加藤 正二(かとう しょうじ、1914年3月3日 - 195… 加藤 正二(かとう しょうじ、1914年3月3日 - 1958年8月17日)は、香川県出身のプロ野球選手、大学野球指導者。
香川県:935人
加藤 正二(かとう しょうじ、1914年3月3日 - 195… 加藤 正二(かとう しょうじ、1914年3月3日 - 1958年8月17日)は、香川県出身のプロ野球選手、大学野球指導者。
片山 醇之助(かたやま じゅんのすけ、1914年1月23日 … 片山 醇之助(かたやま じゅんのすけ、1914年1月23日 - 2000年3月5日)は、日本の外交官。元駐リベリア共和国大使。 香川県三豊郡高室村(現 観音寺市室本町)出身。旧制香川県立三豊中学校、ハルピン学院卒業。 外務省留学生として1936年(昭和11年)から3年間滞欧。ラトビアでロシア語を勉強中に古本を集め始め1万冊にもなった。読んでいては間に合わないから近くに住む少女に音読してもらった。のちにその女性が米国へ亡命して数十年後に突然片山邸へ電話し、片山が亡くなる数年前に単身訪米して再会した。 留学から帰国後、1939年(昭和14年)外務省入省。1943年(昭和18年)高等試験行政科試験合格。
田中 照三(たなか てるぞう、本名:田中輝夫、1913年12… 田中 照三(たなか てるぞう、本名:田中輝夫、1913年12月26日 - 2006年9月7日)は、日本の舞台美術家。弟は第一回「安井賞」作家・洋画家の田中岑。
岡崎 耕三(おかざき こうぞう、1913年10月26日 - … 岡崎 耕三(おかざき こうぞう、1913年10月26日 - 1993年8月13日)は、日本の裁判官、弁護士。元日本弁護士連合会副会長。 香川県三豊郡和田村(現 観音寺市豊浜町)出身。旧制香川県立三豊中学校、日本大学専門部法律科卒業。 三豊中学卒業後、同郷の先輩の白川朋吉弁護士事務所に書生として勤務しながら法律の勉学に励み、1931年(昭和6年)普通文官試験合格。更に、1935年(昭和10年)日本大学専門部法律科卒業後、1940年(昭和15年)高等文官試験司法科合格。1942年(昭和17年)判事任官。大阪、神戸、姫路、岡山の各地方裁判所判事を歴任。 1947年(昭和22年)岡山県にて弁護士開業。1968年(昭和44年)4月から1969年(昭和45年)3月まで岡山弁護士会会長、1980年(昭和55年)4月から1981年(昭和56年)3月まで日本弁護士連合会副会長を務めた。
樫村 寛一(かしむら かんいち、1913年(大正2年)7月5… 樫村 寛一(かしむら かんいち、1913年(大正2年)7月5日 - 1943年(昭和18年)3月6日)は、日本海軍の戦闘機操縦士、最終階級は、海軍少尉。「片翼帰還の英雄」として知られる。 香川県善通寺町に生まれた。丸亀中学卒業後、1933年5月、佐世保海兵団入団。1934年(昭和9年)2月に第24期操縦練習生に入隊し、7月に卒業する。日中戦争開始後は第十三航空隊に所属し、上海・南京と転戦した。 1937年12月9日、九六式艦上戦闘機で南昌攻撃の際、中国軍機と接触して左翼の1/3以上を失ったが、600km以上操縦を続けて南京基地に帰還した。帰還の様子は基地に滞在していた従軍報道員によって撮影された。
門脇俊一(かどわき しゅんいち、1913年6月23日 - 2… 門脇俊一(かどわき しゅんいち、1913年6月23日 - 2006年)は、日本の画家、版画家。「現代の浮世絵師」とも呼ばれる。 1913年6月23日に、香川県三豊郡観音寺(現在の観音寺市八幡町)で門脇百太郎とみねの六男として生まれる。家は代々木材彫を営んでいた。 1994年にフランス国立高等美術学校(パリ)にて開催した個展がきっかけとなって、1995年8月、セントビンセント・グレナディーンから木版画「不動明王」の郵便切手が発行された。
福田 保朝(ふくだ やすとも、1913年2月19日 - 19… 福田 保朝(ふくだ やすとも、1913年2月19日 - 1994年9月7日)は朝日放送元社長。 香川県高松市出身。1936年に関西大学専門部卒業後、朝日新聞社へ入社。社会部次長、整理部次長をつとめた後、1951年に朝日放送設立に参加。放送部報道課長、編成局次長、総務局長、営業局長、1962年取締役、1968年常務、1971年専務、1974年9月副社長、1983年6月社長就任。1990年6月相談役就任。1994年9月、呼吸不全のため81歳で死去。 毎年、兵庫県西宮市の自宅の庭で500株以上のチューリップを植えて育てた。 1988年、勲二等瑞宝章受章。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
中原 淳一(なかはら じゅんいち、1913年〈大正2年〉2月… 中原 淳一(なかはら じゅんいち、1913年〈大正2年〉2月16日 - 1983年〈昭和58年〉4月19日)は、日本の画家、ファッションデザイナー、編集者、イラストレーター、人形作家。 妻は宝塚歌劇団元男役トップスターの葦原邦子。長女芙蓉、長男洲一、次男蒼二、次女すみれの二男二女があり、長男は画家。姪はシャンソン歌手の中原美紗緒。俳優・声優の加古臨王は孫。 先祖は物部姓中原氏といわれる。 幼少の時より絵や造形に才能を示し、18歳の時、趣味で作ったフランス人形が認められて東京の百貨店で個展を開催。それがきっかけで雑誌『少女の友』の挿絵、口絵、表紙絵、付録等を手掛けるようになり、一世を風靡する人気画家となる。
沢村 貴義(さわむら たかよし、1913年2月6日 - 19… 沢村 貴義(さわむら たかよし、1913年2月6日 - 1977年1月28日)は、日本の経営者。日本通運社長を務めた。 香川県坂出市出身。1937年に神戸商業大学を卒業し、同年に日本通運に入社。 1946年に取締役に就任し、常務、海運事業部長を経て、1966年11月に専務に就任。1968年1月には社長に昇格した。 日野自動車工業取締役、東京商工会議所議員、日本経営者団体連盟常任理事なども歴任した。 1977年1月28日、肝硬変のために死去。63歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
川端 喜久治(かわばた きくじ、1912年10月25日 - … 川端 喜久治(かわばた きくじ、1912年10月25日 - 1982年9月18日)は、香川県三豊郡観音寺町大字伊吹(現・観音寺市伊吹町、伊吹島)出身の政治家。伊吹村議会議員、観音寺市議会議員、観音寺市議会議長。 1912年(大正元年)10月25日、香川県三豊郡観音寺町大字伊吹(後の三豊郡伊吹村、現在の観音寺市伊吹町)に篠原三吉の五男として生まれ、川端虎吉の養子となった。1925年(大正14年)3月に観音寺町立伊吹尋常高等小学校を卒業した。 1932年(昭和7年)12月には応召されて佐世保海兵団に入隊し、支那事変や大東亜戦争に参加した。1945年(昭和20年)9月に召集解除されて帰郷した。 川端家の家業である漁業を継ぐと、鯛さわら縛網漁、いわし巾着網漁、いわしパッチ網漁、伊吹いりこの製造等を行い、また漁具や漁法の改良に努めた。
成田 知巳(なりた ともみ、1912年〈大正元年〉9月15日… 成田 知巳(なりた ともみ、1912年〈大正元年〉9月15日 - 1979年〈昭和54年〉3月9日)は、日本の政治家。衆議院議員、日本社会党政策審議会長・書記長・委員長を歴任した。 香川県高松市出身。肥料商で高松市議会議員をつとめた成田鷹次の子として生まれる。旧制高松中学(現・香川県立高松高等学校)を経て、第四高等学校(現・金沢大学)、東京帝国大学(現・東京大学)法学部へと進む。高松中では野球部のマネージャーも務めており、1学年上に梶原英夫、三原脩がいた。大学卒業後、三井鉱山に入社する。1941年、三井化学に転属となり、1943年には文書課長に昇進した。第四高等学校時代には後に社会党の参議院議員となる亀田得治と同じクラスだった。
西村 正夫(にしむら まさお、1912年9月1日 - 200… 西村 正夫(にしむら まさお、1912年9月1日 - 2002年11月28日)は、香川県高松市出身のプロ野球選手・監督。ポジションは外野手。
河西 新太郎(かわにし しんたろう、1912年5月2日 - … 河西 新太郎(かわにし しんたろう、1912年5月2日 - 1990年9月8日)は、昭和時代日本の詩人、作詞家。香川県出身。 1912年(明治45年)5月2日、弁護士・河西善太郎の長男として高松市に生まれる。旧制高松中学校を経て東洋大学在学時に東都大詩人連盟等を結成。機関紙「大学詩派」を主宰する他、新東京演劇映画協会文芸部長として多数の脚本を手がけた。その後大学を中退し、同郷の先輩である菊池寛を訪ね「文藝春秋社」への入社を希望するも「詩で飯は食えない」と断られる。1934年(昭和9年)四国民報社に入社。1937年(昭和12年)に東京朝日新聞が主催した「亜欧連絡記録大飛行応援歌」に応募した「行けよ「神風」空遠く」が応募総数約四万五千編の中から一等入選で採用された。
不二 洋子(ふじ ようこ、1912年3月18日 - 1980… 不二 洋子(ふじ ようこ、1912年3月18日 - 1980年5月11日)は、日本の女優、女剣劇の開祖。1930年代以降、初代・二代目の大江美智子とともに女剣劇の全盛期を築きあげた舞台女優である。 戦前の女剣劇創成期から、卓越した立ち回り技術と、しばしば「男性的」とも評された中性的なイメージで人気を博した。 本名は迫 静子(さこ しずこ)。旧姓・大西。 1912年(明治45年)3月18日、広島県佐伯郡平良村上平良(現在の同県廿日市市上平良)に生まれる。香川県綾歌郡坂出町(現在の同県坂出市)に生まれる。 1916年(大正5年)、広島県佐伯郡平良村上平良(現在の同県廿日市市上平良)出身の旅役者・迫日出雄の養女になり、戸籍上の名が「迫静子」となる。
福家 俊一(ふけ としいち、1912年〈明治45年〉3月3日… 福家 俊一(ふけ としいち、1912年〈明治45年〉3月3日 - 1987年〈昭和62年〉4月17日)は、日本の政治家。勲二等従四位。衆議院議員総選挙に15回立候補し、当選は6回。ニックネームは「政界の寝業師」、「政界の怪物」。 香川県高松市出身。旧制大阪府立生野中学校(現大阪府立生野高等学校)卒業、早稲田大学専門部中退。少年時代に東京憲兵隊本部で甘粕正彦の給仕を務めたことを機に、満洲に渡って満洲国の機関紙「斯民」の記者となる。満洲人脈のメンバーとなり、岸信介と深い仲を築く。軍部と外務省興亜院の肝いりによって上海に国策新聞「大陸新報」が創設され、1937年に25歳で社長就任。白根松介男爵や美濃部達吉の嘆願を受け、同社では美濃部亮吉(達吉の長男で、後の東京都知事)や向坂逸郎、高橋正雄など人民戦線事件で検挙された左派知識人たちを積極的に雇い入れた。
河田 誠一(かわだ せいいち、1911年〈明治44年〉11月… 河田 誠一(かわだ せいいち、1911年〈明治44年〉11月23日 – 1934年 〈昭和9年〉2月3日)は、香川県出身の日本の詩人であり小説家。 早稲田大学第二高等学院では田村泰次郎と出会い、深い交流があったほか井上友一郎や坂口安吾などと文学活動を行った。文芸誌『東京派』や『桜』を創刊し、豊かな才能を認められながらも、結核により22歳で没した。 あまり知られた存在ではないが、詩人・作家として昭和初期に期待されたホープであった。代表作は「新城榛名の手記」『河田誠一詩集』。 1911年(明治44年)に香川県三豊郡仁尾町中津賀(現在の三豊市)に父武治、母マスノの間に4人兄弟の次男として生まれる。生まれてすぐ叔母の家に預けられるものの5歳ごろに実家に戻る。
三原 脩(みはら おさむ、1911年11月21日 - 198… 三原 脩(みはら おさむ、1911年11月21日 - 1984年2月6日)は、香川県仲多度郡神野村(現:同県同郡まんのう町)出身のプロ野球選手(内野手。右投右打)・監督・球団経営者。
位野木 益雄(いのき ますお、1911年 <明治44年> 7… 位野木 益雄(いのき ますお、1911年 <明治44年> 7月2日 - 2000年 <平成12年> 2月15日)は、日本の裁判官、弁護士。 専門は、民事。主に行政事件を担当。元福岡高等裁判所長官。位階は正三位。 香川県三豊郡観音寺町(現 観音寺市観音寺町)出身。旧制香川県立三豊中学校、 旧制松山高等学校を経て、東京帝国大学法学部法律学科卒業。 1935年(昭和10年)東京帝国大学卒業。司法官試補を経て、1936年(昭和11年)判事任官。1937年(昭和12年)京都地方裁判所判事、大阪地方裁判所判事、1942年(昭和15年)東京民事地方裁判所判事を務める。 東京民事地方裁判所判事時に「労音入場税問題」では、入場税を支払えと全国に先駆けて判決したことで知られている。
矢野 伊吉(やの いきち、1911年5月11日 - 1983… 矢野 伊吉(やの いきち、1911年5月11日 - 1983年3月18日)は、日本の裁判官、弁護士。財田川事件弁護人。 香川県三豊郡和田村(現 観音寺市豊浜町)出身。旧制香川県立三豊中学校、経理事務講習所(東京商科大学内に設置)卒業。 経理事務講習所を卒業後、広島高等工業学校に就職。昼間は会計課職員として勤務しながら、夜は独学で法律の勉学に励み、1937年(昭和12年)高等文官試験司法科合格。1939年(昭和14年)朝鮮総督府平壌地方法院判事に任官。 1946年(昭和21年)釧路地方裁判所網走支部判事、1947年(昭和22年)松山地方裁判所西条支部判事、1953年(昭和28年)松山地方裁判所判事、1967年(昭和42年)高松地方裁判所丸亀支部長判事を務めた。
森 誓夫(もり ちかお、1911年3月31日 - 2001年… 森 誓夫(もり ちかお、1911年3月31日 - 2001年1月23日)は、日本の官僚、実業家。元通商産業省軽工業局長。元石油資源開発社長。 香川県三豊郡常磐村(現 観音寺市流岡町)出身。旧制香川県立三豊中学校、旧制第六高等学校を経て、東京帝国大学法学部英法科卒業。 1934年(昭和9年)商工省入省。特許、貿易、工務、機械、電力の各局を担当、電業課長、機械課長を務める。1939年(昭和14年)三豊中学の同級生であった蒙疆の張家口に勤務する大平正芳(大蔵省派遣の興亜院事務官)を訪問。 1943年(昭和18年)フィリピン島戦線に応召。三豊中学の頃から親しんで来た短歌に於いては、社会人になって間もなく斉藤茂吉が育てた結社「アララギ」に所属。
広瀬 栄一(ひろせ えいいち、1911年〈明治44年〉1月2… 広瀬 栄一(ひろせ えいいち、1911年〈明治44年〉1月23日 - 1988年〈昭和63年〉5月1日)は、日本の陸軍軍人、陸上自衛官。最終階級は陸軍中佐、陸将。 香川県出身。旧制高松中学(現・香川県立高松高等学校)より広島陸軍幼年学校に転じ、陸軍予科士官学校に進学。44期生の指導生徒も務めたが、そこの区隊長はのちに二・二六事件の首謀者の一人となる村中孝次であった。1931年(昭和6年)7月、陸軍士官学校(43期)を卒業、同年10月、陸軍少尉任官、1938年(昭和13年)5月、陸軍大学校(50期)を卒業。砲兵畑を進む。 第二次世界大戦中、日本とフィンランドの間では暗号解読等の対ソ連情報協力が行われていた。
梶原 英夫(かじわら ひでお 1911年 - 1943年夏)… 梶原 英夫(かじわら ひでお 1911年 - 1943年夏)は、日本のアマチュア野球選手。右投。香川県出身。身長180cm。東京帝国大学野球部に所属し、昭和初期の東京六大学野球で活躍した。
佐伯 富(さえき とみ、1910年11月6日 - 2006年… 佐伯 富(さえき とみ、1910年11月6日 - 2006年7月5日)は、日本の東洋史学者。専門は、宋代より清代に至る中国近世史。学位は、文学博士。京都大学名誉教授。 1910年、香川県三豊郡萩原村(現:観音寺市大野原町)で生まれた。旧制香川県立三豊中学校を経て、旧制第六高等学校に入学。第六高等学校で、生涯にわたって薫陶を受ける宮崎市定と出会った。1931年、京都帝国大学文学部に入学、東洋史を専攻する。六高から転任していた宮崎の指導を再び受けることになった。1935年、京都帝国大学文学部史学科を卒業し、同大学大学院に進学。同時に、東方文化学院京都研究所研究嘱託となった。 1940年、京都帝国大学人文科学研究所助手に採用。
山田 克郎(やまだ かつろう、1910年11月5日 - 19… 山田 克郎(やまだ かつろう、1910年11月5日 - 1983年4月26日)は、日本の小説家。 朝鮮・釜山生まれ(石川県金沢市とするものもある)。本名・克朗。 旧制中学3年のときに父の故郷である香川県香川郡香西町(現・高松市香西南町)に移り、高松中学校に転入する。 1936年、早稲田大学商学部卒。 1937年、処女作「燈台視察船」を『オール讀物』に発表。 1941年、最初の単行本『翼の饗宴』を上梓、以後、旺盛な作家活動を戦中、戦後と続ける。 海洋もの作家として活躍し、戦後、1949年に「海の廃園」(『文藝読物』発表)で直木賞受賞。 日本テレビ放送網でテレビドラマ化された『快傑ハリマオ(原作名『魔の城』)』の原作者として知られる。
香川 進(かがわ すすむ、1910年7月15日 - 1998… 香川 進(かがわ すすむ、1910年7月15日 - 1998年10月13日)は、昭和期・平成期の日本の歌人。 香川県多度津町出身。多度津中学校(現香川県立多度津高等学校)を経て、1934年神戸商業大学(現神戸大学)卒。在学中の1932年に白日社に入社し、前田夕暮に師事。口語自由律短歌を作る。 三菱商事に入社後、1935年に出張先で現地召集される。1945年友人と東亜交易創立。敗戦後の財閥解体の処理に関わる。1953年木下商店に入り、名古屋支店長や内外炉工業社長を歴任。 戦後は文語定型短歌へと回帰。1953年「地中海」を創刊、主宰。義兄にあたる米田登も参加。門下に小野茂樹、雨宮雅子がいる。1958年『湾』で第4回日本歌人クラブ推薦歌集(現日本歌人クラブ賞)受賞、1973年『甲虫村落』で第7回迢空賞受賞、1992年『香川進全歌集』で第15回現代短歌大賞受賞。
田畑 直(たばた すなお、 1910年(明治43年)3月24… 田畑 直(たばた すなお、 1910年(明治43年)3月24日 - 1944年(昭和19年)2月17日)は、日本の海軍軍人。香川県出身。キスカ島撤退作戦で物資輸送と人員の撤収に成功し、また米海軍護衛空母「リスカム・ベイ」を撃沈した「伊175」潜水艦長である。駆逐艦「ニコラス」の攻撃により乗艦を撃沈され戦死。最終階級は海軍中佐。 坂出市王越町出身で兄は香川県坂出商工会議所元会頭であり、瀬戸内地域の塩の会社讃岐塩業、錦海株式会社創業者として香川県の名士田畑久宣の弟。田畑は香川県出身の海兵58期生である。このクラスは入校当初130余名の同期生がおり、うち60名以上は出身中学の首席であった。校長鳥巣玉樹、永野修身、監事長及川古志郎、伊藤整一らの指導を受け、1930年(昭和5年)11月、113名中の同期生中、中位の成績で海軍兵学校を卒業する。
大平 正芳(おおひら まさよし、1910年〈明治43年〉3月… 大平 正芳(おおひら まさよし、1910年〈明治43年〉3月12日 - 1980年〈昭和55年〉6月12日)は、日本の政治家、大蔵官僚。位階は正二位。勲等は大勲位。 池田勇人の秘書官を経て政界に進出。宏池会会長として三角大福中の一角を占め、田中角栄内閣の外相として日中国交正常化に貢献。首相就任までに椎名裁定、三木おろし、大福密約といった苦難があり、更に首相就任後も四十日抗争やハプニング解散で体力を消耗し、選挙中に首相在任のまま死去。田園都市構想や一般消費税構想は実現しなかった。「アーウー宰相」や「讃岐の鈍牛」の異名がある。 衆議院議員(11期)、内閣官房長官(第21・22代)、外務大臣(第85・86・95・96代)、通商産業大臣(第29代)、大蔵大臣(第79・80代)、内閣総理大臣(第68・69代)を歴任。
合田 好道(ごうだ よしみち、別呼称・こうどう、1910年〈… 合田 好道(ごうだ よしみち、別呼称・こうどう、1910年〈明治43年〉 - 2000年〈平成12年〉2月6日)は、日本の画家・陶芸家。 益子焼の窯元や陶芸家志望の若者たちを指導し、「民芸の町・益子」「陶芸の町・益子」を作り上げた、戦後の益子の歴史における象徴的な人物の一人であり、「益子のお目付役」と呼ばれ、濱田庄司を益子焼の中興の祖とするならば、同じ益子焼の陶芸家であった島岡達三から「濱田の精神の伝導者」と呼ばれ、益子の陶芸家たちへの思想的影響力が強かった人物である。 1910年(明治43年)、香川県三豊郡豊濱町(現・観音寺市)に、味噌醤油醸造業であった父・合田辧治、母・まつの4人兄弟の次男として生まれる。
三木 忠直(みき ただなお、1909年〈明治42年〉12月1… 三木 忠直(みき ただなお、1909年〈明治42年〉12月15日 - 2005年〈平成17年〉4月20日)は、日本の海軍軍人、工学者。最終階級は海軍技術少佐。爆撃機「銀河」、特攻機「桜花」特攻機、新幹線の開発者。 1909年12月15日、香川県高松市生まれ。香川県立高松中学校、第六高等学校を経て、1938年、東京帝国大学工学部船舶工学科を卒業。海軍造船官となって海軍造船中尉に任官し、海軍航空技術廠に配属された。 アジア・太平洋戦争中に陸上爆撃機「銀河」、特攻兵器「桜花」などの機体設計を担当した。 1944年(昭和19年)6月前後、大田正一少尉が航空技術廠長和田操中将に特攻兵器桜花を提案した。三木によれば、和田はもう決めた様子で、大田は「自分が乗っていく」と言うため、研究に協力したという。
平沢 和重(ひらさわ かずしげ、1909年9月14日 - 1… 平沢 和重(ひらさわ かずしげ、1909年9月14日 - 1977年3月7日)は、日本の外交官。NHK解説委員。 香川県丸亀市生まれ。平沢家は岩手県和賀郡西和賀町沢内の旧家で、父の代に転居した。1930(昭和5)年3月に第一高等学校(一高)を卒業し、1934(昭和9)年に文官高等試験外交科試験に合格。1935(昭和10)年3月に東京帝国大学法学部政治学科卒業。翌月、外務省に入省し、書記生となる。1936(昭和11)年7月にベイツ大学を卒業し、1938(昭和13)年4月まで外交官補として在米大使館に勤務。斎藤博アメリカ合衆国駐箚日本国特命全権大使在任中に大使秘書官を務める。 1938年4月、バンクーバーから一時帰国のために横浜港に向かう氷川丸に乗船した際、偶然にもIOC委員で、エジプト・カイロでのIOC総会から帰国の途にあった嘉納治五郎と出会い、交友を深めた。
穴吹 夏次(あなぶき なつじ、1909年〈明治42年〉7月2… 穴吹 夏次(あなぶき なつじ、1909年〈明治42年〉7月29日 - 2000年〈平成12年〉10月24日)は、株式会社穴吹工務店元社長。地方の建築業者だった穴吹工務店を、全国展開のデベロッパーに成長させた。また、穴吹興産や学校法人穴吹学園の創業者でもある。位階は従六位。 穴吹喜作と穴吹ムメの長男として、香川県高松市に生まれる。 1930年1月から家業の土木建築業に従事した。1937年3月に、川添村立川添青年学校の教官に就任する。[要出典] 1940年6月に、京都府警察部で警察官となった[要出典]。太平洋戦争中は軍に召集され、ウォレアイ環礁(メレヨン島)で終戦を迎えた。1945年10月に復員して、実父の建設業を継承した[要出典]。
谷本 清(たにもと きよし、1909年6月27日 - 198… 谷本 清(たにもと きよし、1909年6月27日 - 1986年9月28日)は、日本のキリスト教牧師。ノーモアヒロシマズ運動提唱者。娘は近藤紘子。 香川県坂出市で生まれる。関西学院大学神学部を首席で卒業後、渡米して1940年にエモリー大学大学院修了。鹿児島県国分、加治木の教会、沖縄中央教会牧師を経て、1943年に広島流川教会の牧師に就任。 1945年7月まで、広島は空襲を受けていなかったが、多くの人は被害を予期し、人や荷物を都市から疎開させる作業を進めていた。谷本も教会の記録や備品を西郊外の己斐町の知人の屋敷に疎開させており、妻子は毎晩、北東郊外の牛田で寝るようにしていた。 広島市への原子爆弾投下があった8月6日に、谷本は友人の荷物を同じ屋敷に運ぶ手伝いをしていた。
水原 茂(みずはら しげる、1909年〈明治42年〉1月19… 水原 茂(みずはら しげる、1909年〈明治42年〉1月19日 - 1982年〈昭和57年〉3月26日)は、香川県高松市出身のプロ野球選手(内野手)・監督、解説者・評論家。 1955年から1959年の登録名は「水原 円裕(みずはら のぶしげ)」。 現役時代は東京巨人軍(1947年より読売ジャイアンツ、以下巨人)で活躍し、引退後は巨人、東映フライヤーズ、中日ドラゴンズの監督を歴任した。巨人監督時代の在任11年間で8度のリーグ優勝、4度の日本一に輝き、セ・パ両リーグでチームを日本一に導いた(セ - 巨人、パ - 東映)。 幼少時に両親が離婚、父親が入り婿になり再婚した先の「水原」姓になったという。野球を始めたのも、実家の環境からの気晴らしであったという。
堀 定一(ほり さだいち、1909年(明治42年) - 19… 堀 定一(ほり さだいち、1909年(明治42年) - 1936年(昭和11年)2月21日)は、日本の元アマチュア野球選手。香川県出身。
倉田 貞美 (くらた さだよし、1908年12月1日 - 1… 倉田 貞美 (くらた さだよし、1908年12月1日 - 1994年5月5日)は、日本の教育者、中国文学者。博士(文学)。元香川大学学長。香川大学名誉教授。 香川県三豊郡大見村(現 三豊市三野町)出身。旧香川県立三豊中学校、第一臨時教員養成所卒業、東京高等師範学校研究科を経て、1934年、東京文理科大学文学科に入学。同大学漢文学専攻卒業。在学中は諸橋轍次に師事した。卒業論文は「中国現代詩の研究」。1937年(昭和12年)同大学卒業後、福井師範学校に赴任。間もなく盧溝橋事件が起こり、同年12月に応召。翌年1938年(昭和13年)4月に除隊。終戦まで3回応召を受けた。 1949年(昭和24年)香川大学教授に就任。
田中 隆造(たなか たかぞう、1908年5月4日 - 198… 田中 隆造(たなか たかぞう、1908年5月4日 - 1989年3月3日)は、日本の実業家。元阪神電気鉄道社長。元阪神タイガースオーナー。 次弟は、元三菱自動車工業会長の田中利治。 香川県三豊郡和田村(現 観音寺市豊浜町)出身。旧制香川県立三豊中学校、旧制第六高等学校を経て、京都帝国大学法学部法律学科卒業。 1921年(大正10年)三豊中学に入学。在学中は、実技が出来ないにもかかわらず、野球への趣味は相当強いものがあり、少ない対外試合にも熱心に観戦に出掛けていた。当時の野球部長の目に留まり、4年生の時に半ば強制的にマネージャーとなる。同野球部には、第6回全日本都市対抗野球大会優勝投手の木村秀一(全神戸)が在籍していた。
野網 和三郎(のあみ わさぶろう、1908年〈明治41年〉3… 野網 和三郎(のあみ わさぶろう、1908年〈明治41年〉3月11日 - 1969年〈昭和44年〉10月2日)は、日本の水産家。香川県引田町(現在の東かがわ市)出身。愛称は、「ワーサン」。日本で初めてブリ(ハマチ)の養殖(畜養)に成功したことで知られる。 野網和三郎は1908年3月11日に香川県大川郡引田の「まるさ」と呼ばれる網元の三男として生まれる。小学校に入学すると、祖父を亡くし、翌年には叔父をコレラで亡くしている。そのため、叔父の息子を野網家で預かることになり、和三郎は母の実家に二年間ほど預けられた。 その後、親に頼み込み島根県の水産学校に進み、後に三重県の志摩水産学校に転校して卒業した。
石川 孝一(いしかわ こういち、1908年2月18日 - 1… 石川 孝一(いしかわ こういち、1908年2月18日 - 1978年8月24日 )は、日本の実業家。元神鋼商事社長。 香川県三豊郡一ノ谷村(現 観音寺市中田井町)出身。旧制香川県立三豊中学校、旧制松山高等学校を経て、東京帝国大学法学部卒業。 1934年(昭和9年)東京帝国大学卒業後、神戸製鋼所に入社。 1952年(昭和27年)10月、東京支社鉄鋼部次長在任時、鉄鋼市場視察のため、南米西欧に出張。線材製品協会を稲山嘉寛理事長の下で主宰、アルゼンチンに線材販売のため訪問する。 1954年(昭和29年)鉄鋼販売部長に昇進。 1956年(昭和31年)神鋼商事常務に就任。1966年(昭和41年)専務を経て、1970年(昭和45年)社長に昇任。
石井 英一(いしい えいいち、1908年1月12日 - 19… 石井 英一(いしい えいいち、1908年1月12日 - 1989年12月10日)は、日本の官僚、実業家。運輸省資材局長。東洋電機製造社長。 香川県三豊郡比地二村(現 三豊市高瀬町)出身。旧制香川県立三豊中学校、旧制松山高等学校を経て、東京帝国大学法学部独法科卒業。 1933年(昭和8年)鉄道省入省。東鉄貨物課長、北京大使館交通課長を務める。1950年(昭和25年)日本国有鉄道(国鉄)門司鉄道管理局長に異動。1953年(昭和28年)3月23日から24日にかけて、門司地方国鉄職員戦没者合同慰霊祭を行った。 1954年(昭和29年)運輸省自動車局長に昇任。同年10月12日の第19回参議院運輸委員会の会議に於いて、嬉野線国鉄バス事故について答弁を行った。
水原 義明(みずはら よしあき 1908年 - 1945年1… 水原 義明(みずはら よしあき 1908年 - 1945年10月31日)は、日本の元アマチュア野球選手。香川県出身。
吉村 静枝(よしむら しずえ、1907年〈明治40年〉8月2… 吉村 静枝(よしむら しずえ、1907年〈明治40年〉8月21日 - 1996年〈平成8年〉10月10日)は、日本の福祉事業家。香川県で唯一の乳児院である「豊島神愛館」の創立者。香川県綾歌郡坂出町(現在の坂出市)の坂出育愛館や香川県小豆郡土庄町の豊島神愛館で、40年以上にわたり主として児童福祉分野の事業に挺身し、豊島神愛館では700名以上の戦災孤児をはじめとした子供たちを養育した。別表記は吉村シヅヱ、吉村シヅエ。 坂出町(現在の香川県坂出市横津町)で誕生した。大阪炭屋町産婦会に学び、1921年(大正10年)に香川県丸亀市で看護婦となった。この頃にキリスト教に入信した。1935年(昭和10年)に大阪府乳幼児保護協会保健婦の経緯を経て保育を学び、1938年(昭和13年)には大阪府立社会衛生学院専攻科を卒業した。
宮武 三郎(みやたけ さぶろう、1907年7月23日 - 1… 宮武 三郎(みやたけ さぶろう、1907年7月23日 - 1956年12月11日)は、日本のプロ野球選手。
金子 正則(かねこ まさのり、1907年〈明治40年〉3月2… 金子 正則(かねこ まさのり、1907年〈明治40年〉3月29日 - 1996年〈平成8年〉10月21日)は、日本の政治家、判事。6期24年の間、香川県知事を務めた。位階は従三位。 1907年(明治40年)3月29日、香川県丸亀市に生まれる。香川県立丸亀中学校、第六高等学校を経て、1929年(昭和4年)に東京帝国大学法学部法律学科を卒業、司法官試補となる。1931年(昭和6年)に大阪地方裁判所および大阪区裁判所の判事に就き(兼任、以下同)、翌1932年に旭川地方裁判所および旭川区裁判所の判事に転任。その後、1935年に札幌地方裁判所および札幌区裁判所、1936年(昭和11年)に長野地方裁判所および長野区裁判所、1937年(昭和12年)に東京地方裁判所および東京区裁判所の判事を歴任している。
塩田 末平(しおた すえひら、1907年〈明治40年〉2月1… 塩田 末平(しおた すえひら、1907年〈明治40年〉2月10日 - 没年不明)は、日本の検察官、弁護士、公証人。元広島地方検察庁検事正。 香川県三豊郡仁尾村(現・三豊市仁尾町)出身。常三郎の二男。旧制香川県立三豊中学校、旧制第六高等学校を経て、東京帝国大学法学部卒業。 1929年(昭和4年)高等文官試験司法科合格。東京帝国大学卒業後、1930年(昭和5年)司法省入省。1931年(昭和6年)松山地方裁判所検事局検事に任官。岡山地方裁判所検事局検事、東京地方裁判所検事局検事に転任。 1941年(昭和16年)外務省に出向。上海領事館検察領事、南京領事館検察領事に就任。1945年(昭和20年)司法省に復帰。
宮武 徳次郎(みやたけ とくじろう、1906年 <明治39年… 宮武 徳次郎(みやたけ とくじろう、1906年 <明治39年> 11月3日 - 1989年 <平成元年> 8月23日)は、日本の経営者。大日本製薬社長、会長を務めた。香川県高松市出身。位階は正五位。 1928年に高松高等商業学校を卒業し、同年に大日本製薬に入社。1947年に取締役に就任し、1949年に常務、1950年に専務を経て、1956年には社長に就任。社長在任時にはサリドマイド事件の対応に追われた1981年から1985年までに会長を務めた。 1977年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1989年8月23日心不全のために死去。82歳没。死没日付をもって正五位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
塩飽 玉男 (しわく たまお、1906年5月12日 – 19… 塩飽 玉男 (しわく たまお、1906年5月12日 – 1990年12月15日)は、日本の陸上競技選手。専門は長距離走・マラソン。1936年ベルリンオリンピックに日本代表選手としてマラソンに出場した。 当時大規模な入浜式塩田を擁していた坂出周辺では、「浜子」と呼ばれる塩田労働者が塩田内で仕事として終日走る生活を送っていた。1919年にはマラソンへの関心に火がつき、地元出身で1920年アントワープオリンピック陸上競技代表選手となった大浦留市(東京高等師範学校)が、帰国後に郷里で開かれたロードレースで2人が自分より上位に入ったことを評価・激励したこともそれを後押しした。1928年アムステルダムオリンピックのマラソンに「浜子」出身の山田兼松が4位入賞を果たし、それを追う形で楠好蔵や塩飽も陸上競技に進んだ。
伊瀬 芳吉(いせ よしきち、1905年 <明治38年> 10… 伊瀬 芳吉(いせ よしきち、1905年 <明治38年> 10月8日 - 2000年 <平成12年> 12月22日)は、日本の実業家。元ダイハツ工業社長。位階は従四位。 香川県三豊郡観音寺町(現 観音寺市伊吹町)出身。旧制香川県立三豊中学校、大阪高等工業学校機械科(現 大阪大学工学部)卒業。 三豊中学在学中は、伊吹島を出て下宿先から通った。家が貧しかったので学費を稼ぐために、下宿先の手伝いをしながら勉学に励んだ。数学と理科が得意だったこともあり、先生の薦めもあって大阪高等工業学校に進学する。 1926年(昭和元年)大阪高等工業学校卒業後、日本生命保険に就職。入社後、間もなく応召され入隊。その1年後に除隊となり、22歳の時、發動機製造に入社。
高木 孝詮(たかぎ たかのり、1905年9月19日 - 19… 高木 孝詮(たかぎ たかのり、1905年9月19日 - 1981年9月22日)は、日本の法学者。専門は、刑法・法学概論。八幡大学学長。香川県出身。 讃岐の塩・砂糖・綿・糀を生産する豪農家の長男として生まれる。幼少の頃は糀屋の坊ちゃんと呼ばれていた。13才で香川県立丸亀中学校に入学しその後香川師範学校に入学、一旦琴平の小学校に勤務した。大正14年に岡山第六高等学校に進学し昭和3年に九州帝国大学法文学部に入学した。帝大では法制史の金田平一郎教授に師事した。その後大学院で研究生となるが、昭和13年に九大法文学部国文科に再入学し江戸時代の町人文学の研究に没頭した。卒論は「西鶴における町人の経済的側面からの研究」であった。
田辺 弥八(たなべ やはち、1905年(明治38年) 8月1… 田辺 弥八(たなべ やはち、1905年(明治38年) 8月13日 - 1990年(平成2年)4月29日)は、日本の海軍軍人。海兵56期。ミッドウェー海戦において、伊号第百六十八潜水艦長として米空母ヨークタウンを撃沈した武功で知られる。最終階級は海軍中佐。 香川県出身。旧制香川県立三豊中学校(第21回)を経て海軍兵学校(56期)を卒業。海兵56期の同期生に高橋赫一、大谷藤之助、三上作夫らがいる。 田辺は通信学校甲種を修了していわゆる「通信屋」となったが、次いで潜水艦水雷長養成過程である潜水学校乙種を修了し、潜水艦乗りとなる。海軍大尉時代は「伊八潜」通信長を5ヶ月、第二潜水戦隊参謀を1年8ヶ月務め、1940年(昭和15年)11月海軍少佐へ進級。
加藤 常太郎(かとう つねたろう、1905年〈明治38年〉4… 加藤 常太郎(かとう つねたろう、1905年〈明治38年〉4月30日 - 1990年〈平成2年〉10月11日)は、日本の実業家、政治家。位階は正三位。加藤海運社長、宇部工業短期大学初代学長、参議院議員(1期)、衆議院議員(13期)、労働大臣(第34代)。 香川県高松市出身。先代・常太郎の長男として生まれ、襲名する。高松商業を経て、奉天外国語学堂支那語科を卒業。 父が急逝したため、24歳で家業を継ぎ、機帆船を主にした加藤海運社長となる。海運業に慣れてくると神戸に乗り出し、小型汽船70隻を統合し、日本近海汽船(現:川崎近海汽船)を設立。代表取締役になった。しかし、太平洋戦争が激しくなったことを受け、会社経営を友人に任せ帰郷した。