金子 鋭(かねこ とし、1900年(明治33年)3月17日 … 金子 鋭(かねこ とし、1900年(明治33年)3月17日 - 1982年(昭和57年)2月24日)は、日本の銀行家。位階は従三位、勲等は勲二等。 富士銀行頭取、会長。第6代プロ野球コミッショナー。ドラフト制度導入に尽力したことで知られる。 旧制新潟県立小千谷中学校、旧制第七高等学校造士館を経て、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。帝大時代は大正デモクラシーの時代でもあり、蠟山政道、福岡誠一らと社会改良に関して語り合う一本筋の通った青春時代を送った。 1924年(大正13年)安田銀行に入行(後に富士銀行に改称)。49年副頭取、 57年頭取、63年会長、75年顧問。 明治生まれの硬骨のバンカーとして知られ、会長に退いてからは財界で活躍し、大の巨人軍ファンであったことから、政財界人で後援組織「無名会」を結成し、会長を務めた。
津上 研蔵(つがみ けんぞう、1900年3月17日 - 没年… 津上 研蔵(つがみ けんぞう、1900年3月17日 - 没年不詳)は、日本の機械工学者、実業家。 津上嶮路の四男として、福岡県糸島郡北崎村(現・福岡市)に生まれる。津上製作所(現・ツガミ)創業者津上退助は実兄。1920年福岡県中学修猷館、1922年3月第五高等学校理科乙類を経て、1925年3月九州帝国大学工学部機械工学科を卒業。 卒業後、三菱鋼業に入社。1928年津上製作所に転じ、1929年技師長となる。1940年名古屋帝国大学工学部教授、および愛知県工学試験所部長を兼ね、1945年津上製作所取締役に選ばれ、1947年常務に進む。1964年5月津上文化機器販売社長に就任。 機械学会(現・日本機械学会)評議員、長岡市商工会議所理事、日本小型工作機械工業会(現・日本精密機械工業会)会長なども務めている。
土井 忠生(どい ただお、1900年(明治33年)3月16日… 土井 忠生(どい ただお、1900年(明治33年)3月16日 - 1995年(平成7年)3月15日)は、日本の国語学者。キリシタン文献の国語学的研究を専門とする。
渡辺 紳一郎(わたなべ しんいちろう、1900年3月16日 … 渡辺 紳一郎(わたなべ しんいちろう、1900年3月16日 - 1978年12月22日)は、日本のジャーナリスト、放送タレント、文筆家。 東京出身。杉靖三郎の兄。東京外国語学校仏語科を経て1928年東京帝国大学文学部支那文学科を卒業。1924年東京朝日新聞社に入社。パリ支局長、ストックホルム支局長を務め、1955年退社して社友。戦後は、NHKのラジオクイズ番組「話の泉」に8年間休まず出演。聴取者から寄せられた難問奇問に、その博識ぶりで「物知り博士」として知られた。
富木 謙治(とみき けんじ、1900年3月15日 - 197… 富木 謙治(とみき けんじ、1900年3月15日 - 1979年12月25日)は、日本の武道(合気道・柔道)家。教育学者(武道論)。日本合気道協会、秋田県角館町(後の仙北市)出身。 満州建国大学教授、早稲田大学教育学部教授を歴任、合気道創始者・植芝盛平の高弟として成立期の合気道に理論面で影響を与え、自ら考案した競技合気道の普及発展に努めた。講道館柔道創始者・嘉納治五郎が柔術を柔道に昇華させたように、合気道をより昇華させることを目指し、合気道の乱取り稽古を考案し導入した。富木の合気道は乱取り稽古を行うなど、他の会派と異なる点も多く、区別するため、「富木流合気道」、「富木合気道」と通称される(ただし、富木自身はこの呼称を用いておらず、「新合気道」「合気道競技」と命名していた)。
板垣 守正(いたがき もりまさ、明治33年(1900年)3月… 板垣 守正(いたがき もりまさ、明治33年(1900年)3月15日 - 昭和26年(1951年)7月16日)は、劇作家、士族。伯爵板垣退助の孫、鉾太郎の次男。母は松本丑太郎の長女節子(せつこ)。号は青牛。宗旨は曹洞宗。別名は山内守正。
堀本 宜実(ほりもと よしざね / せんじつ、1900年(明… 堀本 宜実(ほりもと よしざね / せんじつ、1900年(明治33年)3月15日 ‐ 1978年(昭和53年)6月27日) は、大正から昭和期の獣医師、政治家。参議院議員(3期)、愛媛県温泉郡立岩村長、同郡北条町長。旧姓は阿部。 愛媛県越智郡、のちの玉川村(玉川町を経て現今治市)の阿部家に生まれた。1918年(大正7年)麻布獣医畜産専門学校(現麻布大学)を卒業。立岩村の技術員・獣医師となり、同村の堀本家の養子となった。 立岩村長(1930年9月-1938年1月在任)、北条町長(1939年7月-1940年12月在任)を務めた。1931年(昭和6年)9月、愛媛県会議員に選出され、立憲民政党に所属して1946年(昭和21年)月12月まで連続4期在任した。
銅金 義一(どうがね ぎいち、1900年(明治33年)3月1… 銅金 義一(どうがね ぎいち、1900年(明治33年)3月15日 - 1972年(昭和47年)10月4日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 広島県出身。1920年(大正9年)5月に陸軍士官学校第32期卒業。のち東京帝国大学冶金学科を卒業する。 1940年(昭和15年)8月、陸軍砲兵大佐に進み、1941年(昭和16年)6月、陸軍技術本部研究所所員、1943年(昭和18年)10月、小倉陸軍造兵廠第2製造所長を経て、1944年(昭和19年)8月、陸軍少将に進級する。ついで同年9月、小倉陸軍造兵廠糸口山製造所長となった。
舟木 重彦(ふなき しげひこ、1900年(明治33年)3月1… 舟木 重彦(ふなき しげひこ、1900年(明治33年)3月15日 - 1951年(昭和26年)3月6日)は、昭和時代の日本の図書館学者。図書分類法、件名目録法の権威。 石川県金沢市にて生まれ、高知県で育つ。1924年に第四高等学校を卒業し、東京帝国大学文学部文学科に入学。1927年に同学部独逸文学科を卒業。同年12月から1928年3月まで姫路高等学校講師を務めたのち、千葉高等園芸学校で英語とドイツ語の講師を勤める。1931年に帝国図書館に入り、1947年、文部省図書館職員養成所の初代所長となる。1950年に海外の図書館事業調査のため渡米し、翌年3月の帰国直後に死去。
金澤 庸治(かなざわ ようじ、1900年(明治33年)3月1… 金澤 庸治(かなざわ ようじ、1900年(明治33年)3月15日-1982年(昭和58年))は、日本の建築家、建築教育者。金沢庸治とも表記される。 東京出身。1917年(大正6年)3月に京北実業学校中学校を卒業。1919年4月、東京美術学校図案科第二部予備科に入学(1923年5月に図案科第二部は建築科となる)、1924年3月、建築科の第1回生として卒業。同年、一年志願兵として近衛輜重兵大隊に入隊。1927年4月に東京美術学校の講師となり、1936年1月、助教授に就任、1946年3月に退職 建築設計も平行して手がけ、恩師である岡田信一郎の建築事務所のスタッフを務める。一説には、岡田が設計した黒田記念館(1928年)、明治生命館(1934年)の装飾を担当したとも言われる。
松本 一郎(まつもと いちろう、1900年(明治33年)3月… 松本 一郎(まつもと いちろう、1900年(明治33年)3月15日 - 1968年(昭和43年)10月26日)は、日本の農業関係者、政治家。衆議院議員。 三重県一志郡、のちの一志町(現津市)で生まれた。明治大学専門部法科で学んだ。尾崎行雄の秘書を務めた。 一志郡大井村長、三重県会議員、三重県耕地協会長、三重県農業共済組合連合会長、三重県畜産会長などを務めた。 1947年4月、第23回衆議院議員総選挙おいて三重県第1区で民主党から出馬し当選し、第24回、第25回、第29回総選挙でも当選し、衆議院議員を通算四期務めた。この間、衆議院建設委員長、同農林水産委員長、第2次池田内閣・科学技術政務次官、民主党会計監督、民主自由党相談役、同民情部長、自由民主党全国組織副委員長、全国農業共済協会副会長などを務めた。
朝光 亀太郎(あさひかり かめたろう、1900年3月14日 … 朝光 亀太郎(あさひかり かめたろう、1900年3月14日 - 1937年12月1日)は、現在の大阪府東大阪市出身で朝日山部屋、出羽海部屋、再度朝日山部屋に所属した力士。本名は塚本 亀太郎。身長167cm、体重98kg。最高位は西前頭6枚目。 大阪相撲の朝日山部屋に入門、1919年5月に初土俵を踏む。朝潮を名乗り1923年5月に入幕を果たしたが、その場所前に起きた紛擾事件(龍神事件)で場所は中止、彼も一時廃業して東京に移った。東京では出羽海部屋に身を寄せ、1924年1月十両格付出で東京の土俵に上ったが、さすがに東京では朝潮の名は名乗れず朝千鳥と名乗った。すると、すぐに大阪への復帰が認められ、1924年1月の大阪相撲に、朝潮の名で幕内格で復帰した。
白井 俊明(しらい としあき、1900年3月13日 - 19… 白井 俊明(しらい としあき、1900年3月13日 - 1975年1月8日)は、日本の化学者。 1923年東北帝国大学理学部化学科を卒業。東京帝国大学理学部助手に採用。1940年、東京大学地震研究所、理化学研究所に勤務。 1950年、東京大学教養学部教授となった。1951年、東京大学に学位論文を提出して理学博士号を取得。1960年、東京大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は東京理科大学教授として教鞭をとった。1970年に東京理科大学を退職。
島 マス(しま マス、1900年3月13日 - 1988年7… 島 マス(しま マス、1900年3月13日 - 1988年7月9日)は、沖縄県の教育者、社会福祉活動家。第二次世界大戦後、米統治下の沖縄で、おもに児童・青少年に関わる様々な社会福祉事業に関わり、「戦後沖縄の "福祉の母"」と称された。 1900年、当時の美里間切伊波村(現在のうるま市)に、貧しい小作農であった伊波家の末子として生まれる。1919年、沖縄県女子師範学校を卒業して、山田尋常高等小学校訓導となり、以降、長く小学校教員を務めた。1921年、同じく小学校教員であった島有剛と結婚して島姓となり、翌1922年以降、5男2女をもうける。1945年、沖縄戦の中でふたりの子を失う。 1948年、小学校教員を依願退職して、越来村(現在の沖縄市)へ移り、越来村婦人会を結成して戦災母子世帯の救済や青少年の健全育成をめざす活動に取り組む。
田代 順七(たしろ じゅんしち)1900年(明治33年)3月… 田代 順七(たしろ じゅんしち)1900年(明治33年)3月13日 - 1985年(昭和60年)10月11日)は、昭和期の洋画家。現在の熊本県玉名市出身。 教員を務める傍ら熊本在住者として初めて帝展入選を果たし、以後1985年まで、文展(文部省美術展覧会、現在の日展)、日展に連続出品。具象絵画団体東光会支部としての銀光会を結成し、熊本の洋画史をリードしながら郷土熊本の自然の美をテーマに一貫して具象絵画の世界を追求、熊本における美術振興に寄与した。 その絵画精神は自然観照にもとづく美学の実践であり、力強く表現されている。 画業60余年、とりわけ1950年代中頃から展開する「球磨川」「天草」そして晩年の「阿蘇」シリーズの作品は、田代芸術の写実観を如実に物語っている。
ヘンリー・ユズル・スギモト(Henry Yuzuru Sug… ヘンリー・ユズル・スギモト(Henry Yuzuru Sugimoto 日本名:杉本謙、1900年3月12日 – 1990年5月8日)は日本出身の画家、絵画教師及び第二次世界大戦における日系人の強制収容の経験者である。1952年にアメリカの市民権を取得した。 和歌山県海草郡湊村(現・和歌山県和歌山市湊)に生まれる。スギモトの父親はスギモトが生まれてすぐに渡米し、母親も9年後に渡米したため、スギモトとその弟は母方の祖父母に養育された。母方の祖父は武家の出であり、絵画を多数所有しており、スギモトは幼いころからそれを模写し絵画に親しんでいた。 1919年、スギモトは和歌山中学校(現・和歌山県立桐蔭高等学校)4年生修了後、ヘンリーに改名し、カリフォルニア州ハンフォードで両親とともに暮らすこととなった。
渡邊 信二(わたなべ しんじ、1900年〈明治33年〉3月1… 渡邊 信二(わたなべ しんじ、1900年〈明治33年〉3月12日 - 1926年〈大正15年〉4月6日)は、大正時代に活動した日本の民間パイロット。日本の定期郵便飛行における初の犠牲者であり、また関西初の滑空飛行を行った人物とされる。 兵庫県印南郡志方村(現在の加古川市)に生まれる。志方尋常高等小学校卒業後播州鉄道会社勤務を経て1922年(大正11年)12月13日に日本航空輸送研究所に入所し、1923年(大正12年)2月21日付で飛行機操縦士免状(三等)の交付を受けて同社の郵便飛行事業に従事した。1924年(大正13年)11月27日に二等飛行機操縦士に昇格し、定期郵便飛行のほか機体組立整備や操縦士養成、郷土訪問飛行(1925年(大正14年)3月21日)、播丹鉄道全通奉祝全線飛行(同3月22日)などを行った。
上村 英輔(かみむら えいすけ、1900年3月11日 - 1… 上村 英輔(かみむら えいすけ、1900年3月11日 - 1987年8月17日)は、日本の経営者。 東京都出身。1925年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に日本石油に入社。1949年6月に取締役に就任し、1950年6月に常務を経て、1958年9月に副社長に就任し、1961年5月に社長に昇格。 石油連盟会長、経済団体連合会・日本経営者団体連盟各常任理事などを務めた。 1962年に藍綬褒章を受章し、1970年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1987年8月17日、心不全のために死去。87歳没。
田上 束稲(たがみ つかね、1900年 <明治33年> 3月… 田上 束稲(たがみ つかね、1900年 <明治33年> 3月11日 - 1972年 <昭和47年> 7月11日)は、日本の経営者。日魯漁業 (現・Umios) 社長を務めた。 高知県長岡郡本山町出身。1923年に小樽高等商業学校を卒業。共同水産販売所での勤務を経て、日魯漁業に転じ、1947年4月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1960年4月に副社長に就任し、1964年1月には社長に昇格。1968年1月には会長に就任。 1971年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 1972年7月11日、肺ガンのために死去。72歳没。
趙 柱泳(チョ・ジュヨン、朝鮮語: 조주영、1900年3月1… 趙 柱泳(チョ・ジュヨン、朝鮮語: 조주영、1900年3月11日 - 1976年11月25日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の弁護士、警察官僚、政治家。第4代逓信部長官、第2代韓国国会議員。キリスト教徒。 慶尚南道南海郡出身。明治大学法学部卒。日本弁護士試験合格。朝鮮興業銀行監査役を経て、光復後は警務部総務局局長、警務部監察長、弁護士会委員を務め、1950年の第2代総選挙で南海郡選挙区から無所属で国会議員に当選した。同年の朝鮮戦争で北朝鮮に拉致されたという説もあるが、その後は国会法司委員、鄭国殷(朝鮮語版)事件調査委員、交通部顧問、逓信部長官を歴任した。1954年の第3代総選挙と1958年の第4代総選挙にも出馬したが、いずれも落選した。
冨倉 徳次郎(とみくら とくじろう、1900年3月8日 - … 冨倉 徳次郎(とみくら とくじろう、1900年3月8日 - 1986年5月26日)は、日本の国文学者、博士。駒澤大学名誉教授。専門は中世文学。 東京生まれ。第二高等学校理科から東京帝国大学理学部を経て、1926年(大正15年)3月に京都帝国大学文学部国文科を卒業。京都女子専門学校教授を命ぜられるが、軍隊に服する。 京大時代は講師として立命館中学に赴任。生徒の一人に中原中也がいた。あるとき、中也が答案の代わりに詩を書いて提出したことがきっかけで彼との交友が始まった。友人富永太郎を中也に引き合わせたことでも知られる。 1952年、駒澤大学に着任し教授。のち国文学科主任、大学院国文専攻主任をつとめる。
英 百合子(はなぶさ ゆりこ、1900年3月7日 - 197… 英 百合子(はなぶさ ゆりこ、1900年3月7日 - 1970年2月7日)は日本の女優。広島県呉市吉浦町出身。日本初の本格的映画女優といわれる。同じ女優の永井百合子は柳永二郎との娘[4]、俳優の長谷部健は中野英治との息子[4][5]。
加藤 土師萌(かとう はじめ、1900年3月7日 - 196… 加藤 土師萌(かとう はじめ、1900年3月7日 - 1968年9月25日)は日本の陶芸家。本名は一(はじめ)。1961年に人間国宝に認定された。東洋の陶磁器に対して高い見識を持つ。教え子に鳴海要などがいる。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
美根 五郎(みね ごろう、1900年(明治33年)3月4日 … 美根 五郎(みね ごろう、1900年(明治33年)3月4日 - 1971年(昭和46年)2月14日[要出典])は、昭和時代前期の朝鮮総督府官僚。黄海道知事。 美根虎吉の五男として福岡県に生まれ、兄虎雄の養子となる。1924年(大正13年)高等試験行政科に合格し、翌年東京帝国大学法学部を卒業する。朝鮮総督府に奉職し、慶尚南道警部、全羅南道学務課長、総督府土地改良事務官、咸鏡北道財務課長、大邱税務監督局税務部長、総督官房審議室事務官文書課長兼人事課長、国勢調査課長、官房人事課長などを経て、1942年(昭和17年)11月、総務局監察課長に就任した。のち黄海道知事に任じた。1944年(昭和19年)退官した。
八代 斌助(やしろ ひんすけ、1900年〈明治33年〉3月3… 八代 斌助(やしろ ひんすけ、1900年〈明治33年〉3月3日 - 1970年〈昭和45年〉10月10日)は、日本のキリスト教伝道者である。 北海道出身。立教大学中退。イギリス留学を経験している。神戸聖ミカエル教会司祭、神戸教区主教。1968年、日本聖公会首座主教。世界教会一致運動に参加。聖公会神学院理事長。オックスフォード大学神学博士、トロント・トリニティーカレッジ神学博士、アメリカのコロンビア大学教理学博士、ゼネラル神学校神学博士。神戸国際大学及び神戸国際大学附属高等学校を運営する学校法人八代学院を創設し理事長・院長を務めたほか、立教学院理事長・院長や松蔭女子学院理事長・院長、桃山学院理事長・院長、聖路加看護大学理事長(聖路加国際病院理事長)、国際基督教大学理事、聖ミカエル保育園理事長、オリンピア幼稚園園長、聖ラファエル幼稚園理事長、鈴蘭台聖ミカエル幼稚園理事長・園長、境港聖心幼稚園園長、神戸市教育委員、ボーイスカウト日本連盟相談役なども務めた。
野口 二郎(のぐち じろう、1900年(明治33年)3月3日… 野口 二郎(のぐち じろう、1900年(明治33年)3月3日) - 1976年(昭和51年)1月18日)は、日本の実業家、政治家、郷土史研究家。甲府市長(官選第18代)、山梨日日新聞社社長、山梨放送社長。 甲府市百石町に、父・英夫、母・いしの二男として生まれる。1906年(明治39年)4月に山梨県尋常師範学校付属小学校に入学、1917年(大正6年)3月に山梨県立甲府中学校(現在の山梨県立甲府第一高等学校)、1920年(大正9年)3月に第八高等学校を卒業後、同年4月に東京帝国大学法学部に入学。1922年(大正11年)2月20日に山梨日日新聞社社長であった父親の野口英夫が逝去し、同月21日に学生のまま同新聞社の社長に就任。
石原 文雄(いしはら ふみお、1900年(明治33年)3月3… 石原 文雄(いしはら ふみお、1900年(明治33年)3月3日 - 1971年(昭和46年)4月20日)は、山梨県出身の日本の小説家。 山梨県西八代郡市川大門町(現在の市川三郷町)に生まれる。祖父の代から「奈良屋」という旅館を営み、文雄が5歳の時に父親が26歳で逝去し、以後は祖父母と母親に育てられている。大正7年(1918年)に、当時甲府市伊勢町(甲府市伊勢)に所在していた山梨県立農林学校(現在の山梨県立農林高等学校)を卒業し、長野営林署や小学校の代用教員を務めた。 その後は作家活動をしながら山梨の文化振興に寄与した。また、市川大門町の町会議員として、昭和22年(1947年)5月29日から昭和24年(1949年)6月22日まで議長を務めている。
鈴木 八郎(すずき はちろう、1900年3月3日 - 198… 鈴木 八郎(すずき はちろう、1900年3月3日 - 1985年9月14日)は、日本の写真家。写真雑誌編集者、カメラ文化史研究者。 北海道余市町に生まれた。早稲田工手学校(現早稲田大学芸術学校)建築科を中退する。東京芝にあった丸木利陽門下の前島英男の写真館に入門して、前島の義弟の金丸重嶺と同門になった。また『写真の趣味』『写真月報』を編集していた高桑勝男の紹介で、小野隆太郎に住込みで弟子入りし、ゴム印画法を習得した。その後大正から昭和にかけて、アルスより技法書を多数執筆した。戦前の『カメラクラブ』や戦後復刊の『写真サロン』編集長を務めた。ペンタックスギャラリー館長。古典カメラやカメラの歴史に関する記事を多く執筆した。
柳 武(やなぎ たけし、1900年3月2日 - 1971年6… 柳 武(やなぎ たけし、1900年3月2日 - 1971年6月6日)は、日本の経営者。日本製鋼所社長を務めた。 栃木県出身。1923年に東京帝国大学工学部冶金学科を卒業し、同年に日本製鋼所に入社。1947年11月に取締役に就任し、1948年10月に常務、1956年5月に専務を経て、1957年11月に副社長に就任し、1959年11月には社長に昇格。1965年11月に相談役に就任。 1971年6月6日、急性肝炎のために死去。71歳没。
横山 一郎(よこやま いちろう、1900年〈明治33年〉3月… 横山 一郎(よこやま いちろう、1900年〈明治33年〉3月1日 - 1993年〈平成5年〉7月28日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。1945年(昭和20年)9月2日、アメリカ海軍の戦艦ミズーリ上で行われた降伏文書調印式に出席した人物でもある。 神奈川県横須賀市生まれ。横山家は高知県で農業を営んでいたが長男であった父・横山傳は海軍兵学校(20期)に進み、日清戦争及び日露戦争に出征。黄海海戦で、第三艦隊参謀(海軍少佐)として戦死した。母は黒岩家の出身で、夫の死後は高知に戻り洗礼を受けクリスチャンとなった。当時の遺族扶助料は僅少で生活は厳しかったという。 父の母校である高知県立海南中学校に進んだ。
松村 秀逸(まつむら しゅういつ、1900年(明治33年)3… 松村 秀逸(まつむら しゅういつ、1900年(明治33年)3月1日 - 1962年(昭和37年)9月7日)は、日本の陸軍軍人、国会議員(参議院議員)。最終階級は陸軍少将。 熊本県出身。松村又熊の息子として生まれる。八代中学校(現熊本県立八代高等学校)、熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1920年(大正9年)5月、陸軍士官学校(32期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第12連隊付となる。1928年(昭和3年)12月、陸軍大学校(40期)を卒業した。 1930年(昭和5年)12月、参謀本部付勤務となり、陸軍野戦砲兵学校教官、関東軍参謀部付を経て、1935年(昭和10年)8月、砲兵少佐に昇進し陸軍兵器本廠付(新聞班)に就任。
楢原 良一郎(ならはら りょういちろう、1900年3月1日 … 楢原 良一郎(ならはら りょういちろう、1900年3月1日 - 1976年5月22日)は、日本の経営者。東京都出身。 1923年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年に古河電気工業に入社。1943年に古河鉱業に転じ、1949年に取締役に就任し、1953年に常務、1958年に専務、1961年に副社長を経て、同年11月には社長に就任。1971年2月に会長に就任。 1963年に日本鉱業協会会長に就任し、藍綬褒章を受章し、1970年4月に勲二等旭日重光章を受章。 1976年5月22日肝硬変のために死去。76歳没。
木村有香(きむら ありか、1900年(明治33年)3月1日 … 木村有香(きむら ありか、1900年(明治33年)3月1日 - 1996年(平成8年)9月1日)は、日本の植物学者。 ヤナギ科の分類を大成した植物学者として知られているとともに、旧制第七高等学校造士館に在学中に原始的な形態を持ち生きている化石として知られるキムラグモを発見したことでも著名である。様々な地域の野生のヤナギを個体識別し、季節ごとに標本を採集し、同一個体から得られた標本を比較することで葉の形態の季節変異の著しいヤナギ科の分類の確立に努めた。 1958年(昭和33年)8月、昭和天皇の採集品を鑑定するために那須御用邸に招かれる。翌月には、他の有識者とともに天皇から植物に関する質問を受けたほか座談会に参加。
鈴木 傳明(すずき でんめい、1900年3月1日 - 198… 鈴木 傳明(すずき でんめい、1900年3月1日 - 1985年5月13日)は、日本の映画俳優、水泳選手。本名は同じ鈴木傳明だが、読みはつぐあきら。 無声映画時代に活躍した現代劇の映画スターで、学生時代は水泳選手として活躍。明治大学在学中に『路上の霊魂』で映画デビューした。その後日活を経て松竹蒲田撮影所に入社、牛原虚彦監督とのコンビで『彼と東京』『陸の王者』『彼と人生』などの明朗な青春映画に主演し、スポーツマンタイプの二枚目スターとして人気を得た。戦後は実業界に転じた。 1900年(明治33年)3月1日、東京府東京市下谷区上野桜木町(現在の東京都台東区上野桜木)に、父・康正と母・和喜の1男3女の長男として生まれる。
能代八郎(のしろ はちろう、1900年(明治33年)3月‐1… 能代八郎(のしろ はちろう、1900年(明治33年)3月‐1944年(昭和19年)3月14日)は昭和期の作曲家。本名佐藤久助。 1937年、佐藤富房の筆名で作曲した「声なき凱旋」でポリドールより作曲家デビュー。 翌年テイチクレコードに移籍し、筆名を能代八郎とし、流行歌の作曲を行うようになる。 1939年、塩まさるが歌う『九段の母』が大ヒット。 1944年3月14日死去。享年44。 この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:音楽)。
篠山 千之(ささやま せんし / しのやま かずゆき、190… 篠山 千之(ささやま せんし / しのやま かずゆき、1900年〈明治33年〉2月28日 - 1976年〈昭和51年〉7月18日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事。 岡山県出身。篠山常太郎の六男として生まれる。旧制岡山中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、第六高等学校を卒業。1923年、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。同年12月、文官高等試験行政科試験に合格。1924年、内務省に入省し警視庁警部となる。 以後、内務属・地方局勤務、地方警視・新潟県警察部勤務、同県建築監督官、鳥取県書記官・経済部長、福岡県書記官・学務部長、新潟県書記官・警察部長、兵庫県書記官・警察部長、東京府内務部長などを歴任。
遠藤 仁郎(えんどう にろう、1900年2月28日 - 19… 遠藤 仁郎(えんどう にろう、1900年2月28日 - 1997年6月2日)は、日本の内科医である。青汁健康法の提唱者として知られる。 1900年(明治33年)2月28日、岡山県英田郡福本村で誕生する。津山中学校を経て、1921年(大正10年)に第三高等学校を卒業する。1925年(大正14年)に京都帝国大学医学部を卒業し、1930年(昭和5年)に『血中ビリルビン、ヒヨレステリン及胆汁酸の相互的関係に就ての臨床的並に実験的研究』で医学博士を取得する。1931年(昭和6年)に京都帝国大学講師、1932年(昭和7年)に大阪女子高等医学専門学校助教授を勤める。1934年(昭和9年)に同学校内科教授となる。
菅原 エン(すがわら エン、1900年2月27日 - 199… 菅原 エン(すがわら エン、1900年2月27日 - 1994年2月15日)は、日本の政治家。元衆議院議員(1期)。歌人、俳人、号は艶女。 岩手県東磐井郡渋民村曽慶(現一関市大東町曽慶)出身。盛岡高等女学校(現・岩手県立盛岡第二高等学校)を経て、結婚し子供を儲けるが、離婚し、実家に戻り、地元の小学校に勤務する。その後、上京し戸板裁縫学校高等師範科(現・戸板女子短期大学)に入り、1929年に卒業する。卒業後は帰郷し、岩手県歌人協会会員。岩手県翼賛報国会文芸部員となり、歌人、俳人として短歌や俳句を詠んだ。 1946年の第22回衆議院議員総選挙で、岩手県全県区にて日本進歩党から立候補してトップで初当選した。
西谷 啓治(にしたに けいじ、1900年〈明治33年〉2月2… 西谷 啓治(にしたに けいじ、1900年〈明治33年〉2月27日 - 1990年〈平成2年〉11月24日)は、日本の哲学者。専門は宗教哲学。京都学派に属する。京都大学名誉教授。文化功労者。 1900年、石川県鳳珠郡能登町生まれた。宇出津小学校に入学するが、1年生の時に一家で東京へ移住。1912年に早稲田中学に進学。成績優秀であり、卒業時には大隈重信総長から優等賞を授与された。しかし、中学卒業時に肺結核へ罹患していることが分かり、大きな衝撃を受けた。第一高等学校への進学をあきらめて北海道函館で療養生活を送ったが、1年後に回復し、第一高等学校へ進学。 大学進学にあたっては、若年のうちに同郷(現かほく市)の出身である西田幾多郎の著書『思索と体験』に出会っていたこともあり、京都帝国大学文学部哲学科に入学。
雫石 隆孝(しずくいし たかよし、1900年2月26日 - … 雫石 隆孝(しずくいし たかよし、1900年2月26日 - 1988年12月23日)は、日本の銀行家。岩手県出身。 盛岡中学を経て、1926年に東京帝国大学経済学部を卒業。澁澤倉庫、地方事務官、岩手県出納長を経て、1947年10月に岩手銀行頭取に就任。1973年12月には会長に就任し、1977年12月に取締役を経て、1979年12月には相談役に退いた。 1978年4月に勲四等旭日小綬章を受章。 1988年12月23日急性肺炎のために死去。88歳没。
上野 益三(うえの ますぞう、1900年(明治33年)2月2… 上野 益三(うえの ますぞう、1900年(明治33年)2月26日 - 1989年6月17日)は、日本の生物学者(昆虫学者)、陸水学者。京都大学名誉教授。水生昆虫の分類および生態学的研究のほか、日本の生物学史(博物学史)の研究でも知られる。動物分類学会名誉会員。長男は昆虫学者の上野俊一。 大阪府大阪市生まれ。小学校5年生の時に豊中村(現:豊中市)に引越し、旧制大阪府立北野中学校、旧制大阪薬学専門学校を卒業。1923年に京都帝国大学理学部動物学科に進学、川村多実二に師事。鰓脚類の研究を行い1926年に卒業、動物学教室の助手に就任した。また在学中にはトワダカワゲラを発見し、のちに新種として記載した。 1929年には京都帝国大学の大津臨湖実験所に講師として就任。
森崎 晟(もりさき あきら、1900年<明治33年> 2月2… 森崎 晟(もりさき あきら、1900年<明治33年> 2月26日 - 1980年 <昭和55年> 10月10日)は、日本の経営者。中山製鋼所社長、会長を務めた。位階は従四位。 兵庫県出身。1932年に旧制大阪工業大学冶金学科を卒業し、同年6月に中山製鋼所に入社した。 1943年12月に取締役、1945年12月に常務、1949年4月に専務、1972年5月に副社長を経て、1973年6月には社長に就任。1976年6月には会長に就任。 1977年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1980年10月10日、糖尿病腎症のために死去。80歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
室谷 賢治郎(むろや けんじろう、1900年2月25日 - … 室谷 賢治郎(むろや けんじろう、1900年2月25日 - 1975年)、日本の経営学者。専門は商学、中小企業の経営について研究。小樽商科大学名誉教授。札幌短期大学学長、札幌商科大学初代学長、亜細亜大学教授などを務めた。
早稲田 柳右衛門(早稻田 柳右エ門、わせだ りゅうえもん、1… 早稲田 柳右衛門(早稻田 柳右エ門、わせだ りゅうえもん、1900年2月25日 - 1984年4月15日)は、日本の政治家。位階は正三位。衆議院議員(12期)を歴任した。 愛知県小牧市出身。享栄商業学校卒業。1929年、瀬戸市会議員となる。 1946年、第22回衆議院議員総選挙に愛知県第1区から日本進歩党公認で立候補し初当選。1947年、第23回衆議院議員総選挙に旧愛知2区から民主党公認で立候補し再選。 1954年、保全経済会の顧問に就任していたため、保全経済会事件に関して、衆議院議員の平野力三、東洋大学教授の松本信次とともに証人喚問される。 1955年、第2次鳩山一郎内閣郵政政務次官。1960年、自民党愛知県連の初代会長に就任。
久安 博忠(ひさやす ひろただ、1900年〈明治33年〉2月… 久安 博忠(ひさやす ひろただ、1900年〈明治33年〉2月25日 - 1981年〈昭和56年〉9月4日)は、日本の内務・警察官僚、実業家。官選秋田県知事。岡山県岡山市出身。 岡山県吉備郡大井村(現:岡山市)出身。久安平治郎の二男として生まれる。その後、旧制岡山中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、第六高等学校を卒業。1923年12月、高等試験行政科試験に合格。1924年、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。内務省に入省し社会局属となる。 以後、地方警視として島根県警察部・神奈川県警察部・長崎県警察部・兵庫県警察部各勤務、警視庁警視として総監官房・特別高等部各勤務、宮城県書記官・学務部長、栃木県書記官・警察部長、長崎県書記官・警察部長、神奈川県書記官・警察部長、宮城県内政部長などを歴任。
柏原 義則(かしはら よしのり、1900年(明治33年)2月… 柏原 義則(かしはら よしのり、1900年(明治33年)2月25日 - 1971年(昭和46年)4月30日)は、日本の政治家、宗教家。衆議院議員(3期)。位階は正五位。 徳島市幟町に生まれる。徳島県立徳島中学校、第六高等学校卒業後、京都帝国大学文学部社会学科へ進学し卒業。 大学卒業後は天理教が中心となって設置した奈良県の天理中学校に奉職し校長まで務め、後に徳島に戻り天理教徳島教区長・天理教名東大教会長を歴任した。 1946年(昭和21年)、第22回衆議院議員総選挙で当選し、1952年(昭和27年)まで3期を務めた。1949年(昭和24年)には第3次吉田内閣で文部政務次官を務めた。 1970年(昭和45年)、春の叙勲で勲三等旭日中綬章受章。
大塚 敬節(おおつか けいせつ、おおつか よしのり、明治33… 大塚 敬節(おおつか けいせつ、おおつか よしのり、明治33年〈1900年〉2月25日 - 昭和55年〈1980年〉10月15日)とは、昭和期の漢方復権に尽力した代表的な日本の医師。東洋医学の発展に貢献した業績により1978年に日本医師会より最高優功賞を日本で初めて受賞。号は敬節(けいせつ)。 大塚敬節は、明治33年(1900年)2月25日、高知県高知市に産まれる。大塚家は、同市追手筋1番地の産婦人科・大塚修琴堂医院であり、曽祖父の希斎、その養子(希斎の兄の子)で祖父の恭斎、父の恵遮とも医師であった。敬節は、西洋医学が嫌いであったため、中学卒業後はじめは医師を目指さず、高知の高等工業学校の採鉱冶金科に進学した。
高野 一夫(たかの かずお、1900年〈明治33年〉2月25… 高野 一夫(たかの かずお、1900年〈明治33年〉2月25日 - 1980年〈昭和55年〉2月23日)は、日本の薬学者、政治家。参議院議員(2期)、薬学博士。 鹿児島県肝属郡垂水村(後の垂水町、垂水市)出身。勝目家の二男として生まれ、鉱業家の高野今彦の養子となる。小学校を卒業後に上京し、旧制東京府立第一中学校(現東京都立日比谷高等学校)、旧制第一高等学校で学ぶ。1924年(大正13年)東京帝国大学医学部薬学科を卒業した。 満洲稲畑産業専務、海南薬品工業社長、高野薬品社長、九州大学講師、徳島大学講師などを務めた。 1953年(昭和28年)4月の第3回参議院議員通常選挙に全国区から自由党所属で出馬して当選。
衣巻 省三(きぬまき せいぞう、1900年(明治33年)2月… 衣巻 省三(きぬまき せいぞう、1900年(明治33年)2月25日 - 1978年(昭和53年)8月14日)は、日本の作家である。 兵庫県朝来郡生まれ。とても裕福な家庭に育った。早稲田大学英文科中退。神戸時代に稲垣足穂と共に佐藤春夫に師事し大正末から文学活動を始め、詩や小説を発表。一時、東京・馬込付近に居住し(馬込文士村)、ダンスパーティーを開いて知人の文士たちと交わった。1935年に「けしかけられた男」で、第一回芥川賞の候補になる。 第二次世界大戦の戦火で自宅を失う。戦後は足穂を追って京都へ移ったが寡作となり、主に同人誌で随筆を発表した。 1978年8月14日、食道がんのため神奈川県横浜市戸塚区の三和病院にて死去。
大倉 三郎(おおくら さぶろう、1900年2月24日 - 1… 大倉 三郎(おおくら さぶろう、1900年2月24日 - 1983年11月26日)は、京都を中心として活躍した建築家。京都工芸繊維大学学長、西日本工業大学学長などを務めた。