片山 佃(かたやま つくだ、1899年〈明治32年〉12月1… 片山 佃(かたやま つくだ、1899年〈明治32年〉12月1日 - 1994年〈平成6年〉)は日本の農学者。 熊本県立玉名中学校(1918年卒業)、第七高等学校造士館を経て、東京帝国大学農学部を卒業した。 農林省農事試験場鴻巣試験地勤務から、1936年に九州帝国大学農学部助教授となり、1939年に教授に昇任した。太平洋戦争中の1943年12月から翌年7月まで、南方軍総監部付を兼務して、占領地域の農業指導にも当たった。1963年に定年退官し、名誉教授となった。 イネ科植物の分蘖(ぶんけつ)した茎と主茎の間で、縦に並んだ葉(同伸葉)が同時に規則的に生じることを1951年に報告し、「同伸葉理論」と名付けられた。
江上 トミ(えがみ とみ、1899年11月19日 - 198… 江上 トミ(えがみ とみ、1899年11月19日 - 1980年7月21日)は、日本の料理研究家。テレビ放送草創期より活躍した料理番組講師の草分けであり、日本の「料理研究家」の元祖。 NHK『きょうの料理』や日本テレビ『キユーピー3分クッキング』などに出演して、暖かいおふくろさんの笑顔と熊本弁で人気を博した。 「ご家庭の幸せは愛情をこめた料理から」をモットーとし、家庭料理の普及に尽くして江上料理学院を創設。同学院は現在、トミの長男の嫁の江上栄子と孫の江上佳奈美に引き継がれている。 出身地の地元テレビ局であるテレビ熊本 (TKU) が、ドキュメンタリードラマ「郷土の偉人シリーズ」でトミの生涯を描いた「日本の食卓を変えた火の國の女江上トミ」(演:細川ふみえ)を制作し、2006年11月5日に九州7県のフジネットワーク系列局で放送した。
吉岡 範武(よしおか のりたけ、1899年10月15日 - … 吉岡 範武(よしおか のりたけ、1899年10月15日 - 1969年7月15日)は、日本の外交官。初代駐カンボジア特命全権大使。 熊本県熊本市出身。府立第四中学校(現東京都立戸山高等学校)、第三高等学校を経て、1923年東京帝国大学法学部政治学科卒業。1936年在中華民国大使館二等書記官。1940年外務省調査部第六課長。1945年在フランス大使館参事官。 同年から外務大臣官房儀典課長事務取扱を務め、帝国ホテルの犬丸徹三と相談し、連合国軍占領下の日本における連合軍将官宿舎の選定を進めた。 1946年終戦連絡京都事務局長。1948年京都連絡調整事務局長。1953年外務省参与。1954年駐カンボディア特命全権公使。
佐方 繁木(さかた しげき、1899年(明治32年)10月1… 佐方 繁木(さかた しげき、1899年(明治32年)10月1日 - 1954年(昭和29年)4月8日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 熊本県出身。熊本中学校(現熊本県立熊本高等学校)卒業を経て、1920年(大正9年)5月、陸軍士官学校(32期)を卒業。同年12月、騎兵少尉に任官し騎兵第19連隊付となる。1928年(昭和3年)12月、陸軍大学校(40期)を卒業した。 1929年(昭和4年)8月、騎兵大尉に昇進し騎兵第23連隊中隊長に就任。1930年(昭和5年)8月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、参謀本部付(支那研究員)、参謀本部員を務め、1935年(昭和10年)8月、騎兵少佐に進級。
蔵原 伸二郎(くらはら しんじろう、1899年〈明治32年〉… 蔵原 伸二郎(くらはら しんじろう、1899年〈明治32年〉9月4日 - 1965年〈昭和40年〉3月16日)は熊本県出身の詩人、作家、評論家。 熊本県阿蘇郡黒川村(現在の阿蘇市)に生まれる。本名は蔵原惟賢(これかた)。父惟暁は神官で阿蘇神社の直系。母いくは医学者北里柴三郎の妹。 7歳で熊本市に移住。旧制九州学院中学校在学中から中国詩に親しむ。19歳で上京し、慶應義塾大学文学部仏文科に学ぶ。同級に青柳瑞穂や石坂洋次郎がいた。1923年、大学在学中に萩原朔太郎『青猫』に触発されて詩を書き始め、『三田文学』『コギト』に作品を発表。のち、東京外国語学校のロシア語科に通っていたことが発覚したため、二重学籍を理由に慶應義塾大学から退学処分を受ける。
稲ノ森 勉(いねのもり つとむ、1899年5月17日 - 1… 稲ノ森 勉(いねのもり つとむ、1899年5月17日 - 1963年7月20日)は、熊本県熊本市出身で入間川部屋、出羽海部屋に所属した力士。本名は古閑 勉。173cm、94kg。最高位は東前頭14枚目。 1919年1月初土俵、出世は速く、序ノ口から7場所目の1923年5月に十両昇進。土俵上の駆け引きに熟練するところがあり、柔軟な取り口はうまく、四つに組んでの投げにも無理がなく、寄り身も速かった。1926年5月に入幕するも、幕内では全く通用せず、対戦相手の為すがままに取られて11戦全敗を喫し十両に陥落。幕内在位はこの1場所に終わり、十両陥落後も勝ち越せず、1928年3月廃業。
坂口 主税(さかぐち ちから、1899年(明治32年)4月2… 坂口 主税(さかぐち ちから、1899年(明治32年)4月20日 - 1981年(昭和56年)4月27日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)、熊本市長(2期)を歴任した。 熊本県玉名郡賢木村(現・南関町)出身。1917年(大正6年)熊本県立玉名中学校、旧制第五高等学校を経て、1923年(大正12年)東京帝国大学法学部政治学科卒業。台湾総督府に入り、高雄、台北の各州の知事などを務め、台湾新報社社長に就任する。 帰国後、郷里の賢木村長に就任。1947年(昭和22年)の第23回衆議院議員総選挙に旧熊本1区(定数5)から民主党公認で立候補し、初当選した。1949年(昭和24年)に再選。1952年(昭和27年)の第25回衆議院議員総選挙の旧熊本1区では改進党は坂口を含め5人の候補者を擁立。
弘 好文(ひろ よしふみ、1898年5月6日 - 1958年… 弘 好文(ひろ よしふみ、1898年5月6日 - 1958年6月19日)は昭和期の日本の医学者。 熊本県立玉名中学校(1917年卒業)、第五高等学校を経て、東京帝国大学医学部を卒業した。1926年から1929年まで東京帝国大学大学院に在学。1930年に医学博士を取得。 札幌市立病院の小児科医となり、田坂重元とともに風疹ウイルスを日本で初めて発見した。また、日本における臨床ウィルス学の先駆者と呼ばれている[誰によって?]。1934年から1936年まで欧米に留学し、主にベルリン大学小児科教室・病理科教室で研究に当たった。1947年熊本医科大学医学部教授及び熊本医科大学附属病院院長、1950年北海道大学医学部教授となった。
迫 静二(さこ せいじ、古い文書では「靜二」と表記 1898… 迫 静二(さこ せいじ、古い文書では「靜二」と表記 1898年(明治31年)3月26日 - 1983年(昭和58年)8月6日)は、日本の銀行家、富士銀行初代頭取。 熊本県熊本市出身。熊本県立熊本中学校、官立第五高等学校を経て、1922年(大正11年)に東京帝国大学法学部を卒業。安田銀行に入社。1946年(昭和21年)常務取締役、48年と社長となり、行名を富士銀行と改める。翌年社長を頭取に改称し、初代頭取に就任。全国銀行協会連合会会長などを務めた。 1983年8月6日死去、85歳没。
森本 茂喜(もりもと しげき、1898年2月10日 - 没年… 森本 茂喜(もりもと しげき、1898年2月10日 - 没年不詳)は、日本の医学者、医師。専門は内科、物理学。 熊本県玉名市出身。熊本県立玉名中学校卒業、第五高等学校を経て、東京帝国大学医学部を1923年(大正12年)に卒業。卒業後、東京帝国大学医学部病理学教室の助手となり、1932年(昭和7年)に医学博士号を授与された。 東京帝国大学医学部が外来医長制度を敷くに当たり、1935年(昭和10年)に初代の内科の外来医長となり、1938年(昭和13年)まで勤めた。1938年(昭和13年)から1940年(昭和15年)まで京橋病院の内科医長を勤め、辞任後は東京都で開業した。
中川 州男(なかがわ くにお、1898年(明治31年)1月2… 中川 州男(なかがわ くにお、1898年(明治31年)1月23日 - 1944年(昭和19年)11月24日)は、日本の陸軍軍人。陸士30期。最終階級は陸軍中将。 太平洋戦争(大東亜戦争)のペリリューの戦いにおいて、歩兵第2連隊長としてペリリュー島守備隊(約1万2千名)を指揮し、同島を長くても3日で攻略できると楽観していたアメリカ海兵隊(約4万9千名)を相手に71日間に渡って組織的戦闘を続け、自軍の玉砕と引き換えにアメリカ海兵隊に多大な損害を与えたことで知られる。 熊本県出身。小学校校長・中川文次郎の三男として生まれる。玉名中学校を経て(同期生に広瀬藤蔵・海軍少将(海機27期・海大)、由布喜久雄・海軍法務少将(東大卒)、中川千代吉・陸軍大佐(陸士30期)、松島悌二・海軍大佐(海機27期・海大)が居る。
森本 軍蔵(軍藏、もりもと ぐんぞう、1897年(明治30年… 森本 軍蔵(軍藏、もりもと ぐんぞう、1897年(明治30年)10月17日 - 1979年(昭和54年)5月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 熊本県出身。森本徳次郎の長男として生まれる。熊本中学校(現熊本県立熊本高等学校)卒業を経て、1918年(大正7年)5月、陸軍士官学校(30期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第71連隊付となる。1919年(大正8年)8月から1920年(大正9年)5月までシベリア出兵に出征した。1922年(大正11年)3月、歩兵中尉に昇進。1926年(大正15年)12月、陸軍大学校(38期)を卒業し飛行第7連隊付となる。 1926年12月、兵科を航空兵に転科し航空兵中尉に任官。
由布 喜久雄(ゆふ きくお、1897年〈明治30年〉5月29… 由布 喜久雄(ゆふ きくお、1897年〈明治30年〉5月29日 - 1973年〈昭和48年〉2月6日)は、大日本帝国海軍軍人。最終階級は海軍法務少将。海軍省廃止時の海軍省法務局長。旧姓、岡村。 熊本県立玉名中学校(現・熊本県立玉名高等学校・附属中学校)、旧制第五高等学校、東京帝国大学法学部を卒業し、1922年に海軍法務官に任官する。海軍兵学校教官、海軍省法務局局員、東京高等軍法会議法務官、海軍司法事務官、大本営報道部附、海軍大学校教官などを歴任した。 1943年に連合艦隊法務長に就任した。1945年に海軍法務少将に昇進した。戦後は海軍省(のち、改組により第二復員省)法務局長となる。 第二復員省退官後は公職追放を経て、郷里である福岡県柳川市で弁護士業を営んだ。
牛原 虚彦(うしはら きよひこ、1897年3月22日 - 1… 牛原 虚彦(うしはら きよひこ、1897年3月22日 - 1985年5月20日)は、日本の映画監督、脚本家。本名は牛原 清彦。 初期の松竹蒲田撮影所で活躍した映画監督で、鈴木傳明とのコンビで明朗な青春映画などを作り、島津保次郎らとともに蒲田映画の一翼を担った。渡米してチャールズ・チャップリンの映画『サーカス』の製作に参加したことでも知られる。監督引退後は日本大学芸術学部教授や日活芸術学院初代学院長などに就いて後進の指導にあたった。毎日映画コンクール創設メンバーの一人でもある。妻は女優の三村千代子で、息子は日活で活躍した映画監督の牛原陽一。 1897年(明治30年)3月22日、熊本県熊本市京町に、父・満太郎と母・冬の6人兄妹の5番目として生まれる。
荒木 俊馬(あらき としま、1897年〈明治30年〉3月20… 荒木 俊馬(あらき としま、1897年〈明治30年〉3月20日 - 1978年〈昭和53年〉7月10日)は、日本の天文学者、物理学者。専門は天体物理学、理論物理学、宇宙論。学位は、理学博士(京都大学・1929年)。京都大学名誉教授、京都産業大学初代総長。 1897年、荒木竹次郎・記寿の長男として熊本県鹿本郡来民町(後の鹿本町、現在の山鹿市)に生まれた。1903年、来民尋常小学校に入学。1906年、熊本市立碩臺尋常小学校に転校し、翌1907年に卒業した。1910年、熊本県立中学済々黌(現:熊本県立済々黌高等学校)に入学。1915年に済々黌を卒業し、広島高等師範学校理科一部に入学。1919年に同校を卒業。
戸次 貞雄(べっき さだお、1897年3月11日 - 196… 戸次 貞雄(べっき さだお、1897年3月11日 - 1965年7月8日)は、日本の宗教家。日本敬神崇祖自修団創始者。現在の熊本県山鹿市山鹿町出身。 1925(大14)8.1「仏の大慈大悲と運命」(昭和の法華経 第一編) 1928(昭3)9.10「昭和の法華経と常不軽菩薩」完成 二編「昭和の法華経とキリスト教」完成 三編「仏は滅し給わず」完成 四編 1929(昭4)「三宝経」著述 1930(昭5)「皇礼典法華妙皇道実証経」発行 1932(昭7)7.7 福島県幕川金神滝開滝 1946(昭21) 第一回 天地創造之大神大祭 大宇宙真理開顕 妙皇道 創刊号発行 1947(昭22) 福島県 旧福田村に皇礼堂落成 1949(昭24)4.15 「お蔭様の歌」完成 11.3 「全思想之源泉 世界宗教根本論」出版 12.28 「身削の光」発行 1951(昭26)4.21 「宇宙心理と文化」出版「先祖権現堂」完成 1952(昭27)3.18 「日本民族道凡論」「日本天皇堂と人間」 「日本天皇と万象の宗源」出版 1955(昭30) 「真運浄光荘厳恵尊」題目完成 1961(昭36)11 「真運東方光権現経昭和安神本願偈」 1962(昭37) 「自覚剤薬心経」「日本の国柄」「我が身に感謝せよ」 「群生霊喜納帰元祭経」 この項目は、宗教家に関連した書きかけの項目です。
富田 至誠(とみた しせい、1897年(明治30年)3月6日… 富田 至誠(とみた しせい、1897年(明治30年)3月6日 - 1949年(昭和24年)5月31日)は、日本の洋画家であり、美術教師。熊本県出身。 旧姓松尾至誠。東京美術学校西洋画科、(現東京藝術大学油画専攻)卒業後すぐに、新設された熊本県立御船中学校、現在の熊本県立御船高等学校に図画教師(美術教師)として赴任。以後、学制改革により御船中学校が御船高等学校となった翌年(昭和24年)に病没するまでの間、同校で教鞭をとり続ける。昭和6年11月の天皇行幸、陸軍大演習に際して休憩所に飾る天覧の絵を描くなど優れた画力を持ちながら、文展、帝展等の公募展には一切出展せず、生涯一美術教師を通す。 井手宣通・浜田知明ら、日本を代表する美術家や美術教師を多数育てる。
佐々 弘雄(さっさ ひろお、1897年〈明治30年〉1月23… 佐々 弘雄(さっさ ひろお、1897年〈明治30年〉1月23日 - 1948年〈昭和23年〉10月9日)は、日本の政治学者、ジャーナリスト、参議院議員。 1897年(明治30年)1月23日、衆議院議員佐々友房の三男として東京府東京市四谷区四谷箪笥町に生まれる。 東京府立第四中学校・第五高等学校を経て、東京帝国大学法学部政治学科に入学。吉野作造や美濃部達吉の薫陶を受け法学者・政治学者として将来を嘱望される。東京帝大では新人会に参加した。1920年(大正9年)卒業。 卒業後は直ちに東京帝国大学法学部副手・助手を経て、外務省欧米局の嘱託となり英仏独に2年間留学。特にドイツにおいては、ハイパーインフレの惨状やヴァイマル共和国の行き詰まり、そしてナチス勃興を目の当たりにし、反ヒトラー派となって帰国した。
本田 正次(ほんだ まさじ、1897年1月20日 - 198… 本田 正次(ほんだ まさじ、1897年1月20日 - 1984年7月1日)は、日本の植物学者。東京大学名誉教授。昭和天皇の植物研究の相手も務め、伊豆や那須に同行した。熊本県熊本市出身。 1897年(明治30年)1月20日、熊本県熊本市に生まれた。熊本県立熊本中学校、第五高等学校を経て、1921年(大正10年)5月に東京帝国大学理学部植物学科を卒業し、同時に東京帝国大学助手に任じられた。 1931年(昭和6年)3月に博士(理学)の学位を授与され、1934年(昭和9年)4月に東京帝国大学助教授に就任した。1940年(昭和15年)7月には史蹟名勝天然紀念物調査会臨時委員となり、1942年(昭和17年)9月には史蹟名勝天然紀念物調査会委員となった。
平井 清(ひらい きよし、1896年10月4日 - 1979… 平井 清(ひらい きよし、1896年10月4日 - 1979年1月16日)は、日本のキリスト教聖職者。日本福音ルーテル教会牧師。 久留米ルーテル教会伝道者平井輝熊の長男として、福岡県遠賀郡に生まれる。1911年4月博多ルーテル教会で山内量平より受洗。1916年福岡県立中学修猷館を経て、同年九州学院(現・九州学院中学校・高等学校)神学部に入学。在学中に渡米してレノア・リン・カレッジ、フィラデルフィア・ルーテル神学校、更にドイツに渡ってライプツィヒ大学神学部で学び、1927年帰国。 名古屋の千種教会牧師、目黒(都南)教会初代牧師を歴任。日本ルーテル神学専門学校(1964年日本ルーテル神学大学となり、1996年ルーテル学院大学と改称)教授も務めた。
松田 千秋(まつだ ちあき、 1896年(明治29年)9月2… 松田 千秋(まつだ ちあき、 1896年(明治29年)9月29日 - 1995年(平成7年)11月6日)は、日本の海軍軍人。海兵44期。戦艦「大和」第3代艦長。最終階級は海軍少将。妻コマは詩人丸山薫の妹。 1896年(明治29年)9月29日、熊本県菊池郡加茂川村大字菰入(現・七城町菰入)に生まれる。旧制熊本県立鹿本中学校を経て、1913年(大正2年)9月3日、海軍兵学校44期に100名中89番の成績で入学。同期に柳本柳作、西田正雄、朝倉豊次、黒島亀人らがいる。1916年(大正5年)12月11日、95名中14番の成績で卒業。少尉候補生となり装甲巡洋艦「常磐」に乗り組み、練習艦隊近海航海に出発し、1917年(大正6年)3月3日に帰着。
佐川 義勇(さがわ ぎゆう、1896年(明治29年)8月21… 佐川 義勇(さがわ ぎゆう、1896年(明治29年)8月21日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚。 熊本県上益城郡龍野村(現・甲佐町)に生まれる。1915年(大正4年)3月、熊本県立中学済々黌を卒業し、1920年(大正9年)2月、台湾総督府に奉職する。 1940年(昭和15年)7月、地方理事官に進み、嘉義市助役に就任。ついで1942年(昭和17年)4月、高雄州岡山郡守に就任した。
上野 慧賢(あがの えけん、1896年6月3日 - 1981… 上野 慧賢(あがの えけん、1896年6月3日 - 1981年6月2日)は、日本の教育者。駒澤大学高等学校名誉校長。学校法人駒澤大学理事、東京私立中学高等学校協会監事などを歴任。熊本県出身。 八代市生まれ。1917年、熊本県第一師範学校本科卒業。葦北郡日奈久尋常高等小学校訓導。1920年、津奈木尋常高等小学校。1923年、広島高等師範学校教育科卒業。熊本県阿蘇高等女学校教諭。1924年9月、熊本県第58番極楽寺林の慧禅について得度。1926年4月、東京帝国大学伝染病研究所看護婦養成所(のち東京大学第三厚生女学部)嘱託講師を兼任(1951年3月迄)。1927年3月、駒澤大学卒業。同年4月、日出高等女学校教諭。
仁科 熊彦(にしな くまひこ、明治29年(1896年)1月1… 仁科 熊彦(にしな くまひこ、明治29年(1896年)1月1日 - 昭和62年(1987年)4月10日)は、日本の映画監督である。山中貞雄を助監督として起用し、その脚本を数多く監督した。川谷拓三は義理の息子、仁科貴と仁科扶紀は孫にあたる。 両親とも会津若松(現福島県会津若松市)生まれで、父は会津藩藩士の家系。1896年(明治29年)1月1日、軍人だった父の赴任地、熊本県熊本市新屋敷町に生まれる。福岡県門司(現北九州市)、神奈川県小田原町(現小田原市)で育ち、中学3年のとき会津に戻る。 1916年(大正5年)、福島県立会津中学校(旧制、現在の福島県立会津高等学校)を卒業、上京して早稲田大学を志すも、予備校に通うのみで学業を放棄、天然色活動写真巣鴨撮影所の現像場に職を得、技術部に入社、撮影助手となる。
塚本 毅(つかもと たけし、1896年〈明治29年〉- 19… 塚本 毅(つかもと たけし、1896年〈明治29年〉- 1973年〈昭和43年〉12月7日)は、昭和期の日本の外交官。 熊本県玉名郡に生まれる。熊本県立玉名中学校(1916年卒業)を経て、1921年(大正10年)に東京高等商業学校(現一橋大学)本科を卒業した。1920年(大正9年)高等試験行政科試験に合格し、1921年に外務省に入省した。若手の頃から白鳥敏夫らとともに革新派官僚と呼ばれる。 外務省アメリカ局第二課長、スイス公使館書記官、外務省南洋局長心得、拓務省拓南局参与、ハルビン総領事や、スイス公使、外務省通商局勅任事務官、サイゴン公使、仏印総督府総務長官などを経て、1945年(昭和20年)から翌年にかけて最後の仏印大使を務めた。
野田 武夫(のだ たけお、1895年2月8日 - 1972年… 野田 武夫(のだ たけお、1895年2月8日 - 1972年6月7日)は、昭和期の日本の政治家。総理府総務長官・自治大臣。位階は正三位。元衆議院議員の野田毅は娘婿。 熊本県飽託郡川口村(現・熊本市南区)出身。 旧制熊本中学校(現熊本県立熊本高等学校)を経て、1923年早稲田大学法学部独法科を卒業後、国民新聞記者、東京朝日新聞政治部記者、神奈川新聞社社長、町田忠治商工大臣秘書官を経て、1936年第19回衆議院議員総選挙に立憲民政党公認で旧神奈川2区より立候補して当選を果たす。以後戦後も含めて当選8回。戦前は軍需政務次官、商工省参与などを務めた。政党解消後は翼賛議員同盟→翼賛政治会→大日本政治会に所属した。
西島 麦南(にしじま ばくなん、1895年1月10日 - 1… 西島 麦南(にしじま ばくなん、1895年1月10日 - 1981年10月11日)は、熊本県出身の俳人、校正者。本名・西島九州男(にしじま くすお)。 熊本県鹿本郡植木町(現・熊本市北区植木町)生まれ。済々黌卒業。1915年、雑誌「雲母」の前身「キラヽ」に参加。1916年、上京し、出版社の警眼社に入社。1918年、武者小路実篤の「新しき村」に参加し、3年ほど農耕に従事。1922年12月、上京し、大鐙閣などを経て、1924年、岩波書店に入社する。戦後は校正課の初代課長を務め、55歳の停年後も特別嘱託として勤務し、1970年に75歳で退職するまで校正実務を担当し、「校正の神様」とたたえられた。 俳句は飯田蛇笏に師事。
矢毛石 栄造(やけいし えいぞう、1895年1月7日 - 没… 矢毛石 栄造(やけいし えいぞう、1895年1月7日 - 没年不明)は、日本の技術者。 熊本県立玉名中学校、第五高等学校を経て、九州帝国大学工学部を卒業した。その後、八幡製鉄所に入所し、1933年化工課長となる。 1946年には自らタール製品工業会を立ち上げ、その後、日本タール協会と改組し専務理事を務めた。
広瀬 藤蔵(ひろせ とうぞう、1895年 - 1950年)は… 広瀬 藤蔵(ひろせ とうぞう、1895年 - 1950年)は、大日本帝国海軍軍人。最終階級は海軍少将。 1895年に熊本県に生まれる。熊本県立玉名中学校を1915年に卒業(同級生に中川州男)後、海軍機関学校に進む(第27期)。 海軍機関少尉に任官後は特別演習審判官、海軍艦製本部部員、海軍省教育局局員、海軍大学校教官、海軍技術会議議員などを歴任した。この間、海軍大学校機関学科を卒業している。 1943年に第六艦隊の機関長となり、1945年5月に海軍少将に昇進した。最終ポストは佐世保軍需部長だった。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。1950年に54歳で死去。
国崎 定洞(くにざき ていどう、1894年(明治27年)10… 国崎 定洞(くにざき ていどう、1894年(明治27年)10月5日 - 1937年(昭和12年)12月10日)は、日本の衛生学者・共産主義者・社会主義者。社会衛生学の創始者。ドイツで日本人の社会主義者グループを組織して、ドイツ共産党日本語部を結成した。しかしソビエト連邦移住後に大粛清により処刑された。 1894年に熊本県熊本市に生まれる。父の宗英は医師で、村医をしていた対馬で育った。13歳で単身、姉の嫁ぎ先である埼玉県川越町(現・川越市)の田中家に移り寄宿して川越高等小学校、川越中学校(現・埼玉県立川越高等学校)を卒業。さらに第一高等学校第3部(英語組)を卒業。一高では常に3番以内の成績だったという。
高木 作太(たかぎ さくた、1894年9月19日 - 196… 高木 作太(たかぎ さくた、1894年9月19日 - 1966年1月31日)は日本の実業家。 現在の熊本県玉名市に生まれる。熊本県立玉名中学校(1913年卒業)を経て、[要出典]1917年に神戸高等商業学校(現・神戸大学)を卒業した。 1917年、三菱合資会社に入社して炭鉱部に所属し、翌年三菱鉱業が設立されると移籍した。1950年に社長に就任する。武甲セメントでも社長を務めた。 社外では日本石炭協会会長のほか、経済団体連合会や日本経営者団体連盟(いずれも日本経済団体連合会の前身)の理事などを歴任した。
鋳方 末彦(いかた すえひこ、1894年8月27日 - 19… 鋳方 末彦(いかた すえひこ、1894年8月27日 - 1976年9月10日)は、日本の植物病理学者。学位は、農学博士(九州大学・論文博士・1941年)。 熊本県下益城郡小野部田村(現・宇城市)生まれ。八代中学校(後の熊本県立八代中学校・高等学校の前身のひとつ)卒業。 1916年(大正5年)鹿児島高等農林学校卒業。農商務省福岡県農事試験場、岡山県農事試験場を経て農林省農事試験場技師に。「小麦条斑病に関する研究」で日本農学会賞を受賞。1941年(昭和16年)には、「柿の重要寄生性病害に関する病理並びに治病学的研究」で、九州大学より農学博士の学位を授与される。更に「いもち病防除に関する試験研究」で富民協会賞、「小麦縞萎縮病に関する研究」等で農林大臣賞受賞、など多くの賞に輝く。
綾部 橘樹(あやべ きつじゅ、1894年(明治27年)4月1… 綾部 橘樹(あやべ きつじゅ、1894年(明治27年)4月18日 - 1980年(昭和55年)2月14日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓・矢野。 大分県出身。農業・矢野黙三郎の息子として生まれ、綾部伝一郎陸軍少佐の養嗣子となる。中学済々黌、熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1915年5月、陸軍士官学校(27期)を卒業し、同年12月、陸軍騎兵少尉に任官、騎兵第12連隊付となる。陸軍騎兵学校で学ぶ。1918年8月から翌年7月までシベリア出兵に出動。再度、騎兵学校で学んだ後、1924年11月、陸軍大学校(36期)を首席で卒業した。 騎兵第12連隊中隊長、陸軍省軍務局課員(軍事課)、ソ連駐在、参謀本部員、兼軍令部員、関東軍参謀(作戦主任)、参謀本部課長などを歴任し、日中戦争に騎兵第25連隊長として出征した。
蓑田 胸喜(みのだ むねき、明治27年〈1894年〉1月26… 蓑田 胸喜(みのだ むねき、明治27年〈1894年〉1月26日 - 昭和21年〈1946年〉1月30日)は、日本の右翼思想家、反共主義者。慶應義塾大学予科、国士舘専門学校教授、原理日本社主宰、国際反共連盟評議員。 熊本県八代郡吉野村(現・氷川町)生。八代中学校を経て、第五高等学校(五高)に学ぶ。五高での同期には佐々弘雄、細川隆元がいる。 1917年(大正6年)、五高卒業後、東京帝国大学入学。最初は法科大学(法学部)に入学するが、文科大学(文学部)宗教学科に転学し、宗教学者の姉崎正治に師事する。1920年(大正9年)文学部卒業、さらに法学部政治学科に学士入学する。帝大在学中は、天皇機関説と激しい論争を展開したことでも知られる君権学派憲法学者の上杉慎吉が指導していた国粋主義的な学生団体である興国同志会に入会するとともに、三井甲之に私淑するようになる。
加来 止男(かく とめお、1893年(明治26年)11月8日… 加来 止男(かく とめお、1893年(明治26年)11月8日 - 1942年(昭和17年)6月6日)は、日本の海軍軍人。空母「飛龍」艦長としてミッドウェー海戦で戦死し、一階級特進で最終階級は海軍少将。 1893年11月8日、熊本県八代郡松高村に生まれた。外交官・加来美知雄は兄。熊本県立八代中学校2年に在学中、有明海に練習艦隊が入港したのを見て感激したのが契機となり、中学校卒業後、1911年9月に海軍兵学校42期に入学する。同期生には加賀艦長として加来と共にミッドウェー海戦で戦死する岡田次作がいた。18歳での入学はやや遅く受験では苦労したようで入学席次も入校時120名中98番である。しかし、卒業時には席次も117名中43番まで上がった。
原田 敏明(はらだ としあき、1893年11月1日 - 19… 原田 敏明(はらだ としあき、1893年11月1日 - 1983年1月17日)は、日本の民俗学者、宗教学者。東海大学名誉教授。熊本県出身。 1893年、熊本県山本郡吉松村(現在の熊本市北区(鹿本郡植木町))に原田官太の二男として生れる。吉松尋常高等小学校、熊本県立鹿本中学校(現在の熊本県立鹿本高等学校)を卒業の後、1919年、神宮皇學館本科を卒業。東京帝國大學文学部宗教学宗教史学科選科に入学。姉崎正治の指導のもと、「ヘブライの宗教意識の発達」を研究テーマとする。1922年に選科、1927年に本科を卒業。東大在学中には宗教学研究調査を委嘱され、雑誌『宗教研究』の編集などにも携わっている。 青山学院、東洋大学、大谷大学、龍谷大学、九州帝國大學、日本大学、東京帝國大學、京都帝國大學、東京文理科大学、大正大学などに出講、また帝国学士院からの研究費補助、「本邦農耕儀礼の宗教民族学的研究」のテーマで有栖川宮記念奨学金を受けるなどして、研究生活に従事。
田宮 貞亮(たみや さだすけ、1893年9月12日 - 没年… 田宮 貞亮(たみや さだすけ、1893年9月12日 - 没年不明)は、日本の医学者。 熊本県立玉名中学校(1911年卒業)を経て、岡山医学専門学校(現・岡山大学医学部)を卒業した。 1929年に東京帝国大学から医学博士号を取得した。 長く東京帝国大学伝染病研究所(現・東京大学医科学研究所)に務め、1933年には東京帝国大学医学部助教授となる。主にハンセン病の研究者であった。その後、熊本県の国立菊池療養所の所長に任命されたが3か月で辞任し、日本医科大学の教授となった。
高木 惣吉(たかぎ そうきち、1893年(明治26年)8月9… 高木 惣吉(たかぎ そうきち、1893年(明治26年)8月9日 - 1979年(昭和54年)7月27日)は、日本の海軍軍人。 海兵43期、海大25期首席。最終階級は海軍少将。東久邇宮内閣の内閣副書記官長を務めた。 旧制中学校への進学が叶わない貧しい家に生まれ、働きながら独学で海軍兵学校への入校を果たし、海軍大学校を首席で卒業する。 健康に恵まれず、海上勤務は少なかったが、軍政方面で活躍。海軍部外に幅広い人脈を有し、ブレーントラストを組織した。太平洋戦争の戦局悪化に伴い首相・東條英機の暗殺計画を立案したが決行直前に東條内閣が瓦解し未遂に終わる。その後は米内光政、井上成美の密命により終戦工作に従事。
薬師寺 尊正(やくしじ たかまさ、1893年(明治26年)5… 薬師寺 尊正(やくしじ たかまさ、1893年(明治26年)5月17日 - 1985年(昭和60年)12月8日)は、日本の弁護士。日本にバスケットボールやバレーボールが紹介された最初期に両競技の選手として活動。大日本体育協会主事を務め、バスケットボールとバレーボールの普及に努めた。第二次世界大戦後に東京都目黒区で人権擁護委員などの役職を務め、区政に貢献したことから、名誉区民として顕彰されている。 熊本県出身。旧制玉名中学校(現在の熊本県立玉名高等学校・附属中学校)、旧制第五高等学校を経て、東京帝国大学に進学。1917年(大正6年)、東京帝国大学法学部政治科を卒業。弁護士となり、岸清一法律事務所で勤務した。
石坂 繁(いしざか しげる、1893年(明治26年)1月24… 石坂 繁(いしざか しげる、1893年(明治26年)1月24日 - 1972年(昭和47年)12月31日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(6期)。熊本市長(3期)。 熊本県合志郡西合志村(菊池郡西合志村、西合志町を経て現合志市)出身。熊本県立中学済々黌、旧制五高を経て東京帝国大学法学部を卒業。 1936年の総選挙で熊本1区から国民同盟で立候補し、初当選。以後、途中公職追放によるブランクや落選を挟んで通算6期衆議院議員を務めた。 国政の傍ら、1945年には第12代熊本市長を兼任し翌年まで1期務め、また高橋守雄の懇請によって東洋語学専門学校の初代理事長となる。1958年の第2次岸内閣では農林政務次官を務めている。
武藤 章(むとう あきら、1892年(明治25年)12月15… 武藤 章(むとう あきら、1892年(明治25年)12月15日 - 1948年(昭和23年)12月23日)は、日本の昭和時代の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 日中戦争、対米交渉、フィリピン戦などに従事。一夕会メンバー。統制派だったが後に東條英機との対立で逆に皇道派の山下奉文の部下に配属された。第二次世界大戦後の極東国際軍事裁判でA級戦犯に問われ、南方戦線での虐殺事件にも関わっていたことで処刑された。 1892年(明治25年)12月15日、熊本県上益城郡白水村(現・菊陽町)に父・定治、母・加野の間に四人兄弟の次男(兄1人姉2人)として生まれる。武藤家は代々藩医をしていた士族の家系で、地主であった。
古閑 健(こが たけし、1892年(明治25年)12月11日… 古閑 健(こが たけし、1892年(明治25年)12月11日 - 1984年(昭和59年)10月18日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 熊本県出身。徳島県警部・古閑巌彦の二男として生まれる。中学済々黌(現熊本県立済々黌高等学校)、熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第48連隊付となる。1914年(大正3年)8月から12月まで青島の戦いに出征。1921年(大正10年)11月、陸軍大学校(33期)を卒業した。 1922年(大正11年)12月、参謀本部付勤務となり、陸軍兵器本廠付(作戦資材整備会議調査班)、陸軍技術本部付兼軍務局課員を務め、1928年(昭和3年)8月、歩兵少佐に昇進。
大森 仙太郎(おおもり せんたろう、1892年(明治25年)… 大森 仙太郎(おおもり せんたろう、1892年(明治25年)10月3日 - 1974年(昭和49年)12月24日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。海軍特攻部長、第7艦隊司令長官を務めた。熊本県熊本市出身。 1892年10月3日、熊本で大森太郎吉の息子として生まれる。熊本中学校卒業。1913年12月、海軍兵学校41期を16番の成績で卒業。在学中に品行善良章を授与された。1914年12月、海軍少尉任官。1919年12月、大尉に昇進。海軍水雷学校高等科を卒業。その後、第15艇隊艇長、葦駆逐艦長、陸奥分隊長、野風水雷長、響駆逐艦長、榛名分隊長を歴任、1925年12月、少佐に昇進、水雷学校教官に着任する。
鍋島 俊策(なべしま しゅんさく、1892年9月10日 - … 鍋島 俊策(なべしま しゅんさく、1892年9月10日 - 1948年4月28日)は、日本の海軍軍人。海軍少将。正五位勲二等瑞宝章。 熊本県下益城郡小川町(現・熊本県宇城市小川町)生まれ。小川小学校、八代中学校卒業。海軍兵学校および陸軍士官学校(第26期)を受験し、双方に合格している。1911年(明治44年)海軍兵学校に入学する。 1914年(大正3年)海軍兵学校を卒業(42期)し、海軍少尉候補生となり阿蘇乗組。1918年(大正7年)水雷学校普通科を卒業し、同年12月に砲術学校学生教程を卒業する。1920年(大正9年)海軍大尉に任ぜられ、翌年の1921年(大正10年)には水雷学校高等科を卒業する。
林田 正治(はやしだ まさはる、1892年8月3日 - 19… 林田 正治(はやしだ まさはる、1892年8月3日 - 1979年12月14日)は、日本の内務官僚、政治家。 衆議院議員(1期)、参議院議員(2期)、熊本市長(16代)、新竹州知事。 熊本県下益城郡城南町(現熊本市南区)に生まれる。済々中学、旧制第五高等学校を経て、東京帝国大学法学部卒業し、1918年(大正7年)内務省に入省する。のち渡台し、1939年(昭和14年)新竹州知事を務める。 終戦後の1946年(昭和21年)第22回衆議院議員総選挙に熊本選挙区から日本進歩党より出馬し当選。1948年(昭和23年)熊本市助役を経て、1952年(昭和27年)第16代熊本市長に就任。1956年(昭和31年)第4回参議院議員通常選挙では熊本県選挙区から無所属で出馬し当選する。
堀 潮(ほり うしお、1892年(明治25年)6月1日 - … 堀 潮(ほり うしお、1892年(明治25年)6月1日 - 1966年(昭和41年)4月18日)は、日本の思想史家。専門はイギリス政治思想、経済思想。一橋大学名誉教授。 熊本県玉名郡長洲町出身。熊本商業学校 (現・熊本県立熊本商業高等学校)在学中、のちに同僚となる村瀬玄に師事。1911年朝鮮銀行入行。1918年東京高等商業学校(現・一橋大学)本科卒業。外交官を志して、1920年に同校専攻部領事科専攻卒業。東京ではのちに尺八演奏家となった同郷の吉田晴風及びその母とともに、筑土八幡町の長屋の一隅を借りて生活した。 1920年堀光亀教授に請われ文部省在外研究員となるため、法政大学教授及び明治学院教授に就任。
今村 等(いまむら ひとし、1892年〈明治25年〉3月23… 今村 等(いまむら ひとし、1892年〈明治25年〉3月23日 - 1979年〈昭和54年〉11月1日)は、日本の政治家。衆議院議員(4期)。労働運動家。 熊本県玉名郡八嘉村(現:玉名市)出身。今村畑喜の長男として生まれた。小学校卒業後、炭鉱夫として働き、友愛会に入る。1920年(大正9年)香焼炭鉱争議を指導し、検挙され投獄される。出獄後の1929年(昭和4年)日本大衆党から長崎市会議員となる。その後は国家社会主義に転向し、長崎県会議員となる。1945年(昭和20年)8月、長崎市への原子爆弾投下により被爆し、長女が死亡した。 1946年(昭和21年)第22回衆議院議員総選挙で長崎県から日本社会党公認で立候補して初当選。
原田 永之助(はらだ えいのすけ、1892年2月25日 - … 原田 永之助(はらだ えいのすけ、1892年2月25日 - 1946年12月20日)は、日本の眼科医。後にVogt-Koyanagi-Harada 病と統一した名前になる疾患を1926年に原著として発表した。 1892年2月25日、熊本県天草郡(現・天草市御領)に生まれた。父親は裁判所書記であった。その後球磨郡多良木で、さらにその後天草市本渡で育つ。学校教育は熊本(県立中学濟々黌、第五高等学校)を経て1913年東京帝国大学医学部に入学。学生時に陸軍省依託学生となる。1917年卒業。最初は陸軍軍医その後内科を選び駒込病院などに勤務。結婚相手の父親が長崎の眼科開業医原満里であったので、東京大学眼科に転向した(1922年1月)。
藤本 虎喜(ふじもと とらき、1892年2月16日 - 19… 藤本 虎喜(ふじもと とらき、1892年2月16日 - 1981年11月11日)は、日本の政治家、農業技術者。衆議院議員(1期)、国民協同党所属。 熊本県上益城郡甲佐町出身。鹿児島高等農林学校農学科卒業。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
五十嵐 勇(いがらし いさむ、1892年(明治25年)1月1… 五十嵐 勇(いがらし いさむ、1892年(明治25年)1月18日 - 1986年(昭和61年)3月7日)は、日本の金属工学者。 1892年(明治25年)に熊本県に生まれる。1909年(明治42年)に熊本県立玉名中学校を卒業後、広島高等師範学校を経て、京都帝国大学理学部を卒業した。 住友金属工業伸銅所に勤務中の1938年(昭和13年)に航空機に使う超々ジュラルミンを開発した。戦後は1946年(昭和21年)から東北大学教授。その他、秋田大学や岩手大学の教授も務めた。退官後は熊本県熊本市に居住した。1986年(昭和61年)死去。