左近允 尚敏(さこんじょう なおとし、1925年(大正14年… 左近允 尚敏(さこんじょう なおとし、1925年(大正14年)2月11日 - 2013年(平成25年)6月30日)は、大日本帝国海軍の軍人、海上自衛官。最終階級は海軍大尉、海将。鹿児島県出身。海兵72期。 海軍中将左近允尚正の次男。多号作戦で駆逐艦「島風」砲術長として「島風」沈没時(多号作戦)に戦死した海軍大尉左近允正章(まさふみ)は兄にあたる。 兄の正章と同じく旧制横須賀中(30期)から海軍兵学校へ入校。1943年(昭和18年)9月に卒業(第72期)、海軍少尉候補生。伊勢型戦艦1番艦「伊勢」乗組。乗艦実習の後、11月15日附で最上型重巡洋艦4番艦「熊野」乗組を命ぜられる。なお、兄の正章も太平洋戦争開戦時に海軍少尉として「熊野」に勤務している。
橋口 寛(はしぐち ひろし、1924年(大正13年)7月15… 橋口 寛(はしぐち ひろし、1924年(大正13年)7月15日 - 1945年(昭和20年)8月18日)は、日本の海軍軍人。海兵72期。太平洋戦争の末期、人間魚雷「回天」の搭乗員となるが出撃する機会を得ず、終戦後自決した。最終階級は海軍大尉。 1924年(大正13年)7月15日に鹿児島県鹿児島市上荒田町にて、橋口盛秀の長男として生まれる。荒田尋常高等小学校から旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校へ進学したが、1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃によって太平洋戦争が開戦すると、橋口が通っていた学校でも例外なく軍事教練が厳しさを増していった。国の存亡を決定づける大戦を感じていた成績優秀な橋口は、迷うことなく卒業後に海軍兵学校(72期)への進学を決断した。
川久保 輝夫(かわくぼ てるお、1923年(大正12年)9月… 川久保 輝夫(かわくぼ てるお、1923年(大正12年)9月22日 - 1945年(昭和20年)1月12日)は、日本の海軍軍人。海兵72期。大東亜戦争の末期、人間魚雷「回天」で出撃して戦死した。死後二階級特進し、最終階級は海軍少佐。 1923年(大正12年)9月22日に鹿児島県鹿児島市で、川久保二之介・静の五男として生まれる。家族は長男から、輝夫の後に生まれた六男まで全員が男兄弟だった。1943年(昭和18年)9月15日に海軍兵学校(海兵72期)を卒業すると、1944年(昭和19年)8月に海軍潜水学校普通科学生へ対する発令があり、同年9月6日に人間魚雷「回天」を創案した黒木博司大尉・仁科関夫大尉と共に第一特別基地隊大津島基地に着任、「回天」搭乗員として出撃までの時間を訓練にて過ごす。
平野 晃(ひらの あきら、1922年(大正11年)1月15日… 平野 晃(ひらの あきら、1922年(大正11年)1月15日 - 2009年(平成21年)12月27日)は、大日本帝国海軍軍人及び航空自衛官である。第13代航空幕僚長。鹿児島県出身。 鹿屋中学を経て海軍兵学校(第69期)卒業。戦時中は当初は艦隊勤務で真珠湾攻撃時は戦艦「霧島」に乗艦して作戦に参加。軽巡洋艦「阿武隈」ではアッツ島の戦いで陸戦隊を指揮している。空母「翔鶴」では高角砲指揮官として南太平洋海戦、第二次ソロモン海戦に参加したが、航空機の優位を痛感し、飛行学生を志望する。 艦上爆撃機の訓練を受けるが、1944年(昭和19年)末に特攻隊が編成され、その分隊長となる。特攻兵器「桜花」22型の開発実験に携わり、1945年(昭和20年)8月15日午後1時に正式採用のための最終判定の実験が行われることとなり、爆撃機「銀河」に搭載された「桜花」に搭乗する予定であった。
横山 正治(よこやま まさはる、1919年(大正8年)11月… 横山 正治(よこやま まさはる、1919年(大正8年)11月8日 - 1941年(昭和16年)12月8日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争劈頭の真珠湾攻撃において特殊潜航艇「甲標的」搭乗員として戦死した九軍神の一人。二階級特進により最終階級は海軍少佐。岩田豊雄(獅子文六)の小説「海軍」及びこれを原作とした映画「海軍」の主人公・谷真人のモデル。
肥田 真幸(肥田 眞幸、ひだ さねゆき、1919年(大正8年… 肥田 真幸(肥田 眞幸、ひだ さねゆき、1919年(大正8年)3月21日 - 2012年(平成24年)9月12日)は、元大日本帝国海軍軍人、海上自衛官。海兵第67期卒業。第9代航空集団司令官(海将)。 鹿児島県鹿児島市生まれ、日置郡串木野村(後の串木野町、串木野市、合併によりいちき串木野市)出身。旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現鹿児島県立甲南高等学校)から、1936年(昭和11年)に海軍兵学校入学。1939年(昭和14年)7月25日、海軍兵学校(第67期)卒業。任海軍少尉候補生、「八雲」乗組。兵学校同期には中村悌次(元海上幕僚長)がいた。
鮫島 博一(さめじま ひろいち、1918年〈大正7年〉10月… 鮫島 博一(さめじま ひろいち、1918年〈大正7年〉10月26日 - 2000年〈平成12年〉8月14日)は、日本の海軍軍人及び海上自衛官。海軍兵学校卒業(第66期)。第10代海上幕僚長、第9代統合幕僚会議議長。 鹿児島県川辺郡東加世田村(のち万世町、加世田市、現南さつま市)出身。旧制第一鹿児島中学四年修了後、海軍兵学校に入校。海軍時代は艦攻のパイロットであり、飛行学生を首席で卒業。開戦から約7ヶ月は空母「龍驤」に乗組み、ダッチハーバー空襲等の作戦に参加。しかし、その後は陸上勤務で、海軍航空技術廠ではテストパイロットとして水平爆撃用の照準器や反跳爆弾の研究を続け、最後は陸上攻撃機「連山」の開発にも加わった。
黒江 保彦(くろえ やすひこ、1918年(大正7年)2月17… 黒江 保彦(くろえ やすひこ、1918年(大正7年)2月17日 - 1965年(昭和40年)12月5日)は、日本の陸軍軍人、航空自衛官。日本陸軍航空隊で戦闘機操縦者として日中戦争、ノモンハン事件、太平洋戦争で多数の空戦に参加して、エースパイロットの一人となった。航士50期。最終階級は、日本陸軍では陸軍少佐、戦後に奉職した航空自衛隊では1等空佐。 鹿児島県日置郡中伊集院村(現:日置市)にて、陸軍砲兵大尉・黒江敬吉の四男として生まれる。伊集院中学を経て陸軍士官学校予科(後の陸軍予科士官学校)に進んだ。日本統治時代の朝鮮の平壌における飛行連隊での隊附勤務を経て、1938年(昭和13年)6月に陸軍航空士官学校(航士)卒業・航空兵少尉任官(航士50期)。
中馬 兼四(ちゅうま けんし/ちゅうまん けんし、1917年… 中馬 兼四(ちゅうま けんし/ちゅうまん けんし、1917年(大正6年)2月28日 - 1942年(昭和17年)5月31日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争におけるシドニー湾攻撃で特殊潜航艇「甲標的」艇長として戦死。二階級特進により最終階級は海軍中佐。位階は正六位。 鹿児島県薩摩郡上東郷村大字鳥丸(現在の薩摩川内市東郷町鳥丸)出身。父の姓は知敷。中馬は鹿児島県立川内中学校(現在の鹿児島県立川内高等学校)を卒業後、海軍兵学校へ進み、海兵66期として卒業した。海兵66期は、219名の同期生のうち143名が戦死し、戦死率は65.2%である。中馬と同様に特殊潜航艇(以下「特潜」 )艇長としてシドニー湾攻撃で戦死した松尾敬宇、同日にマダガスカル攻撃で戦死した秋枝三郎は同期生であった。
山岡 大二(やまおか だいじ、1913年(大正2年)11月6… 山岡 大二(やまおか だいじ、1913年(大正2年)11月6日 - 1991年(平成3年)11月1日)は、東京都出身の日本の海軍軍人、海上自衛官。最終階級は、海軍少佐、海将補。 内務官僚・山岡国利の二男として東京で生れる。鹿児島一中を経て、1936年(昭和11年)3月、海軍兵学校(第63期)を卒業、遠洋航海終了後、戦艦「霧島」乗組となる。翌年4月、海軍少尉に任官し1937年(昭和12年)8月、新造の駆逐艦「涼風」乗組となり、以後、「伊号第五十七潜水艦」、「呂号第三十四潜水艦」乗組み、1938年(昭和13年)8月、呉鎮守府第四特別陸戦隊付となる。同年12月、重巡洋艦「三隈」乗組となり、重巡洋艦「筑摩」、水雷艇「鳩」乗組を経て、1940年(昭和15年)10月、駆逐艦「霞」砲術長となり太平洋戦争を迎えた。
緒方 景俊(おがた かげとし、1913年(大正2年)9月1日… 緒方 景俊(おがた かげとし、1913年(大正2年)9月1日 - 1982年(昭和57年)12月26日)は、日本の陸軍軍人及び航空自衛官、第8代航空幕僚長。 教員・緒方竜之進の息子として鹿児島県に生まれる。伊集院中学、東京府立四中を経て、陸軍士官学校に入校。陸軍大学校を恩賜軍刀組で卒業。第3飛行団司令部員、第51教導飛行師団参謀、大本営参謀等を務めたのち、陸軍省軍務局課員で終戦を迎える。 戦後は公職追放を経て、1952年(昭和27年)7月に警察予備隊に入隊。1954年(昭和29年)7月に航空自衛隊の発足と同時に転官。空自では航空保安管制気象群司令、空幕人教部副部長を務めたのち、陸自に転身して陸幕第5部副部長、その後は防衛研修所副所長、統合幕僚会議事務局長と空自の主流ポストを歩いてはこなかったが、術科教育本部長となり、1968年(昭和43年)7月にFX(次期主力戦闘機)の調査団長として渡米。
淵ノ上 忠義(ふちのかみ ただよし、1913年(大正2年)1… 淵ノ上 忠義(ふちのかみ ただよし、1913年(大正2年)1月5日 - 2001年(平成13年)7月29日)は、日本の台湾総督府官僚、陸軍司政官、陸上自衛官、弁護士。最終階級は陸将。 鹿児島県鹿児島市草牟田町に生まれる。鹿児島県立第二中学校、第八高等学校文科を経て、1935年(昭和10年)3月、東京帝国大学法学部を卒業する。同年10月高等試験行政科合格後、1936年(昭和11年)4月、台湾総督府財務局に奉職する。 ついで1938年(昭和13年)2月、地方理事官に進み、台中州大屯郡守に就任。のち高雄州警務課長、財務局事務官、台北州高等警察課長、台中州教育課長を経て、1942年(昭和17年)11月、陸軍司政官に選任され、第25軍軍政監部附となった。
大室 孟(おおむろ つとむ、1912年(明治45年)1月15… 大室 孟(おおむろ つとむ、1912年(明治45年)1月15日 - 2001年(平成13年)2月14日)は、日本の陸軍軍人、航空自衛官。最終階級は日本陸軍では陸軍少佐、航空自衛隊では航空幕僚長たる空将。 陸軍大佐大室勝の息子として生まれる。鹿児島一中、東京陸軍幼年学校、陸軍士官学校予科を経て、陸軍士官学校本科に入校。日本陸軍時代は司令部偵察機操縦者として活躍し、特に日中戦争時には九七式司令部偵察機をもって多大な功績を挙げ、偵察隊としては異例の功四級金鵄勲章および個人感状拝受の栄誉を受ける。太平洋戦争時代は主に一〇〇式司令部偵察機「新司偵」を愛機として、各司偵隊の隊長を務めた。 戦後は公職追放を経て、航空自衛隊に入隊し、創設時は教官としてパイロットの養成に尽力した。
野田 毅(のだ つよし、1912年 - 1948年1月28日… 野田 毅(のだ つよし、1912年 - 1948年1月28日)は、日本の陸軍軍人。敗戦時の階級は陸軍少佐。南京攻略戦の際に実施されたとされる「百人斬り競争」実行の容疑者として逮捕・処刑された。 鹿児島県南大隅郡田代村(現・肝属郡錦江町)出身。野田伊勢熊の4人兄妹の長男。鹿児島県立第一鹿児島中学校(現・鹿児島県立鶴丸高等学校)卒業、陸軍士官学校第49期。 1937年に起こった日中戦争には、第16師団第9連隊第3大隊の副官として参加(階級は陸軍少尉)。南京への進軍中に歩兵砲小隊長・向井敏明少尉との間で行われた「百人斬り競争」が『東京日日新聞』に報道される。その後、歩兵科から航空科に転科し、広東作戦に参加。
東 愛吉(ひがし あいきち、1911年〈明治44年〉1月15… 東 愛吉(ひがし あいきち、1911年〈明治44年〉1月15日-1973年〈昭和48年〉6月19日)は、日本の陸軍軍人。終戦時の階級は陸軍少佐。栄典は勲四等瑞宝章。大日本帝国陸軍第7飛行師団の参謀や陸上自衛隊第13普通科連隊長などを務めた。 1911年1月15日、鹿児島県宮之城村(現さつま町)に生まれる。盈進小学校、鹿児島県立第二中学校(現・鹿児島県立甲南高校)を経て、陸軍士官学校(45期)、陸軍大学校を卒業。陸大の同期(55期)に三笠宮崇仁親王がいる。その後、太平洋戦争時は陸軍参謀本部に勤務。 戦後、帰郷し公職追放により軍人を辞めたが、1953年、追放解除後に勧誘を受けた警察予備隊に二等陸佐として横須賀市久里浜幹部学校に入隊した。
伊丹 明(いたみ あきら、英語名:デイヴィッド・アキラ・イタ… 伊丹 明(いたみ あきら、英語名:デイヴィッド・アキラ・イタミ〈David Akira Itami〉、1911年 - 1950年12月26日)は、アメリカ合衆国の陸軍軍人。愛称は“デイブ(Dave)”。 カリフォルニア州オークランド生まれ。3歳より、鹿児島県加治木町の叔母の下に預けられ、そこで少年期を過ごす。鹿児島県加治木中学校を卒業後、1928年より大東文化学院に入学し、漢籍やインド哲学を研究する。 1931年にアメリカに戻ると、1935年に日本国籍を離脱。カリフォルニア大学に入学し、日本語新聞の『加州毎日』の記者となる。1941年12月に勃発した太平洋戦争により、収容所生活を強いられるが、アメリカ陸軍情報部に勤務することとなる。
若松 幸禧(わかまつ ゆきよし、1911年(明治44年)- … 若松 幸禧(わかまつ ゆきよし、1911年(明治44年)- 1944年(昭和19年)12月18日)は、大日本帝国陸軍の軍人。戦闘機操縦者。最終階級は中佐。鹿児島県薩摩郡高江村(現在の薩摩川内市)出身。通り名・異名は「赤鼻のエース」。 鹿児島県薩摩郡高江村大字久見崎(現在の薩摩川内市久見崎町)出身。太平洋戦争(大東亜戦争)中後期の中国戦線で活躍した、二式単座戦闘機「鍾馗」と四式戦闘機「疾風」乗りのエース・パイロット。二等兵として入営し、下士官から少尉候補者を経て少佐にまでのぼりつめた。冴えた空戦技術と円熟した優れた人格を持ち合わせた理想的な戦闘隊指揮官であった。 その活躍から敵の中華民国重慶政府より若松の首に賞金が懸けられ(当初は2万元、のち5万元に増額)、また、若松の所属する飛行第85戦隊第2中隊機のスピナーと垂直尾翼前縁(部隊マーク)に塗られた中隊色の赤色から、若松は在中国米空軍(在支米空軍)や友軍より「赤鼻(RedNose)のエース」、「赤ダルマ隊長」として存在が広く知られていた。
南郷 茂章(なんごう もちふみ、1906年〈明治39年〉7月… 南郷 茂章(なんごう もちふみ、1906年〈明治39年〉7月1日 - 1938年〈昭和13年〉7月18日)は、日本の海軍軍人。海兵55期。日中戦争における撃墜王。戦死による一階級昇進で最終階級は海軍少佐。 1906年(明治39年)7月1日、広島県安芸郡江田島村(現江田島市)で当時海軍兵学校幹事の父・南郷次郎少佐(最終階級、少将)の長男として生まれる。本籍は東京府(現・東京都)。性格は豪快で人懐っこく頭脳明晰、体格は大きくなかったが、幼少から柔道に上達し体力は優れていた。祖父に元老院議官で海軍省高官の南郷茂光がいる。弟に太平洋戦争のニューギニアの戦いで活躍し「ニューギニアは南郷で持つ」と称えられた陸軍飛行第59戦隊第2中隊長として有名な 撃墜王の南郷茂男(1944年1月23日、戦死。
山本 祐二(やまもと ゆうじ、1903年(明治36年)1月1… 山本 祐二(やまもと ゆうじ、1903年(明治36年)1月17日 - 1945年(昭和20年)4月7日)は、日本の海軍軍人(海兵51期卒)。戦艦「大和」を旗艦とする第二艦隊の沖縄海上特攻作戦(坊ノ岬沖海戦)で戦死。戦死による一階級昇進で最終階級は海軍少将。
小園 安名(こぞの やすな、1902年〈明治35年〉11月1… 小園 安名(こぞの やすな、1902年〈明治35年〉11月1日 - 1960年〈昭和35年〉11月25日)は、日本の海軍軍人。海軍兵学校第51期卒業。最終階級は海軍大佐剥奪。 1902年(明治35年)11月1日、鹿児島県川辺郡万世町(現・南さつま市)に生まれる。旧制鹿児島県立川辺中学校を経て1920年8月26日に海軍兵学校第51期に入学。同期に樋端久利雄、山本祐二、三代一就、大井篤らがいる。1923年7月14日、同校を卒業し、少尉候補生。練習艦「磐手」乗組み。 1926年3月、霞ヶ浦海軍航空隊第14期飛行学生、11月、卒業。空母「赤城」分隊長着任。霞ヶ浦航空隊教官着任。小園に思想的影響を受けた飛行学生の中尉らが五・一五事件を起こし、小園も「皇道革新」を主張し五・一五事件を支持したことから転勤させられる。
入佐 俊家(いりさ としいえ、1902年(明治35年)4月2… 入佐 俊家(いりさ としいえ、1902年(明治35年)4月26日 - 1944年(昭和19年)6月19日)は、日本の海軍軍人(海兵52期卒)。戦死による二階級特進で最終階級は海軍少将。 鹿児島県出身。郵便局長・入佐俊祥の息子として生れる。鹿児島二中を経て、1924年(大正13年)7月、海軍兵学校(52期)を卒業。翌年12月、海軍少尉に任官。1928年(昭和3年)12月から翌年11月まで第19期飛行学生として学んだ。 日中戦争時から陸攻隊を率いて多大な戦果をあげ、その技量と用兵から陸攻の神様 海軍の至宝と言われた。常に指揮官先頭を実践し、部下からも上司からも絶大な信頼を寄せられた。 鹿屋空飛行長で太平洋戦争開戦を迎え、南方進攻作戦に活躍、その後、海軍兵学校教官として内地へ帰還するが、1944年(昭和19年)3月、再建された機動部隊(第一機動艦隊)の第六〇一海軍航空隊司令兼空母大鳳の飛行長として新鋭空母大鳳に乗り組むことになる。
藤田 実彦(ふじた さねひこ、1900年〈明治33年〉12月… 藤田 実彦(ふじた さねひこ、1900年〈明治33年〉12月25日 - 1946年〈昭和21年〉3月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。陸士33期、陸大42期。 別名、田友・田通。髭の参謀とも呼ばれた。通化事件の首謀者として八路軍に拘束され、肺炎で急死した。 鹿児島県の士族出身。薩摩郡隈之城村大字東手(現在の薩摩川内市宮崎町)出身。陸士卒業後、歩兵第23連隊附。陸大卒業後は独立軽装甲車第2中隊長として華北戦線、南京攻略戦に参加。内地に帰還し内閣情報局第1部第3課長、戦車第1連隊長を歴任。1945年、再び大陸へ向かい第125師団参謀長となった。 ポツダム宣言が受諾された翌日、関東軍にも武装解除命令が通達されたが、納得の行かない藤田は関東軍作戦班長の草地貞吾大佐に電話をかけ、「草地君、ワシの師団は関東軍命令はきかないからなあ」と命令拒否と師団の徹底抗戦を宣言した。
内野 信二(うちの しんじ、1900年(明治33年)8月6日… 内野 信二(うちの しんじ、1900年(明治33年)8月6日 - 没年不明)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争中に第二次遣独潜水艦作戦を完遂した伊号第八潜水艦長である。最終階級は海軍大佐。 鹿児島県出身。鹿児島二中を経て海軍兵学校49期を卒業。皇族2名を除いた席次は174名中29番。同期に原為一、長澤浩、鹿岡円平などがいる。1922年(大正13年)5月海軍少尉に任官した。中尉時代に5艦の呂号潜水艦に乗艦し、大尉進級。水雷学校高等科へ進み、さらに同専攻科を卒業。伊号潜水艦水雷長、潜水学校教官を務め、1933年(昭和8年)11月、少佐へ進級。以後潜水学校甲種学生(潜水艦長養成過程)をはさみ5艦の潜水艦長を歴任。
林 太平(はやし たへい、1900年(明治33年)3月23日… 林 太平(はやし たへい、1900年(明治33年)3月23日 - 1984年(昭和59年)10月18日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 鹿児島県姶良郡、のちの国分市(現霧島市)で生まれた。広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1920年(大正9年)5月、陸軍士官学校(32期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第73連隊付となる。1929年(昭和4年)11月、陸軍大学校(41期)を卒業した。 1930年(昭和5年)8月、歩兵第24連隊付となり、陸軍戸山学校教官、豊予要塞参謀を経て、1932年(昭和7年)7月、参謀本部付勤務となる。参謀本部員、参謀本部付(在支武官室)を務め、1935年(昭和10年)8月、歩兵少佐に進級した。
神 重徳(かみ しげのり、1900年(明治33年)1月23日… 神 重徳(かみ しげのり、1900年(明治33年)1月23日 - 1945年(昭和20年)9月15日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。海軍兵学校48期生。 1900年(明治33年)1月23日、鹿児島県出水郡高尾野村(現在の出水市)の神焼酎製造(現神酒造)を営む父・神惣士の長男として生まれる。旧制鹿児島県立川内中学校から1917年海軍兵学校を受けたが不合格となり、同年10月10日、第48期補欠募集で 166名中29番の成績で入校。1919年10月8日、成績優等章授与。1920年7月16日、171名中10番の成績で海兵48期を卒業。海軍少尉候補生となり装甲巡洋艦「浅間」に乗組。 1920年8月21日、練習艦隊遠洋航海( 基隆〜馬公〜香港〜シンガポール〜コロンボ〜ダーバン〜ケープタウン〜リオデジャネイロ〜サントス〜モンテビデオ〜バイアブランカ〜バルパライソ〜イキケ〜カヤオ〜タヒナ〜トラック〜サイパン〜母島〜父島方面巡航の西廻り世界一周)に出発。
鮫島素直(さめじま すなお、1900年〈明治33年〉 - 1… 鮫島素直(さめじま すなお、1900年〈明治33年〉 - 1985年〈昭和60年〉)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。専門は通信および電波兵器で、太平洋戦争期に軍令部通信課長(兼任複数)を務めた。 1900年、鹿児島県に生まれる。川内中学 (旧制)(現・鹿児島県立川内高等学校)を経て、海軍兵学校第48期に入校し、大正9年(1920年)に卒業した。 その後、海軍大学校甲種第31期を昭和8年(1933年)に卒業。海軍通信学校教官、聯合艦隊通信参謀などを歴任し、通信分野の専門家として知られた。 昭和18年(1943年)頃から軍令部第四部第九課長、第十課長兼第十一課長を務め、大本営海軍部通信課長を兼任。
木佐木 久(きさき ひさし、1899年〈明治32年〉7月14… 木佐木 久(きさき ひさし、1899年〈明治32年〉7月14日 - 1993年〈平成5年〉12月31日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級。 鹿児島県姶良郡、のちの国分市(現霧島市)出身。1921年(大正10年)7月、陸軍士官学校第33期卒業。1932年(昭和7年)陸軍大学校第44期卒業。 台湾軍参謀を経て、1941年(昭和16年)7月、第13軍高級参謀に補され、支那事変に出動する。同年8月、陸軍大佐に進む。大東亜戦争が勃発すると1944年(昭和19年)5月、再び台湾軍参謀となり、第10方面軍参謀を経て、1945年(昭和20年)6月10日、陸軍少将に進み、同月27日、西部軍附となり終戦を迎える。
中山 源夫(なかやま もとお、1899年(明治32年)5月2… 中山 源夫(なかやま もとお、1899年(明治32年)5月26日 - 1979年(昭和54年)12月13日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 鹿児島県出身。東京で陸軍大尉・中山左源二の長男として生まれる。鹿児島第一中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1920年(大正9年)5月、陸軍士官学校(32期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第7連隊付となる。1929年(昭和4年)11月、陸軍大学校(41期)を卒業し歩兵第7連隊中隊長に就任した。 1931年(昭和6年)5月、東京警備参謀に就任し、参謀本部員を務め、1935年(昭和10年)8月、歩兵少佐に進級した。
臼井 茂樹(うすい しげき、1898年(明治31年)10月3… 臼井 茂樹(うすい しげき、1898年(明治31年)10月30日 - 1941年(昭和16年)12月23日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 鹿児島県出身。薩摩郡高江村大字久見崎(現在の薩摩川内市久見崎町)に臼井恕助の息子として生まれる。熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1919年(大正8年)5月、陸軍士官学校(31期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第46連隊付となる。1926年(大正15年)12月、陸軍大学校(38期)を卒業した。 1928年(昭和3年)3月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、ポーランド・ソビエト連邦駐在、ポーランド兼ルーマニア公使館付武官補佐官、参謀本部員、参謀本部付などを務め、1937年(昭和12年)8月、歩兵中佐に昇進。
林 勇蔵(はやし ゆうぞう、1898年(明治31年)7月25… 林 勇蔵(はやし ゆうぞう、1898年(明治31年)7月25日 - 1970年(昭和45年)12月7日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級。 鹿児島県姶良郡、のちの国分市(現霧島市)で生まれた。。1920年(大正9年)5月、陸軍士官学校第32期卒業。1929年(昭和4年)陸軍大学校第41期卒業。 1939年(昭和14年)8月、浜松陸軍飛行学校教官、1940年(昭和15年)3月、飛行第98戦隊長を経て、同年8月、陸軍航空兵大佐に進む。ついで1941年(昭和16年)8月、浜松陸軍飛行学校附白城子陸軍飛行学校教官兼浜松陸軍飛行学校教官、1944年(昭和19年)6月、三方原教導飛行団司令部附を経て、1945年(昭和20年)3月、陸軍少将に進み、同年6月、独立混成第126旅団長に補され、天草諸島で本土決戦に備える中で終戦を迎えた。
前田 精(まえだ ただし、1898年3月3日 - 1977年… 前田 精(まえだ ただし、1898年3月3日 - 1977年12月13日)は、大日本帝国海軍の軍人。最終階級は海軍少将。海兵46期。1945年8月17日のインドネシア独立の平穏無事な実現に重要な貢献をした。栄典はインドネシア共和国建国功労章。兄は大本営海軍報道部長、第10航空艦隊司令長官前田稔海軍中将(41期)。弟は資生堂のデザイナー前田貢。 鹿児島県姶良郡加治木村小山田(現姶良市加治木町)出身。鹿児島県立加治木中学校(旧制)卒業後、海軍兵学校に入学(第46期)。同期生に山階宮武彦王、猪口敏平らがいる。 1918年(大正7年)11月21日卒業。翌年8月、少尉に任官。オランダ公使館付武官、大本営海軍参謀、バタビア在勤武官を歴任し、1945年(昭和20年)に海軍少将およびジャカルタ在勤武官。
宇都宮 直賢(うつのみや なおかた、1898年(明治31年)… 宇都宮 直賢(うつのみや なおかた、1898年(明治31年)1月9日 - 1997年(平成9年)6月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 本籍鹿児島県。東京府で鉄道省技師・宇都宮新の二男として生まれる。加治木中学校(現鹿児島県立加治木高等学校)を経て、1920年(大正9年)5月、陸軍士官学校(32期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し近衛歩兵第4連隊付となる。1925年(大正14年)4月から1926年(大正15年)3月まで東京外国語学校英語科で委託学生として学んだ。 1930年(昭和5年)11月、陸軍大学校(42期)を卒業した。 1930年12月、近衛歩兵第4連隊中隊長に就任。1931年(昭和6年)9月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員(米班)、参謀本部付(支那研究員、上海・香港駐在)、参謀本部付(上海武官補佐官)、陸軍省兵務局付(防諜班長)を務め、1938年(昭和13年)3月、歩兵中佐に昇進。
加世田 哲彦(かせだ てつひこ、1897年〈明治30年〉11… 加世田 哲彦(かせだ てつひこ、1897年〈明治30年〉11月11日 - 1971年〈昭和46年〉7月25日)は、日本の海軍軍人。成績優秀な将校であったが、神政龍神会の結成にかかわり、不敬罪に問われ失官となる。最終階級は海軍中佐。 鹿児島県出身。鹿児島二中より海軍兵学校47期に首席入校。在学中も学術優等章を2度授与され、次席及び恩賜で卒業した。同期生に光延東洋、横山一郎、城英一郎などがいる。 1920年(大正9年)、少尉任官。尉官時代は霞ヶ浦海軍航空隊附としてセンピル教育団に関わり、第一遣外艦隊参謀、練習艦隊副官、戦艦「長門」分隊長、財部彪副官などを歴任。1930年(昭和5年)12月1日、海軍少佐へ進級し海軍大学校甲種30期へ進む。
川上 清志(かわかみ きよし、1897年(明治30年)4月2… 川上 清志(かわかみ きよし、1897年(明治30年)4月21日 - 1944年(昭和19年)12月8日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 鹿児島県日置郡田布施村(金峰町を経て現南さつま市)で生まれた。川辺中学校(現鹿児島県立川辺高等学校)、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1918年(大正7年)7月、陸軍士官学校(30期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第44連隊付となる。1928年(昭和3年)12月、陸軍大学校(40期)を優等で卒業した。 1929年(昭和4年)12月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員(作戦班)、ドイツ駐在、ルーマニア駐在、歩兵第23連隊大隊長、参謀本部員(戦史課)などを務め、1937年(昭和12年)8月、兵科を航空兵に転科し航空兵中佐に進んだ。
湊 慶譲(みなと けいじょう、1896年(明治29年)8月3… 湊 慶譲(みなと けいじょう、1896年(明治29年)8月30日 - 1982年(昭和57年)10月19日)は、大日本帝国海軍の軍人。最終階級は海軍少将。 鹿児島県立加治木中学校を卒業 し、海軍兵学校第44期へ入校した。席次は入校時100名中8番、卒業時95名中4番。新設された海軍省兵備局の第二課長として出師準備にあたり、軍需工業動員および生産力拡充の統制、物資の需給調整などを担った。
有馬 正文(ありま まさふみ、1895年〈明治28年〉9月2… 有馬 正文(ありま まさふみ、1895年〈明治28年〉9月25日 - 1944年〈昭和19年〉10月15日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 1895年9月25日、鹿児島県日置郡中伊集院村(現日置市伊集院地域)に生まれる。1902年4月1日、鹿児島県立師範学校附属尋常小学校入学。1906年(明治39年)4月1日、伊集院村立伊集院尋常高等小学校入学。1908年(明治41年)4月1日、鹿児島県立第一鹿児島中学校入学。1912年(大正元年)8月31日、鹿児島県立第一鹿児島中学校の5年次に中途退学。9月9日、海軍兵学校第43期入校。入校時成績順位は100名中第51位。同期生の高木惣吉を終始兄のように慕い、有馬の長女百合子の結婚(相手は後に第9代海上幕僚長となる石田捨雄)では、高木夫妻を半ば強引に口説き落とし仲人を依頼した。
川越 守二(かわごえ もりじ、1895年(明治28年)1月2… 川越 守二(かわごえ もりじ、1895年(明治28年)1月25日 - 1976年(昭和51年)12月20日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 鹿児島県出身。農業・川越半之丞の五男として生まれた。鹿児島第一中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)を経て、1916年(大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第1連隊付となる。1919年(大正8年)11月、陸軍砲工学校高等科(25期)を卒業。1924年(大正13年)11月、陸軍大学校(36期)を卒業した。 1925年(大正14年)8月、野砲兵第1連隊中隊長に就任。1926年(大正15年)3月、参謀本部付勤務となり、関東軍幕僚付、第6師団参謀を務め、1931年(昭和6年)8月、砲兵少佐に進級し野砲兵第6連隊大隊長に就任。
牧野 四郎(まきの しろう、1893年4月18日 - 194… 牧野 四郎(まきの しろう、1893年4月18日 - 1945年8月10日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
千田貞季(せんだ さだすえ 1892年12月16日 - 19… 千田貞季(せんだ さだすえ 1892年12月16日 - 1945年3月8日)は、大日本帝国陸軍の軍人。栄典は従四位勲二等功四級。士候26期。栗林忠道大将とは同期。
石田 栄熊(いしだ えいぐま、1892年(明治25年)3月3… 石田 栄熊(いしだ えいぐま、1892年(明治25年)3月30日 - 1969年(昭和44年)8月21日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級 鹿児島県、現在の鹿児島市出身。陸軍士官学校第27期、陸軍大学校第39期卒業。1938年(昭和13年)に陸軍歩兵大佐進級と同時に留守第7師団参謀長に任官された。1939年(昭和14年)に陸軍兵器廠附となり、1941年(昭和16年)に陸軍少将に進級。 1942年(昭和17年)に第3野戦鉄道司令官となり、太平洋戦争に出動。1943年(昭和18年)2月3日に第4特設鉄道司令官、8月6日に第2鉄道監を兼任し、1944年(昭和19年)に南方軍野戦鉄道司令官に転じる。
岩切 秀(いわきり ひで、1892年(明治25年)2月4日 … 岩切 秀(いわきり ひで、1892年(明治25年)2月4日 - 1971年(昭和46年)2月7日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功三級。旧姓は前原。 鹿児島県薩摩郡永利村(川内市を経て現薩摩川内市)出身。陸軍士官学校第26期卒業。1938年(昭和13年)に陸軍歩兵大佐に進級し、1939年(昭和14年)に歩兵第80連隊長に就任。1939年(昭和15年)に第7師団参謀長、1941年(昭和16年)陸軍歩兵学校教導連隊長を歴任し、1942年(昭和17年)に陸軍少将に進級し、仙台陸軍教導学校長に着任。 1943年(昭和18年)に歩兵第69旅団長に転じ、中国戦線に出動。揚州の警備に当たり、1944年(昭和19年)には支那派遣軍歩兵教育隊長に転じた。
田上 八郎(たのうえ はちろう、1891年(明治24年)2月… 田上 八郎(たのうえ はちろう、1891年(明治24年)2月17日 - 1948年(昭和23年)10月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 鹿児島県(現在の薩摩川内市上川内町)出身。士族・農業、田上亭二の二男として生まれる。川内中学校(現鹿児島県立川内高等学校)を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第13連隊付となる。1926年(大正15年)12月、陸軍大学校(38期)を卒業。 1927年(昭和2年)3月、歩兵第45連隊中隊長となり、陸士教官、歩兵第17連隊大隊長、陸軍歩兵学校教官、第16師団参謀、第1師団参謀、歩兵学校教官などを務め、1937年(昭和12年)8月、陸軍大佐に進級し歩兵第34連隊長に発令され日中戦争(上海派遣軍/松井石根大将)に出征し上海戦、南京戦などに参戦した。
中薗 盛孝(なかその もりたか、1890年〈明治23年〉11… 中薗 盛孝(なかその もりたか、1890年〈明治23年〉11月22日 - 1943年〈昭和18年〉9月9日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 鹿児島県川辺郡、のちの川辺町(現南九州市)で、役場書記・中薗平左衛門の三男として生まれる。川辺中学を経て、1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第6連隊付となる。1915年(大正4年)12月、陸軍砲工学校高等科を卒業。大阪砲兵工廠員、陸士生徒隊付などを経て、1922年(大正11年)11月、陸軍大学校(34期)を卒業した。翌月、野砲兵第6連隊中隊長に就任。 1923年(大正12年)12月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、第15師団参謀、第3師団参謀、陸軍野戦砲兵学校教官を歴任し、1927年(昭和2年)7月、砲兵少佐に昇進。
大迫 通貞(おおさこ みちさだ、1890年(明治23年)11… 大迫 通貞(おおさこ みちさだ、1890年(明治23年)11月1日 - 1974年(昭和49年)3月13日)は、鹿児島県出身の日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 鹿児島県日置郡、のちの東市来町(現日置市)で、農業・村長、大迫半七の子息として生まれる。川内中学校(現鹿児島県立川内高等学校)、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1911年(明治44年)5月、陸軍士官学校(23期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第45連隊付となる。1923年(大正12年)11月、陸軍大学校(35期)を卒業し歩兵第45連隊中隊長に就任。 1925年(大正14年)3月、陸士教官となり、参謀本部員、参謀本部付(支那研究員、吉林駐在)を務め、1927年(昭和2年)7月、歩兵少佐に昇進。
千田 貞敏(せんだ さだとし、1890年7月22日 - 19… 千田 貞敏(せんだ さだとし、1890年7月22日 - 1944年12月25日戦死認定)は、日本海軍の軍人。ビアク島の戦いにて戦死。戦死後、一階級進級し海軍中将。正四位勲二等旭日重光章。
楠本 実隆(實隆、くすもと さねたか、1890年(明治23年… 楠本 実隆(實隆、くすもと さねたか、1890年(明治23年)7月17日 - 1979年(昭和54年)10月11日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 鹿児島県、のちの川内市(現薩摩川内市)で、楠本右之助の長男として生まれる。1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第33連隊付となる。1921年(大正10年)11月、陸軍大学校(33期)を卒業。 1922年(大正11年)12月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、参謀本部付(支那研究員)、参謀本部員を務め、1928年(昭和3年)3月、歩兵少佐に昇進し近衛歩兵第3連隊付となる。1929年(昭和4年)3月、近衛歩兵第3連隊大隊長に就任し、中国出張(支那政府応聘、北京陸軍大学教官)、歩兵第42連隊付、参謀本部付を務め、1932年(昭和7年)8月、歩兵中佐に進み参謀本部付(上海駐在)となる。
八代 祐吉(やつしろ / やしろ すけよし、1890年〈明治… 八代 祐吉(やつしろ / やしろ すけよし、1890年〈明治23年〉2月1日 - 1942年〈昭和17年〉2月1日)は、日本の海軍軍人、最終階級は海軍中将。従四位、勲三等。 1890年(明治23年)、鹿児島県姶良郡加治木町(現在の姶良市)に生まれる。海兵40期。龍田、球磨、熊野、那智の各艦長を務めた後、1940年(昭和15年)11月、海軍少将に進級し、軍令部出仕となる。翌1941年(昭和16年)1月、第六根拠地隊(クェゼリン)司令官に着任。同地で太平洋戦争を迎えることになる。1942年(昭和17年)2月1日、マーシャル・ギルバート諸島機動空襲による米機動部隊の攻撃を受け、戦死。太平洋戦争での最初の海軍の将官の戦死者となった。
河原 利明(かわはら としあき、1889年(明治22年)10… 河原 利明(かわはら としあき、1889年(明治22年)10月28日 - 1942年(昭和17年)10月19日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功二級 鹿児島県、現在の鹿児島市で生まれた。陸軍士官学校第24期、陸軍大学校第34期卒業卒業。1935年(昭和10年)12月に飛行第9連隊長に就任し、1936年(昭和11年)8月に陸軍航空兵大佐に進級した。1937年(昭和12年)に陸軍士官学校分校幹事に転じ、1938年(昭和13年)に陸軍航空士官学校幹事に就任。 1939年(昭和14年)3月9日に陸軍少将に進級し、8月1日に東京陸軍航空学校長に着任。1940年(昭和15年)12月に第4飛行団長に転じ、1942年(昭和17年)8月15日に南方航空輸送司令官(南方軍)に就任。
平岡 力(ひらおか りき、1889年(明治22年)9月29日… 平岡 力(ひらおか りき、1889年(明治22年)9月29日 - 1980年(昭和55年)8月2日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級。 鹿児島県日置郡吉利村(日吉町を経て現日置市日吉町吉利)で生まれた。陸軍士官学校第24期卒業。1938年(昭和13年)7月15日に陸軍歩兵大佐進級と同時に鹿児島連隊区司令官に着任。1940年(昭和15年)8月に歩兵第45連隊長(第11軍・第6師団・歩兵第36旅団のち第6歩兵団)に転じ、日中戦争に出動。岳州から第一次長沙作戦、第二次長沙作戦などに参加した。 1942年(昭和17年)11月に横浜連隊区司令官に就任し、1943年(昭和18年)3月に陸軍少将に進級した。
佐野 虎太(さの とらた、1889年(明治22年)8月8日 … 佐野 虎太(さの とらた、1889年(明治22年)8月8日 - 1961年(昭和36年)2月6日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功三級 鹿児島県桑原郡横川村(横川町を経て現霧島市)で生まれた。陸軍士官学校第23期卒業。青島の戦いに従軍し戦傷を受けた。1937年(昭和12年)7月20日に歩兵第80連隊補充隊長に就任し、11月1日に陸軍歩兵大佐に進級。1938年(昭和13年)5月に歩兵第23連隊長(第11軍・第6師団・歩兵第36旅団)に転じ、日中戦争に出動。武漢作戦では漢口に一番乗りの戦果を挙げ、岳州を根拠地として贛湘作戦などにも参加した。1940年(昭和15年)8月1日に熊本陸軍教導学校長に転じた。