光吉 健次(みつよし けんじ、1925年3月15日 - 20… 光吉 健次(みつよし けんじ、1925年3月15日 - 2000年3月8日)は、日本の建築家、都市計画学者。九州大学名誉教授。工学博士。社団法人日本都市計画学会九州支部初代支部長、財団法人福岡都市科学研究所初代理事長。 鹿児島県鹿児島市生まれ。「地方都市の計画と設計における基本的考察」により工学博士の学位を取得(東京大学、1971年2月18日)。 九州大学工学部建築学科の創設期に、九州大学での講義を兼務していた丹下健三(東京大学助教授、当時)の後を受けて助教授として赴任し、定年退官まで同学科の発展に寄与した。 丹下研究室時代には、倉吉市庁舎(1956年、鳥取県倉吉市)の設計等を担当した。九州大学では、建築学教室、九州大学五十周年記念講堂、工学部七十五周年記念庭園等を設計し、キャンパスの整備に貢献するとともに、九州各地において数多くの学校建築、商業建築、公共建築等を手がけた。
左近允 尚敏(さこんじょう なおとし、1925年(大正14年… 左近允 尚敏(さこんじょう なおとし、1925年(大正14年)2月11日 - 2013年(平成25年)6月30日)は、大日本帝国海軍の軍人、海上自衛官。最終階級は海軍大尉、海将。鹿児島県出身。海兵72期。 海軍中将左近允尚正の次男。多号作戦で駆逐艦「島風」砲術長として「島風」沈没時(多号作戦)に戦死した海軍大尉左近允正章(まさふみ)は兄にあたる。 兄の正章と同じく旧制横須賀中(30期)から海軍兵学校へ入校。1943年(昭和18年)9月に卒業(第72期)、海軍少尉候補生。伊勢型戦艦1番艦「伊勢」乗組。乗艦実習の後、11月15日附で最上型重巡洋艦4番艦「熊野」乗組を命ぜられる。なお、兄の正章も太平洋戦争開戦時に海軍少尉として「熊野」に勤務している。
外西 寿彦(ほかにし ひさひこ、1925年2月5日-1993… 外西 寿彦(ほかにし ひさひこ、1925年2月5日-1993年7月21日)は、日本の産婦人科医、産婦人科学者。周産期医療、母子救急医療の権威。鹿児島県の周産期医療・新生児医療の改善と発展に尽力した。鹿児島市立病院第5代院長。 宮崎県出身。旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現・鹿児島県立甲南高等学校)を経て、1951年に旧制県立鹿児島医学専門学校(後の旧制県立鹿児島医科大学、現・鹿児島大学医学部)卒業。1958年4月、旧制県立鹿児島医科大学より医学博士号授与。鹿児島大学産婦人科(町野碩夫教授)に入局し、1958年1月より助手、1961年5月より講師。1966年2月に鹿児島大学助教授となるが、鹿児島市立病院に招かれて7月に退職。
奥園國義(おくぞのくによし、1925年 - 2013年)は、… 奥園國義(おくぞのくによし、1925年 - 2013年)は、日本の剣道家(範士。段位は九段を取得するも、後に返上)。選手として活躍を経て大阪府警察師範、近畿管区警察学校教授、全日本剣道連盟副会長、桃山学院大学剣道部師範、大阪星光学院講師などを歴任。 鹿児島県薩摩郡樋脇村で七人兄弟の三男として誕生。小学校時代に剣道を始め以後、宮之城農蚕学校、海軍航空隊、予科練時代も稽古に没頭し研鑽を積む。 18歳の時戦争が始まり土浦の海軍航空隊に入隊を志願する。辞令に従い飛行機操縦の教官として滋賀県の比叡山に置かれた航空隊へと赴く。航空隊では、武道大会が恒例として催されており、その時初段だった奥園は飛行科の個人戦で準優勝する。
須賀 龍郎(すが たつろう、1924年9月29日 - 201… 須賀 龍郎(すが たつろう、1924年9月29日 - 2015年1月16日)は、日本の政治家。鹿児島県知事を2期8年務めた。 鹿児島県指宿市出身。中国の旧関東州大連生まれで青年期のほとんどを中国で過ごす。大連商業学校を経て、1944年に天理語学専門学校(現・天理大学)を卒業。戦後一時期、シベリアに抑留された。1948年、鹿児島県庁に入職する。鹿児島県職員時代のうち、21年間も東京事務所に勤務するという特異なキャリアで、中央との強いパイプを築く。東京事務所の次長、所長を歴任して、1975年に企画部長として県本庁に戻る。1980年から総務部長を務め、1983年に退職。鹿児島県開発公社(現 公益財団法人鹿児島県地域振興公社)副理事長を経て、翌1984年4月に鎌田要人知事のもと県出納長に就任し、2期務める。
島元広海(しまもと ひろうみ、1924年9月25日 - 20… 島元広海(しまもと ひろうみ、1924年9月25日 - 2008年5月17日[要出典])は日本の大蔵官僚。位階は正五位[要出典]。高松国税局長、横浜税関長などを務めた。 鹿児島県出身。鹿児島県立第一鹿児島中学校、海軍兵学校(73期)を卒業。「鈴鹿」に乗艦し、レイテ沖海戦に参加。東京大学法学部を卒業。 1952年 大蔵省入省(主税局税関部)。1958年6月3日 館山税務署長。 1969年4月 外務省在韓国大使館勤務(一等書記官〜参事官)。 1973年7月3日 東京国税局調査第一部長。1975年7月10日 東京国税局総務部長。1976年6月18日 高松国税局長。1977年6月17日 横浜税関長。1978年6月5日 退官。
橋口 寛(はしぐち ひろし、1924年(大正13年)7月15… 橋口 寛(はしぐち ひろし、1924年(大正13年)7月15日 - 1945年(昭和20年)8月18日)は、日本の海軍軍人。海兵72期。太平洋戦争の末期、人間魚雷「回天」の搭乗員となるが出撃する機会を得ず、終戦後自決した。最終階級は海軍大尉。 1924年(大正13年)7月15日に鹿児島県鹿児島市上荒田町にて、橋口盛秀の長男として生まれる。荒田尋常高等小学校から旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校へ進学したが、1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃によって太平洋戦争が開戦すると、橋口が通っていた学校でも例外なく軍事教練が厳しさを増していった。国の存亡を決定づける大戦を感じていた成績優秀な橋口は、迷うことなく卒業後に海軍兵学校(72期)への進学を決断した。
笹山 幸俊(ささやま かずとし、1924年〈大正13年〉6月… 笹山 幸俊(ささやま かずとし、1924年〈大正13年〉6月15日 - 2011年〈平成23年〉12月10日) は、日本の政治家、土木技術者。位階は正四位。勲等は勲一等。 神戸市都市計画局長、神戸市助役、神戸市長などを歴任した。 神戸市役所にて都市計画局次長や都市計画局計画部長、都市計画局長を歴任し、1981年12月に神戸市助役に就任した。1989年、市役所内の派閥を大きく二分した熾烈な神戸市長選挙では、同じく神戸市助役だった宮岡寿雄を破り初当選を果たし、以後、3期12年間に渡って神戸市長を務めた。 市長在任中に発生した兵庫県南部地震による阪神・淡路大震災で神戸市は大きな被害を受けたため、その復興に尽力した。
長島 甲子男(ながしま かねお/きねお、1924年6月14日… 長島 甲子男(ながしま かねお/きねお、1924年6月14日 - )は、鹿児島県出身のプロ野球選手。ポジションは捕手。
中尾 宏(なかお ひろし、1924年(大正13年)5月19日… 中尾 宏(なかお ひろし、1924年(大正13年)5月19日 - 1992年(平成4年)7月12日)は、日本の政治家。自由民主党衆議院議員(1期)。 鹿児島県川内市(薩摩川内市)生まれ。旧制鹿児島中学校(現 鹿児島高等学校)を経て、旧制鹿児島高等商業学校(現 鹿児島国際大学)卒。満洲国に渡り、満州電業社に勤務する。後に帰国し改造社を創業した山本実彦の秘書になる。 1972年の第33回衆議院議員総選挙において鹿児島2区から無所属で立候補して当選、自民党に入る。衆議院議員は1期務めた。1976年の第34回衆議院議員総選挙で落選。以後、立候補しなかった。 1983年に世界出版を創設。雑誌『世界春秋』の主幹となる。
岡本 巌(おかもと いわお、1924年5月2日 - 2011… 岡本 巌(おかもと いわお、1924年5月2日 - 2011年12月4日)は、日本の地球物理学者。陸水学・湖沼学が専門で、長年琵琶湖を調査研究し、琵琶湖の環境保全のための住民運動を行ったことで知られている。滋賀大学名誉教授。 鹿児島県谷山村(現:鹿児島市の一部)出身。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を経て、1945年に第七高等学校造士館 (旧制)を卒業。進学した京都大学理学部(旧制)では海洋物理学を学び、1948年に卒業。卒業後、別府市にある京都大学地球物理学研究所に勤務したがあまり気乗りがしていなかったため、人に勧められて滋賀大学学芸学部(後に教育学部に改称)に移り、以来琵琶湖の調査研究に取り組む。
本田 睦(ほんだ むつみ、1924年(大正13年)1月10日… 本田 睦(ほんだ むつみ、1924年(大正13年)1月10日-1991年(平成3年)2月16日)は、日本の工学者。専門は高速空気力学。東北大学名誉教授、工学博士。東北大学高速力学研究所(現東北大学流体科学研究所)所長を務めた。 鹿児島県日置郡串木野村(現・いちき串木野市)出身。父は後に串木野市議会議長を務める本田戸助。旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現鹿児島県立甲南高等学校)四年修了を経て、1942年(昭和17年)9月に旧制第七高等学校造士館理科を卒業。1945年(昭和20年)9月東京帝国大学第一工学部航空学科卒業。終戦直後で職がないため、卒業後一時帰郷してカライモ(サツマイモ)づくりや戦災で焼けた自宅の建て直しをおこなった。
有村 章(ありむら あきら、1923年12月26日 - 20… 有村 章(ありむら あきら、1923年12月26日 - 2007年12月10日)は、日本の生理学者。医学博士。チューレーン大学名誉教授。慶應義塾大学医学部客員教授。 鹿児島県鹿児島市出身。旧制の鹿児島県立第二鹿児島中学校および第七高等学校卒業。1951年名古屋大学医学部卒業後、イェール大学での研究生活を経て、1965年からチューレーン大学でアンドリュー・ウィクター・シャリー博士の下で、視床下部ホルモンの研究に従事した。ノーベル生理学医学賞(1997年)を受賞したシャリー博士の研究には、3人の日本人(有村章、馬場義彦、松尾寿之)が直接的に貢献したと言われているが、有村博士は、そのうちの1人。その後、有村博士は、1985年日本の財界の協力を得てチューレーン大学・日米協力生物医学研究所(U.S.-Japan Biomedical Research Laboratories)を設立、同研究所長となり、そこを拠点として、神経科学の発展に貢献した。
増田 敏(ますだ とし、1923年10月7日 - 戦死)は、… 増田 敏(ますだ とし、1923年10月7日 - 戦死)は、鹿児島県出身のプロ野球選手。ポジションは二塁手、三塁手、遊撃手。 鹿児島商在学中は、1941年夏の甲子園の鹿児島大会で活躍し、決勝で延長13回の激闘の末鹿児島実に5-4でサヨナラ勝ち、県大会優勝を果たした(その後、本来なら開催されるはずの南九州大会や本大会が戦局の悪化により中止となった)。 1942年に南海軍へ入団。主力選手が次々と応召されていく中、内野のどこでも守れるユーティリティプレイヤーとしてチームを支えた。打撃は非力だが、守備には定評があった。打順は主に7~9番の下位を打っていた。 1943年シーズン中に応召され、戦死した(没年月日、死没場所は不明)。
川久保 輝夫(かわくぼ てるお、1923年(大正12年)9月… 川久保 輝夫(かわくぼ てるお、1923年(大正12年)9月22日 - 1945年(昭和20年)1月12日)は、日本の海軍軍人。海兵72期。大東亜戦争の末期、人間魚雷「回天」で出撃して戦死した。死後二階級特進し、最終階級は海軍少佐。 1923年(大正12年)9月22日に鹿児島県鹿児島市で、川久保二之介・静の五男として生まれる。家族は長男から、輝夫の後に生まれた六男まで全員が男兄弟だった。1943年(昭和18年)9月15日に海軍兵学校(海兵72期)を卒業すると、1944年(昭和19年)8月に海軍潜水学校普通科学生へ対する発令があり、同年9月6日に人間魚雷「回天」を創案した黒木博司大尉・仁科関夫大尉と共に第一特別基地隊大津島基地に着任、「回天」搭乗員として出撃までの時間を訓練にて過ごす。
江口 篤寿(えぐち あつひさ、またはあつとし)1923年4月… 江口 篤寿(えぐち あつひさ、またはあつとし)1923年4月5日-2010年5月20日)は、医師、健康教育学者。 鹿児島県出身。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)および第七高等学校造士館 (旧制)を経て、1947年東京帝国大学医学部卒、1961年順天堂大学医学博士。学位論文の題は「新生児及び幼若乳児における二、三の反射の消長について 」。 医師。1959年立教学院診療所医師。1974年東京大学講師、1976年筑波大学教授、87年定年退官、名誉教授、和洋女子短期大学教授。日本健康情報科学協会会長。
海江田 鶴造(かいえだ つるぞう、1923年〈大正12年〉3… 海江田 鶴造(かいえだ つるぞう、1923年〈大正12年〉3月27日 - 2013年〈平成25年〉11月27日)は、日本の内務・警察官僚。参議院議員(1期、自由民主党)。 鹿児島県姶良郡福山町(霧島市)出身。旧制福山中学校(現 鹿児島県立福山高等学校)を経て、1941年(昭和16年)旧制第七高等学校造士館文科卒業。1943年(昭和18年)、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省。短期現役海軍主計科士官(10期)を志願し、同年9月、海軍経理学校に入学。1944年(昭和19年)3月、経理学校を卒業し海軍主計中尉に任官。第三一海軍航空隊に配属されマニラに赴任。1945年(昭和20年)3月に主計大尉に進みジョグジャカルタで終戦を迎えた。
井上 吉夫(いのうえ きちお、1923年〈大正12年〉3月1… 井上 吉夫(いのうえ きちお、1923年〈大正12年〉3月1日 - 2003年〈平成15年〉10月24日)は、日本の政治家。位階は正三位、勲等は勲一等。参議院議員(5期)、国務大臣(北海道開発庁長官、沖縄開発庁長官、国土庁長官)、鹿児島県議会議員(3期)、自由民主党参議院議員会長等を歴任。 鹿児島県出水郡出水町(現在の出水市)出身。地主だが自作もおこなう豪農の家に生まれる。祖父の吉太郎は村会議員だった。旧制鹿児島県立出水中学校(現:鹿児島県立出水高等学校)を経て、1942年に旧制熊本高等工業学校(現:熊本大学工学部)採鉱冶金科を卒業。卒業と同時に日本鉱業に就職し、四国の白滝鉱山にて勤務するが、1年後に召集される。
橋本 郁雄(はしもと いくお、1923年2月16日-2009… 橋本 郁雄(はしもと いくお、1923年2月16日-2009年1月22日)は、日本のドイツ語・ドイツ文学者。学習院大学名誉教授、一橋大学元教授。ドイツ語学およびドイツ語史が専門で、特に日本の中世ドイツ語研究においては中枢を占める学者だった。また、小学館の『独和大辞典』など、独和辞典の編纂に注力した。 鹿児島県鹿児島市皷川町出身。父は第七高等学校造士館 (旧制)漢文学教授の橋本精次。祖父の自聽(よりさと)は明治初期に東京から招かれ谷山小学校校長などを務めた人物。 鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を経て、1942年3月に第七高等学校造士館文科乙類を卒業。1944年に東京帝国大学文学部独文科を卒業したが、学年短縮や学徒出陣在隊中の卒業のため実際に大学で学ぶことができたのはわずか1年半だった。
松山 樹子(まつやま みきこ、1923年1月10日 - 20… 松山 樹子(まつやま みきこ、1923年1月10日 - 2021年5月22日)は日本のバレリーナ、振付師。夫の清水正夫とともに松山バレエ団を設立した日本のバレエ界のパイオニアである。長男、清水哲太郎もバレエダンサーであり、松山バレエ団代表を引き継いでいる。兄・松山吉三郎および甥(兄の次男)・松山康久は日本中央競馬会(JRA)所属の元調教師。 鹿児島県姶良郡隼人町(現霧島市隼人町)に生まれる。日本女子経済専門学校(現かえつ有明中学校・高等学校)在学時、アメリカ人教師からメヌエット、マズルカなどのダンスを教わり、バレエに興味を持つ。そこで、在学1年時に日劇ダンシングチームクラシックバレエ科1期生に選ばれて入団。
福島 正人(ふくしま まさと、1922年12月15日 - … 福島 正人(ふくしま まさと、1922年12月15日 - 2004年3月12日)は、日本の建築工学/建築構造学者、建築材料/建築生産学者。大阪工業大学名誉教授。工学博士(東京大学)。 専門は、建築工学・建築構造、建築材料・建築生産(特にコンクリート工学)。 福島 万沙塔(読みは本名と同じ)の俳号で俳人としても活動した。 鹿児島県に生まれる。1940年に旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現:鹿児島県立甲南高等学校)を、1942年9月に旧制第七高等学校造士館理科を、それぞれ卒業した。1945年、東京帝国大学第二工学部(現:東京大学工学部)建築学科を卒業する。のちに、東京大学より論文「南九州産軽量骨材の利用に関する研究」にて工学博士号を取得している。
森重 敏(もりしげ さとし、1922年10月15日 - 20… 森重 敏(もりしげ さとし、1922年10月15日 - 2007年5月28日)は、日本の国語学者、国文学者、奈良女子大学名誉教授。 鹿児島県鹿児島市生まれ。1945年京都帝国大学国文科卒。京都女子大学助教授、奈良女子大学助教授、教授、1986年定年退官、名誉教授、天理大学教授、1996年退任。 1999年、勲三等旭日中綬章を受章。2007年5月28日、肺癌のため死去。没後正四位叙勲。
江夏 弘(えなつ ひろし、1922年(大正11年)9月12日… 江夏 弘(えなつ ひろし、1922年(大正11年)9月12日 - 2019年(令和元年)8月4日)は、日本の理論物理学者。立命館大学名誉教授。学位は理学博士。専門は素粒子論。 場の量子論において、相対論的ハミルトン形式に貢献した。 江夏は、場の量子論の相対論的なハミルトン形式における交換関係 の下で、場の量子論の従来の非相対論的なそれと等価であることを発見した。ここで、 である。ここで、ϵ(x){\displaystyle \epsilon (x)}は 0<x{\displaystyle 0<x} に対して ϵ(x)=1{\displaystyle \epsilon (x)=1} となり、x<0{\displaystyle x<0} に対して ϵ(x)=−1{\displaystyle \epsilon (x)=-1} となるような或る階段函数である。
福島 徳壽郎(ふくしま とくじゅろう、1922年7月29日 … 福島 徳壽郎(ふくしま とくじゅろう、1922年7月29日 - 1995年6月3日)は、日本の政治学者。京都大学名誉教授。 鹿児島県生まれ。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)(1940年3月卒)、第七高等学校造士館 (旧制)文科(1944年9月卒)、京都大学法学部(旧制)(1949年3月卒)をそれぞれ卒業。1949年4月に京都大学法学部大学院特別研究生となった後、1950年4月に京都大学助手に、1953年1月に神戸商科大学助教授に就任する。1957年4月に京都大学法学部助教授に就任し、1962年5月に同教授へ昇任し、1986年3月31日の定年まで務め、同年4月1日付けで名誉教授となる。京都大学法学部教授在任中、法学部長(1976年10月22日~1978年10月21日)や評議員(1972年3月19日~1974年3月18日)も務めた。
白川 一(しらかわ はじめ、1922年5月25日 - 198… 白川 一(しらかわ はじめ、1922年5月25日 - 1982年3月15日)は、鹿児島県出身のプロ野球選手(外野手)。 鹿児島商業学校から社会人野球の星野組を経て、1950年に創設された毎日オリオンズへ入団。 1953年に現役を引退。1955年から1957年までコーチを務めた。
古川 清蔵(ふるかわ せいぞう、1922年3月4日 - 20… 古川 清蔵(ふるかわ せいぞう、1922年3月4日 - 2018年10月17日)は、鹿児島市下荒田町出身のプロ野球選手(外野手、1942年のみ捕手)・競馬評論家。 鹿児島二中から、鹿児島商業学校に進学、八幡製鉄を経て、赤嶺昌志の勧誘で1941年に名古屋に外野手として入団。 捕手を務めていた三浦敏一、服部受弘が2人とも応召されてしまったため、1942年は開幕から捕手として起用される。5月12日の対南海軍戦で川崎徳次からサヨナラ本塁打を放つと、5月24日の大洋戦では、2点ビハインドの9回に野口二郎から同点本塁打を放っている。この試合はそのまま延長戦に入り、当時世界最長の延長28回の末、4対4で引き分けている。
今村 武俊(いまむら たけとし、1922年2月22日 - 2… 今村 武俊(いまむら たけとし、1922年2月22日 - 2012年10月10日)は、日本の文部官僚、教育評論家。鹿屋体育大学第3代学長・名誉教授、鹿児島女子大学第2代学長。 鹿児島県姶良郡東国分村(後の国分市、霧島市の一部)出身。父は鹿児島県(男子)師範学校附属小学校教頭や柁城小学校校長を歴任する今村武彦。父が教頭を務める附属小学校を卒業後、旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校へ進学して4年次に「高校組」(高等学校進学志望者特別学級)の級長を務め、1939年第七高等学校造士館に首席合格し旧制中学四年修了。1942年第七高等学校造士館文科を卒業。1947年東京帝国大学法学部政治学科卒業。同年鹿児島県立加治木中学校 (旧制)教諭となる。
平野 晃(ひらの あきら、1922年(大正11年)1月15日… 平野 晃(ひらの あきら、1922年(大正11年)1月15日 - 2009年(平成21年)12月27日)は、大日本帝国海軍軍人及び航空自衛官である。第13代航空幕僚長。鹿児島県出身。 鹿屋中学を経て海軍兵学校(第69期)卒業。戦時中は当初は艦隊勤務で真珠湾攻撃時は戦艦「霧島」に乗艦して作戦に参加。軽巡洋艦「阿武隈」ではアッツ島の戦いで陸戦隊を指揮している。空母「翔鶴」では高角砲指揮官として南太平洋海戦、第二次ソロモン海戦に参加したが、航空機の優位を痛感し、飛行学生を志望する。 艦上爆撃機の訓練を受けるが、1944年(昭和19年)末に特攻隊が編成され、その分隊長となる。特攻兵器「桜花」22型の開発実験に携わり、1945年(昭和20年)8月15日午後1時に正式採用のための最終判定の実験が行われることとなり、爆撃機「銀河」に搭載された「桜花」に搭乗する予定であった。
児玉 末男(兒玉 末男、こだま まつお、 1921年〈大正1… 児玉 末男(兒玉 末男、こだま まつお、 1921年〈大正10年〉12月1日 - 2005年〈平成17年〉2月20日)は、日本の政治家。衆議院議員(8期)。 鹿児島県囎唹郡末吉村(現・曽於市)出身。1942年(昭和17年)、門司鉄道教習所卒。都城駅助役、国鉄労働組合宮崎県支部委員長などを経て、1958年(昭和33年)の第28回衆議院議員総選挙に宮崎2区で日本社会党より立候補し当選、以後当選8回。 1986年(昭和61年)の第38回衆議院議員総選挙で落選した。2005年(平成17年)2月20日、肺炎のため都城市の病院で死去した。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
瀬野 栄次郎(榮次郎、せの えいじろう、1921年11月25… 瀬野 栄次郎(榮次郎、せの えいじろう、1921年11月25日 - 2011年3月1日)は、公明党衆議院議員(4期)。公明党中央執行委員。 鹿児島県日置郡日吉町(現・日置市)生まれ。1939年、熊本県立球磨農業学校(現・熊本県立南稜高等学校)本科卒業。営林署技師、大日本帝国陸軍航空兵中尉を務めた。1959年の熊本市議会議員選挙に無所属で立候補して当選した。当選後は会派「創価学会」に所属した。1963年、熊本県議会議員選挙に熊本市から公明政治連盟所属で立候補し、同連盟として初めての議席を獲得した。1967年の県議選は公明党から立候補して再選を果たした。1969年12月5日付で県議を辞職した。同年の第32回衆議院議員総選挙で熊本1区に公明党から出馬し、初当選。
鎌田 要人(かまだ かなめ、1921年(大正10年)10月2… 鎌田 要人(かまだ かなめ、1921年(大正10年)10月2日 - 2005年(平成17年)12月3日)は、日本の官僚、政治家。消防庁長官、自治事務次官、鹿児島県知事、参議院議員を歴任。 鹿児島県日置郡田布施村大字尾下(のちの金峰町、現南さつま市)出身。鹿児島二中(現甲南高校)、七高造士館を経て東京帝国大学法学部政治学科卒業後の1943年(昭和18年)、内務省入省。朝鮮総督府への出向、静岡県副知事、税務局長、財政局長、消防庁長官などを経て、1973年(昭和48年)に自治事務次官となる。退官後の1977年(昭和52年)に鹿児島県知事選に立候補し初当選。1989年(平成元年)まで3期12年務めた。在任中は、「官僚出身」を感じさせないざっくばらんな人柄で県民に親しまれた。
和泉 照雄(いずみ てるお、1921年(大正10年)8月20… 和泉 照雄(いずみ てるお、1921年(大正10年)8月20日 - 1986年(昭和61年)4月28日)は、日本の政治家。参議院議員(1期)、鹿児島県議会議員(3期)。公明党に所属した。位階は正五位。 鹿児島県垂水市出身。旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現:鹿児島県立甲南高等学校)から1937年に士官学校へ進み、1940年に陸軍士官学校本科(54期)を卒業。陸軍大尉で復員。その後、公職追放となる。 1963年、鹿児島県議会議員に当選し、3期務める(鹿児島市区選出)。3期目の1972年11月に県議会議員を辞職し、第33回衆議院議員総選挙(旧鹿児島県第1区)、第10回参議院議員通常選挙(鹿児島県選挙区)、第34回衆議院議員総選挙(旧鹿児島県第1区)に立候補するが落選。
佐多 宗二(さた そうじ、1921年(大正10年)8月2日 … 佐多 宗二(さた そうじ、1921年(大正10年)8月2日 - 1996年(平成8年)11月10日)は、日本の政治家。全国商工会連合会会長、参議院議員(1期)。 鹿児島県揖宿郡頴娃村(頴娃町を経て現南九州市)出身。1936年(昭和11年)松原高等小学校を卒業。酒造業、製飴業などを経て、1948年(昭和23年)に酒造業を法人化し有限会社佐多宗二商店を設立。 1955年(昭和30年)鹿児島県議会議員に初当選し、1975年(昭和50年)まで務め、県議会議長にも就任。田中角栄から声が掛かった事がきっかけで、1975年(昭和50年)自由民主党参議院議員に当選。1982年(昭和57年)全国商工会連合会会長に就任。
村山 喜一(むらやま きいち、1921年〈大正10年〉7月2… 村山 喜一(むらやま きいち、1921年〈大正10年〉7月21日 - 1996年〈平成8年〉8月16日)は、日本の政治家。 鹿児島県議会議員、衆議院議員(10期)、衆議院副議長(第58代)などを歴任した。 鹿児島県姶良郡蒲生町(のちの姶良市)にて生まれた。鹿児島県立加治木中学校 (旧制)卒業。1941年に台南師範学校卒業後、小学校教員、鹿児島県評事務局長、鹿児島県議会議員を経て、1960年の第29回衆議院議員総選挙に日本社会党より立候補し当選、以後当選10回。 党内では和田博雄 – 勝間田清一 – 石橋政嗣の派閥に所属する。1982年2月、飛鳥田一雄委員長の下で国会対策委員長に就任、その後馬場昇書記長下ろしに伴う役員改選により、同年12月副委員長となる。
山中 貞則(やまなか さだのり、1921年〈大正10年〉7月… 山中 貞則(やまなか さだのり、1921年〈大正10年〉7月9日 - 2004年〈平成16年〉2月20日)は、日本の政治家。鹿児島県囎唹郡末吉村大字深川(現在の曽於市末吉町深川)出身。位階・勲等は正三位勲一等。称号は沖縄県名誉県民等多数。 衆議院議員(17期)、沖縄開発庁長官(初代)、防衛庁長官(第31代)、自由民主党政務調査会長(第23代)、通商産業大臣(第41代)などを歴任した。 税制のスペシャリストとして長年にわたり自民党税調に君臨し、「税調のドン」と呼ばれた。ニックネームは「ヤマサダ」、「ヤマテイ」。浜田幸一や一部の官僚達からは名前の「貞則」を音読みした「テイソク」と呼ばれた。 旧制宮崎県立都城中学校(現在の宮崎県立都城泉ヶ丘高等学校)、台湾・台北第二師範学校を卒業後、高雄州の国民学校で教職を務める。
藤崎 章(ふじさき あきら、1921年5月1日 - 2007… 藤崎 章(ふじさき あきら、1921年5月1日 - 2007年9月13日)は、日本の経営者。住友金属鉱山社長、会長、相談役、経済同友会幹事等を歴任。 鹿児島県鹿児島市生まれ、出身。 旧制の東京府立第六中学校(現東京都立新宿高等学校)を経て、1939年3月第一高等学校卒業。第一高等学校では水泳部主将。1941年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、1942年に住友金属鉱山に入社。1967年5月に取締役に就任し、1970年2月に常務を経て、1973年5月に社長に就任。1983年6月に会長に就任。1988年相談役に就く。 1979年4月に藍綬褒章を受章し、1987年11月に勲一等瑞宝章を受章した。 2007年9月13日老衰のために死去。
上田 格(かんだ かく、1921年 <大正10年> 4月29… 上田 格(かんだ かく、1921年 <大正10年> 4月29日 - 2015年 <平成27年> 2月8日)は、日本の経営者、銀行家。鹿児島銀行頭取を務めた。位階は従五位。 鹿児島県鹿児島市出身。1939年に鹿児島県立第二鹿児島中学校(旧制、現鹿児島県立甲南高等学校)を卒業し、1941年に鹿児島高等商業学校(現鹿児島国際大学)を卒業。1942年11月出征、1945年11月復員。1946年に鹿児島銀行に入行。1948年伊集院支店を振り出しに、串良支店、都城支店と勤務し、1953年本店営業部貸付課長代理に着任して以降、ほぼ一貫して営業畑を歩む。1972年に取締役に就任し、1978年に常務、1980年に専務を経て、1986年に副頭取に就任し、1988年3月には頭取に昇格。
田畑 健介(たばた けんすけ、1921年(大正10年)3月1… 田畑 健介(たばた けんすけ、1921年(大正10年)3月16日 - 1989年(平成元年)7月31日)は、昭和期の地方公務員、政治家。東京都練馬区長。 鹿児島県大島郡名瀬村(現・奄美市)金久出身。兄に民俗学者の田畑英勝。旧制鹿児島県立大島中学校(鹿児島県立大島高等学校の前身)、旧制台北中学校(台北市立建国高級中学の前身)、旧制台北高等学校を経て、1944年東京大学法学部政治学科卒業。学徒出陣、復員後、郷里の奄美で大島郡連合青年団初代会長、大島高等学校教諭、古仁屋警察署署長を務める。 1950年東京都職員。労政課長、企画調整局参事などを経て、1969年主税局査察室長、1971年に練馬区総務部長となる。
高良 和武(こうら かずたけ、1921年2月9日 - 201… 高良 和武(こうら かずたけ、1921年2月9日 - 2019年1月30日)は、放射光科学を専門とする日本の物理学者。鹿児島市出身。東京大学及び高エネルギー加速器研究機構名誉教授。動力学X線回折理論の研究により、放射光科学と結晶学の発展に貢献した。また後年は、産学連携や高等教育におけるインターンシップ制度の推進にも尽力した。 フォトン・ファクトリー施設長、日本結晶学会会長、日本放射光学会会長、学校法人筑波研究学園理事長、総合科学研究機構理事長、日本インターンシップ学会会長を歴任した。 高良大社の宮司の家に生まれる。旧制鹿児島県立第一鹿児島中学校、旧制第七高等学校造士館、九州帝国大学理学部物理学科卒業。
春田 安喜子(はるた あきこ、1921年 - 2006年4月… 春田 安喜子(はるた あきこ、1921年 - 2006年4月6日)は、日本の洋画家。二科会理事。海老原喜之助、吉井淳二に学び、二科会で活躍したほか、地元鹿児島県の女流洋画壇振興に大きく貢献した。 鹿児島県鹿児島市加治屋町出身。実家は鹿児島市の老舗である春田屋呉服店で、父・吉次郎と伯父・宗次郎は鹿児島のアマチュア画家の草分け。1939年、鹿児島県立第二高等女学校卒業。女子美術専門学校高等科西洋画部を首席卒業。1943年から母校の鹿児島二高女および併設されている鹿児島女子師範学校で教える。加治屋町の自宅が戦災で焼け、アトリエがないので城山に登って桜島ばかり写生した後、鹿児島二高女のバラック校舎にこもって絵の具を使って暗くなるまで描いていた。
石神 忠真郎(いしがみ ただまろ、Peter Baptist… 石神 忠真郎(いしがみ ただまろ、Peter Baptist Tadamaro Ishigami, O.F.M. Cap., 1920年12月1日 - 2014年10月25日)は、日本のカトリック教会聖職者でカトリック那覇教区初代司教。カプチン・フランシスコ修道会員で、洗礼名は「ペトロ・バプティスタ」。 鹿児島県の奄美大島笠利村(現奄美市笠利町)で生まれる。福岡と東京の神学校で学んでいたが、1944年に戦地に赴き、戦後は奄美大島でカテキスタをしていた。1947年9月14日に、奄美大島名瀬港でカプチン・フランシスコ会宣教師フェリックス・レイ神父とオーバン・バルトルドス神父に遭遇。ラテン語で「エゴ スム セミナリウス(わたしは、神学生です)と自己紹介し、その後2人の神父の司牧の手伝いをしていた。
長島 公佑(ながしま こうすけ、1920年11月30日 - … 長島 公佑(ながしま こうすけ、1920年11月30日 - 2003年11月19日)は、日本の実業家。長島商事創業者。鹿児島県唯一の遊園地であったジャングルパーク遊園地や長島美術館などを建設した。 鹿児島県大島郡喜界町羽里出身。1951年10月、長島商事を設立。1960年には指宿市で熱帯植物の育成販売業開始した(現、長島植物園)。1970年、鹿児島市与次郎に国際ジャングルパークを建設した。1971年12月、かごしま熱帯植物園を隣接地に開園した。 1985年4月、財団法人長島文化財団を設立する。故郷の喜界町に2億2千万円を寄付し、1985年4月に喜界町図書館が開館された。1989年に現在の武三丁目に長島美術館を建設し、長年収集してきた美術品を公開した。
吉松 義彦(よしまつ よしひこ、1920年11月16日 - … 吉松 義彦(よしまつ よしひこ、1920年11月16日 - 1988年7月5日)は、日本の柔道家(講道館9段)。元・鹿児島県柔道協会理事長。 世界選手権大会準優勝や全日本選手権大会で史上初となる3回優勝等の成績を残し、松本安市や醍醐敏郎、石川隆彦らと共に終戦直後の日本柔道界を代表する選手の1人であった。 鹿児島県鹿児島市生まれ、出身。1934年に旧制鹿児島商業学校(現・市立鹿児島商業高校)に入学し、林岩三(のち講道館9段)から同校柔道部および修道館道場にて指導を受けた。林は白帯時代から吉松の才を見抜き、著書『柔道に生きる』の中で「吉松の柔道は、守勢の時は青竹のようにしなやかで、相手が力のバランスを崩すとすぐにビシっと弾き返す、攻撃と守備の区切りがない理想の動き」と絶賛している。
平原 毅(ひらはら つよし、1920年10月25日 - 19… 平原 毅(ひらはら つよし、1920年10月25日 - 1999年4月24日)は、外交官。 中国広東生まれ。鹿児島県鹿児島市出身。外交官藤田栄介の二男。旧制東京高校を経て東京帝国大学入学。1941年高等文官試験外交科合格。1943年東京帝国大学法学部卒業後、ハルピンでロシア語研修中に学徒動員で出征。戦後の1946年外務省に戻る。在パリユネスコ本部アジア局長、ミラノ総領事、1968年臨時代理でベルギー公使。1969年外務省経済局次長。1970年外務省経済局長時には日米繊維交渉にあたる。1972年モロッコ大使、75年OECD代表部大使、81年英国大使。 1982年フランス政府からレジオンドヌール勲章コマンドール章受章。
坂元 貞一郎(さかもと ていいちろう、1920年10月15日… 坂元 貞一郎(さかもと ていいちろう、1920年10月15日 - 1984年5月18日)は、日本の官僚、厚生事務次官。厚生省年金課長時代に国民年金制度を作り、児童家庭局長時代には1971年の予算編成で児童手当制度創設に尽力。正四位勲二等旭日重光章。 鹿児島県阿久根村生まれで、阿久根小学校卒業後に鹿児島市の伯母に引き取られ、鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を卒業し1938年4月第七高等学校造士館 (旧制)文科甲類入学、1941年3月に同校を卒業。1943年9月に東京帝国大学法学部政治学科卒業。卒業前の文官高等試験行政科に合格しており、9月27日に厚生省へ入省し大臣官房総務課勤務。翌年兵役に従事し、敗戦とともに復員復職。
谷上 幸男(たにうえ さちお、1920年8月28日 - )は… 谷上 幸男(たにうえ さちお、1920年8月28日 - )は、日本の政治家、漁師。坊津町長(4期)を務めた。 1920年8月28日、鹿児島県川辺郡西南方村大字坊(現南さつま市坊津町坊)生まれ。坊泊尋常小学校高等科卒業。その後、裁判所の書記を目指して鹿児島市の弁護士前之園喜一郎の元で書生として住み込む。その後、上京して日立航空機製作所に入社する。その後、1941年に召集され平壌飛行場に終戦まで勤務した。終戦後は帰郷して、原捨思が所有するカツオ漁船の漁労長となった。1973年、南方水産経理部長となる。1979年11月17日、坊津町助役に就任して11年務めた。1991年、坊津町長選挙に立候補して現職の原多計志と別の新人を破って初当選を果たした。
政野 岩夫(まさの いわお、1920年8月25日 - 194… 政野 岩夫(まさの いわお、1920年8月25日 - 1944年)は、鹿児島県出身のプロ野球選手。ポジションは投手。1944年の登録名は中本 政夫。
面高 信俊(おもだか のぶとし、1920年4月11日 - 2… 面高 信俊(おもだか のぶとし、1920年4月11日 - 2010年2月13日)は、日本の実業家。王子製紙副社長、王子ティッシュ販売社長、新王子製紙特別顧問などを歴任。 鹿児島県川辺郡加世田村武田(川辺郡加世田町武田、加世田市武田を経て現南さつま市加世田武田)生まれ。鹿児島市へ移り上荒田で育つ。荒田尋常高等小学校(現鹿児島市立荒田小学校)、鹿児島県立第二鹿児島中学校(現鹿児島県立甲南高等学校)、陸軍予科士官学校を経て、1941年に陸軍航空士官学校を卒業し、少尉として陸軍入隊。1942年陸軍航空技術学校へ移り発動機の研究員。1944年陸軍航空士官学校教官。 戦後、1949年に東京工業大学工学部機械工学科を卒業し、日本パルプ工業へ入社。
西郷 竹彦(さいごう たけひこ、1920年3月15日 - 2… 西郷 竹彦(さいごう たけひこ、1920年3月15日 - 2017年6月12日)は、日本の文芸学者、児童文学研究者、ロシア文学翻訳家。 鹿児島市生まれ。幼くして両親に死なれ孤児として育つ。上京後、土方などをして苦学、東京帝国大学理学部応用物理学科に学ぶ。 第四航空師団に召集され朝鮮平壌航空隊に配属。敗戦時、ソ連の捕虜となり、のちモスクワ東洋大学日本学部講師として日本文化・文学を教え、1949年帰国。 ロシア児童文学の翻訳を多数行い、のち文学教育を中心として多数の翻訳、創作、論考、著書を著した。文芸教育研究協議会(文芸研)の理論的支柱であった。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
横山 正治(よこやま まさはる、1919年(大正8年)11月… 横山 正治(よこやま まさはる、1919年(大正8年)11月8日 - 1941年(昭和16年)12月8日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争劈頭の真珠湾攻撃において特殊潜航艇「甲標的」搭乗員として戦死した九軍神の一人。二階級特進により最終階級は海軍少佐。岩田豊雄(獅子文六)の小説「海軍」及びこれを原作とした映画「海軍」の主人公・谷真人のモデル。