仲吉 昭治(なかよし しょうじ、1943年4月6日 - )は… 仲吉 昭治(なかよし しょうじ、1943年4月6日 - )は、日本の実業家。株式会社ジー・エフ社長のち会長、グリーン・シップ代表取締役社長などを歴任。長崎県出身。 満州生まれ。対馬市出身。長崎県立対馬高等学校、1966年駒澤大学経済学部経営学科卒業。同年4月バンダイ入社。玩具事業部を経て、1972年静岡工場開発営業部長。1978年特機事業部長、玩具キャラクター事業部商品部長。1980年新規事業部事業部長。1983年新規事業部統括事業部長。1991年3月同社退社 。 1991年テレマーケティングの株式会社ジー・エフ・シー(のち株式会社ジー・エフ)を設立し代表取締役社長に就任。2004年10月、東証マザーズに株式上場。
神近 義邦(かみちか よしくに 1942年8月21日 - 2… 神近 義邦(かみちか よしくに 1942年8月21日 - 2020年9月5日)は、日本の実業家。株式会社エコ研究所代表取締役会長。長崎オランダ村・ハウステンボス創業者。 現在の長崎県西海市西彼町出身。長崎県立西彼農業高等学校定時制2年生のときに神近家に養子に行き(旧姓・島田)、高校卒業後、1962年に西彼町役場へ就職。農業指導を担当して実績を上げた。長崎県庁出向(1971年~1972年)後、1973年3月町役場を退職。長崎県庁時代に西彼町内の土地買収を計った東京永田町の料亭「一條」と関係を築く。西彼町の自然休養村事業事務局長に就任した1973年に「一條」の相談役として20万平方メートルの敷地で観光果樹園建設事業に着手した。
稲田 直治(いなだ なおじ、1942年7月14日 - )は、… 稲田 直治(いなだ なおじ、1942年7月14日 - )は、日本の実業家。元あおみ建設社長。長崎県出身。 1942年長崎県生まれ。1967年京都大学工学部土木工学科卒業後、同年国土総合開発入社。1977年国土総合建設に入社し、取締役九州支店長、常務取締役技術本部長などを経て、2002年6月同社代表取締役社長に就任した。2008年4月、国土総合建設と佐伯建設工業の合併によって誕生した佐伯国総建設(同年7月「あおみ建設」に社名変更)の社長に就任。佐伯建設工業の大谷昭義社長が会長に就いた。収益基盤の安定化を目的として組織再編や人員削減などを進めたが、景気の冷え込みを受けて業績が悪化し、2009年2月に会社更生法の適用を申請、同年3月に社長を辞任した。
谷川 弥一(谷川 彌一、たにがわ やいち、1941年〈昭和1… 谷川 弥一(谷川 彌一、たにがわ やいち、1941年〈昭和16年〉8月12日 - )は、日本の実業家、政治家。 衆議院議員(7期)、文部科学副大臣(第2次安倍内閣)、長崎県議会議員(5期)、自由民主党長崎県支部連合会長、自由民主党総務副会長を歴任した。 長崎県南松浦郡岐宿町(現・五島市)出身。親元を離れ、五島から長崎市の長崎県立長崎東高等学校に進学し、下宿生活を送る。 1971年に株式会社谷川建設を設立。同社社長、会長を務めた。 1987年、長崎県議会議員選挙に立候補し、初当選する。以後、県議を5期17年にわたって務め、2003年に長崎県議会議長に就任。 2003年、第43回衆議院議員総選挙に、長崎3区から自由民主党公認で立候補。
芦塚 日出美(あしづか ひでみ、1939年12月27日 - … 芦塚 日出美(あしづか ひでみ、1939年12月27日 - )は、日本の電気技術者、実業家。九州電力代表取締役副社長や、九州通信ネットワーク代表取締役社長、博多座代表取締役社長、九州先端科学技術研究所理事長等を歴任した。 長崎県諫早市出身。福岡県立修猷館高等学校を経て、1962年九州大学工学部電気工学科卒業、九州電力入社。上椎葉水力発電所、北九州支店電力課で計5年現場経験を積んだのち、、本社の工務部給電課に配属された。1973年フランス電力で研修。1982年九州電力本社企画部設備計画課長。1987年電気事業連合会に工務部長として出向。1992年九州電力大分支店長。1995年九州電力工務部長。1996年九州電力企画部長。
古森 重隆(こもり しげたか、1939年9月5日 - )は、… 古森 重隆(こもり しげたか、1939年9月5日 - )は、日本の実業家。元日本放送協会(NHK)経営委員会委員長。2016年9月より内閣府規制改革推進会議委員。 長崎県出身。長崎県立長崎西高等学校、東京大学経済学部卒業。東京大学運動会アメリカンフットボール部出身(ポジションはOL/DL)。 1963年、当時の富士写真フイルムに入社し、主に営業畑を歩む。1995年取締役営業第二本部長、96年フジフイルムヨーロッパ社長などを経て、2000年に社長就任。2003年から日独協会会長。2006年、グループ再編により、富士フイルムホールディングス株式会社と、傘下の富士フイルム株式会社代表取締役社長・CEO就任。
光永 久之(みつなが ひさゆき、1939年8月13日 - )… 光永 久之(みつなが ひさゆき、1939年8月13日 - )は、日本の実業家。元三井木材工業社長、三井物産取締役。長崎県出身。 1939年長崎県生まれ。長崎県立長崎東高等学校、長崎大学経済学部を経て、1962年三井物産入社。同社では主に建設資材を担当し、米国における木材取引の拠点であったシアトルに長く駐在した。同社取締役を経て、1998年三井木材工業社長。親会社である三井物産からの社長就任は23年ぶりであった。就任時には、赤字分野の人材配置転換や製造の内製化、非住宅分野の強化を進めるとしていた。2000年、収益不振のサイディング事業について業界トップのニチハに支援を求める形で業務提携を行った。さらに2001年3月、住宅・木質建材・大型木構造の3部門について三井物産に譲渡する一方、窯業系サイディングと繊維板の2部門についてニチハの完全子会社となる方針を発表した。
古野 清之(ふるの きよゆき、1939年6月2日 - )は、… 古野 清之(ふるの きよゆき、1939年6月2日 - )は、日本の実業家。元古野電気会長、社長。長崎県出身。 1939年長崎県生まれ。10人兄弟の三男で、兄の古野清孝(長男)と古野清賢(次男)は古野電気の創業者である。長崎県立長崎東高等学校を経て、1962年に甲南大学経営学部経営学科を卒業後、古野電気に入社。1985年5月取締役、1989年5月常務、1990年3月国内本部長、1991年5月専務、1995年3月舶用機器事業部長、1996年5月代表取締役専務、1997年5月副社長を経て、1999年6月社長に就任した。 就任当時、同社の売上と経常利益はいずれも下降していた。そこで、長期的なビジョン(フルノビジョン)や、その実現に必要となる企業としての価値観(フルノバリューズ)の策定に取り組み、社内の意識改革に努め、同社の業績回復を実現させた。
松尾 新吾(まつお しんご、1938年5月19日 - )は、… 松尾 新吾(まつお しんご、1938年5月19日 - )は、日本の実業家。2007年6月から九州電力会長を務めた。九州経済連合会第7代会長、東京大学赤門学友会副会長、日本相撲連盟会長などを歴任し、現在は日本会議福岡会長を務める。 玄海原発、川内原発の再稼働については強硬に進めていて、やらせメール事件が発覚した当時の九電会長である。やらせメール事件の翌年になって九電会長を辞任し、相談役となったが、その際、原子力大国であるフランスからレジオン・ドヌール勲章が授与された。 長崎県 佐世保市の出身。熊本県立熊本高等学校を卒業。1963年に東京大学法学部を卒業。若い頃は、人付き合いが苦手だったそうで、新入社員時代は同僚たちに溶け込めるかすら不安に感じていた[信頼性要検証]。
今村 純二(いまむら じゅんじ、1938年4月15日 - 2… 今村 純二(いまむら じゅんじ、1938年4月15日 - 2021年8月12日)は、日本の実業家。元北海道日本ハムファイターズ会長・社長。球団の北海道移転と道民ファンの獲得に尽力した。 長崎県長崎市出身、3人兄弟の次男として生まれる。小学1年時に長崎市への原子爆弾投下により被爆、その後長崎県立長崎東高等学校を経て、同志社大学商学部を卒業後、大学のゼミ講師に「食の仕事はこれから伸びる、食肉関係は必ず伸びる」とアドバイスされたことをきっかけに食肉業者を志し、1961年に徳島ハム(現在の日本ハム)入社。同社では営業畑を歩み1967年に姫路営業所長、1971年神戸営業所長、1977年量販部長、1988年九州販売部長、営業本部参与を経て、1997年常勤監査役。
江頭 邦雄(えがしら くにお、1937年10月1日 - 20… 江頭 邦雄(えがしら くにお、1937年10月1日 - 2008年4月7日)は、日本の実業家。味の素代表取締役社長・会長、経団連副会長、日本冷凍食品協会会長等を務めた。 長崎県佐世保市出身。長崎県立佐世保北高等学校卒業後、2年間の大学浪人生活を経て、一橋大学に入学。1962年同大学卒業。同年に味の素に入社。 1987年味の素取締役に就任、1997年に社長に就任、2005年に会長就任。味の素冷凍食品の分社化、油事業の分社化及びホーネンコーポレーションとの経営統合によるJ-オイルミルズ設立などを行う一方、ネスレやユニリーバなどと伍していくため世界中で積極的にM&Aを進めた。2003年欧州味の素食品設立。
杉田 亮毅(すぎた りょうき、1937年7月19日 - )は… 杉田 亮毅(すぎた りょうき、1937年7月19日 - )は、日本のジャーナリスト、実業家。公益社団法人日本経済研究センター代表理事参与、株式会社日本経済新聞社参与。 株式会社日本経済新聞社代表取締役社長、株式会社日本経済新聞社代表取締役会長、日本記者クラブ理事長、公益社団法人日本経済研究センター会長などを歴任。2006年に株式会社日本経済新聞東京本社編集局にデジタル編集本部を設立し、2010年に発足した日経電子版のプロジェクトを開始させた立役者となった。
永次 廣(ながつぎ ひろし、1937年2月18日 - 201… 永次 廣(ながつぎ ひろし、1937年2月18日 - 2017年7月21日)は、日本の実業家。元安川電機会長、安川情報システム(現:YE DIGITAL)社長。長崎県長崎市出身。 1937年長崎県生まれ。1959年長崎大学経済学部卒業後、安川電機製作所(現:安川電機)に入社。取締役企画部長などを経て、1989年安川情報システム社長、1994年常務、1995年専務、1996年副社長。1999年3月期に経常赤字となるなど業績が悪化したことを受け、橋本伸一社長の下で中期経営計画を進め、産業用電気機器をはじめとした不採算部門からの撤退やロボット事業など得意とする事業分野の強化を行なった。2000年に会長就任。
大和屋 隆喜(やまとや たかき、1935年(昭和10年)11… 大和屋 隆喜(やまとや たかき、1935年(昭和10年)11月 - )は、日本の実業家。元新日鉄化学社長、新日本製鉄常務取締役。長崎県出身。 1935年(昭和10年)長崎県生まれ。1959年(昭和34年)一橋大学経済学部卒業後、八幡製鉄に入社。以後営業畑を歩み、八幡製鉄所生産業務部長・本社自動車鋼板販売部長などを経て、1989年(平成元年)6月、八幡製鉄所副所長。当時の好況に浮かれる所内の引き締めを図った。1991年(平成3年)堺製鉄所所長、1993年(平成5年)新日本製鉄常務取締役、1995年(平成7年)新日鉄化学副社長を経て、1997年(平成9年)同社社長に就任。新日鉄化学は当時、1994年(平成6年)の為替差損問題で経営危機に陥っており、副社長時代から一貫して経営再建に取り組んだ。
河村 幹夫(かわむら みきお、1935年8月3日 - 201… 河村 幹夫(かわむら みきお、1935年8月3日 - 2019年11月27日)は、日本の実業家、経営学者、博士(経営学)、シャーロキアン。アーサー・コナン・ドイル研究の第一人者。日本推理作家協会名誉会員。長崎市生まれの愛知県育ち。
井村 健輔(いむら けんすけ、1935年3月2日 - )は、… 井村 健輔(いむら けんすけ、1935年3月2日 - )は、日本の実業家。元不二越会長・社長。長崎県出身。 1935年(昭和10年)生まれ。長崎県立長崎東高等学校を経て、1957年に長崎大学経済学部を卒業し、同年不二越入社。取締役、常務取締役、代表取締役専務などを経て、1998年2月社長に就任した。事業部門の再編や同業他社との業務提携を進めたほか、不二越の創業70年を記念してコーポレートマークの改定を行なった。また、第二次世界大戦中に強制労働を強いられたとして元女子勤労挺身隊員の3名が雇用企業である不二越に損害賠償と謝罪を求めていた「不二越訴訟」について、第一審・第二審ともに不二越側の全面勝訴であったにもかかわらず、2000年7月に最高裁での和解に踏み切った。
金子 源吉(かねこ げんきち、1935年2月23日 - )は… 金子 源吉(かねこ げんきち、1935年2月23日 - )は、日本の実業家。テレビ長崎会長、元社長。父は農林水産大臣を務めた金子岩三、弟は長崎県知事を務め現参議院議員の金子原二郎。 1935年長崎県生まれ。長崎県立長崎東高等学校を経て、1959年に慶応義塾大学法学部卒業後、金子商店に入社。1970年専務、1975年金子漁業(金子商店から社名変更)副社長を経て、1984年社長に就任。父は金子漁業グループ創業者で元農林水産大臣の金子岩三であり、実弟の金子原二郎が政界を、自身が財界を引き継ぐという分業体制を成立させた。1986年には父・岩三が設立に携わったテレビ長崎社長に就任。以後26年にわたって務め2012年同社会長となり、2020年4月一身上の都合で退任した。
村木 文郎(むらき ふみろう、1933年5月27日 - 20… 村木 文郎(むらき ふみろう、1933年5月27日 - 2019年11月14日)は、日本の実業家。野母商船グループ会長。旅客船業界に係る各種団体の会長・委員等を務め、海運事業振興に努めた。 1933年長崎県生まれ。祖父は野母商船創業者の村木清三郎、父は日本旅客船協会の設立に関わり、同協会会長を務めた村木信一郎。長崎県立長崎東高等学校を経て、1956年一橋大学商学部卒業後、野母商船に入社。1964年専務を経て、1991年社長。2006年から2011年まで日本旅客船協会会長を務め、高速道路無料化に反対するなど業界の意見を発信した。また、離島を多く抱える長崎県における海上交通の振興にも努め、島民らを対象として運賃を割引する制度を打ち出すなどした。
山辺 道彦(やまべ みちひこ、1931年10月21日 - )… 山辺 道彦(やまべ みちひこ、1931年10月21日 - )は、日本の実業家。元富士機工会長・社長。富士機工の東証一部上場に尽力した。東京都出身。横浜国立大学経済学部卒業。 1931年東京都生まれ。長崎県立長崎東高等学校を経て、1954年に横浜国立大学経済学部卒業後、富士紡績入社。1983年同社大阪営業部長、1984年企画管理部長、1986年取締役企画管理部長を経て、1990年6月に富士機工常務取締役となり、1991年6月同社社長に就任。在任中の1996年9月に富士機工は東証一部指定を受けた。1998年6月に同社会長に就任し、1999年6月まで務めた。
塩井 末幸(しおい すえゆき、1931年10月19日 - 2… 塩井 末幸(しおい すえゆき、1931年10月19日 - 2016年12月7日)は、日本の経営者。プレナスの創業者。長男は塩井賢一、次男は塩井辰男。 長崎県佐世保市出身。塩井家は江戸時代は御家人の家柄であった。祖父の民次郎は上野精養軒の厨士長(料理長)を経て、日本橋区南茅場町に西洋料理店「彌生軒」を開業した。やよい軒の店名は祖父の開いた店に由来する。父の和助は巡洋艦「出雲」や鎮海水交社のレストランでの料理人を経て、戦後は佐世保将校クラブの料理長を務めた。 1948年に西海学園高等学校を卒業し、1960年3月に太陽事務機(のちのプレナス)を設立し、社長に就任。1998年5月には会長に就任。 2016年12月7日、心不全のために死去。
松尾 高精(まつお こうせい、1931年3月16日 - )は… 松尾 高精(まつお こうせい、1931年3月16日 - )は、日本の実業家。元西華産業社長。長崎県出身。 1931年長崎県生まれ。1954年早稲田大学理工学部卒業後、西華産業に入社。ドイツ・デュッセルドルフの現地法人に駐在時、元宇部興産専務執行役員の浅野正之(浅野茂隆・東京大学名誉教授の兄)らと交流があった。同社取締役、常務取締役、副社長を経て、1994年社長に就任。在任中は取引における急速な情報システム化が進んでいたことを受けて、1997年に情報通信委員会を発足させ、イントラネット構築を推進した。こうした取り組みなどもあって西華産業は売上高を伸ばし、東京商工リサーチが行った調査によると、九州・沖縄に本社がある企業の売上高ランキングにおいて9位にランクインし、前年比伸び率は39.6%となった(1997年度)。
松尾 英三(まつお えいぞう、1931年2月20日 - )は… 松尾 英三(まつお えいぞう、1931年2月20日 - )は、日本の実業家。元島原鉄道社長。雲仙普賢岳の噴火に伴う土石流により一部区間が寸断された島原鉄道の再建に尽力した。 1931年長崎県生まれ。長崎県立長崎東高等学校、長崎大学経済学部を経て、1954年に長崎県入庁。県通商貿易課勤務を経て、香港やバンコクで貿易促進駐在員を務めた。その後長崎県議会事務局長、労働部長、企画部長を歴任し、1989年に長崎空港ビルディング常務取締役に就任。同社専務取締役を経て、1993年島原鉄道社長に就いた。 島原鉄道は当時、1991年を中心に起きた雲仙普賢岳の噴火災害により、島原外港駅-深江駅間が不通となっていた。
相川 賢太郎(あいかわ けんたろう、1927年6月8日 - … 相川 賢太郎(あいかわ けんたろう、1927年6月8日 - 2023年1月17日)は、日本の経営者。三菱重工業社長、会長を務めた。 長崎県長崎市出身。1951年に東京大学工学部機械工学科を卒業し、同年に西日本重工業(のちの三菱重工業)に入社した。1975年6月に取締役に就任し、常務、副社長を経て、1989年6月には社長に就任した。1995年6月から会長を務めた。社長在任時には、社長権限を強化し、徹底した合理化を進めたことで「ミスターコストダウン」と呼ばれた。地熱発電プラント開発の第一人者としても知られる。 三菱自動車工業取締役、三菱商事取締役、日本造船工業会会長、日本機械工業連合会会長なども歴任した。
江口 秀人(えぐち ひでと、1927年2月27日 - 201… 江口 秀人(えぐち ひでと、1927年2月27日 - 2012年11月22日)は、日本の経営者。ヤマハ発動機社長、会長を務めた。長崎県長崎市出身。 1953年に東京大学経済学部を卒業し、同年に日本楽器製造(現在のヤマハ)に入社した。1968年に取締役に就任し、1969年に常務、1980年1月に取締役を経て、1983年8月に社長に就任した。1994年4月に会長に就任し、1997年6月には顧問に就任。1980年7月から1981年5月までにヤマハ副社長と1992年2月から1993年6月までにヤマハ会長も務め、1995年からはヤマハ音楽振興会理事長も務めた。 1998年にフランスからレジオン・ド・ヌール勲章を受章。
中村 弘海(なかむら こうかい、1925年(大正14年)6月… 中村 弘海(なかむら こうかい、1925年(大正14年)6月21日 - 2008年(平成20年)11月30日)は、昭和時代後期の日本の政治家、企業経営者。
相浦 紀一郎(あいうら きいちろう、1924年2月11日 -… 相浦 紀一郎(あいうら きいちろう、1924年2月11日 - 2012年12月26日)は、日本の実業家。大阪商船三井船舶代表取締役社長や、日本船主協会会長等を歴任した。 長崎県佐世保市生まれ。1942年陸軍士官学校卒業。大日本帝国陸軍大尉で日本の降伏を迎え、第一皇宮衛士隊左近隊第四寮第一班長衛士監任官。1949年中央大学経済学部卒業。1984年から大阪商船三井船舶取締役社長を務め、海運不況下の経営にあたった。 1987年日本船主協会会長。2012年胆管閉塞のため死去。
山西 由之(やまにし よしゆき、1922年(大正11年)10… 山西 由之(やまにし よしゆき、1922年(大正11年)10月1日 - 1986年(昭和61年)3月22日)は日本の実業家。TBS社長を歴任した。 長崎県平戸市出身。東亜同文書院在学中に兵役に就き、1947年(昭和22年)九州大学法文学部を卒業後、改造社に入社。雑誌「改造」の編集に携わるが、1955年(昭和30年)の廃刊とともにTBSの前身であるラジオ東京に転じ、テレビ編成局長、テレビ本部長、取締役、常務、1975年(昭和50年)5月専務を歴任。 1977年(昭和52年)6月29日、諏訪博の後任として社長に昇格し、東京データビジョン、テレビユー福島などの設立に尽くした。1982年(昭和57年)から1984年(昭和59年)まで日本民間放送連盟会長。
松園 尚巳(まつぞの ひさみ、1922年7月15日 - 19… 松園 尚巳(まつぞの ひさみ、1922年7月15日 - 1994年12月15日)は、ヤクルト本社名誉会長、ヤクルトスワローズの初代オーナー、 長崎新聞社長、長崎文化放送初代代表取締役会長を務めた実業家。双子の兄は同じくヤクルトスワローズのオーナーを務めた松園直已。 長崎県南松浦郡三井楽町(現:五島市)出身。法政大学工業学校を卒業し、法政大学専門部を中退。その後は海産物やビワなどの行商で生計を立てながら起業資金を蓄えていった。 そうした折、1954年に福岡で乳酸菌飲料「ヤクルト」の販売をしていた従兄弟の山下嘉一から、全国のヤクルトの販売会社を統合した本社組織を立ち上げると聞いた松園は、ヤクルトの創業者永松昇を訪ねて事業参入の許可をもらい、学生時代に住んでいた八王子を拠点にヤクルトの販売業務を始め、1956年6月に関東ヤクルト製造を設立した。
山崎喜陽(やまざき きよう、1921年7月25日 - 200… 山崎喜陽(やまざき きよう、1921年7月25日 - 2003年11月11日)は、機芸出版社元社長・代表取締役。長崎県佐世保市出身。 戦前、『子供の科学』主催のスピード競争・牽引力競争で優勝。やがて『模型鉄道』、『科学と模型』に投稿を続ける。 1945年(昭和20年)、東京帝国大学理学部を卒業後、地理学教室に嘱託として残るが鉄道関係の小冊子を数冊発刊した。 1946年(昭和21年)、機芸社(のちの機芸出版社)を設立し、雑誌『鉄道模型趣味』(TMS)を創刊。病気のため事実上離れる最晩年まで長年主筆を務めた。 鉄道模型においては、軌間16.5mmのHOゲージ(縮尺1/87)およびOOゲージ(縮尺1/76)との対比から、日本型車輌を縮尺1/80とし、これらを総称して「16番ゲージ」と呼称することを定めた。
宮﨑 康平(みやざき こうへい、1917年5月7日 - 19… 宮﨑 康平(みやざき こうへい、1917年5月7日 - 1980年3月16日)は、長崎県島原市生まれの古代史研究家、作家、元会社役員。『まぼろしの邪馬台国』によって日本中に邪馬台国論争を巻き起こした。正確な表記は「宮﨑」(「崎」の字は山偏に竒)であるが「宮﨑」と表記出来ない環境が一部存在するので「宮崎」で通すことが多い。以下本項でも「崎」の字を用いる。
佐伯 孝(さえき たかし、1916年9月27日 - 2009… 佐伯 孝(さえき たかし、1916年9月27日 - 2009年12月16日)は、日本の実業家。日清製粉(現日清製粉グループ本社)社長や、同社会長を務めた。藍綬褒章受章。 長崎県佐世保市出身。1941年旧制東京商科大学(現一橋大学)卒業後、日清製粉(現日清製粉グループ本社)入社。 同社入社後は製粉事業部門で営業、生産、秘書、調査、経理などを担当し、1969年取締役に昇格。1978年常務取締役。1981年から社長を務め、五分無償増資などを行った。1983年藍綬褒章受章。1986年会長に就任。 2009年肺炎のため死去。享年93。
高橋 義治(たかはし よしはる、大正5年(1916年)6月6… 高橋 義治(たかはし よしはる、大正5年(1916年)6月6日 - 昭和61年(1986年)7月16日)は、日本の実業家。全国朝日放送取締役、イ・アイ・イグループ代表取締役会長、日本教育テレビ(現テレビ朝日)取締役、慈悲庵、まどか保育園各理事[3]等を務めた。
宮崎輝(みやざき かがやき、1909年(明治42年)4月19… 宮崎輝(みやざき かがやき、1909年(明治42年)4月19日 - 1992年(平成4年)4月17日)は、昭和・平成期の企業経営者。旭化成中興の祖と呼ばれた。勲一等瑞宝章受章。没後従三位追贈。吾妻町名誉町民及び延岡市名誉市民。 長崎県南高来郡山田村(現:雲仙市吾妻町)出身。長崎県立島原中学校に入学、同中学時代は市内の曹洞宗の禅寺晴雲寺で5年間寄宿生活を送った。第五高等学校を経て東京帝国大学法学部英法科卒業後、日本窒素肥料(現:チッソ)に入社。旭ベンベルグ絹糸(後の旭化成工業、現:旭化成)に配属となる。 総務課長、東京事務所長を経て38歳で取締役に選任。延岡工場で起きた労働争議の解決に尽力し、その手腕が認められる事となった。
木原 通雄(きはら みちお、1909年〈明治42年〉3月30… 木原 通雄(きはら みちお、1909年〈明治42年〉3月30日 - 没年不明)は、日本の銀行役員、会社役員。みずほフィナンシャルグループ取締役兼執行役社長木原正裕、衆議院議員木原誠二は孫。 長崎県北高来郡諫早村(現・諫早市)出身。木原中三の長男。1933年、東京商大卒業。第一銀行に入る。1947年4月、安本に派遣され、長官高瀬荘太郎秘書となり同年6月同行に復帰し、丸ノ内支店長代理に就任、同支店次長、京都支店次長、一宮支店開設準備委員長、一宮支店長、外国部次長、有楽町丸ノ内各支店長を歴任する。 1956年11月、厚生部長に転じ、1958年3月、宇都宮支店長。1960年11月、人事部長。1962年4月、福岡支店長、同年5月取締役に就任。
今里 広記 (いまざと ひろき、1908年(明治40年)11… 今里 広記 (いまざと ひろき、1908年(明治40年)11月27日 - 1985年(昭和60年)5月30日)は、日本の実業家、財界人。長崎県出身。広範な交友と人脈から、財界におけるまとめ役として「財界官房長官」「財界幹事長」の異名を取った。建築家の今里隆は養子である。 受章・受勲等 :1970年(昭和45年)4月 藍綬褒章、1979年(昭和54年)11月 勲一等瑞宝章(現・瑞宝大綬章)、1985年(昭和60年)5月30日没後追贈 位階正三位、勲一等旭日大綬章(現・旭日大綬章) 長崎県東彼杵郡波佐見町宿郷に父友二郎、母加世の三男として生まれる。父は1772年より続く造り酒屋番頭の傍ら、地元で波佐見銀行(統合合併ののち現・株式会社十八親和銀行)を経営していた。
池田 辰巳(いけだ たつみ、1908年3月30日 - 196… 池田 辰巳(いけだ たつみ、1908年3月30日 - 1969年7月10日)は、長崎県長崎市出身の実業家・政治家。自由民主党所属。長崎県議会議員(4期、1958年~1969年)、長崎県議会議長(1969年)。長崎県議会議長在職中に刺殺された。 1908年(明治41年)3月30日、長崎県長崎市大黒町に生まれた。学歴こそ低いが、度胸や行動力のある人物だったとされる。 温泉街である南高来郡小浜町(現・雲仙市)で、遊廓、旅館、映画館の小浜映劇などを経営した。 1958年(昭和33年)3月、馬渡謙蔵の死去に伴う補欠選挙によって長崎県議会議員に初当選し、1961年(昭和36年)には自由民主党長崎県連幹事長に就任した。
西岡 ハル(にしおか ハル、1905年〈明治38年〉12月2… 西岡 ハル(にしおか ハル、1905年〈明治38年〉12月21日 - 1983年〈昭和58年〉11月30日)は、日本の実業家、政治家。位階は正五位。 参議院議員(1期)。旧姓は大串、永野。長崎県知事西岡竹次郎の妻。 長崎県長崎市桜馬場で、大串金三郎、イチ夫妻の五女(10人兄弟)として生まれ、2歳で叔母の養女となり永野に改姓した。1923年、市内の玉木女学校(現長崎玉成高等学校)を卒業後、社会経験のため資産家宅で女中として1年間働いた。1924年4月、第15回衆議院議員総選挙に出馬する西岡竹次郎の選挙事務所の手伝いの依頼を受けて働き、それがきっかけとなり同年10月に西岡と結婚した。夫の政治活動を支える日々を過ごした。
井手 光治(いで みつじ、1905年(明治38年)1月26日… 井手 光治(いで みつじ、1905年(明治38年)1月26日 - 1986年(昭和61年)12月30日)は、昭和期の公吏、政治家、実業家。衆議院議員(1期)、芝区長、港区長(公選初代) 長崎県出身。1924年(大正13年)長崎商業学校(現長崎市立長崎商業高等学校)を卒業。その後、早稲田専門学校で学んだ。 東京市役所に入り事務員となる。その後、東京都制施行に伴い東京都事務官に就任。1945年(昭和20年)12月、芝区長に就任。1947年(昭和22年)4月、公選初代港区長に選出された。 1949年(昭和24年)1月の第24回衆議院議員総選挙で東京都第1区から民主自由党公認で立候補して当選し、衆議院議員に1期在任した。
小柳 冨太郎(こやなぎ とみたろう、1904年(明治37年)… 小柳 冨太郎(こやなぎ とみたろう、1904年(明治37年)9月24日 - 1983年(昭和59年)10月25日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 長崎県北高来郡諫早村原口名(現諫早市)で生まれる。1918年、諫早高等小学校を卒業後西南学院で学ぶが、1922年6月で中退した。 1940年、上海で江南工業 (株) 社長に就任。1951年4月、富陽建設 (株) を設立して社長に就任。1977年に引退した。 政界では、1937年3月に長崎市会議員に当選。1946年4月、第22回衆議院議員総選挙に長崎県から出馬して当選し衆議院議員を一期務めた。1951年4月、長崎県議会議員に諫早市選挙区から民主党公認で立候補して当選し、一期在任した。
田浦 直蔵(田浦 直藏、たうら なおぞう、1898年(明治3… 田浦 直蔵(田浦 直藏、たうら なおぞう、1898年(明治31年)10月15日 - 1965年(昭和40年)8月17日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)、長崎県議会議長。 長崎県北松浦郡平村(平町、宇久町を経て現佐世保市宇久町)で、田浦甚吉の二男として生まれる。1916年(大正5年)長崎県水産講習所(現長崎県立長崎鶴洋高等学校)を卒業した。 1916年、長崎県農林技手となる。1924年(大正13年)長崎県漁業組合連合会が設立され同会主事に就任。1932年(昭和7年)長崎水産商事(株)を設立して取締役社長に就任。上海支店を設け、その他、長崎魚市場取締役、グランドサービス取締役なども務めた。
朝長正男(ともなが まさお、1898年2月7日 - 1983… 朝長正男(ともなが まさお、1898年2月7日 - 1983年4月11日)は、日本の実業家。長崎県大村市出身で鎮西学院、関西学院高商を卒業、江商(現兼松)株式会社副社長、相談役を経て、母校である関西学院大学理事、千刈cc理事長、(社)関西ゴルフ連盟常務理事、茨木CC理事・鳴尾GC理事とし関西学院大学、関西ゴルフ界の発展に寄与した人物である。大正11年(1922年)関西学院高商卒業。 関西学院体育会のモットーである「Noble Stubbornness(ノーブル スタボネス)品位ある不撓不屈の精神」は、大正9年に関西学院高商庭球部主将であった朝長が、ライバルの神戸高商(神戸大学)庭球部に完敗した時に庭球部部長であった畑歓三教授に、この悔しさを忘れない為に依頼して作られたモットー、標語である。
下村 彌一(しもむら・やいち、1897年(明治30年)8月1… 下村 彌一(しもむら・やいち、1897年(明治30年)8月16日 - 1990年(平成2年)4月6日)は、日本の実業家。坂本龍一の祖父。 長崎県諫早市出身。下村代助の三男。生家は小さな農家である。1905年に父の代助は家族を連れ佐世保に移住し、市役所の臨時雇いの雑用夫として働いた。 現在の佐世保市立白南風小学校を卒業後、家が貧しかったため佐世保海軍工廠の見習工になった。しかし、進学が諦め切れず旧制長崎県立佐世保中学校の校長を訪ねて直談判し、試験を受けて中学4年に編入学する。1919年に旧制第五高等学校文科甲類に入学し、池田勇人と友人となり、1922年に卒業。1925年に京都帝国大学法学部を卒業し、小学校時代の恩師の娘・美代と結婚。
大神 一(おおがみ はじめ、1897年2月15日 - 197… 大神 一(おおがみ はじめ、1897年2月15日 - 1970年10月12日)は、日本の経営者。 長崎県長崎市出身。1921年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に山一合資(のちの山一證券)に入社。1935年に取締役に就任し、常務、専務、副社長を経て、1954年11月に社長に就任。1964年から1965年までに会長を務めた。 1963年に藍綬褒章を受章。 1970年10月12日慢性腎炎と腸狭窄で死去。73歳没。
西村 久之(にしむら ひさゆき、1893年(明治26年)9月… 西村 久之(にしむら ひさゆき、1893年(明治26年)9月23日 - 1964年(昭和39年)2月4日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・牟田。 長崎県南松浦郡岐宿町(現・五島市)出身。牟田久蔵の二男に生まれ、力之助の養子となる。早稲田大学商科で学び、1914年に中退した。漁業を営む。 南松浦郡岐宿町会議員となり、また長崎県会議員にも選出されて、同参事会員、同議長も務めた。 1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙に長崎県選挙区から日本自由党公認で立候補して初当選。以後、第24回総選挙まで長崎県第2区から立候補して再選された。1952年(昭和27年)10月の第25回総選挙では次点で落選したが、1953年(昭和28年)4月の第26回総選挙で再選され、衆議院議員に通算4期在任した。
西岡 竹次郎(にしおか たけじろう、Takejiro Nis… 西岡 竹次郎(にしおか たけじろう、Takejiro Nishioka、1890年〈明治23年〉5月28日 - 1958年〈昭和33年〉1月14日)は、日本の政治家、実業家。西岡伊三次の養子。長崎県知事や戦前から戦後にかけ長崎民友新聞社長を務めた。位階は正四位。勲二等瑞宝章。 長崎市出身。1916年(大正5年)に早稲田大学法学部を卒業すると、普通選挙運動に関わり1921年(大正10年)からヨーロッパへ外遊。1924年(大正13年)に帰国すると同年5月の総選挙に中立候補として出馬し水産大学の誘致・総合大学の設置・国立博物館の建設等の6大政策を掲げたが、憲政会の対立候補だった本田恒之がそれを利益誘導として西岡を告訴したものの、結果的に本田・則元卯太郎(政友本党)と激戦の末に2,385票の最高点で初当選した。
井村 荒喜(いむら / こうき、1889年(明治22年)11… 井村 荒喜(いむら / こうき、1889年(明治22年)11月3日 - 1971年(昭和46年)5月10日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、富山市名誉市民 、不二越創業者。 長崎県南高来郡北有馬村今福(北有馬町を経て現南島原市)で、農業・井村庄太郎、きく の五男一女の末子として生まれる。有馬高等小学校を卒業し、1907年(明治40年)医師を目指して長崎の行余学舎に入学したが、実家の家計が傾き学舎を中退。長崎に残り、新聞配達、新聞記者見習いなどに従事。1913年(大正2年)11月、台湾に渡り台中の帝国製糖に入社。倉庫係、農場係、鉄道建設係で勤務。 1919年(大正8年)中越水電に招かれ支配人に就任。
松永 東(まつなが とう、1887年〈明治20年〉10月15… 松永 東(まつなが とう、1887年〈明治20年〉10月15日 - 1968年〈昭和43年〉1月22日)は、日本の実業家、弁護士、弁理士、政治家。位階は正三位。 第45代衆議院議長。第76代文部大臣。さいたま市名誉市民。 長崎県南高来郡北串山村(のち小浜町、現雲仙市)の農家に生まれる。松永道広の長男。鎮西学院を卒業。1905年、上京した。弁護士事務所の書生をしたり、新聞配達をした。 早稲田実業学校出身。早稲田大学商科に学び中退した(1934年に推薦校友)。また日本大学に学び、法律の勉強をした。1911年、家督を相続した。弁護士試験に合格後弁護士、弁理士を開業した。傍ら武州鉄工所社長、武州瓦斯取締役を兼ねた。
今里 準太郎(凖太郎、いまざと じゅんたろう、1886年(明… 今里 準太郎(凖太郎、いまざと じゅんたろう、1886年(明治19年)11月15日 - 1976年(昭和51年)12月28日)は、明治末から昭和期の右翼活動家、実業家、政治家。衆議院議員。 長崎県東彼杵郡萱瀬村(現大村市)で、今里和平の三男として生まれ、1907年(明治40年)6月、家督を相続した。大村中学校(現長崎県立大村高等学校)を経て、1907年、早稲田大学大学部政治経済学科を卒業した。兵役に就き陸軍三等主計となる。 北海道に渡り小樽新聞の記者となる。養狐業、鉄工機械商・今里商会の経営などを行い、その後、樺太で木材売買業を営み成功した。 1924年(大正13年)5月、第15回衆議院議員総選挙に長崎県第3区から無所属で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
西 済(西 濟、にし いつき、1884年 <明治17年> 1… 西 済(西 濟、にし いつき、1884年 <明治17年> 10月18日 - 1981年 <昭和56年> 4月27日)は、日本の経営者。十條製紙社長を務めた。位階は従四位。 長崎県平戸市出身。1906年に東京高等工業学校機械科を卒業し、同年に鈴木機械製作所に入社。 1910年に王子製紙に転じ、1941年に取締役を経て、1949年8月には十條製紙社長に就任。1957年11月に会長を経て、1968年5月には相談役に就任。 1960年に藍綬褒章を受章し、1965年11月には勲三等瑞宝章を受章。 1981年4月27日、心不全のために死去。96歳没。死没日付をもって従四位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
福島 喜三次(ふくしま きそうじ、1881年〈明治14年〉1… 福島 喜三次(ふくしま きそうじ、1881年〈明治14年〉10月10日 - 1946年〈昭和21年〉9月17日)は日本の実業家。三井合名会社理事。内閣調査局専門委員及び企画院参与を務めた。日本人初のロータリアンで、元ダラスロータリークラブ会員。 佐賀県西松浦郡有田村に福島喜平の六男として生まれる。2歳のとき父を亡くす。小学校時代から終始級長を務めるなど秀才で鳴らし、長崎商業学校(現・長崎市立長崎商業高等学校)を経て、1904年(明治37年)7月に東京高等商業学校(現・一橋大学)を首席で卒業。同期には星野唯三、園部潜、佐藤尚武、山崎一保、向井忠晴、黒田慶太郎、梁瀬長太郎らがいた。なお、同校では上級の優等生を選び夏季休業中に実地研究を課したが、福島も3年次に選ばれ「清国上海ニ於ケル貨幣事情調査報告書」を提出している。