内藤 佐和子(ないとう さわこ、1984年〈昭和59年〉3月… 内藤 佐和子(ないとう さわこ、1984年〈昭和59年〉3月28日 - )は、日本の政治家、会社役員。徳島市長(1期)。徳島県初の女性首長であり、2023年10月までは、日本で最年少の女性市長であった。 徳島県徳島市出身。生光学園幼稚園、徳島市立応神小学校、徳島文理中学校・高等学校を卒業。2003年(平成15年)東京大学文科三類に入学したが、文科一類を受験し直して再入学し、2010年(平成22年)法学部第3類(政治コース)卒業。東大に在学中の20歳の時、神経を覆う髄鞘が壊れて剥き出しになる難病(特定疾患)多発性硬化症にかかった。 2005年、家業の機械製造会社、株式会社応神鉄工の取締役に就任。 2009年、東京で暮らす徳島県出身の学生らと「徳島活性化委員会」を結成し、代表に就いた。
土居一洋(どい かずひろ、1978年12月14日 - )は、… 土居一洋(どい かずひろ、1978年12月14日 - )は、兵庫県神戸市生まれ、徳島県鳴門市出身の環境運動家、実業家。私設の移動図書館である『じてんしゃ図書館』の元館長。現在は団子屋『ひとえや』店主(詳細は後述)。 ※本人の記憶に基づく情報であるため、報道機関毎に多少の差異がある。 自動車関係の専門学校を中退し、21歳の時に仕事を求めて愛知県に移住。工場の派遣社員などで半田市や豊田市などに移り住み、2003年の秋に岡崎市に落ち着く。岡崎市内で住宅関連企業のサラリーマンとして会社勤めをしていた2004年3月のある日、会社帰りにたまたま立ち寄った豊田市内の書店「ヴィレッジヴァンガード」で『百年の愚行』という本と出合う。
RYOJI.M(リョウジ・エム、本名:前林 良治、1977年… RYOJI.M(リョウジ・エム、本名:前林 良治、1977年(昭和52年)8月24日 - )は、日本の音楽プロデューサー・ソングライター・実業家。徳島県徳島市出身。 徳島県徳島市出身。鳴門教育大学附属小学校・鳴門教育大学附属中学校・徳島県立城東高等学校を卒業。福井県立大学・東京水産大学を中退。東京水産大学を中退後、2002年に世界で初めて畜養(養殖)クロマグロの中国からの輸出に成功。その後、2004年のNHKアイテックの外注社員時にはB-SAT海外プロデューサーに就任。 2006年、香港の音楽プロデューサーであるMARK LUIと香港日本POPS輸出入提携協定の契約締結に成功。同年11月には韓雪、S.H.E、周華健、中孝介、元ちとせ、w-inds.等を中心に開催された「中華年記念音楽祭」のアテンダントオフィサーの代表に就任。
猪子 寿之(いのこ としゆき、1977年4月15日 - )は… 猪子 寿之(いのこ としゆき、1977年4月15日 - )は、日本の実業家。アーティスト集団チームラボ代表。四国大学特任教授。徳島県徳島市出身。東京大学工学部計数工学科卒業。大阪芸術大学アートサイエンス学科客員教授。 1996年3月に徳島県立城東高等学校卒業後、東京大学教養学部理科1類に入学。教養学部時代に1年間、アメリカに留学。 帰国後、工学部応用物理・計数工学科に進学。計数工学科の同級生と共同でチームラボを立ち上げる。2001年3月、東京大学工学部応用物理・計数工学科卒業。チームラボを会社組織とし、代表取締役に就任。 2016年4月、四国大学特任教授に就任。2017年、第67回芸術選奨新人賞受賞。
西條 晋一(さいじょう しんいち、1973年6月10日 - … 西條 晋一(さいじょう しんいち、1973年6月10日 - )は日本の実業家、投資家。 XTech株式会社代表取締役、XTech Ventures共同創業者兼ジェネラルパートナー、エキサイト代表取締役社長。 徳島県阿波市出身。伊藤忠商事を経て2000年にサイバーエージェントに入社。2004年取締役就任、2008年専務取締役COOに就任。2013年にWiL共同創業者ジェネラルパートナー、その後コイニー取締役、Qrio代表取締役、トライフォート取締役を歴任。2018年にXTech、XTech Venturesの2社を創業。同年エキサイトを買収し、同社代表取締役社長に就任。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
新田 広一郎(にった こういちろう、1966年12月22日 … 新田 広一郎(にった こういちろう、1966年12月22日 - )は、徳島県徳島市津田町出身の実業家。元サッカー選手。 小学3年生のときからサッカーを始める。その後攻撃的ミッドフィールダーとして活躍、徳島商高時代には徳島県代表として3年連続で全国高等学校サッカー選手権大会出場、日本ユース代表。その後、順天堂大学に進み卒業。 1989年に大塚製薬に入社、同社サッカー部(徳島ヴォルティスの前身)に入部。同年、チームは四国サッカーリーグ優勝、翌1990年には日本サッカーリーグ2部昇格を果たす。その後ジャパンフットボールリーグでプレーした後、1993年に現役引退。 その後は大塚製薬東京本社の販売促進部に勤務。
住友 真世(すみとも まよ、1965年10月26日 - )は… 住友 真世(すみとも まよ、1965年10月26日 - )は、日本のフリーアナウンサー、会社経営者。かつては共同テレビジョンに所属していた。 徳島県出身。国立音楽大学声楽科卒業。 1988年4月に福島テレビに入社し、同局のアナウンサーになる。在籍中、同局夕方のニュース番組と東北地方ブロックネットのニュース番組を主に担当していた。 1993年7月に福島テレビを退社。フリーに転向し、全国ネットの地上波テレビ番組でレギュラーを持つ。また退社直後には、慶應義塾大学法学部の社会人向け講座で法律を学んでいた。 1990年代後期からは、NHK衛星第1テレビで放送のニュース番組を中心に活動していた。この時期、福島女子短期大学の生活教養科と秘書科の客員講師も務めていた。
角元 敬治(かくもと けいじ、1962年8月24日 - )は… 角元 敬治(かくもと けいじ、1962年8月24日 - )は、日本の実業家。三井住友銀行代表取締役副頭取を経て、同行取締役副会長、関西経済同友会代表幹事、2025年日本国際博覧会協会副会長、日中経済貿易センター副会長。 徳島県小松島市出身。1985年神戸大学法学部卒業、住友銀行入行。大阪を中心とした関西の駐在歴が長く、法人部門を長く担当し、北九州法人営業部長や梅田法人営業第一部長を歴任。 2013年三井住友銀行執行役員梅田法人営業第一部長。2014年同執行役員京都北陸法人営業本部長兼京都法人営業第一部。2016年同常務執行役員。2018年同専務執行役員。2019年同取締役兼専務執行役員(ホールセール部門副責任役員(西日本担当)、大阪駐在)。
清水 博(しみず ひろし、1961年1月30日 - )は、日… 清水 博(しみず ひろし、1961年1月30日 - )は、日本の経営者。日本生命保険社長を務めた。徳島県鳴門市出身。 城南高等学校を経て、1983年に京都大学理学部を卒業し、同年に日本生命保険に入社した。2009年3月に執行役員に就任し、2012年3月に常務執行役員、2013年7月に取締役常務執行役員、2016年7月に取締役専務執行役員を経て、2018年4月に社長に就任。保険数理人を所有しており、同社において、同資格の所有者が社長にするのは初めてのことであった。在任時は、介護大手であるニチイ学館を傘下に収め、アメリカのレゾリューションライフを約82億ドルで買収するなど事業基盤の拡大に尽力した。2025年4月には会長に就任。
平井 康文(ひらい やすふみ、1960年11月17日 - )… 平井 康文(ひらい やすふみ、1960年11月17日 - )は、日本の実業家。シスコシステムズ社長を経て、楽天グループ副社長・最高情報責任者、楽天コミュニケーションズ会長兼CEO、楽天モバイル副会長。 徳島県徳島市生まれ。愛媛県立松山東高等学校を経て、1983年九州大学理学部数学科卒業、日本アイ・ビー・エム入社、四国営業所配属、徳島駐在。日本アイ・ビー・エム経営企画部門を経て、1995年IBMに出向。1997年日本アイ・ビー・エム社長補佐。1998年日本アイ・ビー・エムNTT営業統括部長。2001年日本アイ・ビー・エム理事ソフトウエア事業部長。2002年IBMソフトウエアグループヴァイスプレジデント。
清水 美治(しみず よしはる、1960年8月4日 - )は… 清水 美治(しみず よしはる、1960年8月4日 - )は、徳島県鳴門市出身の経営者。 かつて俳優であり、演出家、構成作家としての活動歴がある。俳優時代は「清水英哉」(しみず えいや)という芸名で活動していた。今でも芸名では、清水英哉を名乗っている。1989年(平成元年)7月に会社設立。同年、カラオケパブ「CHIP INN」を出店。1991年カラオケパブ「P-POOL(ピープール)」を出店する。2003年(平成15年)6月6日有限会社シンクバンクを設立。2006年(平成18年)7月7日株式会社に改組。株式会社シンクバンク代表取締役。2016年10月株式会社アップグレードを設立、代表取締役の就任。
大塚 達也(おおつか たつや、1958年5月6日 - )は、… 大塚 達也(おおつか たつや、1958年5月6日 - )は、日本の経営者、農学博士。アース製薬社長、会長を務めた。徳島県鳴門市出身。大塚正富の長男。 東京大学農学部農芸化学科を経て、1986年に東京大学大学院農学研究科を修了し、同年に大塚製薬に入社した。1990年3月にアース製薬に転じ、取締役に就任し、1992年3月に常務、1994年3月に専務を経て、1998年3月に社長に就任。2014年3月に会長に就任。
宮本 雅史(みやもと まさふみ、1957年3月18日 - )… 宮本 雅史(みやもと まさふみ、1957年3月18日 - )は、日本の実業家・投資家。スマートコミュニティ代表取締役会長。かつて株式会社スクウェア(現スクウェア・エニックス・ホールディングス)初代社長として『ファイナルファンタジー』を世に出した。また、徳島市のサンピアゴルフクラブの運営会社の代表も務める。 徳島県徳島市生まれ。灘中学校・高等学校を経て、早稲田大学卒業。早大在学中にコンピュータの時間貸しビジネスを始めた。実家に戻ってから、父が経営する電気工事会社・電友社のソフトウェア制作部門を横浜市に開設し、自ら統括していたが1986年9月、電友社からソフト部門を買い取る形でスクウェアを設立。1987年12月、『ファイナルファンタジーシリーズ』の第1作『ファイナルファンタジー』を任天堂ファミリーコンピュータ用に発売。
長岡 奨(ながおか すすむ、1957年〈昭和32年〉1月12… 長岡 奨(ながおか すすむ、1957年〈昭和32年〉1月12日 - )は、日本の経営者、銀行家。阿波銀行頭取、会長を務めた。徳島県小松島市出身。 1980年に関西学院大学法学部を卒業し、同年に阿波銀行に入行した。2008年6月に取締役に就任し、2012年6月に常務、2016年6月に専務を経て、2017年4月には頭取に就任。2023年4月には会長に就任。
宮本 雅史(みやもと まさふみ、1957年 - )は、日本の… 宮本 雅史(みやもと まさふみ、1957年 - )は、日本の実業家・投資家。スマートコミュニティ代表取締役会長。かつて株式会社スクウェア(現スクウェア・エニックス・ホールディングス)初代社長として『ファイナルファンタジー』を世に出した。
半井 真司(はんい しんじ、旧姓内田(うちだ)、1956年(… 半井 真司(はんい しんじ、旧姓内田(うちだ)、1956年(昭和31年)2月1日 - )は、日本の実業家。四国旅客鉄道株式会社(JR四国)の取締役会長。徳島県三好市(旧三好郡池田町)出身。香川県高松市在住。
東原 敏昭(ひがしはら としあき、1955年〈昭和30年〉2… 東原 敏昭(ひがしはら としあき、1955年〈昭和30年〉2月16日 - )は、日本の技術者、実業家。株式会社日立製作所代表執行役会長、日立技術士会会長、日本インダストリアル・エンジニアリング協会会長、一般社団法人日本機械工業連合会会長、ロボット革命・産業IoTイニシアティブ協議会会長、公益財団法人日独協会会長。徳島県小松島市出身。学位は工学士(徳島大学・1977年)、修士(ボストン大学・1990年)。 阿南工業高等専門学校第3年次中退を経て徳島大学工学部電気工学科を卒業。1977年に日立製作所入社。大みか工場に配属され、制御システムの開発に携わる。1990年にボストン大学大学院コンピュータサイエンス学科を修了。
米田 豊彦(よねだ とよひこ、1953年1月30日 - )は… 米田 豊彦(よねだ とよひこ、1953年1月30日 - )は、日本の実業家。一般社団法人徳島新聞理事社長。徳島ヴォルティス取締役ゼネラルマネジャー、日本新聞協会理事などを歴任。 徳島県鳴門市生まれ。1971年徳島県立鳴門高等学校、1975年駒澤大学経済学部経済学科卒業。 同年、徳島新聞社入社。総務局、広告局、東京支社を経て1994年に広告部副部長。2000年事業部長。サッカー未経験者だが、新聞社の事業部長として地元のスポーツ興行を手掛けてきた実績を買われ、徳島ヴォルティス取締役GMに抜擢。2004年徳島ヴォルティス株式会社へ出向し取締役ゼネラルマネジャー(局次長待遇)。2007年3月末、徳島ヴォルティス取締役GMを退任。
堀淵 清治(ほりぶち せいじ、1952年1月18日 - )は… 堀淵 清治(ほりぶち せいじ、1952年1月18日 - )は、日本の実業家。NEW PEOPLE, Inc. 代表取締役社長、Dandelion Chocolate Japan(ダンデライオン・チョコレート・ジャパン)株式会社代表取締役CEO。徳島県小松島市出身。徳島県立城南高等学校、早稲田大学法学部卒業。カリフォルニア州立ヘイワード大学大学院(文化人類学専攻)退学。
橋本 圭一郎(はしもと けいいちろう、1951年(昭和26年… 橋本 圭一郎(はしもと けいいちろう、1951年(昭和26年)10月20日 - )は、日本の経営者。インフロニア・ホールディングス株式会社取締役会議長。元首都高速道路株式会社代表取締役会長兼社長兼最高経営責任者兼最高執行責任者、元経済同友会副代表幹事。 徳島県出身。一橋大学商学部卒業後、三菱銀行入行。国際畑を歩み在外勤務が長く、ニューヨーク支店長代理やドイツ三菱頭取、フランクフルト支店長等を歴任。 東京三菱銀行国際業務部長を経て、三菱リコール隠しなどの影響で経営難に陥っていた三菱自動車工業の副社長に就任し同社再建にあたる。 その後フィッチ・レーティングスの日本法人最高経営責任者を経て、2010年に首都高速道路の会長兼社長兼最高経営責任者兼最高執行責任者に就任。
江島 清(えしま きよし、1949年8月20日 - )は、日… 江島 清(えしま きよし、1949年8月20日 - )は、日本の実業家、工学博士。創薬ベンチャーのDelta-Fly Pharma株式会社創業者・代表取締役社長。徳島大学産学官連携推進部客員教授。 徳島県出身。徳島県立城南高等学校在学中化学に興味を持ち、名古屋工業大学卒業。東京工業大学大学院修士課程修了。ちょうどオイルショックの影響などから高度経済成長が終焉を迎え、就職難だったため、指導教官の勧めで地元徳島に戻り、1976年徳島の大塚グループ企業であった大鵬薬品工業に入社。1988年工学博士。2005年大鵬薬品工業取締役開発センター長。2007年大鵬薬品工業取締役徳島研究センター長。2010年徳島大学産学官連携推進部客員教授。
犬伏 泰夫(いぬぶし やすお、1944年2月10日 - )は… 犬伏 泰夫(いぬぶし やすお、1944年2月10日 - )は、日本の実業家。元神戸製鋼社長。 徳島県徳島市出身。城南高校を経て、1967年3月に大阪大学経済学部を卒業、同年に神戸製鋼入社。 鉄鋼輸出部、海外事業企画部長、営業総括部長など神戸製鋼の中核である鉄鋼事業の本流を歩み、ニューヨーク事務所など北米で8年間勤務するなど国際経験も豊富なことからUSスチールとの合弁事業、プロテックの設立に力を発揮。阪神・淡路大震災では営業総括部長として倒壊した製鉄所の状況把握、顧客対応に奔走した。2004年より2009年まで神戸製鋼社長。鋼材・アルミ価格上昇、建機需要増大などにより業績回復を果たすが、2006年に加古川製鉄所におけるばい煙データ改ざん事件が発生するなど、コンプライアンス面の問題点も浮き彫りとなった。
佐川 眞人(さがわ まさと、1943年8月3日 - )は、日… 佐川 眞人(さがわ まさと、1943年8月3日 - )は、日本の研究者・実業家。ネオジム磁石の発明者として知られている。NDFEB株式会社代表取締役社長。インターメタリックス株式会社初代代表取締役社長。大同特殊鋼顧問。東北大学特別招聘プロフェッサー。大同大学特別客員教授。名城大学特任教授。眞は真の旧字であるため「佐川真人」と書かれることもある。 徳島県徳島市出身。 尼崎市立尼崎高等学校を経て、1966年神戸大学工学部電気工学科卒業、1968年神戸大学大学院修了、電気工学の分野で修士の学位、1972年東北大学大学院にて金属材料工学を研究し工学博士の学位を取得。博士論文が『金属表面皮膜のエピタクシャル歪に関する研究 』であるように、もともとは磁石を研究していたわけではなかったが、1972年富士通に入社し磁性材料の研究を命じられる。
近藤 利一(こんどう りいち、1942年9月1日 - 201… 近藤 利一(こんどう りいち、1942年9月1日 - 2019年11月17日)は、日本の実業家、馬主。 日本中央競馬会(JRA)の馬主として「アドマイヤ」の冠名で知られ、死去までにJRAの重賞60勝(うちGI級競走13勝)を挙げた。前妻は近藤英子で、同じく馬主として著名。 代表を務めていた合建株式会社は、大阪府大阪市北区にあるはつり・建築解体工事会社。 1942年、徳島県出身。大阪府で出会った近藤英子と結婚し、夫婦で合建株式会社を立ち上げた。のちに英子とは離婚し、旬子を後妻に迎えている。 2019年夏にがんを罹患していることを公表し闘病していたが、同年11月17日早朝、大阪市内の病院で死去。77歳没。
成川 豊彦(なりかわ とよひこ、男性、1941年1月28日 … 成川 豊彦(なりかわ とよひこ、男性、1941年1月28日 - )は、日本の実業家。司法試験予備校講師(憲法)。「早稲田セミナー」創設者・元代表取締役。 株式会社スクール東京最高名誉顧問。 西南政法大学(重慶)客員教授。公認会計士二次試験合格。 1941年1月28日、徳島県に生まれる。1959年、徳島県立城南高等学校卒業、1964年、早稲田大学政治経済学部卒業。 1974年、早稲田セミナー開業、1980年、早稲田経営出版設立、1981年、早稲田行動科学研究所設立。 2007年、早稲田セミナーのセミナー部門を売却、2009年、同年11月設立の株式会社スクール東京の最高名誉顧問に就任。 2019年1月28日 78歳の誕生日より、youtubeでのチャンネル「スクール東京チャンネル」を開始した。
森 詳介(もり しょうすけ、1940年〈昭和15年〉8月6日… 森 詳介(もり しょうすけ、1940年〈昭和15年〉8月6日- )は、日本の実業家。関西電力取締役会長を退任後に相談役となったが、森山栄治元福井県高浜町助役との間の金品受領・便宜供与問題で、八木誠、岩根茂樹と謀り隠蔽を主導したとして、特に大きな責任があると第三者委員会から指弾され辞任し、関西電力から1億7000万円の損害賠償請求訴訟を受けた。 1959年(昭和34年)大阪府立大手前高等学校を卒業。大手前高校では柔道の部活動を3年生の夏休みまで続けており、部活に指導に来た先輩が京都大学の柔道部員であり、京大に入学したいというよりも京大柔道部へ入りたくて京大へ進学した。 1963年3月に京都大学工学部電気工学科を卒業し、同年4月に関西電力株式会社に入社。
板東 英二(ばんどう えいじ、1940年4月5日 - )は、… 板東 英二(ばんどう えいじ、1940年4月5日 - )は、日本の元プロ野球選手・野球解説者・タレント・司会者・俳優・実業家・YouTuber。愛称は板ちゃん(ばんちゃん)で、「坂東英二」は誤記である。
安崎 暁(あんざき さとる、1937年3月3日 - 2018… 安崎 暁(あんざき さとる、1937年3月3日 - 2018年5月26日)は、日本の実業家。小松製作所代表取締役社長や、日本建設機械工業会会長、国家公安委員会委員などを務めた。 1937年に陸軍大学校学生安崎操(のちに陸軍中佐・第6方面軍参謀や、自衛隊陸将・東北方面総監を歴任)の長男として、東京で生まれ、徳島県吉野川市鴨島町で育つ。1959年3月一橋大学社会学部卒業。中国経済史専攻。1961年3月一橋大学経済学部を卒業。理論経済学専攻。大学時代は小笠原流の弓道部に所属。後年には、私費を投じて大学の弓道場の建て直しを行った。 1961年4月小松製作所入社。同社では主に国際部門を担当し、海外事業展開を進めた。
丁子 惇(ちょうし あつし、1934年8月11日 -2026… 丁子 惇(ちょうし あつし、1934年8月11日 -2026年2月18日 )は、日本の経営者。東京書籍社長、会長を務めた。徳島県徳島市出身。 1957年に東北大学理学部生物学科を卒業し、同年4月に東京書籍に入社。1984年に取締役に就任し、1988年に常務、1990年に専務、1991年に副社長を経て、1992年12月に社長に就任。2000年10月に会長に就任し、2004年から取締役相談役を務めた。 2007年4月に旭日中綬章を受章。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
三木 俊治(みき としじ、1932年(昭和7年)1月29日 … 三木 俊治(みき としじ、1932年(昭和7年)1月29日 - 2009年(平成21年)11月24日)は、日本の政治家、実業家。徳島市長、阿波製紙会長。慶應義塾大学経済学部卒業。孫(次男の娘)は女優の三木理紗子。徳島県板野郡松茂町出身。 三木産業社長・13代三木與吉郎の二男として生まれる。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
手塚 昌利(てづか まさとし、1931年3月8日 - 202… 手塚 昌利(てづか まさとし、1931年3月8日 - 2020年4月18日)は、日本の実業家。阪神電気鉄道相談役。旭日重光章受賞者。阪神電鉄元会長・社長、阪神タイガース元オーナー、元毎日放送社外取締役。 徳島県鳴門市出身。旧制市岡中学校、第四高等学校を経て、京都大学法学部卒業後、1953年に阪神電鉄へ入社。取締役運輸部長、常務・不動産事業本部長、代表取締役専務などを歴任し、1992年には社長に就任。2004年から2006年まで会長を務めた。 阪神電鉄社長時代に発生した阪神・淡路大震災では自社路線も大きな損害を受け、社長として復旧作業の陣頭指揮を取った。 1998年から阪神タイガースのオーナー代行を務め、オーナーの久万俊二郎を支えていた。
埴渕 一(はにぶち はじめ、1928年(昭和3年)10月13… 埴渕 一(はにぶち はじめ、1928年(昭和3年)10月13日 - 2001年(平成13年)6月1日)は、日本の実業家。キョーエイ代表取締役会長。徳島県阿南市出身。 徳島県羽ノ浦町(現:阿南市)で生まれる。父である埴渕朝夫が創業した家業の呉服屋を継ぎ、1958年(昭和33年)にキョーエイを創業。同社は徳島県下一の大手スーパーマーケットへと成長させた。 またこれまでにキョーエイ会長や徳島ニュービジネス協議会顧問などを歴任。 2001年(平成13年)6月1日、急性心不全のため72歳で没する。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
吉岡 利固(よしおか としかた、1928年3月20日 - 2… 吉岡 利固(よしおか としかた、1928年3月20日 - 2022年7月16日)は、日本の実業家。新日本海新聞社代表取締役社主、グッドヒル代表取締役社主。徳島県美馬市出身。 中央大学法学部を卒業後、大阪国税局調査官、紳士服メーカー・エフワンの鳥取県での製造・販売代理店として1961年に設立された鳥取エフワン(現・グッドヒル)の経理部長を経て、同社社長に就任。不動産事業(ハウス日本海)にも進出した。 1976年、会社更生法の適用を申請して休刊中だった日本海新聞の経営を引き受け、鳥取県を代表する地方新聞として再建を果たした。さらに2000年には大阪日日新聞を傘下に収め、2002年にはエフワン本社(大阪市)を親会社の三井物産から買収し、全国進出への足がかりとした。
浅野 康介(あさの こうすけ、1923年10月11日 - 1… 浅野 康介(あさの こうすけ、1923年10月11日 - 1987年3月4日)は、日本の経営者。徳島県徳島市出身。 1947年に東京工業大学工学部機械工学科を卒業し、同年に日本軽金属に入社。1974年に取締役に就任し、1978年に常務、1980年6月に専務を経て、1982年6月に副社長に就任し、1983年11月には社長に昇格。 1987年3月4日脳出血のために死去。63歳没。
大塚 正士(おおつか まさひと、1916年 <大正5年> 1… 大塚 正士(おおつか まさひと、1916年 <大正5年> 10月24日 - 2000年 <平成12年> 4月17日)は、日本の実業家、大塚グループ元総帥。位階は従四位。 徳島県鳴門市出身。中学校を出た後、父親が興した当時は個人商店形態の大塚製薬工業部に勤め、1947年に代表者となる。その後、大塚製薬工業部は大塚製薬工場として法人化し、社長、会長に就任する。医薬品の原料だけでなく医薬品そのものの製造や食品事業にも進出し、17人の零細企業をグループ従業員1万5900人、売上高6500億円(1991年当時)に育て上げた。 1970年、アース製薬を買収した。1973年にアース製薬から発売された「ごきぶりホイホイ」の名付け親である。
鹿山 誉(かやま ほまれ、1915年〈大正4年〉2月26日 … 鹿山 誉(かやま ほまれ、1915年〈大正4年〉2月26日 - 没年不明)は、日本の海軍軍人、実業家、作家。最終階級は海軍少佐。『海軍第十六防空隊』など多数の日本軍関係本の著者。 徳島県生。旧制徳島県立徳島中学校(現・徳島県立城南高等学校)卒業後、1934年(昭和9年)に海軍兵学校に入学した。 海兵65期として1938年(昭和13年)に卒業する。八雲・陸奥・剣埼・夕立・村雨・五月雨などの海軍軍艦および艦艇に乗船した。[要出典] 1940年(昭和15年)に舞鶴鎮守府第一特別陸戦隊副官になる。1941年(昭和16年)に夕立と村雨の砲術長兼分隊長、1943年(昭和18年)に海軍第16防空隊長になる。1944年(昭和19年)海軍少佐に昇進し、1945年(昭和20年)に海軍兵学校教官兼海軍兵学校監事となる。
川田 源一(かわた げんいち、1897年1月5日 - 197… 川田 源一(かわた げんいち、1897年1月5日 - 1972年9月1日)は、日本の実業家。日刊スポーツ新聞社創業者。徳島県出身。 川田萬太郎・サダ夫妻の次男として徳島県那賀郡羽ノ浦村(現在の阿南市羽ノ浦町)に生まれる。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
工藤 昭四郎(くどう しょうしろう、1894年7月30日 -… 工藤 昭四郎(くどう しょうしろう、1894年7月30日 - 1977年10月13日)は、日本の官僚、実業家。日本興業銀行大阪支店長、大蔵省物価部長、復興金融金庫理事長、東京都民銀行頭取、経済同友会代表幹事などをつとめた。従三位勲一等瑞宝章。 1894年 徳島県 徳島市に生まれる。旧制徳島中学校、 第六高等学校を経て1921年に東京帝国大学法学部卒業。卒業後、日本興業銀行に入行、参事、調査部長、融資第四部長と昇進し、終戦時は大阪支店長であった。 1945年 大蔵省物価部長に転じ、翌年2月16日から相次いで実施された預金封鎖、財産税徴収、国家補償の全面打ち切り、米の強制供出、隠退蔵物資の強制買い上げ、失業対策など一連の非常措置の実施を主となって行い、成果を上げた。
岡部 楠男(おかべ くすお、1894年 <明治27年> 3月… 岡部 楠男(おかべ くすお、1894年 <明治27年> 3月27日 - 1972年 <昭和47年> 12月3日)は、日本の経営者。日本鉱業社長を務めた。位階は正五位。 徳島県徳島市出身。1918年に東京帝国大学採掘学科を卒業し、久原鉱業に入社。1939年5月に日本鉱業に転じ、1945年5月に取締役に就任し、1947年4月から1957年11月までに社長を務めた。 1960年に藍綬褒章を受章し、1965年11月に勲三等瑞宝章を受章した。 1972年12月3日、肺化膿症で死去した。78歳没。死没日付をもって正五位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
大塚 武三郎(おおつか ぶさぶろう、1891年(明治24年)… 大塚 武三郎(おおつか ぶさぶろう、1891年(明治24年)12月1日 - 1970年(昭和45年)9月30日)は、日本の実業家。大塚グループの発祥企業である大塚製薬工業部(現:大塚製薬工場)の創業者。徳島県鳴門市出身。勲五等双光旭日章、従五位勲四等瑞宝章、藍綬褒章などを受賞。 1921年に29歳で徳島県鳴門市に大塚製薬工業部(現:大塚製薬工場)を創立した。 1947年に長男の大塚正士が社長を引き継ぎグループの総帥になる。 1970年9月30日、78歳で死去。 息子は大塚正士(長男)、大塚芳満(三男)、大塚公(四男)、大塚正富(五男)である。孫は大塚ホールディングス初代会長の大塚明彦と大塚化学元社長の大塚雄二郎である。
伊藤 皆次郎(いとう みなじろう、1887年(明治20年)5… 伊藤 皆次郎(いとう みなじろう、1887年(明治20年)5月10日 - 1960年(昭和35年)9月24日)は、日本の政治家、実業家。徳島県鳴門市出身。 伊藤縫吉の長男として板野郡里浦村(現在の鳴門市里浦町里浦花面)で生まれる。1908年(明治41年)徳島県師範学校を卒業。長く教職に就いていたが、退職後は実業家となり、和布製造の里浦商事会社を起した。 1919年(大正8年)より里浦村長に就任し、以来、12年間務める。1927年(昭和2年)、徳島県会議員に当選。1932年(昭和7年)、第18回衆議院議員総選挙で当選。 1960年(昭和35年)9月24日、74歳で没する。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
井上 長一(いのうえ ちょういち、1887年2月1日 - 1… 井上 長一(いのうえ ちょういち、1887年2月1日 - 1972年5月30日)は、日本の航空実業家。徳島県出身。 徳島県板野郡西条村(現阿波市吉野町西条)出身。タクシー会社経営の傍ら、1922年6月4日に大阪府堺市大浜海岸に日本航空輸送研究所を設立し、11月15日より日本最初の民間航空路線となる不定期の水上機による航空輸送路線を開設した。その後、大浜に堺水上飛行学校を設立した。日本航空輸送研究所は、国策による大日本航空株式会社の設立とともに、1939年10月31日に業務を停止した。堺水上飛行学校は1942年まで、操縦士、整備士を養成した。1952年に現在の全日本空輸の前身の一つである極東航空の設立に参加した。
船越 逸平(ふなこし いっぺい、1885年〈明治18年〉9月… 船越 逸平(ふなこし いっぺい、1885年〈明治18年〉9月12日 - 没年不詳)は、日本の実業家。家業である石灰製造業を継いだのち、富岡無尽株式会社の初代社長となった。徳島県那賀郡富岡町出身。旧名・幸平。 1918年富岡無尽合資会社代表社員に就任し、1936年5月24日に株式会社へと組織変更された富岡無尽株式会社の初代社長に就任。 就任から3ヶ月後の8月23日代表取締役を退任。二代目社長として石灰業者として最大の事業規模を持つ樫野恒太郎が富岡無尽株式会社の経営を立て直した。 その後、町会議員や徳島相互銀行社長、徳島空港ビル株式会社取締役会長を歴任した。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
原 安三郎(はら やすさぶろう、1884年(明治17年)3月… 原 安三郎(はら やすさぶろう、1884年(明治17年)3月10日 - 1982年(昭和57年)10月21日)は日本の実業家。日本化薬会長、東洋火災海上保険株式会社(現・セコム損害保険)初代会長、日本化学工業協会会長、政府税制調査会会長などを歴任し、日本財界の重鎮として活躍した。徳島県徳島市生まれ。生家は江戸時代、蜂須賀家の家臣。徳島市名誉市民。娘婿は、坂野常和(元大蔵省証券局長、元日本化薬会長)。 1950年(昭和25年)、電波監理委員会はラジオ民間放送への門戸開放に際し、東京の新設放送局は二局に限ることを決定した。しかし既に民間放送開始に向けて新聞会社を母体とする朝日放送(朝日新聞系)、ラジオ日本(毎日新聞系)、読売放送(読売新聞系)、東京放送(電通系)が準備を進めており、どの新聞社系の会社が免許を取得しても軋轢が生じることが不可避となった。
瀬尾 栄太郎(せのお えいたろう、1881年(明治14年)9… 瀬尾 栄太郎(せのお えいたろう、1881年(明治14年)9月 - 没年不詳)は、ロシアで活動した日本人実業家である。 徳島県阿波郡柿原村(柿島村、板野郡吉野町を経て現阿波市吉野町柿原)出身。日露戦争に従軍した。奉天の会社「松茂洋行」の支配人となり、ロシア内の鉄道線路南方[どこ?]で鉱物の試掘許可を受けて、試掘して成功し、本採掘を出願しているが、ロシア革命が起きると白軍であるグリゴリー・セミョーノフ軍の顧問となった[要検証 – ノート]。1926年、国際探訪通信社を立ち上げ、日本の機密費を受けて中国・ロシアの一般情報収集を行う。1932年には、国体擁護連合会の常務実行委員となっている。1936年、二・二六事件の関係者となる[要検証 – ノート]。
松島 肇(まつしま はじめ、1881年(明治14年)5月15… 松島 肇(まつしま はじめ、1881年(明治14年)5月15日 - 1969年(昭和44年)2月7日)は、日本の政治家、実業家。徳島県阿波市出身。明治大学法学部卒業。 松島素敬の息子として板野郡土成村土成(現在の阿波市土成町土成)で生まれる。京都の中学校を卒業後、1901年(明治34年)に上京して明治大学法科に入学し、卒業後は同大学の学生部長を務めた。 1906年(明治39年)に共同火災保険会社(現在のあいおいニッセイ同和損害保険の前身)に入社し、1910年(明治43年)には早稲田大学校友会に推薦された。 昌栄貯蓄銀行、日本資金信託、第一倉庫、安全印刷、摂津煉瓦、大阪計器製作所、中央インキ、東海市場、東亜フェルト各株式会社の社長、美馬郡是製糸、カルチウム鉱泉、東亜織布、常盤商工、黒崎電機製作所、市岡電気工業、東京絹綿紡績、大阪造船所(現ダイゾー)各株式会社の取締役、東京リベット製造、日東炭鉱、日本鋼管シャフト、城南土地各株式会社の監査役などに就いた。
岡 順次(おか じゅんじ、1877年〈明治10年〉4月2日 … 岡 順次(おか じゅんじ、1877年〈明治10年〉4月2日 - 1964年〈昭和39年〉10月14日)は、日本の政治家、実業家。徳島県鳴門市出身。位階は従七位。勲等は勲四等瑞宝章。 板野郡撫養町(現在の鳴門市)で生まれた。公友会派に属した。1911年(明治44年)10月1日から板野郡選出の徳島県会議員を務めた。また、1915年(大正4年)10月12日から1918年(大正7年)12月25日まで第24代同副議長を、同日から1919年(大正8年)9月30日までと、同年10月14日から1920年(大正9年)5月11日まで第22・23代同議長を務めた。その他、大津村長、徳島倉庫取締役、徳島民報社取締役会長、徳島毎夕新聞社長などを務めた。
12代 三木 与吉郎(みき よきちろう、1875年(明治8年… 12代 三木 与吉郎(みき よきちろう、1875年(明治8年)11月27日 - 1938年(昭和13年)6月23日)は、日本の政治家、実業家、漢詩人。衆議院議員、貴族院議員。徳島県松茂町出身。旧名は康治。号は天遊舎愛松。 先代・三木与吉郎順治の長男として板野郡松茂町中来喜で生まれる。後に与吉郎の名を襲名し、藍商・酒造業を営む三木家の12代目となる。後に、藍商を改組して、三木商店を創業し、初代社長に就任。また、阿波製紙も創業し、初代社長を兼ねた。若年、詩を前塚芳南、中村三蕉らに学び、詩・俳句を能くした。その後、二松學舎で学んだ。さらに、衆議院議員、貴族院議員を務める傍ら京都商業学校夜間部にも通い、同校を卒業した。
井内 歓二(いうち かんじ、1871年7月25日(明治4年6… 井内 歓二(いうち かんじ、1871年7月25日(明治4年6月8日) - 1921年(大正10年)5月21日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 阿波国名東郡西新町(現徳島県徳島市西新町)で織物卸商・井内孝七の長男として生まれる。徳島県尋常中学校を卒業後、法律学を学んだが実業界に転身。1897年11月、北海道旭川に来住し織物煙草卸売業を開業。翌年6月、味噌醤油製造業を始め、後に酒類卸売業を兼ねた。また、旭川区会議員、旭川商業会議所会頭、上川倉庫社長、旭川商事取締役、北海道銀行(旧)取締役、旭川木工取締役、東洋酒精取締役、大北火災保険取締役などを務めた。 1920年5月、第14回衆議院議員総選挙で北海道第四区から出馬し当選したが、在任中に病のため死去した。
平野 鍋吉(ひらの なべきち、1868年7月13日(明治元年… 平野 鍋吉(ひらの なべきち、1868年7月13日(明治元年5月24日) - 1932年(昭和7年)12月31日)は、日本の政治家、実業家。徳島県吉野川市出身。徳島県立徳島中学校卒業。 麻植郡山川町瀬詰(現在の吉野川市)で生まれる。実家は代々酒造業、藍商を営んでいる。 後に鉱山業に転じ海部郡の浅川鉱山で成功し、後に三菱鉱業に譲渡した。 徳島県会議員を経て1930年(昭和5年)に第17回衆議院議員総選挙に当選。その後、貴族院議員に立候補をしたが、病のため辞退した。 1932年(昭和7年)、65歳で没する。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。