馬場 秀夫(ばば ひでお、1901年(明治34年)9月9日 … 馬場 秀夫(ばば ひでお、1901年(明治34年)9月9日 - 1979年(昭和54年)6月4日)は、日本の政治家・日本社会党衆議院議員(1期)。行田市長。 埼玉県出身。旧制熊谷中学を経て、1922年東京外国語学校(現・東京外国語大学)ロシア語科卒。卒業後は東京日日新聞の記者となり、モスクワ特派員、外国通信部副部長、ロシア課長、出版局編集部長、毎日新聞社出版局長などを歴任した。1946年の第22回衆議院議員総選挙で埼玉県から日本社会党公認で立候補するが、次点となった。同年5月に鴻巣町長に就任する。翌1947年町長を辞任し、4月の第1回埼玉県知事選挙に社会党公認で立候補したが落選。同月末の第23回衆議院議員総選挙で埼玉4区から社会党公認で立候補して当選した。
小林 富佐雄(こばやし ふさお、1901年6月30日 - 1… 小林 富佐雄(こばやし ふさお、1901年6月30日 - 1957年10月1日)は、日本の実業家、東宝、東洋製罐代表取締役社長。 小林一三の長男として山梨県に生まれる。東京外国語学校(現東京外国語大学)卒業。1929年に東洋製罐入社。1936年に取締役に就任。その後常務を経て1946年に代表取締役社長に就任。1941年8月29日に東京宝塚劇場取締役、大阪電気軌道を経て、阪神急行電鉄取締役、帝国劇場代表取締役社長を経て1950年9月28日に東宝代表取締役社長に就任。それ以外に日経連常任理事を務めた。新東宝分裂後の東宝再建などに尽力した。1951年9月28日に社長の座を父・一三に譲り代表取締役に退く。
井上 勇(いのうえ いさむ、1901年4月30日 - 198… 井上 勇(いのうえ いさむ、1901年4月30日 - 1985年2月6日)は、日本の翻訳家、ジャーナリスト。 広島県生まれ。1923年(大正12年)、東京外国語学校(現在の東京外国語大学)仏語部卒業。東京帝国大学文科選科に入るが中退。1926年に東京外国語学校英語部選科を卒業、報知新聞に入社。特派員として渡米するが1927年に退社し、サンフランシスコの日本新聞の記者となる。その後パリに渡りソルボンヌ大学で学ぶ。再び米国に戻り、ロサンゼルスの日米新聞編集長を務め、加州毎日新聞の創設に参画。サンフランシスコの北米朝日新聞編集長を務めた後、1933年に帰国。外務省を経て、1936年3月に同盟通信社(以下、同盟)へ入社。
岩崎 純孝(いわさき じゅんこう、1901年4月9日 - 1… 岩崎 純孝(いわさき じゅんこう、1901年4月9日 - 1971年2月27日)は、日本の伊文学者。日本ファシズム連盟創設者。 静岡県出身。かつて平塚市長を務めた作家の戸川貞雄の弟。東京外国語学校イタリア語科卒業。本名は「よしたか」(漢字は同じ)。 イタリアのファシズムの台頭に応じてファシズム文学、イタリア文学の翻訳家として活躍。1932年に日本ファシズム連盟を結成した。戦後は児童文学の再話・翻訳などを多く手掛け、ボッカッチョ「デカメロン」、ダヌンツィオ「死の勝利」などを訳した。「沙漠の秘密」「馬と少年」などの創作童話も書いた。 没後の1988年に、絶版となって久しいボンテンペルリ『わが夢の女』が、ちくま文庫に収められ話題となった(『わが夢の女』は短編集であり、そのうちの1篇「太陽の中の女」が、『ちくま文学の森4 おかしい話』にも所収、新版・ちくま文庫、2010年)。
蒲生礼一(蒲生禮一、がもう れいいち、1901年4月7日 -… 蒲生礼一(蒲生禮一、がもう れいいち、1901年4月7日 - 1977年8月12日)は、日本のイスラム学者。東京外国語大学名誉教授。 1901年、島根県生まれ。東京外国語学校を卒業。1925年、東京外国語学校講師となった。その一方で、回教圏研究所でも研究活動を続けた。 太平洋戦争終結後の1950年、東京外国語大学教授に就任。1954年からは東京大学文学部講師を兼任した。1964年に東京外国語大学を定年退官し、名誉教授となった。
吉見 春雄(よしみ はるお、1901年(明治34年)3月21… 吉見 春雄(よしみ はるお、1901年(明治34年)3月21日 - 1983年(昭和58年)2月6日)は、日本の大正・昭和期の社会主義運動家。 宮城県刈田郡白石町(現・白石市)出身。静岡県立静岡中学校を経て、1923年(大正12年)、東京外国語学校ロシア語科を中退した。在学中、社会問題研究会を創立、学生連合会に加盟。またML会に入会する。中退後は静岡で青年運動に身を投じる。 1925年(大正14年)、無産政党組織準備静岡県協議会常任書記となる。1927年(昭和2年)、全日本無産青年同盟中央常任書記となり、また日本共産青年同盟に加入した。1928年(昭和3年)三・一五事件で検挙され懲役3年に処せられた。
神吉 晴夫(かんき はるお、1901年〈明治34年〉2月15… 神吉 晴夫(かんき はるお、1901年〈明治34年〉2月15日 - 1977年〈昭和52年〉1月24日)は、日本の編集者、出版事業家。カッパ・ブックスの創始者。光文社二代目社長。かんき出版創業者。「戦後最大の出版プロデューサー」と呼ばれる[要出典]。 兵庫県加古川市西神吉町出身。1922年、東京外国語学校仏語部貿易科卒業。1927年、東京帝国大学文学部仏文科を中退し、講談社に入社。自ら8か国語に堪能と称し、野間清治社長から破格の給与で遇された。キングレコード時代は童謡プロデューサーとして「かもめの水兵さん」「赤い帽子白い帽子」「ふたァつ、ふたァつ、何でしょね」などのヒット曲を飛ばす。 1945年10月光文社創立に参加し、編集局長となり、1965から1970年社長を務めた。
寺平 忠輔(てらだいら ただすけ、1901年(明治34年)-… 寺平 忠輔(てらだいら ただすけ、1901年(明治34年)- 1968年(昭和43年)3月10日)は、日本陸軍の軍人、最終階級は中佐。北平特務機関補佐官として盧溝橋事件発生深夜から事件不拡大に尽力した。大東亜戦争復員後は、盧溝橋事件解明に生涯を捧げた。没後の1970年7月、著書『盧溝橋事件 ー日本の悲劇ー』が発刊。事件渦中の人物が直接記した詳細な手記であると共に、戦後聴取した関係者の証言が加筆され、盧溝橋事件の日本側の第一級資料として、今日に至るまで研究が重ねられている。 1901年(明治34年)、静岡県出身。静岡県立静岡中学校を経て、1923年(大正12年)、陸軍士官学校(35期)卒業後、陸軍委託学生として1928年(昭和3年)、東京外国語学校に入学、3年間支那語を修めた。
上田 敏雄(うえだ としお、1900年7月21日 - 198… 上田 敏雄(うえだ としお、1900年7月21日 - 1982年3月30日)は、日本の詩人、文学者。Toshio Ueda としても作品を発表した。アバンギャルディストとして青年期から晩年期にいたるまでユニークな詩と詩論を展開した。とくに昭和前期の超現実主義運動の輝ける旗手として注目された。日本における最初のシュルレアリスム宣言を発表したことでも知られる。芸術の自律的なメカニズムを認める立場から、カトリシズム・仏教思想等の外部からの概念導入なしに芸術世界の成立はないという立場に変化し、独自のネオ・シュルレアリスム詩観を提唱した。 1900年(明治33年)、山口県吉敷郡大道村(現:山口県防府市大道)にて生まれる。
小田 嶽夫(おだ たけお、1900年7月5日 - 1979年… 小田 嶽夫(おだ たけお、1900年7月5日 - 1979年6月2日) は、日本の小説家。本名は、小田武夫。 新潟県高田町字(現・上越市)竪春日町出身。実家は呉服商。呉服商を営む父熊吉と母登美の間に生まれる。高田中学(現新潟県立高田高等学校)時代は短歌と野球に熱中。東京外国語学校(現東京外国語大学)支那語学科を卒業後、外務省亜細亜局入省。当時の局長は芳澤謙吉(後の外務大臣)。外務書記として中国・杭州の領事館などに勤務。 1926年に蔵原伸二郎の紹介で同人誌『葡萄園』に参加。のちに『文藝都市』にも寄稿する。 1930年7月に外務省を退職して文筆で身を立てることを決め、1931年に寺崎浩、田畑修一郎らと同人誌「雄鶏」(後に「麒麟」と改題)を創刊。
森 正蔵(もり しょうぞう/せいぞう、1900年(明治33年… 森 正蔵(もり しょうぞう/せいぞう、1900年(明治33年)7月1日 - 1953年(昭和28年)1月11日)は、新聞記者。毎日新聞東京本社社会部長・出版局長取締役・論説委員長などを歴任し、戦後書いた「旋風二十年」がベストセラーとなった。 森正蔵は、1900年(明治33年)7月1日滋賀県滋賀郡小松村(現滋賀県大津市北小松)に生まれ、1924年(大正13年)東京外国語学校(現東京外国語大学)ロシア語部を卒業し、2年後に毎日新聞社大阪本社に入社した。毎日新聞ではハルピン・奉天特派員を経てソ連特派員としてモスクワに駐在した。帰国後大阪本社外信部ロシア課長になり、当時の新聞界において有数のソ連通と言われた。
安藤 更生(あんどう こうせい、1900年(明治33年)6月… 安藤 更生(あんどう こうせい、1900年(明治33年)6月10日 - 1970年(昭和45年)10月26日)は、日本の美術史家。日本の仏寺、中国美術、鑑真、書道などを研究した。 東京出身。本名は正輝。早稲田中学を経て東京外国語学校(現東京外国語大学)を卒業。早稲田大学仏文学科へ進むも中退(1924年)。 会津八一に師事し、1923年、奈良美術研究会を創設(のち東洋美術研究会)。1929年に研究誌『東洋美術』を創刊。1938年、中華民国に渡り、新民印書館に勤務。安藤が編集した『北京案内記』は、北京に関する案内書としては、名著と言われ、評価が高い。1966年、多摩美術大学で教授を務めた。戦後は早稲田大学教授を務めた。
岡本 良知(おかもと よしとも、1900年2月20日 - 1… 岡本 良知(おかもと よしとも、1900年2月20日 - 1972年8月6日)は、日本の歴史学者。専門は、南蛮時代日欧交渉史、キリシタン史など。 富山県富山市出身。1922年東京外国語学校ポルトガル語部卒業、スペイン語部専修科修了。同年、日本産業協会ブラジル国独立100年記念万国博覧会臨時出品部書記として、リオデジャネイロに着任する。1925年日葡協会主事、1930-31年まで資料調査のためにヨーロッパに滞在し、1933年東京高等拓殖学校教授となる。1938年宮崎高等農林学校講師、1942年法政大学高等師範部講師、1943年東洋堂常務取締役、1952年立正大学専任講師、1955年別府大学教授、1957年亜細亜大学教授、1965年上智大学兼任教授をそれぞれ務めた。
アンドウ ゼンパチ(本名 安藤潔、1900年(明治33年) … アンドウ ゼンパチ(本名 安藤潔、1900年(明治33年) - 1983年(昭和58年))は、広島県出身の著述家、啓蒙活動家。ブラジル日系社会の文化的発展に貢献。
川内 唯彦(かわうち ただひこ、1899年9月1日 - 19… 川内 唯彦(かわうち ただひこ、1899年9月1日 - 1988年4月13日)は、日本の社会運動家。 福岡県出身。東京外国語学校(現東京外国語大学)卒。1922年日本共産党に参加、モスクワのコミンテルン第4回大会に出席した。プロレタリア科学研究所、唯物論研究会などに在籍し、マルクス主義文献の翻訳などを行った。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
川崎 栄治(かわさき えいじ、1899年3月27日 - 19… 川崎 栄治(かわさき えいじ、1899年3月27日 - 1985年10月9日)は、日本の外交官。1921年に外務省に入省して以降、主にラテンアメリカ諸国に置かれた在外公館に駐在し、1965年に在ボリビア日本大使(特命全権大使)に任ぜられた。外務省を退官後、1970年から1977年までラテンアメリカ協会の理事長を務めた。 1899年3月27日に生まれ、福岡県で幼少期を過ごす。1921年3月に東京外国語学校西語部拓殖学科を卒業し、同年4月に外務省に通訳生として入省する。 入省後は、在ダバオ領事館、在スペイン大使館などを経て、1928年に在リマ領事館への赴任以降は、ラテンアメリカ諸国を中心にキャリアを歩んでいく。
石川 淳(いしかわ じゅん、1899年(明治32年)3月7日… 石川 淳(いしかわ じゅん、1899年(明治32年)3月7日 - 1987年(昭和62年)12月29日)は、日本の小説家・文芸評論家・翻訳家。東京府浅草区生まれ。無頼派、独自孤高の作家とも呼ばれ、エッセイでは夷斎と号し親しまれた。本名:淳(きよし)。日本芸術院会員。 祖父から論語の素読を受け、森鷗外に熱中して文学を志す。東京外国語学校仏語科卒。『普賢』(1936年)で芥川賞受賞。『マルスの歌』(1938年)は反軍国調の廉で発禁処分を受けた。 寓意的作品が多く、戦後は『焼跡のイエス』(1946年)を書き、太宰治・坂口安吾とともに新戯作派・無頼派として人気を集めたが、次第に東洋的境地で健筆を振るった。
村上 啓夫(むらかみ ひろお、1899年 - 1969年)は… 村上 啓夫(むらかみ ひろお、1899年 - 1969年)は、日本の翻訳家。東京外国語大学英米語学科卒業。 大正期から、ノンフィクション、推理小説などを訳した。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ:作家)。
笹沢 美明(ささざわ よしあき、1898年〈明治31年〉2月… 笹沢 美明(ささざわ よしあき、1898年〈明治31年〉2月6日 - 1984年〈昭和59年〉3月29日)は、日本の詩人。 横浜市の富裕な商人の家庭に生まれ育つ。東京外国語学校(現東京外国語大学)ドイツ語科を卒業後、1週間で勤めを辞し、遊民となる。ハイネによって詩に目覚め、リルケを始めとするドイツ語圏の詩と詩論を日本に紹介。新即物主義の先駆者。親の遺産を使い果たした後は貧困の中で暮らしていたが、戦後、昭和女子大学教授や工学院大学教授を歴任した。 詩集に『蜜蜂の道』『海市帖』『美しき山賊』『おるがん調』『冬の炎』『仮設のクリスタル』など。 三男は小説家の笹沢左保。自伝小説『詩人の家』に父の姿が描かれている。
袋一平(ふくろ いっぺい、1897年10月27日 - 197… 袋一平(ふくろ いっぺい、1897年10月27日 - 1971年7月2日)は、日本の翻訳家、映画評論家。 東京生まれ。1915年(大正4年)工手学校(wikidata)(現・工学院大学)化学学科卒業(第12回特待生)。 1922年東京外国語学校ロシア語科卒。ロシア語の和訳を専門とした。またソ連映画の研究家、日本山岳会会員。 翻訳対象はフィクションとノンフィクションの両分野にまたがる。 フィクションではアントン・チェーホフやマクシム・ゴーリキーなど近代ロシア文学もあるが、むしろ現代の小説やヴィタリー・ビアンキなど児童向け作品の翻訳が主体である。またアレクサンドル・ベリャーエフ、ゲオルギー・グレーウィッチらの作品を初めて邦訳するなど、ロシア(ソ連)SFの日本紹介に関して先駆的な役割を果たした。
山家 亨(やまが とおる、1897年(明治30年)- 195… 山家 亨(やまが とおる、1897年(明治30年)- 1950年(昭和25年)1月)は、日本陸軍の軍人、大佐。宣撫工作「山家機関」の責任者。中国名、王嘉亨(ワンチアホン)。川島芳子の初恋の相手としても知られる。 1897年(明治30年)、静岡市生まれ。1916年、静岡県立静岡中学校卒業、静岡中学時代は野球部(現在の静岡高校野球部)に所属した。1921年(大正10年)、陸軍士官学校(33期)卒業後、陸軍士官学校の委託生として東京外国語学校に入学、中国語、蒙古語、ロシア語を学んだ。松本第五十連隊機関銃隊付少尉(一説に中尉)のころ、満蒙ロビーの川島浪速への接近がきっかけで川島芳子と知り合って恋仲となり、中国語の手ほどきを受けた。
竹尾 弌(たけお はじめ、1896年(明治29年)12月11… 竹尾 弌(たけお はじめ、1896年(明治29年)12月11日 - 1958年(昭和33年)2月8日)は、日本の著作家、政治家。衆議院議員。 千葉県下埴生郡八生村大竹(印旛郡八生村を経て現成田市)で生まれる。1918年、東京外国語学校露語科を卒業。朝鮮銀行浦塩支店に勤務。その後、報知新聞記者、東京毎夕新聞記者、国士舘高等拓殖学校講師、朝鮮林業協会附属北方産業研究所主事などを務め、著述家としても活動した。 1947年4月、第23回衆議院議員総選挙で千葉県第二区から立候補して当選。以後、27回総選挙まで連続5回当選した。この間、衆議院文部委員長、第3次鳩山一郎内閣の文部政務次官、自由党政調会文教部長、同文化部長、同憲法調査会副会長などを歴任した。
佐々木 孝三郎(ささき こうざぶろう、1896年6月10日 … 佐々木 孝三郎(ささき こうざぶろう、1896年6月10日 - 1969年9月29日)は、日本の経営者。 宮城県出身。1917年に東京外語学校蒙古語科を卒業。南満洲製糖、満蒙毛織を経て、奉天新聞社副社長、奉天銀行取締役、奉天商工会議所評議員を歴任。1951年に宮城第一信用組合組合長に就任し、1957年4月から1962年2月までに東北放送社長を務めた。 1969年9月29日食道がんのために死去。73歳没。
永井 順(ながい じゅん、1896年2月9日 - 1971年… 永井 順(ながい じゅん、1896年2月9日 - 1971年2月4日)は、日本のフランス文学者、翻訳家。 東京出身。書家・作詞家の永井素岳の子として生まれる。東京外国語学校卒、東京外国語大学教授。1960年に定年で退官し、名誉教授を務めた。
平出 英夫(ひらいで ひでお、1896年〈明治29年〉2月9… 平出 英夫(ひらいで ひでお、1896年〈明治29年〉2月9日 - 1948年〈昭和23年〉12月15日)は、大日本帝国海軍の軍人。最終階級は海軍少将。 平出利根次郎の長男として青森県上北郡三沢村(現在の三沢市)に生まれ、5歳の時に伯父の平出栄太郎、京の養子となる。祖父は旧斗南藩士の平出久矢。1902年(明治35年)養父の赴任先である舞鶴に移住し、のち長崎に移り佐世保大村中学校を卒業する。 1917年(大正6年)海軍兵学校第45期を卒業 、1924年(大正13年)海軍大学校選科、東京外国語大学を経て、1926年(大正15年)フランスに駐在。 1929年(昭和4年)練習艦隊副官、1936年駐伊武官を経て、在職中の1938年大佐に進級。
笠井 鎮夫(かさい しずお、1895年12月27日 - 19… 笠井 鎮夫(かさい しずお、1895年12月27日 - 1989年5月21日)は、日本の文学研究者、スペイン語学・文学者、翻訳家。東京外国語大学名誉教授。日本の怪異譚にも関心をもち、僖真 学人を名乗った。 岡山県岡山市出身。1919年東京外国語学校西語学科卒業。同年4月同校助教授。1929年同校教授。1949年東京外国語大学教授、同年7月から1951年まで同大学附属図書館長を兼任。1959年定年退官、名誉教授、南山大学教授、1972年退職。 日本とスペイン語圏文化の交流に尽力し、日本ボリビア協会理事、日本アルゼンチン協会評議員などを歴任。『西譯古今名句選』では、俳句のスペイン語訳を行った。 1965年6月、スペイン政府からイサベル・ラ・カトリカ勲章(スペイン語版、英語版)を受章。
藤生 安太郎(ふじお やすたろう、1895年(明治28年)8… 藤生 安太郎(ふじお やすたろう、1895年(明治28年)8月21日 - 1971年(昭和46年)12月7日)は、大正から昭和期の柔道家、政治家、雑誌編集者。衆議院議員。講道館柔道七段。 佐賀県東松浦郡、のちの唐津市で藤生利太郎の長男として生まれる。1898年(明治31年)家督を相続。唐津中学校を退学、門司の豊国中学校から東京外語学校に進み、1918(大正7年)東京外国語学校(現東京外国語大学)支那語科を卒業した。一年志願兵として入営し、陸軍歩兵伍長となった。 その後、新潟県立村上中学校(現新潟県立村上高等学校)、陸軍士官学校、警視庁、東京高等学校、拓殖大学の嘱託教師・柔道師範を務めた。この間、北白川宮永久王、竹田宮恒徳王、朝香宮鳩彦王、李王の柔道師範となる。
菊池 仁康(きくち にこう、1895年〈明治28年〉5月29… 菊池 仁康(きくち にこう、1895年〈明治28年〉5月29日 - 1967年〈昭和42年〉9月14日)は、大正から昭和中期の青森県の実業家でロシア文学者。実業家としては板柳銀行頭取を務め、合併後の青森銀行では取締役となったほか、菊屋百貨店社長としても活躍した。 その一方で、ドストエフスキーやプーシキンの翻訳を行うなどロシア文学者としても知られ、詩人福士幸次郎の地方主義運動に参加するなど文化人としても足跡を残した。 青森県北津軽郡板柳村(現・同郡板柳町)出身。父・菊池仁了、母・たかの長男として生まれる。(旧制)県立青森中学校卒業後、上京し、明治大学政治経済科を中退した後、ニコライ露西亜神学校、東京外国語学校(現・東京外国語大学)でロシア語を学ぶ。
茂森 唯士(しげもり ただし、1895年〈明治28年〉4月2… 茂森 唯士(しげもり ただし、1895年〈明治28年〉4月2日 - 1973年〈昭和48年〉2月5日)は、日本のジャーナリスト、評論家。 熊本県生まれ。東京外国語学校卒。 はじめ左翼だったが、戦時中転向し、戦後も反共の論陣を張った。産経新聞論説委員、世界動態研究所所長、人権擁護調査会常任理事。
橋本 修(はしもと おさむ、1895年-1990年)は、英語… 橋本 修(はしもと おさむ、1895年-1990年)は、英語・英文学者。 東京外国語学校英語科卒。拓殖大学教授、大倉高等商業学校(現東京経済大学)教授、髙島屋飯田株式会社顧問、明治大学経営学部教授、66年定年退任、名誉教授、68年「外国貿易商務論」で明大商学博士。国士舘大学教授、和光大学教授。商業英語について多くの著作があり、文学でもトマス・ハーディを研究した。
浅井 恵倫(あさい えりん、1894年12月25日 - 19… 浅井 恵倫(あさい えりん、1894年12月25日 - 1969年10月9日)は、日本の言語学者。台湾を中心としたオーストロネシア語族諸言語を研究した。日本言語学会評議員、日本民族学会評議員、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所運営委員を務めた。 1894年、石川県能美郡苗代村(現・小松市)で浄土真宗大谷派住職・浅井恵定の長男として生まれた。1912年、県立小松中学校を卒業。第四高等学校に進学し、在学中にエスペラントを独学。1915年に卒業し、東京帝国大学文科大学に進学した。言語学科専攻で学び、1918年に卒業。 卒業論文『ポリネシア諸民族とその諸言語』はエスペラントで執筆した。1919年、日本エスペラント学会の創立に関わった。
山口 常光(やまぐち つねみつ、1894年(明治27年)5月… 山口 常光(やまぐち つねみつ、1894年(明治27年)5月25日 - 1977年(昭和52年)1月30日)は、日本の陸軍軍人、指揮者、クラリネット奏者。最終階級は陸軍軍楽少佐。陸軍戸山学校軍楽隊長、初代警視庁音楽隊長。 明治27年(1894年)、長崎県壱岐郡香椎村勝本浦(現・壱岐市勝本町勝本浦)に生まれる。大正元年(1912年)陸軍戸山学校軍楽科に入学してクラリネットで軍楽隊生活に入り、大正9年(1920年)東京外国語学校(現・東京外国語大学)仏語科卒業。昭和5年(1930年)からフランスに留学し、ギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団で軍楽隊の演奏法、指揮法を身につける。その後ドイツにも留学する。
秋草 俊(あきくさ しゅん、1894年〈明治27年〉4月6日… 秋草 俊(あきくさ しゅん、1894年〈明治27年〉4月6日 - 1949年〈昭和24年〉3月22日)は、昭和期の日本の陸軍軍人。対ソ諜報を専門とする情報将校として陸軍中野学校初代校長、星機関長、関東軍情報部長を務めた。陸士26期。最終階級は陸軍少将。 1894年(明治27年)4月6日、秋草直右衛門の4男として栃木県足利市に生まれ、幼くして東京の同族・秋草晃の養子となる。1914年(大正3年)、陸軍士官学校26期卒業。陸軍依託学生として東京外国語学校に学び、後にハルピンに留学。参謀本部付、関東軍特務機関に務めるなどして、1933年(昭和8年)、ハルピン特務機関の補佐官となり、諜報活動で活躍し対ソ諜報の第一人者となる。
池内 信行(いけうち のぶゆき、1894年3月27日 - 1… 池内 信行(いけうち のぶゆき、1894年3月27日 - 1972年2月12日)は、日本の経営学者。関西学院大学名誉教授。経営学の方法論の研究で知られた。 兵庫県姫路市新在家生まれ。1914年東京外国語学校(現東京外国語大学)卒業。コロンビア大学大学院、ベルリン大学で学び、1924年関西学院高等商業学部教授、関西学院大学経営学部教授。1964年大阪経済大学教授、同経営研究所長。1950年「経営経済学の存在論的究明」で関西学院大学経済学博士。
大槻 喬(おおつき たかし、1893年4月8日 - 1969… 大槻 喬(おおつき たかし、1893年4月8日 - 1969年11月16日)は、日本の電気工学者。電気学会会長。 兵庫県生まれ。1914年、東京高等工業学校付設工業教員養成所電気科卒業。1919年、東京外国語学校専修科ドイツ語学科卒業。1921年からアメリカ・イギリス・ドイツに留学。熊本高等工業学校教授を経て、1929年、東京工業大学助教授。ドイツ留学を経て、1932年に東京大学工学博士号を修得、1934年に東工大電気工学科教授。1954年、定年退職し、名誉教授となると共に、明治大学教授、東洋電機製造取締役・技術研究所長に就任。1965年、東海大学工学部長。1969年、電気学会会長。 1969年11月16日、脳卒中のため東京都目黒区自由が丘の自宅にて死去。
岡野 馨(おかの かおる、1893年2月20日 - 1941… 岡野 馨(おかの かおる、1893年2月20日 - 1941年12月12日)は、日本のフランス文学者、翻訳家。 俳人岡野知十の子として東京に生まれる。1915年、東京外国語学校卒業。1921年、フランスに渡る。のち陸軍大学校教授。墓所は多磨霊園。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
嶋田 的浦(しまだ てきほ、1893年1月22日 - 195… 嶋田 的浦(しまだ てきほ、1893年1月22日 - 1950年4月11日)は日本の俳人。本名は襄。三重県志摩郡的矢村大字的矢(現在の志摩市磯部町的矢)出身。的浦の号は、故郷・的矢が小さな港(浦)を成していることにちなんでいる。嶋田青峰の弟であり、句作の才能は兄の青峰を上回っていたと評されている。 地元の三重県立宇治山田中学校(現在の三重県立宇治山田高等学校)を卒業し上京、東京外国語学校(現在の東京外国語大学)に進学、卒業。 俳人としての活動は、兄の青峰よりも熱心で、1915年(大正4年)の俳句雑誌『ホトトギス』3月号に4句が入選して以降、毎月2、3句が掲載され、同年の10月号と11月号に5句が載った。
松山 悦三(まつやま えつぞう、1893年 - ?)は、日本… 松山 悦三(まつやま えつぞう、1893年 - ?)は、日本の文筆家、詩人、翻訳家。筆名に松山 敏(まつやま さとし)。 宮崎県生まれ。金星堂に勤務し、1921年雑誌『人間』の編集長を務め、作家たちと交友。1930年東京外国語学校卒業。 松山敏の名で詩集や詩の翻訳本などを刊行するが、原典訳ではないものも多い。一時期、同人誌『銀皿』を刊行。 戦時中は時局的な著作を悦三の名で多く刊行、戦後も敏名義で活動するが、悦三名義で往年の作家の思い出などを綴った。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
岩崎 民平(いわさき たみへい、1892年〈明治25年〉12… 岩崎 民平(いわさき たみへい、1892年〈明治25年〉12月18日 - 1971年〈昭和46年〉6月29日)は、日本の英語学者・辞書編纂者。東京外国語大学名誉教授。 1892年、山口県都濃郡富田村(現:周南市)で生まれた。1910年、山口県立徳山中学校(現:山口県立徳山高等学校)を卒業。東京外国語学校に進学し、1913年に卒業。 卒業後は東京府立第四中学校教諭となったが、再び東京帝国大学に入学し、1922年に卒業。 1922年、東京外国語学校(のちの東京外国語大学)教授に就いた。1932年刊行の岡倉由三郎編『新英和大辞典(初版)』(研究社)の改訂にあたり、中心となって作業に当たった。続いて1941年刊行の『簡約英和辞典』(研究社)を編纂。
保篠 龍緒(ほしの たつお、1892年11月6日 - 196… 保篠 龍緒(ほしの たつお、1892年11月6日 - 1968年6月4日)は、日本の作家、翻訳家。『アサヒグラフ』編集長。竜緒という表記もある。本名は星野辰男。 モーリス・ルブランの「アルセーヌ・ルパン(リュパン)」シリーズの翻訳で知られる。 長野県下伊那郡飯田町(現飯田市)出身。旧制東京外国語学校仏語科卒業。卒業後は文部省勤務。1918年、東京市神田区の書店で、ルブラン作「怪盗紳士ルパン」フランス語原書を見かけ、ユニークな題名にひかれて購入、読んでみたら保篠自身が内容の面白さに引き込まれ翻訳をしたと伝えられる。 文部省役人としての立場上、本名で翻訳活動にあたることを憚り、本名の漢字を入れ替えて筆名とした。
北野 吉内(きたの きちない、1892年(明治25年)3月1… 北野 吉内(きたの きちない、1892年(明治25年)3月10日 - 1956年(昭和31年)3月15日)は、日本のジャーナリスト、実業家である。旧姓は佐藤。 山形県山形市七日町の生まれ。兄に尾崎紅葉門下の佐藤流葉を持つ。旧制山形中学を経て東京外国語学校(現在の東京外国語大学)に入学し、卒業後はジャパン・アドバタイザー(現在のジャパンタイムズ)に勤務する。その後は萬朝報に転勤し、1916年(大正5年)には北野量子と結婚し婿入りの形で北野姓に改姓した。同年末には東京朝日新聞に転勤し、アサヒグラフ編集部および整理部次長を歴任した。1926年(大正15年)には同社のニューヨーク特派員となり、1929年(昭和4年)の帰国まで同職にあたった。
池田 林儀(いけだ しげのり、1892年〈明治25年〉1月1… 池田 林儀(いけだ しげのり、1892年〈明治25年〉1月11日 - 1966年〈昭和41年〉7月15日)は大正・昭和時代のジャーナリスト。 秋田県由利郡仁賀保町出身。旧制本荘中、東京外国語学校(現東京外語大学)シャム語科卒。大日本雄弁会講談社社員を経て報知新聞社にうつる。大隈重信の番記者をへてベルリン特派員。『優生運動』(1926-1930)を刊行し、日本の優生学の普及を図った。ワンダーフォーゲル運動を日本に紹介し、足の会を優生運動の一環として行った。 1933年(昭和8年)京城日報に招聘され副社長に就任。昭和14年(1939年)報知新聞に復社し編集局長就任。戦後「秋田魁新報」に随筆「話の耳袋」を長期連載した。
森下 重格(もりした しげのり、1891年〈明治24年〉12… 森下 重格(もりした しげのり、1891年〈明治24年〉12月 - 1956年〈昭和31年〉12月21日)は、日本の地方公務員、内務官僚、検察官。原爆投下時の広島市助役。 徳島県出身。1917年(大正6年)に法政大学専門部政治科を卒業し、1921年(大正10年)に東京外国語学校(現在の東京外国語大学)英語専修科を卒業した。大阪府泉南郡長、大阪府事務官、長崎県事務官、沖縄県書記官・経済部長、同総務部長、山口県経済部長を歴任した。1941年(昭和16年)に退官した後、横須賀市助役に就任。1943年(昭和18年)9月から広島市助役を務めた。 1945年(昭和20年)8月6日、広島市への原子爆弾投下では千田町の下宿2階で被爆。
米川 正夫(よねかわ まさお、1891年11月25日 - 1… 米川 正夫(よねかわ まさお、1891年11月25日 - 1965年12月29日)は、日本のロシア文学者、翻訳家。 1891年、岡山県高梁町の質屋を営む家庭に四男として生まれ育つ。旧制高梁中学校(現:岡山県立高梁高校)時代にツルゲーネフ『片恋』(訳:二葉亭四迷)を愛読、ロシア語の道を志して、1909年、東京外国語学校(通称・外語/現・東京外国語大学)ロシヤ語本科に入学。翌年、級友の中村白葉などと共に雑誌『露西亜文学』を創刊し、この雑誌で翻訳を始める。1912年、東京外国語学校を首席で卒業。 卒業後、鉄道省の採用試験を受験するも失敗。しばらくフリーランスの翻訳や来日ロシア人の通訳で生計を立てた。1912年8月、三菱に入社し、長崎支店に勤務。
友田 二郎(ともだ じろう、1891年〈明治24年〉9月10… 友田 二郎(ともだ じろう、1891年〈明治24年〉9月10日 - 1969年〈昭和44年〉2月5日)は、日本の外交官。 兵庫県会議員や但馬銀行監査役を務めた友田一郎(友田酒造工場主)の弟。妻・盛子は子爵・曾我祐邦の二女。長女・二三子(1927年~2023年)は鳥取滋治郎の妻。二三子の長女・憲仁親王妃久子は孫である。 兵庫県城崎郡日高町江原(現・豊岡市)出身。俊蔵の二男。東京外語卒業。1915年、外務省に入る。終戦直後に退官した。 1939年には、フランス共和国レジオン・ドヌール勲章シュヴァリエを受章した。義父の曾我祐邦もレジオン・ドヌール勲章コマンドゥールを受賞している。 その後外務省研修所講師、宮内庁式部官を兼任した。
伊賀 良一(いが りょういち、1891年(明治24年)6月9… 伊賀 良一(いが りょういち、1891年(明治24年)6月9日 - 1967年(昭和42年)7月16日)は、日本の内務官僚。 岡山県西北条郡西苫田村大字総社(苫田郡西苫田村を経て現津山市総社)出身。1913年(大正2年)、日本大学法科を卒業し、さらに東京外国語学校英語科に学んだ。同年、高等文官試験に合格。鉄道院書記を経て、茨城県警察部長、宮城県警察部長、秋田県内務部長、埼玉県内務部長を歴任した。 退官後、1932年(昭和7年)から1934年(昭和10年)まで京都市助役を務めた。 1949年(昭和24年)歌舞伎座の建物としては、第4期(1950年12月竣工、1951年1月開場)、株式会社歌舞伎座設立時、事務長に就任。
中村 白葉(なかむら はくよう、1890年11月23日 - … 中村 白葉(なかむら はくよう、1890年11月23日 - 1974年8月12日)は、ロシア文学者。
武井 守成(たけい もりしげ、1890年(明治23年)10月… 武井 守成(たけい もりしげ、1890年(明治23年)10月11日 - 1949年(昭和24年)12月14日)は、日本の作曲家、指揮者。男爵。宮内官僚。
永田 龍雄(ながた たつお、1890年〈明治23年〉9月20… 永田 龍雄(ながた たつお、1890年〈明治23年〉9月20日 - 1965年〈昭和40年〉9月29日)は、日本の舞踊批評家、歌人。 1910年、東京外国語学校英語科を卒業する。村井吉兵衛の秘書を務めたのち1921年(大正10年)に帝国劇場文芸部に入り、関東大震災での解散までそこに勤めた。部の解散後、舞踊批評家に転身する。 時事新報の嘱託も務め、西洋舞踊や邦楽の批評を執筆し、村松道弥らと音楽新聞も創刊した。西欧舞踊の黎明期から晩年まで多くの批評を残し、印象批評と独自な見解に定評がある。 スペイン語の永田寛定、詩人の永田助太郎を親族に持つ[要出典]。
鈴木 文史朗(すずき ぶんしろう、1890年3月19日 - … 鈴木 文史朗(すずき ぶんしろう、1890年3月19日 - 1951年2月23日)は、日本のジャーナリスト、新聞記者、政治家。 千葉県海上郡豊浦(現銚子市)出身。本名は文四郎。旧制銚子中学校(現千葉県立銚子商業高等学校)、東京外国語学校英語学科卒業。三菱合資会社地所部を経て1917年東京朝日新聞に入社。シベリア出兵の従軍記者や、パリ講和会議などの特派員として活躍する。社会部長、編集局総務、論説委員、整理部長、名古屋支社長、取締役を歴任し、1942年常務取締役となるが、朝日新聞社内の人事で冷遇されたことから反緒方竹虎の急先鋒となった。 敗戦直後退社し、1946年『リーダーズ・ダイジェスト』日本語版編集長となる。