新城 和一(しんじょう わいち、1891年(明治24年)5月… 新城 和一(しんじょう わいち、1891年(明治24年)5月15日 - 1952年(昭和27年)4月7日)は、日本の文学者。未来社に参加した詩人で、『白樺』同人でもあった。ドストエフスキー、バルザック、ロマン・ロランなどロシア文学、フランス文学の諸作品を翻訳した翻訳家でもあり、『真理の光』を著すなど評論家としても活動した。法政大学教授。真城倭一はペンネーム。 福島県出身で、会津中学、一高 第一部丁類を経て1915年(大正4年)に東京帝国大学仏文科を卒業。豊島与志雄は、高校、大学とも専攻を同じくした同級生であった。一高時代から創作活動を始め、三木露風の未来社に詩「狂気」などを発表。露風系詩人として知られるようになる。
飯野 哲二(いいの てつじ、1891年3月9日 - 1971… 飯野 哲二(いいの てつじ、1891年3月9日 - 1971年1月3日)は、昭和期の日本の国文学者。松尾芭蕉の研究で知られる。 栃木県芳賀郡二宮町(現・真岡市)出身。第二高等学校を経て、1921年に東京帝国大学文学部国文学科を卒業。 卒業後は鉄道省勤務、東京府立第一商業学校(現・東京都立第一商業高等学校)教諭といった職に就く。1925年に東京帝大大学院に入ったが、修了を待たずに1926年より再度教職に戻り、熊本県女子師範学校と、熊本県立第二高等女学校(熊本県立第一高等学校の前身の一つ)を兼任した。 1928年、宮城県女子専門学校(戦後、新制東北大学に統合)教授に就任する。松尾芭蕉の研究は、この時期に『奥の細道』の講義を仙台放送局の依頼でおこなったことに始まった。
竹田 復(たけだ さかえ、1891年(明治24年)1月10日… 竹田 復(たけだ さかえ、1891年(明治24年)1月10日 - 1986年(昭和61年)11月7日)は、日本の中国文学者・中国語学者。東京教育大学名誉教授。 山梨県生まれ。父は漢学者・竹田左膳。病弱なため和歌山県で小学校を終え、静岡中学校、1914年第一高等学校卒、1918年東京帝国大学文学部支那文学科卒、大学院入学、1921年から1924年北京に学ぶ。 1925年より第一高等学校教授、東京帝国大学文学部助教授を兼任。1945年に「支那口語文学源流考」で東京帝国大学文学博士を取得。1945年1月、東京文理科大学教授。1948年東京教育大学(現筑波大学)教授、1952年定年退官、東洋大学教授、1958年日本大学教授、1964年大東文化大学教授、1967年名誉教授。
豊島与志雄(とよしま よしお、1890年(明治23年)11月… 豊島与志雄(とよしま よしお、1890年(明治23年)11月27日 - 1955年(昭和30年)6月18日)は、日本の小説家、翻訳家、仏文学者、児童文学者。法政大学名誉教授。明治大学文学部教授もつとめた。日本芸術院会員。
関 泰祐(せき たいすけ、1890年10月25日 - 198… 関 泰祐(せき たいすけ、1890年10月25日 - 1988年2月10日)は、日本のドイツ文学者、翻訳家。 1890年、京都府で生まれた。東京帝国大学独文科で学び、卒業。 卒業後は教員となり、新潟高等学校教授、静岡高等学校教授、第一高等学校教授を務めた。水戸高等学校校長。 戦後は一橋大学教授に就いた。その後、学習院大学教授、国士舘大学教授を務めた。 トーマス・マン、ゲーテ、テオドール・シュトルムなどを訳した。
土屋 文明(つちや ぶんめい、1890年〈明治23年〉9月1… 土屋 文明(つちや ぶんめい、1890年〈明治23年〉9月18日〈戸籍上は1月21日〉 - 1990年〈平成2年〉12月8日)は、日本の歌人・国文学者。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 東大哲学科卒。伊藤左千夫に師事し、斎藤茂吉とともに歌誌「アララギ」の編集に参加。社会化された民衆の生活の内面を表そうとする歌風で、歌集に『往還集』(1930年)、『山谷集』(1935年)など。著述に『万葉集私注』(1949~56年)などがある。 群馬県群馬郡上郊村(現・高崎市)の貧しい農家に生まれる。祖父の藤十郎は賭博で身を持ち崩し強盗団に身を投じて北海道の集治監で獄死したと伝えられており、家族は村人たちから冷たい目で見られ幼い文明にとって故郷の村は耐えがたい環境であった。
山本 直文(やまもと なおよし、1890年8月4日 - 19… 山本 直文(やまもと なおよし、1890年8月4日 - 1982年9月27日)は、フランス文学者・翻訳者。東京都出身。フランス料理書に関する著書が多くエスコフィエ協会日本支部の発足にも尽力、日本の料理人のフランス研修も援助して日本のフランス料理界の恩人と言われている。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
佐々木 順三(ささき じゅんぞう、1890年3月2日 - 1… 佐々木 順三(ささき じゅんぞう、1890年3月2日 - 1976年5月2日)は、日本の教育者、神学者、英文学者。 1890年(明治23年)に東京で三男として生まれる。兄の佐々木邦(慶應義塾大学,明治学院大学教授)は後に作家として業績を残している。東京帝国大学を卒業後、教師となり第六高等学校、第一高等学校などの教授を経て、1943年9月30日に都立高等学校校長となる。同高校校長を1946年6月29日まで務めた後に、立教大学総長に就任した。戦後の再建期において同大学の「建学の精神」を示し、キリスト教一貫教育を進めるべく新制高等学校、中学校、小学校を開設した。1954年にはキリスト教学校教育同盟理事長を務める。
下山 懋(しもやま つとむ、1890年2月23日 - 198… 下山 懋(しもやま つとむ、1890年2月23日 - 1987年1月19日)は、日本の教育者、国語教育学者、国文学者、郷土史家、作詞家。 埼玉県入間郡芳野村谷中(現在の川越市)生まれ。父は飯能戦争で新政府軍として参加した川越藩士の下山忠行。 1910年、埼玉県師範学校を卒業。1914年、埼玉県女子師範学校附属小学校で訓導となり、埼玉県立浦和高等女学校で教鞭を執り、東京帝国大学選科に進んだ。その後、埼玉県立越ヶ谷高等女学校、埼玉県大宮高等女学校、浦和市立高等学校、埼玉県立浦和高等学校、別所幼稚園、武南幼稚園・武南中学校・武南高等学校などの学校で校長・園長を歴任した。元埼玉県教育委員会教育委員。元川口市教育長。
尾山 篤二郎(おやま とくじろう、1889年12月15日 -… 尾山 篤二郎(おやま とくじろう、1889年12月15日 - 1963年6月23日)は、大正期から昭和期にかけての日本の国文学者・歌人。学位は、文学博士(東京大学)。 石川県金沢市出身。金沢市立商業学校(現:石川県立金沢商業高等学校)に入学するが、1903年に結核に感染し、右足の切断を余儀なくされる。金沢商業学校は中退した。窪田空穂を慕い、のちには空穂の主宰する『國民文學』の同人にもなっている。 1909年上京、前田夕暮、若山牧水らを知る。1911年に夕暮が創刊した『詩歌』に参加し、1912年には自らが金沢において『樹蔭』を創刊、さらに1917年には牧水が主宰雑誌『創作』を復刊した際に加わっている。
新関 良三(にいぜき りょうぞう、1889年8月4日 - 1… 新関 良三(にいぜき りょうぞう、1889年8月4日 - 1979年4月27日)は、ドイツ文学者、演劇研究者。1943年恩賜賞受賞。1963年日本学士院会員。1967年文化功労者。文学博士。学習院教授、埼玉大学学長。河北町名誉町民。息子の新関欽哉は外交官、オーストリア、ソ連大使などを務めた。 山形県西村山郡谷地村横町(現・河北町谷地)生まれ。旧姓・平泉。谷地尋常高等小学校から西村山郡立西村山中学校(現・山形県立寒河江高等学校)に入学後、山形中学校(現・山形県立山形東高等学校)に転じる。東京高等商業学校(現・一橋大学)に進む。1912年、山形市の伯母新関せいの養子となる。第一高等学校文科を経て、1915年東京帝国大学文科大学独文科卒。
西尾 実(にしお みのる、1889年5月14日 - 1979… 西尾 実(にしお みのる、1889年5月14日 - 1979年4月16日)は、日本の国文学者・国語教育学者・国語学者。 1889年、長野県下伊那郡豊村和合(現・阿南町)に生まれた。1910年に長野師範学校(現・信州大学教育学部)を卒業後、長野県内の尋常高等小学校で教師を務めた。その後東京帝国大学国文科選科を修了。 修了後は、東京女子大学教授、法政大学教授を務めた。戦後は文部官僚の釘本久春と協力して国語改革の主導者となり、1949年に国立国語研究所の初代所長に就任した。1960年、学位論文『日本文芸史における中世的なものとその展開』を法政大学に提出して文学博士号を取得。 専門は日本の中世文学で、世阿弥の能楽のほか、『徒然草』や『正法眼蔵』などに多くの業績を残した。
千田 憲(せんだ けん、1889年2月15日 - 1974年… 千田 憲(せんだ けん、1889年2月15日 - 1974年12月23日)は、日本の国文学者(上代文学)。元京都女子大学教授。 芳賀矢一の学統をつぎ、とくに万葉集の校訂などに成果をあげた。歌人として短歌・俳句も嗜んだ。 1889年、徳島県に生まれる。第五高等学校を経て、1912年に東京帝国大学文科大学国文学科を卒業、大学院に進学し、芳賀矢一の指導のもと万葉集を研究、本文校訂事業に没頭する。1914年、大学院修了。同年に芳賀矢一の推薦で東京府立第三中学校教諭、1917年には芳賀および上田万年の推挙で神宮皇學館教授に就任。1942年、勲三等・瑞宝章。 戦後は本務校が廃校となり、1942年から講師をしていた京都女子専門学校(のち新制の京都女子大学に移行)において五高時代の同級である松信定雄校長の勧めにより専任の教授となる。
井手 義行(いで よしゆき、1889年2月9日 - 1972… 井手 義行(いで よしゆき、1889年2月9日 - 1972年7月20日)は、大正から昭和期の英米文学者。東京外事専門学校第10代校長、東京外国語大学学長事務取扱、立教大学文学部教授。井出義行の誤字もみられる。 熊本県阿蘇郡宮地町出身。井手義久の長男として生まれる。 1913年(大正2年)、東京帝国大学文科大学英文科(英吉利文学科)卒業後、同年東京外国語学校の講師に就任し、1917年(大正6年)、同校の教授となる。大正から昭和初期に、立教大学文学部教授を兼務し、英文学、英文学史、英訳を教えた。 1921年(大正10年)に、他大学に先駆けて立教大学にバスケットボール部が創部されると、初代部長に就任。
長沢 英一郎(ながさわ えいいちろう、正字体:長澤 英一郎、… 長沢 英一郎(ながさわ えいいちろう、正字体:長澤 英一郎、1889年1月30日 - 1965年11月5日)は、大正から昭和の日本の英語学者、英米文学者、教育者、翻訳家。学習院教授、東京学芸大学教授、実践女子大学英文科長、立教大学文学部教授、川村短期大学教授。 1889年(明治22年)生まれ。群馬県出身。 1913年(大正2年)、立教大学文科(現・文学部)を卒業したのち、1916年(大正5年)に東京帝国大学英文学科を卒業した。東京帝国大学の同級には芥川龍之介、久米正雄らがいた。 大学を卒業後、東北学院に務めると、1919年(大正8年)に学習院に転じて、1922年(大正11年)に教授となる。1949年(昭和24年)に学習院を退職。
平林 治徳(ひらばやし はるのり、1889年1月21日 - … 平林 治徳(ひらばやし はるのり、1889年1月21日 - 1959年12月2日)は、国文学者。 愛知県出身。旧姓・佐藤。東京帝国大学国文科卒。第八高等学校教授、女子学習院教授、学習院教授、1924年大阪府女子専門学校教授、28年校長。戦後1949年学制改革で大阪女子大学学長。校長時代、生徒が谷崎潤一郎の手伝いをした関係もあり谷崎と親しかった。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
石山 徹郎(いしやま てつろう、1888年8月18日 - 1… 石山 徹郎(いしやま てつろう、1888年8月18日 - 1945年7月30日)は、国文学者。 秋田県雄勝郡生まれ。1914年東京帝国大学国文科卒。卒業論文で初めて現代文学を扱ったとされる夏目漱石論を書く。同年広島で中学校教師、1915年退職して万朝報記者となる。1918年「新しき村」会員。1920年北海道帝国大学予科講師、のち教授。1923年松江高等学校教授。1924年大阪府女子専門学校教授。1943年11月退職。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
辰野 隆(たつの ゆたか、1888年3月1日 - 1964年… 辰野 隆(たつの ゆたか、1888年3月1日 - 1964年2月28日)は、フランス文学者、随筆家。東京帝国大学教授として多くの後進を育てた。
林原 耕三(はやしばら こうぞう、1887年12月6日 - … 林原 耕三(はやしばら こうぞう、1887年12月6日 - 1975年4月23日)は、日本の英文学者、俳人。俳号は耒井(らいせい)。 福井県出身。旧姓・岡田。1918年東京帝国大学英文科卒。在学中から夏目漱石に師事し、芥川龍之介らを漱石に紹介した。年下の芥川らが東大を卒業して数年たってなお大学にいたというので「万年大学生」と呼ばれた。臼田亜浪に俳句を師事した。1925年松山高等学校教授、ついで台北高等学校教授、台湾総督府在外研究員として欧米に滞在。のち法政大学、明治大学、専修大学、東京理科大学の教授を務めた。1975年没、墓所は東京都世田谷区の豪徳寺。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
鼓 常良(つづみ つねよし、1887年 - 1981年)は、… 鼓 常良(つづみ つねよし、1887年 - 1981年)は、日本の独文学者。 1987年、広島県で生まれた。東京帝国大学独文科で学び、1912年に卒業。 卒業後は教員となり、第八高等学校教授。戦後は大阪市立大学教授、後に大阪電気通信大学教授をつとめた。1962年、京都・桂に幼児教育研究所を設立し、その付属「月見が丘子どもの家」(横浜梶山モンテッソーリスクールの前身)で敗戦後最初のモンテッソーリ教育実践を始めた。 専門はドイツ文学で、美学、文芸学を研究。戦前はナチス文学の影響を受け、日本での宣伝に組した。晩年はモンテッソーリの教育学の翻訳をてがけ、自らも生活教育法(モンテッソーリ教育実践の秘訣)を著した。
金田 鬼一(かねだ きいち、1886年12月10日 - 19… 金田 鬼一(かねだ きいち、1886年12月10日 - 1963年11月1日)は日本のドイツ文学者、翻訳家。 日本にグリム童話を紹介し、NHKラジオドイツ語講座の講師をも担当した。旧姓は山本。 1886年、東京府に生まれる。親は帝室博物館の職員。 京華中学校から第一高等学校を経て、1909年東京帝国大学文学部独文科卒業。 その後ドイツ帝国に留学中、第一次世界大戦勃発のため留学期間を短縮して、1914年10月20日に帰国。 第四高等学校教授の後、学習院高等科教授となり、成蹊高等学校(1939年 - 1942年)などでも講師を務めた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
後藤 末雄(ごとう すえお、1886年10月25日 - 19… 後藤 末雄(ごとう すえお、1886年10月25日 - 1967年11月10日)は、作家、フランス文学者、比較文学・比較思想史研究者。 東京にて後藤五郎の六男に生まれる。「金座の後藤」と称された工芸の旧家に生まれ、幼くして母を失う。浅草橋の小学校に通い、同級生には木村荘太や桜間弓川がいた。府立三中、一高を経て、東京帝国大学英文科在学中、和辻哲郎、谷崎潤一郎、木村荘太らと第2次『新思潮』の創刊に参加し、小説家として出発する。1913年、東大仏文科を卒業し、陸軍士官学校の教師となる。華々しくデビューした谷崎に対し、他の同人が創作から脱落していく中で、森鷗外らの愛顧を得て創作を続けるが、大正5年(1916年)、「女の哀話」もの小説を「遊蕩文学」として赤木桁平に攻撃され、なおも創作を続けた。
勝田 孝興(かった たかおき、1886年9月30日 - 19… 勝田 孝興(かった たかおき、1886年9月30日 - 1976年5月23日)は、日本のアイルランド文学者・語学者。 島根県松江市出身。1911(明治44)年、東京帝国大学(現在の東京大学)英文科卒。1925年から2年間、文部省から推薦されアイルランド留学。旧制神奈川県立横須賀中学校(現・横須賀高校)、旧制千葉県立佐倉中学校(現・佐倉高校)の各教諭、旧制商船学校、旧制山形高等学校(現・山形大学)の各教授を経て同志社大学教授に転じ、同専門学校英星版部長を兼任。戦後は滋賀大学教授、大阪工業大学教授。専門はアイルランドの文芸復興関連の演劇やアングロ・アイリッシュの発音に関する研究。著書多数。1976年5月23日に脳血栓のため89歳で逝去。
土居 光知(どい こうち、1886年8月29日 - 1979… 土居 光知(どい こうち、1886年8月29日 - 1979年11月26日)は、日本の英文学者、古典学者。 1886年(明治19年)、高知県長岡郡十市村(現・南国市)生まれ。第三高等学校を経て、1910年(明治43年)東京帝国大学英文科卒業。イギリス、フランス、イタリアに留学。 立正大学教員、東京女子大学教授、東京高等師範学校教授を経て、1924年(大正13年)に東北帝国大学教授となった。1948年(昭和23年)、東北大学を退職。その後は津田塾大学教授をつとめた。日本英文学会会長。1949年(昭和24年)に日本学士院会員に選出された。 1962年(昭和37年)1月8日、皇居での講書始の儀で「英国詩人ラーフ・ホジソンの鳥の詩について」の題で進講を行った。
関口 鯉吉(せきぐち りきち、1886年1月29日 - 19… 関口 鯉吉(せきぐち りきち、1886年1月29日 - 1951年8月10日)は、日本の天文学者、気象学者、東京帝国大学名誉教授。関口隆吉の四男。新村出(言語学者)は実兄。朝永振一郎の義父。 静岡県出身。旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学理科大学星学科卒業。朝鮮総督府観測所、神戸海洋気象台、中央気象台技師などを経て、1936年東京帝大教授兼東京天文台長。1946年定年退官、1949年まで帝国女子理学専門学校(現在の東邦大学)校長。戦前の一時期、文部省専門学務局長として科学行政に携わり、科学研究費の導入に尽力した。
鈴木 敏也(すずき としや、1885年〈明治18年〉10月1… 鈴木 敏也(すずき としや、1885年〈明治18年〉10月13日 - 1945年〈昭和20年〉12月9日)は、日本の国文学者。広島文理科大学教授。族籍は愛知県士族。号は菫村。 愛知県・鈴木光雄の長男。1914年7月、東京帝国大学文科大学国文学科卒業。1926年、家督を相続する。広島高師教授をへて1929年に広島文理大教授となる。 広島高師教授を兼ねる。1945年8月6日、広島市への原子爆弾投下により被爆。学長事務取扱に任命された。1945年12月9日に死去した。 著作に『近世日本小説史』、『近代国文学素描』などがある。住所は広島市牛田本町。
成瀬 無極(なるせ むきょく、1885年4月26日 - 19… 成瀬 無極(なるせ むきょく、1885年4月26日 - 1958年1月4日)は、日本のドイツ文学者、翻訳家。京都帝国大学名誉教授。本名は清。 東京根岸生まれ。東京帝国大学独文科卒。1908年京都帝国大学講師、1919年助教授、1930年教授、1931年日本ゲーテ協会を創立。1945年4月定年退官、名誉教授。 ドイツ文学の研究、翻訳のほか、劇作、評論、随筆などで活躍した。18世紀後半にドイツで見られた革新的な文学運動「シュトルム・ウント・ドラング」を「疾風怒濤」と訳した人物とも言われる。 息子はドイツ史学者の成瀬治。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
佐藤 清(さとう きよし、1885年1月11日 - 1960… 佐藤 清(さとう きよし、1885年1月11日 - 1960年8月15日)は、日本の詩人・英文学者。 1885年、宮城県仙台市生まれた。旧姓・岡。東京帝国大学英文科を卒業。関西学院に勤務したのちに英国留学し、1923年より東京女子高等師範学校教授となった。1924年の京城帝国大学創設に伴い、その教授就任に備えるため再び英国留学を命ぜられ、その後赴任した。1945年、定年退官。 戦後、青山学院大学教授として教鞭をとった。墓所は多磨霊園(21-1-23)にある。 キーツ、ワーズワース、シェリーなど英国ロマン派の詩人を研究。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
島村 盛助(しまむら もりすけ、1884年8月9日 - 19… 島村 盛助(しまむら もりすけ、1884年8月9日 - 1952年4月22日)は、日本の英文学者、翻訳家、小説家、辞書編集者、教育者。号は苳三(とうぞう)。『岩波英和辞典』を刊行した。 1884年(明治17年)、埼玉県南埼玉郡百間中村(現:宮代町字中)村長の島村繁と、越谷の能楽師の家系の出身である津ねの夫妻の長男として生まれる。弟が2人、妹が4人いたという。 生家は江戸時代初期から百問中村の名主を務めた武士の家であった。盛助の曽祖父の貴英は1817年(天保8年)に俳諧結社多少庵の第4代庵主となり(号は鬼吉)、祖父の梅年、父の繁もその庵主を引き継いだ。父の繁は直心影流の免許皆伝を得て剣術道場を開いた剣術家でもあり、1906年(明治36年)には百間村の村長となった。
小宮 豊隆(こみや とよたか、1884年〈明治17年〉3月7… 小宮 豊隆(こみや とよたか、1884年〈明治17年〉3月7日 - 1966年〈昭和41年〉5月3日)は、日本の独文学者・文芸評論家・演劇評論家。東北大学名誉教授。日本学士院会員。 福岡県仲津郡久富村(現・京都郡みやこ町)に生まれる。少年期に父を失うが、祖母と母のもと裕福な家庭で育つ。旧制の福岡県立豊津中学校(現・福岡県立育徳館高等学校)を経て第一高等学校 (旧制)(現・東京大学教養学部)に進む。同期に安倍能成、中勘助、藤村操、尾崎放哉、岩波茂雄がいた。 1905年(明治38年)東京帝国大学文科大学独文科に入学。大学時代に夏目漱石の門下(木曜会)となり、寺田寅彦、森田草平、芥川龍之介、内田百閒、鈴木三重吉、久米正雄、松岡譲、野上豊一郎、津田青楓たちと交際。
橘 純一(たちばな じゅんいち、1884年(明治17年)2月… 橘 純一(たちばな じゅんいち、1884年(明治17年)2月25日 - 1954年(昭和29年)1月19日)は、国文学者。 東京市京橋区木挽町(現在の東京都中央区銀座)生まれ。児島喜三郎の五男。橘守部直系の家へ養子に入る。第二高等学校、1909年東京帝国大学文学部国文科卒。同助手、13年府立第五中学校教諭、21年『橘守部全集』を編集刊行。25年退職、各学校講師をしながら著述生活。36年国語解釈学会を創立、雑誌『国語解釈』を創刊。41年陸軍士官学校教官、50年跡見学園短期大学教授。没後、二松学舎大学名誉教授の称号を追贈。 1938年、小学校教科書に掲載された『源氏物語』について、不敬の書であるから削除すべしと主張した。
名原 広三郎(なはら ひろさぶろう、1884年 - 1968… 名原 広三郎(なはら ひろさぶろう、1884年 - 1968年)は、日本の英文学者。 島根県生まれ。東京帝国大学英文科卒。法政大学教授を務め、森田草平のもとで岩波文庫『ユリシーズ』の翻訳を行った。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
吹田 順助(すいた じゅんすけ、1883年12月24日 - … 吹田 順助(すいた じゅんすけ、1883年12月24日 - 1963年7月20日)は、ドイツ文学者、随筆家。
山崎 麓(やまざき ふもと、1883年12月17日 - 19… 山崎 麓(やまざき ふもと、1883年12月17日 - 1943年9月11日)は、日本の国文学者。 神奈川県横浜生まれ。本籍・兵庫県出石郡。第四高等学校卒、1909年東京帝国大学文科大学国文科卒。1910年逓信省機関逓信協会主幹嘱託(-1914年)、英字新聞『ジャパンマガジン』編集嘱託(-1918年)、1916-1919年駿台英和女学校教員嘱託、1919年山口高等学校教授、1922年國學院大學教授。1932年同辞職、死去時には日本文学報国会所属。別名・目黒麦男。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
茅野 蕭々(ちの しょうしょう、1883年3月18日 - 1… 茅野 蕭々(ちの しょうしょう、1883年3月18日 - 1946年8月29日)は、日本のドイツ文学者、詩人、翻訳家。本名は茅野 儀太郎、号は暮雨。妻は歌人の茅野雅子(旧姓:増田)。 長野県諏訪郡上諏訪村(現諏訪市)出身。諏訪郡立実科中学校、第一高等学校を経て、1908年東京帝国大学独文科卒業。同科の同級生に小宮豊隆、小牧健夫、1年上に成瀬無極、一年下に小野秀雄がいた。第三高等学校教授、慶應義塾大学教授、日本女子大学教授を歴任した。 旧制一高在学中から与謝野鉄幹が主宰する新詩社の『明星』同人として短歌、詩、評論等を寄せ、妻雅子とともに活躍した。「蕭々」は与謝野鉄幹から与えられたペンネームである。
鈴木 三重吉(すずき みえきち、1882年〈明治15年〉9月… 鈴木 三重吉(すずき みえきち、1882年〈明治15年〉9月29日 - 1936年〈昭和11年〉6月27日)は、広島県広島市出身の小説家、児童文学者。日本の児童文化運動の父とされる。 1882年(明治15年)9月29日、広島県広島市猿楽町(現、中区紙屋町、現在エディオン広島本店 本館がある地)に、父悦二、母ふさの三男として生まれる。 1889年(明治22年)本川小学校に入学。1891年(明治24年)三重吉が9歳の時に、母ふさが亡くなる。1893年(明治26年)11歳の時に、第一高等小学校に入学。1896年(明治29年)広島県広島尋常中学校(現・広島県立広島国泰寺高等学校)に入学。1897年(明治30年)、三重吉が15歳の時に書いた『亡母を慕ふ』が、「少年倶楽部」4月号に、『天長節の記』が「小国民」9年2号(どちらの雑誌も北隆館)に掲載される。
栗原 古城(くりばら こじょう、1882年〈明治15年〉9月… 栗原 古城(くりばら こじょう、1882年〈明治15年〉9月17日 - 1969年〈昭和44年〉6月17日)は、日本の英文学者・評論家・翻訳家。本名は、栗原 元吉(くりばら もときち)。 1882年、埼玉県北足立郡大宮町(のち大宮市)に生まれる。東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)で平田禿木に学び、上田敏とも知遇を得た。第一高等学校在学中の1902年、『明星』12月号にイワン・ツルゲーネフの短編訳「世のをはり」を発表し、以後、同誌に翻訳の発表を続け、当時の日本では知られていなかったオスカー・ワイルドやウィリアム・バトラー・イェイツなどを紹介した。 1903年、東京帝国大学文科大学英文学科に入学し、夏目漱石と上田敏の教えを受ける。
今園 国貞(國貞、いまその / いまぞの くにさだ、1882… 今園 国貞(國貞、いまその / いまぞの くにさだ、1882年(明治15年)7月20日 - 1950年(昭和25年)5月2日)は、日本の国文学者、政治家、華族。貴族院男爵議員。 華族・今園国映の長男として生まれる。父の死去に伴い、1893年(明治26年)5月12日、男爵を襲爵した。 学習院高等科を経て、1912年7月、東京帝国大学文科大学文学科(国文学)を卒業。1928年(昭和3年)歌会始講頌となり、以後、同読士、同奉行、御歌所参候、東京女子大学教授などを務めた。 1918年(大正7年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで4期在任した。
林 久男(はやし ひさお、1882年5月19日 - 1934… 林 久男(はやし ひさお、1882年5月19日 - 1934年12月2日)は、日本のドイツ文学者。 長野県出身。号は鴎南(おうなん)。1908年東京帝国大学文学部独文科卒。第七高等学校造士館 (旧制)、第二高等学校、第三高等学校教授を務める。ゲーテ研究のほか,演劇評論でも知られた。三高では文芸部長を務め、織田作之助,青山光二らの指導にあたった。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
吉田 白甲(よしだ はっこう、1881年〈明治14年〉11月… 吉田 白甲(よしだ はっこう、1881年〈明治14年〉11月28日 - 1961年〈昭和36年〉11月3日)は、日本のドイツ文学者。元陸軍大学校勅任教授・教頭。本名は吉田 豊吉(よしだ とよきち)。 新潟県北蒲原郡新発田町(現 新発田市)出身。1899年(明治32年)3月に新潟県尋常中学校を卒業、1902年(明治35年)7月に第一高等学校を卒業、9月に東京帝国大学文科大学独逸文学科に入学。 1903年(明治36年)7月23日の夜に東京音楽学校奏楽堂で日本人が初めて上演した歌劇、グルック作曲のオペラ『オルフォイス』の歌詞の和訳を石倉小三郎、乙骨三郎、近藤逸五郎たちと4人で担当した。 1904年(明治37年)11月に第一高等学校の1年生の時からの友人の小山内薫、川田順、武林無想庵、上村清延、太田善男、高瀬精太たちと7人で同人雑誌『七人』を創刊、夏目漱石に短編小説『琴のそら音』を寄稿してもらった。
石倉 小三郎(いしくら こさぶろう、1881年6月15日 -… 石倉 小三郎(いしくら こさぶろう、1881年6月15日 - 1965年10月30日)は、日本の音楽家、ドイツ文学者。 1881年、東京生まれ。1898年、東京府尋常中学校(現・東京都立日比谷高等学校)を卒業。東京帝国大学を卒業。東京音楽学校講師、第四高等学校(金沢)教授、第八高等学校(名古屋)教授、第七高等学校(鹿児島)教授をつとめた後、高知高等学校校長、大阪高等学校校長、大阪理工科大学予科長。1953年からは相愛女子短期大学教授を務めた。 1903年(明治36年)、東京音楽学校での日本人最初のオペラ(クリストフ・ヴィリバルト・グルック作曲「オルフェオとエウリディーチェ」)の訳詞を、乙骨三郎、近藤朔風などと共に担当し、ラファエル・フォン・ケーベルのピアノ、ノエル・ペリの指揮、実業家の渡部朔(出演者の一人、渡部康三の兄)の資金援助による上演の成功に尽力した。
橋本 精次(はしもと せいじ、1881年6月-1944年5月… 橋本 精次(はしもと せいじ、1881年6月-1944年5月7日)は、日本の漢文学者。旧制第七高等学校教授。 1981年6月、東京府生まれ。士族・橋本自聽(よりさと)の二男。父自聽は鹿児島県の谷山小学校校長に招聘された人物。中学造士館を経て、1904年7月に第七高等学校造士館第一部文科を卒業(第1回卒業生)。第七高等学校での同級生に東郷茂徳外務大臣や池田俊彦第二鹿児島中学(旧制)校長らがいる。1909年、東京帝国大学文科大学支那文学科卒業。長崎県立島原中学校 (旧制)、福岡県立東筑中学校 (旧制)、福井県立大野中学校 (旧制)各教諭を務めた後、1922年から第七高等学校造士館の漢文学教授。卒業生から初の母校教授となる。
中村 古峡(なかむら こきょう、1881年2月20日-195… 中村 古峡(なかむら こきょう、1881年2月20日-1952年9月12日)は日本の文学者、心理学者。本名は蓊(しげる)。奈良県出身 一高を経て、東京帝国大学文学部に入学。心理学を専修する一方で、夏目漱石の門下生となった。1922年、41歳にして、東京医専に入学する。卒業後は、千葉医科大学の研究所に勤務する一方、弟が精神病であったことから心理学研究に関心を持ち、1917年5月日本精神医学会を設立して会長となり、雑誌『変態心理』を創刊した。同誌は1926年10月まで刊行された。1929年には自ら診療所を開業した。この診療所が現在の中村古峡記念病院である。心理学者としても、二重人格の研究などの業績がある。
松浦 一(まつうら はじめ、1881年1月25日 - 196… 松浦 一(まつうら はじめ、1881年1月25日 - 1966年8月13日)は、日本の英文学者。中央大学名誉教授。 東京生まれ。1905年東京帝国大学英文科卒。在学中は、小泉八雲・夏目漱石に学び、卒業後、同大学の講師を経て、1944年高千穂経済専門学校(現高千穂大学)教員、1951年中央大学文学部教授、64年定年退職、大正大学教授、駒澤大学教授を務めた。講師として東大文学部で行った講義は、仏教信仰を基礎とした文学論で知られ、芥川龍之介などがこれを聴講した。養子に松浦孝作(旧姓・小面、教育社会学、東京学芸大学名誉教授、1910-2001)がいる。孝作の長女も教育学者の山崖俊子(1944- )津田塾大学名誉教授。
野村 伝四(のむら でんし、1880年(明治13年)10月2… 野村 伝四(のむら でんし、1880年(明治13年)10月20日 - 1948年(昭和23年)7月26日)は、日本の英文学者、方言学研究者、民俗学者、教育者。 1880年(明治13年)、鹿児島県肝属郡高山町(現・肝付町)で生まれた。父伝之助は漢学者で槍の名人、文武両道に秀でていたというが、伝四が五歳の時、西南戦争の被弾がもとで没した。1900年(明治33年)、鹿児島県中学造士館卒業、一級上に橋口五葉がいた。1903年(明治36年)7月に第一高等学校卒業し同年9月、東京帝国大学英文学科に入学、1906年(明治39年)7月卒業。同級に中川芳太郎、森田草平、栗原古城らがいた。3年先輩に皆川正禧と野間真綱がおり、野間の熊本五高時代の1年先輩に寺田寅彦がいた。
片山 孤村(かたやま こそん、1879年〈明治12年〉8月2… 片山 孤村(かたやま こそん、1879年〈明治12年〉8月29日 - 1933年〈昭和8年〉12月18日)は、明治から昭和前期にかけての日本のドイツ文学者・評論家。本名は正雄(まさお)。 1897年、山口県佐波郡八坂村(現:山口市)で生まれた。山口高等学校在学中に登張竹風の影響を受けてドイツ文学を志し、東京帝国大学文科大学独文科に進んだ。1902年に卒業。 卒業後は、第七高等学校造士館教授などを務めた。1905年に「神経質の文学」を発表して評論家として注目を集め、1907年にはオットー・ワイニンゲルの『男女と天才』の翻訳、1908年に『最近獨逸文学の研究』を著してドイツ文学の紹介にも努めた。1909年から1913年にかけてドイツに留学し、帰国後はドイツ語辞書の編纂に専念した。
青木 存義(あおき ながよし、1879年8月15日 - 19… 青木 存義(あおき ながよし、1879年8月15日 - 1935年4月19日)は、日本の国文学者、唱歌作詞家、小説家、教育者。童謡『どんぐりころころ』の作詞者として知られる。 宮城県宮城郡松島町幡谷新田出身。宮城県尋常中学校(現在の宮城県仙台第一高等学校)、東京帝国大学文科大学卒業(1906年)。1917年に東京音楽学校教授就任。その後は文部省図書編集部長(1924年)、旧制新潟高等学校校長(1934年)などを歴任。文部省在職中に『どんぐりころころ』などを始め、文部省唱歌を数多く作りあげた。また青木苫汀(せんてい)の名で『我や人妻』などの小説も書いている。 180cmの長身で温和な性格だったと伝わる。
坂元 雪鳥(さかもと せっちょう、1879年4月25日 - … 坂元 雪鳥(さかもと せっちょう、1879年4月25日 - 1938年2月5日)は、日本の能楽評論家、国文学者。号・天邪鬼。能楽評論で活躍した。 福岡県柳川出身。旧姓は白仁、本名は三郎。坂元家の養子となる。父は柳川藩士で、幼少から喜多流の能を学ぶ。第五高等学校で夏目漱石に師事、以後漱石の弟子格となる。1907年東京帝国大学文科大学を首席で卒業、東京朝日新聞社に入社。独協中学校教諭、1928年日本大学教授。昭和13年2月5日没。墓所は青山霊園立山墓地。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
上村清延(かみむら きよのぶ、1879年(明治12年)1月2… 上村清延(かみむら きよのぶ、1879年(明治12年)1月23日 - 1957年(昭和32年)11月1日)は、日本のドイツ文学者。現代ドイツ文学を専攻。東洋文学・思想のドイツ文学への影響を研究。 鹿児島県徳之島の亀津(現大島郡徳之島町)出身。東京帝国大学独文科卒。1943年「近代独逸文学と東洋」で九州帝国大学文学博士。第七高等学校教授、第一高等学校教授、旧制浦和高等学校教授、日本大学教授。1950年定年退任。墓所は青山霊園(1イ3-1)。 帝大時代には小山内薫、武林無想庵、吉田白甲らと同人誌『七人』を創刊し、同人の川田順によると、上村は樋口一葉に傾倒し、「にごりえ」「たけくらべ」は全部暗記していた。
橋本 青雨(はしもと せいう、1878年9月1日 - 194… 橋本 青雨(はしもと せいう、1878年9月1日 - 1944年8月24日)は、日本のドイツ文学者、翻訳家、ドイツ語学者。 宮城県出身。1902年小説と俳句を収めた『ほし草』を刊行。 1904年東京帝国大学文学部独文科卒。のち独文学を中心とする翻訳に従事。イプセン、シラー、ハウプトマンなどの翻訳を「帝国文学」「新小説」「新声」などに掲載し、明治末に最も活躍した。 のち第三高等学校教授、松本高等学校教授、海軍大学嘱託教授、中央大学講師となり研究に従事した。 孫は橋本和孝(関東学院大学名誉教授)。