首藤訓宏(しゅどう くにひろ、1927年3月20日- )は、… 首藤訓宏(しゅどう くにひろ、1927年3月20日- )は、日本の英語学者。 群馬県桐生市生まれ。本名・新八。1948年東京外国語大学卒業。51年に渡米。アズベリー大学院修士課程修了、ノースウェスタン大学院に留学後、60年に帰国。群馬大学教授、東京慈恵会医科大学教授、新潟経営大学教授。
東京外国語大学:753人
首藤訓宏(しゅどう くにひろ、1927年3月20日- )は、… 首藤訓宏(しゅどう くにひろ、1927年3月20日- )は、日本の英語学者。 群馬県桐生市生まれ。本名・新八。1948年東京外国語大学卒業。51年に渡米。アズベリー大学院修士課程修了、ノースウェスタン大学院に留学後、60年に帰国。群馬大学教授、東京慈恵会医科大学教授、新潟経営大学教授。
金光 不二夫(かねみつ ふじお、1927年3月5日 - 20… 金光 不二夫(かねみつ ふじお、1927年3月5日 - 2000年2月19日)は、日本のロシア語翻訳家。 東京出身。1953年東京外国語大学ロシア語科卒。東京経済大学講師。自然科学系の翻訳を多くした。妻もロシア語学者の金光 節(セツ)。
伊藤 敬一(いとう けいいち、1927年2月8日 - 201… 伊藤 敬一(いとう けいいち、1927年2月8日 - 2017年9月18日)は、中国文学者、東京大学名誉教授。 愛知県名古屋市生まれ。1947年東京外国語学校中国語科卒業。1950年東京大学文学部中国文学科卒業、1952年同大学院満期退学、東京都立大学 (1949-2011)(現首都大学東京)助手、1959年専任講師、1964年助教授、1970年東大教養学部助教授(中国語)、1974年教授、1987年定年退官、名誉教授、中京大学教授。1992年同教養部長、1997年定年。 若いころ中国文学仲間と同人誌『北斗』を創刊、のち日中友好協会理事長、会長を務めた。業績は多岐にわたるが、特に老舎で、日本老舎研究会会長も務めた。
木村 裕主(きむら ひろし、1926年11月19日 - 20… 木村 裕主(きむら ひろし、1926年11月19日 - 2007年8月22日)は、ノンフィクション作家。 群馬県生まれ。東京外国語大学イタリア語学科卒業。毎日新聞記者を務め、ローマ特派員、編集委員を経て、東京外国語大学講師、外務省専門調査員・在イタリア日本大使館広報文化担当官などを歴任した。ノンフィクション作家の塚本哲也は実弟で、同じく毎日新聞記者出身。1990年に、63歳で、『ムッソリーニを逮捕せよ』で第12回講談社ノンフィクション賞を受賞、先に受賞していた塚本哲也に続く兄弟受賞となった。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
牧原 純(まきはら じゅん、1926年8月15日 - 201… 牧原 純(まきはら じゅん、1926年8月15日 - 2015年3月26日)は、日本の演劇評論家、チェーホフ研究家、翻訳家。 東京生まれ。本名、島地 純(しまじ じゅん)。東京外国語大学ロシア語学科卒。文化放送でラジオ・ドラマ演出など、放送関連の仕事をし、同局の編成局長や営業局長などを務める。その後チェーホフ関係の翻訳を行う。 2015年3月26日、呼吸不全のため死去。88歳没。
泉 三太郎(いずみ さんたろう、1926年4月21日 - 2… 泉 三太郎(いずみ さんたろう、1926年4月21日 - 2003年1月10日)は、日本のロシア文学者、翻訳家、図書出版社社長。 本名・山下三郎。兄にドイツ文学者の山下肇。弟に三浦大四郎(文芸座プロモーション代表取締役)。 東京生まれ。1949年、東京外国語大学ロシア科を卒業し、泉 三太郎名義で『イルクーツク物語』の翻訳(1961年度テアトロン賞)など、当時のソビエト文学の翻訳、紹介とともに、自作の小説、評論等を発表する。さらにソビエトの演劇を紹介し、「イルクーツク物語」「私のかわいそうなマラート」などの日本での上演にも関わった。 1955年に大病を患ったのを機に、出版社経営に注力するようになり、図書出版社社長、ダヴィッド社取締役などを務めた。
水上 健也(みずかみ けんや、1926年2月28日 - 20… 水上 健也(みずかみ けんや、1926年2月28日 - 2009年6月20日)は、日本の新聞記者、実業家。
猪狩 博(いかり ひろし、1926年 - 2008年10月2… 猪狩 博(いかり ひろし、1926年 - 2008年10月21日)は、日本の翻訳家、英文学者。 東京出身。1944年、東京府立第六中学校(現都立新宿高等学校)卒業。東京外国語大学英語科卒。高輪高等学校教諭を経て千葉商科大学教授、1997年定年退任、名誉教授。 代々木ゼミナール英語科講師、旺文社大学受験ラジオ講座講師も務めた。『新クラウン和英辞典』(三省堂)の編者。 奥田俊介らとともに、アンブローズ・ビアスの翻訳などを発表(奥田とは、千葉商科大学・代々木ゼミナール両方での同僚)。J・D・サリンジャーに関する論文もある。 代ゼミ同僚の英語講師、潮田五郎、青木義巳とは、5年違いで全員東京外国語大学の先輩・後輩であったことから、「あいう」のトリオとも言われた(年齢が高い順に猪狩、潮田、青木)。
黒柳 恒男(くろやなぎ つねお、1925年6月2日 - 20… 黒柳 恒男(くろやなぎ つねお、1925年6月2日 - 2014年8月30日)は、日本のペルシャ語学者・ペルシャ文学者、翻訳家。日本国におけるペルシア語・ペルシア文学研究の礎を築き、普及に努めた。アラビア語・ペルシア語・ウルドゥー語の辞書を編纂した。 東京外事専門学校卒。東京外国語大学助教授、教授、1989年定年退官、名誉教授、大東文化大学教授。
山内 久(やまのうち ひさし、1925年〈大正14年〉4月2… 山内 久(やまのうち ひさし、1925年〈大正14年〉4月29日 - 2015年〈平成27年〉9月29日)は、東京府(現・東京都)出身の脚本家。 父は弁士の山野一郎(本名:山内幸一)、兄は俳優の山内明、弟は作曲家の山内正、妻は脚本家の野田高梧の娘で脚本家の立原りゅうである。作曲家の小杉太一郎は義弟(妹の夫)、エッセイストの山内美郷は姪(兄の子)にあたる。 脚本を担当した「幕末太陽伝」(日活、1957年)の公開時はまだ松竹に在籍していたため、「田中啓一」というペンネームを使用しており、「盗まれた欲情」「果しなき欲望」(共に日活、1958年)の際には「鈴木敏郎」というペンネームを使用している。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
木村 浩(きむら ひろし、1925年3月8日 - 1992年… 木村 浩(きむら ひろし、1925年3月8日 - 1992年10月30日)は、日本のロシア文学者。筆名は、北野純、北見一郎。 東京府(現・東京都)生まれ。1945年、東京外事専門学校(現・東京外国語大学)露語科卒業。1950年から1953年まで旺文社勤務の後、1957年から1967年にかけて法政大学、横浜市立大学(1961年度 - 1966年度)、東京大学などで講師を歴任した。一方、ロシアの小説作品を数多く訳し、特にアレクサンドル・ソルジェニーツィンの翻訳で知られ、本人と交流があり、ソルジェニーツィンの国外追放などソ連の模様もレポートした。『ロシア文学の周辺』など著書も多く、流ちょうな随筆風の語り口に特色がみられる。
高村 智(たかむら さとる、1925年 - 1998年)は、… 高村 智(たかむら さとる、1925年 - 1998年)は、日本のフランス文学者。東京都立大学教授。 1925年(大正14年)、東京生まれ。東京外国語学校(現 東京外国語大学)仏語科、早稲田大学仏文科卒業。のち東京都立大学教授に就任。 1953年(昭和28年)、宮城県気仙沼市出身の詩人、梶原しげよと結婚。 フランスの詩人、ポール・エリュアールやピエール・ルヴェルディ著書の翻訳を主に行い、またジュール・シュペルヴィエルの研究をした。 1998年(平成10年)に逝去。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
水庭 進(みずにわ すすむ、1924年3月21日-2017年… 水庭 進(みずにわ すすむ、1924年3月21日-2017年6月14日)は、戦前・戦後に活躍したアナウンサー、教育者、文筆家、俳人。 東京生まれ。東京外国語学校英語科卒。日本放送協会の国際放送の英語アナウンサーを務めた。俳人協会会員。 巣鴨学園を経て東京外国語学校(現・東京外国語大学)、英米科3年生在学時の1944年、学生アルバイトとして英語アナウンサーとなり、その後1946年に職員として入局。 戦後の国際放送再開以降も英語アナウンサーとしてニュースや朗読番組などで活躍し、1967年の吉田茂国葬の実況生中継も行った。チーフアナウンサー、アジア部長、欧米部長、国際局次長などを務め、1980年に定年退職。
高松 秀明(たかまつ ひであき、1924年3月16日 - 2… 高松 秀明(たかまつ ひであき、1924年3月16日 - 2019年4月14日)は、歌人。 北海道出身。東京外国語学校卒。岡山巌に師事し、同人誌『木立』を主宰した。『歌と観照』同人の他、個人誌『獅子座』を刊行した。1996年、『宙に風花』で第23回日本歌人クラブ賞を受賞。
北村 甫(きたむら はじめ、1923年7月18日 - 200… 北村 甫(きたむら はじめ、1923年7月18日 - 2003年12月16日)は、日本のチベット学者。戦後のチベット学を牽引した。東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所長。名誉教授。東洋文庫理事長。日本チベット学会会長。麗澤大学学長。 静岡県立静岡中学校を経て、1942年9月、静岡高等学校 (旧制)文科丙類卒業。同年10月、東京帝国大学文学部言語学科に入学。しかし時局の悪化にともない1943年12月、学徒動員により名古屋・中部第13部隊に入営。1945年9月、復員。 同年10月、東京帝国大学文学部言語学科に復学。1948年3月、東京大学文学部言語学科卒業(卒業論文は「五體清文鑑における滿州字の表す西藏語の音韻について」)。
桃井 真(ももい まこと、1923年2月4日 - 2004年… 桃井 真(ももい まこと、1923年2月4日 - 2004年4月18日)は、日本の陸軍軍人、国際政治学者、軍事アナリスト。 翻訳家・編集者としても活躍した。女優の桃井かおりの父。位階は従四位。 神奈川県鎌倉市生まれ。長野県佐久市出身。陸軍委託学生として東京外国語学校英語科を卒業、陸軍中野学校へ送られ参謀本部第二部に属した後、陸軍予備士官学校を卒業し、任官と同時に参謀本部第二部第六課で放送傍聴に従事。 終戦後は、経歴を偽り進駐米軍属として一時勤務。のち、北日本貿易、エイジアン・エコノミックレビュー、ブリティッシュ・インポート、日本商工会議所アジア経済研究会などを経て、1954年に防衛庁防衛研修所(のち防衛研究所)に入所、ハーバード大学に派遣された。
寺尾 善雄(てらお よしお、1923年 - 1987年)は、… 寺尾 善雄(てらお よしお、1923年 - 1987年)は、日本の中国文学者、作家。岡山県生まれ。 東京外国語学校支那語科卒。夕刊岡山新聞社、サンケイ新聞社、秋田書店に勤務。中国古典の翻訳や一般向けの書物を多く書いた。
北村 太郎(きたむら たろう、1922年11月17日 - 1… 北村 太郎(きたむら たろう、1922年11月17日 - 1992年10月26日)は、日本の詩人、翻訳家。本名・松村文雄(まつむら ふみお)。 東京府北豊島郡谷中村(現在の日暮里付近)にて、逓信省簡易保険局の下級官吏の家庭に双生児の兄として生まれる。関東大震災のため1923年から東京府荏原郡駒沢村字弦巻(東京都世田谷区世田谷1丁目)に育つ。駒沢小学校3年修了後、1932年、父が浅草合羽橋通りで蕎麦屋「小松庵」を始めたため、一家で東京市浅草区芝崎町(東京都台東区西浅草)に転居し、4年次から金竜小学校に転校。1935年、東京府立第三商業学校入学。同校では国語教諭佐藤義美の薫陶を受ける。 1940年、同校卒業後、横浜正金銀行に入行して帳面つけを担当するも、勤務時間中に『新潮』(を読んでいたため上司に激しく叱責され、1週間で無断退職。
安田 一郎(やすだ いちろう、1922年9月27日 - 19… 安田 一郎(やすだ いちろう、1922年9月27日 - 1992年)は、日本の英語学者、英文学者、成城大学名誉教授。NHKラジオ『続・基礎英語』の講師として知られる。 東京入谷生まれ。1944年9月東京外国語学校英語部卒。1947年埼玉県経済部倍賞課嘱託、1949年埼玉地方経済調査庁経済調査官、1952年埼玉県地方行政観察局総理府事務官、埼玉大学教育学部附属中学校教官、1962年東京教育大学指導主事課程修了、1963年から64年にかけてフルブライト留学生としてミシガン大学に学び研修修了、帰国後に成城大学短期大学部講師、1965年NHK英語講座『続・基礎英語』講師(-1980年)、1967年成城短大助教授、1976年教授、1977年成城大学法学部教授(英語)、1978年大学評議員、1983年から87年図書館長、1990年成城大学定年退職、名誉教授、調布学園女子短期大学教授。
前田純敬(まえだ すみのり、1922年3月9日-2004年2… 前田純敬(まえだ すみのり、1922年3月9日-2004年2月10日)は、日本の小説家。 鹿児島県平之町生まれ。東京外国語学校(現東京外国語大学)フランス語科卒業。在学中から『四季』などに詩を発表、太平洋戦争後、島尾敏雄のすすめで富士正晴らの同人誌『VIKING』に参加。1949年「夏草」で第22回芥川龍之介賞候補、『文藝春秋』に掲載される。その後筆を折り、『Cahier』に所属。ほか翻訳もした。息子は放送作家の松本尚久(和田尚久)。
池田 勤也(いけだ きんや、1922年(大正11年)2月4日… 池田 勤也(いけだ きんや、1922年(大正11年)2月4日 - 2007年(平成19年)10月27日)は、昭和時代の政治家。福井県勝山市長。 勝山市出身。1944年(昭和19年)東京外国語大学独語部卒業。 外務省を経て、1955年(昭和30年)勝山市役所に入る。1972年(昭和47年)助役を経て、1976年(昭和51年)以来、勝山市長に3選。1988年(昭和63年)引退した。
森田 俊男(もりたとしお、1921年6月25日 - 2010… 森田 俊男(もりたとしお、1921年6月25日 - 2010年8月29日)は、日本の教育研究者。平和・国際教育研究会代表。 戦後日本における平和教育をリードした。元国民教育研究所所長。「九条科学者の会」呼びかけ人を務めていた。
酒井 傳六(さかい でんろく、1921年4月17日 - 19… 酒井 傳六(さかい でんろく、1921年4月17日 - 1991年8月17日)は、日本の翻訳家、エジプト研究家。文筆家。 新潟県佐渡島生まれ。1943年東京外国語学校仏語部卒業。1955年から1957年まで朝日新聞社特派員としてエジプトに滞在。古代エジプトの研究・訳業著述に従事。 1991年8月17日、頚椎損傷のため死去。
市橋 保雄(いちはし やすお、1920年〈大正9年〉12月3… 市橋 保雄(いちはし やすお、1920年〈大正9年〉12月3日 - 1984年〈昭和59年〉11月8日)は、日本の政治家。新潟県両津市(現・佐渡市)長(3期)。 新潟県出身。新潟県立佐渡中学校(現・新潟県立佐渡高等学校)を経て、1941年、東京外国語学校(現・東京外国語大学)卒。翌年、陸軍に入隊し、中尉で終戦を迎える。その後は県立新潟高等女学校(現・新潟県立新潟中央高等学校)教諭となり、1962年、両津市議会議員に当選し、4期務め、議長も務めた。1974年、両津市長に当選、1978年、1982年と続けて再選した。3回目の当選の翌年の1983年に市長を辞職した。 1984年(昭和59年)11月、肝硬変に肝不全を併発し死去した。
橋立 孝一郎(はしだて こういちろう、1920年(大正9年)… 橋立 孝一郎(はしだて こういちろう、1920年(大正9年)8月5日 – 1988年(昭和63年))は、日本の実業家。キデイランドの創業者。 1920年、東京府渋谷町に出生。東京外国語学校、明治大学を経て、陸軍主計将校となり、勤務地の秩父で終戦を迎える。秩父で地元の女性と結婚。1946年7月に秩父で読書クラブ橋立書店を開設、これがキデイランドの前身となる。1950年、幼少時代を過ごした原宿に、橋立書店(現・キデイランド原宿店)を構える。周辺に外国人が多かったことから、洋書や外国人向け雑貨を取扱い始め、更にはハイクオリティの日本の玩具をメインに扱うこととなった。情報の発信基地として知られるようになり、海外の王室やタレントが来日の際に訪れる定番コースにもなった。
長南 実(ちょうなん みのる、1920年 - 2007年)は… 長南 実(ちょうなん みのる、1920年 - 2007年)は、日本のスペイン文学者、翻訳家。東京外国語大学名誉教授。 東京外国語大学に入学して会田由に師事。卒業後は天理大学助教授に就いた。その後、母校である東京外国語大学教授となった。大学でスペイン語を教授するとともに、多くの翻訳を手掛けた。
店村 新次(たなむら しんじ、1919年3月3日 - 199… 店村 新次(たなむら しんじ、1919年3月3日 - 1991年8月20日)は、日本のフランス文学者、翻訳家。同志社大学名誉教授。 フランス文学のほか、音楽関係の翻訳が多い。 満洲奉天生まれ。1941年東京外国語学校フランス語科卒。大日本航空に入りシンガポールで終戦を迎え抑留ののち復員。京都府立第三中学校(のち京都府立山城高等学校)教諭) 1950年天理大学助教授) 1953年同志社大学商学部助教授、教授。1983年「ロジェ・マルタン・デュ・ガール研究」で京都大学文学博士。1985年定年退任、聖隷学園聖泉短期大学教授。1991年8月20日、大腸癌のため死去。
松村 喜雄(まつむら よしお、1918年9月16日 - 19… 松村 喜雄(まつむら よしお、1918年9月16日 - 1992年1月10日)は、日本の外交官、推理小説評論家、推理作家、翻訳家。三谷 幸夫、花屋 治の筆名もあり。東京府出身。 東京府東京市牛込区(現在の東京都新宿区)新小川町生まれ。実母は江戸川乱歩・平井蒼太兄弟の従妹。親戚として幼時から乱歩と交際して育つ。 小学校卒業後、花崎清太郎および石川一郎の両人と知り合い、彼らの影響で読書の世界に熱中。早稲田実業学校を経て東京株式取引所に勤務。このときの同僚に劇作家の小野田勇がいた。勤務の傍ら、フランス語を独習。のち編入試験を受けて東京外国語学校(現在の東京外国語大学)仏語科に入学。卒業後は外務省に勤務。
瓜谷 良平(うりたに りょうへい、1918年7月9日 - 1… 瓜谷 良平(うりたに りょうへい、1918年7月9日 - 1993年12月1日)は、日本のスペイン語学者。拓殖大学教授を歴任。 兵庫県出身。東京外国語学校スペイン語科卒。拓殖大学助教授、教授。1989年定年、名誉教授。子は瓜谷望(1952- )スペイン語学者、拓殖大学教授。
大嶋 正(おおしま ただし、1918年(大正7年)4月11日… 大嶋 正(おおしま ただし、1918年(大正7年)4月11日 - 1984年(昭和59年)3月3日)は、スペイン文学者、同志社大学商学部教授。専攻はスペイン古典文学。 福井県福井市出身。1940年、東京外国語学校スペイン語部文科を卒業する。日本郵船社員、都新聞記者などを経て、1962年に同志社大学商学部助教授となる。 1966年、給与所得者は過重な税負担を課せられているとして「サラリーマン税金訴訟」を起こした。一、二審で敗れ、1984年3月3日、最高裁上告中にS状結腸癌により死去。享年65歳。 1975年、『魔女セレスティナ』で第12回日本翻訳文化賞を受賞する。
北垣 信行(きたがき のぶゆき、1918年1月7日 - 19… 北垣 信行(きたがき のぶゆき、1918年1月7日 - 1981年10月21日)は、日本のロシア文学者。 茨城県下妻市出身。1944年東京外国語学校ロシヤ語科卒業。北海道大学助教授を経て、東京大学教養学部教授。当初大竹博吉とともにルイセンコ論争に加わったが、のちロシア文学の翻訳・研究に専念し、レールモントフ、ゴーゴリのほか、トルストイ『戦争と平和』、ドストエフスキー『罪と罰』『白痴』『カラマーゾフの兄弟』などを翻訳した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
石川 義吉(いしかわ よしきち、1918年(大正7年)- 2… 石川 義吉(いしかわ よしきち、1918年(大正7年)- 2002年(平成14年)は、日本の軍属、事業家。 太平洋戦争において東京外語大学インド語科在学中にF機関に通訳として従事、インド国民軍の編成や戦後のインド独立に影響を与えた藤原岩市を補佐した。戦後は三菱商事のインド駐在員として日印関係に尽力した。晩年は東京大学で長崎暢子教授と共にインド学の研究をしていた。 山形県鶴岡市大山町にて粂太郎、元江の子として生まれる。兄弟は12人、妹1人の大家族であった。1935年上京。この頃大川周明やA.M.サーハエの影響を受ける。東京外語大学進学時、インド人教師バルラースからヒンズー語、ウルドゥ語を学ぶ。1941年10月中旬、在学中に参謀本部からの命令により急遽タイへ送られる。
芦田 伸介(あしだ しんすけ、1917年〈大正6年〉3月14… 芦田 伸介(あしだ しんすけ、1917年〈大正6年〉3月14日 - 1999年〈平成11年〉1月9日)は、日本の俳優。本名:蘆田 義道(あしだ よしみち)。 満洲で演劇活動に加わり、敗戦の引き揚げ後に劇団民藝に入団。1950年代からは日活のアクション映画に常連出演し、舞台を中心に映画・テレビドラマと幅広く活躍した。渋い演技に定評があり、ドラマ『七人の刑事』『氷点』の演技で人気を得た。著書に自伝『ほろにがき日々』など。妻は元タカラジェンヌの香久美ひかる(本名:石川明子)。娘婿は俳優の松山英太郎、孫は女優の由夏と俳優の芦田昌太郎。 1917年(大正6年)3月14日(水曜日)、島根県松江市に生まれる。
太田 辰夫(おおた たつお、1916年〈大正5年〉6月29日… 太田 辰夫(おおた たつお、1916年〈大正5年〉6月29日 - 1999年〈平成11年〉1月31日)は、日本の中国語学者・中国文学者。 東京生まれ。東京外国語学校支那語科卒、1961年「現代中国語文法の歴史的研究」で東京教育大学より文学博士の学位を取得。神戸市外国語大学助教授、教授、1982年名誉教授、京都産業大学教授。1999年、肺炎のため死去。死没日付をもって勲六等単光旭日章を追贈された。 呉承恩を『西遊記』の作者ではないとする立場にたって、中国古典文学大系版の『西遊記』の翻訳にたずさわった。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
昆布 猛(こんぶ たけし、1916年4月30日 - 2001… 昆布 猛(こんぶ たけし、1916年4月30日 - 2001年12月16日)は、日本の経営者。三楽オーシャン(現在のメルシャン)社長、会長を務めた。福井県出身。 1938年に東京外国語大学中国語学科を卒業し、同年に味の素に入社した。1967年11月に取締役に就任し、1969年11月に常務、1973年10月に専務、1979年6月に三楽オーシャン副社長を経て、1985年3月に社長に就任した。1987年3月に会長を経て、1988年3月には相談役に就任。 2001年12月16日肺炎のために死去。85歳没。
大村 喜吉(おおむら きよし、1916年4月21日 - 20… 大村 喜吉(おおむら きよし、1916年4月21日 - 2003年2月19日)は、英語教育史の研究者、埼玉大学名誉教授。
岡本 隆三(おかもと りゅうぞう、1916年3月31日 - … 岡本 隆三(おかもと りゅうぞう、1916年3月31日 - 1994年4月14日)は、日本の作家・中国文学者。 静岡県生まれ。1937年東京外国語学校支那語科卒業。戦後横浜国立大学助教授を務めるが辞職して文筆に専念する。近現代文学が専門。中華人民共和国と文化大革命、毛沢東の支持者であった。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
小沢 政雄(おざわ まさお、1916年3月28日 - 199… 小沢 政雄(おざわ まさお、1916年3月28日 - 1996年10月4日)は、日本のロシア文学者。上智大学名誉教授。 神奈川県小田原市国府津(当時の同県足柄下郡国府津村)出身。1938年東京外国語学校ロシア語科卒業、陸軍士官学校教官、戦後拓殖大学講師、1955年『ロシア・リアリズムの系譜』で日本翻訳出版文化賞受賞、1957年上智大学外国語学部ロシア語科設置に際し教授、1986年定年退職、名誉教授。 1996年10月4日、腎不全のため死去。
五味川 純平(ごみかわ じゅんぺい、1916年(大正5年)3… 五味川 純平(ごみかわ じゅんぺい、1916年(大正5年)3月15日 - 1995年(平成7年)3月8日)は、日本の小説家。本名︰栗田 茂(くりた しげる)。 関東州・大連生まれ。東京商科大学(現一橋大学)に入学するも1年で中退し、東京外国語学校(現東京外国語大学)英文科入学。同校在学中に、治安維持法違反の疑いで検挙されるが、その後卒業し、満州鞍山の昭和製鋼所に入社する。ここで隅谷三喜男と知り合う。1943年召集を受け、満州東部国境各地を転々とした。1945年8月のソ連軍の満州侵攻時には、所属部隊はソ連軍部隊の攻撃を受けて全滅に近く、生存者は五味川以下数名で、捕虜となる。 1948年の復員後、自らの従軍体験を基にして1956年に発表した『人間の條件』が1,300万部を超える大ベストセラーとなり、一躍人気作家となる。
石原 吉郎(いしはら よしろう、1915年(大正4年)11月… 石原 吉郎(いしはら よしろう、1915年(大正4年)11月11日 - 1977年(昭和52年)11月14日)は、日本の詩人。シベリア抑留の経験を文学的テーマに昇華した、戦後詩の代表的詩人である。
大塚 和(おおつか かのう、1915年7月18日 - 199… 大塚 和(おおつか かのう、1915年7月18日 - 1990年9月26日)は、日本の映画プロデューサー、映画プロダクション社長。1955年に日活とプロデューサー契約を結び、今村昌平、浦山桐郎、藤田敏八、神代辰巳、長谷川和彦ら13名もの新人監督を世に送り出したことで知られる。 高知県長岡郡田村(現・南国市田村)に生まれる。父親は開業医で、9人姉弟の末っ子。 1937年、東京外国語学校ロシア語科(現・東京外国語大学)卒業。映画世界社に入社。1943年、同社が戦時雑誌統合令によって解散したため、都新聞社(現・東京新聞社)文化部に転職した。 1946年、再開した映画世界社に復職。『映画ファン』の編集長になる。
香坂 順一(こうさか じゅんいち、1915年6月7日 - 2… 香坂 順一(こうさか じゅんいち、1915年6月7日 - 2003年7月22日)は、日本の中国語学者、大東文化大学名誉教授。 栃木県生まれ。東京外国語学校支那語科卒業。広州市嶺南大学(現・中山大学の前身)に学ぶ。戦後、大阪市立大学教授、1973年から1975年北京大学客員教授。大東文化大学東洋文化研究所教授、同中国語学科主任、同学長、同常務理事、同顧問。NHK中国語講座の講師を務めた。一般財団法人日本中国語検定協会創設者、初代理事長。1990年勲三等旭日中綬章受勲。
都倉 栄二(榮二、とくら えいじ、1915年(大正4年)1月… 都倉 栄二(榮二、とくら えいじ、1915年(大正4年)1月27日 - 2000年(平成12年)7月4日)は、日本の外交官。イスラエル、ハンガリー、スウェーデン、アイスランドの大使を務めた。イスラエル大使時代にテルアビブ空港乱射事件に遭遇。位階は正三位。息子に作曲家の都倉俊一。孫に女優の都倉伶奈とJリーガーの都倉賢。 神奈川県出身。旧制東京府立第八中学校(現東京都立小山台高等学校)を経て、ロシア文学に惹かれて東京外国語学校(現東京外国語大学)露語科に進む。 1934年、外務省入省。外務書記生となる。 ハイデルベルク大学留学、在ドイツ日本大使館勤務を経て、1936年、在ウラジオストク日本領事館に勤務。
むの たけじ(本名:武野 武治、1915年1月2日 - 20… むの たけじ(本名:武野 武治、1915年1月2日 - 2016年8月21日)は、日本のジャーナリスト。太平洋戦争従軍記者としての経験・反省から、戦後に反戦・平和を訴え続けた。 新聞『たいまつ』を創刊。農村・農業の進路、出稼ぎ問題、農民運動の在り方、地方文化やサークル活動について追求し、「自分の言葉に自分の全体重をかける」記事を書き続けた。 秋田県仙北郡六郷町(現:美郷町)の小作農民の家に生まれる。県立横手中学校(現:秋田県立横手高等学校)で教師を務めていた石坂洋次郎 に、国語・作文・修身を教わった。1932年に東京外国語学校(現:東京外国語大学)西語部文科(文学)に入学。親の仕送りで学生生活を続けることが難しくなったので、1学年を終わったところで外務省の書記生になろうとしたが「満18歳では若すぎる」との理由で願書は却下された。
尾崎 宏次(おざき ひろつぐ、1914年11月24日 - 1… 尾崎 宏次(おざき ひろつぐ、1914年11月24日 - 1999年11月9日)は、日本の演劇評論家。
市川 久夫(いちかわ ひさお、1914年11月7日 - 20… 市川 久夫(いちかわ ひさお、1914年11月7日 - 2002年3月25日)は、日本の劇映画・テレビドラマのプロデューサー。生涯で映画約100作品、テレビドラマ約600話の制作に携わった。 東京都本所区(現:墨田区)生まれ。東京外語大学卒業。逓信省の職員を経て、1939年に新興キネマ(後に大映へ戦時統合)に入社し、宣伝部を経て同社系列の記録映画会社である東京文化映画製作所にて「病院船」の制作を担当。その後、企画担当作品「風雪の春」の撮影中に応召により、ソ満国境へ赴くが、1945年11月の帰国と共に大映に復帰、企画部長として、「赤線地帯」、「静かなる決闘」等の企画・製作にあたり、大映の黄金期を担う。
宇野 脩平(うの しゅうへい、1913年8月21日 - 19… 宇野 脩平(うの しゅうへい、1913年8月21日 - 1969年4月24日)は、日本の歴史学者。 和歌山県那賀郡粉河町生まれ。1931年、和歌山県立粉河中学校卒業。1940年、東洋大学文学部国文学科卒業。同年、財団法人龍門社渋沢栄一伝記資料編纂所に編纂員として勤務し、土屋喬雄の指導を受ける。1943年、東京外国語学校連成科蘭語科修了。その後兵役につき、シベリア抑留を経験後、1947年に復員。1948年、財団法人水産研究会研究員。1949年、日本常民文化研究所常任理事。1951年東洋大学講師、1957年東京女子大学文学部助教授、1962年同教授。
新美 南吉(にいみ なんきち、1913年〈大正2年〉7月30… 新美 南吉(にいみ なんきち、1913年〈大正2年〉7月30日 - 1943年〈昭和18年〉3月22日)は、日本の児童文学作家。本名は新美 正八(旧姓:渡邊)。愛知県半田市出身。雑誌『赤い鳥』出身の作家の一人であり、彼の代表作『ごん狐』(1932年)はこの雑誌に掲載されたのが初出。結核により29歳で亡くなったため、作品数こそ多くないがごん狐が小学校の国語教科書に継続的に採用されており、近年でもアニメーション制作が実施されたり学芸会の演目になることも多いので現在でも一定の国民からの知名度を持つ。童話の他に童謡、詩、短歌、俳句や戯曲も残した。彼の生前から発表の機会を多く提供していた友人の巽聖歌は、南吉の死後もその作品を広める努力をした。
大崎 正二(おおさき しょうじ、1913年1月18日 - 2… 大崎 正二(おおさき しょうじ、1913年1月18日 - 2003年)は、日本の著述家、翻訳家。 旧制福岡県嘉穂中学校卒。1935年に東京外国語学校仏語科卒業、大倉商事に入社。1937年から1944年までパリ支店勤務、次いでベルリン支店に移り、敗戦直前にシベリア経由で帰国。戦後、ロンドン支店長、パリ支店長を経て退職。その間、東京外国語大学講師。フランス文学の翻訳を行った。
和泉 覚(和泉 覺、いずみ さとる、1912年〈明治44年〉… 和泉 覚(和泉 覺、いずみ さとる、1912年〈明治44年〉5月18日 - 2005年〈平成17年〉5月7日)は、日本の宗教家、政治家。創価学会理事長(第4代)、参議院議員(1期)。 職業軍人として、1942年(昭和17年)暮れ、最前線のニューギニアに出兵。九死に一生を得て、1946年(昭和21年)6月復員。戦後、戸田城聖の下で、柏原ヤスらと共に、創価学会の再建に奔走。同会筆頭理事及び理事、小岩支部長、江東総支部長などを経て、日蓮正宗法華講大講頭となる。 1940年(昭和15年)、妻の和泉ミヨとともに東京・九段下の軍人会館で行われた創価教育学会第2回総会に出席、入会する。この総会では、後に和泉の前任者となる原島宏治や、学会理事長を経て東京都議会公明党の重鎮となる小泉隆ら、戦後の戸田城聖体制の下で創価学会を担う最高幹部が多数入会し、和泉もその一人となった。