俵田 明(たわらだ あきら、1884年〈明治17年〉11月1… 俵田 明(たわらだ あきら、1884年〈明治17年〉11月13日 - 1958年〈昭和33年〉3月21日)は、日本の実業家、UBE (旧・宇部興産)初代社長。 山口県宇部市出身。士族・俵田勘兵衛の二男。俵田家は宇部領主福原氏家臣の家であったが、他の士族と同様に没落の一途を辿っていた。 興成義塾卒業後は、高輪の大村徳敏の家に書生として住み込みながら築地の工手学校を卒業。その後、電気技術者として陸軍砲兵工廠に職を得るが、1915年(大正4年)、渡辺祐策の誘いを受け沖ノ山炭鉱に入社。炭鉱技師として炭鉱経営に携わる。1928年(昭和3年)に専務に就任し、1942年(昭和17年)に沖ノ山炭鉱、宇部窒素工業、宇部鉄工所、宇部セメント製造を統合して宇部興産を設立し、同社の初代社長に就任した。
山田 晁(やまだ あきら、1884年(明治17年)11月12… 山田 晁(やまだ あきら、1884年(明治17年)11月12日 - 1973年(昭和48年)2月12日)は、日本の実業家。1924年(大正13年)、後にダイキン工業となる合資会社大阪金属工業所を設立、初代社長を務めた。フロン冷凍機技術とフッ素樹脂などを独自開発した事で知られ、ダイキンの主力となるエアコン開発の礎を築いた。位階は正五位。 1884年(明治17年)11月12日、山口県厚狭郡船木村(現:宇部市)に、かつて厚狭毛利家の家臣であった松田隆三の二男として出生したが、当時の松田家は裕福ではなかった。 船木尋常高等小学校高等科2年終了後、一時漢方医の書生となったが、小倉で紙箱製造販売をしていた3歳年上の兄松田隆亮の誘いで小倉へ移り、2年間の受験勉強ののち福岡県立小倉工業学校機械科に入学した。
厚東 常吉(ことう/こうとう つねきち、1884年(明治17… 厚東 常吉(ことう/こうとう つねきち、1884年(明治17年)6月4日 - 1968年(昭和43年)9月12日)は、大正から昭和時代の政治家。実業家。衆議院議員。山口県会議長。旧姓は竹中。号は沐雨、暴雷。 竹中乕吉の三男として、山口県熊毛郡八代村(熊毛町を経て現周南市)に生まれる。幼くして阿武郡椿東村船津(現萩市椿東船津)の叔父厚東武勝の養子となる。萩中学校中退。 椿東村会議員、萩町会議員、阿武郡会議員、1939年(昭和14年)9月、山口県会議員、同参事会員、1941年(昭和16年)11月、同議長を歴任した。 ほか、財界では萩実業会会長、萩商工会、山口県商工経済会、同国民健康保険組合連合会各顧問、同司法保護委員会参与、萩竹材、萩土地建物、長門峡自動車、萩グランド、萩興業建物各取締役社長、常茂恵ホテル社長を務めた。
小野 弥一(おの やいち、1884年(明治17年)2月26日… 小野 弥一(おの やいち、1884年(明治17年)2月26日 - 1939年(昭和14年)4月6日)は、日本の海軍軍人。海軍兵学校33期。最終階級は海軍中将。 山口県玖珂郡玖珂町(現岩国市)出身。小野友蔵長男。岩国中学校を経て、1905年11月海軍兵学校(33期)を卒業。1906年12月に海軍少尉任官。1912年に海軍大学校乙種及び海軍大学校専修を卒業した後、音羽、韓崎の航海長を経て、1915年軍艦政本部艤装員として英国で建造中だった駆逐艦江風の艤装に従事する。 1916年海軍少佐任官。浅間、鞍馬、霧島、比叡の航海長を歴任し、1920年富士(運用術練習艦)教官兼海軍大学校教官に就任。1921年に海軍中佐に任官、海軍大学校教官専任となる。
杉 道助(すぎ みちすけ、1884年(明治17年)2月20日… 杉 道助(すぎ みちすけ、1884年(明治17年)2月20日 - 1964年(昭和39年)12月14日)は、日本の実業家。第二次世界大戦後における大阪・関西財界の代表者。曽祖父は吉田松陰の父である杉常道、祖父は松陰の兄の杉民治。 八木商店社長となり、大阪商工会議所会頭を23年間務め、日本商工会議所副会頭、新日本放送(現・MBSメディアホールディングス)社長、海外市場調査会(現・日本貿易振興機構(略称:JETRO(ジェトロ)を設立後、理事長となる。鳩山一郎内閣において日ソ交渉全権顧問、日韓会談首席代表として政界にも関与した。位階は正三位、勲等は勲一等。 山口県山口市に生まれた。父の相次郎は県庁勤めをしていた。
哥川 スエ(うたがわ スエ、1884年〈明治17年〉1月19… 哥川 スエ(うたがわ スエ、1884年〈明治17年〉1月19日 - 1997年〈平成9年〉5月4日)は、長寿日本一だった山口県の女性。 山口県吉敷郡大道村(現・防府市大道)に生まれ、1910年に結婚。農業をしながら1男3女を育て、1995年7月12日に長寿日本一となる。 1984年、宇部温泉病院に入院。食事や風呂など身の回りのことは自分でやり、時には民謡を歌ったり踊ったりするなど元気に過ごしていたが、1996年11月に急性心不全を起こし、4人部屋からベッドの2人部屋に移り、看護を受けていた。 1997年5月4日、老衰のため山口県宇部市の宇部温泉病院で死去。113歳105日没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
松村 義一(まつむら ぎいち、1883年(明治16年)9月7… 松村 義一(まつむら ぎいち、1883年(明治16年)9月7日 - 1959年(昭和34年)1月6日)は、明治末から昭和前期の内務官僚、政治家。憲政会系官選県知事、貴族院勅選議員。 山口県都濃郡、現在の下松市で商業・松村冷蔵の長男として生まれる。山口中学校、山口高等学校を経て、1909年(明治42年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。1910年(明治43年)11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入り、神奈川県属として内務部地方課に配属された。 1911年(明治44年)4月、神奈川県試補となる。以後、佐賀県事務官、同県視学官、鳥取県視学官、石川県警察部長、広島県警察部長、警察講習所教授兼内務省参事官、山形県内務部長、和歌山県内務部長などを歴任。
白根 竹介(しらね たけすけ、1883年(明治16年)5月2… 白根 竹介(しらね たけすけ、1883年(明治16年)5月25日 - 1957年(昭和32年)3月5日)は、日本の内務官僚。
河田 嗣郎(かわた しろう、1883年〈明治16年〉4月22… 河田 嗣郎(かわた しろう、1883年〈明治16年〉4月22日 - 1942年〈昭和17年〉5月21日)は、日本の経済学者。京都帝国大学経済学部教授を経て、大阪商科大学(現:大阪市立大学)初代学長。 山口県玖珂郡に地主・河田正輔の長男として生まれる。旧制山口中学・旧制山口高校(旧旧山高)を経て京都帝国大学法科大学を卒業、「恩賜の銀時計」を授与される。 卒業後国民新聞に入社するがすぐに京都帝大に戻って講師・助教授となり、欧米への留学後教授に昇進した。京大での経済学部独立に際しては同学部教授となり、社会政策学・農政学などを担当、学部長も務めた。同郷の出身で中学・高校でともに学び、京大法科・経済学部では同僚となった河上肇とは家族ぐるみの親交を結んだ。
羽仁 潔(はに きよし、1883年〈明治16年〉4月18日 … 羽仁 潔(はに きよし、1883年〈明治16年〉4月18日 - 1945年〈昭和20年〉7月27日)は、大日本帝国海軍大佐。山口県徳山市(現・周南市)長。正五位・勲三等。 山口県阿武郡萩町(現・萩市)出身。海軍兵学校第33期(同期に豊田副武、豊田貞次郎ら)。 1905年(明治38年)、少尉候補生となり、厳島乗組となる。1906年(明治39年)、練習艦隊遠洋航海に参加。その後、沖島分隊長兼佐世保海兵団教官、吾妻、安芸の各砲術長、八雲副長、隠戸、平戸の各艦長となり、1928年(昭和3年)に大佐で退役した。 退役後は萩市助役を経て、1940年(昭和15年)に徳山市長に就任した。市長就任後は市章の制定、上水道の開通、隣接の都濃郡加見、久米の2村の編入(1942年)、櫛浜、富田、福川の3町、湯野、夜市、戸田、大津島の4村との合併による新徳山市の発足、市の行政機構の再編(1944年)などがあり、羽仁は1944年(昭和19年)6月12日に市長に再任した。
粟屋 謙(あわや けん、1883年(明治16年)3月21日 … 粟屋 謙(あわや けん、1883年(明治16年)3月21日 - 1938年(昭和13年)4月2日)は、日本の文部官僚、滝川事件当時の文部次官。山口県下関市長府出身。長府藩報国隊を組織した野々村勘九郎の孫。 旧長府藩士・教員である粟屋平一の長男として東京で生まれる。豊浦中学、第三高等学校を経て、1907年7月で東京帝国大学法科大学法律学科(独法)卒業し大学院に進む。同年7月、内務省に入省し東京府属となる。同年11月、文官高等試験に合格。以後、内務属、茨城県事務官を歴任。 1911年5月、文部省に転じ文部書記官兼文部省参事官に就任。1913年、宗教局が内務省から文部省に移管されたのを機に、宗教法制定に尽力。
伊木 壽一(いぎ ひさいち、明治16年(1883年)3月3日… 伊木 壽一(いぎ ひさいち、明治16年(1883年)3月3日 - 1970年11月28日)は、日本の歴史学者。専門は日本古文書学。 1883年(明治16年)、山口県大津郡三隈村(現在の山口県長門市)で山口県士族伊木尚義の長男として生まれた。山口中学校、山口高等学校を経て、東京帝国大学文科大学史学科に進学。1906年に卒業。同大学大学院に入学し、古文書学を専攻した。 1907年、東京帝国大学史料編纂掛嘱託となり、『大日本古文書』の伊達家文書・相良家文書等の編纂に従事。1908年からは國學院大學、1911年からは慶應義塾大学部で講師として古文書学を講義した(兼任)。1925年に史料編纂官となり、『大日本史料』第9編の編纂を手掛けた。
種田 山頭火(たねだ さんとうか、本名:種田 正一(たねだ … 種田 山頭火(たねだ さんとうか、本名:種田 正一(たねだ しょういち)、1882年〈明治15年〉12月3日 - 1940年〈昭和15年〉10月11日)は、日本の自由律俳句の俳人。山頭火とだけ呼ばれることが多い。 山口県佐波郡(現在の防府市)生まれ。『層雲』の荻原井泉水門下。1925年に熊本市の曹洞宗報恩寺で出家得度して耕畝()と改名。各地を放浪しながら1万2000余りの句を詠んだ。 自由律俳句の代表として、同じ『層雲』の荻原井泉水門下の同人、尾崎放哉と並び称される。山頭火、放哉ともに酒癖によって身を持ち崩し、師である井泉水や兼崎地橙孫ら支持者の援助によって生計を立てていた。その基因は、11歳の頃の母の投身自殺にある。
阿武 天風(あぶ てんぷう、1882年〈明治15年〉9月8日… 阿武 天風(あぶ てんぷう、1882年〈明治15年〉9月8日 - 1928年〈昭和3年〉6月22日)は、日本の海軍軍人、小説家、編集者。雑誌『冒険世界』の主筆を務めるなどして、冒険小説を多く発表した。代表作に『太陽は勝てり』など。 本名は阿武 信一(あんの しんいち)。別名義に「髭の少尉」、「虎髯大尉(こぜんたいい)」、「阿武激浪庵」、「怒濤庵少尉」、「黒面中尉」、「黒面魔人」などがある。ただし、これら別名義に関しては、河岡潮風など阿武の周囲の人物が用いていた場合もあり、これらの名義で執筆された文章の全てが阿武のものであるというわけではない。1928年(昭和3年)6月に、松野に改姓し松野 信一となる。
周布 兼道(すふ かねみち、1882年3月 - 1955年6… 周布 兼道(すふ かねみち、1882年3月 - 1955年6月29日)は、日本の貴族院議員。男爵。周布公平の長男。長州藩士・周布兼翼(周布政之助)の孫にあたる。
戸倉 英太郎(とくら えいたろう、1882年〈明治15年〉2… 戸倉 英太郎(とくら えいたろう、1882年〈明治15年〉2月7日 - 1966年〈昭和41年〉7月29日)は、昭和時代の神奈川県の郷土史家。福岡県出身。 1882年(明治15年)2月7日、現在の福岡県福岡市博多区に士族の長男として生まれる。娘の戸倉英美によれば「いわゆる貧乏士族」であり、少年時代には、筑豊の炭鉱主・伊藤伝右衛門のもとで丁稚奉公をしたという。1900年(明治33年)3月に赤間関商業学校(現在の下関商業高等学校)を卒業した。 1903年(明治36年)4月に宇和島商業学校(現在の愛媛県立宇和島東高等学校)教諭となる。1905年(明治38年)に釜山に渡り、釜山第一公立尋常小学校の訓導となる。
上原 太一(うえはら たいち、1881年(明治14年)5月 … 上原 太一(うえはら たいち、1881年(明治14年)5月 - 1917年(大正6年)6月11日)は、日本の海軍軍人。 第一次世界大戦で戦死した「榊」の艦長である。最終階級は海軍中佐。 山口県出身。鴻城義塾を経て1900年(明治33年)海軍兵学校に進み、1903年(明治36年)卒業(31期)。同期に加藤隆義、長谷川清、及川古志郎らがいる。 兵学校卒業後、遠洋航海の前段である内地航海に出発したが、日露戦争の開戦により急遽「八島」乗組みとなり実戦に参加。しかし「八島」は旅順港外において触雷し沈没。上原は「富士」に転乗となる。海軍少尉に任官し、「赤城」を経て、「厳島」乗組みとして日本海海戦に参戦した。
植田 末蔵(うえだ すえぞう、1881年〈明治14年〉 - … 植田 末蔵(うえだ すえぞう、1881年〈明治14年〉 - 1943年〈昭和18年〉)は、日本の政治家、実業家。山口県豊浦郡彦島町長。山口県会議員。植田商事常務取締役。植田合名会社員。植田商店代表。山口県参事会員。 山口県豊浦郡彦島町(現・下関市)出身。長い間町村会議員、郵便局長、郡会議員をつとめた。1923年、満場の推選で町長となった。また会社の重役であった。 彦島で海運業、運送業、貸地貸家業、労力請負業などを営んでいた植田惣五郎の二男。性格は純で、正直な事で有名であった。趣味は釣り。宗教は真宗。住所は山口県下関市江ノ浦町。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
鮎川 義介(あゆかわ よしすけ/あいかわ よしすけ、 188… 鮎川 義介(あゆかわ よしすけ/あいかわ よしすけ、 1880年(明治13年)11月6日 – 1967年(昭和42年)2月13日)は、日本の実業家、政治家。日産コンツェルン創始者である。満洲重工業開発株式会社総裁、貴族院議員、帝国石油株式会社社長、石油資源開発株式会社社長、参議院議員などを歴任した。 明治13年(1880年)、旧長州藩士・鮎川弥八(第10代当主)を父とし、明治の元勲・井上馨の姪を母として山口県吉敷郡大内村(現在の山口市大内地区)に生まれる。 山口県立山口尋常中学校、旧制山口高等学校を経て、1903年(明治36年)に東京帝国大学工科大学機械科を卒業。芝浦製作所に入社。身分を明かさない条件で日給48銭の職工となる。
末次 信正(すえつぐ のぶまさ、1880年〈明治13年〉6月… 末次 信正(すえつぐ のぶまさ、1880年〈明治13年〉6月30日 - 1944年〈昭和19年〉12月29日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍大将、従二位・勲一等。第1次近衛内閣の内務大臣。実弟に古河鉱業取締役の末次猛。坊ノ岬沖海戦で戦死した末次信義海軍中佐は長男。 旧徳山藩士・末次操九郎の次男として山口県に生まれる。広島一中から海軍兵学校(27期)に進み、114名中50番で卒業した。卒業席次は平凡であったが、日露戦争に出征後、海軍最高学府である海軍大学校甲種学生(7期)を首席で卒業した。 1910年(明治43年)、海軍砲術学校教官となった末次は、艦の中心線上一列に主砲を装備し、一斉射撃の効率を高める独創案を無断で学生に伝授した。
松岡 洋右(まつおか ようすけ、1880年(明治13年)3月… 松岡 洋右(まつおか ようすけ、1880年(明治13年)3月4日 - 1946年(昭和21年)6月27日)は、日本の外交官、政治家。 南満洲鉄道(満鉄)総裁を務め、満洲国の実力者「弐キ参スケ」の一人とされた。第2次近衛内閣では外務大臣に就任し、日独伊三国同盟や日ソ中立条約締結を推進。しかしドイツのソ連侵攻後は南進論が大勢を占める政府で北進論を主張し、第3次近衛内閣発足を機に事実上外相を解任された。アメリカ合衆国外交官ジョセフ・グルーと親交があり、佐藤栄作は義理の甥にあたる(妹の娘婿で養子)。 1880年(明治13年)3月4日廻船問屋の四男として、山口県熊毛郡室積村(現:光市室積)で生まれた。 洋右が11歳の時に父親が事業に失敗し破産したことや、親戚が渡米し成功していたことから、1893年(明治26年)に留学のため13才で渡米する。
坂田 幹太(さかた みきた、1879年(明治12年)12月1… 坂田 幹太(さかた みきた、1879年(明治12年)12月13日 - 1958年(昭和33年)10月18日)は、日本の内務官僚、政治家、実業家。県知事、貴族院議員。旧姓・水谷。
河上 肇(かわかみ はじめ、1879年(明治12年)10月2… 河上 肇(かわかみ はじめ、1879年(明治12年)10月20日 - 1946年(昭和21年)1月30日)は、日本の経済学者。 京都帝国大学でマルクス経済学の研究を行っていたが、教授の職を辞し、共産主義の実践活動に入る。日本共産党の党員となったため検挙され、獄中生活を送る。カール・マルクス『資本論』の翻訳(第一巻の一部のみ翻訳)やコミンテルン32年テーゼの翻訳のほか、ベストセラー『貧乏物語』の他に、『第二貧乏物語』『資本論入門』の著作がある。死後に刊行された『自叙伝』は広く読まれた。名文家であり、漢詩もよく知られている。福田徳三とは終生のライバルであった。 山口県玖珂郡岩国町(現在の岩国市)に旧岩国藩士の家に生まれる。
寺内 寿一(てらうち ひさいち、旧字体: 寺內壽一、1879… 寺内 寿一(てらうち ひさいち、旧字体: 寺內壽一、1879年(明治12年)8月8日 - 1946年(昭和21年)6月12日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は元帥陸軍大将。勲等は勲一等。爵位は伯爵。山口県出身。
大野 守衛(おおの もりえ、1879年(明治12年)3月1日… 大野 守衛(おおの もりえ、1879年(明治12年)3月1日 – 1958年(昭和33年)7月18日)は、日本の外交官。神奈川県藤沢市長。錦鶏間祗候[3]。
三隅 哲雄(みすみ てつお、1878年(明治11年)11月1… 三隅 哲雄(みすみ てつお、1878年(明治11年)11月12日 – 1949年(昭和24年)2月12日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員。 山口県厚狭郡、のちの厚南村(現宇部市)で、豪農・三隅城介の長男として生まれる。山口中学校(現山口県立山口高等学校)を卒業。 1902年(明治35年)厚狭郡青年会を組織し、農会の活動にも参画した。1912年(明治45年)長門銀行の第3代頭取に就任し、1918年(大正7年)まで在任。その他、宇部軽便鉄道取締役、船木軽便鉄道取締役、美弥軽便鉄道監査役、山口県農会副会長、厚狭郡農会長、防長米同業組合副組長などを務めた。 政界では、山口県会議員、同参事会員を務めた。
河野 徳之助(こうの とくのすけ、1878年〈明治11年〉1… 河野 徳之助(こうの とくのすけ、1878年〈明治11年〉10月1日 - 没年不明)は、日本の政治家(下関市会議員)、商人(米穀商)、山口県多額納税者、下関米穀取引所取引員、日本米穀市場員、実業家。埴生養殖場代表。炭鉱会社吉豊公司取締役。第一証券監査役。族籍は山口県平民。 山口県豊浦郡彦島町(現・下関市)出身。河野仁左衛門の三男、同久蔵の弟。彦島の一介の農家の生まれだが、幼い頃から才気縦横、僻村の一農民として終始すべき器でなかった。 小学校を出ると米穀商の前途があることを察知し16歳にして自ら店員に甘んじて下関市江村商店に入った。番頭、支配人と進級する。 26歳の頃独立して米穀仲買店舗を開いた。
中野 治介(なかの じすけ、1878年(明治11年)5月7日… 中野 治介(なかの じすけ、1878年(明治11年)5月7日 - 1951年(昭和26年)3月8日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、山口市長。弁護士。 山口県吉敷郡山口町(現在の山口市)出身。1898年(明治31年)に裁判所書記登用試験に合格し、裁判所書記となった。1903年(明治36年)に弁護士試験に合格して弁護士となり、後には山口弁護士会会長に選出された。山口町会議員、山口県会議員、同議長を歴任。 1933年(昭和8年)、山口市長に選出された。その後、1936年(昭和11年)の第19回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第20回衆議院議員総選挙でも再選された。 その他、山口土地建物株式会社監査役を務めた。
日田 権一(ひた ごんいち、1877年(明治10年)12月2… 日田 権一(ひた ごんいち、1877年(明治10年)12月27日 - 1966年(昭和41年)12月25日)は、日本の教育者、文部官僚。 山口県厚狭郡厚南村(現在の宇部市)にて士族の日田熊之進の長男として生まれる。1906年(明治39年)、東京高等師範学校英語科を卒業した。京都府師範学校教諭・附属小学校主事、東京府女子師範学校教諭を務めた。1920年(大正9年)、東京高等師範学校修身教育専攻科を修了。その後、東京高等師範学校教授・附属小学校主事を務め、1928年(昭和3年)にアメリカ合衆国に留学した。1934年(昭和9年)より文部事務官・督学官となり、宗教局・教育調査部勤務、教育調査審議課長を歴任した。
永井 来(ながい きたる、1877年(明治10年)1月7日 … 永井 来(ながい きたる、1877年(明治10年)1月7日 - 1934年(昭和9年)2月14日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。従三位勲二等功五級。旧姓・楊井。 山口県玖珂郡広瀬村大字船津(現・岩国市錦町)出身。楊井正之進の二男として生れ、西南戦争の植木口の戦いで戦死した同郷の陸軍少佐・永井勝正の養嗣子となる。陸軍幼年学校を経て、1896年(明治29年)11月、陸軍士官学校(8期)を卒業。1897年(明治30年)6月、歩兵少尉に任官し歩兵第21連隊付となる。1903年(明治36年)11月、陸軍大学校(17期)を優等で卒業。 1904年(明治37年)6月、歩兵大尉に昇進し歩兵第17連隊中隊長に就任。
林 滝野(はやし たきの、1877年(明治10年) - 19… 林 滝野(はやし たきの、1877年(明治10年) - 1966年(昭和41年)4月3日)は、山口県佐波郡徳地町(現在の山口市徳地)出身の雑誌編集者。雑誌「明星」の初期の編集発行人。与謝野鉄幹、正富汪洋の妻。 1877年(明治10年)、山口県佐波郡徳地町(現在の山口市徳地伊賀地新田)にある旧家に生まれた。父親は林小太郎。私立徳山女学校の在学中には教員だった与謝野鉄幹に処女を捧げ、教師と女生徒の間の恋愛関係に陥った。年配者が多かった徳山女学校の教員の中で、鉄幹は数少ない若手教員だった。滝野は16歳だった1893年(明治26年)に徳山女学校を卒業している。 林小太郎は鉄幹が林家の養子になるなら結婚を認めるつもりだったが、田舎住まいなどまっぴらごめんの鉄幹は小太郎の申し出を拒否。
松木 直亮(まつき なおすけ、1876年11月5日 - 19… 松木 直亮(まつき なおすけ、1876年11月5日 - 1940年5月22日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。
植田 松蔵(うえだ まつぞう、1876年(明治9年)9月30… 植田 松蔵(うえだ まつぞう、1876年(明治9年)9月30日 - 没年不明)は、日本の実業家。彦島運輸社長。植田合名会社代表。日本紙製造取締役。 山口県豊浦郡彦島町(現・下関市)出身。彦島の素封家・植田惣五郎の長男。弟は彦島町長の植田末蔵。由緒ある家系の血を享けて悠然貴公子のごとく何等の煩悶もなく成育した。 1921年、家督を相続した。天性磊落、名利に恬淡であった。政治に野心なく、社交に趣味がなかったため、比較的世に知られなかった。 『商工資産信用録 第43回』によると植田松蔵(調査年月・1940年2月)は「正身身代・H、年扱高又は年収・不詳、信用程度・Cb、職業・貸地貸家、労力請負」である。
松林 桂月(まつばやし けいげつ、1876年8月18日 - … 松林 桂月(まつばやし けいげつ、1876年8月18日 - 1963年5月22日)は、日本画家。山口県萩市生まれ。元の姓は伊藤、本名は篤。字は子敬。別号に香外、玉江漁人。妻の松林雪貞(せってい)も日本画家。 「最後の文人画家」とも評され、渡辺崋山や椿椿山ら崋椿系の流れをくむ精緻で謹直な描写を基礎に、近代の写生画の流行を十分に取り込みながら、そこに漢籍、漢詩の素養に裏付けされた品格の高い作風を特色とする。 萩市中渡(現・山田)出身。尋常小学校卒業後、地元の素封家・瀧口吉良の援助を受けて上京。1894年野口幽谷に師事。南画の表現に新たな世界を開拓し、南画界の重鎮と言われる。官展の中心画家で、1906年日本南宗画会を結成。
中原 謙助(なかはら けんすけ、1876年(明治9年)6月1… 中原 謙助(なかはら けんすけ、1876年(明治9年)6月19日 - 1928年(昭和3年)5月16日)は、日本の陸軍軍医、政治家。旧姓は小林、野村、柏村。元山口町議会議員。元湯田医院(中原医院)長。従五位勲四等。 山口県厚狭郡厚東村(現宇部市)の農家小林八九郎、フデの次男として生まれた。小学生の頃、父親の八九郎が離婚、浜田スミという女性と再婚。謙助は八九郎の姉のミキが嫁いでいた野村家の養子になる。棚井小学校(現・宇部市立厚東小学校)の教師から苗字が変わったことを告げられた謙助はその場で泣き出したという。 小学校卒業と同時に、母の実家・藤井家の従兄藤井幸八のすすめによって上京を決意する。藤井幸八は名医として聞え、藤井眼科医院は遠近からの患者で大いに栄え、入院患者を収容するのに付近の農家を借りるほどだった。
矢島 専平(やじま せんぺい、1876年〈明治9年〉3月4日… 矢島 専平(やじま せんぺい、1876年〈明治9年〉3月4日 - 1955年〈昭和30年〉6月17日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。旧姓・小倉。 山口県熊毛郡島田村(周南町、光町を経て現光市)出身。小倉甚吉の三男として生まれ、矢島作郎の養子となる。1898年(明治31年)陸軍士官学校(10期)卒。陸軍歩兵大尉となり、日露戦争に参加する。その後、長周銀行頭取、下松銀行、北満州金鉱(株)各取締役となる。 1920年(大正9年)第14回衆議院議員総選挙において山口7区から無所属で立候補して当選する。のち、庚申倶楽部に入り、衆議院議員を1期務め、1924年(大正13年)第15回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。
松井 信助(まつい しんすけ、旧姓・大山、1875年〈明治8… 松井 信助(まつい しんすけ、旧姓・大山、1875年〈明治8年〉11月15日 - 1949年〈昭和24年〉6月5日)は、明治から昭和時代前期の統監府警視、朝鮮総督府尹、大邱府尹、平壌府尹、政治家。山口県下関市長。下関商工会議所顧問。 山口県阿武郡奈古村(現・阿武町奈古)出身。大山忠左衛門の三男、大山彦五郎の弟で、松井豊吉の養子となり後分家する。1903年(明治36年)6月、山口県警部。1906年(明治39年)8月、朝鮮釜山理事庁警部。 1909年(明治42年)、朝鮮統監府警視。朝鮮木浦警察署長、北部警察署長、京城鐘路警察署長などを務める。1918年(大正7年)8月、朝鮮総督府尹、大邱府尹。 ついで、1924年(大正13年)12月に平壌府尹。
福田 彦助(ふくだ ひこすけ、1875年11月5日 - 19… 福田 彦助(ふくだ ひこすけ、1875年11月5日 - 1959年7月30日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
阿部 宗孝(あべ むねたか、1875年(明治8年)6月20日… 阿部 宗孝(あべ むねたか、1875年(明治8年)6月20日 - 1944年(昭和19年)3月31日)は、日本の教育者。山口県豊浦郡( 現・下関市)の出身である。東京府立六中(都立新宿高校)初代校長、府立高等学校2代目校長。 1875年(明治8年)6月20日、山口県豊浦郡豊田中村(現:下関市豊田町)に、豊浦藩藩士・阿部宗忠の二男として出生。初め伝(つたえ)、1911年(明治44年)に宗孝と改名し、陸柱と号した。兄が早逝したため嫡子となった。 1902年(明治35年)に東京帝国大学文科大学国史科を卒業後、神奈川県立第二中学校(現:神奈川県立小田原高等学校)へ教諭として赴任した。赴任当初は絣木綿の着物に袴をつけていたことからまるで書生のようであったという。
秋田 寅之介(あきた とらのすけ、旧姓・秋富、1875年〈明… 秋田 寅之介(あきた とらのすけ、旧姓・秋富、1875年〈明治8年〉4月1日 - 1953年〈昭和28年〉9月11日)は、日本の政治家(衆議院議員、下関市会議員・同議長)、資産家、実業家。秋田商会社長。族籍は山口県平民。 山口県厚狭郡藤山村(現・宇部市)生まれ。秋富傳五郎の二男。秋富久太郎の弟。11歳の時叔父の許に小僧となり追い使われるが、忠実に働いて僅かな暇にも『立志伝』を読む。 1893年、19歳で先代松次郎の養子となる。1917年、家督を相続する。家業の海運業に従事する傍ら、海陸産物の売買にも事業を拡げる。日清戦争中には食糧・雑貨などを朝鮮、満州方面へ輸送し、戦後は台湾へ木材や食糧を販売して大きな利益を得る。
高橋 武太郎(たかはし たけたろう、1874年〈明治7年〉5… 高橋 武太郎(たかはし たけたろう、1874年〈明治7年〉5月1日 - 1951年〈昭和26年〉4月18日)は、明治後期から昭和時代にかけて活動した日本の電気技術者、実業家である。長野県の電力会社信濃電気で常務取締役を務めたのち独立し研削材メーカーの信濃電気製錬(旧・大正電気製錬所)を起業した。岡山県出身。 岡山県民・山形和吉の六男として1874年(明治7年)5月1日に生まれる。出身地は岡山県苫田郡津山町(現・津山市)。1878年(明治11年)2月高橋家に養子入りし家を継いだ。山口県立山口中学校を経て山口高等学校に入り、1896年(明治29年)7月に卒業。次いで1899年(明治32年)7月東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業した。
沢田 牛麿(さわだ うしまろ、1874年(明治7年)2月6日… 沢田 牛麿(さわだ うしまろ、1874年(明治7年)2月6日 - 1958年(昭和33年)1月29日)は、日本の内務官僚、政治家。貴族院議員。 高知県土佐郡布師田村(現:高知市)で旧土佐藩士沢田誠一の長男として生まれる。山口中学、山口高等学校を経て、1899年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。陸軍省に入り、陸軍属として大臣官房付となる。以後、陸軍省参事官、警察監獄学校教授兼内務省参事官などを歴任。その後、東京府事務官に転じ、韓国統監府警視、兼統監府書記官、鹿児島県内務部長などを務めた。 1918年10月、青森県知事に就任。以後、佐賀県・石川県・福岡県の各知事を歴任した。
江木 翼(えぎ たすく、1873年〈明治6年〉12月5日 -… 江木 翼(えぎ たすく、1873年〈明治6年〉12月5日 - 1932年〈昭和7年〉9月18日)は、日本の内務官僚、政治家。法学博士。幼名は恵助(えすけ)。 1873年(明治6年)12月5日、山口県御庄村(現在の岩国市)に酒造業を営む羽村卯作の三男として生まれる。山口中学校、山口高等中学校予科、本科を経て、東京帝国大学法科大学英法科へ進学、1897年(明治30年)5月17日に、枢密顧問官、文部大臣、貴族院議員となる江木千之の養子となる。同年7月、帝大を卒業し、大学院に進学。1898年(明治31年)12月、文官高等試験に合格。1899年(明治32年)1月、内務省に入省する。神奈川県事務官、法制局参事官、1910年(明治43年)には拓殖局部長を歴任する。
吉川 安平(よしかわ やすひら、1873年(明治6年)11月… 吉川 安平(よしかわ やすひら、1873年(明治6年)11月17日 - 1959年(昭和34年)1月1日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 山口県出身。吉川弥之助の長男として生れる。周陽学舎、鴻城義塾、山口高等学校を経て、1895年12月、海軍兵学校(22期)を卒業し、1897年1月、海軍少尉任官。日露戦争では、第14水雷艇隊艇長として出征し、日本海海戦には、駆逐艦「陽炎」艦長として参加した。海兵副官を経て、1909年5月、海軍大学校(甲種6期)を卒業した。 「豊橋」副長、第1潜水艇隊司令、イギリス駐在、海大教官、「伊吹」副長、第3艦隊参謀長、「利根」艦長、艦政本部造船造兵監督官、海軍省人事局第1課長、「比叡」艦長などを歴任し、1919年12月、海軍少将に進級。
永地 秀太(ながとち ひでた、旧姓:有吉 秀太(ありよし ひ… 永地 秀太(ながとち ひでた、旧姓:有吉 秀太(ありよし ひでた)、1873年(明治6年)7月15日 - 1942年(昭和17年)12月14日)は、明治-昭和前期の洋画家。太平洋画会 創立メンバー、陸軍嘱託画家、文展(旧帝展)審査員、旧東京高等工芸学校(現・千葉大学工学部)教授。1944年、レジオンドヌール勲章(シュバリエ)受賞。贈従四位。山口県出身。
末光 鉄之助(鐡之助、すえみつ てつのすけ、1873年〈明治… 末光 鉄之助(鐡之助、すえみつ てつのすけ、1873年〈明治6年〉6月 - 1950年〈昭和25年〉5月29日)は、日本の実業家、ジャーナリスト 。関門日日新聞社社長。関門日報社顧問。同盟通信社理事。山口県多額納税者。 閑院宮載仁親王受賞者。日本新聞協会総裁受賞者。 山口県豊浦郡赤間関(現下関市)で同県人・末光貞右衛門の長男として生まれ、1929年に家督を相続する。住所は山口県下関市阿弥陀寺町(赤間神宮の所在地)、山口県在籍。 山口県内の新聞社である馬関物価日報、下関実業日報、関門日日新聞社などの複数の新聞社及び東京等複数の支社の社長等を務める。 中でも、関門日日新聞社は、当時の山口県下では、発行部数トップの新聞社であった。
有川 鷹一(ありかわ たかいち、1873年(明治6年)4月2… 有川 鷹一(ありかわ たかいち、1873年(明治6年)4月21日 - 1955年(昭和30年)1月31日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 山口県豊浦郡、のちの長府町字金屋浜(現下関市)出身。旧長府藩士・有川常友の長男として生れる。山口高等中学校中退を経て、1895年(明治28年)2月、陸軍士官学校(6期)を卒業。同年5月、工兵少尉に任官し工兵第5大隊付となる。1898年(明治31年)12月、陸軍砲工学校高等科(6期)を優等で卒業し陸軍築城部本部付となる。 1899年(明治32年)8月、ドイツ駐在となり、砲工学校教官を経て、1904年(明治37年)6月、第8師団兵站電信部長に就任して、同年10月から1906年(明治39年)1月まで日露戦争に出征し、この間、第3軍司令部付(兵站電信部長)を務めた。
磯部 検三(いそべ けんぞう、明治5年10月13日(1872… 磯部 検三(いそべ けんぞう、明治5年10月13日(1872年11月13日) - 1949年(昭和24年)8月3日)は、日本の医師、学校経営者。日本医科大学の前身・日本医学校の創立に事務責任者(肩書は「幹事」)として関与し、のちに日本医科大学の維持員となった。かつては本人の主張に基づき日本医科大学の創立者として扱われていたが、現在では創立者と見なされていない。磯部の申し立てた経歴や業績には詐称や虚飾が多かったことが判明している。 名前は検蔵とも表記される。また嬰賓、孔夏、椿軒とも号した。 明治5年(1872年)10月13日、長門国厚狭郡(現・山口県山陽小野田市埴生)の医師・重枝化甫の三男として生まれ、叔父の磯部禎太郎の養子となった。
岡村 勇二(おかむら ゆうじ、1872年〈明治5年〉9月11… 岡村 勇二(おかむら ゆうじ、1872年〈明治5年〉9月11日 - 没年不明)は、日本の地方官吏。 明治から大正にかけて、山口県の地方官吏として活躍し、熊毛郡や阿武郡、都濃郡の郡長を務めた。阿武郡長在任時には長門峡の発見・開発に尽力したことで知られる。 1872年〈明治5年〉9月11日、山口県吉敷郡大内村(現在の山口市)で、森重勇雄の四男として生まれる。のちに岡村家に養子に入る。 1898年(明治31年)に山口県属となる。庶務課、山口県教育会などの業務を担当したのち、1913年(大正2年)5月に熊毛郡の郡長に着任。1915年(大正4年)7月に阿武郡の郡長に転任する。 阿武郡長時代の1918年(大正7年)9月には、当時郡制の廃止が議論されていたことから、阿武郡の歴史をまとめた「阿武郡志」の編纂を計画。
大庭 柯公(おおば かこう、1872年8月30日〈明治5年7… 大庭 柯公(おおば かこう、1872年8月30日〈明治5年7月27日〉 - 没年不詳)は、日本の新聞記者・随筆家。本名は景秋()。山口県長府(現・下関市)出身。 白石正一郎の弟である大庭傳七(景明)の三男として生まれる。傳七は長府大年寄大庭家の養子で長府藩士であったが、明治維新後、太政官に出仕したため、養父に従って上京した。しかし、傳七は1884年に死去。大庭は小学校卒業後は太政官の給仕などの仕事をしながら夜学で英語やロシア語を学ぶ。これらの学習を通じて二葉亭四迷と交際を持った。 1896年にウラジオストクに渡航し、商館で通訳を務めた。帰国後、第11師団のロシア語教官や陸軍参謀本部の通訳官を歴任する。