 山口県屋代島(周防大島)出身。安下庄中学(のちの山口県立安下庄高等学校、現在は山口県立周防大島高等学校)卒業、日本大学出身。 1932年ロサンゼルスオリンピックの800メートルリレーで、宮崎康二、遊佐正憲、横山隆志と共に金メダルを獲得した。日本大学出身者初(遊佐正憲とともに)・山口県出身者初の金メダリストとなる。
吉武 素二(よしたけ もとじ、1911年 <明治44年> 1… 吉武 素二(よしたけ もとじ、1911年 <明治44年> 11月28日 - 1999年 <平成11年> 2月14日)は、日本の気象技官。気象庁長官を務めた。位階は従三位。 山口県防府市出身。1934年に東京帝国大学理学部物理学科を卒業し、後に中央気象台に入庁。1966年に仙台管区気象台長を経て、1969年から1971年までに気象庁長官を務めた。 1981年に勲二等旭日重光章を受章 1999年2月14日に多臓器癌のために死去。87歳没。死没日付をもって従六位から従三位に進階した。
香月 泰男(かづき やすお、1911年〈明治44年〉10月2… 香月 泰男(かづき やすお、1911年〈明治44年〉10月25日 - 1974年〈昭和49年〉3月8日)は、山口県大津郡三隅町(現・長門市)出身の洋画家。昭和を代表する洋画家の一人。 開業医の息子として生まれるも、幼い頃両親が離婚。厳格な祖父に育てられる。山口県立大津中学校(現・山口県立大津緑洋高等学校)卒業後、川端美術学校を経て1931年に東京美術学校に入学、藤島武二の教室に学ぶ。 1936年、美術学校卒業後、北海道庁立倶知安中学校(現・北海道倶知安高等学校)の美術科教師として着任。その後、山口県立下関高等女学校(現・山口県立下関南高等学校)に転任する。 1942年、太平洋戦争勃発により召集を受け、兵として満州へ。
日野原 重明(ひのはら しげあき、1911年〈明治44年〉1… 日野原 重明(ひのはら しげあき、1911年〈明治44年〉10月4日 - 2017年〈平成29年〉7月18日)は、日本の医師、医学者。位階は従三位。学位は医学博士(京都帝国大学)。聖路加国際病院名誉院長、上智大学日本グリーフケア研究所名誉所長、公益財団法人笹川記念保健協力財団名誉会長。 京都帝国大学医学部副手、大日本帝国海軍軍医少尉などを経て、聖路加看護大学学長、聖路加国際病院院長、国際基督教大学教授、一般財団法人聖路加国際メディカルセンター理事長、一般財団法人ライフ・プランニング・センター理事長、公益財団法人聖ルカ・ライフサイエンス研究所理事長、英知大学客員教授などを歴任した。 京都帝国大学医学部第三内科副手、大日本帝国海軍軍医少尉等を経て、聖路加看護大学学長、聖路加国際病院院長、国際基督教大学教授、自治医科大学客員教授、ハーバード大学客員教授、国際内科学会会長、一般財団法人聖路加国際メディカルセンター理事長等を歴任した。
新谷 要二(しんたに ようじ、1911年(明治44年)2月2… 新谷 要二(しんたに ようじ、1911年(明治44年)2月26日 - 没年不明)は、日本の実業家、政治家。山口県議会副議長。千鳥水産代表取締役。旭洋造船取締役。山口県輸出スダレ協同組合理事長。山口県漁業生産組合長。下関漁港管理委員。下関水産振興協会・山口県遠洋底曳網漁業協会下関支部各理事。 山口県萩市出身。中央大学中退。1951年、山口県議会議員に当選。住所は山口県萩市唐樋町。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
メイ牛山(メイうしやま、本名・牛山 マサコ、1911年1月2… メイ牛山(メイうしやま、本名・牛山 マサコ、1911年1月25日 - 2007年12月13日)は、日本の美容家、美容師。ハリウッド美容専門学校学長、ハリウッドビューティサロン社長、ハリウッド化粧品のハリウッド株式会社会長を歴任した。山口県防府市出身。牛山清人の後妻。 山口県防府市生まれ。実家は塩田を営んでいた。3歳のとき、父が腸チフスで亡くなり、母の実家に転居。防府市技芸女学校卒業。1929年、18歳で単身上京し、麻布森元町(現在の港区東麻布)に住む叔母の家で働く。 1932年、同郷の友人の紹介で、牛山清人(ハリー牛山)が1927年に東銀座に開業したハリウッド美容室の5階にあったハリウッド美容講習所(ハリウッド美容専門学校の前身)に内弟子として住み込みとなり、すぐ美容師として才能を開花。
今川 正彦(いまがわ まさひこ、1911年(明治44年)1月… 今川 正彦(いまがわ まさひこ、1911年(明治44年)1月4日 - 1996年(平成8年)12月7日)は、日本の官僚、都市計画家・ランドスケープアーキテクト、政治家。1981年から2期8年にわたり京都府京都市長も務める。 山口県防府市出身。岡山県第二岡山中学校(岡山県立岡山操山中学校・高等学校の前身)から再興旧制山口高等学校(山口大学の前身)を経て、1935年(昭和10年)東京帝国大学農学部(東京大学農学部の前身)を卒業。折下吉延に師事。卒業後内務省に入り都市計画千葉地方委員会技師。戦前は中国勤務、1939年に北京の華北政務委員会建設総省に派遣となるがそこで終戦を迎える。都市計画の専門家として暫くは北京に残り、1946年の夏に引き揚げ、翌1947年1月に戦災復興院の施設課長に就任する。
福田 正義(ふくだ まさよし、1911年(明治44年)1月1… 福田 正義(ふくだ まさよし、1911年(明治44年)1月1日 - 2001年(平成13年)12月23日)は、日本の政治活動家。日本共産党(左派)中央委員会議長、長周新聞社主幹。
松井 魁(まつい いさお、1910年12月30日 - 198… 松井 魁(まつい いさお、1910年12月30日 - 1987年8月19日)は、日本の魚類学者。 山口県新南陽市(現・周南市)生まれ。1934年水産講習所(現・東京海洋大学)増殖学科卒。水産講習所助教授、1946年第二水産講習所教授、1952年「日本産鰻の形態及び生態に関する研究」で京都大学理学博士、下関水産科学賞受賞、水産学会賞、1953年小野臨湖実験場長、1954年日本農学会賞受賞、1971年水産大学校長、1975年下関水族館顧問。1976年宇部短期大学学長。1983年勲三等旭日中綬章受勲、主として鰻を研究し、随筆も書いた。
中村 順造(なかむら じゅんぞう、1910年(明治43年)9… 中村 順造(なかむら じゅんぞう、1910年(明治43年)9月26日 - 1969年(昭和44年)2月1日)は、昭和期の労働運動家、政治家。参議院議員。 山口県、現在の美祢市出身。小学校卒業後、中央鉄道教習所運転高等科を卒業し日本国有鉄道に就職。国鉄機関士、華中鉄道機関士、運輸省技官、教官などを歴任。 労働運動に加わり、日本国有鉄道機関車労働組合(のち国鉄動力車労働組合)副委員長、同委員長、機労政治連盟議長、全交通運輸労組協議会副議長などを歴任。 1959年(昭和34年)6月の第5回参議院議員通常選挙で全国区に日本社会党公認で出馬して初当選(補欠、任期3年)し、1962年(昭和37年)7月の第6回通常選挙で全国区から出馬して再選され、参議院議員に連続2期在任した。
田中 龍夫(たなか たつお、1910年〈明治43年〉9月20… 田中 龍夫(たなか たつお、1910年〈明治43年〉9月20日 - 1998年〈平成10年〉3月30日)は、日本の政治家、華族(男爵)。正三位勲一等。首相を務めた田中義一の長男。 戦後間もなく貴族院議員、山口県知事を務め、のち自由民主党に所属し衆議院議員、通商産業大臣、文部大臣を歴任した。福田派の幹部として重きをなし、岸派以来の福田赳夫側近として行動を共にした。また長らく「日本海外移住家族会連合会」の会長を務め、世界各地の日系移民とその家族の支援に尽力した。 1910年(明治43年)9月20日 、陸軍軍人・田中義一の長男として山口県萩市に生まれる。暁星中学校から一浪を経て浦和高等学校(現・埼玉大学)に進学し、東京帝国大学法学部政治学科に入学。
藤本 真澄(、1910年〈明治43年〉7月15日 - 197… 藤本 真澄(、1910年〈明治43年〉7月15日 - 1979年〈昭和54年〉5月2日)は、日本の映画プロデューサー。元東宝副社長、東宝映画初代社長。日本映画黄金期のヒット作を多数手掛けた東宝の看板プロデューサーである。 旧満州旅順生まれ。海軍軍医だった父の転任に伴い、長崎県佐世保市、対馬、広島県呉市、神奈川県横須賀市、京都府京都市、広島市で育ち1928年(昭和3年)、県立山口中学校卒業後2年浪人。少年期から映画に熱を上げ映画館に通いつめ「塚本靖」名で『キネマ旬報』に映画批評を投稿したりした。「塚本靖」名では東宝の新人時代、アイデアを出した数本の映画に原作者としてのクレジットがある。1934年(昭和9年)慶應義塾高等部在学中に三映社でアルバイトをして映画の宣伝を担当、ルネ・クレールの『巴里の屋根の下』(1930年)やリーフェンシュタールの『青の光』(1932年)などを手掛けた。
国弘 員人(くにひろ かずひと、1910年5月20日 - 2… 国弘 員人(くにひろ かずひと、1910年5月20日 - 2002年以前)は、日本の経営学者。 山口県柳井市生まれ。1934年東京商科大学卒業。増地庸治郎の指導を受けた。1940年東京外国語学校教授、1952年旧・東京都立大学教授、1961年東北大学経済学部教授、1961年「収支分岐点」で東北大学経済学博士。1974年定年退官、名誉教授、専修大学教授。81年退職。
斯波 四郎(しば しろう、1910年4月7日 - 1989年… 斯波 四郎(しば しろう、1910年4月7日 - 1989年4月29日)は山口県阿東町(現:山口市)出身の作家で、本名は柴田 四郎である。
三輪 壽雪(みわ じゅせつ、1910年(明治43年)2月4日… 三輪 壽雪(みわ じゅせつ、1910年(明治43年)2月4日 - 2012年(平成24年)12月11日)は、日本の陶芸家。第11代三輪休雪。1983年に人間国宝に認定された。位階は従五位。本名は節夫。 山口県萩市出身。代々萩焼を家業とし、旧萩藩御用窯であった三輪窯の九代休雪・三輪雪堂の三男として誕生する。1927年旧制萩中学校卒業後、兄である十代休雪(隠居後は休和)を助けながら伝統技法を学んだ。1941年に三重県津市に工房を構えていた川喜田半泥子に師事し、茶陶の制作技法を身につける。独立までの約30年間ひたすら修練に打ち込み、召集令が出された1944年以外は作陶の手を休める事はなかった。 1955年に雅号を「休」と称し作家活動を開始。
松山 時夫(まつやま ときお、1910年(明治43年)1月 … 松山 時夫(まつやま ときお、1910年(明治43年)1月 - 1999年(平成11年)1月27日)は、昭和初期の歌手、教育者。本名は柳 歳一(やなぎ としかず)。 山口県小野田市(現山陽小野田市)生まれ。1932年(昭和7年)、東京音楽学校在学中にレコード歌手としてデビューし、パーロホン・リーガルレコード・オーゴンレコードなどにアルバイトとして吹き込んだ。1933年(昭和8年)、高橋掬太郎が作詞しパーロホンから発売した「片瀬波」が大ヒットし、パーロホンがコロムビアに吸収合併された後もリーガルレコードより再発売された。 歌手活動の期間を通して、ステージにも放送にもただの一度も出演しなかったため、長らく素性は謎であった。
上山 政夫 (うえやま まさお、1910年 下関市 山口県 … 上山 政夫 (うえやま まさお、1910年 下関市 山口県 日本 - 1988年 下関市 山口県 日本 )は日本のエスペラント詩人・作家。 世界エスペラント協会の文芸コンクール1位を含め、国内外のエスペラント文芸コンクールで受賞歴をもつ、日本のエスペラント文学における先駆者のひとり。宮本正男との活動によってエスペラント語の俳人としても知られる。 死後、太宰治『斜陽』の翻訳である『La Suno Sinkanta』が雑誌『Riveroj』に掲載された。彼は1964年から1980年まで刊行された文学雑誌『L'omnibuso』で林健をはじめとする若い作家たちを育て、次の世代に大きな影響を与えた。 世界エスペラント協会文芸コンクールの原作詩部門で1位になった日本人は1963年、1965年の宮本正男に次いで2人目。
新川 士郎(しんかわ しろう、1910年-1994年)は、日… 新川 士郎(しんかわ しろう、1910年-1994年)は、日本の経済学者。専門は社会政策。経済学博士。北海道大学名誉教授。元北海道大学学長代理。山口県下関市出身。恩師は井藤半禰。
吉田 セイ(よしだ セイ、1909年(明治42年)12月24… 吉田 セイ(よしだ セイ、1909年(明治42年)12月24日 – 1976年(昭和51年)7月26日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。旧姓、林。 山口県出身。山口県立厚狭高等女学校(現在の山口県立厚狭高等学校)時代の1924年の極東オリンピックに砲丸投の日本代表に選ばれ、9m58の日本新記録を樹立した。卒業後は産婆の資格を取り、その後、広島女子歯科医学校に入り、1931年に卒業、東京で開業した。のちに結婚し、歯科医を続けた。1940年に開かれる予定だった東京オリンピックで砲丸投げの選手として陸連に出場を希望した。しかし、開催は中止となり出場の夢は断たれた。 戦後の1946年の第22回衆議院議員総選挙で神奈川県から新日本婦人党公認で立候補して当選した。
阿武 巌夫(あんの いずお、1909年12月2日 - 193… 阿武 巌夫(あんの いずお、1909年12月2日 - 1939年12月18日)は、日本の男子陸上競技選手。専門は短距離走。山口県出身。 1909年12月22日、山口県阿武郡大井村字市場(現・萩市大井)に、大井八幡宮宮司の阿武四郎の長男として生まれる。 生家の大井八幡宮は阿武郡18郷の総社で参道が100メートル (m)を超える長さだったため、幼少期から参道をトラックに見立てて走り込んでいた。母校、大井尋常高等小学校(現 • 萩市立大井小・中学校)の運動会では俊足過ぎてトラックのカーブを曲がりきれなかったという 1922年(大正13年)4月、旧制山口県立萩中学校(現・山口県立萩高等学校)に進学。萩中時代では従兄弟のいる萩市椿町の金谷天満宮に下宿し、当地から学校まで毎日走って登校していた。
まど・みちお(1909年〈明治42年〉11月16日 - 20… まど・みちお(1909年〈明治42年〉11月16日 - 2014年〈平成26年〉2月28日)は、日本の詩人。作詞家。本名は石田 道雄(いしだ みちお)。25歳のときに北原白秋にその才能を認められた。詩作りは20代から始め、以来生涯にわたって詩を作り続けた。創作意欲の源は、政治・行政・教育・経済・戦争などに対する不満である。「ぞうさん」や「やぎさんゆうびん」などの、そのおおらかでユーモラスな作品は童謡としても親しまれている。表現の前に存在があるという意味で「存在の詩人」とも称された。 山口県都濃郡徳山町(のちの徳山市、現在の周南市)の生まれ。幼い頃に父が仕事の都合で台湾へ渡り、さらにまどが5歳の時に母がまどの兄と妹を連れて同地に移住したため4年ほどの間、祖父と2人での生活を送っている。
大津 正(おおつ まさし、1909年10月13日 - 199… 大津 正(おおつ まさし、1909年10月13日 - 1997年1月29日)は、日本の政治家秘書。共に内閣総理大臣となった岸信介・佐藤栄作兄弟の下で秘書を務めた。山口県熊毛郡田布施町生まれで、この二人とは同郷である。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、政治に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 政治学/ウィキプロジェクト 政治)。
宮本 顕治(みやもと けんじ、1908年〈明治41年〉10月… 宮本 顕治(みやもと けんじ、1908年〈明治41年〉10月17日 - 2007年〈平成19年〉7月18日)は、日本の政治家・共産主義者・文芸評論家。通称ミヤケン。 戦前の非合法政党時代からの日本共産党の活動家であり、戦後、1958年に党の書記長に就任してから40年間、日本共産党を指導した。参議院議員(2期)を務め、日本共産党書記長、同委員長、同議長を歴任。国会に議席を持つ国政政党の党首でありながら、国会議員ではなかった時期がある。 山口県熊毛郡光井村(現・光市)出身。父は、隣の島田村で米穀、肥料、雑貨などの小売商を営んでいたが、中学入学当時に破産状態になり、都濃郡富田村(現・周南市)にあった母の実家に預けられ、そこから中学に1年くらい通った。
末永 茂喜(すえなが しげき、1908年5月5日 - 197… 末永 茂喜(すえなが しげき、1908年5月5日 - 1977年1月22日)は、日本の経済学者。東北大学名誉教授。おもに古典派経済学を研究した。 山口県萩市出身。1931年東北帝国大学法文学部卒。東北帝大副手、1940年助教授、1941年退官、参謀本部調査事務嘱託、中央物価統制協力会議調査部長、総理府統計局経済部長、1950年東北大学経済学部教授。1952年「リカアドウの貨幣論」で経済学博士。経済学部長。1972年定年退官、名誉教授。財団法人・東北経済調査協会理事。
柳井 政雄(やない まさお、1908年2月15日 - 199… 柳井 政雄(やない まさお、1908年2月15日 - 1998年)は日本の部落解放運動家、実業家、政治家、ヤクザ。小郡商事(現、ファーストリテイリング)創業者。同代表、全日本同和会初代会長、同山口県連合会会長、山口県部落対策審議会委員、総理府同和対策協議会ならびに同和対策審議会委員、山口市議会議員、山口県議会議員、田中龍夫後援会会長などを歴任した。 ファーストリテイリング代表取締役会長兼社長の柳井正の父である柳井等の兄にあたる。また、政雄の叔父の柳井傳一は全国水平社の創立大会の参加者で、みずから創設に尽力した山口県水平社の聯盟本部役員を務めた。 山口県吉敷郡小郡町(現・山口市小郡)で牛馬商の柳井周吉の四男として生まれる。
於保 不二雄(おほ ふじお、1908年(明治41年)1月22… 於保 不二雄(おほ ふじお、1908年(明治41年)1月22日 - 1996年(平成8年)1月14日)は、日本の法学者。専門は民法。京都大学名誉教授。学位は、法学博士(京都大学・1955年)。山口県下関市出身。弟子に奥田昌道など。 この項目は、法学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。 この項目は、法曹に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
立野 正一(たての しょういち、1907年(明治40年)9月… 立野 正一(たての しょういち、1907年(明治40年)9月7日 - 1995年(平成7年)6月6日)は、日本の社会主義者。京都市下京区の喫茶店「フランソア喫茶室」の創業者として知られる。 山口県伊佐村(現在の美祢市伊佐町)の楮(こうぞ)卸の商家に生まれる。1915年(大正4年)京都に移住。京都市立美術工芸学校(現在の京都市立銅駝美術工芸高等学校)に入学し、フランソワ・ミレー、フィンセント・ファン・ゴッホの絵画や、志賀直哉、武者小路実篤などの自然主義文学の影響を受ける。また同校在学中の1924年(大正13年)、同じ敷地内にある市立絵画専門学校で教育管理強化に反発する争議(絵専騒動)に出遭う。これが後に立野が社会主義活動に向かう伏線となった。
宮本 常一(みやもと つねいち、1907年8月1日 - 19… 宮本 常一(みやもと つねいち、1907年8月1日 - 1981年1月30日)は、日本の民俗学者・農村指導者・社会教育家。 山口県屋代島(周防大島)生まれ。大阪府立天王寺師範学校(現在は大阪教育大学)専攻科地理学専攻卒業 。 柳田國男を読み、民俗学徒として立つ決心をする。その後渋沢敬三に誘われてアチック・ミューゼアムに入り、本格的に民俗学の研究を行うようになった。 1930年代から病没する直前まで、生涯に渡り日本各地をフィールドワーク(1200軒以上の民家に宿泊したと言われる)を行い、膨大な記録を残した。宮本が残した調査記録の相当部分は別集も含め、長年にわたり刊行した『宮本常一著作集』(未來社)で把握できるが、未収録の記録も少なくない[要出典]。
中原 中也(なかはら ちゅうや1907年〈明治40年〉4月2… 中原 中也(なかはら ちゅうや1907年〈明治40年〉4月29日 - 1937年〈昭和12年〉10月22日)は、日本の詩人・歌人・翻訳家。旧姓は柏村(かしむら)。 代々開業医である名家の長男として生まれ、跡取りとして医者になることを期待されていた。小学校時代は学業成績もよく神童とも呼ばれたが、8歳の時、弟が脳膜炎により病死したことで文学に目覚めた。中也は30歳の若さで死去したが、生涯で350篇以上の詩を残した。その一部は、結婚の翌年刊行した第1詩集『山羊の歌』および中也の死の翌年出版された第2詩集『在りし日の歌』に収録されている。訳詩では『ランボオ詩集』や、数は少ないがアンドレ・ジイドの作品などフランス人小説家の翻訳もしている。
伊藤 芳夫(いとう よしお、1907年4月18日 - 199… 伊藤 芳夫(いとう よしお、1907年4月18日 - 1992年4月4日)は、日本の植物研究家である。サボテンの交配や研究を行い、サボテンに関する多くの著作を行った。 山口県宇部市に生まれた。旧制中学卒業後、独学でサボテンの研究を行った。1952年、中井猛之進の推薦で「南米産サボテンの新分類法」の学位請求論文を提出した。1957年の『サボテン図説 南米物サボテンの分類』はドイツのサボテン研究家で、網羅的なサボテンの事典を作ったドイツのクルト・バッケベルクの著書『サボテン科』("Die Cactaceae: Handbuch der Kakteenkunde")に引用された。新種のサボテン450種を作出し、200以上のサボテンの属や1000以上の種の命名をおこなった。
江藤 智(えとう あきら、1907年(明治40年)1月19日… 江藤 智(えとう あきら、1907年(明治40年)1月19日 - 1982年(昭和57年)6月26日)は、日本の鉄道官僚、政治家。工学博士。位階は従三位、勲等は勲一等。 山口県下関市貴船町で陸軍将校・江藤鋪の二男として生まれた。文関尋常小学校(現下関市立文関小学校)、豊浦中学校(現山口県立豊浦高等学校)、旧制第三高等学校を経て、1929年(昭和4年)3月、京都帝国大学工学部土木工学科を卒業。同年4月、鉄道省に入省した。 函館保線事務所長、大臣官房幹線調査課勤務、広島鉄道局施設部長、本省施設局停車場課長、同施設局次長、札幌鉄道局長、兼北海道営業支配人、本省施設局長、日本国有鉄道理事などを歴任。 1952年(昭和27年)7月30日、『重力操車場の設計について』により京都大学から工学博士の学位を授与された。
岩上 順一(いわかみ じゅんいち、1907年(明治40年)1… 岩上 順一(いわかみ じゅんいち、1907年(明治40年)1月2日 - 1958年(昭和33年)8月14日)は、日本の文芸評論家。 山口県吉敷郡小郡町(現山口市)に生まれる。家が貧しいため、中学進学ができなかったので、小郡の変電所に勤務するが、学業への意志は強く、鴻城中学校の編入試験に合格した。卒業後は早稲田大学に進み、英文科に所属するも、そのころから社会運動にかかわり、何度か検挙され、結局大学は中退という形になった。 その後、会社勤めをしながら評論を書くことを志し、1938年に評論家としての最初の文章が『中央公論』に掲載される。この時期、活発に評論活動を行い、1941年5月3日の『朝日新聞』には「全国民を動かす政治的指導が絶対に必要である。
手塚 英孝(てづか ひでたか、1906年12月15日 - 1… 手塚 英孝(てづか ひでたか、1906年12月15日 - 1981年12月1日)は、日本の文学研究者、作家である。 山口県熊毛郡周防村(現光市小周防)に代々続く医師の長男として生まれる。維新の英蘭学者手塚律蔵は曾祖父の弟にあたる。 旧制徳山中学から慶應義塾大学に進学する。徳山中学在学中に19世紀ロシア文学を愛読、特にトルストイの影響を受ける。慶應在学中に社会運動に参加するようになり、その後当時非合法だった日本共産党に入党し、文化団体の活動をする。日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)の新人作家であったこの時期の作品に1932年に発表した「虱」がある。 1933年に検挙され、出獄した後は同じ中学の一年後輩だった宮本顕治の救援活動をおこない、宮本百合子と協力して獄中でのたたかいを支えた。
江上 波夫(えがみ なみお、1906年11月6日 - 200… 江上 波夫(えがみ なみお、1906年11月6日 - 2002年11月11日)は、日本の考古学者。東京大学名誉教授。文化功労者・文化勲章受章者。 山口県下関市生まれ。1948年に「日本民族=文化の源流と日本国家の形成」と題するシンポジウムで騎馬民族征服王朝説などを発表。その要旨は、「日本における統一国家の出現と大和朝廷の創始が、東北アジアの夫余系騎馬民族の辰王朝によって、4世紀末ないし5世紀前半ごろに達成された」と推論している(著書『騎馬民族国家』より)。 江上が一般の歴史・考古学ファンの心をつかんだのは、ロマンあふれる騎馬民族征服王朝説だった。古事記、日本書紀等の古い時代の資料に日本人が騎馬民族であるかのような記述は見られないが、渡来人に関する記述は数多くみられる。
松田 武(まつだ たけし、1906年(明治39年)8月3日 … 松田 武(まつだ たけし、1906年(明治39年)8月3日 - 1988年(昭和63年)9月4日)は、日本の陸軍軍人、航空自衛官、旧軍需省官僚、実業家である。第4代航空幕僚長。
伍堂 輝雄(ごどう てるお、1906年(明治39年)1月1日… 伍堂 輝雄(ごどう てるお、1906年(明治39年)1月1日 - 1993年(平成5年)12月16日)は、広島県安芸郡下蒲刈島三之瀬出身の実業家、弁護士。元日本航空(JAL)会長。 1906年、弁護士の永野法城の五男、永野輝雄として出生。日本有数の閨閥地図を作り上げたといわれた"永野六兄弟"の一人となった。 海軍中将だった伍堂卓雄に養子入りし、広島高等師範学校附属小学校・中学校(現・広島大学附属小学校、広島大学附属中学校・高等学校)、第六高等学校を経て、東京帝国大学卒業。卒業後、岩田寅造法律事務所に勤務。1933年、日本鋼管顧問弁護士。 昭和鋼管勤務、鉄道大臣秘書官を経て1941年日本鋼管に入社。
松島 詩子(まつしま うたこ、本名:内海 シマ、1905年〈… 松島 詩子(まつしま うたこ、本名:内海 シマ、1905年〈明治38年〉5月12日 - 1996年〈平成8年〉11月19日)は、日本の歌手。山口県玖珂郡日積村(現在の柳井市の一部)出身。夫は戦前期浅草オペラやニットーレコードで歌手として活躍した内海一郎(1898年 - 1972年)。 テレビ東京系「出没!アド街ック天国」のワンコーナー「〇〇物語」のBGMにこの曲のインストゥルメンタルが使われている。