福田 裕昭(ふくだ ひろあき、1961年4月4日 - )は、… 福田 裕昭(ふくだ ひろあき、1961年4月4日 - )は、日本の実業家、教育者。学校法人立教学院理事長。株式会社テレビ東京・元上席執行役員報道局長、同社元執行役員報道局統括プロデューサー、同社元政治部長。立教大学元兼任講師。 1961年4月4日、東京都生まれ。立教中学校(現・立教池袋中学校・高等学校)、立教高等学校(現・立教新座中学校・高等学校)卒業。 1984年3月、立教大学経済学部経済学科卒業。大学ではアメリカンフットボール部ラッシャーズに所属。1984年4月、株式会社テレビ東京入社。 2006年、同社政治部長、2016年、同社執行役員報道局統括プロデューサー、2019年上席執行役員報道局長などを歴任。
石澤 靖治(いしざわ やすはる、1957年 - )は、日本の… 石澤 靖治(いしざわ やすはる、1957年 - )は、日本の教育者、ジャーナリスト。学習院大学・教授。 山形県山形市生まれ。山形東高校を経て、立教大学社会学部社会学科卒業後、ダイヤモンド社入社。週刊ダイヤモンド記者。フルブライト留学で渡米。ハーバード大学国際問題研究所(CFIA)フェロー。同大ケネディ行政大学院修了(MPA) 、博士(政治学、明治大学)。ワシントンポスト極東総局記者、ニューズウィーク日本版副編集長などを経て、2000年より学習院女子大学助教授、2002年より同教授、2011年より同学長。2017年3月末で任期満了に伴い同学長を退任。2026年4月より学習院大学との統合により、学習院大学・国際文化交流学部教授。
白石 典義(しらいし のりよし、1953年3月28日 - 2… 白石 典義(しらいし のりよし、1953年3月28日 - 2020年8月26日)は、日本の経営学者、教育者。立教大学名誉教授・元教授、学校法人立教学院元理事長。 1953年3月28日生まれ。1977年3月、立教大学社会学部産業関係学科(現・経営学部)卒業。1982年12月、カリフォルニア大学ロサンゼルス(UCLA)経営大学院経営学研究科修了。 1984年4月、国際大学大学院国際関係学研究科助手。1986年4月、同大学院国際関係学研究科専任講師。 1989年4月、立教大学社会学部産業関係学科(現・経営学部)助教授。1997年4月、同大学社会学部産業関係学科教授。2001年4月~2005年3月、同大学社会学部学部長兼社会学研究科委員長、2005年4月~2006年3月、同大学広報渉外部長。
村上 和夫(むらかみ かずお、1952年5月8日 - )は、… 村上 和夫(むらかみ かずお、1952年5月8日 - )は、日本の観光学者、教育者。立教大学名誉教授、立教大学観光学部元教授、立教新座中学校・高等学校元校長、学校法人立教学院元理事、公益財団法人日本交通公社理事、日本観光ホスピタリティ教育学会元会長、日本観光研究学会(旧・日本観光研究者連合)元会長。 1952年5月8日生まれ。1971年3月、立教高等学校(現・立教新座中学校・高等学校)卒業。1975年3月、立教大学社会学部観光学科(現・観光学部)卒業。1978年3月、立教大学大学院社会学研究科応用社会学専攻修士課程修了(社会学修士)。 1980年4月、萩女子短期大学助教授、1982年4月、横浜商科大学商学部貿易・観光学科で専任講師・助教授・教授を歴任。
高橋 正尚(たかはし まさなお、1951年11月10日 - … 高橋 正尚(たかはし まさなお、1951年11月10日 - )は、日本の教育者。横浜市立南高等学校附属中学校初代校長。横浜市教育委員会首席指導主事、横浜市統括校長などを歴任し、鎌倉女子大学児童学部教授を務めた。 島根県江津市出身。立教大学卒業後、帝人株式会社に勤務。その後教育界に転じ、1979年に小学校教員となった。 1986年に中学校教員となり、横浜市教育委員会指導主事などを務めた。その後、横浜市立中学校校長、横浜市教育委員会首席指導主事、横浜市統括校長などを歴任した。 2011年10月から2016年3月まで横浜市立南高等学校附属中学校校長を務めた。同校は2012年に開校した横浜市初の中高一貫教育校であり、高橋はその初代校長として学校設立と運営に携わった。
加計 孝太郎(かけ こうたろう、1951年〈昭和26年〉7月… 加計 孝太郎(かけ こうたろう、1951年〈昭和26年〉7月2日 - )は、日本の教育者。加計 晃太郎(かけ こうたろう)とも表記される。学校法人加計学園理事長・総長、日本私立大学協会理事。 広島県出身。父親は加計学園グループ創始者の加計勉。立教大学文学部卒業。カリフォルニア州立大学ロングビーチ校(州立大を構成する多数の校舎の一つ)に語学留学。アメリカ合衆国に語学留学中、安倍晋三と知り合い、以来、親交を深めた。 2001年、父親の跡を継いで加計学園理事長に就任。拡大路線を展開し、西日本有数の学校法人グループを築き上げた。 2009年の総選挙で落選した萩生田光一は2012年に議員に返り咲くまでの間、加計学園が運営していた大学で客員教授を務めた。
玉井 和博(たまい かずひろ、1949年4月1日 - )は、… 玉井 和博(たまい かずひろ、1949年4月1日 - )は、日本の実業家、教育者。株式会社ホテル京急元代表取締役社長、ホテルパシフィック東京元総支配人、立教大学観光学部元特任教授、大妻女子大学特任教授。 1949年4月1日生まれ。1971年3月、立教大学経済学部経営学科(現・経営学部)卒業。同年4月、京急興業株式会社(現・京急不動産株式会社)入社。 1993年9月、株式会社ホテル京急出向。2001年6月、ホテルグランパシフィックメリディアン取締役副総支配人兼営業統括部長。 2004年6月、ホテルパシフィック東京取締役副総支配人、兼総支配人室長、兼営業企画部長。2005年6月、株式会社楼蘭代表取締役社長兼務。
四方 啓暉(しかた よしあき、1946年2月 - )は、日本… 四方 啓暉(しかた よしあき、1946年2月 - )は、日本の教育者、実業家。大手前大学現代社会学部教授、ジェイアール東海ホテルズ元専務取締役、名古屋マリオットアソシアホテル元常務取締役総支配人、ザ・リッツ・カールトン大阪副総支配人。ホテル運営のプロフェッショナルとしてザ・リッツ・カールトン大阪の開業に携わるなど、ホスピタリティマネジメントの確立を図ったほか、教育者として後進の育成や指導に務める。 1946年2月、兵庫県神戸市に生まれる。高校2年の時に深夜ラジオで聞いた話をきっかけにホテルマンになることを決める。 立教大学法学部に入学。当時日本でホテルに関する専門知識を学べる唯一の大学であったことが入学の理由だった。
服部 幸應(はっとり ゆきお、1945年12月16日 - 2… 服部 幸應(はっとり ゆきお、1945年12月16日 - 2024年10月4日)は、日本の料理評論家、教育者、タレント。学位は博士(医学)(昭和大学・2005年)。 本名は染谷 幸彦(そめや ゆきひこ)。学校法人服部学園理事長(第3代)、服部栄養専門学校校長(第3代)、公益社団法人全国調理師養成施設協会会長、社団法人全国栄養士養成施設協会副会長、一般社団法人全国料理学校協会副会長、東日本料理学校協会会長、特定非営利活動法人NPO日本食育インストラクター協会理事長。プライドフィッシュプロジェクト企画委員会会長。一般社団法人全日本・食学会理事。 東京都豊島区出身。料理学校「服部学園」の創立者である服部道政こと染谷栄の子として生まれた。
稲本 正(いなもと ただし、1945年2月5日 - )は、富… 稲本 正(いなもと ただし、1945年2月5日 - )は、富山県出身の工芸家、作家、理学研究者、教育者、実業家。オークヴィレッジ創業者・初代会長、トヨタ白川郷自然學校創設者・初代校長、東京農業大学客員教授、岐阜県教育委員。循環型社会の創出のために活動し、森林資源の重要性や有効利用に関する多くの著書がある。 1945年2月5日、富山県に生まれる。1969年、立教大学理学部物理学科卒業。大学では武谷三男に教えを受けた後、田島英三研究室に所属した。卒業後は、同学科に研究助手として勤務する。 1972年、立教大学の教職員や卒業生を中心とした10数名で長野県大町市から山奥に入った若栗峠に200坪の土地を借りて、自分たちで山小屋を建てるプロジェクト「山小屋の会」が開始され、参加する。
坪野谷 雅之(つぼのや まさゆき、1942年 - )は、日本… 坪野谷 雅之(つぼのや まさゆき、1942年 - )は、日本の実業家、教育者。住信アセットマネジメント株式会社(現・三井住友トラスト・アセットマネジメント)元代表取締役社長、住友信託銀行(現・三井住友信託銀行)元常務取締役、非営利活動法人Mother's Tree Japan理事長、立教大学元総長補佐、立教セカンドステージ大学元講師・サポートセンター元副所長、立教大学大学院ビジネスデザイン研究科元講師、山梨英和大学元講師。 1965年、立教大学経済学部経済学科卒業。大学卒業後、住友信託銀行(現・三井住友信託銀行)入行。 同行香港金融現地法人、ロンドン証券現地法人で10年を超える海外勤務を経験した後、金融法人部、年金業務部、名古屋支店を経て、同行常務取締役に就任。
金子 詔一(かねこ しょういち、1942年 - 2025年4… 金子 詔一(かねこ しょういち、1942年 - 2025年4月1日)は、日本の作詞家・作曲家、英語教育者、実業家。日本の歌百選に選ばれた「今日の日はさようなら」の作詞・作曲者。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、音楽関係者(バンド等)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:芸能人)。
森 紀旦(もり としあき、1940年1月1日 - 2018年… 森 紀旦(もり としあき、1940年1月1日 - 2018年7月10日)は、日本の聖職者、神学者、教育者。聖公会神学院校長、ウイリアムス神学館館長、日本聖公会中部教区主教。 1940年、埼玉県生まれ。 1966年に聖公会神学院を卒業し、翌1967年に執事叙任。1969年に司祭叙任。 1970年、立教大学大学院文学研究科修士課程修了。 1971年、米国マサチューセッツ州ケンブリッジのエピスコパル神学校に留学。 1976年、立教大学大学院文学研究科博士課程修了。 日本聖公会北関東教区の諸教会で牧会し、立教大学文学部キリスト教学科の講師を務め、ギリシア語や新約聖書を講じる。 聖公会神学院校長、ウイリアムス神学館館長を歴任し、新約聖書学、礼拝学を教える。
吉田 新一(よしだ しんいち、1931年 - 2025年2月… 吉田 新一(よしだ しんいち、1931年 - 2025年2月24日)は、日本の児童文学研究者、翻訳家、教育者。立教大学名誉教授、日本女子大学元教授、日本イギリス児童文学会会長、絵本学会会長。日本におけるピーターラビットとビアトリクス・ポター研究の第一人者として、海外児童文学作品の翻訳も精力的に行い、海外児童文学の研究・教育と普及に貢献する。教え子に桂宥子、北野佐久子がいる。 1931年、東京に生まれる。立教大学文学部英米文学科卒業、同大学院文学研究科修了。 立教大学一般教育部教授となり、英米文学を教える。 1960年代後半、立教大学を含む日本の各大学で起こった学園紛争が収束に向かった頃、新カリキュラムの導入が進められるが、吉田の提案によって英米児童文学分野も新たに設けられ、授業を担うこととなる。
髙橋 種昭(たかはし たねあき、1929年10月13日 - … 髙橋 種昭(たかはし たねあき、1929年10月13日 - 2021年10月22日)は、日本の児童福祉学者・教育者。 1956年立教大学大学院文学研究科児童福祉専攻修了。同年社会福祉法人母子愛育会愛育研究所に勤務、子どもの発達相談、母子福祉の研究調査に携わる。1976年淑徳短期大学社会福祉学科教授、1983年日本女子大学家政学部児童学科教授。1997年群馬社会福祉大学教授。日本児童学会名誉会員、日本子ども家庭総合研究所客員研究員。
浜野 卓也(はまの たくや、1926年1月5日 - 2003… 浜野 卓也(はまの たくや、1926年1月5日 - 2003年8月10日)は、日本の児童文学作家、評論家、教育者。専攻は近代文学。中学、高校での教師を務めたのち、山口女子大学(現・山口県立大学)教授、日本大学芸術学部講師、立教女学院短期大学講師、日本児童文学学会代表理事を歴任した。日本児童文学者協会理事、日本児童文芸家協会理事、日本文芸家協会会員。 静岡県御殿場市出身。早稲田大学第一文学部国文科を卒業後、都内の中学、高校教師を務め、立教大学大学院を修了(近代文学専攻)。 上野高等学校教頭を最後に高校教師を退職したのち、山口女子大学(現・山口県立大学)教授、日本大学芸術学部講師、立教女学院短期大学講師、日本児童文学学会代表理事などを歴任。
矢崎 健一(やざき けんいち、1918年 - 没年不詳)は、… 矢崎 健一(やざき けんいち、1918年 - 没年不詳)は、日本の聖職者、教育者。日本聖公会の聖職者として小金井聖公会主任司祭や、教育者として立教大学一般教養部助教授を務める傍ら、立教学院百年史の編纂を提案し刊行するなど、立教学院の史実を掘り起こし、歴史を体系化することに尽力した。 1940年(昭和15年)、立教大学文学部宗教学科卒業。 1954年(昭和29年)、矢崎は小金井聖公会の主任司祭に就任する。1951年(昭和26年)に購入してあった用地に、牧師館と小金井聖公会仮聖堂が建てられ、同年12月12日には献堂式が行われた。 1964年(昭和39年)の秋頃、立教大学一般教育部助教授であった矢崎は、立教学院の年史書である「立教学院八十五年史」の次の年史である「立教学院百年史」の編纂を立教大学文学部史学科教授の海老沢有道とともに提案し、編纂を進めた。
岡見 如雪(おかみ なおゆき、1916年 - 2011年11… 岡見 如雪(おかみ なおゆき、1916年 - 2011年11月14日)は、日本の実業家、教育者。頌栄女子学院元理事長・校長、ウィンチェスター頌栄カレッジ創設者、三協日野ルノー代表取締役社長。 1916年(大正5年)、岡見敬一の長男として生まれる。祖父は頌栄女子学院創設者の岡見清致。(祖父清致の叔父は、慶應義塾の基礎を造った岡見清熙。) 1939年(昭和14年)、立教大学経済学部卒業。在学中は、スキー部に所属し、1937年(昭和12年)の創部にも携わった。 大学卒業後、三井物産勤務を経て、三協日野ルノー代表取締役社長を務めた。 1962年(昭和37年)、頌栄高等女学校の理事長に就任。 1964年(昭和39年)、校名を現在の「頌栄女子学院中学校」と「頌栄女子学院高等学校」に改称し、キリスト教学校教育同盟にも加盟。
李 亨雨(이형우、イ・ヒョンウ、Lee Hyeong Woo… 李 亨雨(이형우、イ・ヒョンウ、Lee Hyeong Woo、1904年? - 没年不詳)は、大韓民国の教育者。普成専門学校(現・高麗大学校)教授、国学学校副校長、朝鮮大学既成会理事長、朝鮮法学専門学館学長、同徳女子中学校(現・同徳女子大学校)教諭。 大韓民国忠清北道鎮川郡出身。仏教徒。日本へ留学し、1927年3月、立教大学文学部英文学科卒業。立教では金尚鎔(朝鮮語版)(後の梨花女子大学校教授・英文学者、江原道知事)、花房満三郎(後の文藝春秋編集長)の同級生。 帰国した後、ソウルの同徳女子中学校(現・同徳女子大学校)教諭を経て、普成専門学校(現・高麗大学校)教授に就任。 その後、日立工務店に取締役として勤務。
李 教善(イ・ギョソン、朝鮮語: 이교선/李敎善、1903年… 李 教善(イ・ギョソン、朝鮮語: 이교선/李敎善、1903年4月23日または1905年4月23日 - 1970年2月14日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の教育者、政治家。第4代商工部長官、第2・5代韓国国会議員(第5代は参議員)を歴任した。 本貫は全州李氏、号は松巌(ソンアム、朝鮮語: 송암/松巖)。キリスト教徒。 京畿道安城郡(現・安城市)出身。中東中学校本科を経て、1934年立教大学経済学部商学科卒。全州の中学校教員を経て、1940年渡米しニューヨーク大学研究科で商学を専攻した。1945年に京城師範学校・京城法学専門学校講師を務め、光復を迎えた。その後は米軍政庁の軍政長官秘書長、民政長官補佐官、中央物価行政処長を経て、1948年にソウル大学校副総長となり、その後は食糧営団理事長、自由党政権下の第4代商工部長官(1952年3月27日~11月6日)、第5代国会参議院軍関係不正調査特別委員会委員長、中東高等学校校長、ソウル学院院長、中東学院理事長、忠武公記念事業会理事長を務めた。
大野 信三(おおの しんぞう、1900年 - 1997年)は… 大野 信三(おおの しんぞう、1900年 - 1997年)は、大正から昭和の日本の経済学者、教育者。明治大学商学部教授・商学部部長、創価大学経済学部教授・経済学部長、中央大学教授、立教大学教授。理論経済学の泰斗として知られる。 1900年、北海道生まれ。 1921年(大正10年)、立教大学商科を卒業後、立教大学教授に就任。同年、留学生として渡欧し、ベルリン大学において経済学の研究に従事する。 熱心に研究活動を行っていたところ、立教大学より帰国するよう命じられ、1926年(大正15年)にシベリア鉄道経由で帰国するものの、なぜか大学教授の職を解かれてしまう。大野は当時病気のため、仕方なく郷里の北海道へ帰り、静養のかたわらで専攻科目の研究に没頭した。
楊 建平(よう けんぺい、1898年 - 1949年)は、中… 楊 建平(よう けんぺい、1898年 - 1949年)は、中国の政治家、官僚、外交官、軍人、実業家、教育者。広東省中央銀行副総裁、上海商務局長、潮山税関監督署長、第11軍後方部大佐局長、国民革命軍少将、復旦大学教授、政法大学教授、農民工民主党創設者の一人。 1898年、広東省大埔県百侯鎮侯南村に旧名、楊金坤として生まれる。広東高等師範学校を経て、1925年、立教大学文学部を卒業(大学令による第1回卒業生)。 同年、中国に帰国後、復旦大学、光華大學(中国語版)、滬江大学(中国語版)、政法大学で講師、教授を歴任。 その後、上海商務局長となり、1928年、第11軍司令官陳銘樞中佐の秘書、第11軍後方部大佐局長を務める。
帆足 秀三郎(ほあし ひでざぶろう、1893年 - 1965… 帆足 秀三郎(ほあし ひでざぶろう、1893年 - 1965年)は、日本の教育者。立教大学学監、旧制立教中学校校長、立教学院理事。立教を廃校にしようと画策した配属将校や軍部の迫害から立教を護った人物として高く評価されている。北辰一刀流の剣豪、千葉周作の曾孫、旧名は千葉秀三郎。 1893年、北辰一刀流の開祖である千葉周作の曾孫、千葉秀三郎として生まれる。 父・千葉周之介之胤(玄武館第5代宗家)は東京・築地の立教学校(立教大学の前身校の一つ)の教員として撃剣及び剣道の師範を務めた。 兄が旧制立教中学校で学んだことから、1909年に同じく旧制立教中学校に入学。 1913年、立教大学文科(現・文学部)に入学。
西村 敬太郎(にしむら けいたろう、1892年3月1日 - … 西村 敬太郎(にしむら けいたろう、1892年3月1日 - 1971年11月7日)は、日本の聖職者、教育者。日本聖公会の聖職者として真光教会や浦和や福島で司牧したほか、立教大学でチャプレン、学生部長および講師を務めた。 1892年(明治25年)、東京府東京市日本橋区瀬戸物町出身。1916年(大正5年)、立教大学文学部卒業。同級生に中国の政治家の陳樹人(広東省長、国民党外務大臣、嶺南画派の創始者の一人)がいる。 1923年(大正12年)に日本聖公会の執事となり、1926年(大正15年/昭和元年)に司祭に按手。 聖職者として浦和や福島で司牧したほか、1935年(昭和10年)に当時本所区(現・墨田区)にあった真光教会の第2代牧師として着任。
高松 孝治(たかまつ たかはる、1887年 - 1946年2… 高松 孝治(たかまつ たかはる、1887年 - 1946年2月13日)は、日本の神学者、教育者、聖職者。立教大学教授、大学チャプレン(牧師)、立教学院理事。ギリシア語の権威で語学の天才と呼ばれた。 立教大学文科(現在の文学部)を1回生として1911年(明治44年)に卒業した。小島茂雄(立教大学元文学部長、立教中学校元校長)や久保田正次(立教大学元教授、立教大学野球部元部長、商学部卒)と同級であった。 その後、聖公会神学院を経て渡米し、ケンブリッジ神学院、ハーバード大学神学部で学び神学博士(DD)を取得した。ギリシア語も修学する。 帰国後、京都聖マリア教会の牧師を務める。高松は立教学院のミッションでは1909年に伝道部主任、1910年には日曜学校部を担当する。
小野 秀太郎(おの ひでたろう、1886年〈明治19年〉9月… 小野 秀太郎(おの ひでたろう、1886年〈明治19年〉9月20日 - 没年不詳)は、明治時代の日本の官吏、ジャーナリスト、教育者。台湾総督府郵便電信書記官、朝日新聞社外報部記者、台湾銀行通信員、スタンダード・オイル通信員、立教大学教授。英文通信の権威として知られ、教育者として商業英語を教えた。 茨城県西茨城郡、のちの南川根村で小野祐太郎の長男として生まれた。 1897年(明治30年)10月まで、台湾総督府郵便電信書記官を務める。 東京英語専修学校(現・立教大学)卒業。 その後、朝日新聞社に入り、外報部記者を務めた。そのほか、日本における英文通信の権威として、台湾銀行や米国のスタンダード・オイル社の東洋通信員を務めた。
廖 天祥(りょう てんしょう、1886年 - 没年不詳)は、… 廖 天祥(りょう てんしょう、1886年 - 没年不詳)は、中国の英語学者、教育者。国立成都大学(現・四川大学)外国語学部長、英文学科教授、四川大学英語学部教授。 1886年生まれ。華陽県(現・四川省成都市)出身。留学で日本へ渡り、1916年(大正5年)、立教大学文学部を卒業。中国の政治家で嶺南画派の創始者の一人でもある陳樹人とは大学の同級である。 国立成都大学(現・四川大学)の外国語学部英語(英文)学科教授として、英語、英文学の授業を担い、学部長も務めた。日本へ留学した天祥のほか、当時の教師の顔ぶれは豪華で、多くが海外留学を経験した帰国子女の四川省人であった。中国文学の教授はフランス留学した著名な作家の李潔仁と歴史家の孟文通が務め、フランス語の教授はパリ大学で哲学博士号を取得した鄧孟徳が務めた。
清田 龍之助(清田 龍之介、せいた りゅうのすけ、1880年… 清田 龍之助(清田 龍之介、せいた りゅうのすけ、1880年3月3日 - 1943年4月24日)は、日本の実業家、ジャーナリスト、教育者。日本電報通信社(現・電通)外報部長。東京商科大学(現・一橋大学)教授、立教大学教授。日本聖公会の信徒。 1880年(明治13年)3月3日、清田海一郎(浅草聖ヨハネ教会初代牧師)の長男として広島県忠海(現・竹原市)に生まれる。 その後、大阪に出て小学校を卒業した後、上京する 1897年(明治30年)3月、東京・築地の旧制立教中学校を卒業。同1897年(明治30年)4月、立教専修学校(現・立教大学)に入学して、1899年(明治32年)に同校卒業。卒業と同時に、1899年(明治32年)3月、ペンシルバニア州費留学生として米国に留学。
久保田 正次(くぼた まさつぐ、1880年 - 1949年7… 久保田 正次(くぼた まさつぐ、1880年 - 1949年7月26日)は、日本の英語学者、教育者。立教大学元教授、立教大学野球部元部長。 1880年(明治13年)、東京・佃島出身。1911年(明治44年)、立教大学商学部を卒業。立教大学第1回の卒業生で、同大学文学部出身の小島茂雄(立教大学元文学部長、立教中学校元校長)や高松孝治(立教大学元教授、大学チャプレン)と同級生。 昭和初期に立教大学教授として、経済学部及び予科で英語を教える。1923年から1935年まで雑誌『英語研究』の主筆を務め、英文学を紹介した。 1930年(昭和5年)11月に、立教大学野球部で主力選手による野田健吉監督の排斥運動が起こり、主将の山本貞夫を始め、投手の縄岡修三、2塁手の大内又三郎など、20余名の選手が袖を連ねて脱退したことから、野球部は休止状態となる。
永井 万助(永井 萬助、ながい まんすけ、1879年5月8日… 永井 万助(永井 萬助、ながい まんすけ、1879年5月8日 - 1955年4月4日)は、大正から昭和前期の新聞記者、教育者、翻訳家。朝日新聞社外報部長。号は朴公。 1879年(明治12年)生まれ。島根県出身。弟の永井瓢斎(本名、栄蔵)も新聞記者、俳人である。 東京英語専修学校(現・立教大学)卒業。 若い頃に、松江の中学校で英語教師を務めるが、この時の生徒に文部省の国定教科書「サクラ読本」の生みの親である井上赳がいる。 1912年(明治45年)、外務大臣官房報告課嘱託となり、翻訳に務めた。 1914年(大正3年)、東京朝日新聞社(現・朝日新聞社)に入社し、外報部に所属する。論説班員も兼務し、1924年(大正13年)朝日新聞社外報部長に就任した。
伊藤 重治郎(いとう じゅうじろう、1878年1月9日 - … 伊藤 重治郎(いとう じゅうじろう、1878年1月9日 - 1964年2月26日)は、日本の商学者、法学者、教育者。立教大学経済学部元教授、早稲田大学元教授、東洋大学名誉教授。専門は交通論、商店経営。 山形県酒田市穂積の生まれの政治家、伊藤重治郎(1869年-1939年)とは異なる。 兵庫県明石市出身。東京英語専修学校(立教大学の前身校の一つ)で修学する。1903年(明治36年)早稲田大学英語政治科を卒業後、早稲田大学講師となる。1905年(明治38年)アメリカに留学し、シカゴ大学を経て、1906年(明治39年)にペンシルベニア大学に入学し、1908年(明治41年)に卒業。大学では交通論、商業学を専攻し、博士号(Ph.D.)を取得。
渡部 善次郎(わたなべ ぜんじろう、1877年〈明治10年〉… 渡部 善次郎(わたなべ ぜんじろう、1877年〈明治10年〉 - 1939年〈昭和14年〉)は、日本の教育者、経済学者。松山高等商業学校第2代校長。 1877年(明治10年)、愛媛県下浮穴郡田窪村(後の温泉郡重信町、現・東温市)に生まれる。 1897年(明治30年)に松山中学校を卒業し、文部省中等教員検定試験に合格して松山中学校の教員となった。 自学の志が高く、東京に出ると、東京英語専修学校(立教大学の前身校の一つ)で学ぶ。しかし、1903(明治36年)に東京英語専修学校が閉校すると、同年、早稲田大学に編入して、翌1904年(明治37年)に大学部政治経済学科を卒業する。 同年、留学のためアメリカに渡り、1905年(明治38年)にイェール大学に入学すると、1907年(明治40年)に経済学を修めて大学院を卒業し、修士(MA)の学位を取得した。
稲垣 陽一郎(いながき よういちろう、1876年〈明治9年〉… 稲垣 陽一郎(いながき よういちろう、1876年〈明治9年〉12月22日 - 1949年〈昭和24年〉4月1日)は、日本の神学者、聖職者、教育者、翻訳者。聖公会神学院校長、日本聖公会の司祭。 1894年(明治27年)和歌山聖救主教会で、アイザック・ドーマン宣教師から受洗。同年9月、開設された立教学校(現・立教大学)専修科に入学する。この時、信仰復興運動の中心となる永野武三郎(1877‐1898)も立教学校の3年に編入している。 翌1895年(明治28年)、稲垣、永野、池澤駿太郎(1876‐1956)らで、雑誌『廿八年』を発行して「十字同盟」を結成したことをきっかけに、寄宿舎の一室で祈祷会が朝夕開かれるようになり、盛んに伝道活動が行われた。
須藤 吉之祐(すどう きちのすけ、1876年12月19日 -… 須藤 吉之祐(すどう きちのすけ、1876年12月19日 - 1956年10月2日)は、日本の経済学者、教育者。立教大学元学長、立教大学経済学部元教授。 1894年(明治27年)、立教学校(現・立教大学)卒業。同期には木村重治(立教大学元学長)がいる。 1897年(明治30年)にアメリカに留学し、ペンシルベニア大学に入学。1900年(明治33年)に同大学を卒業。 その後、母校である立教大学の教員となり、経済学部教授を務める。 1932年(昭和7年)9月に、杉浦貞二郎の後任として木村重治が立教大学学長に就任し、経済学部長を兼任すると、経済学科長に河西太一郎、商学科長に須藤吉之祐が着任した。 1936年(昭和11年)7月、立教大学学長(事務取扱)に就任し、翌年3月まで務めた。
木村 重治(きむら しげはる、1874年5月4日 - 196… 木村 重治(きむら しげはる、1874年5月4日 - 1967年7月18日)は、日本の西洋史学者、教育者。立教大学元学長、立教大学経済学部元教授・学部長、長崎高等商業学校(現・長崎大学)元校長、東京商科大学(現・一橋大学)元教授、慶應義塾大学元教授、台湾協会学校(現・拓殖大学)元教授、山口高等商業学校(現・山口大学)元教授、啓明学園学園長。 1874年(明治7年)5月4日、奈良県で木村芳三郞の二男として生まれる。 1892年(明治25年)7月、立教大学の姉妹校である聖公会の奈良英和学校に入学。同校が中学校制に改め廃校となると、東京の立教学校(現・立教大学)に転学。1894年(明治27年)6月、立教学校卒業。
根岸 由太郎(ねぎし よしたろう、1873年2月10日 - … 根岸 由太郎(ねぎし よしたろう、1873年2月10日 - 1960年3月2日)は、日本の英文学者、教育者、翻訳家。立教大学文学部英文学科元教授、一般教養部元教授。 群馬県出身で、赤城山下の片田舎で育つ。 1883年から1990年頃に、憧れの地であった東京に出て、学ぶ場所を探す。当時、金持ちの友人は慶應義塾へ行き、タイトルを欲する者は東京大学に趣き、いわゆる書生たちは神田の私立学校や下宿にごろつき歩く世の中であった。由太郎は、英語が達者になりたいという一念で築地居留地をぶらついて、見つけたのが立教大学だった。 地元の群馬で、英語の素養として、辛うじてウィリアム・スウィントンの『万国史』の訳読が出来る程度であり、これまで外国人を見たことがなく、ましてや会話をする機会など全くなかったが、この頃、森有礼の方針で英語の研究が大いに高まった時代であった。
杉浦 貞二郎(すぎうら さだじろう、明治3年12月18日(1… 杉浦 貞二郎(すぎうら さだじろう、明治3年12月18日(1871年2月7日) - 昭和22年(1947年)4月24日)は、日本の哲学者、教育者。立教大学元学長、立教大学名誉教授、陸軍大学校教授。 若狭国小浜(現福井県小浜市)に生まれる。東京の真光教会牧師杉浦義道の弟である。1887年(明治20年)に兄・義道の影響を受けて、C・M・ウィリアムズより洗礼を受ける。立教大学校(現・立教大学)を経て立教学校(第2次)で学び、同級には吉田栄右がいた。立教大学校で学んだ岩佐琢蔵によると、当時の学生たちは勉学にとても熱心で、貞二郎はその頃の日本の哲学書は全て読破したと誇っていたという。 1892年(明治25年)に立教学校(第2次)を卒業した後、留学のため渡米する。
山縣 雄杜三(山県 雄杜三、やまがた おとぞう、1871年 … 山縣 雄杜三(山県 雄杜三、やまがた おとぞう、1871年 - 1941年)は、日本の教育者、神学者、歴史学者、聖職者。立教大学教授、聖公会神学院教授、日本聖公会の聖職者。教会史の権威で、東京聖三一教会、府中聖マルコ教会で司牧。 立教大学校(現・立教大学)に入学。1883年(明治16年)に築地で創設された米国式カレッジの立教大学校には日本の野球の先駆けとなる野球チーム(現・立教大学野球部)があり、試合は新橋停車場内の広場で行われていたが、山縣は優勝チームの選手の一員として活躍した。 留学し、神学士(Bachelor of Theology(英語版))の学位を取得。 その後、立教大学でチャプレンを務め、立教大学文学部の教授としても基督教史を教えた。
岩佐 琢蔵(いわさ たくぞう、1870年7月25日〈明治3年… 岩佐 琢蔵(いわさ たくぞう、1870年7月25日〈明治3年6月27日〉- 1946年〈昭和21年〉12月17日)は、日本の英文学者、教育者。立教大学元教授、フェリス和英女学校(現・フェリス女学院)副校長・教頭、横浜英語学校校長、立教大学学監、立教女学校(現・立教女学院)教頭。フェリスでは、ミッションスクールでの宗教教育を禁じる文部省訓令第12号に対処するため英語師範科を創設するなど、女学校の存続と発展に長く貢献した。 福井県出身。福井の中学校を出て、上京する。当時、琢蔵が東京の学校として名前を知っていたのは、帝国大学(後の東京帝国大学)と、その予備校である高等中学校、その他には慶応義塾だけであった。
小林 彦五郎(こばやし ひこごろう、1867年7月31日〈慶… 小林 彦五郎(こばやし ひこごろう、1867年7月31日〈慶応3年7月1日〉 - 1944年〈昭和19年〉4月28日)は、日本の教育者、聖職者。立教女学校(現・立教女学院)校長、立教高等女学校校長、立教大学元教授、日本聖公会の聖職者。財団法人聖路加女子専門学校(現・聖路加国際大学)理事。 岡山出身。大阪・英和学舎(立教大学の前身の一つ)で学び、テオドシウス・ティングの薫陶を受ける。1886年(明治19年)3月には、授業日数を増やすなどの要求から生じた同校の学生運動では、元田作之進(後の立教大学初代学長)とともに急先鋒となり、改善を求める運動を行った。同1886年(明治19年)にヘンリー・ページ(Henry D. Page)よりキリスト教の洗礼を受けた。
大倉 本澄(おおくら もとずみ、もとすみ、1867年3月29… 大倉 本澄(おおくら もとずみ、もとすみ、1867年3月29日〈慶応3年2月24日〉 - 1940年〈昭和15年〉6月19日)は、日本の英米文学者、英語教育者、翻訳家、聖職者。教育者として東京英語専修学校(立教大学の前身校の一つ)を創設したほか、旧制第六高等学校(現・岡山大学)教授や旧制甲南高等学校(現・甲南大学及び甲南中学校・高等学校)教授を歴任。英文学者や翻訳家としてシェイクスピア劇の講義に加え、イギリス公使の翻訳官を務めた。また、ハーバード大学で外国人初の舎監となり、日本聖公会の聖職者としても伝道に従事した。号は折鵬、竹隠。 1867年3月29日〈慶應3年2月24日〉、備前国岡山に生まれる。
名出 保太郎(ないで やすたろう、1866年2月7日(慶応元… 名出 保太郎(ないで やすたろう、1866年2月7日(慶応元年12月22日) - 1945年(昭和20年)9月6日)は、日本の聖職者、教育者。元田作之進とともに日本人として聖公会初の監督(主教)を務めた。日本聖公会大阪教区初代主教。築地・聖三一教会(立教教会)初代牧師。 紀伊国那賀郡名手村(現・和歌山県紀の川市)で庄屋の家に生まれる。和歌山の小学校で教員を務める。 その後、大阪に出て、テオドシウス・ティング(米国聖公会宣教師)の大阪・川口の英和学舎(立教大学の前身の一つ)で学び、ティングのもとで聖職者としての道に進む。 1879年(明治12年)、日本の聖公会として初代の日本人牧師に就任。聖公会としては横山錦柵が1877年(明治10年)に米国で按手を受け日本人初の聖職者となっている。
早川 喜四郎(はやかわ きしろう、1865年3月27日(慶応… 早川 喜四郎(はやかわ きしろう、1865年3月27日(慶応元年3月1日) - 1943年4月23日)は、日本の教育者、聖職者。平安女学院院長、日本聖公会の聖職者。聖公会の教会で奉仕しながら、院長として新校舎を建設するなど、平安女学院の発展に寄与した。 伊予国今治(現・愛媛県今治市)出身。戸塚多宮の子として生まれ、幼少期に早川家の養子となった。立教大学校(現・立教大学)卒業後、東京三一神学校(現・聖公会神学院)を経て、米国留学してバークレイ神学校(英語版)に学ぶ。 1892年(明治25年)に立教大学校、東京三一神学校(現・聖公会神学院)の同窓生である宮崎敬介(後の大阪電灯社長)が、米国に留学した際に、同じく同窓の大塚惟明(後の南海電気鉄道社長)とともに、同行した。
沢村 繁太郎(さわむら しげたろう、旧字体: 澤村 繁太郎、… 沢村 繁太郎(さわむら しげたろう、旧字体: 澤村 繁太郎、1865年 - 1905年4月22日)は、日本の外交官、通訳官、教育者、実業家、ジャーナリスト。 台湾総督府調査諜報員、大日本帝国陸軍通訳官、照暗女学校(現・平安女学院)第4代校長。台湾総督府では厦門や上海から迅速かつ質の高い情報を届けるなど、外交官や諜報員として活躍し、勝海舟とも交流したほか、教育者として厦門東亜書院を設立した。その他、上海時報の記者や、実業家として横浜正金銀行北京支店副支配人を務めた。英語のほか、中国語の大家として知られた多言語話者である。 1865年、近江国彦根藩士、澤村益二郎の長男として生まれる。 1879年(明治12年)頃、東京・築地の立教学校(立教大学の前身校の一つ)で学ぶ。
川口 栄之進(かわぐち えいのしん、1864年3月17日〈元… 川口 栄之進(かわぐち えいのしん、1864年3月17日〈元治元年2月10日〉 - 1948年〈昭和23年〉1月)は、日本の弁護士、政治家、教育者。青森県弁護士会会長、青森市会議長、青森市会議員、青森県会議員を歴任したほか、青森商業会議所顧問などの要職も務めた。北山盲唖学校校長、日本聖公会の信徒。 弘前生まれ。版籍奉還にともなう水田整理により、1871年(明治4年)に羽野木沢(後の北津軽郡七和村、現・五所川原市)に転居。 次いで、1876年(明治9年)には北津軽郡宮野沢村(後の中里町、現・中泊町)に転住する。1879年(明治12年)に中里小学校を卒業後、同校の助教員となる。 その後、東京に遊学し、築地の立教大学校(現・立教大学)を卒業。
多川 幾造(たがわ いくぞう、1862年2月18日〈文久2年… 多川 幾造(たがわ いくぞう、1862年2月18日〈文久2年1月20日〉- 1943年〈昭和18年〉7月2日)は、日本の教育者、聖職者。平安女学院院長(校長)、日本聖公会の聖職者・司祭。立教大学が築地から池袋に移転する際には、会計責任者として押川方義(東北学院創設者、前・東北学院院長)とともに校地の購入交渉を行った。 現在の大阪府岸和田市で生まれた。1883年(明治16年)に米国聖公会のテオドシウス・ティングより受洗し、大阪・英和学舎(立教大学の前身の一つ)でティングの薫陶を受け、1887年(明治20年)より、関西を中心として伝道師・牧師として働く。 1892年(明治25年)、大阪の川口居留地で米国聖公会が運営する照暗女学校(St.Agnes' School)を京都に移転することが決定し、京都府より「私立照暗女学校」の設立認可を受ける。
河島 敬蔵(かわしま けいぞう、1859年4月3日(安政6年… 河島 敬蔵(かわしま けいぞう、1859年4月3日(安政6年3月1日) - 1935年(昭和10年)5月26日)は、日本の教育者、英文学者、翻訳家。日本で初めて原文からシェイクスピア劇を翻訳し、ロミオとジュリエットの翻訳「露妙樹利戯曲 春情浮世の夢」、ジュリアス・シーザーの翻訳「沙吉比亜戯曲羅馬盛衰鑑」を刊行するなど坪内逍遙と双璧をなした。教え子には元田作之進(立教大学初代学長)や杉村楚人冠(俳人、朝日新聞社記者)らがいる。 1859年4月3日(安政6年3月1日)、現在の和歌山県和歌山市に和歌山藩士河島喜八郎の長男として生まれる。幼児期より聡明で記憶力に富んでいたという。1869年(明治2年)11歳のときに紀州藩学習館の漢学寮に学ぶが、同時にこの学校に付属する「洋学寮」で英語とフランス語を学ぶ。
高橋 五郎(たかはし ごろう、1856年4月24日(安政3年… 高橋 五郎(たかはし ごろう、1856年4月24日(安政3年3月20日) - 1935年9月7日)は、明治時代から昭和初期の翻訳家、啓蒙的英文学者、英語学者、言語学者、評論家、教育者である。 聖書の翻訳や英語教育を行い、立教大学、早稲田大学、駒澤大学で教授を歴任した。 1856年(安政3年)に越後国柏崎の庄屋の家に生まれる。本名は吾良である。1868年、群馬県高崎に行き、竜門寺で市川左近に漢学や仏学を学ぶ。1871年より牧野再竜、高崎藩校の田中毛野に学ぶ。 1873年に洋学を学ぶために上京し、緒方塾で緒方惟孝(緒方城次郎、緒方洪庵の三男)に学び、植村正久と知り合いになる。1875年(明治8年)に横浜へ行き、植村の紹介でアメリカ・オランダ改革派教会の宣教師S・R・ブラウンのブラウン塾で英学と英語、仏語、独語を習った。
工藤 精一(くどう せいいち、1855年3月 - 1906年… 工藤 精一(くどう せいいち、1855年3月 - 1906年12月)は、明治時代の教育者、化学者、地質学者。開拓使派遣留学生として米国留学し、帰国後に札幌農学校(現・北海道大学)教授(助教)、立教学校及び立教大学校(現・立教大学)教授、専修学校(現・専修大学)教授を務めた。札幌農学校教員時代には、演武場(現・札幌市時計台)の時計保守も担い、運用を開始した。開拓使官員、陸軍通訳官も務めたほか、英語学習書を出版するなど、明治期の英語教育の発展に尽くした。別名、精一郎。 東京生まれ。1872年3月26日(旧暦明治5年2月18日)、17歳の時、開拓使派遣留学生として横浜港から飛脚船「アメリカ号」で米国サンフランシスコへ向けて出航。
左乙女 豊秋(さおとめ とよあき、1855年 - 没年不詳)… 左乙女 豊秋(さおとめ とよあき、1855年 - 没年不詳)は、日本の教育者、聖職者。立教学校(現・立教大学)主監、立教中学校初代校長、立教専修学校校長、東京英語専修学校校長、札幌中学校(現・北海道札幌南高等学校)初代校長、私立奈良尋常中学校(奈良英和学校の後身)校長、和歌山県立田辺中学校(現・和歌山県立田辺中学校・高等学校)校長、大阪・英和学舎教授、大阪聖パウロ教会牧師。 1855年(安政2年)6月、名古屋藩生まれ。大阪・英和学舎(立教大学の前身の一つ)出身。英和学舎では、テオドシウス・ティングに学んだ。 その後、英和学舎の教員となるが、ティングやアーサー・ラザフォード・モリス、聖バルナバ病院創設者のヘンリー・ラニングら宣教師らに加え、英文学の第一人者の名声を得ていた清水泰次郎、洋行帰りとして大変珍しがられた山中幸平らの同僚教師とともに英語では他を圧倒した。