古荘 次平(ふるしょう じへい、1914年12月15日 - … 古荘 次平(ふるしょう じへい、1914年12月15日 - ?)は、日本の水球選手。1936年ベルリンオリンピックの水球競技に出場した。 熊本県出身。熊本県立商業学校、早稲田大学卒。クリーニング企業のシロヤパリガン創立者。
熊本県:1,723人
古荘 次平(ふるしょう じへい、1914年12月15日 - … 古荘 次平(ふるしょう じへい、1914年12月15日 - ?)は、日本の水球選手。1936年ベルリンオリンピックの水球競技に出場した。 熊本県出身。熊本県立商業学校、早稲田大学卒。クリーニング企業のシロヤパリガン創立者。
佐方 信博(さかた のぶひろ、1914年9月5日 - 200… 佐方 信博(さかた のぶひろ、1914年9月5日 - 2008年9月24日)は、熊本県出身の郵政官僚。元富士重工業副社長。 熊本逓信局業務部長、郵務局服務課長、経理局主計課長、大臣官房文書課長兼大臣官房調査課長、名古屋郵政局長などを歴任。
加藤 光(かとう ひかる、1914年〈大正3年〉5月2日 -… 加藤 光(かとう ひかる、1914年〈大正3年〉5月2日 - )は日本のスーパーセンテナリアン、長寿の男性。2026年2月8日以降、日本国内の男性最高齢者である。 1914年(大正3年)5月2日、今の熊本県山鹿市生まれ。農林省に入省し、24歳の時に応召、陸軍第48師団配属となり当初は台湾に派遣された。その後太平洋戦争開戦劈頭4日目のフィリピン上陸作戦に参加しアメリカ軍と交戦、右足を負傷した。負傷から復帰した後はインドネシアのティモール島に駐留し、そこで終戦を迎えた。終戦による武装解除後は捕虜として野菜やサツマイモを育てる自活生活を送り、1946年5月に復員した。 帰国後も農林省に勤め、59歳で退職した。
高田 浩運(たかた こううん、1914年2月4日 - 197… 高田 浩運(たかた こううん、1914年2月4日 - 1977年7月17日)は、日本の政治家、厚生官僚。位階は従三位。勲等は勲二等。参議院議員(2期)。 1914年(大正3年)熊本県玉名市生まれ。熊本県立玉名中学校、第五高等学校を経て、1936年(昭和11年)、東京帝国大学卒業後、内務省に入省する。1937年(昭和12年)に香川県警警務課長。 1941年(昭和16年)に厚生省に配転され、1945年(昭和20年)より同省庶務課長、1955年(昭和30年)より医務局次長、1956年(昭和31年)より児童局長、1960年(昭和35年) より官房長、1962年(昭和37年)4月より保険局長を経て、同年7月社会保険庁長官に就任。
清原 康平(きよはら やすひら、1914年(大正3年)1月1… 清原 康平(きよはら やすひら、1914年(大正3年)1月14日 - 2001年(平成13年)4月7日)は、日本の陸軍軍人。歩兵少尉。歩兵第3連隊附。二・二六事件に参加、反逆罪(群衆指揮等)で無期禁固刑を受ける。その後恩赦により釈放、公職追放になるものの、恩赦の後も活躍した。2.26事件の直前、湯川智恵子と結婚して姓は、湯川康平となったが、軍関係では清原が使われている。 反乱部隊の指揮官の一人であった清原は、貴族院議員が集まり何事かを相談している華族会館を占拠し西園寺公望の秘書である原田熊雄を殺害せよとの命令を栗原安秀中尉から受け取った。逮捕後の清原の手記によると、華族会館の玄関で原田をみつけたが、その態度があまりに惨めだったので軍刀で切り捨てる気にもなれず見逃したと述べている。
西住 小次郎(にしずみ こじろう、1914年〈大正3年〉1月… 西住 小次郎(にしずみ こじろう、1914年〈大正3年〉1月13日 - 1938年〈昭和13年〉5月17日)は、大日本帝国陸軍の軍人。陸士46期。最終階級は陸軍歩兵大尉。勲五等功四級。熊本県上益城郡甲佐町仁田子出身。 日中戦争(支那事変)における第二次上海事変から徐州会戦に至るまで、八九式中戦車をもって戦車長として活躍。戦死後、軍部から公式に「軍神」として最初に指定された軍人として知られる。 1914年(大正3年)、父三作・母千代の間に、三男四女の二男として生まれた。父三作は退役軍人であり、明治期に陸軍教導団を経て台湾の抗日勢力の鎮圧、日露戦争に参加、曹長から中尉(予備役後大尉に昇進)まで上り詰めた人物だった。
園田 直(そのだ すなお、1913年〈大正2年〉12月11日… 園田 直(そのだ すなお、1913年〈大正2年〉12月11日 - 1984年〈昭和59年〉4月2日)は、日本の政治家、陸軍軍人。位階は正三位。 挺進第1連隊第2中隊長等を務める。階級は陸軍大尉。戦後一町田村助役・同村長を経て衆議院議員に当選。内閣官房長官、外務大臣、厚生大臣等を歴任。熊本県天草島出身。弟の幹男は陸軍少佐。後妻・よし子との間に生まれた長男の博之は内閣官房副長官・自由民主党衆議院議員を務めた。また後々妻・天光光との間に生まれた次男の直飛人は自身の議員秘書にしている。 町長・熊本県議会議員を務めた園田二三四の長男として生まれ、天草中学校(現:熊本県立天草高等学校)を卒業し大阪歯科医学専門学校(現大阪歯科大学)に進学するが徴兵される。
岡嶋 清熊(おかじま きよくま 1913年(大正2年)12月… 岡嶋 清熊(おかじま きよくま 1913年(大正2年)12月6日 - 1995年(平成7年)2月24日)は日本の海軍軍人、海上自衛官。海軍兵学校(第63期)卒。最終階級は、海軍で海軍少佐、海自で海将補。 1913年(大正2年)12月6日、熊本県に生まれる。熊本中学を経て1932年(昭和7年)4月、海軍兵学校に第63期生として入校。1936年(昭和11年)3月19日に卒業し海軍少尉候補生としてアメリカ・ニューヨークまでの遠洋航海に出る。終了後、重巡洋艦「足柄」乗組。1937年(昭和12年)4月、海軍少尉任官。同年9月、海軍練習航空隊飛行学生を拝命。同課程終了後、延長教育を受け、以後戦闘機搭乗員としての道を歩む。
谷口 睦生(たにぐち むつお、1913年(大正2年)3月5日… 谷口 睦生(たにぐち むつお、1913年(大正2年)3月5日 - 1943年(昭和18年)10月2日)は、日本の陸上競技(短距離走)選手。昭和初期の日本陸上短距離界においては、吉岡隆徳とともに「双璧」と見なされた選手で、200m直走路で日本記録を更新、100mで日本学生記録タイをマークした。第二次世界大戦で戦死。 熊本県八代郡鏡町(現在の八代市)生まれ。宇土中学校(現在の熊本県立宇土中学校・高等学校)在学中より競技で頭角を現し、九州選手権(100・200メートル)の保持者であった。同窓の戸上研之(三段跳、山鹿出身)とともに、関西大学に入学。 「暁の超特急」と呼ばれた吉岡隆徳と並び、昭和初期日本陸上短距離界の双璧と見なされた選手で、1933年(昭和8年)には日比対抗東京大会で200メートル優勝。
北御門 二郎(きたみかど じろう、1913年2月16日 - … 北御門 二郎(きたみかど じろう、1913年2月16日 - 2004年7月17日)は日本のレフ・トルストイ専門の翻訳家・文学研究者、農場経営者、平和主義者。トルストイの平和思想に共鳴し、農業を営みながら彼の作品を翻訳した。良心的兵役拒否をしたことでも知られる。
磯田 一郎(いそだ いちろう、1913年1月12日 - 19… 磯田 一郎(いそだ いちろう、1913年1月12日 - 1993年12月3日)は、日本の銀行家、元ラグビー日本代表選手。 住友銀行頭取・会長、経団連副会長などを歴任した日本を代表する銀行家で、住銀の高収益体質を確立し都市銀行上位行に発展させるなどの功績を挙げるなど、「住友銀行中興の祖」「住友銀行の天皇」と称された。しかし晩年には住銀と反社会的勢力の関係を近づけさせてしまうなど負の側面が目立ち、最終的にイトマン事件が原因で引責辞任した。 海軍軍人だった父親の赴任先、京都の舞鶴に生まれ、父が退役後、岡山の三井物産船舶部(後の商船三井)に入社したため岡山で育つ。岡山市立内山下小学校から旧制岡山一中(後の岡山県立岡山朝日高等学校)に進むが、父の転勤で旧制第二神戸中学校(のち兵庫県立兵庫高等学校)に転校。
黄 小娥(こう しょうが、1913年1月12日 - 没年不詳… 黄 小娥(こう しょうが、1913年1月12日 - 没年不詳)は、熊本県山鹿市出身の占い師である。1961年に『易入門』を出版し、占いブームを引き起こした。本名は川津 久佳、川津 久於、川津 久子などとされておりはっきりとしていない。 『易入門』の著者紹介では、生まれや育ち、国籍も不明で、親も夫もなく天涯孤独であるとされており、本名や経歴は明かされていなかった。 しかし、同書の人気が高まると週刊誌の暴露記事などで経歴が明らかとされた。熊本県山鹿市の履物屋の娘として生まれたが、幼い頃に母と死に別れ、継母の元で育った。熊本県立山鹿高等女学校卒業後、17歳で熊本市の建築材料店経営者と結婚し一男一女をもうけたが、戦後に離婚しひとり家を出たという。
浜名 志松(濱名 志松、はまな しまつ、1912年10月12… 浜名 志松(濱名 志松、はまな しまつ、1912年10月12日 - 2009年1月9日)は、日本の民俗学者、天草文化研究家、キリシタン研究家。 熊本県天草郡魚貫村(現・天草市魚貫町)出身。1936年より小学校・中学校教員、熊本県立本渡高等女学校(現・熊本県立天草高等学校)教諭、熊本県教育庁指導主事、天草教育研究所長、1972年天草町教育長。1959年天草文化賞、1987年信有社賞受賞、1991年熊日賞受賞、勲五等双光旭日章受章、1992年荒木精之賞受賞、1995年地域文化功労者文部大臣表彰受賞、1998年天草観光協会賞、日本観光協会九州支部長賞受賞。
吉武 嘉善(よしたけ かぜん、1912年(大正元年)9月22… 吉武 嘉善(よしたけ かぜん、1912年(大正元年)9月22日 - 没年月日不明)は、日本の経済学者、(証券市場論)。元八幡大学学長。熊本県人吉市出身。 東大では大陸式簿記論、高等商業数学の勉学に専念。小寺奨学懸賞論文に応募し『金本位制の将来』の論文で入選した。大和生命保険社員時代も『保険の本質について』の論文を生命保険協会雑誌に発表した。昭和18年黒崎窯業社員時代、マレイ、スマトラに南方方面派遣され英国系三煉瓦工場の建設と経営を任されボーキサイト煉瓦の製造に成功した。終戦帰国後、戸畑専門学校に奉職。八幡大学では経営経済学科の重鎮教授としての存在であった。法経学部長就任後学長に就任した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
沼田 次郎(ぬまた じろう、1912年8月19日 - 199… 沼田 次郎(ぬまた じろう、1912年8月19日 - 1994年6月29日)は、日本の歴史学者、日本史学者。東京大学名誉教授(史料編纂所元所長)。洋学史、日蘭交渉史が専門で、日蘭学会理事長も務めた。 熊本県熊本市出身(出生地は和歌山県)。鹿児島県立第一鹿児島中学校 (旧制)を経て、1932年第五高等学校 (旧制)卒業、1935年東京帝国大学文学部国史学科卒業。東京大学史料編纂所に入り、1954年助教授、1965年教授に就任し、1971年から1973年に所長を務める。1973年から1983年まで東洋大学文学部教授。そのほか、1980年から1983年に日蘭学会理事長。勲三等旭日中綬章受章。
戸上 研之(とがみ かねゆき/けんし、1912年8月1日 -… 戸上 研之(とがみ かねゆき/けんし、1912年8月1日 - 1986年)は、日本の陸上競技(跳躍)選手。1936年ベルリンオリンピックで男子走幅跳に出場した。 現在の熊本県山鹿市石(旧鹿本郡八幡村)出身。宇土中学校(現在の熊本県立宇土中学校・高等学校)に学び、同窓の谷口睦生(短距離走、八代出身)とともに関西大学に進学した。 1936年ベルリンオリンピックでは日本代表に選ばれ、走幅跳で出場。記録は6.18mで、予選を突破できなかった。 1937年(昭和12年)1月から5月にかけ、村社講平(中央大学)とともにニュージーランドに遠征。クライストチャーチにおいて三段跳で15m58を記録した(当時のニュージーランド記録を越える記録)。
森 国久(もり くにひさ、正字体:森國久、1912年(明治4… 森 国久(もり くにひさ、正字体:森國久、1912年(明治45年)7月10日 - 1961年(昭和36年)6月26日)は、日本の政治家。熊本県天草地方で首長を務め、全国の離島の振興に力を注ぎ、天草五橋の実現に尽力した。 熊本県龍ヶ岳町長、熊本県町村会副会長、天草郡町村会長、天草振興協議会長、天草架橋期成会副会長、天草観光協会長、全国離島振興協議会副会長、内閣離島振興対策審議会委員(すべて死亡時)。 出生から学校卒業まで 1912(明治45年)7月10日、熊本県天草郡樋島村(現・熊本県上天草市龍ヶ岳町樋島)に生まれる。地元の小学校を卒業後、1925年(大正14年)4月、熊本県立天草中学校(現・熊本県立天草高等学校)に入学。
伊沢 一郎(いざわ いちろう、1912年〈明治45年〉2月2… 伊沢 一郎(いざわ いちろう、1912年〈明治45年〉2月22日 - 1995年〈平成7年〉5月14日)は、日本の俳優。熊本県菊池郡河原村(現・菊池市)出身。本名:萱野 季男(かやの すえお)。女優の美川かつみは妻。俳優の川谷拓三は甥。 高輪商業学校卒業。1930年に日活太秦に入社。1931年にサイレント映画『かんかん虫は唄ふ』でデビュー。朴訥だが誠実なキャラクターで注目され、『ためらふ勿れ若人よ』、『魂を投げろ』などの作品で、デビュー間もない原節子とのコンビで主演。戦後も脇役として活躍。熊本なまりの喋りと親しみのあるキャラクターが特徴だった。温厚な性格でも知られており、時代劇や特撮、更にはロマンポルノとジャンルを問わず幅広い作品に出演した。
安田 優(やすだ ゆたか、1912年(明治45年)2月1日 … 安田 優(やすだ ゆたか、1912年(明治45年)2月1日 - 1936年(昭和11年)7月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍砲兵少尉。陸軍砲工学校学生。二・二六事件に参加して他の将校らと内大臣斎藤實、教育総監渡辺錠太郎を相次いで襲撃、殺害し、事件後処刑された。 安田のほか、中尉坂井直、少尉高橋太郎、少尉麦屋清済が率いる150人の襲撃部隊が、東京府東京市四谷区仲町三丁目(現東京都新宿区若葉一丁目)の内大臣斎藤実の私邸を急襲。斎藤を機関銃で殺害した。 このあと、 安田は高橋少尉とともに30人を連れ、上荻窪の渡辺錠太郎教育総監私邸へ向かい、 渡辺を射殺。後の安田の供述によれば、本来、渡辺に関しては殺害する意図は無く、陸軍大臣官邸まで連行するのが目的であったという。
井手 宣通(いで のぶみち、1912年〈明治45年〉2月1日… 井手 宣通(いで のぶみち、1912年〈明治45年〉2月1日 - 1993年〈平成5年〉2月1日)は、日本の洋画家。熊本県上益城郡御船町出身。 帝展、新文展、日展、光風会などを中心に活躍。その後、自ら「日洋会」を組織し、戦後の洋画壇の刷新と、日本人の感性による新たな具象絵画の可能性を追求した。 熊本市現代美術館に、井手宣通記念ギャラリーがある。
横田 良一 (1911年9月10日 - 1936年1月10日… 横田 良一 (1911年9月10日 - 1936年1月10日)は戦前に活躍した、日本の男性歌手である。 「天草小唄」「アリランの唄」などのヒット曲がある。本名は中道實穂。
坂本 善三(さかもと ぜんぞう、1911年3月15日 - 1… 坂本 善三(さかもと ぜんぞう、1911年3月15日 - 1987年10月14日)は、日本の洋画家。 「グレーの画家」と呼ばれる。グレーと黒を主体にした独自の抽象画は、東洋の寡黙、沈黙の錬金術などとも評じられる。1986年のFIEST展(フランス、パリ)で、リトグラフィ「構成80」が専門家賞(Prix Professionnel)を受賞するなど、国際的にも評価が高い。 作品の収蔵は文化庁、栃木県立美術館、熊本県立美術館、福岡市美術館、北九州市立美術館、坂本善三美術館ほか。熊日社会賞、西日本文化賞、第1回長谷川仁記念賞、熊本県文化懇話会賞受賞。熊本県近代文化功労者。 熊本県阿蘇郡小国町には、坂本善三の作品など約500点を収蔵、展示する坂本善三美術館がある。
池田 勝(いけだ まさる、1911年3月2日 - 没年不明)… 池田 勝(いけだ まさる、1911年3月2日 - 没年不明)は日本の教育者。 熊本県荒尾市に生まれる。熊本県立玉名中学校(現・熊本県立玉名高等学校・附属中学校、1928年卒業)を経て、京城帝国大学法文学部を卒業した。 卒業後は朝鮮・全州師範学校教諭となる。戦後は母校である玉名高等学校の教諭を務めた後、熊本県教育委員会指導委員となる。その後教職に復帰し、熊本県立荒尾高等学校(1956年着任)・熊本県立宇土高等学校(1960年着任)・熊本県立第一高等学校・熊本県立鹿本高等学校で校長を歴任した。荒尾高等学校長就任は、生徒のストーム事件の事後処理がその理由だった。熊本県教育委員会では指導室長も務めている。
中山 一郎(なかやま いちろう、1911年 - 1993年)… 中山 一郎(なかやま いちろう、1911年 - 1993年)は、日本の翻訳家、研究者。熊本県出身。 熊本県立玉名中学校(現・熊本県立玉名高等学校)、第五高等学校を経て、東京帝国大学法学部を卒業。 東大卒業後、南満州鉄道に入社し、調査部などに勤務した。戦後、ソビエト抑留から帰還し、東京大学に勤務、東京大学社会科学研究所図書資料室長などを歴任した。 その傍ら、ロシア語の本の翻訳を行った。
北原 経太(きたはら けいだ、1910年10月31日 - 没… 北原 経太(きたはら けいだ、1910年10月31日 - 没年月日不詳)は、日本の医学者。専門は公衆衛生学。 熊本県に生まれる。熊本県立玉名中学校(1927年卒業)、旧制静岡高等学校を経て、九州帝国大学医学部を卒業した。九大卒業後、当時の旧制鹿児島県立医科大学の教授(公衆衛生学)となる。 1946年に九州帝国大学から医学博士号を取得した。その後、鹿児島大学医学部の教授となる。1974年に開催された日本人類遺伝学会の大会会長を務めた。多くの衛生学に関する論文を残し、1983年には日本人類遺伝学会の名誉会員となる。鹿児島大学を退官後は名誉教授となった。
中島 正(なかじま ただし、1910年〈明治43年〉6月25… 中島 正(なかじま ただし、1910年〈明治43年〉6月25日 - 1996年〈平成8年〉8月22日)は、日本の海軍軍人、航空自衛官。海兵58期。最終階級は海軍中佐、空将補。 1910年6月25日、熊本県に生まれる。福岡県三池中学校入学。何度も展覧会に絵を出展するなど、最初は画家志望だったが、従兄弟に勧められて海軍兵学校(第58期)を受験。1930年11月、卒業。その後の遠洋航海では船酔いして寝込み、船乗りがこれではと海軍をやめようかと思っていたところ、帰国後の術科講習で「航空最適、甲の上」という適性検査の結果を知らされ、それ以降航空畑を歩むことになる。1932年4月、少尉。 1933年11月、海軍中尉。
浦田 正夫(うらた まさお、1910年5月1日 - 1997… 浦田 正夫(うらた まさお、1910年5月1日 - 1997年11月30日)は、日本画家、日本芸術院会員。 熊本県山鹿市生まれ。浦田家は祖父から続く画家の家系で、伯父に高橋廣湖がいる。松岡映丘らに師事。東京美術学校日本画科卒。1973年日展文部大臣賞受賞、1978年日本芸術院賞受賞、1988年芸術院会員。1993年、勲三等瑞宝章受章。 代表作に「蔓(かずら)」、「松」など。北関東や東北の自然を描いた。
高屋 窓秋(たかや そうしゅう、1910年2月14日 - 1… 高屋 窓秋(たかや そうしゅう、1910年2月14日 - 1999年1月1日)は、俳人。本名・正国(まさくに)。従来の写生主義、花鳥諷詠の俳句から離れた句作を行い、昭和初期の新興俳句運動に大きな影響を与えた。代表句に「頭の中で白い夏野となつている」「ちるさくら海あをければ海へちる」「山鳩よみればまはりに雪がふる」など。 名古屋市東区に生まれる。父は陸軍士官で、名古屋は両親の故郷であったが、物心ついてからは東京に住んだ。1923年、関東大震災に被災ののち、父の転任に伴い熊本に移る。1926年、学友に連れられて「ホトトギス」派の俳人草野駝王、有働木母寺が指導する句会に出席、必要ということで学友に「寅秋子」の俳号を付けられる。
大江 卓二(おおえ たくじ、1910年 - 2002年5月2… 大江 卓二(おおえ たくじ、1910年 - 2002年5月27日)は日本の技術者、官僚。 熊本県に生まれる。熊本県立玉名中学校(現・熊本県立玉名高等学校・附属中学校)、旧制第五高等学校を経て、東京帝国大学工学部を卒業した。 逓信省船舶試験所(現・海上技術安全研究所)に入所し、1949年に第4部長となる。以後、運輸省技術研究所船舶機関部長、所長を歴任した。 2002年5月27日、前立腺癌のため死去。
遠山 啓(とおやま ひらく、1909年8月21日 - 197… 遠山 啓(とおやま ひらく、1909年8月21日 - 1979年9月11日)は、熊本県下益城郡(現・宇城市)出身の日本の数学者。数学教育の分野でよく知られる。
村田 勉(むらた つとむ、1909年6月3日 - 2000年… 村田 勉(むらた つとむ、1909年6月3日 - 2000年1月30日)は、日本の軍人(技術士官)、技術者、実業家。軍における最終階級は大日本帝国海軍技術少佐。 火薬の専門家として知られ、海軍では艦砲の火薬や固体燃料ロケットの研究をおこない、戦後は日本油脂に勤務し、糸川英夫のペンシルロケットに推進剤を提供した。のちに日本油脂の社長・会長を務める。 熊本県に生まれる。旧制玉名中学校(現・熊本県立玉名高等学校・附属中学校)から第一高等学校を経て東京帝国大学に進む。旧制中学校時代に読んだ三上於菟吉の小説『春は蘇れり(地獄の彼方の天国)』に影響を受け、火薬に興味を持つ。東京帝国大学工学部卒業後、海軍技術士官となる。
坂口 敏之(さかぐち としゆき、1909年3月29日 - 1… 坂口 敏之(さかぐち としゆき、1909年3月29日 - 1999年)は、日本の医師、軍医。 熊本県玉名郡梅林村(現・玉名市)に生まれる。熊本県立玉名中学校(現・熊本県立玉名高等学校・附属中学校、1927年卒業)を経て、熊本医科大学を卒業した。 1937年7月には上海に派遣され患者輸送部隊の医師として、負傷した兵士を野戦病院から後方へ送る仕事に従事した。太平洋戦争開戦後は軍医として徴兵され、マレー作戦に従軍し、1942年秋まで占領地を移った。 戦後は福岡県大牟田市の三井三池鉱業所病院に勤め、定年退職後に開業医となった。1952年に熊本大学より医学博士号を取得している。1975年には『肥後の子供歳時記』を刊行した。
吉田 重延(よしだ しげのぶ、1909年2月14日 - 19… 吉田 重延(よしだ しげのぶ、1909年2月14日 - 1989年8月7日)は、日本の政治家。元自由民主党衆議院議員。岳父は中野猛雄。 熊本県天草郡栖本村(現・天草市)の農家に生まれる。東京帝国大学農学部農学実科(実科は1935年に東京高等農林学校として独立、現・東京農工大学)を卒業後は帰郷し農作業に従事する。その後熊本県職員、栖本村長を経て、1953年の第26回衆議院議員総選挙に旧熊本2区から自由党公認で立候補し初当選する。以後連続7回当選。 自民党では宏池会に所属する。自治政務次官、衆院大蔵委員長等を歴任。1972年にはリベリアのウィリアム・R・トルバート新大統領の就任式典に政府特使として派遣された。
坂村真民(さかむら しんみん、1909年1月6日 - 200… 坂村真民(さかむら しんみん、1909年1月6日 - 2006年12月11日)は、日本の仏教詩人。本名昂(たかし)。一遍の生き方に共感し、「癒やしの詩人」と言われる。 熊本県玉名郡府本村(現 荒尾市)生まれ。熊本県立玉名中学校を経て、1931年に神宮皇學館を卒業。1934年朝鮮に教員として渡り、1945年に引き揚げ。1946年、愛媛県三瓶町の私立第二山下高等女学校教諭に着任。1950年、個人雑誌「ペルソナ」を創刊して、従来創作していた短歌から離れる。1953年、尼僧・杉村春苔に出会い、大きな影響を受ける。1962年、森信三の教示を受けて、自らの詩をつづった月刊詩誌「詩国」を創刊。1,200部を無料で配布した。
荒木 時次(あらき ときじ、1909年 - 没年不詳)は日本… 荒木 時次(あらき ときじ、1909年 - 没年不詳)は日本の経済学者、翻訳家。 熊本県に生まれる。熊本県立玉名中学校(1926年卒業)、福岡高等学校を経て、東京帝国大学経済学部を卒業した。その後、東京帝国大学経済学部大学院で研究した。 大学院終了後、得意のドイツ語を生かして、ナチス・ドイツの文献の翻訳などを行った。 主な作品にドイツ小国民美談・銃後の巻や陸軍の巻などがある。戦後、それらの作品は連合軍によって発禁処分となった。 戦後は自ら研究所を主催し、反共産主義の立場で活動した。
指田 吾一(さしだ ごいち、1909年〈明治42年〉 - 1… 指田 吾一(さしだ ごいち、1909年〈明治42年〉 - 1969年〈昭和44年〉3月24日)は、日本の医師、政治家。東京都田無市(現在の西東京市)長を務めた(2期)。 熊本県宇土市出身。日本医科大学を卒業した。戦時中は軍医として活動する。1945年、広島で原子爆弾により被爆する。この時の被爆体験を記録し、後日『原爆日記』として出版した。1953年12月、東京都北多摩郡田無町で開業する。1962年、田無町長に就任した。田無町は東京のベッドタウンとして人口が急増し、町長2期目の1967年に田無町は市制施行した。教育施設の整備のほか、急増する人口にともない、ゴミや屎尿の処理が大きな問題となり、市内に屎尿処理場を建設することを決定した。
稲垣 優(いながき まさる、1908年12月2日 - 200… 稲垣 優(いながき まさる、1908年12月2日 - 2006年1月6日)は、日本の数学者。専門は微分幾何学。第10代東海大学学長、第3代国際武道大学学長を務める。熊本県熊本市出身。 東海大学水泳部初代主将 東海大学付属本田記念幼稚園、第3代園長も務めた。東海大学名誉教授、理事。1987年、勲二等瑞宝章受章。
野田 英夫(のだ ひでお、1908年7月15日 - 1939… 野田 英夫(のだ ひでお、1908年7月15日 - 1939年1月12日)は、洋画家。アメリカ合衆国生まれの日系人。 1908年(明治41年)、カリフォルニア州サンタクララ郡アグニュー村(Agnew, 現・サンタクララ市)で、熊本県出身の日本人移民・野田英太郎とセキの二男(第二子長男?)として生まれる。英語名はベンジャミン・ノダ。当時、アグニューや近隣のアルビソなどサンノゼ郊外は、ベリーなどの農産物耕作に携わる日本人移民の中心地だった。 3歳のときに父の郷里熊本の叔父・羽島徳次に預けられ、熊本師範付属小学校、旧制熊本県立熊本中学校卒業後に帰国し、1929年にアラメダ郡のビードモント高校を卒業、アメリカ人家庭のスクールボーイとして働きながら絵を学び、カリフォルニア・ファイン・アーツを中退、1931年にニューヨークに出てウッドストック芸術村で開かれていたアート・ステューデンツ・リーグの夏季講座に参加し、同校教授アーノルド・ブランチ(英語版)や国吉康雄の支援を受け、壁画・テンペラ画を研究した。
今村 義孝(いまむら よしたか、1908年3月2日 - 20… 今村 義孝(いまむら よしたか、1908年3月2日 - 2006年10月18日)は、日本史学者。 熊本県飽託郡島崎村(現熊本市西区)生まれ。1930年東京高等師範学校文科卒業。高田師範学校教諭、熊本県立天草中学校(現熊本県立天草高等学校)教諭、秋田師範学校教諭、1949年秋田大学助教授、1952年教授、1973年定年退官、名誉教授。没後正四位。キリスト教徒。天草、秋田のキリシタン史などを研究した。
大町 文夫(おおまち ふみお、1908年2月25日 - 19… 大町 文夫(おおまち ふみお、1908年2月25日 - 1982年4月14日)は日本の俳優。本名は瀬戸口文夫。 1908年(明治41年)2月25日、熊本県熊本市に生まれる。長崎高等商業学校卒業後、雑誌・新聞記者、専売局勤務を経て、1934年(昭和9年)に村山知義らの新協劇団の結成に参加し、新劇俳優となる。戦後の1947年(昭和22年)、民衆芸術劇場(後の劇団民藝)に入る。戦中から映画にも出演し、独立プロ作品や日活作品に多く出演した。1957年(昭和32年)頃からはテレビドラマにも出演した。 この項目は、俳優(男優・女優)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ芸能人)。
池尻 愼一(いけじり しんいち、1908年 - 1945年)… 池尻 愼一(いけじり しんいち、1908年 - 1945年)はハンセン病を専門とした医師、作家。ハンセン病、ハンセン病患者と真剣に向かいあい、作品『傷める葦』は1年未満で30版を数えた。太平洋戦争で応召し、1945年1月ジャワで戦死した。ペンネームは邑楽 愼一(おおら しんいち)。陸軍軍医の最終階級は軍医中尉。 1908年、福岡県浮羽郡水縄村大字益生田(現・久留米市)生まれ。父・池尻久四郎は郡医師会長を務めた人物であったが、愼一の生母とは正式の結婚でなかったので、彼は一時ぐれた。福岡県中学明善校(福岡県立明善高等学校の前身)に入学していたが、2年後叔父を頼って熊本にいき、熊本の鎮西中学校(後の鎮西高等学校)を卒業した。
佐伯 千仭(さえき ちひろ、1907年(明治40年)12月1… 佐伯 千仭(さえき ちひろ、1907年(明治40年)12月11日 - 2006年(平成18年)9月1日)は、日本の法学者(刑法)。弁護士。熊本県出身。 熊本県上益城郡木山町生まれ。旧制熊本県立中学済々黌(現熊本県立済々黌高等学校)を経て、1927年旧制第五高等学校卒業。1930年、京都帝国大学法学部卒業後、同大学助手。1932年、同助教授。1933年の滝川事件の際に京都大学を離れ、立命館大学教授に就任するも、1934年に京都大学法学部助教授に復帰した。1941年、同大学教授。 戦後、自著『刑法総論』の国家主義的内容が問題となって教職不適格指定を受け、1947年に京都大学を追放された。同年、弁護士登録。
荒木 克業(あらき かつなり、1907年(明治40年)10月… 荒木 克業(あらき かつなり、1907年(明治40年)10月20日‐1932年12月3日)は、日本陸軍の軍人。 陸士41期。熊本県旧飽託郡内田村(現・熊本市南区)出身。最終階級は工兵中尉、死後大尉。 昭和4年(1929年)7月17日、陸軍士官学校(41期)を卒業、同年10月25日より千葉の鉄道第1連隊第2中隊の所属となる。 1932年9月27日、満州国軍の人事配置に不満を持った旧張学良軍の蘇炳文少将ら満州国軍黒龍江省駐留軍の軍人数千人が『東北民衆救国軍』を名のり満州里で挙兵、満州里領事や特務機関長、国境警察署長、民間人ら在留邦人数百名を人質とし、ホロンバイル独立を宣言した。世にいうホロンバイル事件である。
長谷川周重(はせがわ のりしげ、 1907年8月8日 - 1… 長谷川周重(はせがわ のりしげ、 1907年8月8日 - 1998年1月3日)は、日本の実業家。元住友化学会長・社長。
高野 巽(たかの たつみ、1907年7月29日 - 没年不明… 高野 巽(たかの たつみ、1907年7月29日 - 没年不明)は昭和期の日本の文学者。ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの研究で知られる。 熊本県に生まれる。熊本県立玉名中学校(1925年卒業)、第五高等学校を経て、東京帝国大学文学部を卒業した。 東大卒業後、熊本高等工業学校講師、教授、第五高等学校教授を経て熊本大学教授となる。1961年から熊本大学法文学部長に就任した。定年退官まで母校である第五高等学校の後身の熊本大学の教壇に立ち続けた。 また、学生運動が盛んな頃は学生部長も務めた。退官後は名誉教授となり、熊本工業大学の教授も務めた。
小林 義雄(こばやし よしお、1907年5月17日 - 19… 小林 義雄(こばやし よしお、1907年5月17日 - 1993年1月6日)は日本の菌類学者。理学博士(東京帝国大学、1940年)。 熊本市生まれ。1931年に東京帝国大学を卒業し、東京文理科大学の助手、講師を務めた後、1941年から1945年まで満州国立中央博物館の薦任官を務め、1946年から2年間、長春大学の教授を務めた。1948年から国立科学博物館の植物研究部員として働き、後に研究部長となった。 菌類の分類学的研究の他に、南方熊楠が残した菌類図譜稿本を整理し、1987年に「南方熊楠菌誌」を出版した。1970年に南方熊楠賞の第1回の受賞者となった。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
藤木 邦彦(ふじき くにひこ、1907年5月3日- 1993… 藤木 邦彦(ふじき くにひこ、1907年5月3日- 1993年5月6日)は、日本の日本史学者。
河野 壽(こうの ひさし、1907年(明治40年)3月27日… 河野 壽(こうの ひさし、1907年(明治40年)3月27日 - 1936年(昭和11年)3月6日)は、日本の陸軍軍人。航空兵大尉。所沢陸軍飛行学校操縦学生。 二・二六事件で蹶起し、湯河原で牧野伸顕を襲撃したが負傷。翌月、入院先の熱海で自決した。 民間人を主体とした襲撃部隊(河野以下8人)を指揮し自動車2台に分乗、歩兵第一連隊を2月26日0時40分頃出発。 5時頃湯河原に到着、伊藤屋旅館の元別館である「光風荘」にいた牧野伸顕前内大臣を襲撃した。警護の巡査皆川義孝は河野らに拳銃を突きつけられて案内を要求されたが、従う振りをしつつ、振り向きざまに発砲し、河野及び予備役曹長宮田晃を負傷させたが、皆川巡査は殺害された。
川本 末雄(かわもと すえお、1907年(明治40年)3月1… 川本 末雄(かわもと すえお、1907年(明治40年)3月16日 - 1982年(昭和57年))は、熊本県玉名村(現玉名市玉名)出身の日本画家。 現代的解釈による大和絵の世界を展開し、郷里の菊池川周辺の自然風景をモチーフに、現代日本画の新境地を開いた。 1907年(明治40年)、熊本県玉名村に生まれる。旧制玉名中学校(現熊本県立玉名高校)を経て1929年、東京美術学校(現東京芸術大学)へ入学、1933年卒業。松岡映丘に師事する。1938年の松岡映丘の死去により翌1939年より山口蓬春に師事。 1948年、第4回日展(日本美術展覧会)にて「水辺薄日」が初入選、翌1949年第5回日展で「夕映」特選、1953年第9回日展で「朝の渓谷」が特選・白寿賞・朝倉賞を受賞。
宮原 道也(みやはら みちや、1907年2月26日 - 没年… 宮原 道也(みやはら みちや、1907年2月26日 - 没年不詳)は、日本の医師、医学者。専門は産婦人科。 熊本県玉名市出身。旧制熊本県立玉名中学校を経て熊本医科大学を卒業した。1933年に熊本医科大学産婦人科教室に入局し、講師や医学専門部の教授を歴任した。この間、1945年10月には論文「副腎の組織呼吸に関する研究」で熊本医科大学から医学博士号を取得した。 戦後の1950年から国立熊本病院の副院長兼産婦人科部長となった。1957年、熊本市内で産婦人科医院を開業した。